2010年6月30日水曜日

パラドックス定数 元気で行こう絶望するな、では失敬

27/06/2010 マチネ

野木萌葱氏、三鷹で大技に挑んだな、という印象。
その心意気は、買う。かつ、そんなに上手くいっていないこともなかったと思う。が、本来の持ち味であるところのディテールの処理の仕方に不満が残って、正直もったいない。


<以下、ネタバレです>

高校時代の記憶と大人になってからの現在とを並べてみせる話は世の中に沢山あるだろう。が、記憶を並べておいて、それを現在を軸にしてひっくり返して未来にぽいっと投げ出してやろうという試み、しかもその軸の真ん中の切り口に「芝居」を持ってきてやろうというのは、なかなかの大技だなぁと感じた。このところ「記憶」を過去で完結させたままにしてしまってそこから先がない、みたいな芝居をいくつか観てフラストを感じていただけに、なおさらである。また、パラドックス定数で過去に拝見した公演も「過去の事件」の閉じた世界をきっちり仕上げることが多かったので、そこからまた一味違う芝居をやろう、という意気を感じたわけである。

でも、まぁ、細かいところであれっと思うところは結構あって、例えば男子高校生20人のもてあまし加減を観ると、うーん、こういう汗臭さを力でねじ伏せる勘所は、(ほんとはこういうところで比べちゃいけないんだけど)田上豊に一歩譲るなと思う。男子高校生を扱う時には、どうしても、汗とか涙とか小便とか、そういう臭いものをさらけ出してこそ、と思うし、「頭をしばく」アクションも、もっと激しくないとなんだか解放されるものがない。たまに出てくるネコパンチではフラスト溜まる。

これは、野木氏をこき下ろしているんではなくて、「スタイルとして」野木氏の芝居の迫力は「押し殺す」方向でこそボルテージ上がるんではないかと思うってことなんだ。三億円事件、怪人21面相、東京裁判。そりゃあもう、今回だって、何かを押し殺してる男子高校生20人、あの面子揃えたら、ちびっちゃうくらいすごい芝居ができたに違いないと思うのだ。しかも野木氏の得意のゾーンで。

というわけで、野木氏の得意ゾーンと、狙った大技のギャップが色んなところでムリを生じさせていた気もする。もちろん力のある作・演出にてだれ20人揃えてそれは贅沢なことなのだけれど、色んなムリ巾を最後の大柿氏の長台詞に託すのはいかにも苦しい。もう一度、自分の世界に引きなおして挑戦してはどうか。「押し殺し」バージョンで観たい。あぁ、じじ臭く説教臭くなっちゃうのは嫌だけど、ほんと、なんとも勿体無かったんだ。

2010年6月27日日曜日

手塚夏子 私的解剖実験-5 関わりの捏造

26/06/2010 ソワレ

手塚夏子氏、初見。
観ていて何とも気持ち悪いパフォーマンス。だが、観ていて飽きることは決してない。リニアに時間を刻んでいくし、「身体」と「心」の動きもそれぞれリニアな軸の上を行ったりきたりして、途中でなんとなく結末も見えてくる感じなのにもかかわらず、そこで理に落ちて興ざめということもない。

「私的解剖実験」という名にふさわしく、人間の身体に人為的な刺激(あるいは制約)を加えたら、それが人体という不完全な機械のもう片方の重要な部分を占めるパーツであるところの「心」「感情」にどのような作用を及ぼすのか、そして感情は身体にどうフィードバックするのか、そのループの具合には正解の糸口も試行錯誤の出口もなくて、劇場を出るときにはなんともいえない不快感が残る。

これから一体何が起きるのだろうということにとても関心を持ちながら観続けた。けれど、どこまで段取りを決めてどこから計算が効かなくなっているのかは見破れなくて、いや、「ひょっとしたら計算できないハプニングに頼る部分が大きかったらどうしよう?」という不安も実はかなりあった。

劇場を出てからかなり時間がたってから思えば、その不安には"ほぼ"根拠がなかったし、何となくロジックで説明できそうな部分もあるのだけど、どちらかといえば、終演直後のあの何ともいえない微妙な不快感の方が大事なのかもしれない。

