2015年6月27日土曜日

Violence and Son

20/06/2015 マチネ @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

昨年、"Ghost City"の日本語訳をRoMTで上演した、Gary Owenの新作、ウェストエンドデビュー。
きつい芝居を140分見せておいて、こういう落とし前ですか、って、思っちゃったよ。

ウェストエンド、っていっても、Jerwood Theatre Upstairsは、劇場の階段をがしがし上がっていって、最上階、屋根裏のようなスペース。キャパ100人弱のスタジオで、すこぶる良い感じ。スタジオ中央、円形に囲った家の居間を、周囲から客席が取り囲む。

なんと言っても、タイトルからしてViolence and Son 「暴力と息子」。Violenceってのは、父親のニックネーム。息子を産む前に父から逃げた母が病気で亡くなり、身寄りも無く、やむなく父の元で暮らすことになったDr Whoオタクの童貞17歳。きっつい話になるのではないかと、ある程度の予想はしていたのだが。
父と息子の感情の「上下動」と「波長のズレと偶然の同期」とが、何とも言えない面白いうねりを作り出していた。

あるDr Whoイベントに一緒に行った後、色々あってうちに帰れなくなっちゃった女の子を一晩家に泊めることになる、オヤジは相変わらずの暴力男だが、そこにつきあってる女性も来ていて、で、オタクな息子に童貞喪失のチャンス到来、さて、どうする?
っていう筋なのだけれど、それが、どう展開するのか。女優2人の頑張りもあって、がっつり時間を進めていく。そこは、堪能した。

が、ラストの持って行き方が...こ、これで良いのか、過ぎて...

そういえば、昔、エディンバラで、ロリコン前科者の男をアビューズされてた女の子本人が訪ねてくるって芝居を観て、それが、ラスト直前まで壮絶な出来映えだったのに、最後のなくても良いシーン3分間でぷっと吹いちゃう終わり方で、やっぱり、「こんなのありー?」と思ったことがあったのだけれど、いや、もしかして、UKの芝居って、僕から観るととてつもないとんでもな終わり方をすることが、実は「すごい」って思われるために必要なのだろうか?そういえば、岩井秀人氏の「て」のリーディングをロンドンでやったときも、「ラストのひねりが足りない」とおっしゃった人がいたそうだが、やはりここは一発、狂った次男の運転するトラックが葬列に突っ込むぐらいやれば、ウェストエンドでの成功間違いなしだったのだろうか?

またぞろ、英国の芝居に対する疑念がむくむくと・・・

2015年6月14日日曜日

Oresteia

13/06/2015 ソワレ @Almeida

アイスキュロスによるギリシャ悲劇を現代風に翻案して、退屈せずに見せきった3時間40分。でも、ラストのアテネの台詞はなー。3時間30分これだけ見せておいて、こう風呂敷畳みますか!!!!

Almeida Theatreはイズリントンにあって、場所的にはWest Endとは言い難いが、そのプロダクション力とか、格なのか、一部にはWest Endの劇場として紹介されている、名門劇場。今年の夏~秋は、ギリシャで行くぞ!と銘打って、今回はその第一弾、Oresteia。
ちょうど今、東京では木ノ下歌舞伎が三人吉三、5時間通し上演をやっているはずだが、こちらも負けじとギリシャ悲劇3時間40分である。
が、こちらはアイスキュロスのギリシャ悲劇に大幅に手を加えて(加えているはず。原典を当たっているわけではないけれど)現代風に。

第一幕、無茶苦茶かっこいい。冒頭の台詞を聞いただけで、もう「ついて行きます、どこまでも!」と思ってしまうくらいにかっこいい(これを言っているのが誰なのかは、プログラム読んでも配役表読んでも出てこない。後でテクスト見たら、Calchasとあって、トロイ戦争時のギリシャの予言者だそう)。そしてアガメムノン。映画「トロイ」でブライアン・コックスが演じるアガメムノンに敬意を表しつつも、いや、このアガメムノンが(一種トニー・ブレアを意識しているのかもしれないが)、モダンに、抑制効かせながら、見応え十分。
第一幕で娘を生け贄に差し出して、第二幕でアガメムノンが妻のクリュタイムネストラに殺されて、第三幕でクリュタイムネストラが息子のオレストスに殺されて、で、第四幕でそれまでの展開をくるっとひっくり返してさらに伏線を一気に回収して、ドン!と来るのだけれど、オレストスを演じる若い役者がちょっと絶叫芝居系で、今ひとつ。そして衝撃の結末へ。

