2009年12月30日水曜日

2009年振り返り

2009年は僕にとって大変幸せな年でした。収穫の多い年でした。
刈り取って放ったらかしでもなくて、色々な出会いがあったし、種も蒔けた(と思う)。

僕は心狭いから、いっつも一期一会の気持ちを忘れないでいることは出来ないし、
出会う人全てに同じように敬意を抱くことも出来ません。
でも、今年は本当に尊敬できる方々にお会いできたし、相手をしていただいた。

どれくらいお返しできているかは全く心許ないし、情の薄い男で本当に申し訳ないのですが、
今のところはただ、感謝感謝。本当に皆々様に、感謝申し上げます。

2010年(特に6月以降)は2009年ほど勝手放題出来ないことが分かっている。
その分、特に僕の2009年を幸せにしてくれた、ということかもしれない。

印象に残る舞台にも数多く出会えました。「優劣」などとてもつけようがないが、
敢えて2つだけ「特に僕にとってインパクトのあった舞台」を挙げます。
青年団演出部の方々の作品、「りたーんず」の方々の作品は敢えて挙げません。

1. 「着脱式」
人前に身体を晒すこと、人前でテクストを発話すること、観客席にいて身体を眺め、テクストを聴くこと。
それが大変な事件であることを改めて思い知らされた。

2. 飴屋法水「4.48サイコシス」
ここにきて、「4.48サイコシス」の当日パンフの「演出ノート」のことをたくさん考える。
「まちがった時代」「まちがった体」。漸近線の絶望と希望を考えています。

皆様にとって2010年が良い年でありますよう、お祈りいたします。

2009年12月29日火曜日

柿喰う客×三重県文化会館 すこやか息子

27/12/2009 マチネ

千穐楽。大変面白く、刺激に富んだ舞台を拝見した。さすが中屋敷氏。そして中屋敷氏に仕事頼んだ三重県文化会館もさすが。

一見すると、中屋敷氏なりの柴版「御前会議」「あゆみ」「わが星」、とりわけ「あゆみ」への回答といった趣。役者の台詞をビートで縛る、役者の動きを運動で縛る、役者の表情をエアロビで縛る。その中で「割と『普遍』な」人生を辿っていく。

その趣向が面白いという人もいれば、「なんで表情を出さないのか(リアルじゃないぞ!)」とか、「台詞が一本調子ですね」という人もいるだろう。
が、多分大事なのは「縛る」ことによって役者が勝手な思い込みの演技をすることを食い止めることで、その意味で、中屋敷氏に言わせれば「そんなことは形を変えて柿喰う客で今までずっとやってきたことですよ」ということかもしれない。また、同様に、「すこやか息子」の問題意識は現代口語演劇の問題意識となんら変わるところがありません、ということではないかとも思う。

そういうことを、平田オリザのような巧妙な作家は、擬似日常の擬似リアルが示唆する外側の世界、という構図を提示することでうまーくパッケージにして観客に差し出してきたのだが、柴氏にしろ中屋敷氏にしろ、そういうのをむき出しにして、「ほれほれ」と、しかもエンターテイニングに鼻先に突きつけてくるのだ。

で、それに加えて、というか、僕がむしろガツーンとくらったのは、前回の「悪趣味」でも感じたことなんだけれど、中屋敷氏が「芝居とは名乗りと名付けのプロセスである」という命題を、またも鮮明にかつ全面に打ち出したこと。ちょっと言い方を変えると「全ての台詞は役者間の関係性を説明するための説明台詞である」ということである。

息子が生まれて夫がパパになり、妻がママになり、パパが祖父になり・・・他人が妻になり、息子が夫になり・・・夫がパパになり・・・
という説明を続けていくことで、芝居は作れてしまう!しかも、笑う人は笑えるし、泣ける人は泣けてしまう!

芝居の構成と離れても、「名乗りと名付け」が自らのアイデンティティに与える影響は誠に大きく、それをガツッと再認識させたのは実は9月の吾妻橋の飴屋法水「顔に味噌」(「よだかの星」を引用しながら!)だったことを思い出すが、「すこやか息子」も実は「名乗りと名付け」を通して人生が紡がれていく物語。「わたし」が「名付けられることで(nearly equal レッテル貼りによって)」社会と普遍を獲得し個別を失うのなら、この果てしない「名乗りと名付け」の中で役者の個はどこにあるのか?

でも、やっぱり、役者の個は見える。少なくとも、見えた。そこが勝負どころ。

これも実は、現代口語演劇が「役者の個性が見えない」「何も起きない」芝居を通してずっと抱えてきた(抱えるべきである)問題意識ではないかと思う。

週刊ダイヤモンドの最新号で大阪大の石黒浩教授が「むき身の人間」ということを言っているけれど、同様に、「むき身の役者」というのがあるのではないかとも思われる。その「むき身の役者」と「役者の個」が辛うじて交錯する地点をどうやって観客に突きつけるのか。しかも、エンターテイニングに。巧妙に。知らず知らずのうちに。

そういう課題にがっつり取り組むことが出来る中屋敷氏の技量とキャパシティに、ある意味嫉妬する。そういう場に立ち会っていた役者達にも、嫉妬する。この作品を、「全国から役者を集めて」仕立ててみせた三重文化会館には感服するほか無い。

2009年12月27日日曜日

Harajuku Performance Plus 2009

22/12/2009 ソワレ

何日か経ってもやっぱり何だかピンと来ないのは、個々のパフォーマンスというよりも、その並びにあるのかもしれないな、と思い始めている。

「反復かつ連続」を家族に見せることができたのは大きな収穫だった。Open Reel Ensemble、はむつんサーブ、Contact Gonzo、トーチカ、それぞれ面白かったし、それは良かったんだけど。
生西氏の出し物が思わせぶりで退屈で、不快な音で一杯なのは100%僕の趣味じゃないのも、まあ、8つも出し物があるなら1つは仕方が無い、と済ますことも出来る。山崎・黒田と続くラスト、流石に疲労困憊して寝ちゃったのも、「ゴメンナサイ」といえばよい。

が、トータルで思い出したときに、何だか、高揚感が無い。末広亭に昼過ぎに入って、用があるのでしかたなく夕方出てきちゃった後の、「あぁー、面白かったねー」感。吾妻橋でいとう氏・飴屋氏の出し物が炸裂した後の、「いや、でも、鉄割とか快快もすっごく面白かったよ」といえる感覚。「東京寄席スタイル」の、「な、なんだったんだー?」感。そういうのは、もしかすると、出し物の並べ方によるのかもしれない、ということ。

でも、こういう、「寄席」形式のパフォーマンス自体は悪くない。1月の冨士山アネット寄席は、前回のスズナリ見逃しているだけに楽しみ。

2009年12月20日日曜日

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 煉獄篇

19/12/2009 ソワレ

初日。開演20分で、午後覚えたばかりの pretentious という単語が頭の中を駆け巡る。

「典型的なブルジョア家庭の日常」はいいんだけどさ、あれじゃ下手青年団だよ。
だって、「日常の中に悪夢が潜んでいるんですよー、これは、何かが潜んでいる日常なんですよー」というのが、一挙手一投足に渾身の力で込められていて、これは、いわゆる、臭い演技である。

そしてそれを裏切らない「ショッキングなシーン」が展開されて、オーマイガー、驚け驚け、ギョッとしろー、みたいな。トホホホホ・・・

ダンテを生んだ国の芸術家がダンテに挑んだ結果なのだから、所詮翻訳でしか神曲を読んでいない日本人に何が分かる、と逆切れされても、まぁ、しょうがないとは思うが、少なくとも、日本に持って来て「これで震撼してください」と頼まれたって、それは土台無理な相談だろう。フェスティバル・トーキョー、素晴しい公演が散りばめられたプログラムだったから、こういうおミソ企画もご愛嬌ということか。

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 天国篇

19/12/2009

西巣鴨、創造舎に設けられたインスタレーション。
「標準鑑賞時間」5分とあるが、これ、「5分もすれば飽きる」のか、「5分以上観ているのは(いろんな意味で)耐えられない」のか、「5分以上観ていると入場待ちの行列が伸びる」のか、分からないけれど、結果的に僕も場内にいた時間は6-7分だったと思う。

当日券で入った娘曰く、「Pretentiousだった」。プリテンシャスって、なんですか?
辞書を引くと「もったいぶった」「仰々しい」そういう意味だそうです。勉強しました。

これ自体はつまらなくはない。でも、これだけを西巣鴨まで観に行くのはどうか、という気もする。他の力強いインスタレーションとともになにかの展覧会で展示されていたら、そのとき、この天国のインスタレーションは負けないぐらいに面白いのだろうか、というと疑問もわいてくる。それでは、カステルッチの神曲三部作のコンテクストの中に位置づけたからこそ面白いのだ、と言ってしまえばよいかといえば、そういう縦軸は残念ながら思いつき以上のものとは感じられない。

そこら辺の「コンテクストがあるんですよぉ~」みたいなのが、僕にはプリテンシャスに思えてしまった。

アジア劇作家会議 「3P」

19/12/2009

高円寺の靴屋さんに行きたかったのです。その口実に、「天気いいし」「座・高円寺に行ったことがないし」「三条会の関さんの演出だし」とか何とか言って家族を連れ出したのです。動機不純で申し訳ないです。

が「3P」、とても面白かった。素晴しかった。演出、パフォーマーについては全くもって信頼して構えていたから、もちろん素晴しかったのだけれど、戯曲も素晴しかった。3人芝居で「3P」と「政治運動」を取り扱いながら、この切れ味、思わせぶりっこの無さ。素晴しい。学生運動のうねりの中で、妙なおセンチとかドラマとか、そういうのを切り捨てて、あくまでも「個」にフォーカスを当てて、しかも、それは「全体対個」なんていう紋切り型からはみ出し、あふれ出し、油断してると学生運動にはまったく遅れてやってきた僕たちのパーソナリティに忍び込んでくる。そういう技に関演出がやすりをかけて、一層切れ味鋭く、かつエンターテイニングに提示してきたもんだから、すっかりヤラレてしまった。ヨメ・娘も大満足であった。

動機不純につき時間の都合がつかず、スピーチとトークセッション聴けなかったのが残念。きちんと計画しておけばよかった。

2009年12月19日土曜日

RTNプロジェクト 就活支援セミナー

12/12/2009

昨年に引き続き、全く懲りずに、「帰国子女のための就活セミナー」にパネリストの1人として参加してきた。ちなみに、僕は帰国子女ではない。娘は海外で長いこと過ごしたが、結局帰国しないので、僕は「帰国子女の親」ですらない。

http://www.rtnproject.com/

今年も好きなことばかりぶちかまして、就活の役に立つことは一切話さず。そのうち切られるだろうとは思うけれど、切られない限りにおいてはぶちかまし続けるほか無い。

本当に、「就職したヤツが立派なヤツ」ではまったくないのだ、ということを伝えるのは難しい。僕が就職して会社員を見て、「なんて会社員はなってないんだ!」と思ったことを伝えるのも難しい。自己全否定に陥らずに、でも、視界を狭めないように、って、色々難しい。

特に、今年の大学三年生は就活、本当に大変なんだろう。そういう、就活だけが人生だなぞというインチキに騙されるなよ!という文句には、ほぼ耳が貸されていなかったと思う。

困る。僕がサラリーマンを続けながらずっと抱いている「負け犬感覚」を、年齢が僕の半分の人たちにどう伝えたらよいのか、困る。まぁ、そこらへん分かってて、セミナー主宰の方は僕を呼んでくれてるんだと思う。本当にありがたいことである。ありがたい。

セミナー後、2次会まで下北で飲んだ。2次会はセミナー主宰とパネリストの方(すごくカッコイイ男)と、3人で。珍しく酔った。同じことを繰り返しがなっていた自分を覚えている。ちょっと気持ちよかったな。

流山児☆事務所 田園に死す

13/12/2009 マチネ

最近パイプ椅子のないスズナリは珍しいのだけれど、それで満杯、ひょっとしたら靴袋まで出るかもしれない、っていうくらいの一種懐かしい期待感が、開演前の場内に溢れる。

映画の「田園に死す」は恥ずかしながら未見。むかーし(ひょっとしたら小学生の頃)トレーラーだけを観たような記憶はある。いつ、どこだったのだろう?

が、「田園に死す」を知っているとか知らないとか、アングラ通だとか通でないとか、そういうのをすっとばして、天野演出が紡ぎだすメタ構造に酔う2時間。夢+夜のように自らの妄想だけで固めた時空も凄かったけれど、寺山ワールドに自分の妄想を巧みに編みこんで主客分かちがたく、その編みこみの中を鉈だか鎌だかを手に手に持った風情で駆け抜ける役者陣のかっこよさ。

アングラの見かけの上澄みだけ借りてきて郷愁たっぷりにみせる輩もある中で、飽くまでも妄想とノイズと特権的肉体で劇場の時空を埋め尽くす試みをどアングラと呼ぶとするなら、まさにどアングラ、おれ、やっぱりアングラ好きだなぁ。格好良いなぁ、と思う。高揚した。

連れは、開場直前に、「なぁーんか、役者が1人、すかした格好で階段登って行くなぁー。こんな時間になんでかっこつけてそんなことするのかなぁー?」と思っていたらしい。僕は見逃した。見逃した人には時空は開いたままである。連れにはきちんと落とし前がついている。それがちょっと悔しい。

2009年12月13日日曜日

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 地獄篇

11/12/2009 ソワレ

初日。
地獄のようなのは1階席5列目近辺で、客席がほぼフラット、やや沈み気味になる中、頭の高さと舞台がほぼ同じ高さ、しかも寝転ぶ演技続出で、舞台見えず。これぞ生き地獄。
なので、この舞台に対して冷静に判断することは難しいのだが。まぁ、そもそも舞台が見えてないんだから判断も糞もないのだが。

最初から最後までピンと来ないまま終わった。
エクストラをたくさん使っても、それが舞台の迫力に反映されず。手数は出すもののヒットしない感じの1時間20分。
そもそも、幕前から思わせぶりな蛍光灯バチバチ音とか、はじまったら「これぞ地獄、(ファセットで宗教音楽風に)ハーーー」みたいな音が流れるのは、まったくもって興醒め。

インスタレーション風にアイディア・イメージを並べて「どうつなげるのかは観客にお任せします」なのか、「西洋の教養をある程度バックグラウンドに持ってないと難しいかもしれませんね」なのか、どちらなのかは分からないが、いずれにしても、僕がこのパフォーマンスを「ちっとも面白くない」と感じた時に、それが100%僕の責任であると言えてしまうような仕上がり。つまり、演出家の自己満足を誰かが諌める機会は与えられていないわけだ。

そういうところが、何だか、雑で、丁寧でなくて、単純に比べるのは飴屋氏に失礼かもしれないけれど、4.48サイコシスと比べてもクオリティが圧倒的に低い気がしてしまう。煉獄篇・天国篇が思いやられる。

岩下徹 放下22

07/12/2009

ぐぅの音も出ない、とはこのことか。
その瞬間・地点にいる事。観客と時空を共有すること。交感すること。
身体が動くこと、動かないこと。
空間を支配すること、すべること。
それら全てを自覚しながら、次の瞬間に集中し続けること。

確かな技術と精神力の裏づけがあって、そこへの静かな自信も感じられる。根拠のない独りよがりなものではない自信もありうる、というのが、ダンスの最中にも、ダンスの後のお話からも、感じられる。

パフォーミングアートって本当に真摯で素晴しくあり得る、ということにたいして信頼感を確かにする機会だった。その場に居合わせることが出来た幸せを噛みしめる。一週間たっても、思い出すたび興奮する。

2009年12月6日日曜日

木ノ下歌舞伎 伊達娘恋緋鹿子

06/12/2009 マチネ

あぁ、面白かった。
こういう面白い戯曲を、若い人たちが、きちんと舞台に載せてくれるのが、とても嬉しい。

2年前に初めて木ノ下歌舞伎を拝見した時に、こんなことを書いていて、
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シェークスピアであろうが、南北であろうが、「現代性」「同時代性」を備えるべきは観客の側であって、演出がいかに突飛なことをしてみせてもそれは100%上手くいってせいぜい「触媒」「きっかけ」にすぎない。
いかにして観客の視線の揺らぎを喚起し、同時代性を自覚させ、そこから見える古典の姿がどう揺らぎ、どう自らに関わってくるかを試すこと。それがこの四谷怪談の狙いだったのならば、それは、僕と娘には少なくとも伝わっているはずだ。
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うむむ。そのときに抱いた木ノ下歌舞伎のアプローチに対する印象は、良い意味で、変わっていない。今日も、充分面白い元の戯曲に対して、構成(編集)や舞台美術や衣装や演出をもって、十二分に対峙していたように思う。

もちろん、若い集団ゆえ(というか、はっと学生の芝居だということに気がついた!)の粗さもあるけれど、それをここで言ってもしょうがない。放って置いても人間年をとるもんなんだから。今日の公演は、とっても楽しかった。それが大事。

タニノクロウ 太陽と下着の見える町

04/12/2009 ソワレ

初日。いやー、格好良かった。そして、ある意味、さわやかだった。意図が徹底していて、かつ、エンターテイニングだった。
同じ、「えぇっ!?」と思うネタであっても、サンプルの松井周が気持ち悪いところに観客を宙吊りにして放置するのに対して、この舞台はエンターテイメントとしてカタルシスのあるところでひとまず決着をつける。良し悪しではないけれども、そういう差は、感じた。

パンチラ(とセックスシーン)はもちろん頻発するのだけれども、いやらしさはない。なぜなら、それらのパンチラは、きちんと演出されていて、観客の目に対して「はぁーいこっちこっち、ご期待通りのパンチラですよー、さぁ見てくださいねー」というように示されるからで、僕はもともとそんなにパンチラ好きではないのだが、それにしても、パンツ見てこんなにいやらしくないとなー。女優陣折角きれいなのになー、と、自責の念にかられる。それにしても、パンツの見せ方に関するタニノ氏の演出はかなり細かかったに違いない。マガジンとかサンデーで読んだ少年マンガの「少年妄想パンチラ」の構図に限りなく近く、それも幼女パンチラから40台パンチラまで用意して、全く周到である。

パンチラはそれくらいでいいや。実は僕は「妄想の倍音成分」について考えていたのです。

4.48サイコシスで、飴屋氏は、もうぐちゃぐちゃでどうにも均整の取れていないテクストの倍音を一個一個丁寧に解きほぐして、取り出して、色んなレベルで舞台に載せてみせた。それはホーミーとのアナロジーで、その場で思いついた絵なんだけれど、倍音と言うのは、字面だけみても立ち上がってこなくて、かなり丁寧に解きほぐさないと聞こえてこない。それをやってた飴屋さんは本当に真摯で、粘り強くて、ピッチにうるさくて、かつ、当たりの鋭い演出家だと思ったのだ。

で、タニノ氏がこの舞台で示しているものも、妄想の倍音成分だといってほぼ間違いないのではないかと思う。久保井氏演ずる50台男に焦点を当てたときに、他の登場人物が久保井氏の妄想の産物なのか、それとも本当にいる人なのか、という問いには答が出せないし、答えは示されないけれど、少なくとも、久保井氏含めた登場人物が、タニノ氏の妄想(失礼!想像力)の産物であることは確かで、タニノ氏が、テクスト書きながら、色んな音域に自分の想像力(本当は妄想と書きたい!)を割り振っている、その丁寧さがうかがえるのが楽しかった。一聴すると無関係でテンデばらばらに見える各シーンは、実は一つにキュッとまとまった世界になっているという信頼感というか、安心感というか。

同じ音の倍音ばかり聞かせていると観客は退屈するから、パンチラをまぶして、そのざらつき具合で舞台を引っ張ってみせたりする。佐野陽一演じるパンティ君とマメ山田さんは、その倍音から外れたところに置かれて、観客が世界にのめりこむことを許さない。そのバランスも素晴しかったと思う。

そういう豊かな世界の中を、90分間フルに行ったり来たりできることは、観客として無常の喜びである。陳腐で使い古された「メロディ」にこだわる一本調子の芝居がまだまだ多いんだもの。

あ、そうだ。最後、拍手が起きるタイミングを許さない終わり方を狙っていたようだけれども、そこに限っては演出の思う壺にははまらないぞ。こんな素晴しい舞台、拍手をしないテはない。

山海塾 卵を立てることから - 卵熟

05/12/2009 マチネ

お坊様が踊っていた。四体の仏像様が踊っていた。
卵に関して色んなことがあったけれども、結局のところ、卵とお坊様は永遠ではなくて、仏様は永遠である。なんだか、そういうストーリーを作ってしまった。

舞踏を観るのであるから、そんな陳腐なストーリーに嵌めないで舞踏手の動きを観ていれば良いのだけれど、特に前半は舞踏手が遠くて動きが微細で、しかも絶え間なく水の落ちる音(いわゆるアルファー波?だっけ?)かつ音楽が電子音の繰り返しなので、ストーリーを編まないと眠くなる。ストーリーを編んでも眠くなる。舞台が動かないので、僕の脳内でストーリーが暴走し始める。

以上、上演中(前半)「眠ってしまった」ことへの露骨な言い訳です。

後半のカタルシスを知ってしまった上で言えば、前半眠ってしまったのは口惜しい。もう一度機会があれば、と思う。でも、体調次第ではやっぱり眠ってしまうだろう。そういうものなのかもしれない。また、前半眠いからといって、この出し物が退屈だというわけでは全く無い。「どうだった?」と聴かれたら、素直に、「前半寝た。でも、すっごく面白かった」と言います。

リミニ・プロトコル Cargo Tokyo-Yokohama

04/12/2009

品川からトラックに積載されて横浜まで。運転手さんの実況ガイド付き。その他おまけ付き。
斜に構えればそれだけのことなのだけど。

天気も最高だったし、房総半島は見られたし、横浜の夜のライトアップも綺麗だったし、あんまり素直に楽しみすぎて、「これが演劇と呼べるのか」とか、そういう難しいことはその場では考えられなかった。

今回の2時間半で得られた驚きや喜びといったものは、その「ねらい」「方向感」ということでいえば、社会科見学やはとバスツアーでも達成できる類のものかもしれない。はとバスの運転手さんやガイドさんのプライベートに突っ込む客がいることも、僕たちは良く知っている。
でも、社会科見学やはとバスではほぼ絶対に達成できないものがこのCargo Tokyo-Yokohamaでは達成されていて、そこにはあきらかに「観客側からは見えないようになっている」仕掛けがある。それを「演劇的」と呼ぶのかもしれない。そうなのかなあ?

更に無理矢理考えると、芝居(特に現代口語演劇)を観ていて役者の仕草やちょっとした台詞に驚いたり喜んだりする時、その驚きや喜びは日常生活でも体験できないわけではない。見つければいいのだから。でも、日常生活ではほぼ絶対に目が行かない、あるいは看過してしまうことに、目を向けさせてしまう、あるいは、驚かせてしまうところに、「演劇」としての手管がある。その、視線の誘導の仕方が勝負どころ。なのかなあ?

去年11月の「多摩川線劇場」にはもっとやり方の可能性があるなー、とか、いままで都合がつかなかったり避けてたりしたPota-Live、行ってみたいなー、と思い始めたりしてるのです。

2009年11月29日日曜日

海をゆく者

28/11/2009 マチネ

出羽の守扱いを恐れずに声を高くして叫ぼう。「責任者出せ!」(フォント64pt)。

マクファーソンの名作戯曲から、マクファーソンらしさやアイルランドならではの要素を一切合財取り除いて、おこちゃま観客にも受け入れやすいようにアレンジして本格派気取りかよ!
そうさおいらは出羽の守、ロンドン初演「では」ロンドン初演「では」を連発して周囲に煙たがられるお邪魔ムシさ。でも、それでも言うよ。このプロダクションはマクファーソン戯曲の魅力を全く引き出していないと。

何だかなぁ。翻訳劇って、難しいんだけど。こういう、アイルランドの臭いがいいね、っていう芝居だとますます難しいとは思うんだけど。そこで、かなり客に媚びた安易な選択肢を採り続けた結果がこのプロダクションじゃないかという気がしている。

もしかすると、初演の兄役を演じたジム・ノートンが素晴しすぎたのかもしれない。ノートンと同じ方向性の演技では勝負できないと判断して造形を変えたのなら、それはそれで一つの選択肢だが、まぁ、結論を言えば、大きく失敗していた。

<以下、ネタバレも相当なレンジで含む罵詈雑言>

・ 兄の造形を5億光年間違っている。なぜか神様が弟に肩入れする理由の大きな一つは、「どうしようもない兄の」信仰である。そういうのが戯曲の中に散りばめられているのを本プロダクションは一切無視。これではアイルランドっぽさは失われてしまうし、何故、ラスト、弟ではなく兄の方に勝負手が与えられるのかが説明できない。
・ 兄の演技、あれじゃ、目が見えない人を演じているのに全然目が見えないように見えない萩本欽一だよ。いや、ビル・ベイリーか。あ、ファーザー・テッドのファーザー・ジャックだよ。あんなに元気なんじゃ、ラスト近く、悪魔が「じゃ、兄さんが肩代わりするってことでいいよ」という台詞の意味がゼロじゃないか。
・ ニッキーの衣装は、ありゃなんだい?経済が昇り龍の勢いのダブリンであぶく銭掴んで商売始めるヤツが、あんなネルシャツ着てたりしないよ。
・ ロックハートも仕立てが良すぎ。貧乏人⇒あぶく銭⇒金持ちのグラデーションが衣装で見えないので、ロックハートだけ浮いて見えてしまう。初演はもっと「後ろから尻尾がでてきそうな」田舎紳士風の格好だったんだけど。
・ 「酒を床にこぼす」とか「暴れる」とか、そういうのを客にみせて媚びるのは止めた方が良い。あれは、「普通にやること」であって、「客に説明するためのツール」になった瞬間安っぽく薄っぺらくなる。

快快 Gorilla

27/11/2009

フォト・ロマンスを拝見した後、F/Tステーションにお邪魔したら、快快Gorillaが催眠術にかかっていた。コージGorillaがゴリラになる催眠術をかけられて、ゴリラになっていた。

練りわさびを平気で食べる人や、柱に引っ付いちゃう人や、頭から手が取れなくなっちゃう人がいて、怖かった。でも、一番怖かったのは、文句なし、岩井秀人だ。

岩井秀人に催眠術がかかっちゃって尾崎豊になっちゃったらどうしよう、というのも怖かった。
岩井秀人がくたっとなって、かかっちゃったかな?と思わせた瞬間も怖かった。
催眠術師の人があきらめた瞬間も、怖かった。
催眠術、怖いです。いろいろ。12月4日はデッサン大会なので、怖くないそうです。

ムルエ・サーネー フォト・ロマンス

27/11/2009 ソワレ

結論を先に言うと、僕には期待はずれだった。

ロンドンにいたとき2,3歳年下のレバノン人の友人が、家族と防空壕で過ごした子供時代の思い出を話してくれたことがあって、何となくびっくりしたのを覚えている。
おそらくムルエ氏もサーネー氏も僕と同じ年にレバノンで生まれているから、僕の友人と若干なりとも似たような経験をしていると推測された。
ロンドンで聞いた話の追体験のようなもの、あるいは、そこで受けたイメージに何か付け加えてくれるものを、何となく期待していたのだと思う。

でも、舞台は、直接語ることの難しさを解決するために「趣向」を求めて回り道をし、結局、趣向だけが先に立って語られるものをすら絡め取ってしまった印象である。

いや、難しいんだよ。僕の友人も、決して「ストレートに語る」ことを是とはしていなかったし、それはそれとして極めて真っ当なのだけれど。でも、回り道する方向は、「趣向」に限らない気がするんだよな。趣向が優先すると、「その日、そのとき、その場に居なかった人たち」は、語りたい気持ちの上澄みだけを汲み取って、それを愛でて終わってしまうんじゃないかと思うんだよな。いや、所詮、上澄みでないところまで分かる分かる、って行ってしまうことも嘘なんだけど。

