2009年7月27日月曜日

三条会 八犬伝

25/07/2009 ソワレ

ツレに言わせると、小生は少しでも気に入った劇団の芝居に対しては点が大甘、少しでも気に喰わないと必要以上に点が辛いらしいが、けっ、当たり前だ、なんっていったって人間だもの(みつを)と開き直って、今回も三条会、面白かった。

未だに三条会のどこが面白いのかって説明するのに苦労してるのだけれど、実は三条会がやっていることは「テクストを語って見せること」で、それが「朗読」とか「物語り/メッセージ伝え演劇」に堕してしまわないのは、
役者の表情や身体や声が、物語の本筋からどんどんどんどん逸脱してしまうのに、気持ちよくお付き合いできてしまうからじゃないか、と思い始めている。

だから、三条会を観た後の感覚は、「物語の筋」が面白かったというのではなくて、子供の頃、大人(僕の場合は幼稚園の先生)に絵本を読んでもらった後の安心感・高揚感のようで、実は、絵本の時間が終わった後に覚えてるのは物語ではなくて、先生の表情とか声色とか、そういうものだったりした、それに近いのではないかと感じている。

「先生のように本を読みたい」と思ったのと同じような感覚で、「大川さんのように台詞がいえたら」とか「中村さんのようにヘラヘラできたら」とか思ってしまう。

「全ての台詞は多かれ少なかれ説明台詞である」のなら、それでよい。
説明台詞を口に出していったからといってそれが説明としての機能を果たす必要はないし、
説明台詞を耳にしたからといってそれをもって筋立てを理解する必要も無い。
劇場にあるものを味わい・味わわせる関係があれば幸せ。

そう思えばこそ、観る側としての自分の心の狭さ(大甘になったり大辛になったり)も少しは和らぐような気もするし、どうして三条会の芝居が好きなのかの説明も、少しは出来ている気がする。

しかし、「千葉城の天守閣の麓で南総里見八犬伝」だなんて、なんてぇ素敵な発想だろう。千葉っぽさは分からなかったけど、「千葉ならでの芝居」は少なくとも満喫した。

青年団国際演劇交流 Kyotonomatopee

24/07/2009 ソワレ

青年団にフランス人演出家、というと、ちょいと眉にツバつけてかかんなきゃ、と、この1ヶ月くらい考えていたのだけれど、失礼しました、とても楽しい1時間でした。

筋立てとか台詞とか、「人間は話す動物に過ぎないのではないか?」とかいう前説は要らない。そういう理屈っぽいところに拘ってしまうとこの公演は楽しめないだろう。鈴木智香子の声の響かせ方とか音程のコントロールとか、二反田幸平の動きとか、音程のバランスとか、古屋隆太の顔の動きとか声の切り替えとか、そういうのを一生懸命観ているだけで、すぐに時間が経ってしまう。スキットの切り替えも、全体のリズムを良い感じで生み出して良し。本当はもっと観ていたかったのだけれど、3人でこの酷使振りでは60分が限界か。

柴幸男の「御前会議」を観た時も、台詞を歌うってどんなことだろう、と改めて考えたけれど、これだけ開き直って、「全部が鳥の歌みたいなもんなんです」と見せられてしまうと、またちょっとだけ考えてしまった。

2009年7月21日火曜日

着脱式

18/07/2009 マチネ

去年の12月に「おととうごき」として都内カフェで上演されたもののパワーアップバージョン。前回は公開稽古しか観られなかったのだけれど、今回は「殿堂」セッションハウスで拝見。

そのパフォーマンスの凄みに、完全にやられた。

前日、カニクラを観て、

舞台上で台詞を言うということとは何でしょうか?お客に伝えることと、伝わることとはどう違うんでしょうか?舞台上で他の役者に対して台詞を言うとき、実はそれは、お客さんが「あぁ、他の役者に対して台詞を言っているなー」と感じてくれれば、実は本当にコミュニケーションをしていなくてもいいんではないでしょうか?だから、舞台上のコミュニケーションは、所詮インチキだから、インチキのままでいいんではないでしょうか?それではなんで役者は、一生懸命他の役者とコミュニケーションとるんでしょうか?いや、むしろ、コミュニケーション取れてない芝居の方に、「あぁ、ほんと、感動したー!」とおっしゃる観客が多いのは何故でしょうか?

