2016年10月19日水曜日

東京デスロック

15/10/2016 14:00 @赤レンガ倉庫1号館

久しぶりに東京デスロックが観られた。チェーホフの三人姉妹を題材に、でも、「亡国の三人姉妹」というタイトルで、舞台の上も19世紀のロシアの田舎町ではない。
舞台上には大きなテント、周囲に乱雑に散らばった物、段ボール箱。テントから段ボール、果ては登場する役者の衣装にまで、ことごとく、大小の真円の穴が開いている。一見して、「どこかの」難民キャンプを表しているように思われる。テントは仮住まいかも知れない。破壊された住まいかも知れない。真円の穴は、銃弾の穴であり、砲弾の穴であり、人々が失った大小様々なものであるかも知れない。

筆者には、それは、シリアから難民が逃れてきた先に辿り着いたキャンプに見える。あるいは、テントに逃れる前に人々が住んでいた街、例えば、アレッポに見える(アレッポにテントが張ってあるわけではないことは分かっているけれども)。あるいはそれはイエメンかも知れないし、カレーのジャングルかも知れない。あるいは、原発事故のために移住を余儀なくされた人々の仮住まいかも知れない。それが劇中明示的に示されることはない。

その舞台に三人姉妹を重ねて、台詞の順番は、編集はあるものの、ほぼオリジナルに沿って進む。ただしここでも、台詞を話す相手が「不在」であったり、落ちていた人形に台詞を喋らせる仕立てであったりと、「本来そこにいるべき語り手・聞き手の不在」が常に仄めかされる。あるいは「キャンプの人々によって演じられる三人姉妹」を「東京デスロックが演じている」ようにも見える。その入れ子構造は、明示的に示されることはない(と、少なくとも筆者には思われた)。

極めてざっくりとこの芝居を図式化すると、この芝居は、(1)オリジナルの三人姉妹の舞台である19世紀ロシア (2)21世紀のどこかの難民キャンプあるいは戦火の街あるいは仮住まい (3)日本に本拠地を持つ東京デスロックの役者達が横浜で演じる舞台 の3つの世界を結ぶ三角形の中で、3つの異なる世界を重ね合わせたときにどんな像が結ばれるのかを試す舞台である。

この仕立ては、2014年に観たカルメギや、筆者未見だけれども2015年の颱風奇譚にも通じるものがある。すなわち、
カルメギ=(1)19世紀ロシア (2)日本の植民地であった時期の朝鮮半島 (3)日韓の役者による日韓の舞台
颱風奇譚=(1)17世紀の劇作家が想定した虚構の世界 (2)日本の植民地であった時期の南シナ海 (3)日韓の役者による日韓の舞台

そして筆者は、今年、同じような仕掛けの芝居をロンドンで観た。シリアから逃れてきた女性達によって「トロイの女達」が演じられるという仕立ての“Queens of Syria”である。
Queens of Syria=(1)2500年くらい前の劇作家が想定した、何千年か前にギリシャに滅ぼされた街 (2)21世紀、様々な物達に破壊された街・クニ (3)(2)の当事者の女性達(この場合は、厳密には三角形は成立しない。むしろ、2つの点を結ぶ線が引かれている)

こんな屁難しげなことを書いても、芝居が面白く観られるってわけでもなさそうなものだが、で、それは分かってはいるのだけれど。

それならなんでまたこんな図式・構造の話を長々と書いたのかと言えば、それは、舞台を観ていて、図式は見えるけれども、役者の演技を通じて、3つの世界がピタッと重なって何か得体の知れないモノが立ち上がってきた感じがしなかったからである。言い方を変えると、役者達は、一種途方に暮れているようにも見えた。右のかなたに「帝政ロシア」を、左のかなたに「シリア」を見、その2つをグイッと自分たちの方に引き寄せてこなきゃならないのだけれど、右も左もあまりにも遠いじゃないか!その「引き寄せる」「引き寄せようとする」プロセスを、120分間見続けていた感じがする。それ自体は観客にとっても不毛な時間ではなくて、筆者も役者が苦労する姿を(一種意地悪に)楽しんだのだけれど、「完成形」が立ち上がったら、それは、カルメギやQueens of Syriaのように、もっと飛距離が出たに違いないとも思われる。

特にQueens of Syriaとの比較で言うと、Queens of Syriaは、まさに「当事者」によって語られていたわけで、そりゃ演者と語られるシリアの距離は近いに決まっていて、グワッと迫ってくるのは一種当たり前だ。だから、この「亡国の三人姉妹」の中で役者がシリアを引き寄せようとすることが無意味だとか、絶対にQueens of Syriaにかなわないとか、そういうことを言っているのではない。その距離にこそ、また、距離から来る誤解や逸脱にこそ、演劇の想像力が働く余地があって、その距離に、筆者はシビれる。
Queens of Syriaで筆者がシビれたのも、「当事者が語る悲惨な出来事」への同情でシビれたのではなくて、演者達がそこで敢えて「距離を空けて」語る態度、演技にヤラれたわけで。

そういう意味では、今回のデスロックは、(いつものことながら)観客の想像力までも試していると言えるのかも知れない。筆者の妄想力をもってしては、残念ながら、後半、子供服が干してあるシーンぐらいから「シリア」「ロシア」「日本」の3枚のシートの凹凸が随所で噛み合い始めたと感じるにとどまったが。

今回の横浜公演はツアーの出発点。これから公演を重ねる中で、きっともっと飛距離の出る芝居に仕上がるはず。それが見届けられないのは残念なのだけれど。

A Gamblers' Guide to Dying

09/10/2016 19:30 @Southwark Playhouse

去年のエディンバラで初演を観た、Gary McNairによる独り語り芝居を、今度はロンドンで。
本作については、筆者の日本語訳、RoMTによる日本ツアーがつい先週終わったところ。これから本家Gamblerの座組はNYツアーと言うことで、誠におめでたいタイミング。日本でのドラマターグを務めた松尾氏とともにSouthwark Playhouseへ向かう。ちなみに松尾氏は、昨年のエディンバラでこの公演を観ていないから、本家の公演を観るのは今回が初めて。

終演後の松尾氏の第一声「日本語版とぜんぜん違う!!」が、多くのことを物語っていたと思う。RoMTの田野氏が「英国本家版と同じように仕上がった!」と豪語していたことを考えると、いやはや、感無量である。その違いについては、後日たっぷり松尾氏に語ってもらうとする。

筆者の感想としては「記憶していたよりも、案外観客に向かって語ってないな」というのが一番大きい。もしも昨年来演出に大きな変化がないのであれば、それは、筆者が「テクスト」を読んでいるうちに、段々と、「演じられていた」バージョンよりも「このテクストを自分がどう読むか」バージョンに解釈が寄っていって、その解釈が観劇の記憶を歪めてしまった、ということなのだろう。おそろしいことである。そしてまた、大いに愉快である。

あるいはまた、客層の違いもあるとも思われた。言ってみれば、エディンバラはこの座組にとってはホームであって、客層も、スコットランドに住む人々が多数派(それも、わりかし高齢のカップルも多かった印象)。言い換えれば、「語るに足る」相手だったわけである。今回はロンドン公演。イングランドの、しかもロンドンの連中に向けてグラスゴーの話をするんだから、そこは若干よそ行きになっても仕方がないかも知れない。実際、筆者が一番違和感を覚えたのは、冒頭の始まり方で、エディンバラではもっと客席を見回して間をたっぷり取って、そこから語り始めた印象が強かったのだが、今回は、舞台奥からさっと入ってきて、さくっと芝居を始めた印象。そう。「語り」ではなくて「芝居」が開演した感じだったのだ。

そう言えば、Hogmanayの恒例番組も、スコットランドローカルのJackie Birdじゃなくて、BBC2のJools Hollandの番組になってたし、Countdownも今風にDo you want to be a millionaireに変わってたし。ラストの台詞にも若干手が加えられていて、語り初めの言葉を用いて芝居の風呂敷を畳みに行くという、一種芝居っぽさ満載の台詞回しで、それも筆者としてはややがっかりではあった。

と、色々ケチをつけたりもするけれど、しかし、それにしても、上質の語りものであることには間違いがないと考えていて、そこは満喫。加えて、日本語版が一度出来上がっちゃったことには変わりなくて、それはそれでまた独自の道で進化していくのだろう。それもまた愉快である。

2016年10月18日火曜日

No Man's Land

01/10/2016 14:30 @Wyndham's Theatre

ピンターの芝居を最後まで気持ちが離れずに観ていられたのは、多分、初めてだと思う。
そりゃ、イアン・マッケランとパトリック・ステュアートの共演となれば、クソ味噌の出来にはならないだろうという読みはあったし、
正直言って、そこら辺は役者の名前で観に行っているという部分はあったのだけれど。役者4人はそうした下世話な期待を遙かに上回って素晴らしかった。

No Man’s Landという割には、冒頭の年寄り二人のやり取り、若者二人が入ってくるところ、地名がはっきり出てきて、北ロンドンご当地芝居の様相である。Hampstead Heath、Chalk Farm。ああ、あの辺のお屋敷なのね、と思い当たるのだが、そうやって引っ張っておいて、一方で一切外とのコンタクトが示されないところにこの芝居の妙がある。

訪ねてくるべきFinancial Advisorはやって来ないし、外の景色は見えないし、誰も何所へなりと出かける気配もない。名前だけは出てくるけれどもリアルではない。パトリック・ステュアートの記憶も、語られるけれどもリアルに像を結ばない。いきなりそれに反応できてしまうイアン・マッケランが、ただ話を合わせてるだけなのか、本当に記憶を共有しているのか、それも定かではない。建物の中を舞台にした、いい大人の男4人組のお屋敷ごっこのように見えてくる。

筆者はベケットのEndgameを思った。でも、Endgameでも、Clovは窓から外を観ていたはずだ。外の景色はあったはずだ。
Endgameの外が荒涼としていそうで、でも何かがあるのかもしらないという感じと、この芝居の、外には何もかもあるのだと語られているにも拘わらず「本当は何もないのではないか」と思ってしまう感じ。同じコインの表と裏のような気もする。

そういう、どこにも行かない芝居を最後まで見せきってしまう役者陣の力量を堪能した、というのが今回の一番の収穫か。

2016年10月9日日曜日

Our Ladies of Perpetual Succour

24/10/2016 21:00 @National Theatre, Dorfman

昨年エディンバラで観た「嗚呼! 花の聖マリア学園合唱部!」あるいは「魁! 聖マリア学園合唱部!」。今回も素晴らしかった。
1年の間に辞書引きながら上演台本読んでおいたのも功を奏し、内容でロストする部分も大幅に減って、大変楽しんだ。

去年観たときには、女子高生役6人の歌の上手さもさることながら、彼女たちの破天荒な行動や台詞のお下劣さもあって、
最後までテンポとパワーでもって行かれた感が強かったけれど、
今回は、展開も全て心得た上で臨んだが、いやはやどうして、テンポや破天荒さだけではない、この芝居、正統派直球の等身大青春ミュージカルじゃないか。

恋に悩み、バンドに悩み、進路に悩み、生と死について考え、酒もタバコもセックスもマジックマッシュルームもトイレお着替えも救急車も、おんなじフォームでビシッと投げ込んでくる。
そこら辺が、青春ミュージカルなのに筆者が面白く観られた大きな勝因じゃないかと思うんだ。
「愛」について語るお上品なミュージカルではないし、「悪意とゴミ溜めをありがとう」なミュージカルでもない。
汚いも綺麗も、ゲロも涙も、全てを同じ力強さで掬い取って、濃淡つけずに舞台に載せて、
それは実は、6人のティーンエイジャーの視線から見える世界との距離感で、つまり、舞台に載っている事柄は、すべて、彼女たちにとってはどれもおんなじぐらいに大切なことで、
だからこそ「それをそのまま彼女たちが舞台に載せました」という設定が効果を発揮する。

ラストの長台詞では、見てる絵としてはそのまんま80年代日本の小劇場演劇(かつ、等身大ミュージカル)みたいなのに、
Lee Hallが用意した台詞じゃなくて、「彼女たちが自分で書き込んだ台詞」みたいにきこえて、ついついグッと来てしまった。

脚色のLee Hallの主観は、そこも含めて、あまり強く芝居に反映されていないようにも見えるけれど、
舞台奥に光るマリア様の視線があって、それは一種、彼女たちを見守る目であり、客席から彼女たちを見守る視線の代わりになっている。
あるいは、最後にちょろっと出てくる駅員のおじさんの目線。
そういうところがあるから、この舞台はティーンエイジャー達の独擅場、「若い人向けのミュージカル」にならず、大人の観客が入り込む余地を残した、心憎い仕上がりとなった。

これ、日本人キャストでは無理があろうから、このまま日本にもってっちゃったらどうかな?
鳥の劇場とか、キラリふじみとかで観たらぐっとくるだろうなぁ。十分楽しめると思うんだけどなぁ。どうかなぁ?

2016年10月2日日曜日

Yerma

24/09/2016 14:30 @Young Vic

ガルシア・ロルカのイェルマを現代英国に翻案して、子供が産みたくてしょうがないアルファブロガーのジャーナリストを(Dr Whoで知られる)ビリー・パイパーが熱演!
いやー、こりゃ見応えありますねー、ということで新聞の劇評も4星・5星目白押し、さぞかしな芝居なんでしょうね、と観に行ったが、
あぁ、ビリー・パイパーって、演技できるんだなぁ、ということ以外に得られるものは何もなし。

前半はゆったり始めつつも、暗転が多くて目障りだなぁ、との印象。
暗転の度に掲示板に「2週間経過」とか「3ヶ月経過」とか表示されて、へぇ、そうなんだ、とは思うけれど、
役者の会話をじっくり味わう余裕がなく、むしろ、話を無理矢理進めるために巻きを入れている感じがして、落ち着いてみていられない。

そのうちに、ビリー・パイパーの子供欲しい病がエスカレートして、日常生活に支障を来すようになってくるのだけれど、
そうなったトリガーが見えない。
そう思う動機が見えない。
その背後にある社会的状況はそもそも見せようとしていない。

自らの妊娠・妹の妊娠に対する「周囲からの期待・思惑」「共同体からのプレッシャー」は一切関係なく、さすが現代英国、全部「個人の自由意思」である。
え? でもそれ、ロルカが元の戯曲で書いてたことからスライスしてませんか?
いや、ビリー・パイパーの個人の意思とそれに振り回される周囲の人間、という芝居で、いっこうに構わないのだけれど、
それじゃあ、本当に、ロルカの原作使う必要なくないかい?
あるいは、ビリー・パイパーのオブセッションの対象は、子供でなくても全然良くないかい?言ってしまえば、かっぱえびせんへの執着でも、服に対する執着でも、芝居に対する執着でも、何でもいいんじゃないの?で、イェルマ、っていうからには、「何故彼女は自分が子供を産むことに執着せざるをないのか」がないと。
説明はしなくて良いけど、そのバックグラウンドを観客が想像できるぐらいの種まきはしておかないと。

二方向の客席から長方形の舞台を挟んで、舞台と客席の間のアクリル板で「舞台を観察している」感を出したか。
マイクで音を拾ったり、舞台転換もおカネを掛けてそれなりにスマートにやっていたし、そりゃそれでいいんだけど、
そこまで。

ビリー・パイパーはそれなりに抑えた演技も出来る役者で、共演の男優陣もきちんとしていたから、もうこれは、プロダクションのコンセプト自体が当初から破綻していたのだと諦めるほかない。
熱演、ご苦労様。残念でした。

2016年10月1日土曜日

地獄谷温泉 無明ノ宿

17/09/2016 15:00 @パリ日本文化会館

地面を深く掘り進めていくと、その奥底にはマグマがグラグラ煮えさかっていて、
人に見えないところでグラグラと、ゆっくりと、ダイナミックに、暗黒の中を蠢いているのだろう。
そして、その蠢きが地表近くまで来ている場所が時々あって、そこには温泉が湧いて、
気立ての穏やかな温泉ではそれは適温となって人の肌に触れ、
気立ての荒い温泉では高温の熱湯となって吹き出すのだろう。

この、庭劇団ペニノの芝居は、そういう芝居だったのだろうと思う。

前景に立って物語を進める人形遣いの親子は、外見は人目を引くけれども、そしてまさに「怪演」というに相応しいけれども、
実は、その他の登場人物 - 村人たち - の人々の心の動きの触媒である。触媒、でしかない。

この芝居を観ながら筆者が追い掛けていたのは、実は、マメ山田さんや辻孝彦さんが次にどういうアクションを起こすか、ではなくて、
そこで、他の登場人物達の感情・心がどう動くのだろう、ということだったのではないか。

そうやって、異形の者たちを前面に出しながら、実は、よりダイナミックに蠢いているのは、他の湯治客の心であり、それをまた眺めている観客の心である。

辻さんの演じる「息子」が、情動に欠ける、いわば「触媒」に徹した真っ黒なモノ、であったのに対し、
マメさんの「父親」は、その構図(自らが他人の情動の触媒となっていること、息子にはその自覚すら与えていないこと、そして、この芝居の構図の中で観客の心が動いていること、そうした全て)
を全部見通す存在として舞台に立っていた。
「息子」は人形と人形遣いへの奉仕に徹する一方で、「父親」は人形と共犯の関係を結び、周囲の人間にその暗黒のグラグラに触れるよう誘っている。
そこに触れた瞬間、そこにある深ーい闇への恐れから思わず手を引っ込めてしまのだけれど、情動の奥底のグラグラが地表に噴き出して、そこにドラマが生まれる。

芝居の前景と後景が実は入れ替わっていることで、芝居としてのバランスが非常に良く取れていた。
舞台美術も素晴らしいし、役者もみんな素晴らしい。役者達の裸の身体は、マグマの熱が地表に触れたときの温度の感覚とそれへの反応を舞台上から伝えて、そこに彼らが裸でいることの必然を感じさせた。
この芝居、観ることができて本当に良かった。

2016年9月28日水曜日

Into the Woods

06/09/2016 20:00 @Menier Chocolate Factory

1987年初演のブロードウェイミュージカル。今回、米国プロダクションをロンドンに持ち込んだら評判が良くて大入り満員。あんまり評判が良いので筆者も観に行った。
なるほどなるほど、こりゃ面白いや。
魔女に魔法を掛けられて子供が授かれなくなっちゃった夫婦が森に出かけていって、魔女に言われたアイテムを集めようとしたところで、赤ずきんやジャックと豆の木のジャックやラプンツェルやシンデレラに出会って、さあどうなる、っていう話。
前半から音楽や場面転換のテンポも良くて、ぐいっと引き込まれる。で、物語的にも3回転半ひねりが決まったところで、おおーって思って、そこでこれ。
「はーい、それでは休憩を挟んで後半でーす」

え? これで終わりかと思った!

一度そう思ってしまうとなかなか修正が効きにくくて、かつ後半はソロの「長台詞聞かせソング」が多くなって辟易したこともあって、長く感じてしまった。
前半の破天荒な展開を、後半でわざわざもう一ひねりひねって畳んでまとめなくても良いじゃないか、って思ったのだけれど、そういうものでもないのだろうか?

2016年9月27日火曜日

かもめ (Young Checkov三本立)

03/09/2016 20:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品三本立て一日一挙上演のラストを飾ったのは「かもめ」。やはり四大戯曲と呼ばれるだけあって、芝居の作りがとても面白い。
チェーホフの意地悪な視線の確かさとか、それぞれの登場人物のキャラ(一人の主人公に詰め込むんじゃなくて)が人間関係のねじれ、物語のうねりを産み出す様とか、そこから立ち上る、絶望とも希望ともとれる空気とか、そういうものの舞台からの立ちのぼりかたが、明らかにPlatonovやIvanovとは異なっていて、観応えたっぷり。
この三本立て、ラストは必ず鉄砲が出てくるのだけれど、鉄砲の使い方、とりわけ発砲の後処理も、かもめに一日の長あり。また、舞台上に水を張った美術も、この作品で最も生きていた印象。

このプロダクションは、もちろんDavid Hareの解釈に沿って輪郭が取り直してあるのだけれど、
トリゴーリンの「自らの空虚の自覚」「全てを自分が書く小説に取り込んでしまう視線の在り方」(= Death or Glory, Becomes Just Another Storyなんだよなぁ)や、
あるいは、マーシャがトリゴーリンのメモの世界に取り込まれない「我」を終始保ち続ける様、
あるいは、ニーナが最後のシーン、舞台脇のぬかるみを力強くジャブジャブ踏んで退場していく様、
その辺りが、特にこのプロダクションではよく見えた。

特に、ニーナがラストに見せる力強さ。至高の芸術にはとても辿り着きそうにないが、力強く、泥臭く女優を続けていくためにジャブジャブ水を踏みしめて退場するその一歩一歩が、少なくとも旅の終わりにどこかに辿り着くための一歩のように見える。一方的に「かわいそうな哀れなニーナ」で終わっていない。
表面上成功しているように見えていても、神経質に並べられた原稿のように吹けば飛ぶような自我が壊れるのを待っているトレープレフとは対照的で。

イリーナ・トリゴーリンの「行かないで」のシーンは、「そこで脚つかんで引き倒しますか!」っていうダイナミックな動きで吉ではあったが、角替和枝さんのあのダイナミックかつねっとりしたイリーナにはちょっと及ばず。でも、端正に、かつ輪郭にメリハリも効いて、上質のプロダクション。8時間弱の一挙上演を飾るに相応しい芝居だった。

Ivanov (Young Checkov三本立)

03/09/2016 16:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品一気上演、2本目はIvanov。これも初見。

「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 がイワーノフの過去として示され、
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」へのチャンスもそこに示され、
で、そこで起きる現実の反応は、

「理想に燃えて始めた田舎での事業が破綻してしかも妻が病気になって困窮する中で、
金持ちの娘から求愛されて、あぁ、これで病気の妻が死んでしまえば再婚できておカネも楽になる、そうなったらなぁ、と思いながら、
そんなことを考えてしまう自分が嫌で嫌でしょうがない、
でもそんな自分を憎む上から目線の自分すら嫌で嫌で、
しかもそれじゃあ他にしようがあるのかといえば、どんな打開策も開き直りも見せずに、出口を自ら切り開く努力を放棄して、
あぁ嫌だ嫌だと自己嫌悪の中でただただ自閉していく、目に見えて困ったちゃんな態度」

である。
プラトーノフと同様、理想と上っ面の現実の相克を主人公一人に負わせて、周囲の人物については、吝嗇な金貸し女も、その夫で物わかりの良いインテリ都会人も、インテリに憧れる娘も、その周囲のあんまり深く物事を考えていない風の人たちも、それなりにキャラ付けしているもののおしなべてイワーノフの内部に切り込むこともなく、その鏡となることもなく、
結局はこの芝居、最初から最後までイワーノフの内部の悩みがイワーノフの中で自己完結して、
まぁ、どこにも行かないんだろうなぁと言う物語の行き先が当初の設定から運命づけられていた。主人公オーバーストレッチ。周囲は添え物。

いや、イワーノフには世界がそのようにしか見えていなかったのだし、そのようにチェーホフは描きたかったんでしょう、という向きもあるだろうけれど、
筆者はそうは思わない。
だって、後年、そうした相反するモチーフを複数の登場人物に負わせて、芝居のうねりを生み出す芝居を、チェーホフ自体が書いて、四大戯曲として後世に残したじゃないですか。

2016年9月24日土曜日

Platonov (Young Chekhov三本立)

03/09/2016 11:45 @National Theatre, Olivier

昨年夏、Chichesterのフェスティバルで上演されなかなかに好評だったチェーホフ初期作品群三本立て上演。 David Hareの脚色が入って、Platonov、Ivanov、かもめ、の三作品。この土曜日は一日のうちに三本立て一気上演、ということで、それぞれ2時間45分、2時間30分、2時間30分、合計8時間弱を同じ劇場で過ごす(おそらく平均年齢60歳超の)勇者達が朝のうちからNational Theatreに集結。

筆者はPlatonovとIvanov未見。かもめは色々なプロダクションで観てきたけれど、好きなのは、中野成樹+フランケンズの「ながめみじかめ」と、角替和枝さんがイリーナ、柄本明さんがトリゴーリンを演じた東京乾電池バージョン。さて、どうなる?