デッド・キャット・バウンス

23/11/2009 ソワレ

面白かった。100分間のリアルタイム株式投資ショー。何事も、自分で色々試してみるのが一番なんだけど、株式投資を一から自分で試してみる機会はないからね。しかも外株で。

僕はてっきり、あのVictorやらいう人はほんまもんのデイ・トレーダーなのかと思ってたら、違った。どうも自分の偏見をあぶりだされたようで、恥ずかしい思いである。

恥ずかしいといえば、僕自身は、マーケットでの切った張った売った買ったでおカネを儲けることは、モノづくりとか人を気持ちよくするサービス業とか、そういう真っ当な仕事と比べると(比較の問題として)恥ずかしい職業ではないかと思うところもあるのだけれど、この「デッド・キャット・バウンス」は、その微妙な線をついてきていたと思う。

モロ恥ずかしいトレーダーと、金融資本主義批判が逆の意味でモロ恥ずかしいマル経の大学教授と、その両極端の間に、劇場にいながらしにして株にはした金を張って一喜一憂する僕らがいて、一体、俺たちの立ち位置はどこにあるのか?なーんとなくモヤモヤとしたものを背負って帰った。

ネイティブじゃない欧州人の英語が多かったので、僕は聴き取りやすかったし、投資対象の銘柄にもなじみがあったから、そういう意味では、(あの、何が段取りで何がハプニングなのか全く分からない状態のなかで頑張っていた通訳の方お二人には申し訳ないが)通訳無しで楽しめました。

女性通訳の方はちょっとワイドショー的な要素を強調しすぎて耳障り。法政の金魚シャツの先生は明らかな人選の失敗。学者についてはもっときちんとした物言いのできる方を選ぶか、オリジナルバージョンがあったのならそれをそのまま使った方が良かったと思う。

2009年11月26日木曜日

飴屋法水 4.48サイコシス

23/11/2009 マチネ

芝居を観る時に、ゆうざん先生な態度はいけないなー、と思っている。
何だか、「おれ様は酸いも甘いも味わいつくした、場数を踏んだ目利きだぜ」みたいなの。そういう、上から目線というか、そういうやつ。
そういう人には、「メシってのは、味より何より、誰と一緒に食べるかで美味い不味いが決まるもんなんだYo!すっこんでろ!」といいたくなってしまうだろう。
でも、何を観ても面白いなんてぇ境地に至るのは至難の業だろう。好き嫌いもあるだろう。最後まで一生懸命観て、できるだけ率直に、思ったことを(好悪であれば好悪と断って。巧拙であれば巧拙と断って)書くことぐらいでしか、「言論の人」は免罪されないと思う。

あ、なんでゆうざん先生のことを思い出したかというと、この4.48サイコシスを観た後に、はるか昔に読んだ「天下一寿司」のマンガを思い出したから。ある生意気な寿司職人が、「お前の寿司には魂がこもってないからダメだ!」みたいなことをゆうざんに言われて、放浪の旅に出る。何年か経って、とある寿司大会に出場した元生意気クンは、ボロボロの格好で手もプルプル震えながらボロボロの、まるっきり寿司の体をなしていない寿司を握るのだが、それを食べたゆうざんが「む、美味い!」だって。そういう話だったと思う。このお話を読んで思ったのは、
(1) いや、いくらなんでも、魂こもってても、こんなポロポロの寿司は不味いでしょう。さすがに。
(2) あぁ、やっぱり、美味い不味いってのは、主観の問題なんだなぁ。
と、そういうことだったのである。

そう。なんで本題に入る前にゆうざんの話とか天下一寿司の話とか書いたかというと、それは、こういうことです:
「いや、いくらサラ・ケインの遺作で、彼女の魂がこもっていたとしても、4.48サイコシスのテクストは、出来悪いでしょ。しかも、サラ・ケインはやっぱり、どうみても自意識過剰でバランスを失した書き手でしかないでしょ」
「しかし、そういうテクストが飴屋氏によって舞台に載ったのを観ると、テクストの出来が、とか、関係なく、素晴しい。そこに、ゆうざんの出る幕は無い。いや、ゆうざんも、む。っていうでしょ、きっと」

他に言葉が見つからないので、陳腐ではあるが、「真摯」といってしまいます。
舞台から客席を眺める趣向も、血の海も、鼓動も、逆さ吊りも、ホーミーも、全て、趣向としてエンターメイメントに奉仕するのではなくて、むしろテクストに密着するのを感じる。その密着した感じ。密着するというからには「間に何かとてつもなく薄いものを隔て」ながら、限りなく近い。全ての瞬間において、その距離(距離の無さ)に神経を集中させられる感覚。その感覚がテクストへの「真摯」さである。それを見せ付けられた時に、テクストの出来不出来を語ろうとするゆうざん先生は、自らを恥じるほか無い。

テクストとパフォーマーの身体と観客と劇場。この組合せから生まれる道なき道を観た。

2009年11月23日月曜日

西村企画+わたなべなおこ 動員挿話

22/11/2009 ソワレ

西村和宏の問題意識の持ち方には、西村氏に対して大変不遜な物言いではあるが、いつもとても共感できる。
同じ青年団の演出家達に明らかに刺激を受けながら、そこで一歩立ち止まって「ちょっと待てよ」と敢えて言ってみせること。ぐいっと振り返って、「じゃあ、現代口語演劇にとって80年代とは?」「現代口語演劇にとって物語とは?」「現代口語演劇にとって観客とは?」「演劇にとってエンターテイメントとは?」みたいな青臭い問題提起をしてみせて、しかも、それを前に進んで振り切るのではなく、3分の1だけ重心を後ろに残して、「これまで演劇を観てきた人たち・こころもち」に最大限の敬意を示しつつ芝居を提示するという、いわば、現代口語演劇のしんがりを買って出ている気がしているのである。

今回は岸田國士のクラシック「動員挿話」と観客参加型演劇の極北を征くわたなべなおこを引っ付けて、そこに更に自分の問題意識を埋め込んでくる試み。いいぞいいぞ。

が、うーむ。やりたいことの1/3ですか...そういう感じもしたなー。本当は、西村は100%やりたいことをした、わたなべも100%した、役者も100%出した。足して300、それでは100%に収まらないから舟が山に登った、みたいなモノが観たかったんだけど...だからやっぱり、トータルの印象では、今回、ちょっとお行儀の良い中途半端な感じがぬぐえなかった。

わたなべ作のうじむしくんコーナーは、吹っ切れた感じが良し。が、岸田戯曲は無理矢理現代口語の台詞に直さずとも充分面白く出来たのではないかと(大西さんをみよ!)。台詞を直した部分の言い回しに、むしろ西村or役者のクセが出て、却って気になった。

日本兵の格好の男は、僕はてっきりこれから戦地に赴く「馬」かと思ってましたが、連れによると「軍国主義とかそういうもの」が家にお邪魔してきて、それが夫婦のいざこざのとばっちりを受けるのが楽しかった、んだそうだ。その方がはるかにきちんとした観方だろう。

パラドックス定数 東京裁判

22/11/2009 マチネ

2007年の初演に引き続き、王子に出かける。
観終わって、連れと連発したのが「巧く作ってるよねー」というコメント。役者も上手になっているし、ますます確固とした野木ワールドを感じた。

でもなー。ここまで出来上がっているとなー。もうちょっと破れのあるものが観たいなー、とか、もっともっと役者をストレッチしてしまった挙句に破綻の兆しが見えたぞー、と思ってしまいたいという欲もでてくる。パラドックス定数、演劇から芸能に形を変えかねない危なさが見えてきた。

一つだけ。小野さんの靴がラバー底だったのは小さな瑕として気になった。というか、ほっともした。
逆に言えば、それ以外に気になるところの無い、本当にできの良い芝居だったということ。

2009年11月18日水曜日

ひげ太夫 アユタヤ順風伝

16/11/2009 ソワレ

千穐楽。あー、面白かった。笑った、笑った、楽しんだ。
なんてったって、
「どどーん」「と、その頃王宮では」「もわももわ~」「さて、これからこのお芝居の最大の見世物です」
だもの。そして、そういう口上に甘えることなく、むしろそうやってお客の注意を引いて、引いた分だけ(いや、それ以上に)バッチリ魅せて、1時間50分手抜きなし。素晴しい。

妙に思わせぶりな「お客さん、あなたが愚かでなければ理解してくれるでしょう?」式の記号演技より1億倍くらい良いよ。
なんていったって、観客の眼に入るのは舞台上の役者の姿しかないのだから。

サンプル あの人の世界 再見

15/11/2009 マチネ

字幕付きで。
まずはほっとした。(字幕は)悪くないよ。やっぱりオペレータがよーく分かっているというのが大きい。情報量を意識的に落としたのも良いほうに働いていたと思う。
ただし、客席に座って観ていると、やっぱり「あれはこうしたほうが、これはあーしたほうが」というアラが見えてくる。行の割り方とか、台詞の呼吸・間との整合とか、情報量を削りすぎたところとか。直したくなる。千穐楽なのに。

芝居はといえば、さらに輪郭の鮮明さを増していた。はっきりくっきりと舞台上で起きる事柄が空気に焼き付けられていた。これを嫌う人も好む人もいるだろうということも、先週観た時と変わらない。

そうだ。昔松井氏がユリイカに書いていたこと。
「今ここで起きていることだけ」を頼りにして、人間の「謎」や「奥行き」から解放されること。
これは、松井氏がポツドールやチェルフィッチュについて使った言葉だけれど、実は、この「あの人の世界」は、この松井氏の言葉を更に鮮明に舞台に載せた芝居だといっても良いのではないか。

物語を巡る寓話。でも、物語は、この舞台の上にも、舞台の外にインプライされる世界にも、どちらにも見つからないし、そもそも用意されていないのだ。
「夫婦」「姉弟」「嫁姑」「運命の人探し」「祭と復活」「自分探し」
物語のパーツはこんなに散りばめられているのに、物語はどこにも無い。頼りは「今ここで起きていることだけ」だ。
そうやってサンプルは、「過剰で空疎な現実」を、舞台の時空一杯で、全面的に引き受けて見せる。ポツドールやチェルフィッチュのような意匠を欠いている分、その皮相さ加減(=コスプレさ加減)はなお一層たちが悪いように思われる。

だから、この「あの人の世界」という芝居は、トンでもない芝居だし、評判が悪くてもおかしくない芝居だし、分からなくても仕方が無い芝居だし、むしろ分かる分かるといわれてはいけない芝居だし、寓話なのに物語から遠く、寓話なのに皮相的で本質を要求せず、現実から遠いのに現実に限りなく近く、余韻を残さずに記憶に焼きつく芝居なのである。

こういうリスクをとることの出来る作者・演出家・役者・スタッフの揃った座組みは素晴しい。万人に受け入れられることがなくとも、(自己満足ではなく)新しい地平の一つに踏み出す現場だったのではないか、とすら(考えれば考えるほど)思われてくる。

BATIK 花は流れて時は固まる

15/11/2009 ソワレ

初日。BATIK初見。
終演後、拍手鳴り止まず、カーテンコールはトリプル。そうなる理由は良く分かる。
パフォーマー達は身体が良く動くし、上手だし、その身体を出し惜しみせずに最後まで動かし続けるし、読み取ろうとすれば適度に物語も用意してくれて、やはり、評価の高い、レベルの高いコンテンポラリー・ダンスってこういうのなんだろうなー、と思う。

そこに読み取れる「物語」、パートナーによると「少女のこと、女の子同士のいじめ」だそうです。僕は「ニグレクトされた不幸な女の一生」です。いずれにしても当パンに書いてあった「生活賛歌」ではなかった。本当のところ・意図は分からないけれど、90分面白く拝見できたのならそれで良い。充分エンターテイニングでした。

機会が合えばまた観に行くと思う。でも、僕はきっと、こういう大掛かりで大きくて上手なダンスよりも、もっと小さなダンスが好きだ。すすんでこのカンパニーにのめりこむことは無いと思う。でも、とっても良いカンパニー・パフォーマンスでしたよ。

2009年11月17日火曜日

元祖演劇の素いき座+龍昇企画 チャイニーズ・スープ

14/11/2009 ソワレ

いやいや、ホント、すんませんでした。
トークを聴かれた方々、すんませんでした。僕の力じゃあ、あれで一杯一杯です。
土井さんは「まぁ、なれてないからね」なんてフォローしてらしたけれど、それはモロ「お前、ダメダメだよ」って言われてるってことだからね。へこむね。トークの終盤、土井さん明らかに怒ってたしね。

芝居の方は、やっぱりどうやったって面白くって、もう、土井さんが立ってるってだけで充分素晴しくって、そこに龍さんがいるということもどうにも面白くって、そうやって60分過ぎる。

じゃ、それが何で素晴しくなっちゃうのかについて、言葉で説明することはとんでもなく難しくって、土井さんに言わせれば「それを言葉で語るのが『言論の人』の仕事でしょ。僕は役者だから、なんも話すこと無いよ」ってことになっちゃうんだろうけれど、でも、どうしても知りたいし、語りたい。
20年分の後ろから背中を眺めて、「どうやったらそこにたどり着けるのですか?」と聞きたくなる。でも、土井さんの立ちは、どうやってもその場・その瞬間に集中してて、時間と経験が「積み重なるものだ」とは、その場ではどうしても思えなくなる。ホントに難しい。

柴氏は土井・龍両氏に演出つける中で、そこら辺の秘術を見たのだろうか?見たに違いない。そうじゃなきゃこんな面白い芝居が出来上がるわけが無い。そしてそうやって、より一層パワーアップしたのに違いない。クソ。とんでもない人たちだよ。

鉄割アルバトロスケット 鉄割のアルバトロ助

13/11/2009 ソワレ

いつ観ても、面白いじゃないか!
こんなにグダグダで、一体、ここの役者陣、稽古で「何をどうやって詰めているのか」?
全然分からない。でも、稽古を積んできたからこんなに面白く観れる仕上がりなんじゃないかとも思われて、どう考えても不思議。
冒頭の野坂昭如固めの(分かって欲しくてやってる?な)力の抜け具合がおじさんには気持ち良く、馬鹿舞伎はいつも通り素晴しく、ラストの射的はとてつもなく格好良かった。

戌井氏の本の解説によると、鉄割には「熱狂的なファン」がついているらしい。
熱狂的でない方にも是非観てほしい。そして、半分ダマされたような、でも、また来てみたいような、ヘンな気分になって家路について欲しい。

青年団 ヤルタ会談・隣にいても一人(関西編)

08/11/2009 マチネ

学習院女子大「やわらぎホール」での2本立て。何だか大学祭のざわざわした中に出かけるものだと思い込んでいたが、大学祭りはやっていなかった。屋台も出ていなかった。客席の女子大生比率も、(少なくとも小生の期待よりは)はるかに低かった。

しかし、ヤルタ会談と「隣」を青年団の達者な役者陣で満喫できる幸せは何事にも替えがたい。2本とも心から堪能した。

「隣」関西編は、初演をアゴラで観た時よりもパワーというか好き勝手さというか、そういうものが増していて、そこら辺を任されてバッチリそれに応える役者陣が素晴しい。4人とも良いけれど、特に永井-井上の掛け合いは見応え充分。

いや、なんだか、他に何が言えましょうか。ヤルタ会談も、何度観ても面白くて、次もまた楽しみになる。妙な欲が沸かず、ただただ観て愉しむ。幸せだ。

2009年11月16日月曜日

サンプル あの人の世界

07/11/2009 ソワレ

この作品には、小生自身「字幕用英訳担当」として参加しているので「観る人」に徹した観方はどうしてもできないのだけれど。
とっても褒めたい。そしてとっても貶したい。
ということでしょうか。

ここまで明確に松井周の世界が舞台上に焼き付けられてしまうと、観る側に残されるのはその世界に対する好悪でしかないのではないかと思われてくる。松井氏によれば、顔合わせ・本読みの頃から参加者が「全く分からない」っていう顔をしていて、でも、松井氏本人にはこの話は当初から極めて明確だった、ということなのだが、僕ももちろん「分からなかった」。今でも、「分かる分かる」と言ったらウソになる。
松井周本人がどう思っているかは分からないけれど、今回の舞台には、かなり明瞭にその「彼にとっての明らかな世界が」載っかっていたのではないかと推察される。

だから、観終わった後、「この芝居は、悪い評判が立っても不思議じゃないな」と思ったのだ。実際、「関係者席」に座ってた招待客2人組は、途中で帰っちゃってたし(もちろん、招待を受けておいて終演まで残らないで帰ってしまうような「お忙しい」方は、最初から観劇には向いていない人種だと思いますが)。

で、じゃあ、松井氏の嗜好が僕のストライクゾーンかと言うと、それも全くそうじゃなくて、じゃあ一体僕はサンプルの何を面白がっているのかってことになる。難しい。

2006年に帰国した初日に同じサンプルの「地下室」を観て、「ちょっと久し振りに日本に帰ってきたおじさんには刺激が強すぎて・・・」と思ったのを思い出す。また、東京デスロックのLoveを観て、想像力の進み具合についていけない、もう、振り落とされてしまいそうだ、と感じたことも思い出す。

何だかトンでもないものを観てる気はする。もう一度、字幕つきのバージョンを観に伺うので、それまで考え続けることにはなると思います。

グルーポ・ヂ・フーア H3

07/11/2009 マチネ

むちゃくちゃ気持ちの良い60分。
「哲学」は感じなかった。
「細部」と「構造」、「質量」と「緩急」は沢山感じた。時計が伸び縮みしながら、速く進んだりしゃっくりのように止まったりした。
「カポエラ」を観たときの興奮と恍惚を思い出させた。ブラジルの「火の酒」が舌の上でシュワッとくる感覚。パフォーマーがリングの中に入ったりそこから出たりするインターバルも、なんだかカポエラに似ている。

僕はヒップホップやストリートダンスには全く知見が無いけれど、おそらく、公園で車座になってカポエラやってるシーンは、ストリートダンスに近いのかもしれないな、とぼんやり考えた。

9人で一斉に後ろ向き全力疾走するシーンだけでも「すげー」と思わせるに充分だけれど、前半の、音楽無しで、呼吸だけで振り付けを合わせるところもダンスというより武術のようで(いや、実は小生武術にすら知見全く無いのですが)、それにも息を呑む。ダンスの公演はいつも「機会が合えば」と思いがちだけれど、「グルーポ・ヂ・フーア」は、今度来日しても必ず観に行くと思う。

渡辺源四郎商店 今日もいい天気

06/11/2009 ソワレ

僕は、芝居観ながら当パンを音を出してめくる行為は許せないと思ってしまう神経質な観客ですが、この日ばかりは、1時間くらい経過したところで、
「ああ! おじさん役の人の名前が『ノリスケ』さんかどうか、確認したい!」
という思いを抑えるのに大変苦労した。
そうだよね。○みへい、さ○え、か○○、ToRoちゃん、タマ。
タイトルからして、そうだもんね。もっと早く気付けよ!と自分を責めるしかない。

しかしこの、なべげんの芝居のこの面白さはなんだ。
現代口語演劇の芝居の作り方、組み上げ方が、(乱暴に言うと)ミリ単位できっちり精緻に建て込む建造物だとすると、畑澤演出はあたかも免震構造の、わざとアソビを作りこんであって、見かけはどうあれ、かなりな揺れが来ても倒壊しない、そういうものにたとえられるのではないかと思う。もちろんパーツはきっちり組んであるのが前提で。

そういう土壌で、宮腰さんや田中店主、(初舞台とは驚きの)吉田さんはじめとする役者陣が生き生きと動く。山田百次、工藤由佳子はどっちかというとパーツの骨組みのボルトナットを引き受けて若干割り食ってる感じもするけれど、でも、全体の思想が座組内でバッチリ共有されている安心感は何物にも変えがたい。山下昇平の「マジックで書いた」書割セットも相当素晴しい。

なべげん、かなり素晴しい集団になっているのではないかと推察される。スタイルが集団を変えるのか、集団がスタイルを創るのか、判然とはしないけれど、いずれにせよかなり幸せな状態にあることは間違いない気がする。芝居は「地獄」じゃないよ。芝居は「幸せ」だよ。

Fukai Produce羽衣 ライブ Vol.1

04/11/2009 ソワレ

芝居じゃないです。ライブです。
でも、なんだか、芝居を観に行くのとあんまり変わらない心持で観に行った。あ、聞きに行った。

やっぱり楽しい。女性はかわいく、男性も愛くるしく。高橋・鯉和デュエットの時も、「鯉和さん、かわいい。でも、高橋サンの愛くるしさ、目が離せない!」となってしまい、かなり自分が入れ込んでいることを自覚する。

ゲストのハイバイ組、岩井&金子両氏もかなりハイテンションで、岩井氏は目がかなりヤバかった。そしてアクションもヤバかった。歌はかっこよかったです。藤一平さんは、モリッシーに似ているらしい。そして、確かに似ていた。本人は意識しているのだろうか?
ずーっと前から気になってたのだけれど、藤さんは游劇社にいらした、1987年のアリスフェスで絶対に拝見している、ということを、何故か今日になって確信した。

こういう取り留めの無い話になってしまうのだけれど、Fukai Produce羽衣って、じゃあ、一体、どんな芝居・どんな音楽を演るのか。毎度説明に苦しむ。
「みょージカル」
という呼び方は、かなり当たっている。音楽と芝居を一緒に愉しむなら、これくらい猥雑に、楽しくやるのが正解。ミュージカルで(いや、そもそも芝居であっても)人生や愛や家族や運命について講釈受けたくないし、人生は思いもかけず短かったりするのだから。

へこんだり元気が出たり

10日くらい書き込んでませんが、芝居を観に行ってないわけではないです。

・ ちょっとしたことでへこんだりとか、
・ 昔話をしていたら、自分の記憶に全く残っていないことが実はその友人・知人には結構インパクトがあったことを知って驚いたりとか、
・ 励ましをもらってなんだかちょっと元気の出ることがあったりとか、
・ あんまりたくさんキーボードに向かうと指が痺れるとか、

そういう風にすごしています。

そもそもこのブログは、「単身赴任中の、家族へのアリバイ作り(というか近況報告)」だったので、単身赴任じゃなくなると、
「思ったことを書きこむ」 ⇒ 「思ったことはパートナーに話す」
へのモードの変化が著しい。
もし、この日録のトーンが変わったとすると、そんなところにも一因があると思います。

2009年11月5日木曜日

維新派 ろじ式

03/11/2009 マチネ

維新派初見。千穐楽。
格好良い舞台装置、オリジナルの音楽に乗せて、歴史と記憶を単語に散らしてイメージを紡ぐ、歌い上げない日本語ミュージカル。
ままごとの「わが星」を思い出す。そういえば、「わが星」も一種ミュージカルだった。

40分経過、60分経過、75分経過、というところで眠くなって時計を見た。
路地にまつわる歴史と記憶が、舞台上の立方体の中の骨格標本のようにお行儀良く作・演出のイメージの枠内に収まって、こちらに向かってこない。
もちろん、一見トータルとしてお行儀よくっても、役者の「個」がどうしても裂け目からはみ出してくる芝居があるってことも分かってる。だけど残念ながら、今回の維新派の芝居では
・ 舞台が広すぎて?遠すぎて?
・ 役者の動きに破れがなさすぎて?
・ 僕のコンディションが悪くて?
そういう風に観られなかった。残念

音楽のペースがずーっと一緒なのも気になった。眠くなれと言っているようなものだ。

青年団国際演劇交流プロジェクト 交換

01/11/2009 マチネ

「大先生」クローデルの戯曲を「本場」フランスから来た演出家が演出。
非常に分かりやすい構造を持った「大先生」の寓話 - 資本家、女優、労働者、その妻 - を、「寓話の大意を伝えるべく」ご教訓噺として上演することに、いかほどの意味があるのか?

