2008年8月27日水曜日

木ノ下歌舞伎 三番叟/娘道成寺

26/08/2008 ソワレ

開演前から幕の向こうをすり足に小走りに舞台を上から下へ、下から上へ、横断する脚が見える。あぁ、この走りは、なんだっけ、あ、そうだ、ノルウェーの田舎の土産物屋のオヤジが、「日本人の中年女性は何故皆小走りなのか?」という問いかけを、実演入りで僕ら家族にしてきたときの、あのすり足の小走りに似ている。

と思っていると、ワタナベマモル氏による三番叟の事前解説がスピーカーから流れて、あぁ、「三番叟」も「京鹿子娘道成寺」も観たことがない、というか、この歳になるまで歌舞伎も能も観たことがない、この恥ずかしいオレにも分かるように、解説付きで上演かい、と、若干失礼なことを考え始める。

が、そんな失礼な考えも3分後にはすっかり吹き飛んで、後は指をくわえて舞台上で繰り広げられる「慶と笑のエネルギーの噴出」に身を任すほかない。天下泰平、五穀豊穣、芝居小屋の一歩外に出れば、「まがいもの」あるいは「願われるもの」としてしか存在しないものが、三人の変なかっこした男達の舞の歓喜の噴出の中に、一瞬見えた気がしたって言っちゃってもいいよね、と言いたくなる。

そしてまた、天下泰平、五穀豊穣、国家安穏といったものにまつわる歓喜のイメージが、能⇒歌舞伎⇒現代舞踊 と続く中で、(能・歌舞伎を観たことのない僕にさえ感じられるように)一定のコードとして振り付け(おそらく三番叟のプロットや振り付けにヒントを大きく得ていると思われる)に埋め込まれている、そしてそれを実際に僕が感じた(と少なくとも僕が信じられる)ところに、この集団が「歌舞伎」を名乗る意義がある。そう感じた。

帰国早々いきなりすっげえ幸せでカッコいいものを見て、時差ぼけも吹き飛ばされた。

娘道成寺は、実は後ろの生バンドが視覚にも訴えて、時々パフォーマーから目が離れてしまったのが、後々考えてももったいない。でも、人格がCrackする瞬間を始め、あれあれと身体の表情に見とれている間にあっという間に終わってしまった。裸足の足が床に敷いた幕を摺る音から始まり、綱のビニールのこすれる音、パフォーマーの息遣い、そういうものに思い切り頓着しながら演じるパフォーマーとそれを伴奏するバンドのかっこよさ。

不幸せな物語だが、観ているボクはとても幸せになった。

放電完了

2週間、放電してきた。

ロンドンで、家族の引越しをしてた。
夏は終わっていました。2週間、気温が20度を上回ることはなかった。

シーズンオフで、面白そうな芝居はやっていなかった。
Hellboy II を観た。
In Bruge をDVDで観た。
Flight of the Conchords のDVDを観た。
本を2冊読んだ。
それらについてはいずれまた感想を書くつもり。

娘は途中でReading Festival に出かけてしまった。
Cage the Elephant、テレビにも出てたが、いかす奴らだ。

あとは呆電しっぱなし。公私ともにすっかりスイッチがOFFになって、電源プラグも抜かれて、体中から電気が抜けて、バッテリーが空になった状態。
それはそれでとっても気持ちが良い。

そうそう、案の定引越しの時にBritish Telecom がヘマをこいて、結局僕がロンドンを離れるまでインターネット繋がらなかったのです。
時々図書館の無料PCで、読むだけ読んでましたが。

帰国して80時間。ようやっとエンジンがかかってきた。

2008年8月9日土曜日

矢野顕子リサイタル

07/08/2008

2002年、Pizza Express以来の矢野顕子。前回はキャパ100人未満の小さなクラブにアクースティックのバンドを連れて来たのを聞いたのだけれど、今回はピアノ一台の弾き語りで調布の1,400人収容の大きなホール。

そりゃもちろん小さな小屋で近くで聴く方が僕は好きだけれども、でも、大きなホールだからといって不満があるわけではなく、むしろ、大人数で一遍に同じ音楽に耳を傾けるのも、楽しい。PAの感じも良くて、リラックスして聴けた。矢野氏のほうも、必ずしもハードコアなファンだけが集まっているんじゃないのを感じ取りながら「リサイタル」を進めていたと思う。
生演奏で聞くと、あの「変な、ちょっと鼻にかかった声の歌い方」が、どれだけ豊かな声のキャパシティと正確な音感(テクニックというと語弊があるかもしれないけれど)に支えられていることか、と思う。矢野顕子はセンスだけではないんです。

「時節柄」のバカボンで幕を開け、釣りに行こうと続く冒頭の二曲で、もう既に「あぁ、聴きに来てよかった」と思う。はっぴいえんどの「夏なんです」と、大瀧先生の曲も2曲とり上げて、そういう曲を矢野節で聴けるのもまた楽しかった。最後、「この曲をやらないとコンサートが終わらない」といって「ひとつだけ」を。うん、いい曲。でも、矢野さん、みんながみんなこれだけを聴きに来たわけじゃないんですよ。新曲もとっても素敵でした。10月の新譜は、買ってしまうかもしれない。気に入った曲の曲名は、ここでは言えない。

