2009年5月20日水曜日

タテヨコ企画 夜まで待てない

17/05/2009 ソワレ

何度でも言う。横田修よ、客入れの挨拶はしないでくれ。ぜったいに君の客入れのほうが面白くって、その後に芝居しなきゃならない役者がかわいそうだ。

と、お定まりを一発かました上で、この芝居。うーん。よく出来てて、役者も良くて、観てて安心できるんだけれど。
①これだけ味・クセのある役者を惜しげも無く使った1時間20分、贅沢だ。 といえば、誉めことばなんだが、
②これだけ味・クセのある役者が、たった1時間20分の中で与えられる持ち時間は極く僅か。かえって、窮屈な気がしちゃうんだよなー。限られたスペースの中で自分の持ち味を出そうとする・あるいは抑えようとする、そういう役者の努力が、なんだか不憫というかイタいというか。
どうしても出捌けの回数が増えるから、見た目にもゴチャゴチャしてしまうし。

オレ、もっと、一人一人の持ち時間、「滞空時間」の長い芝居でタテヨコを見てみたい。この役者陣なら二幕物途中休憩あり2時間30分の芝居でもきっと大丈夫だよ。おー。それがいいよ。あとは、そういう芝居を書ききれる横田修がいるかどうかだよ。
あー。それ、観てみたい。マジで観てみたい。

新国立劇場 タトゥー

17/05/2009 マチネ

前日観ていた神里氏が「良いとか悪いとかじゃない」と言っていたけれど、僕も「面白いとかつまんないとかじゃないのかなぁ?」という印象で新国立劇場を出た。

戯曲自体は全然つまんなくって、なぜ皆さんこういう戯曲を「過激」とか「衝撃的」とか平気で言っちゃうのかわかんない、そういう人は何を観るにしても「衝撃の結末」が観られないとお金を払った元手が取れなかったと感じる人なんじゃないかと一通り毒づいておくが。まぁそういう人々には、今度世田谷でやる"Blackbird"は超お薦め。エディンバラで観た初演では、ラストマイナス5分までは力のある芝居だったのに、ラスト5分で笑撃の結末。劇場を出ても(笑いの)震えが止まらなかったが、日本ではどうだろう(僕は観に行かないので誰か結果を教えて下さい)。

問題は、岡田利規氏の演出。そういうつまんない戯曲とか、役者とか、音楽とか、舞台とか、客席とか、そういうものを、「ポンと置いた」という印象が非常に強かった。「ポンと置く」というのは、舞台の要素として主従関係を持たせず、お互いにもたれさせずに「ポンと置いて」いた感じ。
これが、岡田氏の言う「コンクレート」なのだろうか?

戯曲に縛られずに舞台に立つ、とか言っちゃってる割に、やはり戯曲に目が行ってしまうのは、観客としての僕の弱点である。思えば平田オリザの戯曲も、「台詞で歌わせない、語らせない」みたいなことを言っていて、もちろんその通りなんだけど、役者としては戯曲にもたれざるを得ないところはある。で、そこから抜け出して戯曲との距離をとりに行こうというのがこないだの杉原邦生の「14歳の国」の苦労でもあったのだが、それを、岡田氏は「ポンと置い」ちゃって、一気に戯曲と役者と演出と観客の関係を遠近なく提示して、これが芝居のエッセンス、って、これ、きっついよ。

面白かったって、いえないよ。面白いんなら、「三月の5日間」とか「フリータイム」の方が、まだ面白いよ。でも、いやーなものを観てしまった、という不安は確実に残る。この不安は是非共有したくなる。

2009年5月19日火曜日

FUKAI PRODUCE 羽衣 麻霞と夕霞と夜のおやすみ

11/05/2009 ソワレ

Fukai Produce 羽衣、拝見するのは今回で4度目だが、これまで観た中で最も「完成度が高い」パフォーマンスだった。一つ一つのシーンを長尺で回して、それを長いと思わせない。俳優一人一人の演技の滞空時間もギリギリまで伸ばして、これ以上やるとワンマンショーの寄せ集めになりかねないところで踏みとどまっていた。すごく「成熟した」感じがして、こんなにみょーなことをしているのに、最後まで安心して観ていられた。

