1980年代以降の日本の名だたる秀才・論客どもが新書サイズにギュッと押し込まれてゼロ年代まで。因果は巡る20年、クラインの壷の内外を駆け巡りながら行き着いた先はどこか、いや、そもそも行き着く先などあったのか、といった風情で、大きな物語も小さな物語も所詮は新書300ページの夢に回収される。何者にも回収されじと逃げ惑う努力の儚さよ。
もちろん佐々木氏も登場人物どもをひょいと瓢箪の中に吸い込んで見せようなどという傲岸さは持ち合わせておらず、その意味で腰巻の「この一冊で、思想と批評がわかる」ってーのははったりついでの宣伝文句。ただ、思想の「きちんとした」読み手佐々木の20年余りを辿り、その立ち居振る舞いを自分のそれと(もちろん自分は中途半端で途中でほっぽり出す読み手であるが)どう違うかを手繰り寄せる作業は、多分に気恥ずかしさを伴いつつ、頭の整理体操になった。
自分を「ニッポンの思想」のコンテクストに嵌めるとすれば、まだ、80年代に縛られた発想を続けているんだなぁ、と感じた。でも、「逃げる」という動作を伴わずに、じっと地面に足をつけて立ちながら、同時に内と外の両方、あるいは、システムの中の(あらゆる場所ではなくて)自分で選んだ場所に立っていたい。瞬間移動。色即是空。だめかな?
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