で、Platonovである。まず思うのは「上演されないのにはそれなりの理由がある」ということか。四大戯曲に比べると、物語の重層感に欠ける印象。
チェーホフ芝居のモチーフとして出てくる
「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 と
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」
の2つを、この戯曲では、プラトーノフ一人(大学生の頃の情熱と、情熱は枯れたが性欲と機知は枯れない今日この頃)に負わせて、その2つの資質の対立関係を使って物語を駆動していく。
最後はもちろん破綻して終わるわけだけれども。

今回のプロダクションではJames McArdleが調子の良い伊達男を好演。冒頭、川の中をジャブジャブ歩いて登場してきた姿は確かに格好良い。前半の伊達男ぶり、口八丁手八丁から始まって、中盤の気持ちのぶれ、後半の「何でオレはこんな目に遭わにゃならんのだ?」に至るまで、安心して観ていられた。

観ていられたのだけれども、実はその「何でオレ?」っていうところが、観ていて苦しいところでもある。
この戯曲では、プラトーノフ本人が「何かに苦しんでいる」のにも拘わらず、そこに本人が自らメスを入れて切り込んでいく契機が与えられていない。いや、本人には見えてなくて一切構わないのだけれど、なすすべもなくプラトーノフが窮地に陥る様が、一種「自業自得だこのやろう」的な部分もあって、放っておくと、ただのドンファンものになっちまわないかい?という懸念がある。
最後は「ざまあみろ」ではなくて、「分かっているけど止められない」「前を向く契機はあった、少なくとも気づきのようなものはあったのにも拘わらず、そのように終われなかった」
ぐらいなことはあっても良いんじゃないかなぁ、と思ってしまう。少なくとも、モチーフの間の軋りをプラトーノフ一人に負わせるのであれば。

2016年9月21日水曜日

E15 (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 18:30 @Summerhall

今年もLUNGはやってくれた。去年のエディンバラで最も心に残った芝居、The 56では、ブラッドフォードのフットボールスタジアム火災を題材にしてノックアウトパンチを放ってくれたのだが、今年は、E15で、自分たちを公営住宅から追い出そうとするカウンシルに立ち向かうロンドンのシングルマザーを描いて、これまた素晴らしい。去年のパフォーマンスがラッキーパンチではなかったことが存分に分かって大満足だった。
(昨年のThe 56について筆者はこんな風に書いている:
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/09/the-56-edinburgh-fringe-festival-2015.html)

実際にE15の会場に入るまで、これがLUNGによる公演だと認識していなかった。開演前に、昨年The 56に出ていたBilly Taylor(彼は本当に、一度観たら忘れられない良い役者なんだ)がチラシを配っていて、あれ?と思ったのだが、芝居が始まってから、「去年のThe 56の役者がもう一人出ているじゃないか」っていうので気がついた次第。アンテナの低さを恥じるとともに、自らの幸運を思う(いや、本当はもう一人、合計3人、去年のエディンバラでのキャストが全員出演していたことが、後で分かる)。

Verbatimでは、台詞が実在の人物の発言やインタビューを元に(というか、ほぼ忠実に)書かれているから、そこに作家の勝手な物語が入りにくい仕組みになっているのが魅力のポイント。
ところが一方で、ニュース番組やドキュメンタリーと同様「編集」作業は必ず入るし、むしろ、その出来不出来によっては、学芸会の発表みたいになってしまったり、アジ演説じみてしまったりするリスクも相当高い。

昨年のThe 56はその点、題材を極めてデリケートに扱いながら、かつ誠実に書かれていて、だからこそ体重の乗ったパンチが客席に届いていた。
ところが、今年のE15は、そもそもが、カウンシルのオフィスの前でデモを打ったり、公営住宅を占拠してしまったりする芝居である。アジ演説じみるどころか、「アジ演説」の台詞をそのまま持ってきて舞台に載せるのだから、題材としては相当にリスクが高かったはずだ。舞台上でアジ演説してメッセージを伝えるくらいなら、「むしろ街頭に出ていってやってくれ!」と思われるのがオチだから。

この公演は、この、「公開プロテスト芝居」のコアにあるメッセージを保ちながら、明るく、エンターテイニングに、カラッと、「芝居」として成立させていた。昨年のThe 56が「静」だとすれば、今年のE15は「動」。若い役者達が若い母親達を演じ、アジ演説もうまく取り込んで芝居を壊さず、楽しく観させていただいた。
でも、これ、シングルマザーが子供抱えて住む場所を奪われる、っていう、実はすっごくキツい話だし、楽しいだけじゃなくて、すごくキツい政策の貧困を激しく糾弾している。
いや、だからこそ、カラッと仕上げることで、最後に、自治体の糾弾よりもむしろ
「何かしら一つ、力を合わせて行動を起こしたことで、良くなったことがある」
という、希望に繋がりうる事実を語り伝えることに成功していた。
この、LUNGの人たちは、怒りで目が曇らせず、素晴らしい上演に仕立てることが出来る、すっごい人たちなんだなぁ、と改めて思った次第。

Heads Up (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 15:55 @Summerhall

今年のエディンバラで大変評判が良く、全回売り切れ御礼のパフォーマンス。この日に追加上演が決まって、すかさずチケットゲット。しかし、連戦の疲れと「2人称独り語り」という風変わりな語り口、割と早口のKieran Hurleyの英語についていけなかったこと、そうした要素が組み合わさって、正直、全くついていけなかった。

ロンドンに帰ってきてからいろんなレビューでチェックしてみたら、なんと、この芝居で、Hurleyは、4人の登場人物を語り分けていたのだそうだ。
シティのデリバティブズトレーダーの女性
ロンドンの持ち帰りコーヒー店で働く男性
コカイン中毒で、妻が出産予定日を迎える男性
裸の写真がボーイフレンドによってネットにばらまかれたティーンエイジの女の子

すみません。僕の中ではシティのトレーダーは奥さんが出産予定日で、コカインでヘロヘロになって職場を出て行ってしまったし、家に帰ればシム・シティばっかりしているし、というように聞こえてました。持ち帰りコーヒー店のアブドゥラは聞き分けがついたけれど。アッシュが女性だと知ったのは芝居が終わった後。

ふう。

こんなこともあるか。

お話としては、ある日、ある、変哲のない、皆がストレスを抱えて、まるで世界の終わりのような気分で暮らしをしているときに、本当に世界の終わりが来てしまう、という話である(と、僕は思う)。全編を通して感じていたのは、RadioheadのJustのPVの世界で、おそらく、この、”you”を使って語りかける話者は、どこかのビルの寂しい部屋に一人居て、そこから、いろんな人の寂しい物語を追いかけていたのじゃないだろうか、ということ。どうだろうか?英語のネイティブスピーカーが、芝居の語り手から”you”で語りかけられたときに、その物語をどのように受け取るのだろうか。再び観られるチャンスがあったら、是非挑戦してみたい。

2016年9月20日火曜日

Anything That Gives Off Light (Edinburgh International Festival 2016)

26/08/2016 12:00 @Edinburgh International Conference Centre

スコットランド人俳優2人とアメリカ人女優1人がスコットランドを旅して回る話を、女性4人で構成されたバンドが生演奏でサポートするロードシアター。

ロンドンでビジネスマンとして働くスコットランド人、生粋のアメリカ人だが、遠戚を辿れば必ずスコットランドのどこかにルーツを見いだすことの出来るアメリカ人、スコットランドで生まれ、そこで暮らすスコットランド人。その3人が出会ったときに、スコットランドとは何か、アメリカとは何か、移民とは何か、そういうものが見えてくる.
んじゃないかなー?
というのがこの芝居の狙いだったと思われるが、「スコットランドあるある」や「勘違いアメリカ人あるある」が前に押し出されてしまい、「ご当地ドラマ」からもう一つ大きな風呂敷を広げられない、あるいはもう一歩掘り下げられないままに終わってしまったのは勿体ない。

百歩譲って「スコットランド人同士がスコティッシュで普通に喋ったら、筆者にはついていくのが大変だった」というのは、事実として認めざるをえない。だから、細かなニュアンスが追い切れなかったことは疑いようもない。でも、それを上回って前半のアメリカ人対スコットランド人のやりとりは大雑把な「あるある」になっていなかったか?いやむしろ、ウェストバージニアの小さな町を抜け出してきた彼女が、着いたばかりのスコットランドでなんの差し障りもなく会話に入っていっちゃったことに、(やっかみ半分以上入ってるが)驚きを感じたり。

19世紀ハイランドのクリアランスと、21世紀アメリカの鉱山開発自然破壊を、うま—く繋いで3人の気持ちを近づける、あるいは観客の視点から見たスコットランドとアメリカをグイッと近づけようとする試みは、悪くはないけれども、それも、きっと、現代を生きている3人の関係がもうすこし上手く見せられていたらもっと効果的だったのではないか、って思ってしまう。

コンファレンスセンター、という、劇場に仕立てるのにはちょっと広すぎて、冷たい感じのする空間で上演されたことも影響していたのかも知れない。当初のプロダクションの目論見には沿っていたものの、いわゆるプロデュースものの芝居にありがちな「互いの遠慮」が出てしまったのかも知れない。それにしても、中途半端だったなあ。

Come Look at the Baby (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 11:00 @Just the Tonic at the Community Project

今年のエディンバラのプログラムの中で、ある意味最もカルトな出し物。

会場に入ると、見世物小屋にあるような一間四方の天蓋が据えてあって、その下に、椅子が一脚。おもちゃが雑然と床に散らばっている。それを取り囲むように客席があって、収容人数はおよそ40-50人ほどか。筆者が訪れたときの観客は、途中入場を含めて約8人。開演時間になると、赤ん坊をだっこしたおばあちゃまが入場。その30分後、係が客席の端っこから立ち上がって「終了」を告げると、おばあちゃまは赤ん坊をだっこして退場して終わり。カーテンコールはもちろんなし。

その間、おばあちゃまは赤ん坊をあやし続けていて、筆者が拝見した回は、赤ん坊は終始上機嫌。ニコニコしたり、おもちゃを落として不安になったり、観客に笑いかけたり、奇声を発したり。要はただの赤ん坊である。一応、おばあちゃまは、一通りの30分間の段取りを把握していて、赤ん坊に差し出すおもちゃの順番も、おそらく、事前にきっかり決めてあると思われる。いや、しかし、それ、段取り、って呼んで良いのか?

2008年、多田淳之介とCastaya氏とのコラボプロジェクトで、舞台上に俳優がただ立っているだけの芝居を観たときに、「これが椅子だったらどうなのか」とか色々考えたものだけれど、
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2008/09/lovecastaya.html

さて、赤ん坊だったら?
微妙。もうここまで来ると、岩合光昭氏の世界ネコ歩きと一緒の気がする。ネコや赤ん坊を眺めていて「想像力」の働く余地は、俳優や椅子に比べると圧倒的に小さいように、少なくとも筆者には感じられるのだが。
確かに癒やされたけど。

2016年9月19日月曜日

Alba Flamenca (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 20:00 @Alba Flamenca

今回のエディンバラ滞在では、ツレもいることだし、ゴリゴリの芝居だけ見続けるのはやめよう、と思っていて、そういうのもあって、Alba Flamencaという小さな小屋に、フラメンコを観に行った。グラナダ、バルセロナ、大久保、といったところでフラメンコを観たことはあって、それらはどれも素晴らしかったなぁ、というのを覚えているけれど、さて、エディンバラでのフラメンコはどうか。日頃のお稽古事フラメンコカルチャーセンターの発表会でも見せられようものなら一日の終わりをぐだぐだで締めることにもなりかねない。なんと思っていたら、全くの杞憂だった。

カディスからやって来た6人組。歌い手の男(顔が思いっきりAndre Villas-Boas、AVBに似ていた!本当の名前は忘れた!)、ギターの若い男、箱ドラムの若い男、歌い手の女性(昔は踊ってたかも)、踊り手の女性2人。AVBが一声歌い始めた途端に、会場内の雰囲気がギュギュッと締まった。半端ない声の説得力。

踊り手も、若い方の女性は身体のキレをビシッビシッと強調する踊りであるのに対して、年かさの女性の方は相当な自由度を与えられていて、緩急、ブレークの入れ方、盛り上がりのイントネーション、といったところまで、自分の節回しとコブシでうねりを作っていく。プログラムには70分とあったけれど、100分近くの大サービス。が、その100分間全く飽きることのない、力強いパフォーマンスだった。

隣にあるスペイン料理屋”Lasal”も美味しかったし、今後エディンバラにお邪魔するときには、このコース、ちょっと外せないかも。

Dancer (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 17:00 @Dance Base

グラスゴー出身で、学習障害を持つIan Johnstonと、イングランド出身で、Matthew Bourneの白鳥の湖にも出演したことのあるGary Gardinerの2人による、40分のダンスと語り。

Dancerというタイトルはいかにも大上段なのだけれど、押しつけがましくなく、タイトルに偽りなく、ストレートなパフォーマンスだった。Ian Johnstonの舞台での立ち方が、みやざきまあるい劇場の和田祥吾さんを思い出させた。障害者なのだけれども、そのことが、舞台の上では完全にニュートラルな感じ。障害の有無は、ハゲ・デブ・チビ・ノッポ・ヤセ・色白・色黒・出っ尻・ゼッペキ・ガキ・年寄り、そうしたものと何ら変わるところがなくて、自分は飽くまでも自分であって、そのことに自信があって、それを舞台に載っけてやろう、という企みに満ちている。妙に同情したり可哀想なんて思いでもしようものなら、途端にそこを逆手にとって一泡吹かせられそうな、文字通り「人を喰った」面構えで舞台に立たれると、観客としては、是非ともそういう瞬間を見たいものだと、身を乗り出してしまう。Ian Johnsonは、そう思わせるオーラを持っていた。

自分の身体の動きを、出来るギリギリのところまで追求して、それがどんな風に観客に見えているだろうかというところまで考えて、それをまた自分の身体にフィードバックしてるんだろうな、というのが分かって、だから、ダンスを観ていても、手を抜かれてないな、と安心していられる。と同時に、常に驚きがある。自己満足ではない。そこに、Dancerが自らをDancerと名乗る所以があるのか。

Ian JohnstonとGary Gardinerのお互いへの寄り添い方もすごく良くて、Garyには学習障害はないから、段取りを進めるとか、そういうところはGaryがリードするのだけれど、舞台に立つ上で、お互いへの寄り掛かり方がすごく「対等」なのだ。(Ianが障害者である、という見かけで判断していた筆者の予見が裏切られた、と思われても仕方がないけれど)、障害者がインヴォルヴされていない舞台においても、これほどまでに、1対1で、お互いへの依存が50/50である舞台は滅多に無いんじゃないかと思うくらい、相互への寄り掛かり方が対等で、こんなにお互いに身を預けることが出来る関係は、羨ましいを超えて、ある意味、非常に厳しいものなのではないかとも思わせる。

と、あれやこれや感じているうちに40分があっという間に過ぎて、Happyで観客も皆加わって舞台で踊って、「ずるい!こんな終わり方かい!」って思ったことである。

2016年9月18日日曜日

Mark Thomas: The Red Shed (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 13:15 @Traverse 1

Mark Thomasは、左翼アクティヴィスト芸人として英国では一目置かれる存在らしく、昔はチャンネル4で番組を持っていたこともあるらしい。強面50歳、前日Roundaboutで別の若手の芝居を観ていたときに、最前列に座ってやたらニコニコしながら観ていらしたのが、はたから見ていると怖いじゃないですか、という感じの方である(実際、上演中に途中退出する観客に向かって、一旦上演止めて、「出ていくのは構わないけれど、ひそひそ話は止めろ」とお説教されていて、それはそれは怖かったです)。

かたやこの公演のタイトルにもなっているThe Red Shedというのは、彼が30年以上前、大学に入学したばかりの頃に足を踏み入れ、その後も交流を続けている、労働党仲間の集うクラブのことで、この芝居は、Thomasがこのクラブやその頃の活動(炭鉱ストライキの支援を含む)にまつわる美しい思い出を語ろうとして、いや、ちょっと待てよ、その美しい思い出は、実は彼自身が脳内で創り出した勘違い、あるいは嘘の記憶なのではないかという思いに襲われたところから始まる。この芝居は、彼の記憶の正誤を確かめるために、30年来のアクティヴィスト仲間や、友人や、当時炭鉱ストライキに関わっていた様々な人々の記憶をたぐり、訪ねながら、ロードムービー的に、そして、Thomas自身が自分が語ったばかりの物語の正当性を疑い、美しい思い出の虚偽を自分で暴いてしまうのかも知れない、という、一種入れ子構造を持った物語として、進行する。

一人芝居なのだけれど、客入れ前に観客6人に声を掛けて、上演中ずっと舞台上に座ってもらっている。観客はThomasの指示に従って、各々持たされているお面をつけて、友人や道々出会う人々に扮することになる。それは、スピーカーから流れてくる実際のインタビュー時の録音とあいまって、すごくゆるーい感じに劇場の場を作っていくと同時に、観客の一部を自分の記憶の再生に取り込んで、自分と観客の記憶をリンク・攪拌する触媒のような効果を持っていたように思われる。

Mark Thomas(今年で50歳)が、実際に、炭鉱ストライキのピケに参加していたということはとても重要で、Billy ElliotやThe PrideやBrassed Offといった、映画でしか見られないような80年代英国の炭鉱ストライキが、実際にあったこと、そして、今目の前に居るMark Thomasの人生に実際に繋がるものとして実在したんだと思うと、彼の記憶は、僕にとっても重い。何故なら、僕が英国映画を観る上で前提にしてきたコンテクストが、自分の目の前の生き証人によって書き換えられる / 上書きされているのだから。
会場内をふと見回すと、「おれっちも炭鉱で働いてたよ」っていう人たちが多数観に来ている様子で、そうした観客達にとってMark Thomasの言葉は一層重たいはずだ。
そうして、彼の語る美しい思い出は、彼だけの中に刻みこまれたり生成されたりするのではなくて、Traverseの会場内のいろんな人の記憶を攪拌・生成・上書きしていく装置となる。
語りは、記憶の生成・攪拌・上書きの装置である!ってことを、今さらのように。

Solidarity forever, solidarity forever...
と唱和する観客の中には、本当に、70−80年代に自分声として歌っていた人もいようし、
筆者は、小学校の時分に、学校の朝礼でこの歌をクラスで歌わせた先生、日教組よりもさらに左の人で、そこら辺に関しては、Mark Thomasばりに厳しかった先生のことを思い出したりしたのだ。
そぉーらにはおぉひさあまあ、あーしもとにちきゅーうぅ...