三条会 失われたときを求めて 第2のコース「花咲く乙女たちのかげに」

26/06/2010 マチネ

三条会による「失われた時を求めて」全7回中、今回は第2回。

<以下、ネタバレあります>


今回は前回よりもぐっと分かりやすくて、立ち上がりのフェードルから中盤、少女が分厚い文庫本のページを繰るところ、ラストの少女たちの戯れまで、ドライブ感もたっぷり。

面白かったのは、小生が「あ、ドライブかかってきた」と感じた中盤の「見出し飛ばし読みコーナー」で、娘は昏睡状態に陥ったらしい。確かに、そのコーナーでは「眠るなら眠ってしまえ」みたいなものも感じたのだ。海辺に波が寄せては引く映像流しっぱなし、役者が動きを止めて文庫本読みっぱなし。これでは眠りに落ちる観客を責めることはできまい。と思ってみていたら存外自分は眠らないでいられたのだが。

そのドライブ感を起点にして、テクストの肌触りが舞台上に浮き出してくる。あたかも文庫本のページに印刷された黒いシミが、ブツブツと音にならない音を立ててページから盛り上がってくるような、そして、「発音される、理解される、そういう抽象なもの」ではなく、「テクストとして実体を持ち、ブツブツと音にならない音を立ててそこにある」ものに成り上がろうとする「テクストの」意志を感じて、ちょっとだけ震える。近藤祐子のテクスト流し読みは、子供の頃・思春期の頃に長い本を飛ばしながら読んでいったときの、そのブツブツが切れ切れに盛り上がりながら後方に流れていくドライブ感を思い出させて、僕の記憶は田舎の夏休みへと飛ぶ。マイクで連呼される「わたし」は、両親の実家にいて少女たちとの出会いも一切無く夏休みを過ごすわたしであり、ページを繰りながらうたた寝をするわたしである。

そのわたしの記憶の上に、ニセモノの膜を薄く一枚敷いて、偽りの記憶を埋め込んでやろうというテクストの悪巧み。それは私自身からすれば、ウソだと分かっていても、その肌触りがあまりに気持ちよいために手放したくないような、そういう悪巧みに、三条会はあからさまに加担している。

第3のコース、楽しみになってきた。

2010年6月21日月曜日

FUKAIPRODUCE羽衣 愛死に

20/06/2010 マチネ

最初の曲、金子岳憲が舞台の一番前に立って面を切って、まるで二枚目のように真面目くさって「クレイジィーラァーブ」と音程微妙にはずして歌うのを聴いたとたん、あまりのことに涙がでてしまった。なんだよ、これ!最初っからやられちまったよ!

というのは本当の話なのだが、今回のFukaiProduce羽衣は、一つのシーンをかなり長回しにしてねっとり見せた。「経験者組」と「初体験組」をうまく組み合わせ、どのシーンを見ても羽衣色がしっかり出て、しかも新鮮。藤一平さんのいない羽衣がどうなってしまうのかとても心配だったのだが、うん、なんだか、補強がうまく行ったシーズンのフットボールクラブのようで、よい感じ。

中でも内田慈さんは出色。
「うちだちか、あぁうちだちか、うちだちか」
手足の動き、キメ、背中の反り、歌、フリーズしている時の横顔、どうしても目が行ってしまう。しかも「あたし女優よ!あたしだけを見るのよ!」なところが一切なく、全体の中できちんとワークしているところがすごい。こういう芝居だからこそ改めてきちんと認識できる内田慈のすごさよ。

西田夏奈子さんも一声発した時点で痺れてしまうし、伊藤昌子さんも・・・いや、伊藤さんを見に行っているようなものですから、私は、毎回...。「経験者組」の女優の皆様もかわゆく、男優陣もいつものごとくかわゆく、満喫。

モモンガ・コンプレックス×aujourd'hui il fait beau 研Q

19/06/2010 ソワレ

研Qを観にキラリふじみまで。往復の交通費の方がチケット代1,000円より高い。いや、だからこそ1,000円というお値段がとても嬉しい。嬉しい上に、モモコンと今井次郎さんが競演するんだから、これは嬉しすぎる。

が、それにしても今井次郎さんの存在感はすごかった。なんだよこれ、ってくらいすごかった。それを背負って平然と演奏し続けるaujourd'hui il fait beau の人たちもすごかった。

残念だったのは、モモコンが、aujourd'hui il fait beau のぐだぐださの前では持ち味のユルさを出し切れずにいたことか。もしかすると年長者を立てていたのかもしれないけれど、モモコン側からもう少し突っ込んでも、もっと場が壊れてしまいそうなくらいにユルくしても、ぜんぜん大丈夫な気はした。

是非もう一度、欲を言えば開放感のある野外で、大道芸っぽく見てみたい。です。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第6回

