2010年7月30日金曜日

再び、覇王歌行のこと

水曜日に春風舎に行った帰り、わが敬愛する(そして勝手に人生の師と仰がせていただいている方々の内の1人であるところの)D井さんとたまたま電車ご一緒した。
BeSeTo演劇祭の「覇王歌行」で、俳優が如何にスキもなく訓練されているか、ということに、大変感動した、今回のBeSeToの中で一番よかった、さすが中国4000年、との由。
僕は「なんだか、俳優にねじ伏せられている気がして、特にアゴラのような小さな空間では逃げ場がなくて、なんだか複雑な気持ちです」と答えたのだが、改めて「訓練」について考えた。
それにしてもD井さんが何の留保もなく、掛け値なしにこんなに芝居を誉めているのをお聞きしたのは、(もちろん短いお付き合いだけれども)初めてかもしれない。そして、そういったものに向き合った上で、自分の演技をさらに磨いていくんだっていう気合がみなぎってて、
「負けてられない」
と思ったのだ。「人生の師」に「負けてられない」ってどういうことかって、自分で突っ込みたくもなったけど。

2010年7月29日木曜日

青年団スミイ企画 日常茶飯事

28/07/2010 ソワレ

初日。初見。
なんだ、この、全ての台詞が役者の身体から半径50cmまでしか届いてないっていう感覚は?
現代口語演劇を称して「半径数メートルの世界」なんてぇ言い方があるらしいけれど、ことこの公演にいたっては半径数十センチだよ。これをどう受け止めたらよいのか、いろいろ、困った。

最初は、テクスト弱いなぁと思ったのだ。実際、音は聞こえてきても何を言ってるかが分からなくて、本当に、役者を離れて50cmくらいのところでポトンと春風舎の床に落ちて消えてなくなる感じ。床に積もることさえなくて、言ってみれば度の高い焼酎のアルコール分のようなものか。

が、だんだんどうもそういうところを狙った演出なんじゃないかとも思えてきて、というのは、木引・宇田川の視線の交わし方は、テクストの強弱とは関係なく「視線を強く結びすぎない」ことに注力しているようにも見えたのだ。途中、うっかり二人が気を抜くと普通の会話が成り立ちかけて「いけないいけない」みたいなところが見えるのも、いつもの芝居とは違うところに集中している感じがして面白かった。

ワイヤー・紐を垂らした舞台に映像もよく映えて、春風舎の舞台奥の階段の手前に何層かに分けてアクリルが嵌ってるような、そういう奥行きが感じられたのも面白い。

しかし、本当に全てのテクストがへろへろと床に落ちていくのに60分付き合っていて、「これ、面白いよ!」とはならなかったなぁ。残念だけど。やはり、見慣れないものをみる時にあからさまに拒絶するのは良くないと分かっていても「これで良いのだろうか?」というのは先に立つ。
「届かない」のと「届けない」のは性質が違うし。身体でグイグイ押す感じでもないし。演出の狙いに観客として的を絞れないのは観客としての資質によるとしても、だ。でも、そこから先にぐぐっと突っ込みたくなれなかったのは、それは、うん、もうちょっと、ズルくても良いと思ったんだ。もし、速球を頭にぶつけるくらいの気の引き方を方法として取らないのであれば。そういう考え方って、どうだろう?

2010年7月28日水曜日

パルコ劇場 空白に落ちた男

25/07/2010 マチネ

2006年に拝見した時の驚きはいまだに忘れていないし、ベニサンピットからパルコ劇場に場所を移してもなお、期待が裏切られることはなかった。

5人のパフォーマーはパルコ劇場の舞台を広いと感じさせず、たくさん動いているはずなのに「空間を埋めに行っている」感じが一切しない。物語を語りに行かず、おそらく多少話の辻褄が合わない(かもしれない)のには目をつぶって、動きのスムーズさが観客の視線を釘付けにする。ふと上方に目をやると、じつは舞台の天井にもベッドがしつらえてあったりして、そういうところのサービスがまた嬉しい。

会場には親子連れもチラホラ目に付いたが、これほどの名人芸なら子供達も飽きずに見入っていたに違いない。と書きたいところなのだけれど、恥ずかしながら、途中一箇所だけ瞼が重くなってしまった。安藤洋子さんのソロが始まる直前。どこを取っても面白いはずのこの公演でなぜ?と思ったのだけれど、多分、自分なりの答えは「音楽」。アコーディオン主体の音楽で、割と「音圧」「音の厚み」が始終一定だったと思う。音楽にしろ照明にしろ電車の揺れにしろ、一定の刺激を絶えず受け続けると、人間眠くなってしまうものだ、と、ちょっと自分に言い訳した。