2016年9月15日木曜日

Every Brilliant Thing (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 15:15 @Roundabout, Summerhall

今年のエディンバラ、筆者の一番のお気に入り。

この世界で見つけた素敵なことを、一つ残らず、メモに書き付けていこう、というお話。
でも、必ずしも幸せいっぱいの話ではない。かといって、不幸に囲まれた人がせめてもの慰みにと、素晴らしいことを書き付けて気を紛らわせる、っていうマッチ売りの少女的な話でもない。
周囲の人々や世の中全体がぱあーっと明るくなる話でもない。どちらかというと「身のまわり半径5メートルしか描いていない。世界で戦えない芝居」と言われてしまいそうな部類に入る。
でも、この芝居を見終わったとき、ぼおっと心が明るくなったんだ。ちょうどこの芝居を観た分だけ、温まった気がしたのだ。この芝居をまだ観ていない全ての人が、この芝居を観て、その分だけ温まったら良いな、って、そういう気持ちになる芝居だった。

大学を卒業して劇作家になり、そろそろ中年を迎える登場人物。6歳の時に母親が自殺を試み、未遂に終わる。その時に、子供は、思いつく限りの世の中の素敵なことを、気づいたところで一つ一つ書き留めておくことにする。1番=アイスクリーム。
その後、家族のことや自身の精神状態のことで不安を抱えながらも、出会いもあれば別れもあり、もちろん日々の暮らしもあって、小さな喜びも大きな喜びも、それは、いちいち書き付けていくと切りがないのだけれど、ともかくそれを続けていく。そのメモは、次第に、何十万枚にもなっていく。

プロットはそれだけ。Johnny Donahoeの語り口、上演中、少なくとも30人は何らかの形で芝居に参加することになるのだけれど、誰に何をお願いするかとか、というところまで、細かな心配りが行き届いて、安心して聞いていられる(演者の方では、英語がしゃべれるのか、いや、理解できるのかすらも予想がつかない日本人カップルに台詞を読んでもらうのは、心配の種だったかも知れないけれど!)。これはうそんこの話なんだよなー、と思いながら客席で聞いているけれど、でも、それは、ひょっとするとJohnny Donahoeが自分のことも交えて脚色しているような。いや、僕が勝手に自分に物語を引き寄せているのかしら。そこを突き詰める野暮はよして、少なくとも上演中はうそんこな話に身を任せる。

2015年のエディンバラでは早々に売り切れ御礼で観られず、今年もやっぱり満員だったが、それに十分値するクオリティの高さ。Roundaboutでの公演は、円形に狭い舞台を取り囲む客席に対してシーンを無理に見せようとすると空回りしがちだけど、独り語りで観客を巻き込むスタイルの公演にとっては願ってもない場所だし、もちろん演者の技量は要求されるけれど、Johnny Donahoeにかんしてはその点での心配は一切無用だった。

後でテクスト買って表紙を見ると、Ickeの1984やPeople, Places and Thingsも書いてるDuncan MacmillanとJohnny Donahoeの共作だった。なるほど、質が高いわけで。
この芝居、日本で誰か演じてくれないかなー、と思って、劇場出ながらツレと話していたら、中野成樹さんの名前が挙がった。それだ! ぴったりだ! 中野さんで観たい!
というわけで、中野さん、この芝居、演じてみませんか? 一生懸命訳しますから。

2016年9月14日水曜日

Lemons, Lemons, Lemons, Lemons, Lemons (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 12:10 @Roundabout, Summerhall

Roundaboutの2人芝居には気をつけろ。
去年もこの小屋で観た2人芝居が面白くなかったなぁ、というのを思い出す。
この芝居、去年のエディンバラで評判が良くて、ロンドンで上演された後、今年もエディンバラの人気演目。ロンドンで見逃していた感も強かったので、頑張ってチケット取ったのだが、ピンと来ず。期待通りには運ばなかった。

弁護士になりたて、経済的には心配ないノンポリの女の子と、ペット葬儀屋さんでバイトするアクティビストの男の子とが出会って、仲良くなって、ケンカして、っていう話。
伏線になっているのが「一日に発することの出来る単語数制限法」という、まぁ、いかにも芝居っぽい設定。
その制限の中で2人はどうやってお互いの気持ちを伝え合うのでしょうか?

役者が悪いわけでもないのだが、どうも一つ一つのシーンが面白くない。その場その場を面白くしないと、全体を線で繋いだときに初めて面白くなる、なんてことは起きないと思うんだけど。
そういう意味では、シーンや台詞が全体の趣向と2人の関係の進行にのみ奉仕していて、シーン自体の面白さが犠牲になっていたということかも知れない。
あるいは、Roundaboutの完全円形劇場、せいぜい6畳程度の狭い円形舞台が客席に取り囲まれている構造の中で「シーンを作る」こと自体が苦しいのかも知れない
(それが証拠に、この芝居の直後に同じ小屋で観たEvery Brilliant Thingは無茶苦茶面白かったのだから)。
それとも、話す前にその日の残り語数(14とか、5とか)の数字を宣言するのが、なんだか付け足しっぽくて、それで引いてしまったのかも知れない。

60分の短い芝居だったのだけれど、途中携帯電話が鳴って、それを取った女性が電話に向かって「今、芝居観てるところだからかけ直すね」と、場内の皆が聞こえる声で応答してしまったのは忘れられない。ここのシーンにもそれぐらいインパクトがあったならなぁ。Mark Thomas氏が最前列に座ってニコニコしながら観ていたのが際立っていた。表情を翻訳すると、「心意気や良し。ただしまだまだじゃの」ってとこだろうか。

2016年9月13日火曜日

Us / Them (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 10:00 @Summerhall

今年のエディンバラ・フェスティバル・フリンジで、おそらく、GuardianからTelegraphまで、最も評価が高かった作品の一つ。
そうであることが頷ける、質の高い、切り口の鋭い、キッツい芝居だった。

ほぼ素舞台の舞台奥には様々な子供用ジャケット(小さなものから大きなものまで)が掛けられている。
若い男女の役者2人がほぼ素舞台の舞台上に登場。チョークで学校の見取り図を描いていく。二人はどうやら中学生のようだ。数字が得意な男の子と記憶は定かでないけれども明朗快活な女の子。二人は見取り図を描きながら、学校の様子を説明していく。町の様子、学校の様子、父兄の暮らし、出入り口、体育館の様子、朝礼で脱水症状で倒れたときの友達の様子。
どうやらロシアの小さな地方都市の学校であるということが分かってくる。朝礼でロシア風の歌を元気よく歌い出す。
そしてテロリストが校内に乱入する。

二人が説明してきた場所が、2004年9月、残暑の厳しい、北オセチアの町ベスランであることが判明する。この物語は、チェチェン独立派によって学校が占拠された実在の事件を、舞台上の2人が思い出しながら語る、という形を取る。舞台上の男女の若い役者は、始終、子供目線での語り続ける。2004年から12年経って、当時12歳だったとすれば今24歳か・・・と、そんな整合性をぼんやりと考えながら観る。

バスケットボールのコートがやっと一面とれるほどの空調の効かない体育館に、小学生から高校生までの子供と出迎えの父兄、赤ん坊も含めて約1000人が押し込まれ、真ん中には「振動すると爆発する爆弾」がおかれて、侵入者達が入れ替わり立ち替わり番をしている(というよりも、常に脚で踏んで圧を掛けていないと爆発してしまうのだ)。僕たち(Us)1000人と、彼ら(Them)30人。
泣き叫べば撃たれて死に、黙って耐えれば脱水で死ぬ。暴れれば爆弾が爆発して死ぬ。次々と子供が脱水で倒れていく有様を、二人は、子供の視点ならではの興奮をもって、かつ、興奮以外の感情を交えずに、語っていく。そしてクライマックス。結末は書かないけれども。既に報道されているとおりである。

が、その時に二人に起きたことは大きく異なる。大統領から見舞金をもらって贅沢品を買い込む男の子。担架で運び出される様子が世界中に報道されて、一躍有名になる女の子。
当時の報道を覚えていらっしゃる方であれば(筆者は恥ずかしながら全く記憶になかったが)、彼女が誰であるか、その後どういう経緯で、今こうして舞台に立っているのかを知る。
そして、この物語が、この2人によって語られるべきだったことの必然性をも知る。

生と死が本当に際どいところで交錯していた場所について、バイアスを交えずに語ることは非常に難しい。それがチェチェンやオセチアについてであればなおさらである。
それを、二人の少年・少女を使って語らせた手管、まず、良し。しかも、子供ならではの「残酷なまでの真っ直ぐな目線」で語らせることで説教臭さを拭い去り、観終わって涙も出ないほどのドライな後味。だからこその説得力。

プログラムには「ファミリー向け」とあって、開演も朝の10時と確かにファミリー向けの時間帯だったけど、これは、子供だけに見せるのは勿体ない。
軽量級に見せかけて、傷口も狭いけれども、実は刃渡りが相当長くて、深いところまで差し込んでくる芝居だった。

Mouse - The Persistence of an Unlikely Thought (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 22:00 @Traverse 1

エディンバラフェス開幕のはるか前から完全売り切れ御礼の人気演目。Daniel Kitsonは去年も売り切れで見逃していたので、今回は超気合い入れてチケット確保。
まさにそれに相応しい怪作・怪演、Daniel Kitsonの独り芝居は、100分間ヘヴィー級のパンチを繰り出し続けて文句なしの大傑作。

客入れから持って行かれる。素舞台の会場に入ると、Daniel Kitsonが自分で舞台を作り始める。鉢植えやラジオや机、椅子、ゴミ箱、電灯、電話、色んなものを舞台裏から持ち込んで、定位置にセット。お次は電ドラ持ち込んで、ケーブルの配線まで。それにたっぷり15分。そして開演。

夜遅く出かけようとしていた、とある劇作家のところにかかってくる、間違い電話。
相手「これ、俺の携帯番号なんだけど、お前、俺の携帯盗んだだろ」こっち「盗んでねーし。これ、大体、固定電話だし。てめーの間違い電話だろーが」相手「そんなはずはない」というやりとりから始まる。
「君の書いてる芝居のプロット、聞かせてくれよ」「さわりだけね。すぐ出かけなきゃなんないから」。
で、それから12時間。延々と続く男二人の長話。
「じゃあ、切るね。急いでたんだろ?」「もう良いんだよ。もうちょっと話させろよ」
「あ、ちょっと待ってて。子供に朝ご飯ださなきゃなんないんだよ」
「もしもし?」「あ、妻ですけど。起きてきました」
こんな感じで続く独り芝居。電話の向こう側の声が録音なのか役者の声なのかは判然としないが、舞台上にいるKitsonとは別人の声。

っていう、20−30分くらいのコントのような様式を取りながら、この芝居が「芝居」であるというのは、それは多分、劇中の劇作家が書いているという物語と、劇作家と間違い電話の主との会話と、Daniel Kitsonがこれを上演するというアクトと、観客がそれを見ている、という構造が、凄くきちんと意識されて、会話の内容・物語の内容が、グリグリとその構造の中を掘り進んでいってしまうからだったのではないかと考える。そして、それを、舞台上には劇作家だけを生身で置くことで、徹底的に一人称芝居で作り込んでいくという力業。しかも緻密。

敢えてたとえるなら、多田淳之介の「三人いる」を、一人で、長尺で、かつ、入れ子の範囲を、3人の会話の中で押し広げるのではなく、舞台上の一人の人物の奥底、そこまで潜ったら戻ってこられないじゃないか、っていうところまで深く潜らせていく、そういう芝居だったと思う。

女にメッセージを伝えるネズミ。それは本当にメッセージだったのか?ネズミだったのか?それはいつ、どこであった話なのか?
間違い電話なのか?いたずら電話なのか?
「妻」のいっていることは信用できるのか?
二人の男の記憶はどこまで一致していてどこで捻れているのか?
この劇作家自体、どんだけ変な男なんだよ?いや、Daniel Kitson自体相当変わった人みたいだけど。

凄い体験だった。Telegraphは「長すぎる」って書いていたけれど、それは、おそらく、あまりの濃さに、後半疲れちゃったんだろうと、ちょっと同情しないでもない。
敢えて難癖をつけるなら、「観劇体力に欠ける」観客には本当にしんどかっただろうと、それくらい「怖いところ」まで潜っていく、観るにも覚悟のいる芝居だった、それをゴリゴリ押し込んできた、そういう点かな。

これは、是非、山内健司主演での上演を観てみたい。と、真剣に思った。
Traverseの戯曲販売コーナーに行ったら、「Kitsonは自分の公演の上演台本、一切出版しないんですよ」とのこと。残念。そこまで変わり者だったか。

2016年9月12日月曜日

In Fidelity (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 19:30 @Traverse 2

劇作家Rob Drummond(もちろんこの作品の台本も書いている)が自らホストとなって観客参加型で進める、男女の出会いと愛の仕組みのメカニズムの追求ショー。
発想そのものを取り立てて斬新とか独創的とか思ったりはしないが、丁寧に書き込んだ台本・段取りに支えられ、舞台に上がった観客2人の人柄・コミットメントも手伝って、素晴らしい上質のエンターテイメントとなっていた。

舞台は主に3つのプロットを縒り上げながら進んでいく。1つ目はDrummond自身が「取材」と称して、出会いサイトに登録し、そこでいろんな女性と出会い、チャットする、そして個人メールでやり取りしたりする。その顛末。2つめは、会場にいる独り身の観客から男性一人、女性一人のボランティアを選んで、70分の間「初デート」をしてもらうという趣向。その2つの物語の進行を、3つめ、脳科学(?)の観点のトピックで繋いでいく。

正直なところ、1つめの「お試し出会いサイト」と3つめの「愛と出会いの脳科学」のパートは、見易いけれども、よくテレビで放映していそうな「なるほど」番組とそれほど変わらない印象。
だから、このショーがショーとして、あるいは、演劇として成り立っていたのは、ひとえに、観客参加のパートのおかげだ。

会場内の「パートナーが現在いない人」の中からボランティアを募って、舞台上に上がってもらう。いくつかアンケートを採った後、舞台上に残って構わないという男女一人ずつで「暫定ペア」をつくってもらい、その二人に舞台上でデートして頂く。ホストはDrummond、という趣向。
「出会い」から「最初に過ごす時間」「印象の持ち方」までをその二人にパフォームしてもらうわけである。
ただし、参加者の2人も、現状シングルだけれども、その場を通じて「本気で」パートナーを見つけにいっているわけではない。「自分たちは、劇場の中のパフォーマンスを成り立たせるための披験体である」という立ち位置をよーく理解して、自分をコントロールしていた。かつ、これは本当にたまたまだと思うけれど、二人とも人柄がとても良くて、今後付き合う付き合わないに関係なく、お互いに対する気遣いとリスペクトを失わずに振る舞っていたのだ。そして、観客も、その「舞台を創る側の意図」と「ボランティアの2人の心の持ちよう」「観客として見守る立場」の三者の距離感をきちんと理解していたと思う。そこら辺が、テレビの前の無傷な消費者を前提としたねるとん紅鯨団とは一味違うところではないかと思ったりもした。

だから、2人の考え方を開陳するシーンでも、2人が会場(観客)から置き去りになってしまうおそれが無くて、会場全体が、実は、ショーの終盤にはほんわりと2人を応援するムードになっていたりして、これは不思議。こういう「大人の振るまい」は、たまたまこの回だったから可能だったのか、この公演を通してずっとそうだったのか、エディンバラの観客だから可能なのか、色々考えさせられた。少なくとも、日本でこの公演が成立するとは、小生にはとても思えなかったし。

上演中、パートナーと何年続いているかアンケートというのがあって、うちの25年も相当上位に入っているはずと自信を持って臨んでいたら、甘い甘い、60年カップルが二組あって、その人達、同じ大学でハンガリー動乱を支援する活動をしてて知り合ったってんだから脱帽。そうだな、1956だったんだから、今年で知り合って60年だよ。
終演後、Traverseのバーで、Drummond氏、ボランティアの2人、ハンガリー動乱のカップル2組が一緒にお酒飲んだりしていて、終演後も含めたケアも行き届いた、まさに大人のエンターテイメントだった。

2016年9月11日日曜日

Infinity Pool: A Modern Retelling of Madame Bovary (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 16:35 @Bedlam Theatre

フローベールのボヴァリー夫人を現代英国に移し替えて、しかも、台詞無し、役者不在。作者兼オペレーターのBea Robertsが、プロジェクションとPCディスプレイとOHP(懐かしい!)だけで90分見せてしまう力業。ところがそれが「試みの新奇さ」で終わらない。超絶に面白く、切なく、しかも「現代英国で、この形態で、ボヴァリー夫人の翻案を上演すること」には必然性があるのだ!とまで思ってしまう傑作。おそろしい才能である。

現代英国で働く一児の母。一人娘はほぼ手が離れて一緒に遊びに行く歳でもなくなってしまったし、夫は退屈だし、毎日出かける職場の仕事は配管部品オペレーターのクレーム処理。退屈とストレス。会社のPCで買い物サイトを覗いてまわってクレジットカードでお買い物。女性上司との葛藤。容貌へのコンプレックス。
クレームをつけてきた男性とのチャットの始まり。関係の深まり。海辺の町で、二人っきりで会いませんか。
さあどうする?
ボヴァリー夫人は破綻と自殺で終わるが、現代英国のボヴァリー夫人はどうやって決着をつけるのか。

そうした物語が、プロジェクションとPC画面とOHPで綴られる。台詞なしとはいっても、会話のテクストはプロジェクターで表示されるし、勿論、チャットのやり取り、成り行きも、時にはリアルタイムにキーボードに打ち込まれながら、表示されていく。

テクストを観客に追わせるぐらいなのだからわざわざ舞台上で上演する必要は無いじゃないか、「電車男」みたいに本にすればいいじゃないか、というなかれ。テクストが入力される時間、OHPにスライドが置かれる時間等々、物理的な時間の存在が計算ずくで織り込まれて、その進行感・テンポが心地よい。加えて、テクストで表示される「台詞」からは、生身の役者が付け加えるであろう声のトーン、高低、スピード、強弱といったニュアンス・ノイズがそぎ落とされてしまい、その代わりに、普段舞台で観るのとは異なった種類のノイズ、つまり、フォントや文字の色やテクストのぶつ切りの加減等が付け加わる。そこにニュアンスをつける作業は、実はこれまでのところ、まだまだ「観劇の作法」の中で確立されていないから、クリシェに陥りにくいから、観客の想像力が、(少なくとも僕自身にとっては)これまで経験したことの無かったように拡がって、スリリング。素舞台に一見雑然と機器が乗っているだけの、本来であれば殺風景な舞台に、豊かな色彩が展開する。

また、写真やテクストの画像を追っていく過程で、あたかも「物的証拠」を辿りながら物語を追いかけているかのうような錯覚に陥っていくのも楽しかった(ちょっと、昼のワイドショーを無音で見ている感じに近いかも)。その物理的なスピードと、物語の展開のバランスが非常に良くて、物語の展開を5秒遅れ、10m離れた距離で追っていくうちに90分間があっという間に過ぎた。

表題の"Infinity Pool"というのは、海辺のリゾートホテルによくあるプールで、海側に面した縁は最上部まで水が張ってあって、プールの中から見ると、あたかもプールがその向こうの海まで無限に続いているように見えるプールのことなのだが、さて、現代英国のボヴァリー夫人がプールの中から見た向こう側は、本当に海まで繋がっていたのでしょうか。それとも、現実には、縁のすぐ外側には水がどーっと鉛直に落ちて、排水溝に続いているだけだったのでしょうか。
ネタバレは敢えて避けるが、ラストシーンは、(台詞が一切無いのに!)切なくて泣けたのだ。

NuShu (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 15:00 @Dance Base

後でツレに聞いたところでは、パフォーマー達の身体能力が非常に高かったそうで、それはすみませんでした、きちんと観てませんでした、ということになるのかもしれないけれども、この、台湾からやって来たカンパニー(女性4人、男性1人)のパフォーマンス、中国は湖南に伝わる伝統芸能をモダンダンスに取り入れて演じて見せようという意図はチラシ等で伝えられていたものの、小生にはその意図そのものが気にくわなかったのか、それともその意図を実現する力がカンパニーに足りなかったのか(おそらく前者だと思うけれど)、小生の目には「中国伝統芸能フレーバーを取り入れた異国情緒(エグゾティシズム)いっぱいの『(東洋の)女の一生の物語』あるある話」としか映らず、観ていて辛かった。

冒頭、あるいはシーンの合間に小芝居を見せていた方(年齢・態度から言って「お師匠さま」なのだと思われる)の身のこなし、気合いは、おお、さすがお師匠さま、と思わせるものがあって、特に冒頭のきちんと決まったポーズ、つま先の形には期待感が高まったのだけれど、若手のパフォーマー達が一生懸命身体を動かすにつれて、その一生懸命さ(および身体能力の高さ)と裏腹に、醸し出そうとしている「異国情緒」や「物語」がペラペラと垂れ流されている感じがして、興醒めしてしまった。

が、やはり、個々の身体能力は高かったようなので、小生の目が節穴だという可能性も高い。あるいは、パフォーマンスに物語を見いだしてしまった、観客としての小生のバイアスの方に問題があったのかもしれない。はたまた、もしかすると、群舞とソロが順番にやって来て、それにお師匠さまの小芝居が加わる「様式美」が気にくわなかったのかも知れない。

いずれにせよ、小生にとって「おおっ!」という瞬間は、45分間、訪れなかったわけである。無念。

2016年9月8日木曜日

Last Dream (On Earth) (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 13:25 @Assembly Hall

生真面目に創ったんだろうなぁ、ということは窺えるけれども、その生真面目さが徒となって、拡がりに欠ける芝居に仕上がってしまっていた。
新しいものを目指すための試みが、却って芝居全体を縛ってしまっているようにも思われた。

観客は、開場して場内に入るときにヘッドフォンを渡され、上演中はずっとそのヘッドフォンのみを通して音を聞く仕組みになっている。
素舞台の方へと目を向けると、上手からパーカッショニスト、ギタリスト、女優二人、下手には一段高いところに男優が居て、総勢5人。
すでにパーカッショニストとギタリストが演奏(開演前はインプロヴィゼーション)を始めている。

開演すると、物語は2つの軸で展開する。一つは1961年、人類史上初の有人宇宙飛行に成功したガガーリンの物語。
もう一つは2016年、マリからサハラを越えてモロッコへ、そこから手こぎボートでスペインへと渡ろうとする人々の物語。
その2つの物語が平行して、音としてはヘッドホンを通じて交錯しつつ、進んでいく。

かたやガガーリンは広ーい宇宙の星の海から生還。かたや、モロッコからこぎ出した小舟は、大型貨物船の航路とぶつかったあおりをくって転覆する。


で?