19/06/2010

劇評セミナー第6回は中野成樹+フランケンズの「寝台特急"君のいるところ"号」合評。講師に小澤英実さんを、サプライズゲストにフランケンズから中野成樹さんと小泉真希さんを迎えて。

小澤さん、とっても魅力的な方で、書いた人から色んなことを引き出すのが実に上手。きっかけ作り、あるいは、きっかけを掴んだところからさらに色々なことを聞き出す手管。本当はご自分で考えていることも色々とおありであろうのに、そういうところに流れていかない態度も実に大人で、感服した。

中野氏も、自分が演出した作品の劇評合評会にいらして、そういうアウェー感たっぷりな場にまずいらしていただけることに感服。そして、終わりごろに仰った(と記憶するが)「ワイルダーの原作と誤意訳との関係」「創り手が舞台に提示した作品と劇評との関係」を対比してみるような態度には、寛容と厳しさが同居していて、それもまた真摯で素晴しかった。

中野成樹+フランケンズの芝居は、一見して「よく考えて創られている」ことが分かるので、どうしてもそれについての劇評も「考えて書かなきゃ」というところに入り込みだとは思う。あるいは、「私はこう思うけれど、じつは創り手はもっともっと考えているんだろう。そこまでは見通せない」みたいないいわけじみたところに落ち込む可能性もある。実際出てきた劇評も割と「考えた、頭のいい」ものが多かったのだけれど、それでもその中にも思いもかけない視点や示唆や、妄想のかけらのようなものが存分に散りばめられて、もっともっと色々と芝居について話がしたくなる。真面目に芝居を語ってみることの効用がまたここにも。

2010年6月17日木曜日

庭劇団ペニノ アンダーグラウンド

13/06/2010 マチネ

これは「手術ショーが暴走し破綻する過程」を芝居に仕立てたものではない。
「模擬手術ショーの体を借りたエンターテイメントショーが暴走し破綻するように見える過程」を芝居に仕立てたものだ。
それは僕がここに書かずともみーんな知っていることだ。マメ山田さんが冒頭出てくるなり「これはショーです」と語りかけるし、「これらの機器は見かけだけ。ニセモノです」というし、患者役は顔と腕だけ出してあとの身体はベッドの下に隠してしまう。大体、最初から、生身の人体解体ショーなんか上演できるわけ無いし。

この芝居を観て、「何だか生々しさが足りないなぁ」とか「この薄っぺらいニセモノ感がどうも」とか、逆に「段取りが妙にリアルだ」とか「臓器の模型は、そうと分かっていてもニガテ」とか、そういう感想が出るのは何となく想像つくが、で、僕もそんなことを色々思いながら観てたのだが、最も驚いたのが「自分はなんと悪趣味で意地悪な想像力の持ち主であるか」ということだ。

悪趣味でもなければ、マメ山田さんがピア・スズキさんの前で「肝臓をコツコツと指し棒でたたいてみせる」ときに、「あぁ、もっとこれがグニョグニョとした感覚であったなら!」とか、思うわけが無い。坂倉奈津子さんが腸を引っこ抜いてしまう時に「あぁ、もっと制御不能に腸がグニョグニョと登場人物たちにからまってしまったなら!」とか、思うわけが無い。

タニノ氏がトラムのステージに載せているものは、それ自体が「悪趣味なもの」として完結しているものというよりも、むしろ「もっと悪趣味を!」という観客の望みを増幅する装置なのではないか、と思われたのだ。それにうまいこと乗っかって自分の悪趣味をはらわたのようにずるずると引き出されてしまった自分に、苦笑といっていいのか嫌悪といっていいのか、どうもフクザツな心境である。またタニノ氏にまんまとやられたということだ。

2010年6月15日火曜日

SPAC 彼方へ 海の讃歌

12/06/2010 ソワレ

SPAC「テクストもの」三本立ての最後を飾ったのはヘビー級のテクストの洪水、溢れ出るイメージ。クロード・レジの自信と知性と情熱に満ちたアフタートークの発言とも併せ、他の2作品のアーティスト達には若干気の毒ではあるけれど、まさに大トリの貫禄。