そういう「寓話の読み解き、説き語りに100%奉仕せよ」との要求に対して100点満点で応えられる俳優は、むしろ青年団でないところでたーくさん見つかるのではないかと思う。青年団の役者がこのテの演出に付き合うのは、何だか本当にもったいない。

とはいうものの、役者陣が(おそらく演出の意図に反して)そこに立とうとする意志が漏れ出す箇所も多々あって、それは楽しいというかさすがというか。マイナスから始まったものを無理矢理プラスにしようとすることを喜んでよいのか悲しむべきか。

全裸の男優、好ける素材に羽毛貼り付けた女優、というのは、正直、困る。俳優を所詮寓話の説き語りに奉仕する存在としてスルーできるのなら構わないのだろうが、「虫の眼の視線」で役者を眺めると、どうしても細部に目が行くので、困る。途中から眼鏡を外して観た。眼鏡を外しても困らなかった。「役者がそこにいること」を大事にしていない演出なんだなー、と、改めて納得した。

2009年11月1日日曜日

新国立劇場 ヘンリー六世

31/10/2009 マチネ

総上演時間9時間を3つに分けた中の第一部。朝11時から休憩つきできっかり3時間。
ひょんなことからチケットが手に入り、でかけた。自分でチケット買って観に行く範囲からは外れているし。

実際に観てみると、やはり僕が観るべき芝居の範囲を大幅に外れていた。僕の眼には
「予算と時間をかけたイモ学芸会」
としか見えなくて、まぁ、予想通りとはいえ、かなり呆然とした。

あとは、サフォーク公のブーツのかかとがやけに高いのが気になった程度かな。

田上パル 青春ボンバイエ

29/10/2009 ソワレ

バカだねー、ほんっと、バカだねー。
でも、そこがいいんだよねー。
と、ニコニコ顔で劇場を後にすることが出来る、いまどき珍しい「純粋爽やか系」現代熊本弁口語演劇。

彼ら、「青春の甘酸っぱさ」の酸っぱいところは、実は、汗をたっぷり吸った服を洗濯しないで放っておいた結果としての酸っぱい臭いだということをよーく分かっている。改造☆人間から出てきた女優陣ですら分かっている。それが強み。

ただし。いつまでも「バカだねー」では済まないんじゃないかなー、ということは、何となく自分たちでも分かってるんではないだろうか。どんな風に一皮剥けていったら良いのだろうか。毎度毎度「元気炸裂」だけでみせていれば良いのではなくて、どんな要素が加われば、もっと色んな人に観てもらえるのだろうか。そういうことを、「注文をつける」ではないけれど、考えてしまうのだ。その「足りない一滴」がなんなのかは、良く分からないのだけれど。

2009年10月27日火曜日

唐ゼミ 下谷万年町物語

25/10/2009 ソワレ

まずは戯曲。上演時間3時間超の三幕モノ芝居を通して、世界を紡ぐイメージとことばと悪ふざけと会話のテンポには一点の緩みもなく、初演後28年経ってもなお瑞々しい。一幕で、何てことの無い台詞を聞いてたら思わず涙こぼれそうになって自分でも驚く。

そして看板女優。椎野裕美子さん、2007年に鐵仮面で拝見した時も「口も大きいが声もでかい。映える。」と思ったけれど、やっぱりテント芝居は看板女優あってこそ、ということを思い起こさせてくれてうれしい。歌うときの声量には目をつぶって、
「李礼仙さん、金久美子さん、ほんとうにすごかったよねー、でも椎野さんもなかなか良いよ。」なんてぇおじさん臭い会話がニコニコと出来る。

そして舞台に溢れるオカマやさんたちの迫力。こんな風に人数の力で押したがるのはいかにも蜷川氏っぽいが、まぁ、初演はParcoだからね。今回は、テントだからね。テントは、いいよね。

そして若い役者。秋の深まる中冷たい水をものともせずに3時間。若くて体力あることは素晴しい、とまたもおじさん臭い誉め言葉。

そしてそういったものを一つにまとめてきっちり3時間魅せきった中野氏の演出、良し。浅草瓢箪池跡地で見る猥雑な戦後日本の夢を、ノスタルジーはノスタルジーとして、でも、そこに溺れてしまわずに「現代の」若い役者の身体で見せてくれたのが嬉しい。こういう芝居、ほんと、すきだなー。3時間、お尻はちょっと痛いけど、楽しいですよ。

東京デスロック ロミオとジュリエット 韓国版

25/10/2009 ソワレ

東京デスロックを観たことのない方、小劇場演劇を観たことの無い方、是非、先ず、この韓国人俳優達のロミジュリを観て下さい。相当お奨めです。

日本版が、新しくて面白いものを手探りで試しつつ、エッジが立ったまま舞台に「ぶつける」感を伴っていたのに対して、韓国バージョンはいろんな意味での「完成度の高さ」が素晴しかった。

「完成度が高い」というと、何だか前進が止まって守りに入ったニュアンスがするかもしれないが、そうではなくて、この韓国版は、圧倒的な信頼と「出来上がった!」感の中で、内からふわっと膨らんだものを孕んでいた。その膨らんだスペースには「包みこむ力」とか「あたたかさ」とか「拡がり」とか「アソび」とかが生じて、演劇を放射していた。

デスロックの芝居は、これまで「前のめり」でないと観れない感じがしていたのだが、今回、もちろん世界に引き込まれながらも、「背中を椅子の背もたれにくっつけて」楽しめたのである。これは悪い予兆ではない。むしろ、ともすればマニアな人たち(口の悪い言い方だけれど、もちろん小生も含みます)が自分たちだけのモノとして独占したくて仕方が無くなってしまいそうな芝居が、パワーとエッジを失わずに、よりあたたかい、触れても取って喰われない(あちち!ってのはあるかもしれないけれど)ものへと進化する兆し、あるいは進化した証しなんじゃないかと思う。そういう完成度です。

日本版では泣いた。韓国版では、ただひたすら幸せだった。どっちを愛でるかと問われれば日本版。どっちを薦めるかと問われれば韓国版。でも、どっちも好きだ。

2009年10月26日月曜日

東京デスロック ロミオとジュリエット 日本版

24/10/2009 マチネ

キラリ☆ふじみで今日は一日デスロック。いや、正確には朝一番は岡崎藝術座観て来たのだが。まず日本版。

デスロックを観て、初めて泣いた。今までも、グォーッと来たり、ぐわっと来たり、うへぇー、と唸ったり、そういうのは何度もあったけれども、今回は泣いたよ。ロミオがジュリエットの元へと缶コーヒー抱えて急ぐシーン。劇場と舞台とロミオの視界と宇宙の彼方がいっぺんに見えて、びっくりした。

「蜜月期」で初めて拝見したアイディアが、アイディア一発勝負の域を遥かに超えて、「これしかない」という顔をしてロミジュリの中にがっちり場所を得ている。

また、役者の身体とテクストが同時に舞台の上に在ることを、どうやって、「刺激的であり続けながら」かつ「そういう意識を持った経験のない観客でもついてこれるように」その劇場内で共有できるか、そしてそれを「その場にいるみんなが楽しめるように仕立てるか」という課題をきっちりこなして、かつエンターテイニング。

夏目氏も引き続きエンターテイニングだが、なんといっても中林舞、見せ方を心得てるというか、なんというか、(ずるいよな、って言っちゃいけないかな?)マスク取った顔は、(狙ってただろ!)美しくて、そこでもちょっと涙出そうになったのだ。

岡崎藝術座 朝焼けサンセット

24/10/2009 朝

土曜日の早朝(9時開演だから早朝ってこともないか)、朝食つきバカ企画。今回もまたアゴラを飛び出して今度は西へ。公園を使っての野外劇のニセモノといった風情で、近隣住民の度肝を抜いた(と思う)。

マック乱入時の隣に座っていた母子の母親は身じろぎもまばたきもせずに顔色は「蒼白」、駒下商店街を歩く主婦達の目には「あらあらあら」と書いてあったし、公園の管理の方もきっと「なんだこりゃ」だったと思う。

こういうのを、「若い人たち、あるいは小劇場マニアの小さな仲間内の自己満足」と呼ぶことは非常にた易いし、今回もそういう人いるだろう。自分で、そう思われても仕方が無い、と思う部分も、確かにある。

でもなー、楽しいしなー。こういう、全力おバカ企画に片足突っ込んでお付き合いして、1時間ちょっと楽しめるって、いいよなー。

って思ったのです。

岡崎藝術座 ヘアカットさん 再見

23/10/2009 ソワレ

初日は「予期に反して、不本意にも」面白かった。1週間経って、どうだ?滞空時間は伸びたか?飛距離は出ているか?それを観に行った。

やはり面白い。とっても面白い。でも、K点超えの飛距離、カタルシスは感じない。

根拠のない自信もしくは根拠はあるがその信憑性を問うてはならない開き直りに化けた瞬間に視界がぶわーっと開けて、まるで飛ぶ夢のような、終演して劇場を出るまで着地できないような、そういう飛距離が出るんではないかと期待していたんだ。
今回はそういう乱暴さはなかった、と思う。

むしろ感じたのは、ゴツゴツした部分部分の手触りにヤスリをあてながら、全体としての異形感を保つ作業。全体としてスムーズな印象はないのに、その場その場の継ぎ目が丁寧に処理されていて、最後まできちんと観ていられたということ。ひっくり返して言うと、役者の動きに集中してみた後で、実は全体として異形のものを目にしていたことにハタと気づくこと。そういうプロセスが、役者の力量と丁寧な仕事に支えられているのを感じた。

だから、上記のような「役者が翔ぶ」瞬間は、今回に限っては必要とされていなかったのかもしれない。こういう今までとちょっと「ノリの違う」作品の後、どこに向かうのか、楽しみです。

「チャイニーズスープ」稽古見学

21/10/2009
元祖演劇の元いき座と龍昇企画の合同公演「チャイニーズスープ」の稽古場見学。
これは、なんだか、とんでもなく幸せな芝居になりそうな予感。お奨めですよ。

土井さん70歳台、龍昇さん(たぶん)50台、柴氏20台、(ちなみに作者の平田オリザは40台)。野郎3人の稽古場に40台の中年男参上。丁度本読みから立ち稽古に移るタイミングで、台詞の入り具合、入り方、出し方、曖昧なところの処理の仕方に土井さん・龍さんのキャリアが出て、大変勉強になる。

こういう面子の稽古が「勉強になる」というとなんだか堅苦しいけれど、見ていて、まず、とっても面白い。土井さんのお話がとっても面白い。それだけで十分エンターテイニング。加えて、龍さんのあいのてというかそういうものも面白い。下手すると、柴氏の演出なしでも十分面白い芝居が出来てしまうだろう。いや、もっと言えば、この稽古場見せてもおカネとれるね。

それじゃあ演出はなにすんの?と言われかねないことを意識してかせずしてか、柴氏のコメント・演出プランもガチンコで、まだまだ稽古前半だけれど面白くなりそうな予感たっぷり。そもそも、土井さん、自分より45歳年下の演出家の芝居を楽しんでいる。45歳年下って、僕にはまだそんな人は存在していないので、本当の未体験ゾーン。すげえ。

自分がちょっと関係しているから、というのもあるけれど、こういう芝居こそ、老若男女、幅広い層が楽しめるんじゃないかと思う。若いカップル、お年を召したカップル、昔からの友人、中学に入った子供と2人で、引退した両親と、あるいは家族みんなで。どんな観客を想定しても、きっと面白い。観終わった後、色んな話ができるよ。

http://www.komaba-agora.com/line_up/2009_11/ikiza.html

2009年10月19日月曜日

五反田団 生きてるものか

18/10/2009 マチネ

初日。観ていて気持ちの良い芝居。
役者、とっても楽しそうだった。難しそうだったけれど。
もちろん、自己満足・内輪受けではない。五反田団の芝居の面白さは相変わらずちまちまとした細部に宿って、「大河ドラマ」「ご教訓」の罠に陥らない居場所をしっかり見つけた上で、月並みな言い方で申し訳ないが、世界を見せてくれる。そして、押し付けない。

どんな意匠だったかとか筋だったとかは、書かない。
ネタバレすると本当に面白くなくなっちゃうから。それに、目新しいとか、ハッとさせられるとか、そういうものでもなかったから。でも、謎解きを楽しむ芝居ではないので、そこは安心してお楽しみください。

ネタバレにならない範囲で書けば、
・ 桝野氏のルール無用の破壊力は必見(それが初日だけだったらごめんなさい)。そして、桝野氏が遊べる場を作り上げてしまった演出・他の役者のキャパシティの大きさに感服する。
・ 五反田団で示される「生」は、いつも、草や枝に邪魔された暗いトンネルの視界の狭い中を匍匐前進で切り開きながら、展開していく気がしてい る。パーッと開けたかと思いきやすぐさま別のトンネルに入ったり、前むいて進んだり、後ろむいて進んだり、進んだと思ったら元に戻っていたり、ポンと他の トンネルの中に入ったり。で、結局、最後の最後まで、視界が360度開けることはなくて、トンネルの先のほうに仄かに光のような闇のようなものがちらつい て終わる。そういう意味で、僕は今まで見た中では、「さようなら僕の小さな名声」が大好きなのだが、確かに今回の2作品も同じような「生」を示している なぁ、と。

2009年10月18日日曜日

五反田団 生きてるものはいないのか

17/10/2009 ソワレ

再演初日。

初演時と役者ほぼ総入替での再演。白神未央さんが拝見できないのはとっても残念。
役者入替わって、好きになったところもあり、「初演の方がよかったなー」と思うところもあり。
そこは甲乙つけがたく、逆に言えば「大幅にパワーアップしていた」という感じではない。

ただし、初めて観た時には「時計をみながら人数を数えてしまった」のだけど、今回は時計を気にせず一人ひとりの死に様を堪能させていただいた。よりこなれた感じ。
「よし、岸田戯曲賞受賞作品を、東京芸術劇場で観てみよう!」
という向きにはやさしい仕上がりだなー、と感じた。

マッチ役の師岡「モンチ」広明、穢れなき悪意むき出しで出色。

ところで、僕は初見時にこんなことを考えていた:
要は、「生きているということは死んでいないということだ」という単純な理屈である。
「生き様」を描く足し算の芝居ではなくて、バタバタと人が死んでいく末に1人だけ生きている、その結果として「生きている」ことを背負わなければならなくなる、そんな、引き算の生を観客に提示するのに1時間50分かけて見せる。

そうだったのか。すっかり忘れていた。
初演時には、エッジの立った、悪意に満ちた、骨太の意匠を持った作品として観ていたものが、今回は、エンターテイニングな作品として僕の眼に入ってきている。それをどう捉えるか。
・ 一度観ただけで作品の構造・意匠に飽きてしまったのか
・ 演出の意図として初演時にはエッジが立って悪意に満ちていたのか
・ 初演時にエッジが立って悪意に満ちていたのは実は観客としての僕だったのか
・ それともなんなのか

分からない。でも、そうやって思い返してみると、ラストシーン、初演時はもうちょっと怖くて、突きつける感じで、マスターはもっと不安そうに見えていたかもしれない。今回の岡部氏のマスターは、もうちょっと強いような気もする。もしかしたらその辺の微妙なニュアンスだけなのかもしれない。

2009年10月17日土曜日

岡崎藝術座 ヘアカットさん

16/10/2009 ソワレ

初日。

セロニアス・モンクのピアノについて、当時(1940年代)を知る女性が次のように語るのを聞いたことがある:
「いっつも何だかとんでもなく思いがけない音を出して、えーっ、じゃあ次に一体どんな音にいくつもりなのかしら?とハラハラしていたら、これまた思いがけない鍵に指が着地して、その音がまたキマッてたのよー」
すごい。そうやって、聴き手をハラハラさせる力、モンクならではである。

岡崎藝術座にもそういうハラハラ感がある。一体どこに着地するのか、まったく読ませない。観客の集中力は、物語とか仕掛けとかに惑わされる暇もなく、次の一手、次の台詞、次の役者の動きから切り離されない。そうやって、80分あっというまに過ぎる。そうして、終演後、そこに、物語や仕掛けではなくて、劇世界があったことを思う。

今回は、力たっぷりの役者陣を迎えて、実は、ちょっと、「安心して観ていられる」感があったような気もする。坊園さんの冒頭、不安に満ちた目はどうやっても忘れられないけれど。

トータルでは、初日でもあり、もっと乱暴な舞台になるかなー、と思っていた。が、予期に反して、(そして、ちょっと不本意ながら)、とても面白かった。地に足が着いて、面白かった。

敢えて乱暴な注文をつけるなら、「これではとても、これだけ力のある役者陣をもってしても、着地できないのではないか」というところまで一旦引きあげてみせる無謀な試みも、もちっと観たかったりする。

2009年10月14日水曜日

ままごと わが星 再見

12/10/2009 マチネ

再見。またも泣く。
しかも、「不覚」にも永井秀樹のサラリーマンラップでキた。
本人にはとてもいえないが。何故だ?何故よりによってサラリーマンラップで?

念のために言うが、物語がステキだったからとか、出会いと別れがせつなくてとか、そういう涙ではない。

この芝居の凄さは、僕には、「現代口語演劇の公理系から出発して、そこを乗り越えていく構造と疾走感」にあるんじゃないかと、整理はついていないなりに思われる。

「あゆみ」の時もそうだったけど、この芝居の物語は「ありきたり」で「結構ペラペラ」で「内面を語っていない」といわれればほぼ当たっている。が、よーく考えてみると。
そもそも、「人間の内面は表現できない」。一方で、「内面は説明するものである。せざるをえないものである」。でも、その説明について「それをどう受け取るかは受け手の問題であって、送り手が『表現』によって受け取り方をコントロール出来るものではない」。

だから、「如何に内面を丁寧に表現しようかと考えて積み重ねる演技」と「ビート1拍毎に台詞を乗せて、動きをあわせて、思いっきり拘束されながらの演技」は、内面を「表現していない(できていない)」という点で、また、受け取り方は観客に委ねられるという点で、等価である。

そういうのが、現代口語演劇の出発点なのかなー、と思ったりしている。

あとは、観客を置いてけぼりにしないための「事実と虚構のつなぎ目ののりしろの処理」の仕方で、それを、ちまちまと細かくつぶして目立たなくするのか、今回のようにのりしろも大胆に広く取って、恰も構造の一部のように見せてしまうのか、まぁ、それはどちらかというとテクニカルな問題なのだと思うが、そこの「技」めいたところも素晴しいのだが。

なんで芝居観て泣いちゃうのかとか、現代口語演劇の公理系ってなんだろうとか、自分で突っ込みいれたい部分も多々あるが、今日はこの辺で。

がんばれトラックくん

みんな楽しみに待ってますよー。

http://festival-tokyo.jp/blog/2009/10/cargo-tokyo-yokohama.html

2009年10月13日火曜日

唐組 盲導犬

11/10/2009 ソワレ

当日券で入った赤テントは大入りに近くて、当日の観客を収容するために若干客席が上・下に広がったりして、やっぱりテントは融通が利いてよい。

盲導犬は初見。古の名作、という期待もあったのだけれど。

何だか、全体に元気が無いみたいで、がっかりやびっくりよりも先ず、心配になってしまった。唐組を観始めて、こんな気持ちになったのは初めてだ。若手も含めた役者陣奮闘するも、どうにもグワァーッと盛り上がらないのは、どうも役者のせいじゃないように思えてしまった。

考えてみるに、唐戯曲で最も僕が気に入っている部分 - 妄想がイメージを呼びイメージがまた妄想を呼び寄せるめくるめく妄想オーバードライブ - が、その居場所を単色のイメージ「ファキール」に譲ってしまっている感じがしたのだ。オーバードライブや脱線や、どうでもよいことの渦巻きが、今回は余り見られなかったのが、どうも僕にとっては「元気が無い」という風に見えたように思われるのだ。要は、「好み」ということだといわれればそれまでだけど。

高度成長期の炎熱サラリーマンがバンコックで後頭部を撃ち抜かれたまま、妻の成り代わった盲導犬に曳かれて永久に南シナ海を渡り続けるイメージはあまりにも美しい。
が、そのシーンの美しさと、「前の公演でもうつくしかったんだろーなー」と思ってしまう、そういうところだけが突出してしまう舞台は、逆にすこーし不幸せだったりもするのである。

2009年10月12日月曜日

shelf 私たち死んだものが目覚めたら

11/11/2009 マチネ

イプセン最後の作品を春風舎で。春風舎で青年団系以外の芝居が観られる機会もそうそう無いので、劇場の匂いがどう変わるのかに関心あり。

これまで「私たち死んだものが目覚めたら」を観たことも読んだこともなかったのだけれど、芝居を観た印象に基づいて、まずは物語について話す。

<ですから、以下、ネタバレといえばネタバレです>

ルーベックというひどい男がいる。
モデルのイレーネには、「俺、芸術家だから、お前と付き合う気はないね。だって、芸術がだめになっちゃうじゃん」と言う。
妻のマイアには、「俺、芸術家だから、お前といても退屈。だってお前芸術理解してないんだもん」と言う。
そうやって、常に両天秤かけながら、他の女に乗り移るタイミング計りながら、芸術家面を前面に立ててごまかしを続けるずるい男なんである。
そういうずるい男が最後天誅を喰らって、雪崩で死ぬ。

そういう話である。

shelfの演出では、ルーベックはとっても一途に人生の意味や芸術の高みを目指す人間になっている。とっても良い人。阿部氏のルーベックの悩みには、一点の小狡さもみてとれない。(いや、あるいはもしかすると、そうやって自分のずるさを正当化しようとする決死の努力を表しているのか?いや、当パンのご挨拶を見る限り、そうではあるまい)

そういう真摯で真面目な演出は、かえって芝居のもつ気持ち悪さをつるつるにしてなくしてしまう効果を持っていたのではないかと思う。「真実」とか「本質」に向かって全力疾走してしまうと、「ひょっとしたらこうなのかもしれない」という引っ掛かりを捨象してしまうのではないかと。魚の切り身には、鰓の裏とかおでこのところの、飛び切り美味しい肉は入ってない、みたいな。

だから、とことん悩みぬく真摯な阿部氏の「役作り」もそうだし、他の役者の造形も「真実」や「本質」に奉仕してしまって、正直、退屈だった。
でも、こういう芝居がささるシーン、状況、というものもきっとあるのだろう。例えば19世紀末とか。20世紀初頭とか。そういうコンテクストまで視野に入れて上演の場にのっけると面白いのかもしれないが。

ハイバイ て

10/10/2009 ソワレ

文句なしに傑作。
初演と比べてみると、岩井氏が出演せず演出に専念したことで、色々なものの輪郭がくっきりした気がした。輪郭がくっきりした分、前半と後半のズレ(視点が違うことによるピントの合わせ方や事実の捉えかたや時間の流れ方)が強調される。良い意味で分かりやすく、見え易くなった。

いや、もしかするとそういう風に僕が感じたのは、今回、僕がちょっと深く「て」の戯曲とお付き合いさせていただいたためかもしれないけれど。

ヨメには悪いが、今回は小生も初演時と逆方向から観させて頂いた。そうすると、やっぱりそこで新しい発見もあり、それも楽しい。

役者もみな素晴しいが、でも、本当は、永井若葉さんをずっと観ていたかったな。スジとか騒ぎとか一切追わないで、一度、永井さんだけを見続ける、というのをやってみたい。それくらい素晴しい。町田氏や平原氏のあの「無関心」「オレいざとなったら非当事者」な態度にも凄みがあって、ステージにきちっとフレームを嵌めている。

観てから2日間、「わが星」や「て」のことをヨメと話し続けているが、いくら話してもネタがつきないのだ。まぁ、アフタートークで「きしょい人」といわれたお兄さんが実は当日券で観に来てた、というのもネタの一つではあるが。

なんだけど。この芝居、ほんっとみ~んなに観てもらいたいのに。た~くさん観に来たらいいのに。
やっぱり、アフタートークで「どうやったらもっと観に来てもらえるのか」という質問に松井・岩井が答えに詰まってしまうのを見ると。「前半・後半2度繰り返す意味が分からない」と言われて岩井が答えに詰まってしまうのを見ると。
まだまだ道は遠い。でも、遠いからこそ歩いてみたくなるのかもしれないぞ。がんばれ。

2009年10月10日土曜日

ままごと わが星

09/10/2009 ソワレ 

柴版コスミコミケ炸裂。
涙を流し、目を奪われ、魂を抜かれ、そのうち、俳優やスタッフに嫉妬しだす。自分が曲がりなりにも芝居に関わって何かしようとしていることがバカみたいに感じてくる。 「もう、いいや。」
もっと観てると、自分がそこにいることの幸せが無条件に嬉しい。 やっぱり、「もう、いいや。」となる。
初めから最後まで。
こんにちは。さようなら。

これ観たら、今後100億年一切芝居観なくてもいいような気分になった(でもホントは観に行くんだけどね)。

東京タンバリン 雨のにおい

02/10/2009 ソワレ

やっぱり、1時間40分の短い時間で状況を説明して、登場人物の人となりを示して、それらの人物の関係性を見せて、事件を起こして結末をつけるというのはとっても難しい。改めてそう思う。高井氏はそれをきちんとこなして見せる。大したもんである。
というとエラそうなのだが、別にエラそぶりたい訳ではない。「こなして」なんていうと、手を抜いてるといってるみたいに聞こえるかもしれないけれど、全然そうじゃない。

そういう風に思ったのは、実は、芝居を観ていて覚える違和感 - それは、状況についてちょっと説明が過ぎる、あるいは、ある人物像についてすこーし深く掘り下げてみる、覗いてみる、あるいは、事件の展開するスピードがすこーしだけ上がる、そういう時に覚える違和感 - は、何故生じるのか。
また、違和感があることについて演出家は(特に現代口語演劇に近いところに位置する演出家は)既に承知の上でそうしているのだとすれば、何故わざわざそういう違和感を生じさせることをしなければならないのか。ということを考えていたからです。

で、その理由は、上で述べた通り、「1時間40分の短い時間で状況を説明して、登場人物の人となりを示して、それらの人物の関係性を見せて、事件を起こして結末をつけるというのはとっても難しい」 かつ 「ほとんどの観客はおそらくそれを要求している」 からなのです。高井氏は真摯にそこにチャレンジしているのです。

ただ、そういう作業は、丸い地球をどうやって地図に落とすかという作業にも似る。
「状況の説明を止める」とか「事件を起こさない」とか「オチをつけない」とか、「物語、要らない!」とか、そういう風にしてもいいじゃないか。そういう人たちもいる。
一方で、説明しきろうとして、3時間、4時間、時には10時間の芝居をする人もいる。

僕は物語もオチも要らないので、観てて楽しい芝居が好きだ。楽しいのレンジはかなり偏っているかもしれないけれど。

2009年10月5日月曜日

マレビトの会 cryptograph

01/10/2009 ソワレ

トラムで観た「アウトダフェ」や「声紋都市」のインパクトが凄まじくて、トラムよりも小さくて舞台が近いアゴラで観たらどんなことになってしまうのだろうか、という期待を持って出かけた。でも、正直、トラムで観た2作品の時ほど舞台からの「圧力」を感じることができなかった。何故だろう。芝居を観る目の焦点が合わせきれなかったのか。

冒頭から始まる街娼・殺人・葬送・戦争など、都市に関わるイメージ(または紋切型)のオンパレードは、総体として紋切型に陥らず、いつか聞いた畑澤聖悟氏の「開幕時から面白くないと思っている観客は一人もいない。期待度100%なのである。そこに乗っかって、面白さをキープすればよい」という言葉を思い出させるエンターテイニングさ。このネットネトのイメージの泥の中を匍匐前進しながら時間は進む。それは、楽しい。神里氏が座談会で言った「時間の進みが恐ろしく遅かった」というのは、小生も同じ印象である。

但し、舞台の熱が冷える間もなくそのまま客席に飛び込んでくるのが、むしろ息苦しく感じられる。焦点の合わせ方だったのか、それとも、間合いに飛び込みすぎたのか。僕はトラムの劇場としての「冷たさ」が必ずしも好きではないけれど、この作品に関してはトラムで観た方が良かったかもしれないとも感じられた。

カルヴィーノの「見えない都市」とのリンクは、旅人目線で都市の有様が綴られていくスタイルも含めてなんだか懐かしく、「見えない都市」もう一度読みたくなった。

中野成樹+フランケンズ Zoo Zoo Scene再び

27/09/2009

フランケンズの方々には誠に申し訳ないのだが、キリンの皮とかレッサーパンダの糞とかの方が、芝居よりインパクトあった、ということは認めざるを得ない。動物園の動物と客の距離の取り方の説明だとか、飼育・展示係長の「好きなものだけ見たらいいんですよ」という発言だとか、とても興味深くて、そういうものに挟まれてフランケンズの、もちろん、下らないところで見る気が失せるようなことには絶対にならない、押さえて、抑えた、素晴らしい演技を拝見するにつけ、一体、僕は何のために「芝居を観に行く」のか、ってことで考え込まざるを得ないのだった。

要は、舞台の上に乗ってたり、檻に入っているものを「さぁ、見てください」って言われないと楽しめないの? と聞かれたときにその問いに対抗できるのだろうか、という疑念で、中野氏はそういうところ楽観的なようにも聞こえたけれど(現実を舞台にそのまま載せても面白くない、という発言の裏返しとしてそう解釈してます)、それでもなお、「舞台は人生の縮図」とか「時間を凝縮している」というような紋切型からは逃れたいと思ってしまう。

肩こりがひどいせいで万事ネガティブに見えてしまうのかもしれないが、いや、ネガティブじゃないんだけど、考え込んでしまった。出口特になし。

2009年9月25日金曜日

青年団プロジェクト公演 青木さん家の奥さん 再見

23/09/2009 マチネ

長丁場の公演、役者がどう変わっているか(疲れているか)も興味のタネ。
東京公演前半に比べて、声を張ったり怒鳴ったりすることに対する「いいのかなー?」みたいな照れ・ためらいがちょっと薄まったのではないかとも思われたが、切れとパワーは落ちていない。

ビールケースで囲まれた舞台が、「そもそもそこは酒屋なのか?わざわざビールケースで固めてくるところが、どうも、青木さん家の存在とか配達の存在と一緒で、ニセ三河屋なんじゃないか?」と思わせたりして(そりゃそうだよ、ここは三河屋じゃなくて駒場アゴラ劇場だよ)、それも改めて面白かった。

2009年9月24日木曜日

鳥の劇場 シンポジウム「アーティストがつくる劇場」

21/09/2009 19:30

パフォーマー・劇団運営者・劇場運営者・プロデューサー・観客が、「しかの心」で車座になって、「アーティストがつくる劇場~可能性と突き当たる問題」について語り合った。「車座」ってのは一つ大きなポイントで、パネリストの発言過多にならず、まず、良し。

京都・鳥取・熊本・長田・つくば・那須、否が応でも、余りにも地域間で状況が異なることにみなが自覚的になってしまう。具体的な結論は出なかったにせよ、(聴衆の一員としての僕にとっては)大変有意義な場に居合わせることが出来た。

鳥の劇場中島氏の「理想の劇場とはどんな状態を指すんですか?」というシンプルな問いかけに対してすら答が一様でなかったのも面白かった。各地域でパフォーミングアートが置かれた状況と、そこから見える射程の差異が示されるように思えた。
熊本: そもそも稽古場・上演場所の確保に汲々とする
つくば: 場の確保から劇団の活動が始まる。そこで必然的に地元との交流が生まれる
京都: ある意味恵まれている。稽古場は無料(京都芸術センター)、アトリエ劇研の「質の高いカンパニーを発掘・育成する」という明確なスタンス、「劇場として」何ができるかという問題意識
長田: 育てようというプロデューサーの意図と、その「仕組み」にフリーライドしがちなカンパニーとの間の齟齬
那須: いかにコンパクトに、パフォーマーにとっても観客にとっても幸せな劇場を作るのか。釣堀を始めたら地元の人が寄ってきだした

