11/09/2009 ソワレ
スケジュールがどうしても合わなかったとか、チケットが売り切れちゃってて・・・とかいう方にも会ったが、そういう人には僕は、
「いや、何を差し置いても観に行け、というものでもなかったよ」
というようにしている。理由はいくつかあって、
① 何だか、「次回もチケット蒸発必至、ご予約はお早めにね!」みたいな雰囲気(あるいは、あの、「伝説の」というような誤った伝わり方)を(僕が)煽るのはどうかと思うし、そういう状況は主催者の意図とも(きっと)違うんじゃないかな、と思うから。
② 初日だったかもしれないが、ちょっと、客席が「サロン」じみてたところもあって、自分がそういう場に居てしまうことへのうっすらとした嫌悪感と、うーむ、ここでこう閉じてしまうのはどうだろう、ともちょっと思ったから。それは、この催し物に限った状況ではないのだけれど。
③ 飴屋氏の出し物も含め、素晴しいものはいくつもあった。でも、その素晴しさは、「吾妻橋」の場だからこそ、この一回きりだからこそ、(だから、ぜったい行きなさいよー!)という面と、逆に、「でもこれ、観る側の意識さえ澄ましていれば、実はいつでもどこでも味わえる類のものなのではないか(ちょっと危ないが)」という面もあるんじゃないか、ってことも最近考えているので。
特にいとうせいこう氏の朗読と飴屋氏の出し物を観ていて、「名乗ること」と「名付けられること」、「名付けること」と「歴史を書くこと」、「歴史に書かれること」と「名付けられること」、「匿名でいること」と「名乗りを上げること」、及び、それらの状況で発生する/しない異議申し立てについてずっと考えていた。それが「舞台」にのって「観客」に観られていること。それを観ていない人がいること。そういったことも含めて。
もっともっと開かれていくために、どうするか・・・。
そこから先をどうも考えきれず、頭の中モヤモヤなのだが。
快快や鉄割など、他の出し物についてがいかに素晴しかったかについては、きっと語る方が数多くいるだろうから、特にここには書きません。
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