2010年7月25日日曜日

toi 華麗なる招待

24/07/2010 ソワレ

ここまで、「なにげにすげーこと」をされると、なんともいいがたいものがある。

受けたショックの大きさから言うと、1月に神奈川県民ホールで観たリーディングの方が実は大きかったのだけれど、しかしながら、それはおそらく、そのときに初めてワイルダーの戯曲に触れ、また、そのモダンさに驚いたことが大きく作用していて、このとき以来ワイルダーの戯曲いくつか読んだ今となってはその驚きを同じくらい味わうことは出来ないということでしかない。

1月にもこんなことを書いていて、

**********
役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・

身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?
**********

その考えは今でも変わらない(今回は70分だけれど)。この、実時間とテクストの時間のギャップを、どうやってメソディカルに埋めていくのかというところに、演出・役者の技量の大きさ(上手い・下手というよりも、視野の広さ、キャパシティの大きさ)を感じる。

その技量が、STスポットという、ぎゅっと小さな空間で凝縮して示されるから、神奈川県民ホールでは割と未処理のまま残した「のりしろ」はよりきちんと処理され、結果として「よりさりげなく、すごいことを」という運びになった。

武谷氏の"ウェインライト氏"の存在感は、構成のいじり方ともあいまってかなり「意味のついた」感じに演出されている。一族の歴史からはみ出して、ハードウェアとしての「家」が「誰に」憑くのか、という過程がより前面にせり出してくる。こういう見え方はワイルダーも想定はしていなかったでしょう、と思ったりもして面白い。

これだけ素晴しい上演なのだから、2つくらい不満を言っても良いだろう。これら不満が、上演の価値をいささかも貶めることはないだろうから:
① 出はけ。県民ホールと比べたときに、あまりにも出はけまでの距離が近いこと。これは、メタフォリカルには、「死との距離が近い」というふうに解釈することも出来るけれど、でも、やっぱり死に向かっての滞空時間があまりにも短いのは、芝居として「見せ場」あるいは、もっと丁寧に味わいたい部分を切り捨ててしまっている気がしてもったいない。
② 冒頭の「タクシード・ジャンクション」は第二次世界大戦直前の曲。ヒットしたのは1939年グレン・ミラーオーケストラなので、冒頭のこの曲は、観客の時間軸を混乱させる。まぁ、誤意訳だし、登場人物もいじってあるので、こんな些細なことで混乱してはいけないのかもしれないが。じゃあ、何を歌うのか?やっぱり賛美歌なんだろうな。当時の流行の、とか。

鉄割アルバトロスケット 鉄割ベガズバンケット

24/07/2010 マチネ

相変わらず面白い、という他ない。
「鉄割がそのナンセンスパフォーマンスに磨きをかけ、洗練の度を増した」と評されるのは、鉄割りの面々にとっては不本意なことだろう。「洗練の度を増す」ために日々精進しているわけではないだろう。
逆に「相変わらずまったく洗練される気配を見せない」というのは、一瞬「鮮度が落ちないってことか?」と褒め言葉のようにも思われる一方で、「え、旧態依然ってこと?」ととられる可能性もある。
だから、色々工夫して褒めたりしない。いつも通り面白かった、としか言いようがない。

もちろん「園まなぶ」や「ドント・ピス・アラウンド」、「馬鹿舞伎」など、プログラムもらった瞬間に「よし、楽しみ!」と思うようなのもあるんだけれど、それらは、観客の側の手抜きというか「演ってくれたらいつでもウケる用意できてるからね!」ということではあって、創り手の側にとってみれば「いつものように面白がってくれる」だけで喜んでいてもしようがない。新しいネタをどしどしやるのか、同じネタでも新味を加えていけるのか、新しければ面白いというわけでもないだろう、というわけでいずれにしても茨の道である。

そんな茨の道を進み続ける鉄割ビバ!とまとめてしまっても良いのだろうけれど、でも、どうにもこうにも腕組みして客席にどーんと腰掛けてしまいがちな40代サラリーマンとしては、鉄割のパフォーマンスをゲージツと呼ぶのかゲーノー転じて・煎じてゲージツとなすかなんてことをつい考えてしまってとても良くないのである。まぁ、そのどちらであろうとも、鉄割が、ゲーノーに落ちず、かといってゲージツに堕ちないところですっごいnarrow pathを進み続けることに対して命を削っていることは間違いなく、そういう態度に対しては、一観客としてはとにかく観るしかない。つまんなければつまんないというしかない。幸いにしてつまんなかったことがない。だから観る。幸せである。いや、マジで、幸せだ。