最も面白かったのは、熊本第七インターチェンジのパフォーマー・ACOAのパフォーマーの発言が突きつけた「経済」の問題 - パフォーマー個人レベルの経済、カンパニーの経済、劇場の経済 - と、杉山氏がこだわる「質の確保」の問題とが、お互いに切り離して整理して議論しなくては、とみんなに自覚されているにも拘らず、どうしても切り離しきれないところ。難しいよ。でも、そういう局面での、杉山・大谷両氏のプロデューサーサイドからの、でも、上から目線でない発言はちょっと心強い。

心に残ったのはACOA主宰・釣堀店主の鈴木氏で、
・ 動員数が増える・キャパの大きい劇場で公演が打てる、ことと質との間に必ずしも相関は無い
・ 経済の規模を広げることが劇場・パフォーマー・劇団の幸せと必ずしも相関しなかったりする
・ 以下にコンパクトに公演の場を保ちながら活動を続けられるか
という問題意識が明確で、かつ、そこに至る経緯もお聞きするにつけ、すっかり鈴木氏のファンになってしまった。

中島・大谷・杉山氏をはじめとする、問題は手に余るほど抱えているが、次の一歩に向けてアクションの引き出しを持っている人々と、次の一歩をどこに踏み出すかについて思いあぐねる人々、どちらもが率直に話し合えるシンポって、
「鳥の演劇祭らではですね」っていうと余りにも身びいきの過ぎる宣伝文句みたいで嫌だが、でもやっぱり鳥の演劇祭ならではだったんじゃないかと思う。珍しく、聞いてて気持ちの良いシンポジウムだった。

あ、もちろん、シンポジウムの後の懇親会も素晴しかったです。美味しいお酒、食べ物、美味しい空気、星空、カエルの声、楽しいお話。満喫しました。

2009年9月23日水曜日

ACOA 共生の彼方へV どんぐりと山猫

21/09/2009 16:00

鳥の演劇祭ショーケースのトリを務めるのは、那須の釣堀屋店主(って紹介しちゃって良いですか?)、鈴木史郎氏が主宰するACOA登場。

宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を振り付けつきで読む、っていう、ただそれだけのことなんだけれど、そこにひっついてくる身体と色彩とユーモアと上品と下品が、本当にエンターテイニングに提示されて、びっくりしてしまった。

昨年の夏になぱふぇすにお邪魔した時は、もう少し生真面目で、自分が放ちうるいろいろな色の光に気づいてないんじゃないかという印象で、正直、ちょっと引き気味に見始めていたので、なおさら驚いた。

別当役の佐久間さんも素晴しいし、どんぐりの声の出演菊池さんのインパクトもすごい。どう頑張ったって、あんな風にどんぐりの台詞言って、その後視線を客席に泳がせたりはできません。

「しかの心」という場の力も、ちょっとはあったのかもしれない。どうなんだろう?何だか、またACOA観たくなってきた。

このしたやみ 紙風船/あなたの最も好きな場所

21/09/2009 14:00

鳥の演劇祭ショーケース3本立ての2本目は、京都からやってきたこのしたやみ。岸田國士の名作「紙風船」と、福永武彦の小説「あなたの最も好きな場所」朗読の2本立て。

紙風船、岸田戯曲の素晴らしさを再確認。今上演してもみずみずしく、十分にモダンである。あまりにもそちらに目が行って、どれくらい演出・役者がきちんとしているのかに目が届かなかったのが後悔のタネ。きっと、技量も、戯曲に当たる態度も、すごくきちんとしているのだろう。奇を衒わず、素直に楽しめた。

ところが、後半の朗読が始まったところで、小生の頭に邪念が芽生えた。
「この二月さんという男優さんは、Kunio05『迷路』で父親役をやってなかったっけ?」
声の質とか、ちょっと横を向いた時の感じとか、どうも似てる。が、一度伊丹で観たきりの方なので、(しかも今回はまったく台詞とちらないし)自信がもてない。

朗読に集中できず。役者には申し訳なかった。が、少なくとも、2人で互いに読む時の、視線の交わし方、反応の仕方、役割分担のスイッチの切り替え方で小説のカラーが変わるのが感じられて、それは楽しかった。

終演後、意を決して話しかけてみたら、やっぱりKunio05、出演してらっしゃいました。ちょっとだけ杉原邦生氏の話をした。

2009年9月22日火曜日

第七インターチェンジ 家は出たけれど

21/09/2009 12:00

鳥取は鳥の劇場、鳥の演劇祭の「ショーケース」企画。60分前後の作品を全国各地から募集して、3劇団。2時間ごとに上演して一日一挙三公演。

会場は鳥取市鹿野町、鳥の劇場の近所、「しかの心」。工場だったり養蚕に使われたり公民館だったり、いろんな変遷をたどってきたということだが、今はホールの横にカフェを併設。キャパ60人内外、いい感じの「小屋」である。

さて、先鋒の第七インターチェンジは熊本からハイエース一台で鳥取までやってきた。出し物は「家は出たけれど」、別役不条理劇を真似た雰囲気・物語の運び方。どうしても別役実の天才と較べてしまうので、戯曲の技術的に足りない点に目が行く。今後の精進に期待。でも、こういう機会がなければ、次にいつ第七インターチェンジに出会えるかはわからなかったし、拝見することができたこと自体は(hopefullyお互いにとって)良かったのではないかと思う。

熊本で芝居を続けるということ。東京で芝居を「消費」すること。芝居観ながら、自分の立ち位置が試されているのを感じる。

鳥の劇場 老貴婦人の訪問

20/09/2009 ソワレ

「おカネで正義が買えるか」という命題で、しかも90分一本道のストーリーからなる戯曲なので(ちなみに案の定戦後ドイツ戯曲ときた)、ほんと、理屈っぽい退屈な芝居になってもまったく仕方がないところなのだが、そういう芝居を、フィジカルな見せ方、舞台の作り方などを通してあえて「ゆるめに」提示してみせて、最後まで見せきってしまうところに、鳥の劇場が鳥取で芝居を作っていることの成果のようなものを感じる。

2年前にブラジルの劇団の「かもめ」を観た時に、静岡SPACにはブラジルからの移民が沢山きていて、その観客ときたら、本番中携帯でしゃべるは(通話相手はおなじ劇場内の友達)席移動するは、とんでもなく行儀悪いんだけど、でも、舞台上で起きていることへの反応は良くて、舞台上の役者達もそういうところで集中乱れず「劇場」は成立していて、「あぁ、こういうしたたかさ・しなやかさって、日本の現代演劇にはないよね」と感じたのを思い出す。

東京で芝居観てるとどうしても「芝居道(しばいみち)」みたいになっちゃって、眉根を寄せて芝居観て、どうかすると語りに入っちゃったりするのだけれど、そうじゃない楽しみ方ってもっとあるはずで、いや、「芝居道」を否定するわけではないし、客席側に大変な労力を期待する芝居があっても全然いいし、なによりやっぱりオレにはオレの観かたがあるし、というようなことを考えた。ただ、鳥の劇場の客層に育てられた芝居がガラパゴス化せずに順回転で進化したら、すごく面白いことになりそうな気はする。

鳥の劇場、劇場のロケーション、運営、レパートリー、客層、雰囲気、本当にいろんなインパクトのある演劇空間である。

2009年9月21日月曜日

トマ・カラジウ劇場 三人姉妹

20\09/2009 マチネ

鳥取市鹿野にある「鳥の劇場」。第2回鳥の演劇祭招聘作品。

まずはルーマニア語の響き。ラテンの言葉とスラブの言葉とドイツの言葉が入り混じっていて、代わりばんこにその出自を主張するかのように耳に飛び込んでくる。これを聞いているだけでも飽きない。

その不思議な響きの言葉に乗せて、構成にはほぼ手を加えず、しかしながら、「肉欲万歳!」が割りと強調された三人姉妹。
舞台の部屋が「通り道」として両側客席に挟まれた格好で設定され、足や手の細かい動きまでよーく見える装置。東欧の三人姉妹が大柄な芝居になってやしないかとの心配は杞憂に終わった。小さなところまできちんと演出が行き届いて、見ごたえあり。

その中で、クルィギンは三人のお尻さわりまくるし、マーシャはあけっぴろげにヴェルシーニンに迫るし、ソリョーヌイは露骨に野獣派だし、なんとオーリガとヴェルシーニンの愛のシーンまででてきて(「この解釈入れても、チェーホフは怒らないと思うよ」とはいっていたが)、ここまで行けばたいしたものです。

第四幕、姉妹が未来に思いを寄せるシーンで、何だか突然、通路状になっている舞台の上をつーっと風が吹きぬけた、いや、空間のかたまりがもうひとつの次元を手に入れて時空となり、劇場を超えて無限に伸びていくような気がした。「今、ここで起きること」にとことんこだわったチェーホフの戯曲にこの演出で最後まで引っ張って、最後にぶわっと広がりが出る。ちょっと涙出た。素晴らしい三人姉妹だった。これだから、鳥取には毎回来る意味がある。

KUNIO 06 エンジェルス・イン・アメリカ 第一部 至福千年紀が近づく

19/09/2009 ソワレ

京都芸術センター初見参。
最初から「3時間30分、洒落になんないくらい長い」と聞いていたので、館内前田珈琲で事前に食事。ハヤシ大盛り、カフェオレ、とってもおいしゅうございました。まずこれで京都芸術センターのファンになりました。5時半に夕食とはちと早く、しかも眠い芝居だったら即落ちるのは確実な量を食べたのだったが、杞憂に終わった。

現代アメリカ戯曲で、しかもレーガン時代、HIVがまだ「ジャンキーとホモセクシュアルに特有の病気」という誤解を受けていた時代、の話だから、「アメリカ帝国の滅亡」(あれはカナダの話だけれど)みたいな話なんじゃないかとも思っていたのだが、いやいやどうして、べったべたな愛の物語であった。そして、とっても面白うございました。こんなべったべたな話なのに、どう僕の嗜好と波長が合ったものやら、(けっして身びいきではないぞ)3時間50分、まったく飽きなかった。、

冒頭出てきた杉原「出たがり」邦生の前説には、「こいつ、またも出たがり演出か?」とも思ったが、案外おとなしく、タテヨコ企画の「ひょっとすると芝居より面白い、役者には迷惑な主宰挨拶」ほどではなかった。まず、よし。

全編通して何といっても目を引くのが、「183cm、低音の魅力」前回の田中祐弥で、文字通り最後まで目が離せず。松田卓三とのカップリングもバランスよし。前回拝見したのは「14歳りたーんず」の中屋敷組、お兄さん役だったのが、いきなりこれ。杉原邦生の慧眼。というか、この役者をお兄さん役で使った中屋敷氏の慧眼、というべきか。
プライアー・ウォルターはバイユのタペストリーに名前が縫いこまれてるそうだが、バイユにはあっしも訪れてタペストリー見たたことがあって、ぐっとプライアー一族が近くに感じられる。それもよし。

坂原わかこ、よし。外見は欧米人の「肉欲万歳!」からは遠いところにあると思うが、ただの「みゆき風な夢見がち」に陥らず、観ていられる。田中・坂原の妄想が交錯するシーンがぐっときて、それから一気に引き込まれた。
脇も池浦さだ夢、森田真和の変態コンビが素晴らしく、飽きさせない。藤代敬弘のアフリカン・アメリカンのゲイも妙にはまって好感。

装置も面白かった。というか、パネル倒しで三角やロープやてっかん結びの気配やウェイトが見えると、20年前自分でやってたことを思い出して、懐かしいというか、好感持てるというか。洗練は感じないけれど、ガツンと勢いで勝負するところが邦生らしい。

80年代半ばの「アメリカでいいじゃないか」という内向き保守的な感情と「ミレニアムorノストラダムスまで10年ちょい」という滅びに向かう感覚のミックスは、時に現在の小泉時代以降の日本の感じと似ている気がする。だから、日本の若い役者を使ってこの戯曲を「今」上演することに、(いつものオレらしくもなく)意義を感じてしまったりもした。

客席に空きがあったのは、これだけ面白い芝居なのでとってももったいないけれど、一人で3・4人分くらいアクのある観客がたーくさんいらしてたから、それも良いのか?いや、よくないだろう。関西にいてこの芝居見逃した方、後悔してください。

2009年9月15日火曜日

秋吉敏子さんのこと

Nむさんのブログを読んでいたら、秋吉敏子さんのことを思い出したよ。
(今はもっぱら「穐吉」と綴られているみたいですが、当時は当パンも含め秋吉と書いていらっしゃいました)

田舎町に秋吉さんのピアノトリオがやってきて、田舎の高校生達が連れ立って聴きに行ったんだけど、いたく感動した田舎の高校生は、秋吉さんからパンフレットにサインもらうついでに、こんな質問をしてしまった。
(何分田舎のことなので、世界レベルのピアノトリオが生で聴ける機会は2年に1度くらいだったと思う。そして何分田舎のことなので、演奏が終わったあとも何だかのどかで、たっぷり時間が取れたんだ)

「ピアノは自分のために弾くのか?人に聞かせるために弾くのか?音楽でおカネをとることをどう思うか?」

秋吉さんがあと20歳くらい若かったら、横面を張り飛ばされていたんじゃなかろうかと、今となっては思われる位のひでえ質問なのだが、さすが世界の秋吉さん、慌てず破顔一笑、

「もちろんピアノは自分のためよ。でも、誰も聞いてくれなかったらさびしいじゃない?」

それだけだよ。小岩の安アパートに住んでいた時分、ピアノの練習の音がうるさいと文句を言いに来た近所の人が、彼女の鬼の形相に文句も言えずに逃げたとの伝説を持つ秋吉さんが、笑ってそれだけだよ。
その夜、田舎の高校生は、「オレはさもしい。こんなにさもしいのでは、オレはゲージュツで生きる人には絶対になれないだろう」
と思ったんですが。まあ、その予想の通り、ゲージュツで生きてはいないんですが。

まあ、自転車に乗るようなもんだ。左にハンドルを切るか右にハンドルを切るか、考えてても仕方ないだろう。
「正しいバランスだから自転車に乗っていられる」 のではない。
「自転車に乗っていられるのが正しいバランス」 なのです。多分。

サスペンデッズ 夜と森のミュンヒハウゼン

13/09/2009 マチネ

三鷹の八幡様のお祭りの日。子供らが担ぐみこしを越え、人ごみを越えて星のホールへ。
開場すると、装置良し。星のホールのぺったりした空間をぺったりと使ってしまえという発想は、杉山至の美術以外では初めて見たと思う。客席の配置も良し。

で、開演。うーん、そうですか、そういう趣向ですか。
20日まで公演が続くので、詳しいことは書かないけれど、こういう風に「物語の構成」を書き込むと、どうしても俳優たちがその「物語の構成」に奉仕しなくてはならない流れになりがちなんじゃないかと思う。観ていても、どうしても、「物語の構成」の辻褄に向かって全てが流れていく、その流れを追うようになってしまいがちで。

こんな風に書いて、あたかも観る側に問題が無いようにいってしまうのはちょっと自分でもいやらしいとは思うけれど、僕はやっぱり、もっと「構成の謎解き」と関係の無い、もっと余裕の虫の眼で見ていられる芝居の方が好きなんだなー、と思う。
本当は、なんだか余裕があるんだか無いんだかってな具合で、上演中ずっと役者の襟足とか足首の曲がり具合とか声のピッチとか歩幅とかに集中していられたらずっとずっと幸せなんだけど。

2009年9月14日月曜日

青年団プロジェクト公演 青木さん家の奥さん

12/09/2009 ソワレ

客入れのときから、席が隣になったご夫婦が、
「あれ、あのビールケースは中ビンだよ。みんな中ビンかな?」
「いや、あっちは大瓶よ」
「いろいろあるんだな」
「あれ、ビンの中みんな入ってて、芝居しながら端からドンドン飲んでいったら面白いな」
「あの、あそこにおいてるビンは、あれは、重石になってんのかな?かざりかな?デザインだな」
「なんか、砂みたいなの入ってるわよ」
「あ、ほんとだ」
「この曲、いいよね」
みたいな会話を続けてらして、僕はもうそれだけで劇場の中に居るのが嬉しくなって、涙出そうになったのです。

芝居の方も文句なく面白くて、なんだか、平田オリザは、これまで20年間、「静かな演劇」なんてぇ旗印をうっかり掲げちまったばっかりにずっとやりたくてもできなかったことを、「南河内との合同企画」にかこつけてここぞとばかりにやっちまったんじゃないか、という気がした。
掛け値なしに、客入れの時間も含めて楽しいときを過ごしました。

箱庭円舞曲 極めて美しいお世辞

12/09/2009 マチネ

美容室ビルドゥングスロマン。
適度の色恋沙汰と不快感と青春のしょんべんくささを振りまきながら、2時間苦しくさせず、そわそわさせずに見せきったのは、多分、上手なんだろう。すっきり観れたし。

ああ、でも、すっきりと2時間の長ーいストーリーを流せる達者な役者達の、それでもすっきり流れない、どういうつもりだかストーリーに全く貢献しようとしない、劇場の中の空気がささくれ立つような、そんなものがチラッと見えたなら、そっちの方を僕はより愛するんだろうと思う。

2009年9月13日日曜日

吾妻橋ダンスクロッシング

11/09/2009 ソワレ

スケジュールがどうしても合わなかったとか、チケットが売り切れちゃってて・・・とかいう方にも会ったが、そういう人には僕は、
「いや、何を差し置いても観に行け、というものでもなかったよ」
というようにしている。理由はいくつかあって、

① 何だか、「次回もチケット蒸発必至、ご予約はお早めにね!」みたいな雰囲気(あるいは、あの、「伝説の」というような誤った伝わり方)を(僕が)煽るのはどうかと思うし、そういう状況は主催者の意図とも(きっと)違うんじゃないかな、と思うから。
② 初日だったかもしれないが、ちょっと、客席が「サロン」じみてたところもあって、自分がそういう場に居てしまうことへのうっすらとした嫌悪感と、うーむ、ここでこう閉じてしまうのはどうだろう、ともちょっと思ったから。それは、この催し物に限った状況ではないのだけれど。
③ 飴屋氏の出し物も含め、素晴しいものはいくつもあった。でも、その素晴しさは、「吾妻橋」の場だからこそ、この一回きりだからこそ、(だから、ぜったい行きなさいよー!)という面と、逆に、「でもこれ、観る側の意識さえ澄ましていれば、実はいつでもどこでも味わえる類のものなのではないか(ちょっと危ないが)」という面もあるんじゃないか、ってことも最近考えているので。

特にいとうせいこう氏の朗読と飴屋氏の出し物を観ていて、「名乗ること」と「名付けられること」、「名付けること」と「歴史を書くこと」、「歴史に書かれること」と「名付けられること」、「匿名でいること」と「名乗りを上げること」、及び、それらの状況で発生する/しない異議申し立てについてずっと考えていた。それが「舞台」にのって「観客」に観られていること。それを観ていない人がいること。そういったことも含めて。

もっともっと開かれていくために、どうするか・・・。
そこから先をどうも考えきれず、頭の中モヤモヤなのだが。

快快や鉄割など、他の出し物についてがいかに素晴しかったかについては、きっと語る方が数多くいるだろうから、特にここには書きません。

池ノ上のモンキーズ

土曜日の夕方、下北沢から駒場に向けてプラプラ散歩しておりますと、頭上のスピーカーから、盆踊りや秋祭りのピーヒャラでもなく、ハワイアンでもなく、童謡でもなく、アークティクモンキーズが流れていたです。

http://www.youtube.com/watch?v=30w8DyEJ__0

池ノ上商栄会、おそるべし。

とあるお店の引き戸がガラガラと開いて、店主と思しきおばさま登場、何の曲かと見上げていたのがチャーミングでした。

2009年9月7日月曜日

南河内万歳一座 S高原から

05/09/2009 ソワレ

アゴラの中に入った瞬間から、おぉーっ、この舞台でどんなS高原からを上演するんだろう、ってドキドキ感が充満する。いや、実は、アゴラに入る前から、あの、南河内ののぼりを見てからずっと高揚感が続いていたのだけれど。

そして、青年団バージョンでは開場後/開演前ずーっと座って雑誌読んでる役者がいるのだが、それは南河内バージョンではなくって、その代りに恒例の幕前物販コーナーが。いやー、生きてて良かった。アゴラで南河内観れるとは。

内藤演出のS高原は、意外にも戯曲に忠実に、プロセス技は抑えに抑えて、敢えて平田の土俵に乗り込んだ上でケレンなしの勝負を挑む。これは、観ていて楽しい。台詞を最初に読んでから、舞台上で台詞を口に出すまでのプロセスというか、回路が、青年団の役者と南河内の役者とでは違うんじゃないか、それを極めて自覚的に(もしかすると自虐的に)南河内は受けて立っている印象である。なんだか、ぐわぁーっと行きたい自分を、全身の筋肉プルプルさせながら抑えて抑えて舞台に立ってる感じが、少なくとも観ている側としてはとっても楽しかった。

戯曲に忠実だからこそ、「あぁ、ここは、そうきますかー」というのが部分部分で立ち現われて、それも楽しい。賑やか4人組(福島組)の人間関係が青年団とは違った形でくっきりみえたり、風立ちぬ兄妹の兄の格好は、これは、パリで観たフランス人バージョン以上にキテますよ、とか、そういうところ。それもこれも、南河内がガチンコで戯曲にぶつかった結果。さすが南河内、と思ったことです。

2009年9月6日日曜日

ロハ下ル わるくち草原の見はり塔

05/09/2009 マチネ

マチネは男性編。小生は男性編のみお邪魔する。夏目慎也目当て。
始まってみるとなんだか豪華キャストで、へー、と思う。

が、始まってみるとなんだかうーん、「そうですか、ロハ下ル版の蝿の王ですか、まさにそんな感じですねー。なっつんって本当にイジメられキャラ合ってますよねー、いやいや、他の役者陣も、みんな味があるよねー、キャラ立ってるよねー・・・」みたいな、紋切り型なコメントしか出てこないんだ。

1時間50分、眠くはならないのに、そして、役者を観ていて辛くは無いのに、退屈だった。
・ もっと刺激のあるストーリーがほしかったわけではないんです。
・ もっと方法論でとんがってくれ、っていってるわけでもないんです。

これはもう、芝居の何を面白いと思うかが(この集団と僕との間で)ネジれの位置にあるのではないか、と思うしかなくて、それじゃあ、三鷹で「アダムスキー」を観た時に面白いと思ったあれは何だったのだろうか、錯覚だったのだろうか、と、あれこれ考える。

終演後Mとひろ氏に出くわして、思わず口から出た言葉が、
「あの、引きずり込む役、クレジットなんか要らないから、是非やってみたいですよね!」
Mとひろ氏ドドーンと引いていたが、僕の真意は、「あぁ、いいなぁ、こんな役、やってみたいですよね、という役が他に無かったんですよ」の婉曲表現なのです。変わった趣味を持っているからではないんですよ。

柿喰う客 悪趣味

04/09/2009 ソワレ

タイトルには「悪趣味」とあるけれど、予想していたほど「悪趣味」ではなかった。
面白くなかった、という意味では、ぜんぜんない。

トラムで久々にみた「打ちっぱなしの外壁を見せないように作り込んだセット(まさに「セット」と呼ぶのにふさわしい)」を使って、しかも主なあらすじは「家族のお話」、中屋敷氏、正統派紋切り型の極致といってもよいフレームを持ち出してくる。

で、まぁ、そういう、「どうでもよい」設定を使って繰り出す「もっとどうでもよいけれど、ぜひとも"演劇"でやってみたい企み」のオンパレードが気持ち良く、こころゆくまで満喫。
(が、一方で、もちろん、本当に芯の芯までどうでもよいと本人が思ってたら、舞台にすら載せないとは思うが)

とりわけ「こども」と「かっぱ」「警官たち」が小生のお気に入り。ネタバレになるのでこれ以上書きませんが。

本当に、中屋敷の芝居を観る度に、芝居というのは、名付けや名指しや説明台詞で成り立つ壮大なごっこ遊びであることを、(本当に痛みを感じながら)痛感するのです。それを俯瞰しながら、自らの才能を舞台に投げ込んであらゆる空間・時間を使いつくす中屋敷氏、おそるべし。

中屋敷氏が「やりつくしちゃった。次、どうしたらいいんだ?」とか、「本当に舞台に載せたいことが何もなくなっちゃった」と考え始めたり、自分に疑念を抱き始めたら、きっともっと面白いものが観れちゃうんじゃないかという気もしているが。そう。すべてにおいて、あまりにもポジティブで。「悪趣味」なことにもポジティブで。何ともねたましい。

2009年8月31日月曜日

元祖演劇の素いき座 阿房列車

29/08/2009 ソワレ

本当に、観る度に心洗われる舞台。毎回毎回、楽しみである。
1991年の初演から19年、今でも新しい。新しい、というのは、観る度に新鮮な驚きというか、毎回初恋というか、展開分かっているはずなのにこれから何が舞台上で起こるのだろうか、とドキドキしてしまうというか、そういうことです。

こういう芝居こそ、もっともっと真っ当に色んなところで採り上げられて、たーくさんの人に観てもらえたら良いのに、と思う。春風舎があんまり混んでないのは、特に夏場は(自分勝手なことを言えば)助かるけれど、いや、でも、やっぱりもっと沢山の人に愛されて当然の芝居だと思う。

初演から19年、平田オリザ20代の時の戯曲なのに、未だに鮮度たっぷりで、それにも驚く。本当に、戯曲本来の魅力もさることながら、土井氏に大切に育てられてるんだなー、と思う。

普通は良い芝居を観てると、「自分もこんな舞台に立ちたい」とか、そういう風に変に羨ましかったりするのだが、この芝居観てると、その場(観客席)に居られる自分が、居ることのできない人たちから羨ましがられて当然だ、みたいな気持ちになる。それも気持ちよい。

2009年8月30日日曜日

龍昇企画 モグラ町1丁目

29/08/2009 ソワレ

2008年春の「モグラ町」一発目が余りにも良かったので、その続きももちろん拝見しに出かけた訳である。

登場人物・設定変わらず、次男坊・四男坊が「名前のみ」の出演。作・演出の、登場人物たちに対する愛を感じた。愛のある芝居は、基本的に観ていて楽しい。

でも、愛があるだけ、登場人物を突き放してみることが、作・演出にとって難しくなってしまったのではないかとも思われた。一発目で見ることのできた、本当にどうしようもない男達の、未来も展望も無いところで開き直った凄みが、今回は寺内貫太郎一家風の優しさに化けた。

シリーズ次回作があったとして、僕はそれを観るだろうか?そのとき、作・演出は登場人物たちをどれだけ可愛がらずに、ぽーんと、舞台の上に投げ出して見せることができるのだろうか?楽しみでもあり、でもやっぱり観ない方が幸せなようでもある。

コマツ企画 新釈ヴェニスの呆人

28/08/2009 ソワレ

コマツ企画は、何だか面白い芝居をやってくれそうだ。でも、今回もまた、前回(汝、隣人に声をかけよ)と同様、どーも何かが足りない感じ。

こまつみちるさんの10分間トーク、あの「なんぴとたりともわたくしめのトークをじゃますることはできないことよ」な気合と、芝居本編での、全篇妄想へのてらいを抱えながら、それでも妄想の主体と対象の間にあるものを追っている感じとの間のギャップが、一観客としては埋めがたいところである。