ガガーリンとアフリカからこぎ出した人々がどこでどうやって交錯してこの作品が生まれたのかが、さっぱり分からなかった。
おそらく、稽古場で話し合って交錯したのだろうけれど、それは観客に対しては説得力を持たない。
強いて言えば、暗くてだだっ広いところに独りで投げ出された感覚、ということは出来るけれど、そこまで。
ヘッドフォンがなくとも、観客の想像力を拡がりのある方向へと刺激する手段はいくらでもあったはずなのに
(僕は、この芝居を観ながら、アポロ獣三を産み出した夢の遊眠社って凄かったんだなあ、と思っていたし)。

難民・不法移民の話が嫌だと言っているわけではない。が、生真面目に「それは可哀想」という語りをストレートに話しても、それはガガーリンとは関係ない。
難民・不法移民ネタに頼って観客に最後まで真面目に観させようと思っているのであれば、それはテーマに対する甘えだろう。
社会的問題意識を「観客に訴えかける」方向で芝居を組み立ててしまうと、創り手の想像力も、芝居の拡がりも、細っていく。その好事例。残念な芝居だった。

2016年9月6日火曜日

Camille O'Sullivan: The Carny Dream (Edinburgh Festival Fringe 2016)

22/08/2016 20:30 @Underbelly Circus Hub in the Meadows

今回のエディンバラでは、ストレートプレイ偏重は避けよう、と思っていたこともあって、「キャバレー」に行ってみることにしたのだ。
Underbellyとは言っても"In the Meadows"なので、Meadows(旧市街の南側に拡がる気持ちの良い緑地)の一角に建つテントでの公演。テントでの1時間40分ほど、大いに堪能した。

冒頭、Radioheadの"Exit Music (For a Film)"から始まって、あれ、こんな曲を歌うのかなー、と思っていたら、
Bob Dylan、Tom Waits、Nick CaveからAlicia Keysまで、いろんな曲を織り交ぜて、実に幅が広い。
観客層の老若男女、幅広いのだけれど、その広い層が、とても良く反応していて、みんな、洋楽聞いてるんだなー、って思ったり(だってここUKなんだから、当たり前じゃないか!)。
飛び抜けて歌の上手な人だなー、とは思わなかったけれど、やや泥臭い感じの節回しで歌うアルトが良い。
語りもキレキレなわけではないけれど、たっぷり時間を取って観客の反応を確かめながら進行するところに、エディンバラフリンジ12年目という貫禄を感じる。

あぁ、こういうのを、キャバレー、っていうんだなぁ。
語りと歌をとり混ぜながら、観客の記憶とか感情とか、そういうものを掘り起こしていく作業なんだろうなぁ、と。
日本でいうと、「白いばら」みたいなキャバレーも、そういう場所なのかも知れないなぁ、とか、
「ディナーショー」って、そういう場なのかも知れないなぁ、とか、
もし、懐かしい歌を、とても上手にじゃなくて、泥臭い感じでも、自分に近いところで歌って貰えたら、
いろんな感情が掘り起こされて、幸せに感じるのかな、とか、そういうことを考えながら、気持ちよーく聞いていた。

で、後半は、Bowieトリビュートで何曲か。周囲の55歳+のオヤジ層の反応がすごい。そうだよな、70年代から80年代、この人達、リアルタイムでBowie聞いてたんだもの。
Princeに捧げるPurple Rainでは会場みんなで声を揃え、最後はBilly Joelで締めて、「大盛り上がり」というよりも、しっとりと、いい感じで暖まって終了。
いや、良かったです。これぐらい力を抜いて楽しめるんだー、って。

2016年9月2日金曜日

Team Viking (Edinburgh Festival Fringe 2016)

22/08/2016 14:55 @Just the Tonic at the Community Project

今年のエディンバラ到着一本目は、まだ20代のJames Rowlandによる60分独り語り。いきなり素晴らしいパフォーマンスにノックアウトされた。語る自分と語られる自分(実在する自分と虚構の自分)の間の距離の取り方、虚構と事実の間の膜のはり方、客席との間合い、それらを裏打ちしていく小さなエピソード、小芝居、小道具の巧みさ、おもちゃキーボードとデジタル・ディレイ(多分)を組み合わせて、その場多重録音で積み上げる歌を挟んだ構成の妙、等々、大したものだと呻らされた。

1958年のハリウッド映画"The Vikings"に倣って、死んだ幼なじみをバイキング式の葬儀で送り出そうという話。ブロンドの頭髪にあごひげ、ぽっちゃりめの身体に白いシャツ、サイズが微妙に窮屈な黒いスーツ。その物語は、若くして亡くなった友人へのトリビュートのようでもあるし、一方で、小さなエピソードの積み重ねの中にちりばめられた伏線の回収があまりにも見事なために、まさかこりゃ全部実話じゃないな、と、「ウェルメイド感」でもって自分を納得させることも出来る。咳払いをしたり、洟をかんだりして、間合いを取る仕草、公園の描写、クリスマスプディングのブランデーのエピソード、病床での会話、舟を送った直後の大どんでん返し。こうしたものが、過不足なく構成されて、美味なことこの上ない。

虚実の間を巧みに縫って語りながら、その更に外側に、観客が記憶をたぐり、想像力を巡らせる余地を作り出していた。そして、終わってから振り返ってみると、「幼なじみの死」というテーマで、ここまで笑いを交えて語りきることの出来る度量に改めて呻らされる。自らを、あるいは語るテーマを、一段離れたところから突き放して見るところにユーモアが生まれ、笑いを誘い、余白が生じ、物語がそれ自体を超えて豊かに育つ。そしてその過程を支えるのは、飽くまでも一つ一つの仕草・エピソードのディテールにある。そこが揺るがない。そこにも力を感じた。

エディンバラのフリンジで観るプロダクションは、小屋の制約からか、プロダクション運営上の制約からか、役者一人によるパフォーマンスが多いのだけれども、こういう作品が観られるのならば大歓迎だ。

The Plough and the Stars

06/08/2016 14:15 @National Theatre, Lyttleton

20世紀アイルランドの劇作家、Peter O'Caseyによる1926年初演のこの芝居は、1916年アイルランドで起きたイースター蜂起の前後のダブリンを描く。題名の"The Plough and the Stars" 「鋤と星」というのは、蜂起の時に市民が掲げた「北斗七星」をあしらった旗のデザイン。「20世紀アイルランドの芝居」ということ以外に事前知識が殆ど無いままで観たのだが、率直な観劇中の印象は「ずいぶん古臭い芝居だな」というもの。構成、役者の使い方、シーンの展開、そして、現代日本のテレビドラマでもありがちな「こんな感情剥き出しのヒロインにはイライラするなあ、早く退場して欲しいなあ、と思っていると最後までサバイブしてしまう症候群」等々、まあ、1926年初演の芝居だと聞かされると、なるほど、と思わず思ってしまう。

ただし、戦闘や衝突そのものではなく、イースター蜂起においてどちらかというと後景に配される人々、すなわち、市民兵の妻、酔っ払い、ヘタレ共産主義者、やもめ女、娼婦、新教徒の女、といった人々に焦点を当てる手口はさすがで、書かれてから100年経った今でも、(若干なりともステレオタイプ的な描き方、もって行き方は古臭いとしても)そこに光を当てたことで浮き上がるものは失われていないし、そうした登場人物の行動を追いかけても、役者が丁寧にきちんと追いかけているから飽きることがない。

四幕ものの大仰な芝居に出来上がっているのだけれども、大味な物語の展開をちょっと脇に置いておいて、一つ一つの小さなシーンに着目すれば、そこには岸田國士の芝居を観るのに似た楽しみがある。ブリテンからやって来た女の「何て酷い有様!」の小芝居、パブでの女同士のケンカとバーテンの困った顔、英兵2人の紅茶を挟んだちょっとした会話、新教・旧教二人の女の市街戦の中のちょっとした冒険、そうした「ちょっとしたもの」の魅力が、骨太で(同時に大味で大時代な)物語の中に埋もれていて、それはあたかも「現代史の大きな物語とそのうねり」の中で失われていく個人の、一人一人の小さな物語を、入念に拾い上げていく作業にも似る。古臭いからと言って、全部丸ごと捨てちまっちゃあいかん、ということか。

2016年9月1日木曜日

Richard III

03/08/2016 19:00 @Almeida

Ralph Fiennes主演のリチャード三世。見映えも性格も良くない強度の側湾症の男が、権謀術数の限りを尽くしてイングランド王になるまでの小悪党ぶりを、Fiennesが嬉々として演じていたのが印象的。幕前から冒頭にかけての駐車場のシーン(彼の遺骸は2012年にレスター市内の駐車場の地中から発見された)の後、舞台下手奥からFiennesがひょこひょこ登場して、「じゃ、これから、僕の話、始めますねー」ってなノリで物語を始める語り口に、まずはシビれる。

その後、幾多の謀略、裏切り、暗殺を経て王位を我が物にしていくのだが、ワンステップ進むごとに舞台奥にしるしが現れて、「また一歩、野望に近づいた」(登録商標「サルまん」)感が半端ない。「ステップを踏んで王位に近づいていく」サラリーマン双六な感じは、ドラマを大きくうねらせて進む大悪党ではなく、リチャードの小悪党ぶりに相応しい。

Fiennesは、そうしたプロダクションの意図を、すごく良く理解して演技しているように思われた。映画でも人気のある大スターだけれども、銀幕で見せるキャラクターや魅力に甘えず、これでもかとばかりに小悪党ぶりをしっかり、真面目に追求している姿が心地よい。2009年、東京で古田新太さんのリチャード三世を拝見したときには「シェークスピアの戯曲の強力な枠組みを乗り越えることは、古田さんをもってしても難しいのか」と思ったものだが、意外なもので、小悪党の似合いそうにないハンサムなFiennesがコツコツと(しかも嬉々として)小悪党を演じて積み上げる3時間は、むしろシェークスピアの物語の大枠をグイグイと外に向かって押し広げていく力強さと拡がりを、このプロダクションに与えていた。

ラスト近くの戦死シーンも、小悪党Fiennesの渾身の闘いだからこそ、説得力を持つ。渾身だけれども、所詮ヘタレなサラリーマンテイストの殺陣もどき、すべては双六の結末の一つに過ぎない。地中に埋まったリチャードが、カーテンコールで地上に戻ってくると、それは立派に演じ抜いたFiennesではなく、「ま、こんなもんですかね、王位継承双六の今回の結末は」とうそぶくリチャードのようで、サラリーマンの筆者はここで再びシビれた。王位を賭けた大ばくち、身ぐるみ脱いで、すってんてん。といったところか。

Cuttin' It

26/07/2016 20:00 @The Yard

相当キツい芝居だった。FGMをテーマにしている時点でキツい芝居なのは分かっていたつもりだったけれど、その予想の幅を上回るキツさ。
ティーンエイジャーの女優二人が大いに好演、それがまた芝居のキツさを増すばかり。涙を誘う余地も無く、ぬるい正解を示してお茶を濁すこともなし。ドーンと来た。

テーマはFGM。小生も殆ど知識を持ち合わせていないし、日本にいて、あるいはUKにいても日常でそれについて話すことは、おそらく「ほぼ、絶対に」無いだろう。
それが、ソマリアをはじめとするサハラ周辺諸国では2000年来の「伝統」として行われていること。UKの移民コミュニティでも引き続き行われていること。
UKでは合法でないから、「ヤミ」でオペレーションが行われていること。そういうことは、芝居の中で最低限、説明される。

でも、これはFGMを知らない人のための啓蒙芝居ではない。
二人のティーンエイジャーが、FGMについて経験することを、飽くまでも二人の視線から上から目線へと遊離することなく、地に足をつけたまま、しっかり目を開いて直視している。
それは本当にしんどいことだ。観客にとってもしんどいし、創り手にとっても相当しんどかったのではないかと思う。

自分に課された仕打ち、それが妹にも課されるかも知れないということ。
一方で、それをコミュニティーにおける決まりだからと受け入れて、淡々とそれに加担すること。
自分に課された、「妹に課して欲しくない」行為に、友達が加担しているという現実。

それは、ソマリアからやって来た二人の少女の視点から離れないからこそ、普遍性をもって迫ってくる。
今までコミュニティーで行われてきたことだから、続けて良いのか?
それがおかしいと考えることは、「伝統を捨てること」だったり「西洋にかぶれた考え方」だったりするのか?
そこを乗り越えて、強力に議論を進める力を、僕らは持っているのか?

この芝居は、そこをオープンにして終わる。それもまた、観客に対してキツい。キツいけれども、押しつけがましさはない。
それほどまでに、舞台上の二人の少女は、色々なものを、きちんと背負って演技していた。
こういう芝居が上演出来るロンドンって、素晴らしい場所だな、って思ったんだ。

2016年8月7日日曜日

No Villain

23/07/2016 19:45 @Trafalgar Studios

Arthur Millerが大学2年の時に書いた処女戯曲が何十年かぶりに発見されて、それがUKで初演されたのが2015年。Old Red Lionでの上演が評判が良くて、今回はWest EndのTrafalgar Studiosでの公演に繋がった。

観てつくづく思うのは、長い間上演されていなかったのは、それなりの理由があってのことなのだなあ、ということ。

景気の悪い上着屋を営むユダヤ系移民の店主。大恐慌を迎えてもなお、古き良き思い出から抜け出せないままの妻。家業を支えつつ、時代の変わり目に目を向けようとしない父にいらだちを隠さない長男。大学へ行ったは良いが、左翼思想に染まって労働運動にかかりっきり、今や店をつぶしかねない運送労働者による出荷停止ストライキを指導している次男。そういう登場人物の話なので、ストーリーはこの時点でほぼ見通しがついてしまう。

そうなると、やはりこの戯曲、細部の雑さがどうしても目についてしまう。主要登場人物で無い人々が、それこそ「とってつけたように、物語を進行させるために」登場し、去って行く。主要登場人物の造形も、どうしても紋切り型のぼやっとしたところから前に進まない。演出・役者陣、それなりに力のある人たちが集まっているように見受けられたものの、そもそもの戯曲が雑なのを強調してしまう。
観ていてどうにも辛かったなあ。

2016年8月6日土曜日

Pigs and Dogs

23/07/2016 18:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

Caryl Churchillの新作は、上演時間15分の超短編。裸舞台に役者3人。戯曲冒頭には、誰がどの役をやっても良いが「人種」「性別」がばらばらの3人によって演じて欲しい、と書いてある。この舞台では、白人の男性、アフリカンの女性、アフリカンの男性の3人。その3人が、15分間を目一杯に使って、アフリカの同性愛・トランスジェンダーについての「伝統」と「現状」と「歴史」について語る。

冒頭は、専ら、現在のアフリカの為政者の言葉を引用しながら、同性愛をアフリカに持ち込んだのは旧宗主国であり、そもそもアフリカには同性愛というものは存在しなかった。アフリカにはアフリカの伝統があって、旧宗主国の連中による「同性愛あってしかるべし」な思想などちゃんちゃらおかしい、なんていうようなホモフォビア全開の言説を紹介。そこから、徐々に、アフリカに大昔から、まさに植民地される前から存在していた同性愛・トランスジェンダーなどの実例、概念、それを表す言葉が紹介されていく。

こういう風に紹介すると、知ったかぶりのLGBT味方ぶりっこの説教臭いインテリ芝居として片付けられちゃいそうなのだが、そして、自分も含めて、コンディション次第ではそういう風に済ましかねなかったとは思ってはいるのだが、正直。でも、「伝統」「コロニアリズム」にかかる言説への違和感のストレートさ、それを掬い取る力、それを舞台に載せてみせるチャーチルの技術に、筆者はまず、感服した。そして、同時に、この芝居が自分にとって、とても他人事では無い、ということも感じる。

特に「伝統を守れ」「お仕着せの○○を変えよう」「この国にはこの国なりの○○がある。西洋の○○を押しつけるな」的な言説は、特にアフリカだけで広く拡がっているわけでは無い。
高校野球の伝統、大相撲の伝統、天皇制の伝統、日本固有の文化、アジア固有の民主主義の在り方、江戸仕草、単一民族としての在り方、押しつけられた平和憲法、その他諸々。

もちろん、アフリカではそれに加えて旧宗主国がもたらした悪しき文化、という植民地時代のレガシーが要素として加わるのだろうけれど、まあ、日本も戦後70年以上実態は某国の植民地なのだから、そこに筆者が(一定程度)共鳴しても赦されるだろう。いずれにせよ、そこで「伝統」「固有の歴史」といった虚偽の正統を声高に叫ぶ人が出てくる状況というのは、現実としてあって、それに対して、個人レベルでその狂気をどう生き延びれば良いのか、というのは、常に目の前にあって、しかも、気の重いテーマとならざるを得ない。

そういう、とっても気の重いテーマを扱いながら、ラスト2分の台詞は、なんだか、美しくて、そこに希望があった。この日の昼に観た"Now We Are Here"の、エレベーターの中二人っきり。1階から10階までノンストップ。てっぺんについたらそこから1階までノンストップ。20階分、ノンストップでキスしていられる。っていう台詞を思い出したり。
そういう、美しいもの、が、希望について考えるとっかかりになってくれるんだなー、と、思う。

キャストの中の白人男性の佇まいが、燐光群の杉山氏に似ていた。そう。こういう語り口の芝居は、燐光群にとてもよく似合うなあ、と思った。坂手さんが舞台に載せると、こういうキッツい話がキッツいまま上がってしまいそうな気もして、でも、この芝居なら。何かの機会に。川中さんか鴨川さんがラストの台詞言ったら、自分、泣くだろうな、とか。

2016年7月26日火曜日

Now We Are Here

23/07/2016 15:00 @Young Vic

前後半それぞれ45分。前半はUKに住む移民の男性3人が、どのような経緯で現在に至ったかを語る、実際のインタビューをもとに再構成したverbatim。後半はTamara McFarlaneによる書き下ろしの女性独り語り。

前半のverbatim、3人の物語はそれそれが十分に魅力的だった。東アフリカの戦火を逃れてUKにやって来たものの、職も居場所も見出だせずに途方に暮れるマイケル。パキスタンに生まれ、父親と弟からの暴力に晒されながら、そこから自らのアイデンティティを確立した末に現在に至るミーア。ジャマイカからやって来た、ガンの発見と同時にホスピスという居場所が確保出来てしまうという皮肉な目に遭うデズモンド。こういうキツい話についてインタビューで話すことの出来る強い人格にはシビれる。また、そうした話を、お涙頂戴に落とさずに構成してみせる手腕にも、いつも、verbatimの芝居を観ると思うことではあるけれど、敬服する。

ただし、この再構成、巧拙を問われれば、どっちかといえば、拙かなあ。何故この3人なのか、とか、3人の物語が、時系列としては重なっているような、重なっていないような、その中で、芝居として立体的な構造を為すように構成されていたかというと、そこは疑問。

後半のモノローグは、やはり、verbatimと比べると「作った台詞だなー」というのが率直な感想。物語の流れも、様々な描写も、すらすらと、磨かれて、淀みなく。物語を聴きに来た人には後半の方が耳に優しかったかも知れないが、筆者にとっては面白味に欠ける、ちょっとロマンチックが勝ちすぎのパフォーマンスだった。勿体ない。

An Evening with an Immigrant

22/07/2016 19:15 @Soho Theatre

ナイジェリアからの移民であるInua Ellamsの自作自演独り語り。ユーモアを絶やさず柔らかな語り口の中に、骨太な怒りが真っ直ぐに伝わってくる、素晴らしい90分だった。

ムスリムの父とキリスト教徒の母との間に生まれた少年(Ellams自身)が、ナイジェリアで子供時代を過ごした後、現在の境遇 - National Theatre等での演劇公演が高く評価され、エリザベス女王の園遊会に招待されると同時に、十分な身分証明を持つことが出来ず、場合によっては女王に招待されながら強制国外退去の憂き目に会うやも知れぬ状態 - に至るまでを、自作の詩の朗読を交えて語る。

何だただの身の上話じゃないか、演劇じゃ無いじゃないか、というなかれ。舞台上、観客を前にして演者が立っている時点で既に芝居は始まっている。それが本当の話なのか、フィクションなのかは後から確かめれば良いことで、少なくとも筆者は、公演を観ている間、その語り口、語られるテクスト、音楽、立ち居振る舞いに集中して、とっても面白く観ていられたのだ。

Ellamsが移民としてロンドンに初めてやって来たのが12歳の時、1996年。奇しくも筆者がロンドンに初めて来た年でもある。その後筆者は10年間ロンドンに「職を持つ正規労働者としての移民」として滞在していたわけだが、Ellams氏はといえば、家族全員が身分証明書を騙し取られた挙げ句に1999年にダブリンにやむなく移住、2002年にロンドンに戻ったが、今度は、いつまた国外に追い出されるか分からない(しかもどこへ?)移民として、である。ステータスは違っても、「これは他人事では無い」と思ってしまうのは、今の自分の母国がちょいっとおかしなことになりつつあって、本当に帰りたくなるかも知れない、その時は自分も難民申請だろうか、などと半分真剣に考えているからだけれども、それはさておき、そんなひどい目に遭ってしまう過程で彼が語る、ナイジェリアの学校の寮の思い出、ダブリンのバスケ部の思い出、詩作に関わるようになったきっかけ等々、そうしたエピソードが、彼の柔らかな声質と悪趣味に陥らないユーモアとに包まれて、押しつけがましくなく入ってくる。そういうところから始まるからこそ、「住む」ことを勝ち取るための苦難と、それに由来する、UK政府の役人どもの、場当たり主義でご都合主義で、いざとなると法律と官僚制度の奥に引っ込んで隠れて責任逃れする態度(それは、移民政策というよりも、移民への態度、であると筆者は思う)への大きな怒りが、柔らかなテクスチャーのすぐ後ろに存在していたことに、驚き、また、敬意を抱く。

すっごく怒ってるはずなのに、それを前面に出したアジ演説芝居や、涙ちょちょ切れお涙頂戴物語として自分の語りが消費されてしまうことを拒み、あくまでも90分の「移民との夕べ」を観客に過ごしてもらおうという、そのホスピタリティへの意識の高さと作劇の確かさ。これは、日本でいえば畑澤聖悟さんの懐の深さ、間口の広さ、そして怒りの強さに通ずるものがあると思った。そしてまた、これだけ強い怒りを感じていながら、その怒りで自らの眼を曇らせずに人々に語りかけることの出来るパフォーマーに出会ったとき、それに対して抱く感情は、感謝と敬意。ありがとうございました。

2016年7月25日月曜日

Wild

16/07/2016 19:30 @Hampstead Theatre

ぼくは、福原充則さんが三鷹の星のホールで上演した「全身ちぎれ節」のことを一生忘れないと思う。どんな芝居だったかは(すみません!)ほぼ全部忘れたが、ただ、千葉雅子さんが出ていて、酒焼けしたような声だったことと、最後の高松泰治さん(オマンサタバサさん)の階段落ちは、一生忘れない。星のホールのバトンの高さまで聳え立つ階段(昇りきった先には何もない、すなわち、そこから落ちてくるだけの機能しか持たされていない、トマソンを地で行くような階段)から落ちてきて、舞台前面から客席に向かって飛び出し、客席最前列の観客の間に着地してうずくまる高松氏!