ちなみに。今日の僕のお気に入りはJAZZJAZZJAM、嫁は閻魔さんの弁天さん哀れむ、娘はあん珍と姫嬢 / 隊長さん。僕のオールタイムベストは五輪さん。

2010年7月21日水曜日

BeSeTo演劇祭 劇団コルモッキル

19/07/2010 ソワレ

千穐楽。
劇中人物の視線が妙な感じでシフトして、そこから生まれるうねりに呑み込まれて行く感じ。気持ちの悪いような、納得のいくような、妙な味わいの、そして観客を力強く巻き込んでいく見事な芝居。

<以下、ネタバレあり>

父・兄・弟・兄嫁・間男(消防士)の話。
最初は「引きこもり」で部屋から一歩も出ない弟の視点で芝居が組み立てられるかのような印象。往々にして、こういう半分世の中の動きに取り残されたセミ傍観者視点の語り手が物語を進行させるものだ。
と思ってみていると、開始10分で父が便所で正面向いて首を吊って死んでいる。そしてはけない。あ、傍観者になるのは父だったか、となる。
が、続いて兄嫁。この女性がカラオケ屋で働きながら家計を支えているのだけれど、父子と血のつながっていない存在として、やはり傍観者目線でこの家を語る。
映画監督の長男の帰宅で物語が動くかと思いきや、実はこの長男も家で起きていることは自分の生活にとって足枷でしかなく、彼も思いっきり重心を家の外に置いている。
もちろん間男は外部の人間だから、いくら家の核心に向かって行動していこうとも、所詮は外部からの目線でこの家を理解し、語るほかない。

この、家族のすべてのメンバー、芝居のすべての登場人物が、自分のいる場を自分の居場所として認めたがらない状況って、どうよ?
という感覚と、登場人物たちが「ほら、この舞台は私の本来の居場所ではないのですよ。観客のあなた方にはお分かり頂けますよね」と言わんばかりに面を切って客席に向けて台詞を言う様が、妙に符合していて、語られる立場の観客としては、どうにも居心地が悪くなってしまうのだ。

あぁ、オレにとって、家とは何なのか?
「オレんちってさあ」といって、半分面を切りながら、重心を半分外の世界にかけながら、やれやれといったそぶりで語るべき場所なのか?

芝居が進むにつれて、傍観者面を気取る登場人物たちが、実は、揃いも揃ってこの家の雰囲気・輪郭を形作る過去のエピソードの「当事者」であることが明らかになっていく。

そうやって巻き込まれてしまうと、もう、観客として傍観者面決め込んでいくことに対する罪悪感というか、一歩劇場を出たらこの傍観者面が逆転するんだなという不快感というか、そこから逃れられなくて、たまらない気持ちになる。そして、その立場を宙吊りにしたまま、父の死体も便所に吊るしたまま、芝居が終わる。

こうやって書いているとなんだか観ていて不快な芝居だったみたいな印象を受けるかもしれないが、さにあらず。便所に首から吊り下がったまま息子を呼び続ける父、突撃特攻で家の核心に迫る消防士には声を挙げて笑うほかなく、兄嫁の女優のキレイさと年増ならではの疲労感・饐えた色気、兄弟のえもいわれぬ緊張は、どれも役者力みせつけて素晴らしい芝居。堪能した。そして、大変印象に残る芝居でもあった。

2010年7月20日火曜日

OPAP 夏の夜の夢

18/07/2010 マチネ

千穐楽。楽しかった。とてもよく笑った。素直に。
役者・スタッフみんな学生で、それはそれで「学生演劇」なのだけれど、演出田上豊の意図がよく見えて、しかもそれは嫌味とか妙にプロっぽいというのではなく「面白いことをやろう。そして(出来る限り)楽しくみせよう」ということで、そういうのが嬉しい。そして、大体そういうときには結果として面白いものが出来てしまう。

役者達が(おそらく、大抵の場合)無我夢中で演出に言われたことを追いかけて、追いついてないような気もするけれどとにかく追いかけて、誉められれば嬉しく、ダメ出しされればへこみ、でもやっぱり個人としては全体の芝居の出来がどうとかというところまで大きな視点でみられる訳もなく、とにかく演出を信じて走り切ろうとしている、という感じがとてもした。

とにかく全力疾走で追いかける態度は役者にとって「幸せな」ことだ。特に演出がヘボでない場合には。だから、今回の「夏の夜の夢」は、幸せなステージだった。ほんっとに年寄り臭いことを言うと、自分の若いころのことを思い出して、ちょっとせつなくなる。

もちろん、ふと立ち止まったら自分がどこにいるのかに自信が持てなくなっちゃったような人も、あるいは、自分の行きたい方向が演出と違った方を向いていることに気がついちゃったような人も居るだろう。それはそれで良し。