「イタい女ってこう見えてるんだろーなー」というところに着目して芝居を組み立てるよりも、もっと自分の妄想に忠実にやっちゃっても面白いんじゃないかなー、とも思う。

金曜日の電車の中で、「あ、こうしたらもっと面白いんじゃないか?」と思いついたことがあったのだけれど、それが日曜日の晩になっても思い出せない。終演後48時間経ってしまった今となっては、そっちの方がむしろ頭痛い。

2009年8月28日金曜日

Castaya Project (その1)

10, 24, 25/08/2009

4回公演、都合のつく範囲で3度お邪魔した。こう書くと、何だか追っかけみたいで、かつ、こないだ飴屋演出「3人いる!」 を観て激しく自らの修行不足を感じたにも拘らずまぁたまた「1回こっきり」に命を賭けきれない自分がちょっとはずかしいのだが、まぁ、要は、欲望に素直なんだと思ってください。

http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2009/08/3_20.html

と、先日も書いた通りなので、おそらく日替わりメニューであること自体にはそんなに意味は無くて、多田氏もアフタートークでCastaya氏のメッセージとして、
「Castaya氏としては(見た目にかかわらず)毎回同じことをやっているんだと思います」
ということを話していたし、そうか、おんなじことをやってたのね。

今回のCastaya Projectを僕なりに「名付ける」とすると、「Castaya氏による名付けのレッスン」ということではなかったかと思っている。

<以下、ネタバレです>


第一講: 明らかに多田氏でない人が出てきて多田氏を名乗る。舞台上の人たちを「なっつん」とか「永井さん」とか「柴さん」とかと呼んで、芝居の稽古をする。(という芝居をする)。名付けが、どれほど名づけをする主体の恣意にかかっているか(適当に扱われうるか)を、観客は学ぶ。

第三講: 2人芝居を繰り返す。初回は動き・小道具なし。二回目は役を入れ替えて動き・小道具あり。初回では「呼ばれる」だけで実体が分からなかったものが二回目になって次々に指差され、名指され、より「芝居らしく」なる(しかも、登場人物2人には、名前が無いのだ!)。実体を伴う名付けのプロセスが、対象を持たない言葉から始まる観客の妄想のなお一層のジャンプの手助けをすることを、観客は身をもって感じる。

第四講: 舞台上の人が自分自身を「名付けていく」=「名乗る」。俳優となり、演出家となり、観客となり、芝居となる。観客は、ラストにかけて、舞台の構造や演劇空間の中での役割についても、「観客自らが命名し、能動的に構成することが出来る。芝居の始まりと終わりについてすら自分で名付けることができる」ということを感じる。

こう書くと屁難しく感じるかもしれないけれど、要は、ごっこ遊びをするときの、「じゃあ、こっから先は地獄ね!」「僕がライダー2号ね!」という名づけであっというまに世界が立ち上がるキレと、なんかのきっかけでプイと子供があっち行くと世界が終わってしまったりするキレと、そういう時のステキな感覚を、Castaya氏の、かなり丁寧に作られた導線を伝っていくことによって、劇場の中でじっくり(考えながら)味わえた、ということであります。
ごっこ名付け体験と、それに類似した芝居幸せexperienceの、いわば見える化、ではなかったかと思っている。

それと、観客と演じ手の「主導権の在り方」ということも考えたのだけれど、それはまた長くなるので、追って書きます。

矢野顕子トリオ ライブ

23/08/2009 1st set

とある矢野教信者に誘われて、昨年のリサイタル(@調布)に引き続いての矢野さんライブ。
Blue Note Tokyo に初めてお邪魔した。緊張した。思ったよりも冷たい雰囲気でなくて、良かった。

ベースのWill Leeと言えば、僕が中学生の頃に既にヤマハかどこかのベースのカタログに、「この人も当社ベースを使ってます」という形で登場していて、当時(1980年頃)あんなに真っ直ぐでさらさらなブロンドだったのだから、きっと今ではきれえに禿げているに違いないと思っていたら、いやいやどうして、頑張って今もサラサラ。ステージ全面の扇風機からの風が当たるとサラサラと上に舞い上がって、自毛ぶりを誇示していらっしゃる。

あ、まぁ、髪の毛のことではなくて、Will Leeも含めて、この面子は何となく70年代後半の、「クロスオーバー」「ジャズロック」を乗り越えてきた海千山千のおじさん達、ということで、そういう面子を迎えた矢野さん、聴く方の楽しみ方もさることながら、演奏する方も、Rascalsの曲も含め、そういう風に楽しんでいたのが印象的だった。

本当に上手な人たちが楽しんで演奏してくれるのは、本当に聴いていても楽しいものです。

2009年8月27日木曜日

捩子ぴじん あの世

23/08/2009 マチネ

おおー、なんか、久し振りに、センスの良い舞踏を観たなー、という感じだったのだ。
舞台上のでっかい氷の塊と、開演後出てきて氷を切り始める美術家と、関係なく出てきてぷるぷる踊り始める捩子氏。
美術家と捩子氏の関係は最後までわかんないのだけれど、そのインタラクションがなぞなぞで、
「一体何をひそひそ話していて、何を捩子氏の腕に書き込んでいるのか。読めるのか?」
「なぜ美術家は捩子氏を抱き上げるのか?」
「あの叫び声は何か?」

あれー、いろいろ、面白いことが舞台上で起こってるんだけど、
「このダンスのタイトル、なんだか意味深そうだったのは覚えてるんだが、何だったけか?」
と思ったら終わった。

アフタートークで上記疑問への答が聞けたりもしたんだけれど、何より、変なストーリーとか意味づけとかに囚われてなくて、自分の考えていることと舞台に乗ることがどれくらいrelevantなのかに焦点が当たっているところに、おおー、さすが。と思ったんである。

少年王者舘 夢+夜

22/08/2009 ソワレ

体調の悪いときに休んでりゃいいものを、観に行こうか行くまいかうじうじ悩んでいたら、柴幸男氏が大絶賛しているのを読んでしまったものだから、
「こういうときは血反吐はいても観に行くのが務めである」
と、スズナリへ。

結果、血反吐は吐かなかった。体調も、むしろ良くなった。と思う。観てる間だけは。
天野演出の芝居は観たことがあったけれど、少年王者舘、劇的に面白かった。少年王者舘、おそるべし。

僕の小さなキャパシティで理解していた「芝居」なるものは、もとより作・演出の脳味噌の想定を「超えた」ものが、劇場という場によって、また、観客の眼を通して、産まれるプロセスだと思っていたのだけれど、

一個人の妄想がことば・役者・音・光・劇場全体を支配してしまうおそろしさ。この芝居は天野氏の妄想の外側には一歩も出ていないはずなのに、その妄想の世界の広さ・深さにおびえてしまった。なんという妄想のキャパシティ。そして妄想なのにコンマ一秒まで精緻にできあがっとる。僕にはそこまで自分の妄想を寸分漏らさず直視する勇気はない。

登場人物も、色んな名前がついているけれど、結局、作・演出の分身その1、作・演出のアニマその1、分身その2、アニマその2、分身その3・・・、と、結局出てくる人みんな作・演出の分身で、そこには「役者の自我」なんてものが介在する余地はひとっつもなく、それを嬉々として演じる役者の潔さ。その世界にぐいぐいと呑み込まれて行く事のエクスタシー。

これだけ自身の妄想で凝り固まった世界を創れる人ならば、芝居でなくて他のメディアを使った方が、呑みこまれる方の入り易さも増す筈だし、80年代風言葉遊びを使わずにシーンを繋げる筈だ、と、すこーし思ったりもするけれど、やっぱり、
「この速さでは、そちらにタイミングよく着けません」
みたいな「物理的な限界」を敢えて妄想の世界に持ち込むことで、世界が自転・公転するスピードを制御しているようにも思えて、それもおそるべし。

2009年8月26日水曜日

イデビアン・クルー 挑発スタア

22/08/2009 マチネ

2年前に「政治的」を観てかなりぶっ飛ばされたのは今でも忘れないし、今年春のコウカシタもなかなか好きだったのだけれど、今回の「一族郎党海辺の恋の物語たち」は、何だか物語が仕草に勝って、上手くノれなかった。

日常の何気ない動きが、抽象的な動きと物語性の間を行ったり来たりゆらいで、観てる側は物語ではなくて動きが抽象されていく様に引っ張られて時間が展開する様がとっても楽しかったのだが、今回はどうも、動きの抽象化の契機を失って、物語に引き摺られた「具象のなぞり」に落ち込んでるような気がしたのかもしれない。

ともあれ、老若男女幅広くにしすがもに集めて、最後まできっちりエンターテインしてくれる地力は素晴しいし、「寄せては返す恋の駆け引きは永遠に二人だけの世界」のシーンはとっても素敵だった。

今回を機に当面活動休止と言うことだが、活動再開されたらまたきっと観にお邪魔すると思います。

青年団若手自主企画 昏睡 再見

21/08/2009 ソワレ

初日から4日目ともなると、さすがに余計な力は取れているんじゃないかと思って出かけたが、余計な力は見当たらなくとも、力を抜いている場所は見当たらず。演出・役者ともに息継ぎをする場所が見つからないまま芝居は続く。7対11でサッカーしている感じである(ちなみに最近のCarling Cupで、Swanseaは4人退場、最後は7人になってたそうです)。

まぁ、だからといって、力の入れ加減・抜き加減があからさまに見え出したら、それはそれで面白くなくなっちゃう気もするし、じゃあオレはいっぱいいっぱいの役者を観るのが好きなだけなのか、それじゃー「みなさんエンゲキがんばっててよかったですぅー」と一緒ってことか、やっぱり出来不出来はあるだろー、と言われそうなのも癪に障る...とにかく、例によってヨメに責められるところの「贔屓の引き倒し」で申し訳ないが、そのストレッチの様はどうにも面白いし、変に手を抜かれてないからこそ、妙な細部がどうにも気になって面白く観れるところもあるってことなのだ。

この日も90分間あきずに観続けて、最後のフラッシュバックに差し掛かったところで、あぁ、こうやって、人は、昏睡に落ち込むのだろうか、、と何となく思ったのである。90分間めいっぱい演じられた舞台の裏側の暗闇がチラッと見えて立ちすくみ、
・ もし自分が昏睡の中、夢の中にいるのならば、それが醒めないでいますように
・ どうか舞台がこのまま昏睡の暗闇に落ち込みませんように
という、二つ合わせると全くロジカルではない、祈りのような感覚に襲われた、というのも、それもちょっとだけホントです。

2009年8月25日火曜日

初期型 The Pop

19/08/2009 ソワレ

前回アサヒアートスクエアで"Dumb!"を観たときの「突き抜けることへの意志」とあのスピード感、疾走感をアゴラに持ってきたら、ひょっとしてとんでもないことになるかもしれないと期待していたのだ。

が、むしろ、アゴラの空間を(狭さの故か)持て余していた感がある。どうも動きから加速度が削がれている気がして、それは(色んな小技もあって)観ている側にとってはエンターテイニングな域に踏みとどまっているにせよ、むしろ演じている側がフラストレーションを感じているのではないかと疑われた。

そのフラストが、後半のカワムラ氏の「天井鉄パイプ雲梯アゴラ2周」の荒業に繋がったのではないかと、勝手に推測する。それと同時に起きていた「客席背泳ぎ」の方がむしろ今回の舞台の中で最も「速度をもって進んでる感じ」がしたのが印象的だった。舞台の上で加速度を出すのって、難しい。

青年団若手自主企画 昏睡

17/08/2009 ソワレ

初日。青年団山内健司氏(ほんとーに若手じゃないぞ!)の企画に兵藤公美・「乱暴者」神里雄大を迎えて、かつ、戯曲が、去年のエーブルアートで小生を大泣きに泣かせたこふく劇場の永山氏なのだから、これは観に行くしかないでしょう。サマーソニックと並ぶ当家の一大ファミリーイベントと言って差し支えございません。

当初から「これきりで済ませず、永く続ける企画です」と言ってある上演のど初日の開演前、このわくわく感を家族三人でじっと待つ感覚は、ちょっと忘れられない。

開演直後、いきなり「力漲る」山内氏が登場してから90分間、2人の役者出ずっぱりで駆け抜ける。駆け抜けるといっても「疾走感」はなくて、ドロドロの湿地をトラクターが黒煙吹き上げながらエンジン吹かしっぱなし、但し速度は問わない、といった趣である。

僕はそういう舞台をむしろ堪能したのだけれど、帰り道は朗らかな家族の会話よりはむしろマジ話に近く、焦点は専ら演出家泣かせだったに違いない永山戯曲。
「できが悪い」と切り捨ててしまえるのか。
「なぜ山内氏はこんなにやりにくい戯曲を選んだのか」
「これからどうなっていくのか。戯曲をいじるのかいじらないのか」
「山内氏は初日だから力が入っていたのか」
「兵藤さんは良かったよねー」
「ラス前のフラッシュバックのシーンは良かったよねー」
等々。

今回もう一度観られる僕は幸運だと思う。この初日のドロドロは結構肥沃だ、という予感はある。

2009年8月20日木曜日

肉体関係 48

14/08/2009 ソワレ

おー、京極氏、身体動く動く。富松氏、ほっぺた膨らむ膨らむ。
このユニットのエッチ度はどこまで上がるのか? と思ったのだが、
終演後お2人にもチラッとお話しましたが、どことなく、初日だったからなのか、アウェー感が最後までただよって、もったいなかった。

48手、手を尽くしながらも不発というか、突き抜けないというか、そういうフラストレーションは感じざるを得なくて、もしかすると、演じている方は、観客が乗ってこないのにフラストレーションを感じながらだったのかもしれない。

いずれにせよ。もーーっといけるだろ!なーに出し惜しみしてんだよ!(オレは知ってるぞ!知らんけど)
という気がしたんです。

飴屋法水 3人いる! 再見

20/08/2009 マチネ

飴屋演出による多田淳之介戯曲「3人いる!」の日替わり12バージョン公演、2度目。
美術・音響・照明・趣向全て変えて、でも台詞は多田戯曲にほぼ忠実に。

第一印象は、「あぁ、芝居の演出ってこんなに楽しそうなことなんだ」ということで、
① 演出家の「解釈」を説明する、あるいはそれにそって戯曲を「説明する」演出
② 戯曲の世界・可能性を押し広げる可能性としての演出(そういえば、多田氏がこないだ1+1が何になるかを愉しむ、とか書いていた記憶があるな)
の2通りがあるとすれば、まさに②のプロセスは、楽しいに違いない。観ていても楽しいし。

で、その可能性の拡張に気がつくことに、「上演される演劇を観ること」の愉しみがあるのだとすると、今回の日替わり12バージョンは、観客にとっても創り手にとっても、その気付きの契機として提示されているのではないか、とちょっとおもったわけである
(残念ながら、そうだとすると、小生は、リトルモア地下を2回訪れるまでそれに気がつかなかったのだが)。そうか、そういうひとまとめでのパッケージというか、展示というか、そういうものだったのか。なぁ?

ちょっと待てよ。そもそも、本来、芝居って同じ演出でも1回1回違うんだし(観客の客層も含めたトータルの劇場のあり方は、絶対に違う)。でも、だからといって毎日観たりはしないし(僕は何度も観たりするけれど)。そう。だから、大抵の観客は1回きりしか観ないよ。芝居って。

だから、
①「今日の飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら複数回リトルモア地下に行くこと
②「飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら1回だけリトルモア地下に行くこと
③1度リトルモア地下に行ったことをすっかり忘れてしまって、もう一度「飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら再度リトルモア地下に行くこと
この3つは、本当は、同じように楽しめるはずなんだ。「1回きり」を味わいつくすということに命かけてたら。

でも、僕は、「3人いる!」飴屋演出を2度観るまで、それに気がつかなかったわけだ。
まだまだ、修行不足。

今回バージョンの印象としては、ウンジンさんのバイリンガルな頭が、うちの娘のバイリンガルな頭の脳内プロセスとシンクロしている感じがして、とても興味深かった。
例えば、うちの娘は、英語⇒日本語、日本語⇒英語の翻訳を常にしているそうで、そしたら、考えてるときは何語で考えているかというと、どうも、トピックによってそれが切り替わってる感じなのだ。
すなわち、言語Aのわたしと言語Bのわたし。その橋渡しをするわたし。わたしは、3人いる。
そういう感じ。それを娘にも伝えたが、どうもピンとこなかったみたい。

2009年8月16日日曜日

サマーソニック2009

08/08/2009 - 09/08/2009

不調な中ででかけたサマーソニック2009、自分的には不発、まぁ、色々と考えさせられた2日間だった。

7日の雷雨の中の 9 Inch Nails は凄かったらしいが、小生は仕事で不在。ま、そもそも聞きに行かなかったとは思いますが・・・

8日は、All American Rejects が予想外に良いバンドで、これは収穫。Placebo のすべりまくるMCとカッコよい演奏のギャップを愛で、Elvis Costello のロッケンローラー振りを堪能(ギターソロがちと長いか)。Specialsは素晴しかったけれど、聴衆は80年代ロンドンの怒りを共有できてない様子で、ライブを共有する幸せ感に欠けた。ラインアップが小生にとって意地悪なつくりになってて、Tom Tom Club 中抜け、CSS はきけずじまい。

9日はRazorlightからユニコーンとスタジアムで流して、Gogol Bordelloへ。こりゃ凄かった。Gogol を Pogues と較べる向きもあるがそれには小生反対で、Shane McGowan のリリシズムはGogol にはない。東欧風の音をNYで聞かせるならBalkan Beat Box の方が僕好みだし。ただし、会場の盛り上がりは凄くて、みんな百姓一揆のように前へ前へと殺到し踊り狂うとる。一曲目から様子見だった小生は結局取り残されて、「なんじゃこれ?」のまま終演。

『ランバダ百姓パンク』

とでも名付けましょうか。小難しい怒りは不要。とにかくもやもやと不満があって、ええじゃないかと踊れよ騒げよ、ただし、そうやってけしかけるステージ上の奴らにはきちんと計算があって、「この百姓ノリなら世界中どこでもウケるに違いない」なところがランバダの再来を思わせる。エスニックのようでエスニックではない。

こういうバンドも大事だし、頭っから否定するわけでもないんだけど、でも、やっぱしおれは、Specialsのライブで "Doesn't Make It Alright"をみんなで唱和したかった。そういう方が良いよ。

飴屋法水 3人いる!

07/08/2009 ソワレ

12日間日替わりの第7日。
多田淳之介作の「3人いる!」はとても好きな戯曲で、これを飴屋氏が演出するとなればこれは見逃せない。とはいうものの、12日間日替わり全部観るわけにはいかないし、昔あった「In Through The Out Door のジャケット全種類買い揃えました」みたいなのもどうよ、という思いもあり、「2回だけ」観ることにしてます。

台詞はほぼオリジナル台本どおり。固有名詞などの細部とラストに変更。これは「転校生」のときと同様で、「台本に指定されていない部分」を加えたり、変えてみたり。立ち上がり若干すべり気味な気もしたけれど、戯曲の構造の確かさにも支えられて、グイグイ進む。飴屋氏の用意した趣向も、戯曲の進行と「並走して」進む。

その2つのラインが、どラストどう昇華するか、というのが楽しみで、こちらとしては泣く用意できていたのだが、どういうわけだか不発。最初のフレームの嵌め方が見事なだけに、残念。

終演後、N村氏と飲むも、そこでも小生不発。この不発感はなにか。芝居のせいで不発だったのではないのかもしれない。調子が悪いのかもしれない。

2009年8月8日土曜日

ニッポンの思想

1980年代以降の日本の名だたる秀才・論客どもが新書サイズにギュッと押し込まれてゼロ年代まで。因果は巡る20年、クラインの壷の内外を駆け巡りながら行き着いた先はどこか、いや、そもそも行き着く先などあったのか、といった風情で、大きな物語も小さな物語も所詮は新書300ページの夢に回収される。何者にも回収されじと逃げ惑う努力の儚さよ。

もちろん佐々木氏も登場人物どもをひょいと瓢箪の中に吸い込んで見せようなどという傲岸さは持ち合わせておらず、その意味で腰巻の「この一冊で、思想と批評がわかる」ってーのははったりついでの宣伝文句。ただ、思想の「きちんとした」読み手佐々木の20年余りを辿り、その立ち居振る舞いを自分のそれと(もちろん自分は中途半端で途中でほっぽり出す読み手であるが)どう違うかを手繰り寄せる作業は、多分に気恥ずかしさを伴いつつ、頭の整理体操になった。

自分を「ニッポンの思想」のコンテクストに嵌めるとすれば、まだ、80年代に縛られた発想を続けているんだなぁ、と感じた。でも、「逃げる」という動作を伴わずに、じっと地面に足をつけて立ちながら、同時に内と外の両方、あるいは、システムの中の(あらゆる場所ではなくて)自分で選んだ場所に立っていたい。瞬間移動。色即是空。だめかな?

パラドックス定数 五人の執事

05/08/2009 ソワレ

自分でコントロールできない仕事の事情とはいえ、開演時刻を20分過ぎてからの入場。パラドックス定数の芝居を考えると「開演後の入場お断り」と言われても仕方の無い状況だったが、入れていただけました。まずはこの場を借りて関係者及び周囲の観客諸氏にお詫び・お礼申し上げます。

なので、これを読んで小生が「誉めすぎ」と思ったなら「最初の20分観てないクセに誉めやがって」と思ってください。また、「この芝居を必要以上にくさしている」と思ったら「最初の20分観てないクセに何言ってやがる」と思ってください。

が、遅れて入ったからといって大きな筋立てのポイントを観逃したとは思っていない。残り70分の間に起きることで充分バックアップ可能な、「意外性」「新奇さ」に頼らないフレームになっていたからである。ストーリーの展開で引っ張るよりもむしろ各場面・局面での5人の男優の立ち居振る舞い・舞台の構図・ウケセメ(失礼ながら!)に視点が向くように創られているのである(もちろんあの、いかにもインチキっぽい、太宰の「斜陽」のような、過剰に丁寧な言葉遣いも含めてですが)。

そういう佇まいこそが、「わたしにとっての」パラドックス定数の本旨なのであって、それはとりもなおさず「何も芝居というメディアじゃなくても良いではないか」との批判に小生が「それは、そうですよね」と頷いてしまう理由でもある。「個」を捨てて「物語」や「メッセージ」「人間賛歌」に俳優の全てを捧げさせてしまう芝居は星の数ほどあるが、「個」を捨てて佇まいに俳優の全てを捧げさせる芝居はそんなには無い。と思う。そういう小説はあるが(高村薫)。

定刻前に入場していたツレ(パラドックス定数初見)も大方小生の見立てに異議なく、胸をなでおろす。芝居じゃなけりゃなんだということで、「敢えてキズをあげつらえば役者が若すぎる。年寄りの役者揃えて、映画でも出来るだろう」ということになり、キャスティングについて家族会議。
定番は軸にアンソニー・ホプキンスでキマリなんだろうけど、あえてハリウッド風豪華キャストに拘れば、
ニコラスケイジ・ブラッドピット・ジェレミーアイアンズ・ジョンマルコビッチ・イライジャウッド
では如何か。まぁ、自分で言っといてなんだが、これで嵌らないことはないけど、こんなキャスティングの映画観るなら、今日の芝居の方が千倍良いや。

2009年7月27日月曜日

三条会 八犬伝

25/07/2009 ソワレ

ツレに言わせると、小生は少しでも気に入った劇団の芝居に対しては点が大甘、少しでも気に喰わないと必要以上に点が辛いらしいが、けっ、当たり前だ、なんっていったって人間だもの(みつを)と開き直って、今回も三条会、面白かった。

未だに三条会のどこが面白いのかって説明するのに苦労してるのだけれど、実は三条会がやっていることは「テクストを語って見せること」で、それが「朗読」とか「物語り/メッセージ伝え演劇」に堕してしまわないのは、
役者の表情や身体や声が、物語の本筋からどんどんどんどん逸脱してしまうのに、気持ちよくお付き合いできてしまうからじゃないか、と思い始めている。

だから、三条会を観た後の感覚は、「物語の筋」が面白かったというのではなくて、子供の頃、大人(僕の場合は幼稚園の先生)に絵本を読んでもらった後の安心感・高揚感のようで、実は、絵本の時間が終わった後に覚えてるのは物語ではなくて、先生の表情とか声色とか、そういうものだったりした、それに近いのではないかと感じている。

「先生のように本を読みたい」と思ったのと同じような感覚で、「大川さんのように台詞がいえたら」とか「中村さんのようにヘラヘラできたら」とか思ってしまう。

「全ての台詞は多かれ少なかれ説明台詞である」のなら、それでよい。
説明台詞を口に出していったからといってそれが説明としての機能を果たす必要はないし、
説明台詞を耳にしたからといってそれをもって筋立てを理解する必要も無い。
劇場にあるものを味わい・味わわせる関係があれば幸せ。

そう思えばこそ、観る側としての自分の心の狭さ(大甘になったり大辛になったり)も少しは和らぐような気もするし、どうして三条会の芝居が好きなのかの説明も、少しは出来ている気がする。

しかし、「千葉城の天守閣の麓で南総里見八犬伝」だなんて、なんてぇ素敵な発想だろう。千葉っぽさは分からなかったけど、「千葉ならでの芝居」は少なくとも満喫した。

青年団国際演劇交流 Kyotonomatopee

24/07/2009 ソワレ

青年団にフランス人演出家、というと、ちょいと眉にツバつけてかかんなきゃ、と、この1ヶ月くらい考えていたのだけれど、失礼しました、とても楽しい1時間でした。

筋立てとか台詞とか、「人間は話す動物に過ぎないのではないか?」とかいう前説は要らない。そういう理屈っぽいところに拘ってしまうとこの公演は楽しめないだろう。鈴木智香子の声の響かせ方とか音程のコントロールとか、二反田幸平の動きとか、音程のバランスとか、古屋隆太の顔の動きとか声の切り替えとか、そういうのを一生懸命観ているだけで、すぐに時間が経ってしまう。スキットの切り替えも、全体のリズムを良い感じで生み出して良し。本当はもっと観ていたかったのだけれど、3人でこの酷使振りでは60分が限界か。

柴幸男の「御前会議」を観た時も、台詞を歌うってどんなことだろう、と改めて考えたけれど、これだけ開き直って、「全部が鳥の歌みたいなもんなんです」と見せられてしまうと、またちょっとだけ考えてしまった。

2009年7月21日火曜日

着脱式

18/07/2009 マチネ

去年の12月に「おととうごき」として都内カフェで上演されたもののパワーアップバージョン。前回は公開稽古しか観られなかったのだけれど、今回は「殿堂」セッションハウスで拝見。

そのパフォーマンスの凄みに、完全にやられた。

前日、カニクラを観て、

舞台上で台詞を言うということとは何でしょうか?お客に伝えることと、伝わることとはどう違うんでしょうか?舞台上で他の役者に対して台詞を言うとき、実はそれは、お客さんが「あぁ、他の役者に対して台詞を言っているなー」と感じてくれれば、実は本当にコミュニケーションをしていなくてもいいんではないでしょうか?だから、舞台上のコミュニケーションは、所詮インチキだから、インチキのままでいいんではないでしょうか?それではなんで役者は、一生懸命他の役者とコミュニケーションとるんでしょうか?いや、むしろ、コミュニケーション取れてない芝居の方に、「あぁ、ほんと、感動したー!」とおっしゃる観客が多いのは何故でしょうか?

ということについて考えたのだけれど、「着脱式」その問題意識の尖った突き詰め方において、未踏の極北を突き進む。さらに、

舞台上で舞うということは何でしょうか?1人で動いていることと、それを観客に見せることとはどう違うんでしょうか?動きに意味はあるのでしょうか?意味が見出せなければ、動きのすごさが分からなければダンスを観ても無駄なのでしょうか?