もちろん全員絶叫コーラスも、H台詞も楽しい。巣恋歌さんが歌い始めたときには「あぁ!すごいさんだ!」と思ったものの、ほんとの名前を思い出すのに時間がかかった。西田さん、ごめんなさい。藤一平さんの息を切らせながらのパフォーマンスにも泣く。そしてラスト「ほうっとこう?」の台詞にもやられる。

ここまで来ると、「お願いします。次も面白くなるよう、お願いします!ここに安住されませんように!」と祈るほか無い。

(&) So Weiter / 日本武徳院 / 東京日仏学院 「雪」

16/05/2009 ソワレ

フランス人の作・演出・出演+居合の師範+フランス人ギタリスト+日本人パフォーマーという組合せで南青山の能楽堂を使ったパフォーマンス。
能楽堂に入るのは生まれて初めてなのでちょっと期待していたが、と同時に、ヤン・アレグレの上っ面な日本趣味に余りにも合致した取り合わせなので危惧もそれ以上に大きかったのだが、やはり後者が前者を圧倒的に上回って・・・

客席には、芝居好きよりもむしろ「フランソワーズ・モレシャン」を含むフランス人+日本人フランス語関係者が多数詰め掛けて、どれどれ東西の融合とやらを見物してやるかという風情だったが、果たしてどれくらいの人が「これはちょっと」と思ってくれたのだろうか、などと考えてしまう。むしろ「日本の人はやさしいから、こんな上っ面のパフォーマンスにも全力でつきあってくれるんだぁ」と思われたらいやだな、とか。

居合の刀の動きが、テレビや映画の時代劇と比べてゆっくりなので、「あぁ、時代劇の殺陣がフィルムの早回しだって話は本当だったのか」と、その場では思う。今にして思い直すと、それは香港のカンフー映画の話なんだけど、居合もそうなのかもしれない。

ギタリストがいろんな音を拾ったり繰り返したり、というのも、単品では面白くないこと無いけれど、「上っ面ニッポン」のフレームの中ではいかんともしがたく、まぁ、観に来た自分を責めるしかあるまい。

2009年5月16日土曜日

14歳の国 千穐楽

04/05/2009 ソワレ

もう2週間近くも前のことになるのだけれど、忘れる前に書く。
千穐楽の日になっても、13時半集合で稽古。まぁ、稽古といってもそんなにかっつりがっつりでは最早無いが、やっぱり、邦生くんとコージくんは試したいことがいーっぱいあるみたいで、こいつら、やっぱり業の深い人たちだ、とつくづく思ったことである。

お客様は大入りで、かつ、前日コージ君とたまたま出くわした宮沢章夫さんがいらっしゃるということで、楽屋は明らかに緊張していた。いや、いつも緊張しているのだが、それよりもおそらくちょっとだけ緊張していた。もしかしたらいつもリラックスしていて、まるっきり緊張していなくて、それが、ほーんのちょっとだけ緊張したのかもしれない。ま、そんなことはどうでもよくて。

終演後、アゴラまで立ち話もなんだから、ということになって、ほぼ自然発生的に宮沢氏×杉原邦生のトークがアゴラ1階ロビーで始まって、そこで聞いてる人たちは「なんかもったいないから」客席に残ってる朝日カルチャースクールな聴衆じゃなくて、ほんとに聞きたくて残ってる人たちで、だから、

僕はシュトゥットガルトで弘前劇場を見た後に現地のおじさんとたどたどしい英語で芝居や家族の話をして、そこに長谷川氏も加わって大いに話が盛り上がった時と同じような幸せな感覚を思い出したのだけれど、

後日宮沢氏のブログにもヨーロッパを意識したコメントが載っていて、それじゃあ、あの時のちょっとした幸せ感はちょっとだけでも共有できていたのかなぁ、と思った次第。

ポケットからタバコを取り出したら一緒にユキのひとひらがぽろっと落ちて激しく動揺したこと以外は、芝居のことは覚えていません。さすがに10日も経つと。

サンプル 通過

15/05/2009 ソワレ

初日。
処女作の再演ということだったのだけれど、確かに、カロリーの消費→家族の肖像→伝記 と来て、その延長線上に位置づけるよりも、シフト→地下室→・・・(それ以前は残念ながら見逃しているので)と先祖がえりしていく感じはする。そういう意味で、とても松井周っぽい芝居だった。