岡田利規演出のゴーストユースを観てすげーと思ったときもそうだけれど「学生だから面白い」とか「学生だけど面白い」というのではけしてない。一方で、「学生だからこそ面白くなった」要素も、どこかにあるわけで、そういう要素を排除するでもなく、割り切るでもなく、素直に芝居としてもっと観られたら、観客としてももう少し幸せになれたかもしれないが。まぁ、いい。楽しいステージだったし。今度コレ観る時は野外がいいかな。

2010年7月18日日曜日

吾妻橋ダンスクロッシング

17/07/2010 ソワレ

昨年9月にも
「いや、何を差しおいても観に行け、というものでもなかったよ」
なんてぇことを思っていたりしたのだけれど、やはり観に出かけてしまう。特に、今まで聞いたことのないような名前が出ていると。

ごく一部、おそらく趣味の問題として僕が受け付けないことは最初から分かりきっていた出し物一つは別として、どれも水準以上の(というのはとってもおこがましいのだが、つまり、がっかりしない)面白さで、そこで、「ウォオォー」と盛り上がらずに、何となくホッとしてしまったりするのが、我ながら弱い。ここのところ、何だか、感度が弱っている気がする。「鈍っている」というのではなくて。

篠田、なんだかまた面白そうなことを考えているなー、もっともっとこなれたカタチで載せてこないかなー、とか、飴屋さんの出し物の圧倒的なベタザラ感を真正面から受け止めきれない自分はなんなのかとか、Line京急が加速度的に突き抜けていく感じとか、やっぱりKentaro!!を水上バスで見られなかったのはとっても後悔されるけれども、でもアゴラが楽しみだとか、色々ある。が、どうやっても心に残るのは遠藤一郎。この突き抜け方は、どうにも突き刺さる。何の悪意も差し挟まずに観られるか?観せられるか?たまらん。

吾妻橋だったから受け入れられたのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。でも、逆に、遠藤一郎がいたから2010年の吾妻橋が一生記憶に残るだろうということはかなり確かだ。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第8回

03/07/2010

劇評セミナー第8回。全8回のコースの最終回は手塚夏子「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評合評。講師に武藤大祐さんを迎えて。

武藤氏、率直・正直かつ整理されている。整理されているから、整理しきれない部分もとってもよく見えていて(「とっても」という言葉遣いには照れがあるのだそうだが、敢えて使うが)、話を聞いていて引き込まれる。そして、「観る」力だけでなく「読む」事に関しての注意深さもただ者ではないと。

ノート代わりにここに書くと(引用される場合はコピーライト武藤氏です!)
A. 劇評の成分の洗い出し
 (1) 描写
 (2) 問い掛け/問題意識 ⇒作品をどう観るかの視点の設定
 (3) 分析・考察
 (4) 文脈化
 (5) 評価/価値判断
B. 劇評の書き手の立ち位置・スタンスの3類型
 (1) 作者の意図・やろうとしていることは何なのかを書く/読み解く
 (2) 自分視点(に徹する態度)
 (3) パフォーマティビティに関する分析(起きた出来事全体を俯瞰)
C. 劇評が向かう、2つの正反対のベクトル
 (1) 評価する
 (2) 筆者の思想を語る

書き手としてこういう類型に予め嵌まっていこうと考えることはしないけれど、少なくとも「整理されているから、整理されえないものへの視点が開ける」のはここでもよく当て嵌まると思う。

そして手塚氏の作品についての語り。自己言及性が強すぎて、そもそも「語ること」自体が要請されるような、あるいは語るに及ぶような、作品であるかというのが一つの勝負どころ。そういった作品について「書く」ときに、思わず(何歩か)引いた視点で書かないと書けなくなってしまう者、一歩も引かずにドロドロになって書く者、何故かバランスが取れてすっきりと書けてしまう者、それぞれあって、その違いそのものも、「何故そういうスタンスに陥ったか」に関する筆者の説明もすごく面白い。これだけ方法論に拘った作品=「推論」や「妄想力」の餌食になるおかずを取り払った作品であっても、こんなに観方・書き方が多岐にわたるのだ、ということに対し、改めてポジティブに驚く。またしても充実した時間だった。

次の予定があって途中退出を余儀なくされたのだけれど、どうやってセッションが締まったのか、後ろ髪ひかれる思い多々。

2010年7月14日水曜日

劇評掲載(中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」、ワンダーランド劇評セミナー)

中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
この間の青年団「革命日記」についての劇評と同様、ほんとに拙いものですが、僕がどういう風にフランケンズのお芝居を愛しているかについては、多分ちょっとくらいは書いてあるんじゃないかと思ってます。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1330