ということまで考えさせて、さらにさらに、そういう突き詰めた姿がとてつもなくエンターテイニングで時間を忘れさせるものになっていることに、すごく驚いたのです。

終演直前に観客席のどこかからデジタル時計の時報が鳴って、「あぁ、1時間経過か」と思わず思ってしまい、パフォーマンスに終わりの予見を抱いた時点で小生の集中は残念ながらおしまい。実はその後のところにツレは凄まじいものを感じたらしいが、それは逃してしまった。つくづくアラーム付き時計が恨めしい。

2回公演ではあまりにも回数が足りない。もっともっと色んなバリエーションでこの3人が一緒に立つ舞台を観てみたい。

2009年7月19日日曜日

カニクラ 73&88

17/07/2009 ソワレ

終演時に、それまで4人の俳優が劇場内に張り巡らせていたコミュニケーションの糸が、残像のように、あるいはまた中古の蜘蛛の糸のように、ぼやーっと残っている感じがして、それが気持ちよかった。

舞台上で台詞を言うということとは何でしょうか?お客に伝えることと、伝わることとはどう違うんでしょうか?舞台上で他の役者に対して台詞を言うとき、実はそれは、お客さんが「あぁ、他の役者に対して台詞を言っているなー」と感じてくれれば、実は本当にコミュニケーションをしていなくてもいいんではないでしょうか?だから、舞台上のコミュニケーションは、所詮インチキだから、インチキのままでいいんではないでしょうか?それではなんで役者は、一生懸命他の役者とコミュニケーションとるんでしょうか?いや、むしろ、コミュニケーション取れてない芝居の方に、「あぁ、ほんと、感動したー!」とおっしゃる観客が多いのは何故でしょうか?

ビシッと一発答が出るわけではないのだけれど、少なくとも、コミュニケーションの糸だけを、まるで、化学部の連中が木の葉を薬液に浸して葉脈だけにしてみせるように、舞台に載せてくれた。それが一種の高揚感やカタルシスに繋がったわけではないのだけれど、気持ちよく観れたことには間違いない。

あなんじゅぱす うたはもライヴ

15/07/2009

実はあなんじゅぱすのライブを聞きに来たのが初めてだったということに気がついて、自分でも驚いた。
谷川俊太郎さんが客席にいたのにも驚いたし、その前に土井通肇さんがいて、周囲の平均年齢が上がっているのを、大崎由利子さんが下げているのにも驚いた(他意はありません)。

谷川俊太郎さんが、途中、ひらた氏の唄のお休みの間に出て行ってしまったのには、でも、あんまり驚かなかったかな。

2009年7月18日土曜日

快快 My name is I LOVE YOU 欧州公演Work in Progress

13/07/2009 ソワレ

欧州遠征の直前公開稽古。
前半各自のテンポがかみ合わず、ちょっと「あれ?」って感じだったが、ガム合戦、妹登場で盛り返し、勢いがついて最後まで面白く観た。

千田氏の英語ナレーションも良し。エフェクトのかかったナレーションは、ちょっとYMOみたいで、というこころは、聞き取りにくくて意味も追いにくいんだけど、YMOは歌詞がわかんなくても充分面白かったし、快快も動きを追うだけで充分面白いってこと)。もちろん、千田氏のナレーションがYMO並みの下手な英語だというのではない。彼がナレーターとして醸し出す雰囲気が全体にプラスだったし、少なくとも彼くらいには喋れないと、ということでもある。

篠田氏は「これでストーリーが伝わるか?」みたいな心配をしていたけれど、どちらかといえば、リズムが悪いときは、「テクストが伝わってないんじゃないか?」という心配よりも「ノリがよくないんじゃないか」という疑い方をしたほうが良いと思うのだけれど。

今回もそうだったし、前回「りたーんず」での「アントン、猫、クリ」を観ながらもポヤーと考えていたのだが、テクストと身体の動きへの距離のとり方のバランスというか、アンバランスが、何ともびみょーだなー、と思う。身体の動きが無茶苦茶面白いのに、観客をひきつけていく上で、妙に素直にテクストを信頼している気がして。

説明しつくせないものがあるから、敢えて説明するメディア(本とかアジ演説とか)を避けて舞台上のパフォーマンスを選んでいるのに、そしてそこで面白くなるように動きや構成を選び取っているのに、一方で、「ロジカルに説明する」役割をテクストに担ってもらっている、そしてそこに信頼を寄せている、それも割りとナイーブに(あるいはナイーブに映るように)。

そこんとこ、本当はどうなんだろう?

まぁ、この作品がハンガリーやスロベニアやオランダで受けるかどうかは、僕らハンガリー人やスロベニア人やオランダ人じゃないから分からない。でも、少なくとも横浜で見たワークインプログレスは面白かった。そこが拠り所なんだろうと思う。

五反田怪団2009

11/07/2009 ソワレ

ソワレも何も、怪談やるのに昼公演はないだろう、ということではあるが。
芸達者前田司郎+フレンズに、「演劇界随一の霊能力集団(談:前田氏)」である青年団員を加えて送る怪談ナイト。平台の上にろうそくも立っていかにもそれらしく、エンターテイニングな2時間だった。

個人の話芸と、出演者のそれっぽかったりそれっぽくなかったりする演技のバランスと揺らぎが絶妙で、話芸大会にもホラー芝居にも落ちない、ちょっと陳腐な言い方で申し訳ないが、上質のエンターテイメントになっていた。やっぱり、役者に力がある。堪能。

桜町元の成熟も良かったし、坂口辰平のインターチェンジ6連発など小技の見所も沢山あって、大いに愉しんだ。

2009年7月14日火曜日

私の頭の中の日ハム

11/07/2009 マチネ

青年団の工藤倫子、女優生活9周年を飾る演芸イベント、「9周年」だなんていう中途半端な年数の合わせて、かる~いタッチの出し物2本立ての趣。これを称して試演会というべきか、秘演会というべきか、はたまた私宴会と呼ぶべきか、ちと迷うが。

ともあれ、前半のモノマネシリーズは、僕はあんまりテレビ見ないので短くて何より。後半の三人芝居は猪股御大を擁して、中学の制服姿の2人は中村座を思わせるところもちょっとある(さすがにブルマはなかったけれど)。

それにつけても気になるのは、当日飛込みで入ってきた近所のお母さんと2人の小さな息子達。終演時には姿を消していたが、一体どこで退場したのか?やはり、瞼にパッチリ目を描いてあるヘップバーンメイクに恐れをなしたのではないかと思われるが、どうか。どうぞこれに懲りず、今後とも家族みんなで芝居小屋に足を運んでいただきたいものです。

2009年7月12日日曜日

七里ガ浜オールスターズ 向日葵と夕凪

10/07/2009 ソワレ

4人の達者な役者陣が、線の細いありきたりで説教臭さただよう戯曲に、斜に向かうことなく丁寧に対峙していた。

戯曲の弱さというのは、4人の登場人物を束ね展開を支える偶然(物語を進める上での必然)の突っ込み方の弱さに始まって、細部のことばの選び方にも及ぶのだが、そういう弱さに対して、「こうやって変えて料理してやれば何とかなりそうだ」とか、「これじゃーできねーよ」とか、敢えてそういう態度を取らないという選択が、プロダクションとしての潔さとして取れば良いのか、それとも、妙なやさしさとして「ぬるい!」と言えば良いのか、迷うところ。

想田和弘 「精神」

「タブーに挑む」ことは売り文句の部分が9割以上で、実際に映画を観るに際しては、タブーだかどうだかはほとんど関係ない。

僕は常日頃、観客に観方に関して余地を与えない映画・芝居はカスだと思っているが、そして、どんな映画にもそうした余地を見出してしまう逞しい妄想力を持ち合わせる人もまた知っているが、こういう、「観客が余地を見出さない余地を与えない」つくりの映画は初めてだ。

監督自らが「白とか黒とか主張するのではなくて、グレーを示したい」とか「自分が現地で感じたことを、映画の観客に追体験してもらいたい」と述べるような映画で、かつ、観客側からも「どのようにもとれる」「必ずしも監督の感じたとおりに感じる必要は無い」ような出来上がりになっているところに、監督のセンスを感じた。

別の言い方をすると、「観察映画」なのだから、観客の見方の自由度を高めようという意図はあるだろうし、実際かなり高まっているのにも拘らず、「そういう風に映画を作ろう」という監督の意図・方向感が非常に強烈に感じられて、従って、全篇を通して、想田監督のすっごく強い自我の影を感じながらでないと観ていられない映画なのである。

また別の言い方をすると、「映画なんて観る人によって見方は十人十色なんだから、らく~に観て下さいね~」というのではなくて、「いいですかー、頑張って観て下さいねー、どうやったって、あなた自身の観方で観ないとどこにも行かない映画なんですからねー、はい、じゃ、監督は裏っかわでじっと観察してますよー、」と、「自分の観方で観るように仕向けられていることを絶えず感じざるを得ない」造りになっているようにも思われた。

だから、すっごく面白い映画であると同時に、すっごく疲れる映画である。
想田監督、すばらしい技量と強力な自我の持ち主だと思った反面、ちょっと怖くなってしまったのである。

2009年7月7日火曜日

地点 あたしちゃん、行く先を言って

05/07/2009 マチネ

格好悪いけど、正直に言います。途中、何度もうとうとしました。
同じ台詞・フレーズが繰り返されるシーンは、特に、つらかったです。

ホント、コンテクストを剥ぎ取られたものを、あるいは、剥ぎ取って残されたコンテクストの残滓のようなものさえ取り去ろうという、あるいは、コンテクストのタネを観客が落穂広いすることさえ拒絶しようとする意志が強烈に働いている舞台を目の前にして、僕のちゃちな「妄想力」や「物語への回収能力」は余りにももろかった。
以下、言い訳ばかりにはなるが:

やはり、コンテクストへのとっかかりが無いものを見せることは、かなりの「実験」だと思う。
「何も劇的なことが起こらない」青年団の芝居でもやっぱり「外にあるはずの物語」や「人間が身に纏っているコンテクスト - 仕草とか服の皺とか台詞のいい淀みとか」、あるいは、そこに意識してあるいは無意識に現われる「破れ」に、僕はコンテクストを見出そうとしているのだし、実際に見出せるし
多田淳之介のLoveやCastayaも、台詞や舞台装置の助けを借りずにコンテクストを創り上げるプロセスを、観客として愉しむための仕掛けは用意してある。
台詞のないダンスを観る時も、剃った頭の青さとか足の指とか、そういうとっかかりがあって、
いや、大事なのは、おそらく、創り手の側も、それをある程度期待(あるいは、それが言いすぎなら予想・許容)しているのだ。普通は。

ところが今回の三浦基の「実験」は、そもそも、「太田省吾の全テクストを切り刻んで、コンテクストとしては編まずに、でも一定の選択を加えた上で、舞台に載せる」という、コンテクストから離れる強烈な遠心力を働かせながらコアには太田省吾さんの重力があるという、二律背反から始まっていると思われる。

例えば、途中、小林洋平がブロックを積みながら戦後演劇の政治性(コンテクストに嵌らなければ現代演劇足りえないとされていたこと)についてフレーズを繰りかえすとき、それはもちろん、テクストの意味を伝えつつも、そうやって、「意味・主張の偏重」に対し一定のメッセージを伝えているように聞こえながらも、そのテクストの政治性を拒絶し、一定のコンテクストとして伝わってしまうことを強烈に拒否しているのだった。

そういう演技を目の前にして、自分の妄想スイッチを入れることが出来なかった自分は、弱い。でもこんな、強烈な意図が先走った、何の誤魔化しも許さない舞台は、多分、その意図がクリアーに舞台に乗れば乗るほど、観客を眠くさせてしまうだろう。
二つの強烈な意図の間に「ガクン」と落ちて目を覚ますプロセスを繰り返すばかりになりゃあしないか。来年1月の吉祥寺シアターがとっても楽しみではある。

ロハ下ル セインツ・オブ・練馬

05/07/2009 ソワレ

千穐楽。
文句なしの失敗作、と呼んでも失礼に当たらないと考える。これだけの書き手、役者が揃って、開演2分後から最早面白くないのだから。ひとえに、戯曲の問題と見た。
初めて山中作・演出の芝居を観た方はこれっきり来なくなっちゃうかもしれないが、それは是非思いとどまった方が良くて、「いや、次は面白いと思いますよ」と言い切っちゃっても、これまた差し支えないのではないかと考えるのだ。
1回表に一挙7点(満塁ホームラン一本含む)取られて負けた阪神の試合を見るようで、それはそれでスカッとしている。おそらく、これまで山中芝居を観たことのある誰しもが、「今回は失敗だ」と思ったに違いない。それは、次回作ではきっと修正されるに違いない。
(もし皆がそう思っていないとすれば、それは、問題だと思う)

2009年7月5日日曜日

SPAC スカパンの悪だくみ

04/07/2009 マチネ

なんともエンターテイニングな舞台で、かつ、静岡も初めてでないからか、客席の暖まり方とても良く、かつ客いじり・反応の見方も含めて演じる側にも戸惑いが無い。外国語字幕つきの上演であることを意識してか、テンポを若干落とした上演なのではないかと思うが、それでいてグルーブを失わずにがっちりと観客をつかみながら進める手管、観客としてはとても幸せな舞台だったのだろう、と思う。

「と思う」といってしまうのは、まぁ、力のある舞台でかつエンターテイニングだから文句のつけようは無いものの、僕の好みではないからで、また、そういうところで巧みに間合いを計られてまんまとやられておいて、カーテンコール4度・5度はちとやりすぎか、とも思うからです。

途中歌に入ってインチキミュージカルになるところは、まるでFlight of the Conchords そのまんまで、思わずとっても嬉しくなってしまったが、Flight of the Conchordsそのままじゃん、ってことは、まぁ、舞台に載せずにDVDにしても同じくらい面白いかもね、ってことでもある。

面白いし、愛されてる舞台だな、とも思ったけれど、じゃあ、オレの面白いと思う芝居ってどうよ、と、ちょっと考え込んでしまった。

2009年7月2日木曜日

城山羊の会 新しい男

01/07/2009 ソワレ

1時間45分、全く時計を意識せずに最後まで観てしまった。とても面白かった。
前回の「新しい歌」もとても良かったけど、城山羊の会の芝居、どんどん面白くなっている。
他の役者さんも良かったからこういうことを言っては大変失礼になってしまうけれども、三浦俊輔が出色だった。
黒田大輔は「ぜーはー」が許されてしまう日本で唯一の役者なのではないか、と書いたことがあるが、前言撤回。三浦俊輔も「ぜーはー」絶対に許される。

<以下、ネタバレ>

本当に、古舘氏の「実況中継」シーン、古舘さんにはほんっとに悪いんだけど、オレ、三浦氏と本村氏の顔しか見てなかったし。だいたい、自分の彼女が古舘にやられている描写を、あんな嬉しそうな困ったような顔で聞けるヤツ、いるのかい?あ、ここにいるよ、ここに、てな具合である。本当にやられた。

熱出しておかしくなっちゃう三浦氏を囲むシーンは若干デジャヴュで、何だっけと思ったら、そうそう、ハイバイのおねがい放課後、三浦バージョンでの古館対三浦ってのがあった、そのドロドロ半妄想シーンに似たものがあった。いずれも良い、ってことなんだが。

みんながみんなして最後まで「死ぬ死ぬ」言ってるので、僕はてっきり、最後、おかしくなっちゃった三浦氏か石橋氏がどっかで人を傷つけて入ってくるとか暗転するとかいう展開になるんじゃないかと、そう思っていたのだ。というか、山内ケンジ氏にも大変失礼ながら、「若い夫」もそうだったし、今回もそーかなぁ、などと、ナメたことを考えていたのだ。
唯一死にそうに無いのが変態古舘さんで、ま、これはこれでいっか、みたいな。

が、後半もド後半になって、「あ、こいつら、だれも死なないな」と思い始めるのである。登場人物が死ななかった理由もわりと「はずみ」「たまたま」だったりするのだけれど、逆に言えば、死ぬ理由、というか、死ぬ直接の引金もやはり「はずみ」なのである。で、ぼくが三浦俊輔に期待していたのは、実は、その、「はずみ」を引き起こすことなのだった。

しかし、山内氏がそれに気がついていないわけが無く、つまり、舞台上で起きることに本当の「たまたま」があるはずはなく、舞台上のたまたまは必然なのである。当たり前だが。

死ぬってことが、いかに「はずみ」なのか。言葉をかえると、死ぬってことがいかに不条理であることか(うわ、かっこいい)、というのがずーーんんと見えてきて、あ、そこに、深浦さんの気配が。

2009年6月29日月曜日

SPAC ふたりの女

27/06/2009 ソワレ

こら、静岡に来てるオランダ人、フランス人どもよ、これが日本のフィジカルシアターの伝統を、歌舞伎⇒赤テント⇒遊眠社⇒と受け継いできたところの、ニッポン現代演劇の現在形だぞ、めぇかっぽじって見てろよ!
といいたくなる、幸せな舞台だった。

冒頭でてくるコートの男は、唐戯曲だけあって「田口」さんかと思ったがはずれ。が、むむむ、この男対女、この女の人の微妙な頭のネジの外れ方と一人二役は、きっと、緑魔子様だったに違いない、そうするとコートの男は石橋蓮司さんか、と思いながら観た(後で解説読んだら見事当たり!)。

でも、そういう懐かしさにこの舞台の心地よさがあるんじゃなくて、唐さんの力強い戯曲を、きちんと宮城演出で静岡にのっけているというのが素晴しい。

「唐さんみたいに」「第七病棟みたいに」じゃなくて、こんな風に、宮城さん風に、でも奇をてらわずに、唐戯曲を舞台に載せてみせる力と敬意とに、本当、おそれいった。もしかすると、この戯曲の原型が「源氏」にあったために宮城さんとしては「やり易かった」(失礼)のかもしれないけれど、それにしても、良かったなぁ。

SPAC じゃじゃ馬ならし

27/06/2009 マチネ

オランダのカンパニー「トネールフループ・アムステルダム」によるじゃじゃ馬ならし。
印象としてはイーストエンダーズ(イギリスの長寿ソープオペラ)に近くて、男は酒飲みで乱暴で、女は勝手でうるさくて言うこときかなくて、でも愛し合ってるのよ、みたいな。
大作家シェークスピアの戯曲を、こんなにモダンに下品にやってみせちゃったよーん、みたいな。

プロデューサーが開演前のトークで、「芝居は簡単だ」といっていたのが良く分かる。
おそらく、この劇団は、色んなものが、舞台に乗っている下品なものやベタなストーリーや何やらが、「伝わるものだ」という前提で芝居をやっている。もちろん、洋の東西でコードは違うかもしれないけれど、でも、基本は伝わるものだと思ってやっている。
そうでないところ、伝えきれない役者の立ち、観客個人の見方等々によって色々変わってくるんだ、というところには思いが至っていないように思われる。
だから、つまらない。つまらなかった。

先々週のインドから来たパフォーマンスは、コードが違って、基本伝わらないことを前提にやっている。だから、変な押し付けが無いんだ。その差は大きい。また、日本の劇団がヨーロッパに行ったときに、「基本は伝わるもんだ」というように思われてるとすると、これは、結構、やばい。そう思う。

冒頭の繰り返しの音楽が Arrested Development の Ease My Mindのイントロだったところ(なつかし!)、出てくる俳優・女優が、顔立ち、体型、色んなところでみーんなまさにオランダ人で、あぁー、オランダの劇団なんだなー、っていうところにはちょっと食いついたけど。

劇団江本純子 セクシードライバー

26/06/2009 ソワレ

初日。いまや三島賞作家となった前田司郎氏をタクシー運転手の役で迎える贅沢な2人芝居。
上演時間80分のうち60分は前田司郎ショーの体で、すばらしくエンターテイニングな演技を堪能した。

戯曲自体は可もなく不可もなく。安藤玉恵さん、悪くは無いけれども、冒頭の説明シーン等々、遊びに遊びまくれる前田パートと比べるとかなり割を食っていたんじゃないかという印象。

本番中は、前田氏が笑うたびに上の歯(結構歯並びが良い)が見えるのがどうにも目に付いて、安藤氏の口元もじっと見てるうちに、あぁ、人間の鼻から上顎にかけての形って、こういう風に人によって違ったりするんだー、と、妙に感心してしまう。

芝居後も強く印象に残ったのは前田氏の上の歯と、微妙に捩れた立ち姿。帰り道、だれも居ないところでニカッと笑ってみたが、僕は笑っても歯が出ないみたいだ。

2009年6月25日木曜日

西村和宏+ウォーリー木下企画 ハルメリ

24/06/2009 ソワレ

実際のところどうだったのかは聞けなかったけど、舞台を拝見した限り、幸せなプロダクションだったのではないかと思われた。すっきり気持ちよく観ていられた。

まず、戯曲が優れた出来で、焦点が個人⇒全体⇒個人という風に、一点感情移入型も鳥瞰神の眼型も許さないよう、程よいタイミングで、明確な意図を持って、しかもスムーズに移動する。役者17人使った「群像劇」にわざわざしてみせる「意義」がしっかりとある。
テーマそのものは、口が悪い言い方をすると「ありがち」なのかも知れないけれど、それを、焦点をずらし続けることで、一個人とか一つの主張とか、「群衆って怖いよね」とかに収斂させない。その収斂しない、物語の一つの線として回収させない中心の空洞に、これまた「ハルメリ」なる「ことば」を据えて、と書くとなんだか天皇制を扱った芝居みたいに聞こえるかもしれないけれど、必ずしもそうでもなく、でもそうとりたい観客はそう取ればいいさ的な、平田オリザの言葉を借りると「雰囲気と言ったほうがいいのかもしれないこの感覚」に満ちて、最後まで飽きさせない。

関西からいらした木下氏も、オーディションで集まった役者陣も、その優れた戯曲に妙に斜に構えることなく、すっきりと、かつ、自分の解釈を互いに、あるいは観客に押し付けず、素直に立っていたと思う。それが気持ちよい。

息子役の山岡氏が前半にフレームを嵌め、中盤からアイドル長野海が引っ張り、が、決して自分の物語として舞台の空気を回収することなく群像の中に帰っていく。テレビ討論のシーンは、そのテのテレビを全く見ない小生にはちょい苦痛だが、「ネタ」としてでなく「舞台」として見せることを心がける演出に救われる。

そうやって、1時間45分かけて、物語や主張ではなく、舞台の空気を提示して見せたプロダクションに敬意を。こういう引き合わせが、(少なくとも観客にとっては)幸福な化学反応を起こしたことについて、西村氏に感謝。

青年団日仏交流企画 鳥の飛ぶ高さ

22/06/2009 ソワレ

うーん。
青年団の役者陣無し、かつ、平田オリザ無しでは、この作品はきっと不可能だっただろう。
でも、青年団の役者と平田オリザの台本でこういう作品を観たいとは思わない。いや、思えない。
そうなってしまう。
カーテンコールで拍手鳴り止まず、4回も5回も役者が出てくるのを観ると、もっともっと複雑な心境である。

僕のヨメがフランス人のカッコイイ男と仕事の都合でディナーに行ったりして、その男が、構造主義とかポストモダンとか詳しくて(この、「ちょっと古い」加減がポイント)、かつフランス人のエライ人を紹介してくれたりして、レストランに行っても周りが、「あらあら、あの2人はとってもお似合いね」みたいな反応で、僕の友人も、「いやー、君の嫁さんはあーいう場だと映えるね」なんて誉めてるんだか単に俺を貶めてるんだか分からないコメントをして、あー、ホント、ムコとしては面白くねー。  っていう感情である。 チェ。面白くねー。

もともとの芝居が1970年代なので、マーケティングコンサルとかMBAとかの描き方がティピカルで古臭いのは仕方が無いか。いや、むしろ、劇中の構図とか二国間の文化交流とか、そういうのが露骨にティピカルなジャポニズムと「二つの文化だよ!」というステレオタイプのフレームにはまっている演出だから、そういうフレームに合わせるにはコンサル・MBAは今回のように描かれる必要があったのだろう。

ただし、ムッシュ・シラクが米国留学中に恋をしたとか、巴里のアメリカ人だとか、そういう仏米間のなんともいえない蜜月関係を日仏間の関係に置き換えるのは、決してムリとは言わないまでも、微妙なところで芝居のバランスに負の影響を与えていたと思う。少なくとも日本人の僕にとっては。
フランス人はきっとこういうの見て喜ぶんだろう。フランス人が演出してる芝居なんだから。

観てる最中は、商売柄もあって、
「年少180億の会社で無借金、EBITDAいくらかな?4億の借り入れ、軽いよね?」とか
「こんなコンサルは90年代のビジネススクールでも古臭いって一蹴されてたよね」とか
そういうツッコミを心の中で入れていたのだが、いや、入れつつも、2時間15分、けっして長くは無い。
白神ももこの、そこはかとなく彼女の匂いを主張する振り付けも、にやっとさせて良し。
ホント、冒頭の永井氏・山内氏はじめ、本当に青年団の役者って力があるなー、と見入ってしまうし。

でも、面白くなかったんだ。つまんない、って意味じゃなくて、オレは面白くねー。と言う意味で面白くなかったんだ。
この芝居が誉められると、フランス人の演出家が、
「ほら、オレが青年団の役者を演出すると、こんなに誉められるんだぜ」
って鼻たーかだかになりそうなのも面白くないんだ。

あぁ。面白くない。でも、皆さん、観に行くと良いと思います。

あ、そういえば、サイモン・マクバーニーの「象消滅」「春琴」もちょっとそういう匂いがしてたな。

2009年6月23日火曜日

本能中枢劇団 シリタガールの旅

21/06/2009 ソワレ

うーん、おじさん臭い物言いになってしまって申し訳ないのだけれど、
「よくわかんないんだよなー、こういうの」
と言うしかなくて、いや、確かに、チラシも当パンも開演前に読んで、どうかなー、って思ってたんだけどやっぱり
「よくわかんないんだよなー、こういうの」
と上演中思っていて、まぁ、確かに1時間20分、眠たくはならなかったけれど、うーんうーんとおじさん臭く心の中で唸っていたのです。
色んな局面で、笑いを取りに来てるのかそうでないのか(多分、あそこまでステレオタイプに近づけた動きを役者にさせるのであれば、それは単にギャグを狙ってるんじゃないだろう、よね?)というところも含めて、最後までピンと来ず。
なまじ僕の嗜好のストライクゾーンに近付いてきて、それがために「怒!」となっちゃうようなことも起きず、最後まですれ違い。

ほんっとおじさん臭いけど、趣味の違う芝居、として括ってしまいたくなってしまった。すみません。

モモンガ・コンプレックス 研Q。

20/06/2009 マチネ

モモンガ・コンプレックスの日頃の研究成果をキラリ☆ふじみの展G会議室に展Gして、さらに出し物もあり、という、何だか、女子校の文化祭に遊びに来たような企画。
モモコンはそもそもしかめっ面して腕組みして見つめるモダンダンスじゃないんだけど、上履き脱いで迷い込んだ子供がO喜びしてる、いかにもモモコンらしい、気持ちのE出C物でした。

出C物の方は、うどんあり、顔あり、チャイコフスキーFき踊り(弾き語りに対抗)あり、一反もめんあり、最強の振りあり、カーテンコールは何度もあり、と、なんとまあ飽きの来ない小ネタ連発。30分飽きることなく過ごしました。

前回の「初めまして、おひさしぶり」でも思ったのだけれど、ともするとK量Qなものとして流されちゃいそうな、でも実は見逃せない着想を、一つの出し物として1時間くらい、ときにはケレンでもってもったいぶったりしながら、どうやって上手く構成するのか、という手管が次の課題かな、と思いました。素晴C研Q成果でした。