乱暴だったとか、無謀だとか言っているのではない。あの高さからの階段落ちを、公演期間中、継続して実行するだけの読みと計算を効かせることのできる役者として、高松泰治さんを忘れない、という意味である(あ、もちろん、高松さんは、あなざーわーくすとかシベ少でも拝見していて、他の部分でも役者としてリスペクトです、勿論。ゴキコンは観たことないけど)。

何で、ロンドンHampstead Theatreで上演されている、Edward SnowdenとWikileaksの事件をモデルにした芝居、"Wild"のことを書くのに、星のホールでの高松さんの見事な階段落ちのことを書くのかというと、それは、まさに、
「芝居の中身は横に置いといて、ラストの装置が凄かったんです!」
と言いたいからです。以下、100%ネタバレになるけれども、他に観るべきもの、書くべき事が無い芝居なのだから、しょうが無い。

<以下、ネタバレ>

休憩なし4幕(4場?暗転3回)のこの芝居。舞台はモスクワのホテルの一室。アメリカ政府の超重要情報をリークしたばかりのアメリカ人の青年が匿われているようだ。彼は今、ロシア政府による受け入れの可能性について、「彼」(おそらくSnowden氏を指すと思われる)を介して探っている状況。そこへ、「彼」のエージェントを名乗る女性がやって来るが、彼女が居なくなると全く別人の男がやって来て、その女は贋物だと告げる。さて、誰が見方で誰が敵なのか、青年の運命はいかに。ハラハラどきどきの心理戦が繰り広げられる1時間40分。って、こんなありがちなスパイもの物語の結末なんぞ楽しみでも何でも無いわ。
案の定、ラスト、二人とも同じ穴の狢、所詮はその青年、巨大権力の掌の上で暴れてみせる孫悟空だったね、というお話なのだが。

3場目の終わり。暗転の直前に、主人公の青年がホテルの部屋の壁に手をついて、「アレッ?」という顔をするのだ。そして、4場、自身が巨大権力の掌中に落ちたと自覚しかけた彼が発する問い:「実はここ、ホテルじゃ無いだろう?」 
ハイ、ご名答!!舞台奥の壁が左右の袖に引っ込み、天井が一枚の白布となって吸い込まれ、両袖の壁は舞台奥・劇場の天井へとスライドして呑み込まれ、ホテルの部屋は一気にHampstead Theatreの素舞台へと変貌する。

そして何と、ここからが驚きの展開。素舞台だと思っていた舞台の床が、ここから反時計回りに回転していく。床だと思っていた板が、舞台上手にそびえる壁となる。床に置かれていた椅子、そこに座っていた主人公もそのまま90度回転して、壁から生えた椅子に青年は座り続けている。こりゃ凄いよ。

でもね。

そこまでやっといてだよ。舞台と客席の間の壁について一切言及が無い、もしくは処理されていないのは、不自然、いや、ダサダサだって、誰も指摘しなかったのかい?
それとも、気がついていたけれども処置なしだったのかい? それとも小生の重大な聞き逃しですか?(いや、その可能性は絶対に排除できないんですけどね・・・)

でもね、そこは放っておかれてたと思うんだよね。多分。それでもって、このどんでん返し、すごいでしょ?って言われても、興醒めだ。

終演後、パンフレットは買った。セノグラファーを確かめるため。Miriam Buether。去年小生が観た芝居だけでも、Young Vic の審判、Royal CourtのEscaped Alone、Tricycleの(その後 West Endでもロングランした)The Father、AlmeidaのBoyと、気の利いた舞台美術をたくさん手がけていた! 収穫!(ちなみに野田秀樹さんのThe Beeの美術もMiriam Buetherの手になるものだそうです。小生は観てないけど)。
作者のMike Bartlett、チャールズ3世とかで評価の高い人だけど、こういうありきたりの芝居を「ぼくって凄いでしょ?」って言いたげに作る人だとすると、今後は眉に唾して観なきゃなんないな。

2016年7月24日日曜日

Ex Machine/Robert Lepage / Needles and Opium

15/07/2016 19:45 @Barbican Theatre

ケベックが誇る、いや、カナダが誇る大御所、Robert Lepageの有名作品(1991年初演)。とはいうものの、小生はLepageの名前にも作品にも、全く縁がないままここまで生きてきたから、先入観はない。Time Out誌に「とにかく舞台装置だけでも観に行け」とあったのでのこのこ出かけていったのだが、確かに舞台装置は凄かった。

キューブの6つの面のうち3つを切り取って、3つの面を残して、それを回転させながら、「壁」「床」「天井」の役割にもローテーションを掛けていく。役者はワイヤーに吊られ、壁にもたれてこらえ、劇場の床に飛び降りながら、その空間に立ち、それを横切り、演技する。

その効果は、先ず、こけおどしとしては相当のものだし、格好良いし、洗練されているし、段取りの数も半端ないだろう。でも、その舞台装置の効果が全面的に報われているとは思わなかった。極端な話、舞台を回さずに、素舞台で役者が語ってるだけで十分説得力を持つ芝居は、他にいくらでもあるのだ。そこから始めてはいかが?と思ってしまった。

冒頭から、誰が誰に向かって話しかけているのか、焦点が定まらず。1991年の初演時にはLepage自身が演じたそうだが、その方が観ていてしっくりきたのかも知れない。役者が演じるLepageと、Cocteauと、役者自身との入れ子が、今一つ立体感を持って立ち上がってこなかった。Lepageが大西洋のあっちとこっちで仕事をする様と、Cocteauの北米での体験、Miles Davisの1949年パリツアーでの体験が織り合わさって、時間と大西洋を飛び越えた世界が拡がっていくのを期待していたのだけれど、思いの外、キューブの外に拡がりを持たずに終わってしまった。

Lepageのフランス語・英語バイリンガルならではの愚痴大会は可笑しく観たけれど、Miles Davisのパートは、(役者は変な思い込みがなくて良かったものの)相当キレイに抽象化された(殺菌された)Miles Davisになっていて、正直、Milesのパートは眠たかった。この間観た映画Miles Aheadで観た、Don Cheadleが演じるMilesの方が、余程か地上の人間として、Opiumならぬコケイン吸い込む必然性を感じさせたと思う。

総じて、大御所の舞台を拝観させていただいた、だけに終わってしまったかな。

2016年7月23日土曜日

That Catholic Thing

14/07/2016 19:30 @Camden People's Theatre

この日にCamden People's Theatreに行ったのには、芝居そのものへの興味とは別のイシューもあって、友人の演出家Sさんと、Camden People's Theatreがどんな小屋かを確かめに行こうよ、ということだったのである。もとはパブだったこのスペース、大体50−60人くらい入ると満腹感があるぐらいのキャパシティで、スタジオっぽさがちょっと日本の小劇場を思わせる。時に外を通る車の音が丸聞こえなのが難点だが、昨年観た男2人芝居"God has fallen and all safety gone"がとっても良かったものだから、Sさんにも、役者少人数でやるんならちょうど良いんじゃないかと思って紹介したわけである。ここの小屋のラインアップを一見しても、色々新しいことを受け入れてくれるような気もするし。

で、開演時刻を迎えたのだが、Sさんは現れず。

前評判がさほど高いわけでもなかったこの芝居を独りで観る羽目になったのだが。予想よりも面白かった、という感想。

カトリックの信心深い妻(妊娠中)と無神論者の夫。夫がある夜見た夢をきっかけに神様にのめり込んで、預言者を名乗るようになる。疑ってかかっていた隣人や村の神父も、ベーコンサンドイッチのベーコンに映るキリスト様の像を見て、これはほんまもんの奇跡だという話になり・・・という話である。
まあ、途中で大体予想がつくというか、ありきたりというか、物語自体に驚きはない。途中に出てくる、預言者ものならではのエキセントリックな行動・台詞も、特にそれらをもって面白いとか下らないとか、そういうことをいうほどでもない。 

でもね、気になるのは、作者のAnne Bartramがこの戯曲について、「自分のカトリック信者としてのバックグラウンドと経験を題材として」書いたとしている点。それって、この芝居は、彼女のカトリックの教義や信仰、日々の儀式に対する見方を照射した結果だ、ということで、正直、信者でない自分には、そこをどう受け止めれば良いのかは曖昧なままだ。でも、彼女の言うことをそのまま取るとすれば、カトリックって相当しんどいよね。中学生の頃、ある日曜日の朝、カトリックのミサに「お試し気分」で入ってみたら、とっても怖くなってしまって、「自分はカトリック信者にはなれないし、何かを信仰することも無理!」と確信した瞬間を思い出す。
しかも、この、Anne Bartramという人は、骨髄腫で余命幾ばくもなく、最後の願いが、自分の書いた芝居がロンドンで上演され、レビューが全国紙に載ることだって・・・
作者にとってはしんどい作品なのだろう。それを「ありきたり」と感じてしまう自分もどうしたものか。と思ってしまう。

このCamden People's Theatreは、おそらく、もっとスタジオのように使って、ものを置かずに演技スペースを取った方が良いのではないかな、と思った。やはり、小さい小屋に小さいセットはどうしても貧乏くさく見えてしまうので。

Sさんは、早く着いてしまったので近所を散歩してたら戻って来られなかったんだそうだ。下手ではけ口と観客の入場口がほぼ一緒の場所にあるので、開演してしまうと絶対に途中入場できない作りになっているのです。終演後に無事にロビーで落ち合って、飯食って帰りました。

2016年7月19日火曜日

地点 ファッツァー

09/07/2016 20:00 @Ringlokshuppen Ruhr

渇いた身体に水を飲むと胃の腑にしみわたるように、舞台上の色々の事象が五感に突き刺さってきた。地点のファッツアーはNHKテレビの録画も含めて何度も観てきたけれど、今回ほど、音と目に見えるものの輪郭がクリアーに感じられたことはなかったと思う。空間現代の野口氏のテレキャス、山田氏のハイハット、古谷野氏の重低音、窪田さんの台詞、ベルの音、壁についた軍歌の足跡、黒時々赤、河野さんの脚、ストロボ。ああ、これが見たかったんだ、これが聞きたかったんだなあ、と感じた。

その前の公演の閉幕が押したために開演も15分間押して、観客がちょっとざわついているところに、ライプツィヒ大学のギュンター・ヘーグ先生が飛び入りで事前豆レクチャーをしてくれた。まずは、今の日本の社会・政治状況と演劇シーンについて、安倍政権の性質、安保法案や改憲等に触れつつ、東北の震災と原発経由で三浦基・岡田利規・マレビトの会などに言及。続いて、地点のスタイルについて、能や文楽から説き起こして説明。これを15分間で。ドイツ語を解さない小生にすら何を話しているかが分かり易いレクチャーだったのだから、きっとドイツ人にとっても論旨明快、分かり易い導入だったに違いない。そのせいもあってか、本番に入っても客席が集中していて、200人程度は入りそうな、アンダースローと比べるととても大きな小屋だったけれども、空間現代の存在感は全く減じることなく、役者も遠く感じることなく、緊密な空間が生まれていた。と思う(小生のお隣のドイツ人の方はいびきかいていらしたが・・・)。

舞台奥の壁はへなへなにしなる仕様になっていて、役者が張り付くとしなって揺れる。これは面白い効果だな、と思っていたら、色んな事情でそうなってしまった、というだけのことらしいのだが、いや、でも、面白かった。ソンム100年を様々なところで目にしてきた後だからか、舞台上の溝はかなりはっきりと塹壕として認識された。役者同士は対面せず、客席の方を向いて話す台詞が、会話の切り貼りのようにも、切り分けられない群衆の中から湧き出る囁きのようにも聞こえる。そうやって、この上演は、色々な境目を強力に乗り越えていた。芝居だけれどもライブ。ドイツの話だけれど、日本人のこと。日本人の役者だけれども、ドイツの話。6人で演じるけれども、5人の話であり、みんなの事象である。群衆の話だけれども,一人一人のことだ。そういう広がりを持つ素晴らしい作品だと再認識。

Saarländisches Staatstheater / Fatzer

09/07/2016 18:00 @Ringlockschuppen Ruhr

ドイツ西部にある町、ミュールハイム市まで、ファッツァー祭りを観に行ってきた。デュッセルドルフから電車で30分、ルール工業地帯の中にあって、デュイスブルグとエッセンという、2つの大きな都市に挟まれ、古くは石炭・鉄鋼に関連した都市として栄えた。石炭採掘をやめてからは緑の多い、静かな、大都市からちょっと外れたルール河畔のこぢんまりとした町となっている。が、何を隠そう、ブレヒトの「ファッツアー」に出てくる脱走兵達は、ミュールハイム市内の地下室に身を隠す、という設定になっている。そして、ミュールハイムにある劇場Ringlokschuppen(ラウンドハウス)では、それを祝して(?)、毎年初夏に「ファッツァー祭り」を開催しているのだ。今年は、日本から地点、ザールブリュッケン市のザールラント州立劇場のプロダクション、そして、ベルリンから来た若手2人組バンドの演奏、シンポジウムとアーティストトーク、といったプログラムだった。

まずはザールラント州立劇場のプロダクション。登場人物は男性4人と女性1人。原作とこれは同様だけれども、ファッツァーをネタにしたレビュー仕立ての1時間45分。お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。前半はブラックタイとイブニングドレスの5人によるポリティカルなせめぎ合い。後半は「人間の形をした着ぐるみ」を着た5人による市民座談会から、混沌としたエンディングへとなだれ込んでいく。小生がドイツ語を解さないせいで、全く面白さの拾いようがなかった、という面もあろうけれど、翌日偶々電車で一緒になったドイツ人の某教授も「あれは良くなかった」とおっしゃっていたから、まあ、言葉に関係なく、出来は良くなかったのだろう。展開に行き詰まると音楽を鳴らしたり、声を揃えて台詞を言ったり、そういった手口がいかにも苦しい。交渉が舞台・客席を覆って終わる、という意図と意気込みは伝わってきたけれど、そこまで全く持って行けてないことをもって「面白い芝居だった」とはとても言えない。

興味深かったのは、(ドイツ語を解さないのにどこまで分かっているつもりなんだ? と突っ込まれると答えに窮するものの)、どうやら、ファッツァーの仲間内、あるいは、登場人物の仲間内での摩擦を、「個人と個人の間の摩擦、権力闘争」として捉えている感が全面に押し出されていたこと。この後拝見することになる地点のファッツァーが、「分割できないものとしての群衆」や「何者でもないものとしての個人」を意識した仕立てになっているのとは対照的だった。やはり、西洋は、個人があって、対話があって、そこから集団を形成していく土地柄なのかなー、と考えたことである。

2016年7月17日日曜日

Queens of Syria

09/07/2016 19:45 @Young Vic

シリア人の女優13人による「トロイの女」とその周辺。冒頭、13人が舞台に登場した時点で涙が出てきて止まらない。彼女たちが舞台に立つこと自体が強烈に政治的であること。政治を語らずとも - アサドという名も、ISという名も、欧米諸国の名前すら、一切口に出さずとも - 彼女たちが舞台にいること自体が十分に強力で、自分はどの顔をしてこの客席に座っていられるのか、と自問し続けざるを得ない。

彼女たちは語る。ダマスカスやホムスでの暮らしについて。お気に入りの壁紙や庭の花壇や調度やごちそうや家族との暮らしについて。ある者は語る。自分は台所にいて、わが家の女王であったと。またある者は語る。いとこの死について。兄弟の脱出や自宅への爆撃や頭上を旋回するミグや国境で袖の下として差し出したスマートフォンについて。彼女たちは自分たちが失ったものについて語る。家族、親族、住居、スマートフォン、街、国。淡々と、泣きを入れずに語る。でも、時には言葉に詰まり、涙を拭う。無理もないだろう。でも、自分はもらい泣きしない。何故ならこれは舞台上演だから。お涙頂戴の感動の一端にあずかりたいのであれば、他に行くべき劇場は山ほどある。

舞台俳優としての彼女たちは、取り立てて凄みのある、技術を備えた役者達ではない。とてつもない出来事をくぐり抜けてきたからといって、必ずしも演技に厚みや渋みが加わるわけでも、顔に苦悩の皺が余計に刻み込まれているわけでもない。文字通り、等身大の、シリアの女性達が、舞台に立って、「演技している」。

これは、演劇なのか。アジ演説と変わりないのか?

筆者にとっては100%演劇である。たとえ台詞が一言もなかったとしても、声を揃えて「トロイの女」の台詞を読まなかったとしても、彼女たちが舞台に立っているということ自体が、十分に演劇的であり、十分に政治的である。等身大の姿が、そこから始めて、シリアとロンドンの間の距離を感じさせ、過去と現在と未来の間の距離を感じさせ、彼女たちの内面にあるもの(そもそも内面なんて目に見えるわけがないのは分かっているけれども)を強烈に想像させる。それが、演劇ならではの圧倒的な力だ。だから、これは凄い演劇なんだ。そう思う

Faith Healer

01/07/2016 19:30 @Donmar Warehouse

北アイルランド出身の劇作家Brian Frielによる3人芝居。1979年にブロードウェイで初演、その時は不入りだったようだが、その後あちこちで再演を重ねている。今回は(Game of ThronesやThe Real Thingで有名な)Stephen DillaneやRon Cookも出演ということで、8月の千穐楽まで売切御礼。偶々リターンか何かで出ていたチケットをネットで手に入れてDonmarへ。客入れ中、舞台を囲むように水が絶え間なく上から降り注いでカーテンとなり、それを鈴なりになったハロゲンランプが上から照らす。開演すると中に舞台が現れる。板張りの床。質素な舞台。

3人芝居。2幕4場。モノローグのみ。Faith Healer(直訳だと信仰治療師だが、実態は田舎のパブをどさ回りしてあぶく銭を稼ぐ、治るも八卦治らぬも八卦の呪い療法師)と、その妻と、マネージャー。3人のどさ回りの思い出と、アイルランドのとある小さな村での事件の顛末について順番に語る構成をとる。それぞれに微妙に記述が食い違っているのだが、その整合性チェックと真実の所在の謎解きはこの芝居の主題ではない。むしろ、このテの「信頼できない語り手」による語り芝居では、受け手の想像力のスイッチをどうオンにして、受け手一人一人に勝手に物語を紡がせるかに醍醐味があるはずで、その背後に芝居がお膳立てしてくれた豊穣な世界(そこは曖昧模糊とした世界で、そこには必ずしも一つの真実は隠れていない)を堪能。ただしそこから「隠れた関係性の襞」が汲み取れなかったのは、小生の英語力の不足か、モノローグ芝居故の至らなさか。いずれにせよ少し残念。

語り手は観客席に対して語りかけるので、客席の反応へのレスポンス、目線の配り方、客席でのノイズへの反応が注目されるけれど、Ron Cook(Conor McPhersonのSeafarerで悪魔を演じていた方)が出色で、さすがと思わせる。「誰がどういう状況で誰に対して」語っているのかは、この芝居では最後まで曖昧なまま、そして登場人物3人の記憶も、曖昧なのか故意・錯誤で歪められているのかは判然としない。とにかく、本人の「ここにいるのだ」という確信と、3人の関係性だけは、確かにそこにあった。

平田オリザの「所詮2人の仲は平行線。でも、そこに一本斜めに線を引けば、そこに2つできる錯覚(錯角)と錯覚(錯角)は互いに等しいじゃないか」ていう台詞を思い出したりしたのだ。

2016年7月16日土曜日

革命アイドル暴走ちゃん

25/06/2016 18:30 @Barbican, Pit

2016年、夏の欧州ツアーの最後を飾るバービカン・センターでの上演は、期待に違わぬフルスロットルでの暴走に圧倒的な作り込みの完成度の高さがきちんとついてきて、息もつかせぬ45分間。観ている最中、余計なことが頭から離れて、心を持って行かれた。観終わった後、劇場を出ても、スカッとした気分。

まずは客入れ。MCが良い。革命アイドル暴走ちゃんのコンセプトをしっかり理解していて、開演に向けて客席からの期待感を絶妙に、どんぴしゃりに操っていた。続いて登場する二階堂瞳子さんの日本語挨拶通訳付き、ってこらーっ、早口すぎてネイティブ日本人にも全く何言ってるのか分かんないじゃないかー、と思ううちに本編に突入するのだが、そういえばそうだ。革命アイドル暴走ちゃんの醍醐味は、意味を追ってもしようがないと思わせるまでの圧倒的な場量の多さとスピードと、それをつきぬけたところにある、どうしようもない伝わらなさの涅槃にあったんじゃないか。それを思い出した。

雪、花、わかめ、水は、今回は海外公演だからか臭い控えめ、下ネタ控えめ。舌ベロベロは、若干春画ジャポネスクを意識したサービスか。テキサス人のアマンダが舞台のセンターに立つ場面が多いように思ったが、それはおそらく、言葉のこともあったかも知れないけれども、あまりにこの座組を「日本チック」に固めると、観客の意識が「海の向こう、極東からやって来たキワモノでも観に行くか」っていう感覚に心地よく収まってしまうことを防ぐ効果があったとも思われる。そしてその効果は十分に上がっていたと思う。観客を舞台に上げて、その挙句に客席から舞台に向かってお辞儀してさっとはけていくフィナーレまで、見事な出来映え。猥雑さを失わずに余計な者をそぎ落として完成度を上げた、本当に素晴らしいパフォーマンスだった。

Open for Everything

18/06/2016 19:30 @Royal Court Downstairs

ロマ(日本語だとジプシーといった方が分かりやすいかも知れないが)のパフォーマー15人を中東欧各国からオーディションで集め、それに韓国・ドイツ等の「西側の」身体の良く動くパフォーマーを加えておくる90分。歌、語り、踊り、時としてちょっと説教臭さが鼻につくスキット。最後まで飽きずに観た。

目を奪われたのはやはりロマのダンサーの中でも身体の動く男の子達。独特のリズム(筆者は最後まで拍子が取れなかった)に乗せたダンスが、技巧は凝らしてもしなやかで、スカして見えず、印象的だった。だけれども、最も格好良かったのはバンドの面々。キーボード、ドラム、ベース、バイオリン、ギター。クレズマーっぽいバンドが「クレズマー、やりまーす」ではなくて、飽くまでも舞台をドライブする手段として音楽を鳴らし続ける。楽団は舞台の上方、雛壇の上からダンサー達を観ながら、ダンサーの熱量に合わせて演奏の熱も上下動させる。オッサン達の舞台のうねりの差配に、シビれた。ドヴォルザークの「新世界より」のアレンジにも、シビれた。