2010年7月13日火曜日

青年団 東京ノート 日中韓バージョン

10/07/2010 ソワレ

東京ノート、新国立劇場中ホールロビー公演の2回目は、日中韓バージョンで。

中国・韓国からそれぞれ2人ずつの俳優を迎えて、全体のアンサンブルの水準は保ちつつ、色彩を加えることに成功していた。

しかしなんと言っても今回の勝因は客席の座席位置。前方、最も下手の席から舞台を見ると、遙かに続く階段の向こうまできれいに見渡せて、俳優の出はけの滞空時間が信じられないほど長く、これは他のどんな劇場であっても(木漏れ日はらっぱの唐組のテントの向こうに広がる景色であろうとも)実現できないくらいの奥行きをもって、しかも見上げるアングルで、うつくしい。俳優達が、降ってくる感じ。ゆらゆらと舞い上がっていく感じ。階段を俳優たちが行き来する光景を見ただけで、泣きそうになった。

そしてそのてっぺん、ガラスの向こうで客席を向いて仁王立ちする山内健司よ。いっぺんで涙引いたよ。あの姿は一生忘れることはあるまい。

2010年7月12日月曜日

BeSeTo演劇祭 劇団美醜 リア王

11/07/2010 マチネ

素晴しい上演。空間をダイナミックに揺り動かし、色彩を抑えが舞台美術であるにも拘らず様々なカラーが空間に溢れて、休憩無しの140分間、全く飽きることがない。

演出ノートに「結局は(・・・)世代間の争い」と書いてあって、そんなありきたりのものを見せられてもなー、と心配していたのだけれど、まったくの杞憂に終わった。舞台に載せてあるものは、もっと様々なニュアンスに溢れ、熱量が満ち、「とどのつまり」のお説教に還元しえないものだったと思う。

リア王の老人ならではの驕慢・怒り・恨みつらみ・諦念等々が、ドロッドロの情念が溢れ出すかのように描かれるのではなく、まさに大樹の中が空洞化し、かさかさになって、やがて折れるかのように描かれているのが印象に残る。それが、「若い世代」のドロッドロの打算や野望に満ちたウェットな演技と対照的。

グロスター伯とエドガーの再会シーンは、広いはずの舞台の上で二人の間に何の夾雑物もなく、なんとも二人の熱量が舞台中を埋めて、これから先グロスターとエドガーの道行きは涙なしでは語れないはずなのに既に涙が出てきて、これからどうなっちまうんだと本当に困ってしまった。グロスター伯・エドガーのシーンはずっと良かったのだけれど、リア王も負けじとみせる。本当に退屈する間もなく、しかも、「あっというまのローラーコースター」ではけしてなく、しっかりと濃密な時間を流して見せて、本当に、最大級の尊敬に値する舞台だった。

2010年7月11日日曜日

Beseto演劇祭 覇王歌行

10/07/2010 マチネ

何よりも驚いたのは、舞台上で提示される情報の発信者たる創り手と、情報の受けてであるところの観客の間で共有されていると想定される「辞書」が、日本・中国の間でこんなにも違うのか、ということ。もちろん日本の中にいても、新劇と宝塚と現代口語演劇とではかなり違っているから、国をまたげばもっと違うというのはさほど不思議ではないのかもしれないが。

まず、項羽の役の俳優よりも、ワキで色んな役を演じ分けてみせた長氏の手足の動きが、そうした「辞書」から拾ってきたボキャブラリーのオンパレードの趣があって、いつまでも飽きなかった。これは、微妙な使い分けまで含めて、どれだけ見ていても面白い。

音楽。最初は中国の音楽風に古琴の音を響かせながら、また、虞の歌も「あぁー、これが、虞と項羽の時代の中国の美人の節回しということなのねー」と思いながら聞けたりするのだが、戦いのシーンになってあからさまにブラスセクションが入ったりすると、うーん、なんでしょね、これ、中国ではそこら辺の統一感は問われないんでしょうか、それとも海外巡業だからこれくらいのボキャブラリーの中で回さないと厳しいんでしょうか、みたいなことを考えてしまう。シーンが進むにつれて喜太郎っぽいシンセの音も聞こえてくるし、この捩れ感は、必ずしも「滑稽」ではなくて、本当に色々考えてしまったのだ。

舞台上に乗っているプラスティックの陳列ケースは、中に兜や刀剣が入っていて博物館っぽい。あたかも、それら陳列品の中から項羽が抜け出してきて自分の生涯の真相を物語る、という趣向なのだけれど、その趣向があるからこそ、逆に、上記音楽の趣味とも合わせて、なんだか、「中国四千年展」の兵馬俑(レプリカ)展示の特別ショー、みたいな趣向に見えてきて、対処に困る。