2009年6月21日日曜日

田上パル 報われません、勝つまでは2009

20/06/2009 マチネ 

よしっ!よしっ!よしっ!もひとつおまけによしっ!
前回の改造☆人間では今ひとつ芝居に元気がなかった田上パルだが、母校桜美林に帰ってのこの芝居は素晴らしいできばえ、初めてパルに出会ったときの衝撃を思い出させた。パル、元気です。

冒頭、コージ役の熊木さん出てきて、「あぁ、やっぱり、前回観たとき(再演時)の時よりも顔が大人びてるなー」と思ったのだけれど、いらぬ心配で、全篇男子高校生の甘酸っぱさ(もちろん、汗かいたウェアを洗濯しないで放置するので甘酸っぱい芳香を放ち始めるのだが)全開の1時間半。

目を見張ったのは海津忠で、青年団でも、はたまた、「新宿八犬伝」でも、こんなに声を張った海津氏を見たことがない。眉もきれいに揃えたのか妙に高校生で、これがはまった。聞けば途中怪我のせいで平岩氏とキャストスイッチしたらしいが、それも正解。でも、逆バージョンも絶対観てみたい!と思ってしまう。ゴジゲンの松井氏もよし。紅一点二宮氏加わって、ブラちょい見えのまさに男子高校生向けサービスシーンもパルならでは。パルらしい芝居を堪能した。

次回作「青春ボンバイエ」。なんちゅうおバカなタイトルだよ。期待高まる。

太田省吾へのオマージュ 更地

19/06/2009 ソワレ

素晴しい戯曲。演出・役者、オシイ!美術、良し。
ということで割合に気持ちよく家路につけるはずだったが、アフタートークでかなりの部分、ブチ壊し(この4文字、MSPゴシック48ptのつもり)。

拝見しながらずーっと、「あー、これ、いき座のお2人でやってくれないかなー」と思っていたのだ。舞台上に載せられた9×9=81個の"mundane"な、ありふれたモノたち。それとマッチするかのように、戯曲に書かれている台詞もそのmundaneさを備えていて、まさに「台詞をおきにいく」とピッタリくるんじゃないかとおもったり。

下総・佐藤の中年ペアは、ややもすろと、そういう、本来余計な色を削ぎとったところで充分面白いはずの台詞に着色してみたり(おそらく、一語一語から生まれるはずのイメージをニュアンスにこめて、とか、そういう作業をしていると思われた)、もっとゆっくり、自分の間合いで続けて構わないところで先を急いだり、というところがあって、それで、あー、これは、いき座で、狭い小屋で、かつ、役者が動けないように、妙に捩じれた格好で縛られてたら最高なんじゃないかなー、とか思っていたんである
(大変勉強不足な小生は、この戯曲の初演が瀬川・岸田ペアで演じられていたことを全く知らずに、上記のようなことを考えていたんである)

16歳の頃を語るシーンで一瞬力が抜けかけて、ふわっと浮きかけたが、そのまま、ズンズンズンズン演出家が意図するスレッドから逸脱してくれてたら、と、そこが惜しかった。

アフタートーク、美術の小山田氏のトークは面白く、特に、81個のモノたちの動きについて「動くと意味が付きそうでしょ?でも、意味がついているような居ないような、それくらいの動きにしたかった」というのには非常に説得力あり。が、そこでうなづいていた阿部氏、何でじゃあ、意味を着色するような演出を敢えてしたのかなー、と思ってたら、その直後に、「自分が勝手に着色した意味」について滔々と臆面も無く話し続けた!「自分の解釈押し付けるようなチープなトークしてんじゃねー」(ここの部分DF特太ゴシック72ptでお願いします)と思わず頭に血が上って、知人へのアイサツもそこそこにして、毒を振り撒かずに退散した。

アフタートーク、もう、いやだ。

2009年6月19日金曜日

乞局 芍鸝

18/06/2009 ソワレ

乞局、ほぼ1年ぶりに拝見。
文字通りの神話というか、物語の共有というか、そういうものを割りと正面から取り扱って、まさに「いわゆるストレートプレイ」である。
脚本的・演出的にリスクの多いことをしていると当パンには書いてあるけれども、変なリスクがあるようには見えずに観ていられたのは下西氏の力量か。

そうなるとやっぱり気になるのは、近頃僕の頭に取り付いている「物語の所在」ということ。つまり、どうやってそこらへんにうじゃうじゃしているゲル状の物語の素を引っ張ってきて、「これが物語ですよー」といって提示して見せるか、あるいは共有するフレームを作るか、それとも強弁してみるか、ということなのだけれど。

この「芍鸝」は、プチメタ構造も含め、そこに対してはわりとストレートにぶつかっていて、そこには大きなリスクは無いだろう。そうすると、この芝居のリスクと言うのは、そうやって、上に僕が書いたように、「これって、神話の創生と崩壊と再生の話ね」と、チープな客にチープに括られてしまうリスクなんではなかろうか、と、これは半分自己批判入りつつ、考えた。

アルトロジー チェンチ一族リーディング

17/06/2009 ソワレ

神里氏は野球部だったそうだが、僕が神里氏のいるチームの監督だったら、神里氏に対して出すサインは、いつも、「満塁ホームラン打て」ではないかと思う。
9回裏ワンアウトランナーなし、3対1で負けてる局面。バッター神里。サインはもちろん、「満塁ホームラン打て」だろう。そして、そのサインを見た神里氏は、表情一つ変えず打席に向かうのだろう。

このリーディングを拝見した後、そんなことを考えた。

もちろん、そこで本当に神里氏が満塁ホームランを打つのかどうかはあんまり問題ではない。更には、神里氏の振るバットにボールが当たるのか、はたまたかすりさえするのか、ということすらも問題ではない。もっと言うと、そこが野球場であるかどうかも、実は関係ないだろう。

問題なのは、僕の眼には、
・ レフトポール際でグルグル腕を回してホームランをコールする宇田川氏と、
・ ふと眼を向けるといつのまにかマウンドにいてガックリ膝をついてうなだれてる菅原氏と、
・ 外野席でネクタイ鉢巻に締めて赤い顔でメガホン振ってる真田氏、
それに、ホームランなのに無駄にヘッドスライディングするランナーやベンチを飛び出すチームメイトやマイク握った報道陣、といったものがくっきりと見えて、

サヨナラ満塁ホームランを「本当に」目の当たりにしたのか、そうでないのか、ということは、僕にすらも関係なくなってしまった、ってことなんです。

アルトーの戯曲は、そういう意味で、9回裏ツーアウトランナーなし。5対0で負けてる局面である。そこでもちろん僕は満塁ホームランのサインを出したわけである。

2009年6月15日月曜日

東京デスロック Love (桜美林バージョン)

14/06/2009 マチネ

2年前の初演時に比べて、やってることに自信が満ちて、良い意味で生硬さが抜け、豊かな再演になったと思う。明らかに倍音が増えて、音色が豊かになっていた。

初演時に思ってたことは、ちょっと長いけど、こんなこと。
http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2007/10/love3.html

(以下、抜粋)***********************
「LOVE」では、その3人の「世界」「背景」すらも取り去った状態から芝居が始まる。背景の無い剥き出しの身体を舞台に載せたところで、どうやって虚構を紡ぐことができるのか。(中略)虚構の梃子の支点は、次の2つ:
①音楽。「これ、誰がかけたんだ?」と考える、つまり、何らかの意図を感じた途端に、世界が広がる。
②夏目登場。この男の、まるっきりコンテクストに囚われない立ちは何なんだ?強烈に色んなことを考えてしまう。

"LOVE"においては、観客は、すごく少ない小さなチャンスに自分の想像力を賭けることを強いられているのではないかと。少なくとも僕はそう感じた訳です。そういうきっかけを探しに行かないと入り込めないように出来ているのではないかと。

多田氏は、そうやって勝手な想像力が膨らむことを観客に許す。いや、勝手に膨らませることを強要する。そのための仕掛けだけはちょっとだけ残しといてくれている。その「ちょっとだけ」が、どんどんデスロックの芝居から剥ぎ取られていく。
(抜粋おわり)***********************

豊かになったってことは、観客が妄想力・想像力を働かせるきっかけが、役者の立ちも関係のとり方も、色んなものひっくるめて、多くなったんじゃないか、ってことだと思う。剥ぎ取ったところから、逆に豊かなものが、「寄り添うべき物語・設定等々」を介さずとも、妄想の枝葉に繋がってくれる。そして、そういうきっかけを散りばめても、「ありがち」にいかないように気配りがしてあって。なんか、すげーなー。
芝居って、楽しいよなー。 そう思ったんです。

SPAC プ・レ・ス

13/06/2009 ソワレ

当日はブラスティッドの初日が満席でキャンセル待ち報われず、静岡芸術劇場での「プ・レ・ス」までしばらく時間をつぶして臨んだ。

が。こりゃダメだ。
冒頭、パフォーマーが立つ空間の中に流れる音は、
「これって、時代設定不明な近未来風だよ~~」な音楽。喩えるなら、ハイバイ「kobito」 の劇中劇での「ぺぽぱぱぴぽぱぽ」に近い。それじゃ文字、文字。シナガワユキコさんにご指導いただいてください。
そしてそこに立つパフォーマーのたたずまいは、デビッド・ボウイが一時期組んでたTin Machine の、微妙に8年くらい古臭くて外してる感じ。
と言えばよろしいでしょうか。

「プレスされる空間で躍りつづける男」ってことなんだけど、同じ設定を見るなら、ぜひドリフで見たかった。アイディア一発で、あとは、「オレ、面白いでしょ?でしょ?」っていうアピールのみ。チャーミングさは皆無。

あ~あ。こういう詰まんないパフォーマンスの後って、フランス人は絶対になが~くて理屈っぽいアフタートークするに違いないと思って、アフタートークは聞かず。
本日の静岡、1勝2敗(うち不戦敗1、コールド負け1)。

2009年6月14日日曜日

SPAC 半人半獅子ヴィシュヌ神

13/06/2009 マチネ

これは、とんでもなく素晴しいものを観てしまった。
あの眉間の動き、眼球の動き、顔の筋肉の一つ一つを別々に鍛えて何十年だよ、と思ったら、パフォーマーはなんと82年生まれのうら若き女性で、それにも驚く。声も響くし身動きも軽い。
1時間半、本当に飽きずにパフォーマー1人+太鼓隊を見続けていられたのだ。

指の動き、手の動き、首の動き、足指の緊張の度合い、全てに、おそらく意味づけがあって、神話を語る上での文節になっているのだろうと言う印象を持ったのだが、果たしてアフタートークでは、「動きには全て文法がある」とのこと。お神楽みたいなものか。

きっと、インドケララ州の人々は、あの恐ろしく優雅な動きの一つ一つから、一定の物語を「読み解いて」いくのだろう。そして、「ははぁー、ヴィシュヌ神の威光おそるべし。」と何度も何度も思うのだろう。語り手の高い能力の裏側に、人々は神の姿を透かして見たりするのだろう。

その意味で、僕が全く文法を理解しないままこのパフォーマンスを素晴しいと思うのは、全く知らない言語を聞いて素晴しいと思っちゃうのに、実は近いのかもしれない(例えば、女性がフランス語をしゃべってると、意味わかんないのに何だかモナムゥ~ルな感じがしちゃうとか、そういうこと)が、まぁ、そうだとしても、すごいものはすごいのだからしょうがない。

こういう素晴しいもので神話を見せられると、思わず改宗しちゃう人も出るかもしれないな。こうやって布教して回ってたのかな?まずは身体の動きでおぉーっと思わせておいて、そのままお祈りに入っちゃうみたいな。などと、罰当たりなことを考えながら観ていたのだが、それはまぁ、それとして、今日の公演は、すばらしかった。

アフタートークで出演者も指摘していたが、観客側の集中力も高く、客席にいても幸せな時間だった。

ハイバイ リサイクルショップ Kobito 再見

12/06/2009 ソワレ

・ 初日以降稽古を重ねて積み重ねるところもあるだろう
・ 役者が慣れてきたら、それを壊すための仕掛けもしてあるだろう
・ あと、気になっている、「物語は、あのざわめきの中のどこにどう埋まっているのか」を突き止めるために、
ということで、再見。

2日目に比べて、かなりこなれた印象。グルーヴ感がまして、上演時間はほとんど変わらないのに、時間が速く過ぎた。「ざわざわ」部分ののりしろの処理を施した由。うん、完成度上がってる。でも、役者が「これでいいのかな?」と思いながら、あちこちバリが残りながらの上演、ってのも悪くないとは思っているのだけれど。

あぁ、それにしても、物語はどこにあり、どうやったらひょこっと地上に姿を現し、どのようにして共有されるのか?この芝居を再び観て、何だかそればっかり考え始めた。冨子さんや山本さんの物語は、どうしてそのお店の中で共有できるのか、なんで観客もそれを観ていられるのか、本当にそれらの物語は登美子さんや山本さんに特権的なものなのか、それとも、聞き手がいてこそ成り立つものなのか?あれ?僕はそもそも彼女達の物語をどう受け止めているのか?

劇空間の物語への寄りかかり方が、14歳りたーんずの「グァラニー」や「少年B」に似ている気がしてきた。みんなに話すと、「そりゃ違うよ」と言われるから、多分違うんだろうが、でも、そしたら、なんで似ている、って思ったんだろう?色々考えてしまう。

2009年6月9日火曜日

ハイバイ リサイクルショップ Kobito

06/06/2009 ソワレ

前作「て」で一人称口語演劇から一歩踏み出した(と勝手に僕は思っているが)ハイバイ岩井秀人氏の新作は、都下のリサイクルショップに渦巻いて(クダ巻いて?)ざわめく「集団としてのおばさん」(当パンの「何人かで一つの生き物」というのはまさに言いえて妙)を三人称(永井若葉)の視点でばっちり捉えて、最後まで目が離せない。

<以下、ネタバレ>

と思いきや、後半になると若干趣を変えて、おばさん2人の一代記になっていくのだけれど、これが何とも微妙な味わいで、前半に見せた「火の鳥未来篇」の劇中劇と同様、おばさんたちの人生は仲間のおばさんや出入りの不動産屋によって演じられて、一体全体、「この人たちの自我はどこに存するのだ?」というザワつき・不安が最後までつきまとう。

ラスト、カセットに入った曲をカラオケでかけてみんなで歌いだすと、それは恰も「火の鳥未来篇」のラスト、山之辺と珠美の魂が宇宙生命体と混じりあうシーンにも似て、「火の鳥」って読んだ当時小学生の僕は「なんのこっちゃ」と思ったのを思い出しながら、今回のざわざわ感、
「複数で一人感」をたっぷり堪能いたしましたですよ。

だから、何も「前半だけ」「後半だけ」にしなくとも、(何事もすっきり回収してしまおうとする)大人の視点でも十二分に愉しめる芝居だったなぁ、と思うわけです。

有川マコトさんと19年ぶりに話できたのも良かったし、岩瀬亮さんのこういう演技が見られたのもとっても良かった。岩瀬さんは是非こういう舞台にどんどん出てほしい、と思います。

2009年6月1日月曜日

二騎の会 一月三日、木村家の人々 再見

29/05/2009 ソワレ

初日に観たのが余りにも気持ちよかったので、再度お邪魔した。
やっぱりいい。
作者と演出と役者陣が互いに敬意と信頼をもって芝居をしている、感じがした。いや、大抵の芝居はそうなんだろうけれど。
えーと、そうです。きょうび、作・演出を兼ねるケースが多い中で、作者と演出の間の緊張関係が、気持ちよく表に出ているのって、気持ちよい。
昔JATPが来日した時のエラ・フィッツジェラルドの歌伴がポール・スミスだった気がするけど、その2人の関係の気持ちよさのように気持ちが良い。べたっとせずに寄り添ってる感じ。

もちろん役者もとても良いのだけれど、どうしても二騎の会を観ると作者と演出家の関係について考えてしまう。

唐組 黒手帳に頬紅を

24/05/2009 ソワレ

雨の雑司が谷鬼子母神、豚インフルエンザ上陸などものともせず集いたるつわものたちの、何故か空いている最前列下手側に忍び込んで役者の飛沫を浴びる。

丸山厚人のいない客入れには若干の寂しさを覚えるが、芝居の方は相も変わらずの唐ワールド全開、黒い革でできた「(最早僕の脳内では)こうもりくん」が赤松由美の胸をねぐらに遥か南にあったという斜坑の中を自在に飛んで、ちぎれた翼を取り返す。

小説「朝顔男」にも黒い手帳は出てくるのだけれどそっちの小説は今ひとつで、今回同じモチーフを使った芝居がどうなってしまうのかちょっと心配だったけど、要らぬ心配だった。唐さん演ずるターさんは金粉ショーの自虐ネタを繰り出すサービス振り(年配の客にしか分からないかも)がチャーミングで、今回初見の大鶴さんも、ひょっとすると今しかお目にかかれないのではないかという危ういバランスで少年を演じていた。丸山はいなくとも古株・若手ともに健在、大いに愉し
んだ。

二騎の会 一月三日、木村家の人々

23/05/2009 ソワレ

多田淳之介自身は「宮森戯曲を好き勝手に演出している」と言うけれど、でも、こんなに多田氏が戯曲を大事にして演出している場って、無いんじゃないかと思ったりしている。

客席に対して270度開き、ではけの奈落まで観客に晒した舞台が、多田氏の真冬な格好での前説(こりゃベタだ)もあいまって「おままごと性」 「ごっこ性」をフレームとして示す。そのフレームを背負いながら、フレーム自体で遊ぶというよりも、「フレームを意識しながら、ごっこの虚実をすきーにら くーに行き来してみて下さいね」みたいな感じが、心地よい。

小河原氏の背中の曲がり方が、笠智衆さんにそっくりじゃないか、小津の「麦秋」みたいだなー、とか、携帯のダイヤルの仕方とか、細かいところを見てても飽きず。細部に隙が無いからこそフレームで遊べるってところはある。

後半長男が連呼する「家族なんだから」って、なんかの芝居とイメージが重なると思ってたら、5日くらいたって思い出した。ハイバイの「て」で長女が言う「だってみんな集まったんだから」だ!
何が共通してるかって、「家族の絆、理不尽なり」ってことだろう。

イキウメ 関数ドミノ

23/05/2009 マチネ

あー、上手に作ってあるお芝居だなー、と思ったり、お芝居というよりどちらかといえばシナリオ、っていう感じだなー、と思ったり。

こういう筋書きに役者が奉仕する芝居ではどうしても「細部の愉しみ」が犠牲になって、芝居観てる途中で「ラストどんでん返しの予測」に走ってしまう。それ、別に楽しくなくは無いので文句を言う筋合いのものではないが、必ずしも芝居小屋で観たいとは思わないかもしれない。

そういう意味では、役者陣も、筋書きを壊さない、きちんと盛り上げるという点で、素直でよい役者がそろっているってことなんだろう。若い役者がこういう「壊さない」お行儀の良い演技をしているのを見ると、どうにも血がざわざわする。
もっと、全然言うことを聞かない役者が見たくなってしまう。

2009年5月20日水曜日

タテヨコ企画 夜まで待てない

17/05/2009 ソワレ

何度でも言う。横田修よ、客入れの挨拶はしないでくれ。ぜったいに君の客入れのほうが面白くって、その後に芝居しなきゃならない役者がかわいそうだ。

と、お定まりを一発かました上で、この芝居。うーん。よく出来てて、役者も良くて、観てて安心できるんだけれど。
①これだけ味・クセのある役者を惜しげも無く使った1時間20分、贅沢だ。 といえば、誉めことばなんだが、
②これだけ味・クセのある役者が、たった1時間20分の中で与えられる持ち時間は極く僅か。かえって、窮屈な気がしちゃうんだよなー。限られたスペースの中で自分の持ち味を出そうとする・あるいは抑えようとする、そういう役者の努力が、なんだか不憫というかイタいというか。
どうしても出捌けの回数が増えるから、見た目にもゴチャゴチャしてしまうし。

オレ、もっと、一人一人の持ち時間、「滞空時間」の長い芝居でタテヨコを見てみたい。この役者陣なら二幕物途中休憩あり2時間30分の芝居でもきっと大丈夫だよ。おー。それがいいよ。あとは、そういう芝居を書ききれる横田修がいるかどうかだよ。
あー。それ、観てみたい。マジで観てみたい。

新国立劇場 タトゥー

17/05/2009 マチネ

前日観ていた神里氏が「良いとか悪いとかじゃない」と言っていたけれど、僕も「面白いとかつまんないとかじゃないのかなぁ?」という印象で新国立劇場を出た。

戯曲自体は全然つまんなくって、なぜ皆さんこういう戯曲を「過激」とか「衝撃的」とか平気で言っちゃうのかわかんない、そういう人は何を観るにしても「衝撃の結末」が観られないとお金を払った元手が取れなかったと感じる人なんじゃないかと一通り毒づいておくが。まぁそういう人々には、今度世田谷でやる"Blackbird"は超お薦め。エディンバラで観た初演では、ラストマイナス5分までは力のある芝居だったのに、ラスト5分で笑撃の結末。劇場を出ても(笑いの)震えが止まらなかったが、日本ではどうだろう(僕は観に行かないので誰か結果を教えて下さい)。

問題は、岡田利規氏の演出。そういうつまんない戯曲とか、役者とか、音楽とか、舞台とか、客席とか、そういうものを、「ポンと置いた」という印象が非常に強かった。「ポンと置く」というのは、舞台の要素として主従関係を持たせず、お互いにもたれさせずに「ポンと置いて」いた感じ。
これが、岡田氏の言う「コンクレート」なのだろうか?

戯曲に縛られずに舞台に立つ、とか言っちゃってる割に、やはり戯曲に目が行ってしまうのは、観客としての僕の弱点である。思えば平田オリザの戯曲も、「台詞で歌わせない、語らせない」みたいなことを言っていて、もちろんその通りなんだけど、役者としては戯曲にもたれざるを得ないところはある。で、そこから抜け出して戯曲との距離をとりに行こうというのがこないだの杉原邦生の「14歳の国」の苦労でもあったのだが、それを、岡田氏は「ポンと置い」ちゃって、一気に戯曲と役者と演出と観客の関係を遠近なく提示して、これが芝居のエッセンス、って、これ、きっついよ。

面白かったって、いえないよ。面白いんなら、「三月の5日間」とか「フリータイム」の方が、まだ面白いよ。でも、いやーなものを観てしまった、という不安は確実に残る。この不安は是非共有したくなる。

2009年5月19日火曜日

FUKAI PRODUCE 羽衣 麻霞と夕霞と夜のおやすみ

11/05/2009 ソワレ

Fukai Produce 羽衣、拝見するのは今回で4度目だが、これまで観た中で最も「完成度が高い」パフォーマンスだった。一つ一つのシーンを長尺で回して、それを長いと思わせない。俳優一人一人の演技の滞空時間もギリギリまで伸ばして、これ以上やるとワンマンショーの寄せ集めになりかねないところで踏みとどまっていた。すごく「成熟した」感じがして、こんなにみょーなことをしているのに、最後まで安心して観ていられた。

もちろん全員絶叫コーラスも、H台詞も楽しい。巣恋歌さんが歌い始めたときには「あぁ!すごいさんだ!」と思ったものの、ほんとの名前を思い出すのに時間がかかった。西田さん、ごめんなさい。藤一平さんの息を切らせながらのパフォーマンスにも泣く。そしてラスト「ほうっとこう?」の台詞にもやられる。

ここまで来ると、「お願いします。次も面白くなるよう、お願いします!ここに安住されませんように!」と祈るほか無い。

(&) So Weiter / 日本武徳院 / 東京日仏学院 「雪」

16/05/2009 ソワレ

フランス人の作・演出・出演+居合の師範+フランス人ギタリスト+日本人パフォーマーという組合せで南青山の能楽堂を使ったパフォーマンス。
能楽堂に入るのは生まれて初めてなのでちょっと期待していたが、と同時に、ヤン・アレグレの上っ面な日本趣味に余りにも合致した取り合わせなので危惧もそれ以上に大きかったのだが、やはり後者が前者を圧倒的に上回って・・・

客席には、芝居好きよりもむしろ「フランソワーズ・モレシャン」を含むフランス人+日本人フランス語関係者が多数詰め掛けて、どれどれ東西の融合とやらを見物してやるかという風情だったが、果たしてどれくらいの人が「これはちょっと」と思ってくれたのだろうか、などと考えてしまう。むしろ「日本の人はやさしいから、こんな上っ面のパフォーマンスにも全力でつきあってくれるんだぁ」と思われたらいやだな、とか。

居合の刀の動きが、テレビや映画の時代劇と比べてゆっくりなので、「あぁ、時代劇の殺陣がフィルムの早回しだって話は本当だったのか」と、その場では思う。今にして思い直すと、それは香港のカンフー映画の話なんだけど、居合もそうなのかもしれない。

ギタリストがいろんな音を拾ったり繰り返したり、というのも、単品では面白くないこと無いけれど、「上っ面ニッポン」のフレームの中ではいかんともしがたく、まぁ、観に来た自分を責めるしかあるまい。

2009年5月16日土曜日

14歳の国 千穐楽

04/05/2009 ソワレ

もう2週間近くも前のことになるのだけれど、忘れる前に書く。
千穐楽の日になっても、13時半集合で稽古。まぁ、稽古といってもそんなにかっつりがっつりでは最早無いが、やっぱり、邦生くんとコージくんは試したいことがいーっぱいあるみたいで、こいつら、やっぱり業の深い人たちだ、とつくづく思ったことである。

お客様は大入りで、かつ、前日コージ君とたまたま出くわした宮沢章夫さんがいらっしゃるということで、楽屋は明らかに緊張していた。いや、いつも緊張しているのだが、それよりもおそらくちょっとだけ緊張していた。もしかしたらいつもリラックスしていて、まるっきり緊張していなくて、それが、ほーんのちょっとだけ緊張したのかもしれない。ま、そんなことはどうでもよくて。

終演後、アゴラまで立ち話もなんだから、ということになって、ほぼ自然発生的に宮沢氏×杉原邦生のトークがアゴラ1階ロビーで始まって、そこで聞いてる人たちは「なんかもったいないから」客席に残ってる朝日カルチャースクールな聴衆じゃなくて、ほんとに聞きたくて残ってる人たちで、だから、

僕はシュトゥットガルトで弘前劇場を見た後に現地のおじさんとたどたどしい英語で芝居や家族の話をして、そこに長谷川氏も加わって大いに話が盛り上がった時と同じような幸せな感覚を思い出したのだけれど、

後日宮沢氏のブログにもヨーロッパを意識したコメントが載っていて、それじゃあ、あの時のちょっとした幸せ感はちょっとだけでも共有できていたのかなぁ、と思った次第。

ポケットからタバコを取り出したら一緒にユキのひとひらがぽろっと落ちて激しく動揺したこと以外は、芝居のことは覚えていません。さすがに10日も経つと。

サンプル 通過

15/05/2009 ソワレ

初日。
処女作の再演ということだったのだけれど、確かに、カロリーの消費→家族の肖像→伝記 と来て、その延長線上に位置づけるよりも、シフト→地下室→・・・(それ以前は残念ながら見逃しているので)と先祖がえりしていく感じはする。そういう意味で、とても松井周っぽい芝居だった。

でも、そういう「歴史」とか「フレーム」で芝居を捉えること自体にはあんまり積極的な意味は無くて、むしろ、フレームの中でどれくらい「はみだすもの」とか「回収し切れないなにか」がにじみ出てくるかが問題なのではないかと。

アフタートークの内野氏が、「僕は青年団を認めませんから」から始まる、非常に男気あふれかつ分かりやすいトークを繰り広げて、それにも大満足だった。
彼が何故青年団を認めないか、何故青年団周辺の若手の芝居を観るのか、が、非常に良く分かった。必ずしもすべてにおいて同意は出来ないけれど、氏が青年団の芝居に対して抱えている問題意識は自分のそれとさほど変わりが無いのではないかとも思った。
(今でこそ言うけれど、ユリイカを読んで以降、僕は、内野氏がなぜ青年団と新劇を近いものとして捉えていたのかがどうも良く分からなかったし、それがために、『この人はとんちんかんなのではないか』とすら思っていて、それで、14歳りたーんずの杉原組が内野氏にちょっと誉められてたらしい、と聞いて、複雑な心境だったりしたのです)