フェルナンド・ペソアの詩は、有体にいえば一人の男が波止場に立っていたら海についての妄想がとめどもなく抑えようもなく溢れ出してきて、ってことなんだけど、レジ氏、テクストにテクストが本来考えていたかもしれない「意味を伝えてOK」みたいなことで済まして仕事をサボるようなことを決して許さない。思いっきり時間をとって一音一音発語し、ぎりぎり「意味が伝わるところ」まで追い詰めて、文法的には繋がっているんだけど、子音の破裂や摩擦や母音の響きや、そういうところまでこれでもかとすっかり解体してしまう直前の寸止めのところで空間に解き放って、それが楕円堂の中を渦巻いていく様といったら。

言葉は意味の奴隷ではなくて、イメージであり、音であり、空気の震えであり、喚起するものであり、それ自体が快楽となる音楽であり、それら全てに触れたときに観客に生じるもの。そして演劇はテクストの奴隷ではなくて、舞台であり劇場であり照明であり身体であり音であり観客の固唾を呑む音である。すごい熱量で納得させられる。

オーネットコールマンがソロでアルトを吹きまくってるのを聞いたときに、彼の脳味噌の中身が音に形を変えてアルトサックスの朝顔の先からだだ漏れに、トグロを巻きながらホールの中に溢れ出ていくのを目撃したのだが、今回はテクストが役者の全身からトグロを巻いてゆっくりとはばたいて空間を満たすのを目撃したのである。稀有なり。快楽なり。SPAC、すげえ。レジ、すげえ。年をとっても大丈夫である可能性はある。と、少し思った。

SPAC セキュリティー・オブ・ロンドン

12/06/2010 マチネ

非常にエンターテイニングでおもしろいパフォーマンスだった。問題は、作者・パフォーマーのジーナ・エドワーズが、自分のパフォーマンスのどこがおもしろいかを理解していないことだろう。おそらく、二匹目の泥鰌はない。だからこそ逆に、今回の上演をみれたことはすごく幸運だったといえるかもしれない。

北ロンドンに住む47歳のパレスチナ人の男、カリブ系の双子のティーンエイジャー、80歳を超えたカリブ系の退役軍人。その組み合わせのバランスが絶妙。また、役から役へとシフトするときのうねっと変わるところが、落語の(あるいは岩井秀人の落語の)動きにも似て楽しめる。さらに個人的なことを言えば、73番のバスに乗ってイズリントンからシャフツベリーアヴェニュー、ピカデリー、トラファルガースクエァからサウスバンクまで。ロンドンの景色が見えてその中に犬をつれた47歳の中東の男が見えて、それだけで涙がでた。テクストが描く情景に、泣かされたのである。

ところが、そういうバランスや動きのおもしろさについてエドワーズが必ずしも自覚的でないことが、アフタートークを聞いていて見えてきてしまう。何故パレスチナ人なのか?何故退役軍人なのか?何故コソボ人ではなくてナイジェリア人ではなくてアイリッシュでもないのか?おそらく、かなり適当に、考えずにそれを選びとっているように思われた。また、役と役の間のブリッジのおもしろさについても、演出のシュラブサル氏にはわかっていても、彼女にはわかっていないように思われて、がっかりしたような、いや、逆に、巧まざるところでこんな素晴らしいパフォーマンスができあがってしまうところがさすが英国パフォーマンスアートの層の厚さ・力強さというべきなのか。

「社会批判ワン・ウーマン・ショー!」「監視カメラの王国」というSPACのキャッチコピーは、その意味ではかなり外れていた。良い意味で。
エドワーズの監視カメラに対する見方もまるっきり素直で(言ってみれば鴻上尚史の監視カメラものと同じくらいナイーブでつまらない動機なのではないかとも思われるけれど)、でも、そこに出てくる人たちの描写は、思いっきり考えていなくて思いっきりベタでしかも地に足が着いていて、力強い。自然にご近所のことを演じたら社会派になっちゃうのが、ロンドン芝居の強みってことかもしれない。いや、でもそんなこといったら、日本でだって、充分近所のこと演じてもポリティカルなことできるんだけど。

2010年6月14日月曜日

SPAC 若き俳優への手紙

12/06/2010 マチネ

SPACの週末三本立て、無料バス弾丸ツアー。この日は三本とも「テクスト」語りを中心にお題が組まれて、しかもそのテクストの扱い方がすべて違った。
第一弾はオリヴィエ・ピィが静岡で2008年に自演した「若き俳優への手紙」。日本語版台本を平田オリザ、演出を宮城聡のタッグで送る80分の二人芝居。