ということについて考えたのだけれど、「着脱式」その問題意識の尖った突き詰め方において、未踏の極北を突き進む。さらに、

舞台上で舞うということは何でしょうか?1人で動いていることと、それを観客に見せることとはどう違うんでしょうか?動きに意味はあるのでしょうか?意味が見出せなければ、動きのすごさが分からなければダンスを観ても無駄なのでしょうか?

ということまで考えさせて、さらにさらに、そういう突き詰めた姿がとてつもなくエンターテイニングで時間を忘れさせるものになっていることに、すごく驚いたのです。

終演直前に観客席のどこかからデジタル時計の時報が鳴って、「あぁ、1時間経過か」と思わず思ってしまい、パフォーマンスに終わりの予見を抱いた時点で小生の集中は残念ながらおしまい。実はその後のところにツレは凄まじいものを感じたらしいが、それは逃してしまった。つくづくアラーム付き時計が恨めしい。

2回公演ではあまりにも回数が足りない。もっともっと色んなバリエーションでこの3人が一緒に立つ舞台を観てみたい。

2009年7月19日日曜日

カニクラ 73&88

17/07/2009 ソワレ

終演時に、それまで4人の俳優が劇場内に張り巡らせていたコミュニケーションの糸が、残像のように、あるいはまた中古の蜘蛛の糸のように、ぼやーっと残っている感じがして、それが気持ちよかった。

舞台上で台詞を言うということとは何でしょうか?お客に伝えることと、伝わることとはどう違うんでしょうか?舞台上で他の役者に対して台詞を言うとき、実はそれは、お客さんが「あぁ、他の役者に対して台詞を言っているなー」と感じてくれれば、実は本当にコミュニケーションをしていなくてもいいんではないでしょうか?だから、舞台上のコミュニケーションは、所詮インチキだから、インチキのままでいいんではないでしょうか?それではなんで役者は、一生懸命他の役者とコミュニケーションとるんでしょうか?いや、むしろ、コミュニケーション取れてない芝居の方に、「あぁ、ほんと、感動したー!」とおっしゃる観客が多いのは何故でしょうか?

ビシッと一発答が出るわけではないのだけれど、少なくとも、コミュニケーションの糸だけを、まるで、化学部の連中が木の葉を薬液に浸して葉脈だけにしてみせるように、舞台に載せてくれた。それが一種の高揚感やカタルシスに繋がったわけではないのだけれど、気持ちよく観れたことには間違いない。

あなんじゅぱす うたはもライヴ

15/07/2009

実はあなんじゅぱすのライブを聞きに来たのが初めてだったということに気がついて、自分でも驚いた。
谷川俊太郎さんが客席にいたのにも驚いたし、その前に土井通肇さんがいて、周囲の平均年齢が上がっているのを、大崎由利子さんが下げているのにも驚いた(他意はありません)。

谷川俊太郎さんが、途中、ひらた氏の唄のお休みの間に出て行ってしまったのには、でも、あんまり驚かなかったかな。

2009年7月18日土曜日

快快 My name is I LOVE YOU 欧州公演Work in Progress

13/07/2009 ソワレ

欧州遠征の直前公開稽古。
前半各自のテンポがかみ合わず、ちょっと「あれ?」って感じだったが、ガム合戦、妹登場で盛り返し、勢いがついて最後まで面白く観た。

千田氏の英語ナレーションも良し。エフェクトのかかったナレーションは、ちょっとYMOみたいで、というこころは、聞き取りにくくて意味も追いにくいんだけど、YMOは歌詞がわかんなくても充分面白かったし、快快も動きを追うだけで充分面白いってこと)。もちろん、千田氏のナレーションがYMO並みの下手な英語だというのではない。彼がナレーターとして醸し出す雰囲気が全体にプラスだったし、少なくとも彼くらいには喋れないと、ということでもある。

篠田氏は「これでストーリーが伝わるか?」みたいな心配をしていたけれど、どちらかといえば、リズムが悪いときは、「テクストが伝わってないんじゃないか?」という心配よりも「ノリがよくないんじゃないか」という疑い方をしたほうが良いと思うのだけれど。

今回もそうだったし、前回「りたーんず」での「アントン、猫、クリ」を観ながらもポヤーと考えていたのだが、テクストと身体の動きへの距離のとり方のバランスというか、アンバランスが、何ともびみょーだなー、と思う。身体の動きが無茶苦茶面白いのに、観客をひきつけていく上で、妙に素直にテクストを信頼している気がして。

説明しつくせないものがあるから、敢えて説明するメディア(本とかアジ演説とか)を避けて舞台上のパフォーマンスを選んでいるのに、そしてそこで面白くなるように動きや構成を選び取っているのに、一方で、「ロジカルに説明する」役割をテクストに担ってもらっている、そしてそこに信頼を寄せている、それも割りとナイーブに(あるいはナイーブに映るように)。

そこんとこ、本当はどうなんだろう?