でも、そういう「歴史」とか「フレーム」で芝居を捉えること自体にはあんまり積極的な意味は無くて、むしろ、フレームの中でどれくらい「はみだすもの」とか「回収し切れないなにか」がにじみ出てくるかが問題なのではないかと。

アフタートークの内野氏が、「僕は青年団を認めませんから」から始まる、非常に男気あふれかつ分かりやすいトークを繰り広げて、それにも大満足だった。
彼が何故青年団を認めないか、何故青年団周辺の若手の芝居を観るのか、が、非常に良く分かった。必ずしもすべてにおいて同意は出来ないけれど、氏が青年団の芝居に対して抱えている問題意識は自分のそれとさほど変わりが無いのではないかとも思った。
(今でこそ言うけれど、ユリイカを読んで以降、僕は、内野氏がなぜ青年団と新劇を近いものとして捉えていたのかがどうも良く分からなかったし、それがために、『この人はとんちんかんなのではないか』とすら思っていて、それで、14歳りたーんずの杉原組が内野氏にちょっと誉められてたらしい、と聞いて、複雑な心境だったりしたのです)

「通過」には、もちろんある程度の物語があって、メタ芝居につながるフレームがあって、その処理の巧拙というものは、あらゆる芝居にあるように、この芝居にもある。実際、「通過」においてそれは「巧」である。でも、そんなもんは、いずれ批評家の眼や観客の眼によって回収されてしまうもので、その意味において、ディズニーや四季やハリウッド映画と変わりはしない。「芝居」にとっての勝負どころは、だから、そこで説明しきれないもの、その場でしか味わえない何か、ということで、松井周の芝居は、それを決して分かりやすく提示せずに、でも、演出はそれを意識しているのに違いない、と思わせるという点で、成功している。

うん。で、内野先生のトークを聞きながら、「彼は奥泉光の小説はどう捉えるのだろう?」と思ったりもしたのです。奥泉大先生のように、本当にキャパシティが大きくて、推理小説やSFのフォーマットを借りて、そこにべたっと近付きながら、説明しきれないもの、テクストを読まねば浮き出してこない、説明では回収しきれない何か、を提示してしまう偉大な作家を思い返すにつけ、

松井周よ、なにも、毎回、君の変態リビドーから入ることに拘らなくったっていいじゃないか。と思っちゃったりしたのである。もっとずるーく、観客で星のホールを埋め尽くせちゃう位のことができるキャパシティは、松井氏は持っているんじゃないか、と思ったりしたんです。

2009年5月9日土曜日

14歳の国 稽古35日目、本番5日目

01/05/2009 稽古35日目
18時入り。
1場・2場通して、感覚をつかみ直すのかなー、と思いきや、3時間、延々と、どうやったら芝居がもっと壊せるかを、試してみていたのだった。
この日記を書いている時点で千穐楽終わっているからいえるが、ここでやった「スズカツ切れる」は、まぁ、すごいインパクトがあった。
僕は涙を流しながら稽古続けたもの。まじで。
これを「マジギレな雰囲気を出さないと集中できないダメな役者達」ととるのか、「壊すならここまでやりきるぜ、という気合が漲っている」ととるのかは、予測不可能だけど。
結局、こりゃ受けきれないな、と言う結論に達して稽古時間終了。

翌日の本番に繋がるかは分からないけれど、ずっと記憶に残る稽古だったことは間違いない。

02/05/2009 本番5日目(16:00)
客入れ直前に、ひつこく、「スズカツ切れる」をやってみた。スタッフさんにも大うけ。でも、本番ではやらないことにした。
あんまり良く覚えていないんだけれど、
「稽古しないほうがかえってよかったかもしれない」と演出は言ってました。