2008年8月6日水曜日

野の道 流れる

06/08/2008 ソワレ

初日。
一言で言えば、「好みの芝居」。1時間40分3本立て、ついに一度も(文字通り)時計に目をやることなく、時間配分で意識が散ることもなく、お尻が痛くなることももちろんなく、食い入るように観てしまった。

貧乏八畳間の舞台は、杉山至+鴉屋がおそらくとっても得意とする分野で、二方向に開けた部屋の周囲をコワリのスケルトンで囲ったシンプルな舞台の「におい」が、まず良し。

各シーン3人ずつ役者が出てくるのだけれど、その立ち、台詞、「現代大阪弁演劇」とまでは突き放さないまでも、背伸びをせず、自己顕示に走らず、あくまで「場」に拘った演技もまた良し。

3作とも「在日」「被差別集落」に言及した芝居で(2番目はその名も「ムグンファ」となっている)、しかもその登場人物のおおかたが(特に2作目、3作目において)、その、苦痛の思い出が付着している場所を、「戻るべき場所」として認識するのもまた興味深い。声高に叫ばないことで、日本人が「あちら側」と思ってしまいがちなイシューが、越境して普遍に繋がる契機を与えられる。

こういう、奇をてらわず、でも、シーンごとの着想に素直に、「八畳間」という空間に視点をカチッと固定して丁寧に場がつくってある芝居は、上手くいっている箇所もいっていない箇所も含めて、観ていて嫌味がなく、飽きない。もちろん役者陣もそれぞれに力のある人たちで、それに支えられている部分もあるとは言うものの、役者を入れ替え設定を入れ替えてもきちんと統一された「におい」が伝わってくる舞台に仕上がっていた。

普通のきちんとした飲み屋で普通のきちんと作った肴で酒を飲むような。そんな後味の残る芝居でした。

2008年8月4日月曜日

岡崎藝術座 三月の5日間@上野広小路

03/08/2008 ソワレ

フレームの嵌め方の素晴しさに舌を巻きつつ、寸止め感が大変惜しまれる舞台。

<本稿、以下全篇ネタバレです。>




上野広小路の演芸場、舞台は高座、客席は全面畳敷きに座布団敷き。
最前列にパンダの被り物した人を含む先客が陣取って、弁当を食いながらおしゃべりに興じている。さては岡崎藝術座シンパの連中か、そういえば、新百合ヶ丘でも顔見た覚えが、って、実は役者だぞ、と。
(前から二列目、僕と知人の間に開演までずっと空いてて鞄が置いてある座布団があって、「これも役者の席に違いない」と断言していたら、何のことはない、普通のお客さんでした。すみませんでした。)

開演するや、最早演芸場の外では見ることのできない巨大な蝶ネクタイの男達やウクレレ漫談のコンビが登場して、演芸のノリで三月の5日間が語られる。その趣向、良し。

上野という「東北」に向いて開けた土地で、渋谷の話をする。六本木の話をする。その話を聴いている(という設定の)人たちの身なりは、「東北」に向いていて、西の方、例えば新玉川線とか東横線の匂いからは真逆。パンダ社長とか、妙な光沢のワンピースのお姉さんとか、気合ボンタンのお兄ちゃんとか。
舞台上から順に、
渋谷・六本木⇒上野⇒更に東から来た人たち⇒それを観る、主に西から来たであろう芝居の観客
という図式があって、この⇒の一つ一つが実はかなり深い断絶である。最前列の似非観客達が美しく青きドナウのクライマックスに合わせて後ろを振り返る時、僕らとそれらの人々の断絶と、「語られる者と語る者」の間の断絶が開けて見えて、思わずすくんだ。

あるいは、それら似非観客の陽気さは、Shiningの壁掛け写真の中の人々(亡者達)が開くパーティの陽気さに似る。時に観客が舞台に上り、下手袖に吸い込まれ、袖から出ては舞台上に倒れ臥し、物語を語って見せる。それは「終わったこと」なのだから、繰り返し語られて構わない。次にそれを繰り返させられるのは自分かもしれないという恐れ。振り返るパンダ社長の顔は、Shiningで逃げ惑う妻がバタンとあけたドアの向こうの、羊コスプレ人間の恐怖を蘇らせて、やはり、すくむ。

このフレームを嵌めて最後の浮浪者のシーンまで寄り切ったらすごいことになる、と思っていたら、ヤスイ君が怒られたところで突如終幕。え、えぇえー?これで終わっちゃうの?そういえば、幕の閉まる中で、何となく役者のニヤニヤした顔、これは何か続きにあるに違いない、あれ、違うの?あれあれあれ?