まぁ、この作品がハンガリーやスロベニアやオランダで受けるかどうかは、僕らハンガリー人やスロベニア人やオランダ人じゃないから分からない。でも、少なくとも横浜で見たワークインプログレスは面白かった。そこが拠り所なんだろうと思う。

五反田怪団2009

11/07/2009 ソワレ

ソワレも何も、怪談やるのに昼公演はないだろう、ということではあるが。
芸達者前田司郎+フレンズに、「演劇界随一の霊能力集団(談:前田氏)」である青年団員を加えて送る怪談ナイト。平台の上にろうそくも立っていかにもそれらしく、エンターテイニングな2時間だった。

個人の話芸と、出演者のそれっぽかったりそれっぽくなかったりする演技のバランスと揺らぎが絶妙で、話芸大会にもホラー芝居にも落ちない、ちょっと陳腐な言い方で申し訳ないが、上質のエンターテイメントになっていた。やっぱり、役者に力がある。堪能。

桜町元の成熟も良かったし、坂口辰平のインターチェンジ6連発など小技の見所も沢山あって、大いに愉しんだ。

2009年7月14日火曜日

私の頭の中の日ハム

11/07/2009 マチネ

青年団の工藤倫子、女優生活9周年を飾る演芸イベント、「9周年」だなんていう中途半端な年数の合わせて、かる~いタッチの出し物2本立ての趣。これを称して試演会というべきか、秘演会というべきか、はたまた私宴会と呼ぶべきか、ちと迷うが。

ともあれ、前半のモノマネシリーズは、僕はあんまりテレビ見ないので短くて何より。後半の三人芝居は猪股御大を擁して、中学の制服姿の2人は中村座を思わせるところもちょっとある(さすがにブルマはなかったけれど)。

それにつけても気になるのは、当日飛込みで入ってきた近所のお母さんと2人の小さな息子達。終演時には姿を消していたが、一体どこで退場したのか?やはり、瞼にパッチリ目を描いてあるヘップバーンメイクに恐れをなしたのではないかと思われるが、どうか。どうぞこれに懲りず、今後とも家族みんなで芝居小屋に足を運んでいただきたいものです。

2009年7月12日日曜日

七里ガ浜オールスターズ 向日葵と夕凪

10/07/2009 ソワレ

4人の達者な役者陣が、線の細いありきたりで説教臭さただよう戯曲に、斜に向かうことなく丁寧に対峙していた。

戯曲の弱さというのは、4人の登場人物を束ね展開を支える偶然(物語を進める上での必然)の突っ込み方の弱さに始まって、細部のことばの選び方にも及ぶのだが、そういう弱さに対して、「こうやって変えて料理してやれば何とかなりそうだ」とか、「これじゃーできねーよ」とか、敢えてそういう態度を取らないという選択が、プロダクションとしての潔さとして取れば良いのか、それとも、妙なやさしさとして「ぬるい!」と言えば良いのか、迷うところ。

想田和弘 「精神」

「タブーに挑む」ことは売り文句の部分が9割以上で、実際に映画を観るに際しては、タブーだかどうだかはほとんど関係ない。

僕は常日頃、観客に観方に関して余地を与えない映画・芝居はカスだと思っているが、そして、どんな映画にもそうした余地を見出してしまう逞しい妄想力を持ち合わせる人もまた知っているが、こういう、「観客が余地を見出さない余地を与えない」つくりの映画は初めてだ。

監督自らが「白とか黒とか主張するのではなくて、グレーを示したい」とか「自分が現地で感じたことを、映画の観客に追体験してもらいたい」と述べるような映画で、かつ、観客側からも「どのようにもとれる」「必ずしも監督の感じたとおりに感じる必要は無い」ような出来上がりになっているところに、監督のセンスを感じた。