正直なところ、役者本当に良く訓練されていて、達者で、でも、なんだか、観客のレベルを値踏みしたりしてないかな、といぶかってしまったのだ。それは、創り手と異なる「辞書」を持っている人たちを前にして上演する時に、妙な手心を加えるというか、「こういう語彙を使えばある程度最大公約数で乗ってくるだろう」とか、そういうことだ。それは、本当のところ、どれくらい必要なのだろうか? 必要ないと言い切るのはとても乱暴だと自覚しつつも、やっぱりこの疑問は生じざるを得ない。

2010年7月10日土曜日

柿喰う客 Wannabe

09/07/2010 ソワレ

今は亡い、とある友人が、チェルフィッチュの山崎ルキノさんがテレビに映っているのを見て「どうしてこの人はこんなにも自信にあふれていられるんだろう?」と、本当にポジティブに感心していたのを思い出した。それくらい、柿喰う客の連中は、アフタートークの場で中国や韓国の大先生(っぽい人)たちを前にして、自信に満ちた面構えで、どーだ、とばかりに客席を睨めていたのだ。

中屋敷法仁がトークでも言っていた「国際交流企画の中で、殊更に文化の間の違いを強調するのではなくて、むしろ『僕達、同じじゃないか』と感じながら、あるいは信じて、進めてきた」という言葉は、現在の、文化間の違いへのセンシティビティがソフィスティケーションのしるしと見做されている状況、かつ、柿喰う客の芝居の中では「みんな同じ」ではなくて「役者一人ひとりが愛しいものとして扱われている」状況を踏まえて発せられる時、実は、とても重い。ネガティブな見方やスカした目線がインテリの印、インテリジェンスなしじゃあ国際交流ムリ、みたいな甘っちょろい考え方に、完全ポジティブ路線で、しかも明るく楽しく対峙してみせる柿喰う客の連中は、本当にかっこいい。

芝居の方は、プロットはシンプルに、でも一つ一つの反応は極めて大切に。ヨーロッパの一軒貸し学生宿舎の風情で、ちょっとだけ平田オリザの冒険王を思わせる。ネタバレになるのでここでは書かないけれど、アフタートークで中屋敷氏の言っていた「だって、みんな地に足が着いていないでしょ?」というコメントは、この芝居の全体のトーンを見事に表して、これも冒険王を思わせるし、それが柿の芝居からつかめちゃうというのがまた、素晴しい。

アフタートークの、日中韓英4ヶ国語が飛び交って、舞台上・客席内、色んなところでスポンテイニアスな通訳が始まって、一つものをいうと全員に伝わるのに5,6分かかってしまうような、でもそれが許容されてしまうような状況も面白かったし、韓国から来た大先生が、「稽古期間は短かったのか?」「君らはプロか?」「もっと日中韓の違いを出さないと」みたいな、あからさまにこの芝居を「素人が短期間で仕上げた芝居」扱いしていたのも、これだけ力があって魅力的な芝居を観た後だと笑い飛ばしてしまえるし、と、他にもいろんなポイントはあったのだけれど、やっぱりこの芝居の一番の見所は、役者達の押し付けがましくない自信に満ちた佇まいですよ。

2010年7月7日水曜日

青年団 東京ノート

04/07/2010 ソワレ

東京ノート、やはりとんでもない名作だ。なんといっても俳優のアンサンブルの完成度の高さは素晴らしく、せりふだけでない、抑揚、ニュアンス、ちょっとした仕草、「この芝居のスコアを読んでみたい!」と思わせる。そして、月並みな言い方だけれども、何度観ても新たな発見がある。本当にとんでもない芝居なのだ。

まず、新国立劇場中ホールロビー特設会場の空間がすごい。劇中「狭くてスペースが足りない」という台詞を残しながら、この威容はどうよ!中身は二の次、国威高揚にぴったりな立派なスペースに、ヨーロッパから逃げてきたフェルメールや他のコレクションがやってきて所狭しと展示され、そのホールには、80年経っても全く変わらない日本人がやってくる。奥泉先生、これがイロニー、なんでしょうか?違うでしょうか?と聞きたくなってしまう。

そして役者。今回は、キャストがかなり入れ替わったバージョンで、まぁ、青年団の役者だから誰をとっても素晴しいのだけれど、その中で実は、恥ずかしながら今更のように「あ!」と思ったのは長野海で、今まで何でこの素晴らしさが分からなかったのだろうと自分を呪うほど、視界への入り方、フェードアウトの仕方、ふと出てくる押し出し、どこをとっても文句なし。「名無しカップル」の女性役は、安部聡子・天明瑠璃子・能島瑞穂・高橋智子等々、誰をとっても毎回「この役を演じると美しさ5倍増し」な超お得な役どころで、本当に僕は「だまされましたね」の台詞が大好きで大好きで仕方がないのだが、今回の村田牧子の「だまされましたね」にも泣きそうになった。今回も美しさ5倍増しの例に違わなかった。こうやって挙げて行くと本当にきりがないのが青年団の役者の層の厚さなのだが、本当に切りがないのでここらで一旦切る。