うーーん。休憩入れてもいいから、最後まで通してほしかっただす。だって、前半、凄かったんだから。

キラリ☆えんげきっず

03/08/2008

尾倉ケント、島林愛、多田淳之介、岩井秀人の4人がリーダーの芝居ワークショップだなんて、生田萬氏の言葉を借りるまでもなく、なんて贅沢な企 画。子供よりもオレが自分でワークショップ参加したかったわい。ということで、その成果発表を観るべく東上線に乗って富士見市役所へ。

観終わった正直な感想は、「期待しすぎていたかな」。
もっと、子供たちの「ごっこ遊びならではのリアルっぽさの要求」が噴出する場を期待していたのだけれど、むしろ、「わたしとあそんで」という絵本 のフレーム(あるいは割り振られた役柄)にどうやって子供たちが自らをはめ込んでいくのか、というところのグラデーションがよく見えた印象である。

もちろん、子供が年齢に関わらずぐぐーっと舞台上の「ごっこ空間」に踏み込んでいく瞬間はいくつもあったし、Smile Kids のラスト、子供たちが鬼ごっこをしている時、いきなり前列で抱っこされていた乳児(推定5ヶ月)が舞台で起きていることにぐわっと反応して、マジで驚いた りもした。

リーダー4氏とも、持ち味をたっぷり出していたと思う。そう、4氏が持ち味を出しているということは、子供パワーに押し込まれる瞬間がどれくらい 今日の舞台上で生じたのですか?という質問に繋がるのだが、それはきっと、「学芸会風の」フレームを持った発表会の中で探すものではなくて、ワークショッ プの場でリーダー諸氏がしっかり受け止めていたのに違いない。ホールわきに貼られた写真が、「あー、うらやましい」な感じだった。「発表」よりも「創って いく場」の方がはるかに楽しいのは仕方がないか。

それにしても、夏目慎也、各チームに思う存分いじられて、きっと生田さんにもいじられて、愛されている。いや、ほんと、愛されるのに値するキャラならではの大活躍だった。

2008年8月3日日曜日

FUKAI PRODUCE 羽衣 ROMANCEPOOL

02/08/2008 ソワレ

おおっぴらにエッチであこぎにセンチ。

目新しいことを血眼になって探さなくとも、他と違った気持ちの良いパフォーマンスはそこにあるんだよ、ということがよーく分かる。こういうのがア ゴラで観られるのはとても嬉しくて、(青年団、五反田団からリオフェス、チェルフィッチュまで取り込んだ)アゴラ特有の「匂い」に、この集団のエッチな香 りがまた1つ付け加えるのか、と思うとまたそれも嬉しい。

このFUKAI PRODUCEという集団を人に説明するに当たっては、どうしても、
・ なんだか無脊椎動物のような とか、
・ 芝居の系統樹から外れた生き物のような
という言い方になってしまう。

60年代アングラから現代口語演劇まで、どんな方法論を展開すればここに至るのかという質問は彼らについては無意味で、「だってこういうのがある んだもん」の一言で片付いてしまう。でも、「センス」とか「才能」と言って諦めてはいけないのじゃないかとも思うし、じゃあ、どんな風に整理したらよいの か、と考えるより前に、まずは存分に楽しむべし。

山田せつ子 ふたりいて

02/08/2008 マチネ

途中幾度も舟をこいだ瞬間があったので、あまり生意気なことを言ってはいけないとは思うが、基本は「人にお奨めできるパフォーマンス」なので、書ける限りのことを書く。

開演から20分弱、音の無い中で、非常に厳しいパフォーマンスが展開する。「厳しい」というのは、パフォーマーの身体の動かし方、把握の仕方に対して要求が厳しい(=分かりやすい意味を排除する、日常へのリンクを排除する、メタファーとしてのデフォルメを排除する、予定調和を排除する、という、引き算を極める感覚)のと同時に、観客に対しても集中を要求するという意味で厳しい。この厳しさはすごい。と、素人目にも思う。

やがて舞台にパートナーが登場し、音楽が鳴り(90年代のルー・リードですか?という類のギター)、徐々に2人がお互いに影響しながら演じる場面になる。音楽も、大音量のものからミニマリズムっぽい繰り返しになったり、無音に近くなったり。
終盤は無音のパフォーマンスに戻り、それから、リスペクトールのテクストがスピーカーから流れる中でパフォーマー達が動きまわって、終わる。

これから先は言い訳になってしまうが、やはり、繰り返しの多い音楽が流れて、それにパフォーマンスがのっかった瞬間に、舟をこいでしまった。クラシック音楽聴きに言って、妙に耳当たりの良いメロディが流れると寝てしまうのと同じ道理。舟をこぐのはほんの2,3秒で、というのも、パフォーマーがあたかも2,3メートルを瞬間移動したかのように映って、驚いたりしていたからです。

ああ、やっぱり自分も、物語とか意味に頼ってしかパフォーマンスを観られないのか、と思って、自分にがっかりする結果となった。捲土重来を期したい。