別の言い方をすると、「観察映画」なのだから、観客の見方の自由度を高めようという意図はあるだろうし、実際かなり高まっているのにも拘らず、「そういう風に映画を作ろう」という監督の意図・方向感が非常に強烈に感じられて、従って、全篇を通して、想田監督のすっごく強い自我の影を感じながらでないと観ていられない映画なのである。

また別の言い方をすると、「映画なんて観る人によって見方は十人十色なんだから、らく~に観て下さいね~」というのではなくて、「いいですかー、頑張って観て下さいねー、どうやったって、あなた自身の観方で観ないとどこにも行かない映画なんですからねー、はい、じゃ、監督は裏っかわでじっと観察してますよー、」と、「自分の観方で観るように仕向けられていることを絶えず感じざるを得ない」造りになっているようにも思われた。

だから、すっごく面白い映画であると同時に、すっごく疲れる映画である。
想田監督、すばらしい技量と強力な自我の持ち主だと思った反面、ちょっと怖くなってしまったのである。

2009年7月7日火曜日

地点 あたしちゃん、行く先を言って

05/07/2009 マチネ

格好悪いけど、正直に言います。途中、何度もうとうとしました。
同じ台詞・フレーズが繰り返されるシーンは、特に、つらかったです。

ホント、コンテクストを剥ぎ取られたものを、あるいは、剥ぎ取って残されたコンテクストの残滓のようなものさえ取り去ろうという、あるいは、コンテクストのタネを観客が落穂広いすることさえ拒絶しようとする意志が強烈に働いている舞台を目の前にして、僕のちゃちな「妄想力」や「物語への回収能力」は余りにももろかった。
以下、言い訳ばかりにはなるが:

やはり、コンテクストへのとっかかりが無いものを見せることは、かなりの「実験」だと思う。
「何も劇的なことが起こらない」青年団の芝居でもやっぱり「外にあるはずの物語」や「人間が身に纏っているコンテクスト - 仕草とか服の皺とか台詞のいい淀みとか」、あるいは、そこに意識してあるいは無意識に現われる「破れ」に、僕はコンテクストを見出そうとしているのだし、実際に見出せるし
多田淳之介のLoveやCastayaも、台詞や舞台装置の助けを借りずにコンテクストを創り上げるプロセスを、観客として愉しむための仕掛けは用意してある。
台詞のないダンスを観る時も、剃った頭の青さとか足の指とか、そういうとっかかりがあって、
いや、大事なのは、おそらく、創り手の側も、それをある程度期待(あるいは、それが言いすぎなら予想・許容)しているのだ。普通は。

ところが今回の三浦基の「実験」は、そもそも、「太田省吾の全テクストを切り刻んで、コンテクストとしては編まずに、でも一定の選択を加えた上で、舞台に載せる」という、コンテクストから離れる強烈な遠心力を働かせながらコアには太田省吾さんの重力があるという、二律背反から始まっていると思われる。

例えば、途中、小林洋平がブロックを積みながら戦後演劇の政治性(コンテクストに嵌らなければ現代演劇足りえないとされていたこと)についてフレーズを繰りかえすとき、それはもちろん、テクストの意味を伝えつつも、そうやって、「意味・主張の偏重」に対し一定のメッセージを伝えているように聞こえながらも、そのテクストの政治性を拒絶し、一定のコンテクストとして伝わってしまうことを強烈に拒否しているのだった。

そういう演技を目の前にして、自分の妄想スイッチを入れることが出来なかった自分は、弱い。でもこんな、強烈な意図が先走った、何の誤魔化しも許さない舞台は、多分、その意図がクリアーに舞台に乗れば乗るほど、観客を眠くさせてしまうだろう。
二つの強烈な意図の間に「ガクン」と落ちて目を覚ますプロセスを繰り返すばかりになりゃあしないか。来年1月の吉祥寺シアターがとっても楽しみではある。

ロハ下ル セインツ・オブ・練馬

05/07/2009 ソワレ

千穐楽。
文句なしの失敗作、と呼んでも失礼に当たらないと考える。これだけの書き手、役者が揃って、開演2分後から最早面白くないのだから。ひとえに、戯曲の問題と見た。
初めて山中作・演出の芝居を観た方はこれっきり来なくなっちゃうかもしれないが、それは是非思いとどまった方が良くて、「いや、次は面白いと思いますよ」と言い切っちゃっても、これまた差し支えないのではないかと考えるのだ。
1回表に一挙7点(満塁ホームラン一本含む)取られて負けた阪神の試合を見るようで、それはそれでスカッとしている。おそらく、これまで山中芝居を観たことのある誰しもが、「今回は失敗だ」と思ったに違いない。それは、次回作ではきっと修正されるに違いない。
(もし皆がそう思っていないとすれば、それは、問題だと思う)