ギリシャ悲劇を現代に翻案する際の問題意識としては、岡崎藝術座の「アンティゴネ/寝取られ宗介」を思い出す。神里演出の方が、社会の規範と個人の緊張関係をクリアーに見せていた気がするんだけどなー。どうなんだろう。

いや、本当に、3時間35分経過までは、「この芝居、邦生王子の演出で観たい!」と心の底から思っていたのだけれど、それが覆りかねないほどに衝撃の結末だったのですよ。


<そしてネタバレ。Oresteiaご覧になる予定の方は読まないで下さい>

オレステスの母殺しに関する有罪/無罪について、陪審が50/50に割れるところまでは、大方の想像通り、かつ原典通り。
で、アテネの評決。手短に言えば「うん、でも、私たち、男性社会で生きてるから。陪審の評決が五分だったら、被告人(男性)の利益に」だって。
いや、ひょっとするとアイスキュロスの原典通りなのかもしれないけどね(読んではいないけど)。でも、それは、いやしくも現代に翻案したんだったら、そして、かなり編集を加えたんだったら、それ、言わせなくてよかったんじゃないの?芝居のスケールと見合わないご教訓に収束しちまわないですか?
どうですか?オレは納得いかないよ。
どうなんだろう?いいのかなあ?

The Father

06/06/2015 ソワレ @Tricycle Theatre

「父」の記憶が混濁していく過程を、「ほぼ一人称」に拘り、時として「父の記憶」を混濁したまま載っけてしまう戯曲の構造だけでなく、配役の混濁、舞台、照明、幕間の音楽、スタッフワークの全てを駆使して舞台に載せていた。「物語の筋」自体はリニアで特段奇抜ではないのに、舞台への乗せ方次第で、90分間、飽きずに観ていられるのだ。

KilburnにあるTricycle Theatre、キャパ200人程度の居心地の良い空間。瀟洒なパリのアパート(パリだから、アパルトマン、か)の一室。白壁、舞台奥の白いパネル、書棚、左右に一つずつ出入り口。舞台下手から自然光が差し込んでいるという設定。
と、気がつくのが、舞台上、天井が吹き抜けておらず、真っ白の天井が被さっている。また、敢えてプロセニアムを強調する舞台前面の四角なフレームは、青白いLEDで縁取りされている。この、天井と舞台前面、後ろパネルで囲まれた空間は、一種、「父」の脳内空間の縁取りとなっている。

冒頭の導入場面。認知症の兆しを示す父と、心配性の次女の間の、一種ありきたりな会話。ちょっと「あ、ありきたりな芝居に来ちまったか」と疑う。

が、その直後の暗転。ピアノの小曲がかかるのだが、針飛び、繰り返し、クリックノイズ。「うん?」と思う。

この、ありきたりに始めておいて、うん?と思わせて、それが、舞台の進行とともに徐々に加速し、エスカレートしていく、その手管にうなる。
アパートの調度が微妙に変わっていく。失せる家具、加わる家具。暗転中の音楽の繰り返し、クリックノイズ。同じシーンの繰り返し?それとも回想シーン?「父」の台詞や「父」が聞く台詞は、すぐ後のシーンで言っていなかったことになり、聞いていなかったことになり、果てには登場人物が入れ替わり、同じ会話が「違う相手との間で」繰り返される。これは現在進行の出来事なのか、繰り返しなのか、「父」の脳内の記憶の再生なのか。