今の欧州でロマの置かれている立場と状況を考えれば、客席からこういうショーを素直に楽しんでしまって良いのか、という疑問も無くはないけれど、良いんだ。楽しめば。舞台上のパフォーマー達は、踊れる者も踊れない者も、少なくとも「自分たちは、居る」ということを強烈にアピールしていて、それ自体が最早政治家に委ねるにはあまりにも政治的だ。それをそのまま受け取れば良いのだ、と開き直って楽しませていただいた。

2016年7月15日金曜日

Blue/Orange

18/06/2016 14:30 @Young Vic

精神病棟に1ヶ月入院していた青年。統合失調症のおそれあり、長期入院させて「助けてあげるべき」という意見の新人医師。経営上の(より具体的には病床数の)理由から退院させるべきという意見の上司。3人のやりとりの中から、陰に陽に現れ出でる権力関係の諸形態。

劇場のドアをくぐって観客席に向かうと、診療室を通り抜ける。へえっと思って客席につくと、何と囲い舞台をめぐる蹴込み(透明のアクリル板である)を通して、さっき通ってきた診療室が見える。舞台はその真上にあって、さっき見たのと同じ椅子、机、ウォータークーラーが配されている。すなわち、真下の診療室の壁を取り払った恰好になっていて、何だか「いいですか?本当はここに壁があるんですよ」と言われているみたいで、ちょっとくすぐったい。

登場人物3人の間では、上司と部下、医師と患者、白人と黒人という権力関係が明確で、その関係を突き詰めた、濃密で剥き出しのやりとりがこの舞台の見所であることは間違いない。一方で、白人=医師、移民=患者という上下・階級関係の分かり易さは(それがUKの現実なのだとしても)、ステレオタイプな同情と、それと裏返しの状況として、観客を「物わかりの良い、安全な立ち位置に身を置いた」人へと押し上げてしまっていた気がする。先日Royal Courtで観たCyprus Avenueでは、診断される側が比較的裕福なプロテスタントの初老の白人男性、セラピストがアフリカンの若い女性という風に置くことで効果を挙げていた。それは「先入観をひっくり返す試み」といった軽はずみで小便臭い売り文句ではなくて、劇場に足を運ぶ「もっぱら教育のある、ある程度生活に余裕のある人々(もちろん白人が多い)」を安全な立ち位置に置いてしまわないための仕掛けである。

その意味で、緊張感のある熱の入った芝居であることは認めるとしても、観客を安全な立ち位置から引き離すまでには至らず、これまた惜しい芝居だった。

Human Animals

11/06/2016 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs

ロンドンの街にキツネやらハトやら何やら、動物が異常に増えて溢れて、感染症の懼れが広がって、動物の駆除が始まって、人の出入りまでもが制限されたときに、そこに閉じ込められた人々がどう振る舞うのかという話。もちろん舞台上に動物は出せないから、外の様子は6人の役者の会話から推測するしかない。すなわち、役者の会話の外でドラマが進行している。現代口語演劇まであと一歩。

この芝居の面白さは、街が動物で覆われる事態を、大掛かりなハリウッド映画で見せるのでなく、登場人物のミクロな感情の揺らぎで見せていくところにある。母と娘、パブで知り合った男二人、若いカップル。もしこれらの会話がもっと微に入り細に入り、完成度が上がっていたなら、窓の向こうに血が飛び散る仕掛けすら不要の厳しい芝居として成立していたはずなのだけれど、惜しい。

もちろん、異物としての動物は、人間をあらわすメタファーと取ることも出来る。特にロンドン近辺でどんどん増えていく移民・難民。コミュニケーションが取りにくく、何を考えているかも分かりにくく、自らの生活を圧迫しているかのようにも感じられる存在。そういう意味では、イギリス人の観客は登場人物の側、筆者は動物の側にいる。曲がりなりにも税金払ってる筆者と違って、職探しも、声を挙げる機会を見いだすことも、コミュニケーションの手段を手に入れることも難しい移民たちが、この舞台の上の動物だとするならば、この芝居がEU離脱の国民投票の直前に上演されたことには微妙な意味がある。

もし、この芝居で「動物」を持ち出さず、その代わりに言葉の全く通じない「人間」を使っていたら(かつメロドラマに落とし込まなかったなら)どんな恐ろしい芝居に仕上がっていただろうか、と思うと、やはり、惜しい(ん?それって、ひょっとしてブレードランナーか?)。作者のStef Smithは昨年エディンバラで観たSwallowの作者でもある。そう言えばSwallowも惜しい芝居だったな、と。

2016年7月14日木曜日

Phaedra(s)

10/06/2016 19:00 @Barbican

トータル3時間半の長い芝居。最初の2時間半、延々と、ワジディ・ムアマッドバージョンとセイラ・ケインバージョンのパイドラを絶叫芝居で熱演させておいて、観客に「くだらねえ!」と感じさせておいて、その後クッツェーのキャラであるエリザベス・コステロ登場。「いいか、フェードルっていったって俺様の手にかかればこんな知的なエスプリの塊として提示できるんだぜ」という展開。演出家の意図は、ここでエリザベス・コステロ出して「さすがオデオン座のフェードル」って言わしたいのだろうから、一観客としてはここは素直に「はいはい、演出の方の頭が良いのも、イザベル・ユペールが絶叫芝居も知的エスプリ芝居も両方こなせる大した役者さんであることも、どっちも良—く分かりました。分かったから、頼むから、最初から面白い芝居を見せてくれよ」と言うしかない。カーテンコールの拍手も、「はいはい、よーくできました。役者さん、頑張りました。お疲れー」な拍手以外のモノではない。

ヒッポリュトス役の役者が、疲れた中年男の風体で味が染みている。その味が、芝居そのものではなく、演出家の知性のひけらかしにのみ奉仕していたのが何とも残念だった。

The Threepenny Opera

04/06/2016 14:00 @National Theatre, Olivier

Rory Kinnearは決して悪い役者ではないのだろうとは思うのだけれど、何の相性が悪いのか、昨年Young Vicで観た「審判」に引き続き、今回の三文オペラもパッとしない。何と言っても、オペラを銘打っているにもかかわらず、歌のパートになると苦しそうに見えるのが辛い。演技しているときは細かいところまで丁寧に演じて決してダメな役者ではないのに、丁寧に台詞を喋っている分だけ、歌になるとどうしても余裕のなさが見えて、ニュアンスが死んでしまうのが苦しい。

National Theatreのプロダクションで三文オペラを上演するからには、予算も取ってあるし意匠も凝らしてあるし、そこは十分に見応えがあった。回り舞台やせり上がり、櫓も建てて、時にはパネルのプチ屋体崩しから3階建て階段まで、豪華かつ効果的。バンドの使い方も上手だった。乞食社長が出てくるシーンはダイナミックで、唐組の舞台を思い出すし、マックの手下の若い衆は三人組の原点じゃないか!と思われるような活躍ぶりだった。ただし、そうした面白味が、どうも一定のレベルまでのおとなしさ・収まりの良さに収斂していて、弾ける感じには至らず。トータルでも合格点取ってハンカチで汗を拭いてみせる、優等生なできあがりになっていたのが残念だった。

2016年7月13日水曜日

Apichatpong Weerasethakul - Memorandum

29/05/2016

今年のクンステンフェスティバルの会期中、関係者の間では常にApicatpongの名前が囁かれていると聞いていたので、これは観に行こうと、フェスティバル最終日に飛び込みで。恥ずかしながらこれまで彼の映画を観たことは一度もなかったのだけれど、だからこそ、なのか、でも、なのかは不明だが、全く飽きずに会場にいられた。ショートフィルムや、映画の断片のようなシーンが会場に並べられていて、現代美術のインスタレーションの展示とさほど変わるところもない。

光の具合、色の生々しさ、敢えて物語のペースからは外れて、違う場所へと意識を持って行ってくれようとしているようで、心地よかった。作者のストーリーをごり押しせずに、観ている人々に組み立てさせようとしているのではないかと思われ、だから、カメラの視点も妙なところに置かれていて、そこにも僕の妄想が働く余地がある。

廃屋か倉庫のような建物の中に差し込む日光が生み出す光と影の変化を一日追い続けてみたり、森の中に開けた場所にぽつんと置いたベンチに、若者達が順番に並んでポートレイトを撮って貰ったり、骨董というほど古くもないが成金というほどピカピカでもない石像達をずっと追ってみたり、人工透析を繰り返したり、可愛くも何ともない若い男性の寝顔を追い続けたり。押しつけてないんだけれども印象に残る。これは大変な人だ、と思う。

家に帰ったら、買って観ないままに放置しているUncle BoonmeeのDVDを観ようと決めた。観たら、それもやはり大変素晴らしい映画だったのだ。

2016年7月11日月曜日

Eleanor Bauer & Chris Peck / Goodmove & Ictus / Meyoucycle

28/06/2016 22:00 @Kaaitheater (Kunstenfestivaldesarts)

行き過ぎた情報化社会に異を唱え、wifiやスマホと袂を分かち、自分のエゴと身の回りだけを信じて地下に潜ろう、溢れる情報に操作される世界よさようなら、自我の回復よこんにちは、というメッセージを力強く観客に押しつけ続ける2時間。絶叫とナルちゃんエモギターを主軸にミュージカル仕立てにしてあるけれども、技術の伴った学園祭の出し物の域を出ず。

観ながら感心していたのは、パフォーマー達が、上演中、常に自信満々であるように見えていたこと。こういうパフォーマンスを、真っ直ぐに、伝わるに違いないと信じて(あるいはこれで伝わらない奴らはバカか敵に違いないとみなして)舞台に乗せていること。「妙な情報化の中で自分を見失っていませんか?」という、ある意味大変重要なテーマなのだから、稚気に溢れたアイロニーも含めて受け容れられてしかるべきだ、という気合いが充ちみちていることに感心したのだ。帰り道、演出家・振付家のH氏(あれ、K氏だったっけ?)いわく、最初の10分でいいたいことは分かっちゃったと。その通りである。事実、僕が25字以内で纏めてあげているではないか。

それをクンステンフェスティバルに出品してしまうという荒技は、この集団だから出来るのか、アメリカ人だから出来るのか、クンステンだから出来るのか。答は分からない。クンステンの出し物の中でも評判が良いらしいよ、と聞いて出向き、客席も一杯だったのだが、さすがにブリュッセルの観客の中にもカーテンコールで全く拍手してない人たちが結構いて、そこは不幸中の幸いだった。



2016年6月14日火曜日

+51 アビアシオン・サンボルハ

28/05/2016 18:00 @Les Brigittines (Kunstenfestivaldesarts)

岡崎藝術座のこの作品、とても好きで、今回はSTスポット、日本橋のスタジオに続いて3度目。今回はブリュッセル、クンステンフェスティバルで。何度観てもやはり好きな芝居。
原色の床から大村わたるさんが起き上がる感じが、Dire StraitsのMoney for Nothingの登場人物がぺらっと立ち上がる感じに似ていて、だから、
この芝居を観る直前の僕の脳内には毎回Money for Nothingの無意味に大仰なイントロが渦巻いていて、そこから無音の舞台が始まる(なので、あの有名なギターリフはいつもお預けだ)。

舞台の上では東京から沖縄へ、そこからリマへと場所が動いていくのだけれど、この座組も横浜から九州、東京、東北、北海道、オーストラリア、ベルギーへと移動していて、
ああ、この座組はいったい合わせてどれくらい移動していることになるのだろうかと、ぼんやり考える。
どこに立っていようと大村わたるの身体はしなやかで自由に動き、小野正彦はその空間に鉈で殴り込みをかけ、児玉磨利のやや前のめり重心、腰の重い感じが、大村わたるがぺらーっとどこかに飛んでいくのをピンを一本打ち込んで押さえているようにも見える。

周囲の観客はもちろんベルギーの方が大多数だったけれども、東京での佐野磧との出会いや、ペルーとの距離感、あるいは左翼演劇と現代との距離感にはついて行けても、「沖縄」という場所にはピンときていないように思われた。「場所の移動」に関する芝居であるだけに、あの、東京と沖縄の距離感が共有できないのは痛い。

最後のシーン、大村わたると小野正彦が上手の客席脇を通って退場していく時に、その上半身が映画館でビッグスクリーンを観ているかのように僕の視界の右半分を大きく覆って、そのまま暗転して終わる、と、毎回、そういう風に記憶を曲げて覚えてしまうのだけれど、今回もまた、大村わたるがいなくなった後に、本当のラストシーンが出てきて、実は、驚いてしまった。そして、そのラストシーンでのフレームの嵌め方が、今回のブリュッセルでの公演では最も客席に迫ってきた気がする。単純に、これまで観たどの会場と比べても「生活に余裕のある紳士淑女の比率が多かったから」かも知れないが。

そして何ヶ月かするとやっぱり、僕の中でのこの芝居は、大村わたるが上手にはけていって大きく画面の右側から暗転して終わっているに違いない。そして、その先大村わたるがどこに行ったのかを、またぞろ確かめたくなってしまうのだろう。そして劇場の中に、あの、日本橋の倉庫のような事務室にぺらっと横たわる大村わたるを発見して、そこから再び旅に出るのだろう。芝居と一緒に旅を巡るよろこび。こういう気持ちになる芝居って他にない。

2016年5月25日水曜日

A View from Islington North

21/05/2016 14:30 @Arts Theatre

正面切って「現代政治を諷刺する」と宣言して、そのものズバリ政治諷刺芝居6本立て。当たりもあればハズレもあって玉石混淆。
始まって最初の週末、客席の埋まり具合が若干寂しいのもむべなるかな。

冒頭の”The Mother”は先ず諷刺どころかおセンチさが先に立ってアジ芝居じみ、ピンとこない。
3本目の”The Accidental Leader”と5本目の”How to Get Ahead in Politics”は、それぞれ「労働党のコービン下ろし」と「保守党の選対コメディ」を狙った正統派政治諷刺コントで、起承転結うまーくまとめてあったが、コントは所詮コントの枠を出るものではないし、テレビの諷刺もの(”Yes, Minister”や”The Thick of It”)の方がむしろより上手に作ってあり、かつハチャメチャで楽しめるんじゃないかとも思われる。

その点、2本目のCaryl Churchillによる”Tickets Are Now On Sale”と、4本目、David Hareの書き下ろし”Ayn Rand Takes a Stand”は、前掲の3本と比べて芝居として格段に面白く、しかも諷刺としてもバッチリ作用して、この二人、伊達に巨匠と呼ばれている訳ではないのだと思い知る。

Churchillの作品は5分足らずの掌編だが、他愛のない男女二人の日常の会話が、繰り返される中で微妙なズレを生じ、笑って良いのか悪いのか、そのズレがエスカレートしていく。それを、日常の背後に隠されている政治性を一枚一枚服を引きはがすように暴いていくと見るのか、事態がエスカレートしているのにも拘わらず、日常の報道の中でそれへの感覚が麻痺していく様を描いていると見るのか、それとも他にも色々と見立ては成立しそうにも思えるけれども、いずれにせよ、シンプルな仕掛けによって観客の想像/妄想のスイッチをカチッと入れて、毒と諷刺がバッチリ撒き散らされる、切れ味抜群の芝居だった。

一方、David Hareによる”Ayn Rand Takes a Stand”は堂々たる風格、現代諷刺劇というよりはむしろギリシャ古典劇にも似て、重厚な会話で綴っていく。ちなみに、Ayn Randという女性は、筆者も芝居を観るまで知らなかったのだが、20世紀米国を生きたロシア系の思想家/小説家、「客観主義」を唱え、「資本主義急進派」を自認した人物。このアインが対峙するのは、スーツをビシッとキメたインテリ男、ギデオンと、ブロンドのボブでキメた強面の女性、テレーザ。すなわち、現在の保守党政権の大蔵大臣ジョージ・オズボーン(彼は13歳の時に自分のファーストネームをギデオンからジョージに変えている)と、内務大臣テレーザ・メイである。ジョージ・オズボーンはUKのEU残留派筆頭、一方のメイはEU離脱は支持しないものの、移民・難民の受け入れに極めて否定的なスタンスを取っていることで知られている。そこで、自らもロシアからの移民であったアインが、資本と同様人間の移動も自由にすべきとの持論を展開、オズボーンを焚きつけながら、メイの説得を試みるという筋立て。いや、この3人のやりとりが、どうにも聞き応えがあって、面白かったのだ。オズボーンとメイのキャラ設定が、日頃メディアで触れている彼らのキャラと一致しているような(だから、舞台上で見たときに、あ、こりゃオズボーンだ、テレーザ・メイだって分かるぐらいには一致させている)、でも、微妙にずらしているような(そりゃそうだろう)、そのあたりの感覚が、諷刺の王道を感じさせる。実名を出しながら、実物でない感覚。

なんか、こういうの、他になかったっけ?ギリシャ劇だっけ?
あ、分かりました。中江兆民の、三酔人経綸問答ですね。

そんなものを舞台に載っけて面白いのか?話が難しすぎないか?って思われる向きもあろうが、いや、これは、政治諷刺劇ですから。そう断りましたよね?
って言われるとぐうの音も出なかろう。
その上、舞台上の人物が三人三様じゅうぶんにキャラ立ちして、全く見飽きないのだ。この一本だけでも、十分に観に行く価値がある。

この、休憩一度を挟んで90分の舞台、6本のオムニバス、音楽は、過去30年間政治にコミットする歌を作り続けてきたビリー・ブラッグが参加していると聞いていたのだが、劇中音楽が一切無く、あれれ、と思っていたら、最後に出ました。ブラッグ氏による歌を登場キャスト全員で、アカペラで。玉石混淆の5本の芝居を観た後はこういうオチで締めくくるのが吉。楽しんだ。

Boy

14/05/2016 19:30 @Almeida

これは、大変な芝居だ、と思う。表は静かに、ロードムービー風のタッチで見せておきながら、実は相当深く抉ってくる芝居である。

劇場に入ると、幅三尺のベルトコンベアが蛇行しながらゆっくりと周回している。客席はそれを取り囲むように、あるいは見下ろすように組まれている。コンベアの上には10人余りの役者が座って、回転寿司のように場内を巡っている。機械の作動音なのか重低音の音楽なのか判別し難い音がずうっと流れている。よく見ると、役者達は腰かけているけど、お尻の下には椅子が無い。空気椅子である。空気椅子を客入れ中10分も15分も続けていられるのは、きっと、大道芸人が良くやっている「メカ空気椅子」の仕掛けがズボンの中を通っているのだろうと察せられる。

このコンベアに乗っている一人の少年、おそらく16−17歳、が、この芝居の主役である。主役だけれども、彼にはほぼ何も劇的なことは起きないし、彼は周囲に対して何ら劇的なことを引き起こさない。色々な物事が、開演後70分の間、舞台上でコンベアに乗って起きるのだが、それらは全て、主役の少年の視野の中で、あるいは、視野の外れに近いところで、起きているにも拘わらず、彼の存在と関係なく起きているようにも見える。でもやはり、この少年はこの芝居の主人公である。この芝居は、少年の自宅近辺、おそらくロンドン市内の、イーストエンド周辺の町のバス通りから、ウェストエンドへ、そして再び彼の住む近所の町へと移動しながら、少年の足取りと視線に従って進行していく。

周り続けるコンベアの上に、バス停や、玄関のドアや、役所の受付や、PC机や、スーパーマーケットのセルフチェックアウトの機械が置かれて、色々な場所が立ち上がり、そこに20人の役者が一人で何役もこなしながら様々な出来事が立ち上がる。そうやって生まれたシーンは、コンベアの流れと共にぶつ切りとなって消えていく。芝居の時間は淡々と流れ、淡々と終わる。

簡単に括れば、16−17になって、学校を卒業して、進学もせず、職にも就かず、友達も彼女もカネも無い、口べたで、さりとて、頭の中に渦巻くものを一定の考えに纏めていく気力もきっかけもないまま、居場所のなさを抱えて街をぶらつく少年の話。行き場の無い、外界との交流も無い日常を淡々と描ききることで、現代社会が見落としているものを浮き彫りにする作品だ、と言っておけばよい。

でも、そんな芝居では僕に突き刺さってくる訳がない。筆者をドーーンとさせてしまったのは、「寂しい少年」とか「自分もそうだった/自分にもそういう部分がある」っていう感情ではない。

劇場にいる観客は、少年の視線を辿りながらも、少年の側にはいない。どちらかと言えば、少年の周りにいる「大勢の人々」の側にいる。わたしたちは、バスを待つ人々であり、友人であり、役所の職員であり、医師であり、スーパーマーケットの店員であり、客であり、身なりの良いビジネスマンであり、酔っ払いであり、路上生活者である。そうしたわたしたちが、ある一人の、プラプラしている少年に突き当たる時間は、一日の中でせいぜい何十秒か、長くて何分かがいいところだろう。舞台を通り過ぎていく人々は、少年から観れば通り過ぎているのではあるけれども、実は、それはわたしたちであって、舞台上の少年の姿は、それは、通行人からちらっと見える、見たところ何もしていないしこちらにとって何の実りも無いどこかの、とある少年の姿だ。

わたしたちは、そういった、街で見かける人に対して、ぼんやりと、「あぁ、この人にも、彼/彼女なりの、それぞれの物語や人生や起伏や、そういったものがあるんだろう。いや、あるはずだ」と勝手に思い込んで生きているのだけれど、この芝居を観て、
「あぁ、世の中には、この少年のように、語るべき物語もなく、起伏もなく、行き場のない、それを外に示すことも出来ない、そういう人がいるんだなあ」
って思う人もいるだろう。一方で、
「いやいや、それは断片断片だけ見ていても物語は読みとれないさ。本当は、この少年にも、語るべきものはあるんだよ。それを読み取ろうとしない周囲の無関心を抉り出したのがこの作品だよ」
っていう人もいるだろう。そしてまた、
「そんなのはあんたの勝手な思い込みだ。アルメイダまで芝居を観に来る余裕があるあんた達だけが抱くことの出来る思い込みだ。こいつにはそんな、語るべき、感動させるべき、考えを引き起こさせるべき、そんな物語はそもそも無いんだ!」
っていう人もいるかもしれない、そう思ったときに、筆者はドーーンとやられてしまったのだ。筆者には、答がないんだ。何故なら、そういう少年に何分か以上きちんと目を向けて向き合うことがないからなんだ。