で、もう一つの発見は、東京ノートは、「物語を語れない人たちの話である」ということ。こんなにもいろいろな人がいろいろなことを語っているのに、どの話も、一つとして物語として完結せず、断片としてしか存在しない。平田オリザの作劇法として、「外の世界の物語を想像させる」というのはあるけれど、殊この東京ノートについては「語り得ないまま終わってしまった物語を、観客が勝手に補わないとしようがない」あるいは「物語を語りきることのできない登場人物をじっと観るほかない」ということになる。語らないこと・語ることができないことの雄弁さと豊かさは、同日の昼に観たNODA MAPのザ・キャラクターで露わになった「雄弁に語ることの貧しさ」と極めて対照的だった。

そしてまた、東京ノートは、芝居についての芝居でもある。光を当てているところだけ見て、ほかは真っ暗、だなんて、あからさまに芝居のことを述べている台詞なのに、初演から16年、今日の今日まで、芝居についてこんなに語っていたなんて気がつかなかった。うかつなり。

本当に、本当に、何度観ても素晴しい。中学生が観ても、大学生が観ても、サラリーマンが観ても、年金生活者が観ても素晴しいはずだ。初めて観ても、十回観ても、何度観ても素晴しいはずだ。そして、芸能に堕ちない。特定の芝居を必見だとはあまり言いたくないけれど、真剣に、必見。

2010年7月6日火曜日

NODA MAP ザ・キャラクター

04/07/2010 マチネ

ロンドンにいる時分「赤鬼」を観て大いに落胆して以来、「赤鬼は失敗だったと自己批判するまで野田さんの芝居は二度と観ない」と思っていたのだけれど、今回、魔が差したというか、いや、最近芸劇にいろいろと若いカンパニーも呼んでいて、新しいインプットもあって何かしら変わっているかもしれない、という期待感をこめて池袋へ。またしても大いに落胆。

しょっぱな、漢字の字面が浮きだして浮遊する感覚は、多和田葉子の「飛魂」を読んだ今となってはエジプトの後にローマを見るが如し。野田さんをもってしても多和田さんには及ぶべくもないことの再確認でしかない。台詞を一生懸命がなる人が多数派なのも、2時間もたせるには苦しい。

が、もっとも気になったのは、物語・メッセージを一生懸命に伝えにいく姿勢。オウム真理教の事件が、僕たちや野田さんの世代(1960年代生まれ)に激しいインパクトを持ったことは否定しないし、むしろそれには同情する。同情はするが、共感はしない。野田さんのキモチやイノリを素直に謳いあげてもらっても、ただただ困ってしまう。

一つのモチーフに基づいて舞台を組み立てることを否定はしないけれど、そこから妄想が沸き上がり、力強く羽ばたいて、手がつけられなくなるくらいに広がって行くところにこそ演劇の可能性があるはずだ。漢字遊びも言葉遊びも身体の動きもギリシャ神話も、すべてメッセージを伝えるための「道具」として芝居の中にちりばめられ、最後にはオウムの物語に回収されてしまうのは余りにも口惜しくはないか。

あるいは、「共通の言語・体験=おおよそのコードの発信と解読の体系」がまるっきり共有されている(僕は「同一の辞書を使ってコミュニケートしている」と言いたいが)中で、自分の提示するものが観客に受け取ってもらえるという誤解があるのではないか?

そういう場ではもちろん観客の妄想がジャンプする余地はついぞ与えられず、野田氏の想像力もオウムの偽りの太陽に焼き焦がされて地に墜ちたように感じられた。

芝居がハネて娘と食事しながら、「昔の野田さんの芝居はこんなじゃなかったんだ。もっとワケわかんなくて、そして想像力が膨らんで、世界が広がるような、そんな素晴らしい芝居だったんだ」と思わず力が入る自分に、涙でそうになった。

鳥の劇場 白雪姫

03/07/2010 ソワレ

アゴラでこういうバランスの、しかもきちんとした芝居を観ることができるのは大変幸せなことだ。作・演出の中島氏が言うように、子供に見せるちゃんとした芝居、かつ大人の鑑賞にも充分堪えるもの、35年出会うのが遅すぎたよ。

素材が白雪姫だから、作り手の側も「何とかして物語を説明しなくては」というプレッシャーから自由になって舞台を組み立てることが出来る。その結果、演技、照明、舞台美術、小道具、音響といったところの細部まで手をかけることが出来るという好循環。