蜻蛉玉 すこし、とまる

30/04/2009 ソワレ

むかーし読んだSF短編物語で、四次元の人が何か大事なものを三次元の世界から四次元の世界へと持ち去っちゃって、それを取り返すために悪戦苦闘する、という話があった。
相手は四次元の人なので三次元にいる僕らには見えないのだが、そういう四次元の人とどうやってコミュニケーションをとるかといえば、その四次元の人が三次元に現われる「切り口」を捕まえて、そこでコミュニケーションとる(なんだか分からない肉の塊をくるくる回して、先方の感覚器官を三次元空間に露出させた!)っていうプロットがあったのを覚えている。

何でそんな、「すこし、とまる」とはまるっきりモチーフを共有していないエピソードを冒頭に持ってくるかといえば、それは、四次元を三次元に写し取るのと同じくらいに、現実世界を舞台の上に落としこむことは難しく、また、はなから、「全部」だったり「正確」であったりはしない、ということを言いたかったのだ。だから、舞台に載っているものだけを観て、それが一見して作者の自意識を幾ばくか反映しているからといって、それが作者の自意識の総てではない、ということである。作者の自意識は、もっと高い次元に畳み込まれていて、僕らの目には見えないところにあるのです。

「蜻蛉玉」の芝居が面白いのは、いつ観ても、その、作者の、高い次元に畳み込まれた自意識が漏れ出す様が面白いからなのです。いかにも、「漏れ出している」からなのです。前にも書いたけれど、「私の自意識を受け止めて!受け止めて!見て、見て!」とあからさまに振舞ってはいない。けれど、より高い次元、僕らの見えないところに何かが隠れているのを感じる。それがじとじとと浸み出している。それが気持ち良い。

今回の「すこし、とまる」は、自殺未遂の兄とその妹と、二人が共有しているようで共有し切れない記憶の話。現代口語演劇のつくりを、全体を鳥瞰する「神の目・三人称」派(代表平田オリザ)、自分の視点で見えるものにこだわる「一人称」派(代表岩井秀人)に乱暴に分けるとすると、この芝居は兄の視線を共有しようともがく点で「二人称」なつくりになっている。そこらへんもまた、自意識の浸み出し方に関連しているのかもしれない。

兄の病床を基点にして記憶の幕をぐいっと開いて、そこからこぼれでるものに着色して舞台に載せる。兄の記憶そのものはモノクロだったに違いなく、その褪せた記憶に妹が自分の好きな色を塗って、そうなったところで、共有されるもののそもそもの出所は曖昧になっていく。

そういう話です。そういう芝居を観ていると、「島林愛とは何者なのだろう」という興味が湧いてくる。かといって、何度この芝居を繰り返し観たところで、答は出ない。畳み込まれた四次元の世界への想像(あるいは妄想)が広がるばかりなのだが、それが芝居を観る醍醐味の一つなのだと、僕は思う。

だから、芝居のネタを解説してくれるようなポスト・パフォーマンス・トーク、っていうのは元々あんまり好きじゃないのです。上演後、島林氏が絵本を朗読している間、僕は、「ひょっとしたら、島林氏の自意識は、この「見て見て」なパフォーマンスの表面には無いんじゃないか。むしろ、島林氏がいない空間に、ひょっこりと、畳み込まれたものがはみ出てくるのではないか」という妄想を払いきれず、じっと虚空を睨んでいたりしたのです。

2009年5月2日土曜日

あなざーわーくす ヴェニスの商人~逆襲のシャイロック~

16/04/2009 ソワレ

初日。思いもかけず稽古OFFになり、いそいそと西荻窪へ。
やっぱりいいわ。ホント、凝り固まった頭が柔らかくなる。お芝居を観たり演じたりすることの楽しさが、細胞と細胞の隙間から身体にしみとおる感じ。
芝居の稽古が続く中で、わりーに舞台の上で自閉しがちな小生にとっては、客席に向かってどう意識を開くか・あるいは閉じるか、というところで勉強にもなるし、突破口になりそうな気もする。

びふぉー・あふたーとーく出演の岩井氏も期待にたがわぬ演劇Loveぶりを発揮。
でも、こんなのみちゃうと、三条会榊原氏やあなざ事情団組のもみたくなってしまう。罪な企画。