2009年7月5日日曜日

SPAC スカパンの悪だくみ

04/07/2009 マチネ

なんともエンターテイニングな舞台で、かつ、静岡も初めてでないからか、客席の暖まり方とても良く、かつ客いじり・反応の見方も含めて演じる側にも戸惑いが無い。外国語字幕つきの上演であることを意識してか、テンポを若干落とした上演なのではないかと思うが、それでいてグルーブを失わずにがっちりと観客をつかみながら進める手管、観客としてはとても幸せな舞台だったのだろう、と思う。

「と思う」といってしまうのは、まぁ、力のある舞台でかつエンターテイニングだから文句のつけようは無いものの、僕の好みではないからで、また、そういうところで巧みに間合いを計られてまんまとやられておいて、カーテンコール4度・5度はちとやりすぎか、とも思うからです。

途中歌に入ってインチキミュージカルになるところは、まるでFlight of the Conchords そのまんまで、思わずとっても嬉しくなってしまったが、Flight of the Conchordsそのままじゃん、ってことは、まぁ、舞台に載せずにDVDにしても同じくらい面白いかもね、ってことでもある。

面白いし、愛されてる舞台だな、とも思ったけれど、じゃあ、オレの面白いと思う芝居ってどうよ、と、ちょっと考え込んでしまった。

2009年7月2日木曜日

城山羊の会 新しい男

01/07/2009 ソワレ

1時間45分、全く時計を意識せずに最後まで観てしまった。とても面白かった。
前回の「新しい歌」もとても良かったけど、城山羊の会の芝居、どんどん面白くなっている。
他の役者さんも良かったからこういうことを言っては大変失礼になってしまうけれども、三浦俊輔が出色だった。
黒田大輔は「ぜーはー」が許されてしまう日本で唯一の役者なのではないか、と書いたことがあるが、前言撤回。三浦俊輔も「ぜーはー」絶対に許される。

<以下、ネタバレ>

本当に、古舘氏の「実況中継」シーン、古舘さんにはほんっとに悪いんだけど、オレ、三浦氏と本村氏の顔しか見てなかったし。だいたい、自分の彼女が古舘にやられている描写を、あんな嬉しそうな困ったような顔で聞けるヤツ、いるのかい?あ、ここにいるよ、ここに、てな具合である。本当にやられた。

熱出しておかしくなっちゃう三浦氏を囲むシーンは若干デジャヴュで、何だっけと思ったら、そうそう、ハイバイのおねがい放課後、三浦バージョンでの古館対三浦ってのがあった、そのドロドロ半妄想シーンに似たものがあった。いずれも良い、ってことなんだが。

みんながみんなして最後まで「死ぬ死ぬ」言ってるので、僕はてっきり、最後、おかしくなっちゃった三浦氏か石橋氏がどっかで人を傷つけて入ってくるとか暗転するとかいう展開になるんじゃないかと、そう思っていたのだ。というか、山内ケンジ氏にも大変失礼ながら、「若い夫」もそうだったし、今回もそーかなぁ、などと、ナメたことを考えていたのだ。
唯一死にそうに無いのが変態古舘さんで、ま、これはこれでいっか、みたいな。

が、後半もド後半になって、「あ、こいつら、だれも死なないな」と思い始めるのである。登場人物が死ななかった理由もわりと「はずみ」「たまたま」だったりするのだけれど、逆に言えば、死ぬ理由、というか、死ぬ直接の引金もやはり「はずみ」なのである。で、ぼくが三浦俊輔に期待していたのは、実は、その、「はずみ」を引き起こすことなのだった。

しかし、山内氏がそれに気がついていないわけが無く、つまり、舞台上で起きることに本当の「たまたま」があるはずはなく、舞台上のたまたまは必然なのである。当たり前だが。

死ぬってことが、いかに「はずみ」なのか。言葉をかえると、死ぬってことがいかに不条理であることか(うわ、かっこいい)、というのがずーーんんと見えてきて、あ、そこに、深浦さんの気配が。