役者陣いずれも好演していたけれど、僕の一番のお気に入りは家来役の葛岡さん。「家来」というよりもむしろ僕達観客の先導者、視線の代理人として舞台の上のいたるところに顔を出してくれるのが頼もしい。森の小人のシーンでは(お城の家来の役だからしょうがないのは分かっていても)葛岡さんが出てこなくなってしまって、少しさびしかったな。

鳥取の観客の視線でかなり鍛えられ、磨かれているんだろう、こういう磨かれ方って、東京の消費者の中で揉まれても絶対に起きないことだと思う。素晴しい。

2010年7月5日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第7回

03/07/2010

劇評セミナー第7回は手塚夏子さんを迎え、自作「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」について語っていただいた、あるいは、分からないこと、感じたこと、自由に語った。「私的人体実験」が抽象度の高い作品だっただけに、受け手としては「イメージ・妄想の膨らみ」を伝えるとともに「種明かし」が欲しい的な興味ももちろんあったわけで、いや、もちろん、種明かし的なコメントも頂いたのだけれど、タネがわかったところで腑に落ちて「あ、そういうことね」とお勉強して終わったりは決してしなくて、それがまた色々な概念・考え・妄想・連想を生み出して、すばらしく豊かな時間となった。

・自分の身体を細かく観察するということ
・「実験」から舞台上に出てくるものを「泳がせておく」ということ
・「観察する自分の眼」と「観察される自分の身体」の表裏不一体、薄膜一枚分引き剥がされる感覚、その薄膜一枚を行き来する情報フィードバックのループの波長の長短と、結果舞台に現れるもののレゾルーションのきめ細かさについて
・現代口語演劇が持つ問題意識との親和性。平田オリザ、多田淳之介、松井周と手塚夏子。演出家・コリオグラファーの手綱の長さとパフォーマーのモチベーション。
・可能性を狭めることと広げること。数多くの可能性を意識しながら、今ここには自分のこの身体、動きしかないということ。
・インターフェースということ。
・舞台上のスピーカーから流れるパフォーマーの声と肉声の音との微妙なずれ、ゆらぎ。それを差配した牛川紀政氏がいかにこのパフォーマンスの肝を掴んでいたかということ。

すげえ。手塚さん、僕が外れたことをいうときちんと「それは違う」と言ってくれるし。こんな会話が午前1時の居酒屋とかじゃなくて、午後3時のアゴラ劇場稽古場、午後5時半のイーグルで交わされているということが奇跡のようにすら思われる。

重力/Note 二人/狂う

02/07/2010 ソワレ

「最近の若い人は」と人括りにして言うのは本当に良くないと分かってはいるのだけれど、やはり第一印象として「本当に最近の若い人は真面目だし、しかもきれいにまとめる能力があるなー」と感じてしまった。

幕が開いてのっけから「ってこれは地点の安部さまコピーじゃあないか」と思わせてしかもその点に何の照らいもなく、で、実際役者陣にも力があって、「あまりにも地点コピーですね」というポイント以外殊更に貶める根拠もない。舞台美術もテアトロ・ド・ソーニョの雰囲気とマッチしてきれいだし、星野大輔の音響はそれはもういつも通りキレているし、つまりはトータルのプロダクションとして色々なことをきれいにまとめて、しかもスカしてない。

でもね、そういう舞台を一時間観ていても、グイグイと空気を客席に向かって押し込んでくる力を感じなかったのだ(・・・あぁ、おじさん臭い)。あまりにも生真面目にまとめてあるからだろうか、敢えて例えるとすると、イヨネスコの戯曲が表通りの商店のショーケースの中に、あらゆる意味で過不足なく・大過なく・ケチのつけようがなく、すっきりと陳列されているのを観てきた、という感じがしたのだ。

きれいにまとまっていなくても良いから、ショーケースのガラス窓がビリビリ震えて割れてしまうような、いや、割れなくても構わない、思わずガラスに鼻面押しつけて見入ってしまうような、そういう圧力が感じたかった。

その圧力は、スタイルから生じるものではないだろう。むしろ、圧力がスタイルを生じさせるはずなのだ。それがどういう圧力なのか、客の立場で創り手にエラそうに説教垂れることはできないけれど、少なくとも、それは、戯曲を手に取った時点で演出家のどこかにビリビリきてたはずなんだ。スタイルが観たいわけではないんだ。そのスタイルを採用してしまう創り手のことに、もっと興味が持てたら・・・

そういうのがもっと観たい!(・・・あぁっ、またもや年寄り臭くなってしまった・・・)でも、それが正直な気持ち。