観客も、舞台上の出来事が「父」の認知症の進行とリンクしていることは理解している。でも、それが、「父」の病状を神の視点で目撃しているのか、「父」の脳内の記憶再生を追っているのか、それとも、介護する側の人間として存在する「次女」の主観が介入しているのか。そのヒントは与えられない。その辺りの時間の進行の「行きつ戻りつ」の取り扱いは見事で、この戯曲が2014年にフランスで立派な賞をもらった(Moiere賞がどれくらいすごいのかは僕には分からないけれど、モリエールってくらいなんだからきっとすごいんだろう)というのは頷ける。

まてよ、こんな芝居、日本でもなかったっけ?そう。岩井秀人さんの「て」。でも、「て」では、おばあちゃんの視点からの時系列は追っていない。その分、主観のズレが観客からも分かりやすく出来ていたなー、整理しやすかったなー、と思ったりする。
この"The Father"が超絶技巧で複数の視点の混在をそのままにして引っ張っていくのに長けているとして、ただし、その代償は、おそらく、「最後はこうなりまっせ」的な、一種観客が安心できるようなラストシーンなのだと思う。そうでないと、お年を召した観客は完全に置いてきぼりのまま、劇場を出て行かざるを得ないと思うから(実際、終演直後、近くに座ってた老婦人が、連れに向かって、なんだか追うのが難しかったわよね、とおっしゃっていたし)。
だから、ラストシーンには大いに不満が残る。相当程度、「父の面倒を見る人々」に寄った視点に収束させて、観客を安心させに行ってしまった。が、それを差し引いても、相当レベルの高いプロダクションであることには間違いない。充実の舞台だった。

2015年6月10日水曜日

Waiting for Godot

6/6/2015 マチネ @Barbican Centre

Sydney Theatre Companyがオーストラリアから持ってきたゴドー待ち。
MatrixでAgent Smithを演じたHugo Weaving(Lord of the RingsではElrondを演じてる人)が出演していて、彼はとても良い役者だから。と聞いて観に行ったのだが、そもそも僕はMatrixをちゃんと見てないので、やっぱりよく分からない。まぁ、とにかく、オーストラリアで創ったゴドー待ちである。

1997年にPeter Hallの演出で、また、2006年にも別のプロダクションでゴドー待ちを観たことがあるのだけれど、今まで観たゴドー待ちの中で、一番もの悲しいゴドー待ちだった。そもそもゴドー待ちはもの悲しい話なんだ、と言われればそれまでなのだが、いやいや、どうして、僕はこれまで、もっとカラッとしたゴドー待ちしか観てなかったんだな、とつくづく考えてしまった。

このオーストラリアからやって来たゴドー待ちでは、カラッとテンポ良く時間を進めるのではなくて、べたっと、じわじわと、役者が演じていく。Hugo Weaving演じるウラジミールは、「昨日と明日」を強く意識したウラジミールであるとの印象を与える。
カラッとさらっと演じられる時の「あぁ、こうやって、毎日毎日ゴドーを待ってるんでしょ」という繰り返しを想像する感じではなくて、むしろ、昨日から今日、今日から明日、未来永劫へと進む時間のベクトルの方が強く感じられて、その時間の果てしなさに途方に暮れる2人の「心持ち」がもの悲しく見えてくる、そういう演出になっていたと思う。

「カラッと演出」のゴドー待ちでは、「また一日が繰り返されるという状況」を観るという感じ。
「べたっと演出」のゴドー待ちでは、どちらかというと、ディディとゴゴーの「自我」「内面」に興味が沸いてくる。
「自我」「内面」に焦点を当てることがこの演出の勝負所だったのではないかと思えたのは、実は大きな収穫。ディディとゴゴーの内面だなんて、今まで考えたこともなかった。

しかし。僕の隣に掛けていた方は、べたっとじわっと進む一幕の間すやすやとお休みになって、二幕では姿を消していらっしゃいましたよ。
僕も、ポッツォとラッキーのシーンではとても眠たかったです。