厳しいところを狙いに行った芝居だと思う。
80分饒舌に語り続けるにも関わらず、そしてそれが、舞台上を含む様々な場所で発せられる言葉について語る言葉であるにもかかわらず、その舞台上で詩人によって発せられる言葉自体が、(このように客席に対して語りかけられる芝居でよくあるように)この芝居の主題について伝えたいことを伝えているようにはとても思えないのだ。

ところが一方で「テクストの字面は何も語らない。テクストは状況や身体性を通して語られないことを語り得る」という、割と現在では通りの良い命題・落とし所に対しても、このテクストは「フットボールの試合と一緒にするな」と釘を刺してしまう。

そのくせ、再度裏を返してみると、どうも(語り手あるいは作者)自らがテクストに拘っていることの無謀さと滑稽さについても、自覚されている気配が濃厚である。どうにもやっかいなテクストである。

何重にもテクストに対する立ち位置をひっくり返しながら、この語りが演劇として成立するストライクゾーンは、たぶん恐ろしく狭い。そこを狙いに行ったのか。

その困難な企てに立ち向かって80分立ち続けるひらたよーこの男気や良し。が、前半やはり緊張していたのか、微妙なコントロールが狂って、ぐぐっとストライクゾーンに引き寄せられるところまでは、僕は行かなかった。が、まぁ、野球の楽しみは勝ち負けだけではなくて、微妙なストライクゾーンを巡る投手と打者と捕手の駆け引きを眺めたり推理したりするところにもある。気に病むことはない。心おきなく微妙なタマを投げ込めるプロダクション自体が気持ち良いのだ。

2010年6月13日日曜日

文学座 麦の穂の揺れる穂先に

06/06/2010 マチネ

邦生クンや木ノ下先生が歌舞伎の観客についてアツく語っていたことの意味がよーく分かったよ。前半、周囲に寝息とイビキの気配を感じて思わず見回せば、まあ、周囲16人いれば5人は熟睡していたね。上演中に甘ーいクリームやアップルジュースの臭いはぷんぷんするし、でも最後、江守徹さんが一人になって、何だかラストっぽくなると、みんなちゃっかり起きて舞台を見守っている。芝居がハネたら「やっぱり江守さんは良いわよね。おはなしは何だかわからなかったけれど」みたいなことをお友達と話しながらお家に帰るんだろう。

あ、誤解しないでほしいのは、ここで「文学座の客層はひどい」と言っているのではないという事。言いたいのは、「文学座の劇場では、小生が知っている小劇場の劇場と、創り手・観客にそれぞれ求められている『お約束』の体系が異なっている」ということである。

だから、平田オリザが文学座に戯曲を書き下ろす時、それは、なにがどうあろうとも「異種格闘技」にならざるを得ないのだ。これをもって、平田の演劇が新劇に近いという判断を下すのは、とっても間違っていると思う。実際、青年団ではこの戯曲上演しないと思うし。既成の青年団用の戯曲では文学座では使えないから新作を書き下ろすのだろうし。

まぁ、その異種格闘技感の中にあっても、前回平田が書き下ろした「風のつめたき櫻かな」は、初戦ということも手伝ってか、ガチンコ感漂っていたのだが、今回はどうやら文学座ルールに歩み寄った(擦り寄ったでは決してなく)感がある。同時に、旧作「この生は受け入れがたし」「隣にいても一人」の切り貼りも使って(だって自分の戯曲だし、小津への敬意は昔からだし、使って差し支えないものは何でも使いますよ、ということだろうけれど)、余裕のある構え。うーん、こういうのもありですか。あり、なんでしょう。どうやら。

文学座の「お約束」の中でのベテラン俳優陣の強さには目を見張るものがあった。特に、女優2人。文学座ルールの外ではどうだか知らないけれど、ホームでの戦いではルールを知り尽くした上で見事に空間を支配する。生意気を言う積もりは無いけれど、大したものだ。

そうやって思い返すと、今回の「異種格闘技」は、文学座ルールに近いところで、文学座に軍配が上がりやすい設定だったのだろう。もう少し、戯曲の構造が「文学座のルールを揺るがしているかもしれない」ように見えるとよいなー、とも期待していたのだけれど。まぁ、1回・2回で勝負がつくようなものでもないだろう。きっと。

劇評掲載(青年団「革命日記」、ワンダーランド劇評セミナー)

青年団「革命日記」について書いた劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
拙いものですが、ご興味ある方ご覧下さい。書きぶりは拙いが、日頃考えていることは反映されていると思います。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1300