この芝居が映しているのは、少年の姿でも、少年の目から見た街でもなく、少年を見る「大勢の人々」である。主演は少年だけれど、彼はわたしたちの視線や感情を移す鏡である。それに気がついたとき、筆者は、落ち着いて安全な客席に身を置いてこの芝居を見つづけている自分に対して、ゾワゾワとする感覚を抱いた。そしてそれは、芝居を観てから1週間経っても、折に触れて戻ってくる感覚である。当面、この不安な感覚から逃れられない気がしている。

2016年5月24日火曜日

Down & Out in Paris and London

14/05/2016 14:30 @New Diorama Theatre

ジョージ・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記」からタイトルを借りたこの作品。ジョージ・オーウェルのパリでの体験と、現代UKのジャーナリストPolly Toynbeeによるルポルタージュ”Hard Work”を組み合わせて、90分の芝居に仕立てている。
オーウェルがパリで経験した「底辺」。手持ちのカネは底をつき、何日も食事を抜く羽目に陥り、仕事が見つかったと思えば四六時中働きづめ、余ったカネは酒に消える日々。
トインビーがロンドンで経験した「底辺」。最低賃金ではその日その日の食費がせいぜい。クレジットレコードの無い身で分割払いが通用する家具屋に出かけると、トータルの値段が市価の何倍にも跳ね上がり、結局カネは貯まらず、その日暮らしの繰り返しが延々と続いていく。
これは、作・演出のDavid ByrneがHullやLondonで経験した貧困生活とも呼応しているのだそうだ。

こうした、いわゆる「社会の不正義告発芝居」は、説教臭くなったり、アジ演説みたいになっちゃったり、観るに堪えなくなってしまいがちだし、
この芝居でも、冒頭、役者が「こんにちは、わたしがジョージ・オーウェルです」って始めちゃうところとか、パリでの生活を語るシーンで大家の婆がテレビでもやらないような冗談みたいなフランス訛りの英語で話して見せたりするところとか、「酷い芝居になっちまうんじゃないだろうか」とドキドキさせてくれてくれたが、いやいやどうして、中盤からペースを掴んで、最後まで面白く観ることが出来た。

何で観続けられたかを思い返してみると、やはりそれは「個々のシーンの面白さ」「局面局面での丁寧な演技」に尽きる。
トインビーの、職場での何気ない会話。通り過ぎる同僚達と形作るリズム。オーウェルがレストランで働き始めてからのリズム感。
一つ一つの所作が丁寧であればあるほど、トータルでのリズム感にポジティブに働き、芝居がドライブしていく。
それが観ていて気持ちよい。
それは、仕事のリズムとも通じて、きっと、リアルにも、リズムの付いた仕事はさばきやすい。

そして、それは、危険だ。
リズムに乗って毎日を過ごして、週末になって一週間のリズムが出来て、一ヶ月のリズムが出来て、一年のリズムが出来て、
そうしてリズムに乗っている間は色々なことを忘れて、気がつくと色々なことを全部おいてけぼりにしたまま歳をとっている。
このリズムの気持ちよさに載っかると、銀河鉄道999の鉄郎になってしまう(歳がバレるが)。

そんなことを思う芝居だった。

2016年5月15日日曜日

The Iphigenia Quartet

07/05/2016 @The Gate

エウリピデスによる「アウリスのイビゲネイア」を4つの異なる視点から描く、40分の短編芝居の4本立て。マチネは2本80分、ソワレも2本80分。1本につき4人の役者が出演。けだし、クォーテットである。「イピゲネイア」と「クリュタイムネストラ」を演じる4人組と「コロス」「アガメムノン」を演じる4人組とで、役者は合計8人。それぞれにキャラがきちんと立って、プロダクションそのものは地味な趣向であるけれども、見応えのある160分間だった。
ギリシャ軍がトロイ戦争へと出陣する際、父アガメムノンにより生贄として殺される王女イピゲネイア。その母クリュタイムネストラ(後年、トロイを滅ぼして帰還した夫アガメムノンを殺害して娘の仇を討つ)。アガメムノンの弟、寝取られ男メネラウス。イビゲネイアの偽りの婚約相手に仕立て上げられ、一旦はイピゲネイアを連れて逃げようとするアキレス。その一部始終を外側から見ているコロス達。さて、このドラマ、誰の視点でどう料理するか。

4つの短編に筆者なりにタイトルをつけるとすると、「イピゲネイア、生贄少女と呼ばれて」、「コロス四人組のトロイ戦争観光」「サラリーマン社長アガメムノン」と、「クリュタイムネストラの不在」。

特に4つの芝居の間で齟齬や繰り返しを避ける工夫が為されている風でもなくて、芝居のスタイルもそれぞれ全く異なるから、この話を良—く知っている向きにはかったるい向きもあるのかも知れないが、筆者にとっては新鮮かつ飽きが来ない願ってもない構成。「生贄少女」で物語の骨格が示され、「コロス観光」で古代のお話が現代の観客(家族の外)の視点から再構成され、「社長アガメムノン」でサラリーマンの悲哀が古代ギリシャに投影され、「不在」では、ドラマの中心に出てこなかった母親は、ドラマの外で何をしていたのかに突っ込んでいく。

「生贄少女と呼ばれて」は、細身の少女イピゲネイアの「やったろうじゃないの」と、ストラットフォード辺りからやって来たマッチョアキレスの「え?オレ、彼女連れて十分逃げれるし。何?どうすんの?」的な掛け合いが見事。

「社長アガメムノン」では、アガメムノンが一国の王を名乗っているのにも拘わらず、実は王と兵隊の権力関係が転倒していることが示され、アガメムノンの意思決定は彼個人ではなく、家庭人としての彼ではなく、組織のコマ(一機関)としてのものに過ぎなかったことがあぶり出される。あれ?じゃあ、これ、家族関係の悲劇じゃないよね?自分の意思で家族の日程も決められない哀しきサラリーマン社長の話だよね、って思ってしまう。ブランドものバッグ抱えたクリュタイムネストラの出オチが衝撃的。

「不在」は、現代口語演劇でよく使う手である「戯曲の外で進行する物語のほのめかし」(この場合は、イピゲネイアが生贄として屠られる間、神殿の外で待っていたとされるクリュタイムネストラ)を、そのまま外に放置するのではなくて、メタな芝居を使って一体全体そこで何が起きていたのかに果敢に切り込み、やっぱり何も出てきようがないのだけれど(だって元の戯曲に書かれていないのだから)、少なくとも観客の意識を引っ張り回し、引っかき回し、終わったときにはこの古典悲劇を観る視点がちょっくら変わっているという趣向。やはりUKの芝居では、「ほのめかす」なんてえ柔な手法じゃ観客に刺さらないのか、相当直截なやり方だけれども、日本流の婉曲に慣れた筆者にはとても新鮮だった。

「コロス観光」では、コロスの視点(物語の核となる家族から距離を置いて事の顛末を眺める視点)と、物語全体を振り返ることが出来る現代の観客の視点(つまりわたしたちの視点)を、誰に向けられるともない台詞を繰り出し、交差・混濁させて、イピゲネイアに関する一連の事件が周囲に巻き起こす感情すらも混濁させていく。そのピークが、生贄の姿が公衆に晒される瞬間:
「え?」「鹿?」「え、鹿なの?」「ここまで引っ張って、鹿?」「そう落としますか。鹿ですか?」

まるでわたしたちが舞台をニコニコ動画で観ているかのように、舞台と観客席を横切っていく台詞の束が、イピゲネイアの悲劇の「他人事」としての性質を鮮やかに浮かび上がらせて秀逸。
もちろん、この秀逸なパートを書いたのは、観客の意識に切り込むキレッキレの戯曲を次々に書いている、筆者が勝手に敬愛するクリス・ソープ氏である。

2016年5月13日金曜日

The Truth

06/05/2016 20:00 @Menier Chocolate Factory

昨年来、The FatherとThe Mother、2本の認知症を描いた芝居が大きく評判をとったフランスの劇作家、Florian Zellerによる最新戯曲は、ウソがウソ呼ぶフランス艶笑噺。いやいや、笑った笑った。最後の最後まで、いや、芝居がはねた後になっても、誰が本当の大ウソつきなのか、真相は分からないのだけれど、それはそれでとても素敵なことで。

二組の夫婦、夫同士は20年来の親友。一方の夫ともう一方の妻が浮気中、でも、どうやらお互いのパートナーが薄々勘づいているらしいと思い当たり始めたところから話が展開して、あとはもう、細かいところには思いっきり目をつぶって、その場その場の登場人物の追い込まれ方と丁々発止のやりとりを、理屈抜きで楽しんだ。

でもね、ウソをついているのか、本気なのか、ウソをついている振りをして誤魔化そうとしているのか、相手に鎌をかけているだけなのか、その種明かしの演技を絶対しないように押さえ込みながら、答が分からないようにきちんと演技が出来るっていうのは相当の技量がある証左で、そこにこの芝居の見応えがある。4人の達者な役者の中にあっても、その巧拙がさになってでていたのは、幾分残酷な気もした。

芝居のにおいとしては、城山羊の会の芝居から死の香りを取り去った感じ。ただし、商業演劇に近いところでかるーくエンターテイニングに演じられてもちっとも面白くないだろう。やはり、城山羊の会とか、そういう、力のある役者がきちんと虚実取り混ぜて、チープな観客サービスを排除して演じたときにぐぐっと立ち上がる芝居なんじゃないかと思っている。ん?そう思うと、山内ケンジさんの芝居は、そんじょそこらのUKの芝居と比べても全然面白いって事なんだよ。そうなんだ。納得。

筆者が勝手にお薦めする日本語版のキャスティングは、石橋けい、岡部たかし、岩谷健司、永井若葉の4人で盤石。あるいは裏番組として、佐野周二、佐分利信、岸惠子、淡島千景。

Elegy

04/05/2016 19:30 @Donmar Warehouse

2人〜3人の少ない人数で、大袈裟な装置もなく、大仰なテーマを掲げるでもなく、丁寧に会話で紡いで1時間強見せる芝居、身の回り5メートルのことしか話していないのに、それ故に却って深みをもって迫ってくる芝居、そういう芝居に、UK演劇の強みというか、凄みを感じることがままある。

このElegyという芝居も、まさにそういう芝居の一つ。近未来を舞台とした半SF仕立て、という触れ込みではあったけれども、そして、そういう芝居ではあるのだけれども、老いを迎えつつある女性3人の会話だけで、テーマの押し売りを巧みに避けながら、飽くまでも淡々と時間を流していく。現代口語演劇にも通じる時間の流し方をしながら、しかも骨太なプロットは見失わない。そして、こういう芝居を観ると、改めて、UKの役者は本当にちからがあるんだなあ、と思い知る。

まあ、その骨太なテーマというのが「愛する人の生命を助けるためには、その愛する人の記憶から、自分に関する記憶を全て消去してしまう必要がある。愛する人の生命を救って愛を失うか、愛と共に愛する人を失うのか、貴女はどちらを選びますか?」っていう、日本のテレビドラマに出てきそうなテーマなのだけれど、でも、その設定に無理がなくて、荒唐無稽な感じがしない。舞台上で登場人物に突きつけられる選択肢の幅にも、突飛な「芝居がかった」ものは出てこない。舞台上の人物の思考・判断が、観客一人一人の経験から乖離していなくて、リアルに、しかもギリギリのものと感じられて、他人事でなくなる。

加えて、(これは、実は、テクストを買って帰ってから読んでみて初めて分かったことなのだけれど)、舞台上の時間の進行と物語の時間とは必ずしも順序が一致していないのは分かっていたのだけれど、「そういえば」とハッとさせられる仕掛けがあって、しかも、役者が3人ともとても達者なものだから、そうした時間の流し方の仕掛けを苦にせずにスムーズに演じて、現代口語演劇風の淡々とした時間の流れを邪魔しない。そうだ、青年団の「暗愚小傳」と似た時間の流れの心地よさと、リアルのようで実は突き詰めたところで虚実の狭間を巧みに縫っていく、いや、むしろ、正気と狂気の間を縫って生きおおせなければならない、そういう悲しみを漂わせるものが、この芝居にはあった。けだし、Elegy。良い芝居だった。

2016年5月12日木曜日

Another World

02/05/2016 19:45 @National Theatre, Temporary Theatre

ISに子供を奪われた3人の母親たちを軸に、Tower & Hamletのティーンエイジャー、中東問題の専門家、ボランティア、アメリカの軍人等々、様々な人々へのインタビューを元に編み上げた舞台作品。この、「インタビュー等を元にして、そこで語られた言葉を変えずに、構成や順序、話者の選択等を用いて舞台作品に仕上げた芝居形式」をVerbatimと呼んでいて、日本にいた頃にはさほど聞き慣れた言葉ではなかったけれど、UKでは相当の数のVerbatimが上演されている。実は、昨年のエディンバラで最も良かった舞台、The 56も、ヨークシャー、ブラッドフォードで起きたフットボールスタジアムの火事を元にしたVerbatimだった。
UKで芝居を上演しようとすると、どうしても「物語」を「伝えよう」とする意識が高くなって、観客側も「どういう物語をぶつけてきてくれるだろうか」と構えている面も大きいので、ISの問題のように、あまり、物語でもっていきたくないイシューを取り扱いたいときには、Verbatimは非常に有効な手段なのかも知れない。いや、非常に有効である。

このAnother Worldも、非常に巧みに編集されていたと思う。全体の物語を見失わないように、でも、あまりにも母親たちに移入してしまって、その視点での物語でしかISを捉えられなくなってしまうことには、創り手側に、相当の抵抗感があったのだろうということがくみ取れる。一方で、事実だけをお説教して、「ISに関する知識」を広めたり植え付けたりする「教養プログラム」に徹するのであれば、舞台に乗せる必要はなく、本を読んだり、テレビのドキュメンタリー番組を見たりすれば良いのだ。そのバランスは、(若干教養プログラムに偏っている感じもしたけれど)まずまずだったと思う。

実は、筆者が「もっとも自分に近い」と感じた登場人物は、大学でradicalisationについて研究しているムスリムの40代の研究者で、彼はこう語る。
「911の時に、radicalな連中と寝泊まりしていたことがあって、結局そこは出ていったのだが、その頃に今回のシリアのようなことがあったなら、自分もどうなっていたか分からない」
それは、僕の視点ではこう変換される。
「オウム華やかなりし頃(1980年代後半)に、インターネットがもっと普及していたら、そして、自分が、未来や自分のアイデンティティについて確信や希望を持てない状況におかれていたなら、自分もどうなっていたか分からない」。
そういう感覚を共有できる人が、この日、この場所にどれほどいたかは分からないけれども(殆どいなかったんだろうな、とは思うけれども)、少なくとも、色んな人が、色んな受け取り方をしてるんだろうということは想像できて、それが出来ること、それを、Verbatimという形式を持って実現しているところに、この芝居の強さがあると思う。教養プログラムだと思ってくれても良いし、母達のお涙ちょうだいな物語に取ってくれても良い。そこを受け手側に任せてしまっても十分に通用するプロダクションは、強い。

Tower & Hamletに住むティーンエイジャー達の演技が秀逸。通り一遍の希望や絶望はなくて、ただ、ロンドンのムスリムとして日々をどう過ごすのか、どう感じているのかを、誇張なく、演技も抑えて、結果として強力に説得力を持って迫ってきた。
(あ、この芝居観たのは、市長選の前です。念のため)

Miles Ahead

01/05/2016 16:15 @Leicester Square Empire

マイルズ・デイヴィスが出てくる映画と聞いては、何を差し置いても見に行かざるを得まい。そんなん観ねえよバーカっていう顔した師匠を置いて、一人、ロンドン映画のメッカ、レスタースクエアのエンパイアへと向かった。三連休の中日の日曜日のレスタースクエア、人の溢れる中をかき分けてやって来ましたLeicester Square Empire Screen 6、定員21名。21人入ると一杯の映画館。スクリーンの大きさは、深田道場で走り穂に張った白布とほぼ同サイズ。つまり、レスター・スクエアとは名ばかり、ビッグスクリーンと呼ぶには多少しょぼかった、ということである。

しかし、大いに愉しんだ。Don Cheadle扮するマイルズと、Ewan McGregor扮するヤクザなジャーナリストとが繰り広げる冒険活劇。昔の音源に合わせて演技するライブやレコーディングのシーンも楽しいし、マイルズとマクレガーのコンビが盗まれた未公開リハーサルテープを巡って繰り広げるカーチェイス、ヤクザとの駆け引き、銃撃戦等々も楽しい。事件に巻き込まれる若手トランペッター”Junior”もいい味を出しまくって、これぞマイルズ主演のアクション娯楽映画、存分に楽しむぞ、と。

Don Cheadleによるマイルズの物まねも気合いが入ってて、好感度大。ジョージ・バトラーやギル・エバンズ、マイルズの妻フランシス、50年代セクステットから60年代クインテットまで、物真似さんをざっと揃えてこれも楽しい。ラスト近く、ブランクで唇がなまったマイルズとJuniorのやりとりがちょっとホロッとさせて、しかも、その後のマイルズの復活した姿を生で聴いている世代としては「ここで終わんないんだよ!」って心の中で叫んじゃったりして、大いに満喫いたしました。


2016年5月11日水曜日

H.M.S. Pinafore

30/04/2016 19:30 @Hackney Empire

Hackney Empireを初めて訪れた。ギルバート&サリバンのオペラを全員男性キャストで。伴奏はフルオケじゃなくて、電子ピアノ一台。

軍艦ピナフォア(前掛け)っていう名前も、まぁ、日本語でいうなら軍艦おむつ、って感じのふざけたネーミングなのだけれど、
その船を舞台に、艦長と、その娘と水夫の身分を超えた恋と、その娘の許嫁である海軍大臣(文官のひょろひょろ坊ちゃん)、ずっと昔の赤ん坊取り違え事件、というプロットを並べて、
身分制度とか軍隊の上下関係とかそういう諷刺のなんやかやをぶち込んでおバカなラブコメに仕立てた軽いタッチのオペラである。

このプロダクションでは、女性のパートも男性が歌う。キャスト16人ぐらいと限られているので、男性パートを歌った直後に、みんなで声を切り替えて女性パートを歌ったりもする。
ヒロインのソプラノは、常に4分の1音ぐらい低い感じで、「がんばってるなー」感があるが、それもご愛敬である。
エンターテイメントとしては相当面白かった。

もちろん、現代のコンテクストに当てはめるとLGBTの話は避けて通れないのだけれど、そこに正面から当たりに行っているのか、所詮小咄と割り切っているのかは、正直筆者には分かりかねた。
だって、出演者はみんな、マッチョな男たちが水兵演じて隆々たる筋肉を惜しげもなくさらして、さっき水兵だと思っていた男がひらひらのドレス着てソプラノで歌っちゃったりするのである。
同性愛は、仄めかされているのではなくて、ビジュアルとしては目の前にある。するとポイントは、ギルバートとサリバンの時代に、そういう変換が為されていたか、ってことだけどなー、いやー、それは考えすぎかなー、等と考えていたら、

休憩に入って、隣にいた我が師が「このプロダクションはジェンダーフリーが云々」と言い出して、「うーん、低予算受け狙いオール男性キャストプロダクションだよねー、それにしては技もあるし身体も動くし、エンターテイニングで楽しいよねー」位の結論で収めようと日和っていた筆者は大変面食らったわけであるが、
第二幕、ラストに入って、演出の狙いが「あー、そういうことか」と理解できるシーンが入って、筆者は納得。ところがふと隣を見ると、我が師はたいそう不満げな顔をしており、聞けば「そういうところで収めてしまったことで限界が見えた」のだそうだ。そうかもしれない。実はもっと考えてないのかも知れない。そこは謎だ。

H.M.S. Pinaforaは、他のギルバート&サリバンの主要オペラと同様、ヴィクトリア時代の社会を諷刺しながら、上下左右を転倒させて(Topsy Turvy)、かるーいお色気を混ぜながら、ここぞとばかりに美しいメロディを投入して大いに泣かせにかかる、という構造を取っているけれども、正直、音楽の美しさにおいては他の作品、たとえばMikadoと比べると一段落ちる印象。
それじゃあMikadoをオール男性キャストで観たいかというと、うーん、それはどうかな、と思いつつ、花組芝居がMikado上演してくれるって話になったら是非とも馳せ参じたい、とも思う。

The Complete Walk

23/04/2016 @テムズ川右岸

シェークスピア没後400年記念企画、Shakespeare’s Globeが送るシェークスピア全戯曲37カ所走破スタンプラリー!