2015年6月3日水曜日

The Dogs of War

31/05/2015 マチネ @Old Red Lion Theatre

Dark Comedy と銘打ってはあったけれど、Comedyではないな、これは。救いのない話の中に、笑っちゃうシーンも時としてあった、という程度。
いや、救いのない話でもComedyを堂々と名乗ることの出来る芝居は沢山あるのだから(チェーホフであったり岩井秀人であったり)、これをComedyと呼べない理由は、救いがないからではないのだ。ただの、いやーな話だからなんだ。

精神病の妻とともに北アイルランドのど田舎に引っ越してきた夫。妻の病気を理由に早期退職したものの、職無し金無し、友人無しで何とかつましく暮らしている。大学生の息子は田舎暮らしと扱い難い母を嫌い、なかなか帰省してこない。ある夏、息子が帰省すると、飼っていたはずのイヌが3匹、見当たらなくなってしまっていて・・・

この芝居の決定的な瑕疵は、病の妻を「周りの人からの視線」だけでしか描けなかったことだと考える。
冒頭、大学生の息子の視点で芝居を始めておいて、その後の展開にも息子の視点を使いながら、後半に掛けては徐々に夫の視点にシフトしていくのだけれど、その間、「実は息子はこうで」「実は夫はこんな感じで」というネタを、(え、ここでそのネタ出して種明かしのつもりなの?と問いたくなるような、反則気味のタイミングで)繰り出すことで物語をドライブしようとしているように見えた。
その中で、一貫して「妻」は、夫と息子、隣人から見てただの手に負えない人、という視点でしか見えてこない。あれじゃ誰から見てもおかしな人だし、本人もおかしいのが分かってて「おかしく見せようとして演技している」みたいにしか見えないよ。だから「実は本人はこんな気持ち」というのが(独白の形で)明かされても、狂人の思い込み・悪あがきの自己主張(の演技)でしかないように見えてしまう。

いや、所詮は、家族3人が3人とも自分の視点からしか物事見ていないんだけどね。でもね、妻の視点からどのように物事が進行しているのかに観客が入り込めるような工夫が欲しかった。本人が自分の病状をどれくらい自覚しているのかは誰にも分からないけれど、でも、本人には感じられているはずなのだから。そこの境目が分からないようにしないと、Darkでも恐ろしくも何ともない。
「イヌが見当たらない」「実はいるのに見えていないだけなのか?」「あたかもイヌがいるように振る舞っている夫は、妻につきあっているのか、妻とともに病気なのか、それとも本当にイヌがいるのか」という軸は、観客に座標を示すヒントとして上手く使ってあるのだけれど、「精神病の妻」という軸がビシッと決まっているので、実際の効き目が薄いのが惜しい。

照明や音響効果も「いかにも」で洗練を感じない。
いや、でも、こうやって書いてると、何だか、いじれば良くなる芝居なんじゃないの、と思えてきたりもする。出来損ないの「て」なのではないかという気もしてきた。どうなんだろう。

ちなみに、Old Red Lionってのは、Angelにあるれっきとしたパブで、この日はArsenalのシーズン終了パレードで、外も盛り上がっていた。パブの中にはArsenalの旗が飾られてて、ただの飲み客ももちろんいたりする。開場を待ってたら、近所のオヤジが5歳ぐらいの姪っ子連れて怒鳴り込んできて「外歩いてたらこの上の階からレンガが降ってきて姪っ子に当たっちまって、ぐぉらぁ、責任者誰じゃい」みたいなことになったり、Pub Theatreならではの醍醐味ではあった。

2015年6月2日火曜日

Matchbox Theatre

30/05/2015 ソワレ @Hampstead Theatre

軽ーいタッチで短いスキット(というよりも、小咄)を24個繋げたエンターテイメント。どこまでエンターテイニングと感じられるかは人によるだろう。
Michael Fraynによる掌編集はすでに出版されていて、それを舞台向けにアレンジした由。
少なくとも僕にとっては、ぬるくて、大して面白くない小咄芝居。やはり事前情報に限りがあると、こういうこともあるだろうな、という感じ。