2010年6月11日金曜日

快快 SHIBAHAMA

05/06/2010 ソワレ

快快が、古典落語「芝浜」を材料に「一年、いろいろやってみたり考えたりして」舞台に上げたのは、現代の僕らに芝浜シチュエーション当てはめたらどうなのか、どれくらい芝浜の物語って共有できるものなのだろうか、という課題に、ド真ん中直球で答えてみせようというバラエティ。はちゃめちゃやっているように見せかけて、実はほんとに生真面目でロジカルなプロセスを踏んでいることを思い、何だか、その場では気安く楽しんでいたことが、後から「わるかったかなー」と思えてきたりもしたのだ。

冒頭、ガジェット使ってテクストと身体を「ぶった切り/再構築」してみせる試みにはハッとする。が、これだけでは5分、長くて10分が限度。そこから始まるバラエティショー。ウェーブあり、ゲームあり、キャバクラあり、じゃんけん大会あり、格闘技がちんこ対決あり、と、パーツパーツをつまみ食いすれば「大暴れ」「ドンちゃん騒ぎ」と見え、芝居の枠をはみ出しているといっても差し支えないのかもしれないけれど、いや、待てよ。芝浜の物語のパーツを個々に取り出して、そこに現代のカウンターパートを当てはめて舞台に上げてみるというプロトコル自体は極めてロジカルで、構成ともども「すっごく考えた」結果である。少なくともそういう風に見えた。「ノリ」があってそこにロジックを後付けしたようにはとても見えなかった。

そのロジックの生真面目さに加えて、今度はそれを「突き詰めた」時の加速度についてもおんなじことを考える。特にコージ君のガチンコ格闘技。3日ハイ体験記。いや、それは、真剣に本当に心配ではあるんだけど、でも、それを差配する篠田千明の眼はとっても冷静で(いや、眼がすわってただけなのか?)、絶対に誤った方向に行かないという「ロジカルな」安心感が同時にあった。それをどう捉えればよいのか、自分でも困ってしまった。

とは言ったって、快快のおもてなしぶりは本当に、いや、それこそ真面目に「楽しませよう」という態度があって、仲間うちでない人たちにも間口がひろーく開いていて、それは毎回毎回涙出るほど嬉しいところ。

だから、上で書いたような理屈っぽいところでうじうじするのが、小生のような「もてなされ下手」のいけないところだなぁと思う。遠くの客席にいる青山社長は、本当に、大人に、かっこよく、自分のペースで、SHIBAHAMAを楽しんでいた。羨ましい。あんな大人になりたい、と思ったことである。

2010年6月6日日曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第5回

05/06/2010

劇評セミナー第5回は中野成樹氏が自作「寝台特急"君のいるところ"号」を語る回。本当にたくさん語って頂いた。一見ランダムに話題を散りばめているように見せながら、実はかなりのところをカバーする感じ。

・中野氏が自分のジャンルの拠り所として譲れないであろう部分=「ブレンドとミディアムテンポ」=「吹奏楽とカシオペア」=人を煽らないスリル。まがい物っぽさ。
「日本ではオケが難しいから吹奏楽で演るしかない」みたいなことを芝居でやること。
・微妙なタッチや息継ぎの合わせ方=芝居の中での細かいところの処理。音楽との合わせ方。カーテンコールの長さ。
・四季のミュージカルを観ながらブロードウェイのミュージカルを想像して泣けること。
プラトンのイデアの話。
・「"君のいるところ"号」は、「ハヤワサ号」ではないこと。でもワイルダーであること。

「カシオペア」という喩えは何だかすごーく納得的だった。それは、中フラが一種極められるであろう場所への期待と、そこに対して僕が(ある程度納得しながら)感じ続けるであろうフラストレーションを同時に表しているように思われた。

セミナー受講生の方に「大学でワイルダー研究してました」という方がいて、これも大変勉強になる。中フラや柴氏の動きを見ているとワイルダーってもっと上演されている・読まれている作家かと思っていたら、意外とそうじゃないんだな。「おはなし」というジャンルが無自覚に日本演劇の(もしかすると世界の演劇の)大きな部分を占めているとすると、まだまだワイルダーの作品は"underrated"なんだな、ということも考えた。

「"君のいるところ"号」のタイトルのつけ方について尋ねる受講生がいなかったのは、一種驚きというか、やっぱりというべきか。あまりにもベタな質問なので避けたのか。アフタートークやったら真っ先に出る質問だと思うんだけど。それも面白かったかな。