「通過」には、もちろんある程度の物語があって、メタ芝居につながるフレームがあって、その処理の巧拙というものは、あらゆる芝居にあるように、この芝居にもある。実際、「通過」においてそれは「巧」である。でも、そんなもんは、いずれ批評家の眼や観客の眼によって回収されてしまうもので、その意味において、ディズニーや四季やハリウッド映画と変わりはしない。「芝居」にとっての勝負どころは、だから、そこで説明しきれないもの、その場でしか味わえない何か、ということで、松井周の芝居は、それを決して分かりやすく提示せずに、でも、演出はそれを意識しているのに違いない、と思わせるという点で、成功している。

うん。で、内野先生のトークを聞きながら、「彼は奥泉光の小説はどう捉えるのだろう?」と思ったりもしたのです。奥泉大先生のように、本当にキャパシティが大きくて、推理小説やSFのフォーマットを借りて、そこにべたっと近付きながら、説明しきれないもの、テクストを読まねば浮き出してこない、説明では回収しきれない何か、を提示してしまう偉大な作家を思い返すにつけ、

松井周よ、なにも、毎回、君の変態リビドーから入ることに拘らなくったっていいじゃないか。と思っちゃったりしたのである。もっとずるーく、観客で星のホールを埋め尽くせちゃう位のことができるキャパシティは、松井氏は持っているんじゃないか、と思ったりしたんです。

2009年5月9日土曜日

14歳の国 稽古35日目、本番5日目

01/05/2009 稽古35日目
18時入り。
1場・2場通して、感覚をつかみ直すのかなー、と思いきや、3時間、延々と、どうやったら芝居がもっと壊せるかを、試してみていたのだった。
この日記を書いている時点で千穐楽終わっているからいえるが、ここでやった「スズカツ切れる」は、まぁ、すごいインパクトがあった。
僕は涙を流しながら稽古続けたもの。まじで。
これを「マジギレな雰囲気を出さないと集中できないダメな役者達」ととるのか、「壊すならここまでやりきるぜ、という気合が漲っている」ととるのかは、予測不可能だけど。
結局、こりゃ受けきれないな、と言う結論に達して稽古時間終了。

翌日の本番に繋がるかは分からないけれど、ずっと記憶に残る稽古だったことは間違いない。

02/05/2009 本番5日目(16:00)
客入れ直前に、ひつこく、「スズカツ切れる」をやってみた。スタッフさんにも大うけ。でも、本番ではやらないことにした。
あんまり良く覚えていないんだけれど、
「稽古しないほうがかえってよかったかもしれない」と演出は言ってました。

蜻蛉玉 すこし、とまる

30/04/2009 ソワレ

むかーし読んだSF短編物語で、四次元の人が何か大事なものを三次元の世界から四次元の世界へと持ち去っちゃって、それを取り返すために悪戦苦闘する、という話があった。
相手は四次元の人なので三次元にいる僕らには見えないのだが、そういう四次元の人とどうやってコミュニケーションをとるかといえば、その四次元の人が三次元に現われる「切り口」を捕まえて、そこでコミュニケーションとる(なんだか分からない肉の塊をくるくる回して、先方の感覚器官を三次元空間に露出させた!)っていうプロットがあったのを覚えている。

何でそんな、「すこし、とまる」とはまるっきりモチーフを共有していないエピソードを冒頭に持ってくるかといえば、それは、四次元を三次元に写し取るのと同じくらいに、現実世界を舞台の上に落としこむことは難しく、また、はなから、「全部」だったり「正確」であったりはしない、ということを言いたかったのだ。だから、舞台に載っているものだけを観て、それが一見して作者の自意識を幾ばくか反映しているからといって、それが作者の自意識の総てではない、ということである。作者の自意識は、もっと高い次元に畳み込まれていて、僕らの目には見えないところにあるのです。

「蜻蛉玉」の芝居が面白いのは、いつ観ても、その、作者の、高い次元に畳み込まれた自意識が漏れ出す様が面白いからなのです。いかにも、「漏れ出している」からなのです。前にも書いたけれど、「私の自意識を受け止めて!受け止めて!見て、見て!」とあからさまに振舞ってはいない。けれど、より高い次元、僕らの見えないところに何かが隠れているのを感じる。それがじとじとと浸み出している。それが気持ち良い。

今回の「すこし、とまる」は、自殺未遂の兄とその妹と、二人が共有しているようで共有し切れない記憶の話。現代口語演劇のつくりを、全体を鳥瞰する「神の目・三人称」派(代表平田オリザ)、自分の視点で見えるものにこだわる「一人称」派(代表岩井秀人)に乱暴に分けるとすると、この芝居は兄の視線を共有しようともがく点で「二人称」なつくりになっている。そこらへんもまた、自意識の浸み出し方に関連しているのかもしれない。

兄の病床を基点にして記憶の幕をぐいっと開いて、そこからこぼれでるものに着色して舞台に載せる。兄の記憶そのものはモノクロだったに違いなく、その褪せた記憶に妹が自分の好きな色を塗って、そうなったところで、共有されるもののそもそもの出所は曖昧になっていく。

そういう話です。そういう芝居を観ていると、「島林愛とは何者なのだろう」という興味が湧いてくる。かといって、何度この芝居を繰り返し観たところで、答は出ない。畳み込まれた四次元の世界への想像(あるいは妄想)が広がるばかりなのだが、それが芝居を観る醍醐味の一つなのだと、僕は思う。

だから、芝居のネタを解説してくれるようなポスト・パフォーマンス・トーク、っていうのは元々あんまり好きじゃないのです。上演後、島林氏が絵本を朗読している間、僕は、「ひょっとしたら、島林氏の自意識は、この「見て見て」なパフォーマンスの表面には無いんじゃないか。むしろ、島林氏がいない空間に、ひょっこりと、畳み込まれたものがはみ出てくるのではないか」という妄想を払いきれず、じっと虚空を睨んでいたりしたのです。

2009年5月2日土曜日

あなざーわーくす ヴェニスの商人~逆襲のシャイロック~

16/04/2009 ソワレ

初日。思いもかけず稽古OFFになり、いそいそと西荻窪へ。
やっぱりいいわ。ホント、凝り固まった頭が柔らかくなる。お芝居を観たり演じたりすることの楽しさが、細胞と細胞の隙間から身体にしみとおる感じ。
芝居の稽古が続く中で、わりーに舞台の上で自閉しがちな小生にとっては、客席に向かってどう意識を開くか・あるいは閉じるか、というところで勉強にもなるし、突破口になりそうな気もする。

びふぉー・あふたーとーく出演の岩井氏も期待にたがわぬ演劇Loveぶりを発揮。
でも、こんなのみちゃうと、三条会榊原氏やあなざ事情団組のもみたくなってしまう。罪な企画。

2009年4月30日木曜日

14歳の国 本番3日目・4日目

26/04/2009 本番3日目(14:00)
9時半入り。セッティングして、稽古。2場を中心に。その後、1場も通す。
おお、きちんと流れた、と、(勝手に)感じた。が、終演時、拍手なし。ポツドールみたいだ。ポツドールみたいだからじゃないけど、結構気持ち良い。

29/04/2009 本番4日目(19:30)
朝、劇評のブログを見つけた。自分のことが「現代口語演劇が立ち上がった頃の生きた化石みたいな演技」と書いてあって、うーん、と、我がことながら、うまく言ってるなー、と思ってしまう。
そうか。オレはやっぱりあの頃のように舞台に立っていたか。
16年前から進歩がないと別のところで言われたが、やっぱりそうか。
ま、少なくともそこから退化もしていないんだろう。ハンデは16年。
「現代口語演劇立ち上がり期の生きた化石」な演技とは何か?自分なりに考えると、妙なイロをつけないとか、余計なイロのつく動きをしないとか、そういうことだったように思う。そういう命題を背負ったときの「不自由さ」を、当時の演技は伴っていたような。だから、日本に帰ってきたときの「現代口語演劇」の役者達の演技の自由さに驚いたりもしたのだけれど。

1時入りで稽古。2場の新たに増えた段取のタイミングと効果を見ながら。
本番は「安定してきつつある」従って「初めてのように演技できていない」ところに落ちたかも。神里氏は「感想は、ない。もう一度見る」と言って帰った。
確かに杉原組はアンケートの数が少ない。今日もアンケートはゼロ。演出・コージ君たちは、終演後遅い時間に、更に突き抜けるための算段を立てていた。

14歳の国 稽古33日目、本番2日目、稽古34日目

23/04/2009 稽古
夜、アトリエ春風舎で。1場の台詞を復活させて稽古。邦生演出、出口が見えたか?春風舎から今の住まいへは、環七経由バス一本15分で帰れるので、楽。

24/04/2009 本番2日目(14:00)
公演後、邦生、吼える。ま、演出家のこういう顔を見るためにこそ役者やってるんだよな、と思ってしまう自分が、10秒後には既に恥ずかしい。
Hらた氏、小生の演技を評して曰く「16年前から1つも進歩していない。(3秒の間)ま、退化もしてないけど」・・・

25/04/2009 稽古
雨の中、1時入り。アゴラ楽屋裏から5階稽古場まで机を上げなければならないことを考えると朝から気が重い。結構こんなことで一日の気分は左右されてしまう。
2回目が割と上手くいったので、今度は「会話進行」の部分のチューンアップ。
夜は神里組を観る。2日目が終わってからこそ、他の座組みを見る気分の余裕も出てくる。
TJ氏の激賞に感激。岸井氏のコメントも的確。全体のフレームはおさまったか?
オレの立ちはどうだ?ちゃんと立ってるか?

2009年4月22日水曜日

14歳の国 ゲネ・初日

21/04/2009

ゲネ・初日ご来場の皆様、ありがとうございました。
初日、明きました。

今年の1月ごろは、初日明いたら、「エイドリアァーン!」みたいになるかと思っていた。
そんなことは無いのだった。
考えてみたら、昔っから、芝居の初日が明いて「エイドリアァーン!」なんてことは絶えて無いのでした。そういう妙な達成感はない。
ただ、自転車をこいでひとつ坂を上がりきったと思っても、実は上り坂は続いていて、一つの坂を上がりきってすらいないのです。

ふと気がつくと、この間最後に芝居出たのは僕が26歳の時だ。
オレ、26歳の時、こんなことやってたか?こんなこと考えてたか?
なぁーんてことを考えてしまう。

アフタートークの神里氏のコメントが、なんだか、正直な感じで、迫ってきた。
その後、彼が、「リズム三兄妹に似てるんだよなー」といっていたのは、僕が聞くと最大級の誉め言葉です。

ご来場いただいた方と場所を変えて一杯。コージ君とナオキ君は人気ある。いい男だからな。

2009年4月21日火曜日

14歳の国 稽古30-32日目

18-20/04/2009

土・日・月と、ひとまとめで。

18日 1場通し。あ、これ、面白いぜ。ってことになって、邦生氏の最後の悪あがき、立派に勝ちに向かってるよ。で、2場からラスト、どうする?
ドラマツルガー野村氏のありがたい一言を頂いて、視界がぷわーっと開けた、気が、稽古場に充ちる。が、光が見えたのであって、道筋を探すのはこれから。

19日 朝起きて、自分の考えてることを邦生クンにメール。
後から読み返すと、何だか、夜中飛び起きて夢日記つけてるみたいな無茶苦茶な中身で、こりゃイカン。が、邦生くんやコージ君や真田さんが考えてたことと重なるとこもあって、そんなに外れちゃいなかったかな、と。
キーワードは、当事者性と事実性、だったっけ?難しいけど、繋がった、と思う。
稽古終了後、再びドラマツルガー野村氏を迎えて終わり方について話す。あれ、なんか、話す時間が増えてきた。というか、どんどん話すようになって来たよね。話さなきゃならないから話すのか?いや、話すこと自体が、楽しいんだよ。
日中、稽古場でスパイスガールズのCDがかかる。「娘と一緒にカラオケでwannabe歌う。」といって自慢したった。

20日 本当の最後の悪あがき。が、何だか、出口が見えた、んだとおもう。衣装も決まった。ハンズにも行った。全体通した。まだ詰まってないこともある。
明日朝から場当たり、ゲネ、初日。忙しいな。

2009年4月18日土曜日

14歳の国 稽古29日目

17/04/2009

き、きたぁーーっ、邦生の最後の悪あがき!
これから2日間なんていわず、何日間でも、とことん付き合いますよ!

ってわけで、ほんとーに、初日まであと4日、加速度をつけて壊してまっす!
どんどん楽しくなっていく。

2009年4月17日金曜日

14歳の国 稽古28日目

15/04/2009

小屋入り、場当たり。仕込みは13日から始まってたんだけど。
とりあえず決めた始まりからラストまで、気付くと通してた。

最初にアゴラの舞台に立ったのは22年前。クニオのオムツは取れていなかったはずだ。
最後にアゴラの舞台に立ったのは16年前。柴組の井上さんは生まれていなかった。
今、26歳の連中とか、「当時」生まれてなかった人とかと同じ企画で芝居してる。
アゴラの奈落とか、舞台袖とか、楽屋とか、楽屋裏の雰囲気とか、変わらない。
でも、色々変わってる。

なんだかね、やっぱり、アゴラは、いいよね。22年前も、16年前も、今も、ずっと、現在進行形だね。

16日は稽古無いんだけれど、それが不安で、みんなで一杯やる。
こういう、不安と加速が入り混じったような感じは、とても、青臭くて、いい。

2009年4月14日火曜日

14歳の国 稽古27日目

14/04/2009

始まり方と終わり方。
要は、どうやって、「14歳の国」にフレームを嵌めるか、あるいは嵌めないのか、ということなのだが。
なかなか、手強い、というか、頑固な戯曲なんである。これが、なかなか。

演出の色々なアイディアをその場で形にしてあげられないもどかしさが先行する。と同時に、「ぐっとこないな」とみると即割り切って別のパスを探る演出の潔さとマインドのキレ、意識の加速度に感服。
加速度は力に比例する、んだっけ?そうすると、加速度が運動エネルギーを生む。そこに乗り遅れてはいかん。ぎゅっと締めていこう。

14歳の国 稽古26日目

13/04/2009

仕込み。といってもサラリーマン組は仕込み参加せず、夕方から稽古。

一場稽古。おお、なんだ、この、確信に満ちた(と思われる)ステップ。
あっというまに時間が経って稽古終わり。

ドリフで盛り上がる。

ドリフと言えば、若い人たちはやっぱりかとちゃんけんちゃんなんだよな。
僕は荒井注の「ディスィズァペン」とか「なんだばかやろー」が好きだったかな。
ゴールデンハーフのエバちゃんとか。外人はみんな「エバ」って名前かと思ってた。
あれ以来「エバ」と言う名前の人にお目にかかったことはない。

「、あ、いっかりぃーやにっ、あ、おっこらーれたっ」とか
「いやぁー、まいったまいった」
とか、あんまり派手でない、しつこく繰り返すネタ、結構好きだったかな。

荒井注みたいに立ちたいけれど、容姿が違いすぎる。

2009年4月13日月曜日

14歳の国 稽古25日目

12/04/2009

二場を中心に。

演出がなにかを確信し始めてる、っていう雰囲気が漂ってきた。昼夜稽古があっというまに過ぎて、気がつくとデロデロに疲れて帰宅。カレーがもたれて、ミスド食べられなかったのがなんとも無念。

うん。どんどん楽しくなっていく。

2009年4月12日日曜日

14歳の国 稽古24日目

11/04/2009

http://nomuramss.exblog.jp/

というわけで、山越えチャレンジ中。
演出は自分で戯曲書かない人なので、そういう、元ネタとしての戯曲と演出のせめぎあいは、「作・演出」なカンパニーにいるとなかなか体験できないものではある。
でまた、そのせめぎあいのプロセスを、役者に対してかなりオープンにして築こうとしてるのに付き合えるのが、楽しい。

で、山越えに挑むべく暴れ馬モードに切り替えたところ、左脚ふくらはぎにブギッという音を聞いた(聞いたのは僕だけですが。爆音かかってたので)。足を引き摺っての通し稽古・・・
ごめんなさい、ごめんなさい。アップきちんとしなくて、ゴメンナサイ。
演出・役者・スタッフのみなさま、すみません。本当にすみません。
せめて、早く直します。

2009年4月11日土曜日

14歳の国 稽古23日目

10/04/2009

出来上がりどんな風になっちゃうのかは、まだ、分かりません。
だって、説明して分かることなら説明して済むのであって、舞台に載せる必要はない。
でも、演出が見たいものに確実に向かってることは分かる。
色々やってみる。

「あー、やっぱ、だめだなー」
とか
「あ、これ、おもしろい」
とか、ブツブツいってるのが楽しい。少なくとも、ダメなものを作りこむ作業はしてない、ってことは感じてる。つもり。

http://kr-14.jp/kr-14web/2009/04/-vol3.html

14歳の国 稽古22日目

08/04/2009

引続き、甘酸っぱい14歳について考え込んでいる。
コージくんは、中学・高校の時、楽しくてしょうがなかったらしい。
僕は(中学・高校からの友人には申し訳ないが)楽しくってしょうがなかった記憶は、無い。
コージくんに、「じゃあ、いつ楽しかったんですか?」と聞かれて、思わず「芝居はじめて、楽しくなったかな」と答えた。

じゃあ、いっつも楽しくなかったのかといえば、うーん、本読んだり、音楽聴いたりは、好きだったのかなー。それくらいかなー。
要は、現実が楽しくなくて、そこから抜け出した時が楽しい、ってのが、中学の頃からずーっと続いているってことなのかな。いや、正確に言うと、結婚して家族が出来たら、その現実は、楽しかったのだけれど。今も楽しいが。

稽古が始まって佳境を迎えつつある中で思うのは、
「生きているけど死んでいる。死んでいるけど生きている」
ってこと。稽古している身体は、実生活を考える上では「死んでいる」んだけど、中にいる自分の身体がすっごく生きている、感じがする。

が、コージくんのように、現実が楽しくてしょうがないってとこから出発して、しかも舞台に乗ったらどーよ?ってことである。それって、とってもすごいことなんじゃないか、って思ったりする。

帰って、「甘酸っぱい14歳」のCD作成にかかるぞ。と。曲目はあまりにも恥ずかしいので秘密です。でも、まだ、ちょっと構えた選曲かもしれない。

2009年4月8日水曜日

14歳の国 稽古21日目

07/04/2009

お、なんか、言葉には表せないけど、スイッチが入った感じがしたぞ。
もちろん、僕が感じただけで、そういう風に演出が言ってるわけじゃないんですが。

初日まで2週間。ここが気合のいれどころです。

2009年4月7日火曜日

14歳の国 稽古20日目

06/04/2009

僕にとって、甘酸っぱい14歳の曲って、なんでしょうか?

14歳といえば、
・ 初めてジャコ・パストリアスのレコードを聴いた(Word of Mouth)。
・ ウェザーレポート聴き始めてた。
・ ビートルズは沢山聴いていた。
・ 子供バンド、好きだったな。うじきつよしさんにサインもらったと思う。
・ バンドで子供バンドコピーしようとしたが、それすら上手くできなかった・・・
うーん、なんか、甘酸っぱくないよね。

周りでかかってた甘酸っぱそうな曲か・・・
・ 甲斐バンド。きんぽうげ、とか。
・ さだまさし。

うーん。要は、オレの14歳は、全然甘酸っぱくなかった、ってことかもしれないな。トホホ。

2009年4月6日月曜日

14歳の国 稽古19日目 合同ワークインプログレス

05/04/2009

つかれた、つかれた、ほんっとにつかれたー。
と、杉原組登板(6時30分)までにほとほと疲れていて、公開稽古後はほんっとにつかれました。
稽古の間の集中力も、妙な高揚感と疲れの中で必ずしも正しい方向に作用していなかった気がする。少なくとも僕は。わざわざ来ていただいた方には無礼なことになってしまったかもしれないと、自己嫌悪に陥る。
まぁ、何を言ったって、本番に向けてがんばるだけなんだけどね。できることといえば。

12時から8時半まで、本当に若い演出家達は体力あるわ。それに比べて決して若くないお客様も、ほんっと体力あるなー、と、そして自らの体力のなさをつくづく感じたことです。

で、他の座組の稽古を見て、うむうむ、と。これは面白くなるぞ、と。
そして、「これは、うちも、うかうかしておれん」なのか「これは、うちは、明らかに遅れておる」なのかは分からないけれども、いずれにせよ、杉原組の大将にも点火することは間違いないと思われた。

どうなる、明日からの稽古。 <他人事のように言うな!だよな。

2009年4月5日日曜日

うさぎ庵 七歳の孫にジンを二杯飲ませた祖母

03/04/2009 ソワレ

工藤千夏の新作は、アメリカの実際の事件にヒントを得て、祖母・母・孫のズレと言うかなんというか、「幸せになりたい感」のすれ違いを描く。
水下・天明・鄭・畑中と芸達者を揃えて、客席もアフタートーク担当坂手洋二さんを含めヘビー級。

狙っている線とか芝居のフレームのアイディアそのものは悪くないんだと思うんだけど、工藤地夏の芝居は放っておくとコピーライターチックなサービス精神に流れて、どうしても「分かりやすく」「観客に優しく」が、必ずしも芝居を刺激的に持っていかない方向で出てしまう。それがもったいないと言うか、気持ちは分かるんだけど、と言うか。そんな作・演出に贈るべき言葉は、井伏鱒二大先生の言葉:

良心なんか捨てたらいい。

もっと自分の欲望をストレートに出して構わないんじゃないかな、と。自分の見たいと思うものを舞台に乗っけて構わないんじゃないかな、と。それがウェルメイドなのであれば、ウェルメイドを突き詰めるも良し。そういうことかな、と思う。

そこら辺の立ち位置の中途半端さをアフタートークで坂手さんに突かれて応えに窮する工藤氏。観客席からの質問も、「要は夢落ちですか?」みたいな、見方を誤ればトドメの一問、見たいに作用して、トークは少なくとも失敗だな。こういうみもふたもないトークはいかん、と、坂手さんに酒の勢い借りて突っ込んでから帰宅。

14歳の国 稽古18日目

04/04/2009

お昼スタートの夜10時まで。役者5人とも、ほぼ出ずっぱりなので、かなり疲れた。が、収穫はその分だけ大きい。

ここのところ色々なことを試していたのだけれど、「外枠のところでいじるのヤメ!」と演出が宣言。おぉー。じゃ、どうすんのよ?っていうことで、これから本番までの2週間、稽古どんどん面白くなりそうだ。
ま、また巡り巡って外枠にたどり着くかもしれないけれど、それもまた良し。

とにかく、演出が「自分の観たいもの」に忠実にやってくれてる(と僕は思う)のが、ありがたいというか、こういう、ストイックの対極にあるような演出なら、もっと振り回されても文句ない。

2009年4月2日木曜日

14歳の国 稽古17日目

02/04/2009

小道具のナイフが早速なくなり、かなり落ち込む。ソフトクリームを買ってもらってその場で地べたに落っことしてしまった子供のようなダメージを受けた。

アゴラ事務所に下りると、小生の稽古着姿を見て「お父さんのパジャマ姿」と呼ばわる輩に遭遇。ま、これはダメージない。

稽古は引き続き演出の試したいことをどんどん試していく。ベースの演技の流れや立ち位置を根本から変えるわけじゃないのに、シンプルなアイディアで見え方が変わっていそうなのが楽しい。

よしよし。日曜にはワーク・イン・プログレスということで、公開稽古です。お時間のある方、冷やかし半分で結構、是非いらしてください。

http://kr-14.jp/kr-14web/2009/03/post-11.html

14歳の国 稽古16日目

01/04/2009

引き続き、演出の見たいもの、試したいものを試し続ける。
今日からナイフ登場。結構はしゃいだ。と思う。

真田さんの誕生日。サプライズの筋書きもかるーく打ち合わせて、稽古終了20分前くらいから演出のキューが来るのを待ち構えてたにも拘らず、結局キューが出ないままお祝いへ。おいおい。稽古中別のことに集中してたオレがバカみたいじゃん。

ケーキ、美味しく頂きました。

2009年3月31日火曜日

壁の花団 アルカリ

29/03/2009 ソワレ

前回観た「悪霊」よりも分かり易かった。というと誤解があるといけないのだが、やっぱり、重くて、暗くて、とっつきにくい芝居。

男優・女優2人ずつ、それぞれ力があり、小生の好きなタイプ。本当はもっとはじけたことをやろうと思えばできる人たちなのだろうが、嬉々としてかなんなのか、こんなことしちゃって、うーん、これ、面白いって言っていいのかなー?うーん、難しい。

なんだか、作・演出が役者の力にもたれちゃってる気もした。難しい芝居だ。みせ方、というよりも、こちらからの付き合い方として。

飴屋法水 転校生

26/03/2009 ソワレ

東京初日。
昨年静岡のSPACで初演された作品をフェスティバル・トーキョーで。これを持って来ただけで今回のフェスティバル・トーキョーの開催価値はあった。断言する。

昨年の衝撃はまだ残っていて、でも、まぁ、演出の趣意や展開はよーく分かっているつもりなので、それほど驚くはないかなぁ、と予想していた。むしろ、小屋としてはSPACの方が居心地が良いから、その分、東京で観るのは分が悪い。もしかすると、高校生の演技は水物で、今回つまらなくなってたらどうしよう、なんて心配すらしていたのだ。

開いてみれば心配無用の素晴らしい舞台に涙止まらず。飴屋・宮城・平田の超豪華な顔合わせがとんでもないプロダクションを産みだしたことが、東京でも証明された。
出演する高校生達、1991年生まれ、僕の娘と同い年の子が多い。あぁ、そーなんだー、と、やっぱり感慨深い。

<以下、ネタバレあります>


幕(というよりバトン)が上がり、最初の一人が舞台に出てくるところで、既に、膝ががくがく震えた。みんなが出てくる間中、震えが止まらない。客電がついて三々五々通路を通って入場してくると、もうそこで涙がこぼれて止まらない。高校生に涙を見られるのは癪なので、必死でこらえる。

が、転校生岡本さんが入ってくるともうだめ。しかも、下手わきのドアからの入場、僕の座っている真横で立ち止まる。ダメだ。40男の泣き顔を、他の観客に晒してはイカン、と、ますます必死になる。

ま、僕が泣くの泣かないのなんてのを繰り返して書いても意味はあんまりないので、芝居のことを書くと、

・ 高校生が退場していくときの顔!どうやったら、あーいう素敵に何も無い、ひたすら出口に向かうことだけを考えてる顔で退場できるのか。素晴らしい。みとれた。
・ 同時多発会話が、こんな形で提示されるとは。人の話を聞いているのかいないのか、それも全然分からない。なんと勝手な生き物なのか。女子高校生は。
・ 20人の同時多発戯曲を書ききった平田オリザの力量・体力に感服。
・ 15年の時をやすやすと超える戯曲の強度。それを極めて同時代のものとして、かつ、今だけの、ここだけのものとして、提示する飴屋氏。改めておそるべし。平田戯曲は本当に厳しいのが多くて、安易に戯曲として選ぶとしっぺ返しが激しいのだけれど、なんと素晴らしい演出であることか。
・ それを企画してしまった宮城氏の眼力!
・ 初演時よりもメリハリがはっきりして、高校生も「好きにできること」の幅を広げて、より勝手気ままに振舞ってみせ、かつ全体のアンサンブルも良い。東京初日ということもあったのか、素晴らしい気合だった。