ただし、Hampstead Theatreには18年ぶり、改装後は初めて来たのだけれど、とても良い感じの空間だった。
ステージゲート前のバースペースも素敵だし、なにより、中の空間が可動式なのが良い。この芝居では完全円形舞台が出来ていて、客席もきっちり囲み客席。
舞台中央のせり、回り舞台も含めて、ずいぶんと使い勝手の良さそうな劇場だったなぁ。

どんな風にぬるかったのかを、備忘もかねてメモしておくと:
・冒頭、円形舞台の説明に5分掛けて、一方を向いて演技すると後ろが気になるから振り返って、左が気になって右が気になってくるくる回って、さて、下手にはけるって、下手はどちらかしら?
・明転すると客席に2人役者がいて、「あれ、休憩なんじゃないの?電気着いたし」「しーっ、黙って。周りがみんなこっち見てるでしょ!」「いや、みんな周囲を伺って、もう薄々休憩なんじゃないかって思ってるんだよ、きっと」
・1000小節以上出番のない、オペラのオーケストラピットの奥にいる管楽器奏者の独り言
・隣で食事してるカップルが地名を言い間違えてるのが気になって仕方が無い話
・何百年か前に葬られた夫婦の妻の方が「眠れないわ」と夫に苦情を言う話
・とにかく電話が長い女性の話
等々。

2015年6月1日月曜日

The Angry Brigade

30/05/2015 マチネ @Bush Theatre

力のこもった戯曲・演出・役者陣。2時間30分テンションを持続させるも、時として空回り。
1970年から72年にかけて、ロンドンで連続爆弾テロをはたらいたアナーキスト4人組、"Angry Brigade"の顛末を、捜査当局とアナーキスト4人組の双方の視点で描く作品。
うーん、真面目に創ってるのは分かるんだけどなー。どうも、これでもか感が先行して、すっと入ってこない印象。惜しかった。

<ネタバレ注意>

1幕は、Scotland Yardの4人組がターゲットを追い込むさまを描くのだけれど、どうも暗転が多くて落ち着かない。事態の転換のドライブ感を出そうとしているのかもしれないが、ただのブツ切りになっていて、正直、ノれず。これはだめかと思っていたら、
2幕は、アナーキスト4人組のロンドン到着から逮捕までを追っていて、才気ならぬ稚気溢れるアナーキスト達の会話は微笑ましくもあり、昔を思い出してムカッときたり、時として聞かせる台詞もあって最後まで持って行けたのだが、しかし、そこまで。単なる自己満野郎達の暴走とその終焉、みたいに終わってしまった。

所々にオッと思わせる台詞はあって、Angry Brigadeのメンバーが語る「母が掛けているアイロンの蒸気の音の中にこそ、静かで、目に見えない、しかもリアルな、爆弾の爆発=暴力を感じた」っていうくだりはうならされた。こういう台詞が、平田オリザ「革命日記」にあったらばどうなっていただろうか、とも思わせた。
でもね、そういう風に暴力の在り方に切り込みながら、舞台上では「暴力的になっていく」有様をスチールの戸棚をバンバン倒して音で「表現」しちゃったら、それは、駄目でしょう。人種やジェンダーや思想やその他色んなところで「暴力」がどんな風に体現されているのかに迫りたいのであれば、安易な音の効果はただの邪魔。むしろ中村真生の作り笑いや齊藤晴香のワイングラスの方がよっぽど暴力的だったと思う。

そういう生硬さもあって、折角の2部構成(追う側と追われる側)も生かし切れていなかった。本来は追う側の「正義(実は暴力)」と、追われる側の「暴力」「(秩序の中にこそある)暴力」が、コインの表裏である、だからこそ、この芝居は4人の役者が攻守双方に立って演じるのだ、ということなのだろうけれど、そうした意図が伝わらない舞台になってしまっていた。つかさんの「熱海殺人事件」がどれほど巧妙に出来上がっていたか、っていうのと比べてしまう。

いや、それにしても、力作であることは間違いなくて、いや、誰か、構成大胆にいじってぎゅっと締まった舞台にしてくれたら、是非もう一度観たい、とは思っているのだ。