テムズ川右岸、サウスバンク一帯をお散歩しながら、37カ所に設けられたビッグスクリーンで、処女戯曲「ヴェローナの2人の紳士」から最後の作品「テンペスト」まで、順を追って、それぞれの戯曲の過去のGlobeでの上演の舞台映像と、今回新たに撮影したショートフィルム(イメージフィルムだったりクライマックスだったり)を観ることが出来る。37のスクリーンを制覇すれば、これであなたもシェークスピア通!という趣向である。

土曜日の朝に思い立って「よし、行こう!37本制覇を目指せ!」と勇んで出かけたまでは良かったが、
1. 当日は4月とはとても思えない寒さ。冷たい霧雨混じりの中、川沿いを巡ってじっとスクリーンを見つめ続けるのには限界がある。
2. 時間が足りない。戯曲一つに10分強。37本で370分。つまり6時間。移動時間を合わせると、とても一日で回りきることは不可能だ(まあ、だからこそ土曜・日曜の2日間にわたっての催しにしているわけだけれど)
3. スクリーンの故障が頻発。ケーブルがおかしくなったり、オバマ大統領来訪のあおりで一時ストップしていたり。極めてUKらしい緩さが完全完歩を阻む。

最初の6,7本は真面目に見ていたのだけれど、その後作戦変更、よほど面白そうなもの以外は「存在だけ確認」して流すことに。夕方までかかってとりあえずは完歩。周囲のお年寄りたちが、寒さに負けずじっとスクリーンに見入り、ケーブル修理中となれば我慢強く修復を待つ、そうやって37本制覇に向けて着実に穂を重ねる姿には、感服する他ない。

が、流しただけでも相当の教育効果はあるみたいで、おかげさまで、完歩後には、シェークスピアの戯曲全37本、そらでタイトルを言えるようになった!素晴らしい成果。ジョン王がなんと可哀想な王様だとか、ヘンリー8世がなんとおべっかな芝居になっているかとか、じゃじゃ馬ならしは本当にひでえ話だなぁ、とか。そういう余計な知識はバッチリ身についた。

この企画、楽しいよ。そして、シェークスピアの世界がどれだけ広いか、っていうのがスタンプラリー形式で観られたのも収穫。大いに愉しんだ。

2016年5月10日火曜日

Cleansed

23/04/2016 19:30 @National Theatre, Lyttleton

1998年に亡くなったサラ・ケインの戯曲をNTで。プレビュー時には「途中退場続出」とか「上演中に失神する観客も」とか、拷問やレイプのシーンの過激な描写が取り上げられて、うーん、それじゃあ三流興行主の思うつぼだろう、ただし本作はNTでの上演だし、サラ・ケインの自意識過剰も多少はトリムされて観るに堪えるものになって、加えて良しにつか悪しきにつけスパイスの利いた舞台になっているんじゃないかと期待して観に行ったのだが、結果としては取り立てて騒ぐほどのインパクトはない。

ぶっちゃけて言えば、Institutionalな暴力を並べてみました、というだけのできの悪い戯曲を、よくぞここまで観るに堪えるプロダクションに仕上げたものだと思った一方で、じゃあそもそもそんな戯曲を今、ここで選んで上演する意味って何でしたっけ、とも思ってしまった。いや、しかしである。筆者はもとの戯曲を読んだことがないので、本当に戯曲のできが悪かったのかは、確かめるべくもない(読む気もしないし)。

上演中は、「豪快に失敗しているなあ」と思いながら見た。レストランにたとえれば、エビフライメンチハワイアンハンバーグ載せカツカレー、ってのが出てきて、これでもかってくらい色々なモノが載っているのだけれど、どれをとっても食材が壮絶にスーパーで買ってレンジでチンしたお惣菜の味で、思わず吹き出しちゃったよ、っていう感じだろうか。

ケインが舞台に載せたいと思っていただろうと思われるもの — 暴力、権力、その濫用 — その他諸々、筆者としては、Institutionaliseされた暴力、として括って理解したけれども、その構成・並びが、およそ、芝居として人前に出せるモノとして形や順番をなしていた有様を想像することはできず、それを一つの観るに堪える芝居に編み上げるのには大量の工夫と追加マテリアルが必要だったのだろう(舞台を観ていて、そういう苦労が表に見えてくるような、学生の頃の筆者の渋ーーい記憶が蘇ってくるような、そういう舞台に仕上がっていたのだ)。
それは、筆者には、ケインの甘えとしか思えない。で、その要素を、1時間40分のパッケージとして成立するまでに仕立てた腕前には感服するのだが、やはり、NTに芝居を観に行くからには、それをクリアした上でさらに何が出てくるかを、筆者は期待している。それなりに仕上がったことをもって、この芝居を面白いと言うわけにはいかない。

あと、議論になったのは、「前を向いたまま後ずさってはける」ことの面白さ。筆者としては「生きてるものか」の枡野さんを観てしまったこともあり、それ以上に面白く後ずさってはけていただかないとどうにも不満が残る。ただし、再現不可能なものとしての(訓練を受けていない役者による)演技と、はじめてのようなことを何回も初めてのように再現することができる(訓練された役者による)演技の比較はとても難しくて、従って、後ずさりでの出はけについて、この演出に注文をつけることはやはりできないなあ、とも思う。でも、それだったら、後ずさらなくてもいいじゃん、って思ったり。

色々言ったが、一旦の結論としては、筆者にとってケインの戯曲は何度読んでもつまらないのだろうし、筆者の思う戯曲とは別物だと割り切った方が良さそうだ。でも、5月のフェードルは観に行っちゃうんだけど(ただ、ケインの戯曲だけを下敷きにしているわけではないと聞いているけれど)。

17/04/2016 14:00 @BFI Southbank

シェークスピア没後400年と言うことで、British Film Instituteでも、シェークスピア映画特集が組まれている。今回は黒澤明監督、リア王を下敷きにした「乱」。こういうのがビッグスクリーンで観られる機会を逃してはいけない、ということで、出かけてきた。

やはり、ビッグスクリーンは良い。大画面の迫力は勿論、スクリーンの端っこに映り込んでる小さなものまでくっきり見えて、大いに堪能。
仲代達矢の目がでかい!そのでかい目を存分に駆使して「戦国時代にリア王を持ち込む」なんていう無茶ぶりを受けて立った役者魂!
そして、戦闘シーンが痛い。犬死にしていく雑兵を執拗に繰り返し映す。痛い。
寺尾聰の死亡フラグ、根津甚八のだめっぷり、隆大介の真っ直ぐぶり、原田美枝子の格好良さ、どれをとっても、役者やスタッフのキャパシティが真っ直ぐすくすくと伸びて画面上に広がって、大作に仕上がっている。スケールの大きい巨匠の仕事とはこういうことか。

2016年5月9日月曜日

Right Now

15/04/2016 19:30 @Bush Theatre

ケベックの作家Catherine-Anne Toupinによる戯曲をUKプロダクションで。アパートに引っ越してきたカップルを図々しく訪ねてくるちょっと変わった隣人夫婦とその息子、っていう、ありがちな設定ではあるものの、大変に評判の良い芝居で連日売り切れ、当日券が一枚だけ手に入るとなればこれはまさに天啓、観に行かねばなるまいと勇躍出かけたのだが、うーん、人気が出るのは良—く分かるけれど、そこまでかな、というのが正直な感想。

1時間30分の舞台をどう進行して、どう落とそうかというところには作家の着意があって、それはそれで良いのだけれど、演出・演技がどうも、「進行をスムーズに進めること」に奉仕している嫌いがある。現代口語演劇を経験してきた筆者は、「変な隣人がいかにも『わたしたちは変ですよー』という顔・表情・台詞回しで登場する芝居」をどうしても受け付けない。

ラスト「実は白昼夢オチでした。ですから、その中での人間の振るまいが若干変でも、誇張されていても、それはそういう整理ですから呑み込んでください」という言い訳じみた終わり方をしようとも、観客はラストからではなくて冒頭から芝居を観る訳なので、開始5分でドン引いてしまう演出はやはり避けて欲しい。

そう思う観客がいる一方で、ウェルメイドな芝居としては良く出来ていたのはそれは確か。筆者の隣にはひっきりなしに貧乏揺すりをしながら、薄っぺらいギャグで大笑いし続ける男性観客がいたりして、いや、それは、芝居はエンターテイメントなので、それを全否定するわけにも行かず、大変苦しい1時間半の戦いだった。

X

09/04/2016 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

前作Pomonaが好評だったAlistair McDowall の新作SF。今回も時間のシークエンスを崩してバラして、時空をドンドン針飛びさせて、付いて来れない方はそれでも良い、みたいな、まんま80年代日本の小劇場演劇、っていう仕立ては前回通り。但しもちろん、UKには野田さんはいないので、フィジカルな舞台に流れるんじゃなくて、「台詞劇」「物語劇」チックなUK芝居の伝統の延長にあることもまた、間違いないのだけれど。

前作Pomonaは、マンチェスターの中心部の地下深くに、巨大な赤ん坊工場が隠されている、という設定だった。

今回の芝居、Xの登場人物は、地球との連絡が途絶えた冥王星の基地に取り残されたイギリス人隊員たち(何故そこにいるのが全員イギリス人なのかはきっちり説明台詞が用意されていて)。75時間の昼と75時間の夜を繰り返す冥王星の日々、連絡の途絶えた地球は滅亡してしまったのか、火星はどうなのか、果たして助けは来るのか、来ないのか。

うーん、なんだかありがちだなー、しかも、そういうシチュエーションだけ取り出して芝居を組み立てようっていったって、そこで止まっちゃうんじゃ、畑澤さんのロボむつには問題意識と想像力の広がりにおいてとてもかなわないよなぁ、とは思うけれど、まぁ、30にもならない若手の作家なので、そこら辺りはお目こぼしして楽しもう。

物語の展開としては、萩尾望都とソラリスを足して3倍に薄めてって感じだろうか。とにかく、出だしのシーンが3流映画でがっかりするのだが、途中、「おお!これは良いシーンだな」と思わせるところもあって、「このシーンで始めててくれれば、もうっと面白く観れたはずなのに」と、あらぬ注文も出したくなる。そうしたアップダウンに一喜一憂しているうちに二幕2時間超、飽きずに観終わっていた。

隔絶された閉じられた場所を舞台にすると、そんなに行動のバリエーションが期待できるわけでもないので、あとは台詞・演出、そして役者の力量次第。必ずしも全てが上手くかみ合っていたとは思わないけれど、そしてむしろアラも目立つ作品だったけれど、2時間半、大いに堪能した。

この間トラファルガー・スクエアで観た「4分12秒」での突っ放した演技が光っていたRia Zmitrowiczが、この作品でも超いい味を出していて、筆者としては、こういう役者がきちんと評価されて大きな役でも演技が変わらないで成長していく、っていうのを期待したい。

2016年5月8日日曜日

Cyprus Avenue

09/04/2016 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs

東ベルファストのいいとこに住んでるユニオニスト(北アイルランドはブリテンとの連合王国に残留すべき。アイルランド共和国と一緒になるべきではないと主張している人)の男性が、ある日生後5ヶ月の孫娘を見たら、何とその顔がシンフェイン(北アイルランドはアイルランド共和国と一緒になるべきと主張している政党)の党首、ジェリー・アダムズ(この人を単なる政治家だと思っている人はいないです。テロリスト呼ばわりする人もいます。でも、和平交渉において重要な役割を果たした人でもある)の顔だった、さあどうする、という、一見、シュールな笑話風の物語。

これ、どういうコンテクストなのかは、北アイルランド問題に関心の薄い人や、ジェリー・アダムズと言ってピンとこない人に説明するのがややこしいのだけれど、いや、かくいう筆者自身も、どこまで「余
所者に開示できないコンテクスト」を理解しての芝居を観ていたかは計り知れない。

日本に翻案するとすれば、自称良識派の退役キャリア公安(ただしもちろん前提抜きの自民党支持で、自宅の本棚には嫌韓本がちらほらあったりする)が、ある日孫娘の顔を見ると、それが宮本顕治か不破哲三かなんかだった、っていう感じでしょうか。いや、そんなヌルい設定では済まないんだろうな。

筆者は「バカの壁」読んでいないが、多分、雑誌で養老氏の主張を読んでる限り、この芝居は、乱暴な言い方をすれば「バカの壁」を打破できない中高年の話として括ってしまえると思う。自らを規定する価値観や、その価値観を規定していると自らが考えている外部環境が、当初の設定からずれてきてしまったときに、当初の設定をどのように修正していくのか、していけないのか。それが自分の外へのアクションとしてはどのような形を取りうるのかについての考察である。

その考察を、北アイルランドという特定の状況に投げ込んでみたときに、それが、思っていた以上の劇的効果を生んでしまうことがあるのだ、ということだと考えている。

笑話風の出だしが、思わぬ展開を見せて悲劇に繋がっていくというのは、古今東西、芝居や小説でよくある話ではあるけれども、それを一種架空の話、作り物として笑い飛ばしてしまえるのか、それともリアルなものとして受け取られるのかは、上演される場所や観客のおかれたコンテクストによって異なってくる。少なくとも、この、ベルファストのユニオニストのアイデンティティ・クライシスは、UKで上演される限りにおいては、相当シリアスで、設定はともかくとしてリアクションとしてはリアルで、人の生き死にのシーンも、これまでアイルランドやイングランドで流されてきた血の量を確実に反映している。

そういう生々しさを日本の舞台で観ることは希だ。もっと言うと、欧州の舞台で観ることも希だ。この生々しさが、この笑話→悲劇が、芝居として、「今、ここで、上演されることの意義」を大いに支えている。

主演のStephen Raeは、アイルランドを代表する名優だそうです。すみません、知らなかった・・・ 娘を演じるAmy Molloyがなかなかの好演。去年のエディンバラで観たクソ芝居No. 1を一人で演じていたときとはエラい違いで、好感度大。こんなきちんとした芝居が出来る人だったのね。見直しました。

2016年5月5日木曜日

The Caretaker

02/04/2016 19:30 @Old Vic

引越当日の夜に3時間30分の芝居。しかもピンター。しかも退屈。大失敗。

ピンターの古典をTimothy Spall、Daniel Mays、George MacKayの3人でって言うんで相当期待値を上げて臨んだのだが、見事にコケた。この前、同じOld Vicで観たThe Master Builderが、いや、そんなに気が利いた舞台とは言えなかったけれども、それでも、レイフ・ファインズがとっても真面目に、真摯に芝居してて、メッセージが真っ直ぐに伝わってきてたのとではエラい違いである。

幕前にかかっている思わせぶりな音楽を聞いていやーな予感はしたのだが。ティモシー・スポールが期待を大きく裏切るイモ演技。寄ってらっしゃい見てらっしゃいなガナり芝居で、変な顔や考え込む顔、困った顔をするのにいちいち面を切らないと前に進まないという徹底ぶり。これじゃこの先どうなるんだろうと一幕の途中で心配していたら、案の定一幕ラストのGeorge MacKayの台詞”What’s the game?”が力の入った迷台詞となって客席に突き刺さる失笑もの。

救いだったのはDaniel Maysの抑制の効いた演技で、昨年観たThree Red Lionでの艶ッ気たっぷりのアグレッションはどこかに封印して、今回はそういうのを全て内に隠して想像力を刺激する演技を見せてくれたのが大きな収穫。

その他はあんまり見るべきものなし。大変残念な舞台。

2016年5月4日水曜日

The Father

26/03/2016 14:30 @The Duke of York's

昨年、Bathで初演され、その後ロンドンのTricycleでも大好評、ウェストエンドに移ってそこでも大成功し、小屋を変えて今年まで上演の続いた大ヒット作。残念ながらUKの作家ではなくフランス人による戯曲の翻訳だけれども、2度目の観劇にも十分に耐える質の高さ。主演のKenneth Crahamはこの役でオリビエの主演男優賞を獲得、それも当然と思わせる。

Tricycleの上演からは、主演と看護士役の女優を除いて、(キーとなる娘役も含めて)役者が殆ど入れ替わったこのプロダクションだが、これだけ戯曲が良くて、かつ演出のコンセプトがしっかりしていると、役者が変わったぐらいでは芝居の屋台骨がぐらつかない。むしろ、娘役の役者のトーンが、Tricycleで観たときの「一見お節介でウェットにも見える娘像」から、「ドライで時に突き放したようにも感じる」印象へと変化したのを、ポジティブに楽しめた。

それにしても、父親の主観と「神の視点」の客観を見事に組み合わせながら、本筋から逸脱せずに観客をぐっと引きつけて、正解を示さずともメッセージががっちり伝わる見事な戯曲。
大いに堪能した。

2016年5月3日火曜日

Uncle Vanya

19/03/2016 19:30 @Almeida Theatre

新進気鋭、このところ、1984やOresteiaと、続けざまにAlmeidaでヒットを飛ばしているRobert Ickeの演出によるチェーホフ。期待に違わず素晴らしかった。舞台を19世紀ロシアから現代UKに置き換えて、しかし、それが妙なへつらいや観客への媚びではなく、今、ここで、この戯曲を上演する理由って何だろうという問いへの真摯な回答になっていると感じられた。戯曲に忠実に、コンテクストに敏感に、そして力強い。

地方にとどまって、地道で無味な暮らしを続けながら、都市に暮らす「遊民」を養う姿は、19世紀ロシアや現代UKにもあったのかも知れないが、筆者自身にはどうしても、昭和30年代以降の日本に重なって映る。それは、高度成長期に「輝く未来」を手形に親のすねをかじった筆者の両親や、バブル絶頂期に大学生をしていた筆者自身の姿である。筆者自身も「田舎嫌い」を自認しているけれども、例えば、新聞記者になる夢を諦めて田舎の地主として暮らした母方の伯父(伯父の楽しみは、テレビでNHKのクラシック音楽を聴くことである)は、この芝居、どう映るのだろう。そもそも彼らは、やはり田舎の暮らしに倦んでいるのか、それとも、彼らは表面上は田舎暮らしに倦みながら、実は、その地道で無味で退屈な暮らしになにがしか歓びを認めていたりするのだろうか?戦後50−60年かけてコツコツ働いたカネ、深夜残業を繰り返して貯めたカネ、家族と離れて出稼ぎして貯めたカネが、滅び行く日本にばらまかれて消えていく過程を見つめている、おそらく団塊よりも少し上の世代の人々には、この芝居、どう映るんだろうか?

時に軋む音を立てながらゆっくりと回る舞台装置が印象深い。一幕でちょうど一回転。最終幕、回り始めたところで、隣の老婦人二人連れが、「ほらほら、今度はXXXで回ってるわよ!」といきなり本質に切り込む会話をかましてくれる(ネタバレにつき内容は秘す)のが、Almeidaならではの醍醐味だった。

Vanessa Kirby演じるエレーナが、都会育ちで消費のみによって生きてきた美しい女、消費ばかりで何も産み出さぬ退屈な自分を、そういう退屈な人間だと客観視できるまでには物事が見えているのに、自らの力では最早そこから抜け出す術を持たない、いや、もしかすると抜け出す術を知っているのにそこに向かって踏み出すことの出来ない姿を正確なニュアンスで映し出して出色。いや、出色なのではなくて、実は、筆者自身がそこに大いに移入してしまった、というだけのことなのかもしれないが。

The Solid Life of Sugar Water

19/03/2016 15:00 @National Theatre, Temporary Theatre

昨年のエディンバラ・フェスティバルで観てから、妙に心に残っていた芝居。今回、ツレと一緒にNational Theatreまで出かけたのだが、再見して、やはり素晴らしい芝居なんだと言うことを再確認。

カップルの2人芝居で、2人とも障害を持った役者なのだけれど、それは単に「そういう人だ」ということでしかなくて、主題は、「どこにでもあること」「誰にでも起こりうること」の王道である。
「誰にでも起こりうるが、個別の事象としては、その特定のカップルにしか起きていないこと」にどう対処するのか、というテーマが、
「右手が不自由であること」「耳が不自由であること」にどう対処するのか、ということとのアナロジーとして示されることで、観客にとってよりよく理解できる構造になっている。
そして、それはまた、(2人が)共有している状況と(お互いに)共有し得ない何か、の境界線ともリンクしていて、その境界は舞台上のカップルによってギリギリまで突き詰められる。
そして、多分とても大事なことは、「どこかで折り合いを付ける」ということで、それが、時として上手くいったり、上手くいかなかったり、それでも時間は前に進んで。

教訓じみたことではない。喜劇も悲劇も、それは「既に起きたこと」。そこから未来に向かって、希望と絶望が、同時に生まれ出る。それを、淡々と、同時に力強く、押しつけがましくなく、舞台に乗せていた。本当に素晴らしい芝居だと、改めて思った次第。

2016年4月18日月曜日

The Master Builder

12/03/2016 19:30 @The Old Vic

Ralph Fiennes主演。イプセン。Old Vic。David Hare脚色。観に行こう!
ということで、若干高めのチケットを買って出かけたのだが、2度の休憩を2回挟んだ2時間45分、チケット分は十分に楽しんだ。

舞台装置は相当お金がかかっていて格好良い仕上がり。
役者陣の演技は劇場の大きさに合わせたのか、若干新劇風な感じがしないでもないが、戯曲そのものがミッドライフクライシスを上手くいなすことが出来ずに自滅するバリキャリ中年男を描いていて相当に面白く、演技に辟易せずに舞台の進行を追っていられた。

こういう戯曲は、岩松さんの演出とか、東京乾電池とかで観られると相当面白い仕上がりになるんだろうなー、と思われた。
Ralph Fiennesは、"In Bruges"とか"The Hotel Grand Budapest"でも相当に真面目な演技をしていたのが印象に残っていたのだけれど、この芝居でも、主役を張ってることは間違いないのだけれど、いたずらにスター面するのでなく、きちんと真面目にミッドライフクライシスを演じていた。

これは、脇の役者陣にも言えたことなんだと思うけれど、生真面目な戯曲を生真面目に演出して演技すると、相当カチッと仕上がるのだけれど、「破れ」はない。突き抜けることもない。
初演が書かれた頃にはひょっとしてもっと突き抜けて見えたのかも知れないし、また、現代に持ってきたとしてもさほど古びたテーマでもなく、むしろ現代にも通じる話だなー、って思わせることの出来る芝居にカチッと仕上がったことは素晴らしいのだけれど、
うーん、どうしても、その先のことを期待してしまうと、「チケット代までは楽しんだんだけどね」
ってなってしまう。贅沢な悩みだろうか。

2016年3月20日日曜日

Jeramee, Hartleby and Oooglemore

12/03/2016 10:30 @Unicorn Theatre

Gary Owenが台本執筆、Unicorn Theatreのプロデュースによる子供のための演劇。

子供は自由の塊である。じっとしていない。上演中も始終面白いものを捜してきょろきょろしている。油断してると舞台に上がり込んでくる。
役者に合わせて客席で踊り出す。分かんなくなると親のところまで行って「あれは何をやってるの?」と役者に聞こえる声で尋ねる。
そして一番おそろしいのは、つまんない・あきた、と感じたら途端にガン無視してくる、ということだ。

そんな世にもおそろしい観客を相手に、役者3人がほぼ素舞台上で、しかも台詞は3種類しか言えないという、
まるで、Kind of Blueのセッションの直前にマイルズがバンドのメンバー相手に言ったと伝えられる「このモードに乗ってる音以外使うな」にも比するベき制約を課されて、
さて、どう立ち向かうのか?
いや、素晴らしかったです。

3つの台詞は "Jeramee、Hartleby、Oooglemore"、つまり登場人物の名前で、スタンダードに「名乗り」「名付け」から舞台がスタートして、
その後も、3人の役者がその3つ以外の単語を発することはないのだけれど、
その後の展開とか、構成とか、とても上手く考えられていて、こどもたちのくいつき方が半端なかったんだな。

変な動き、大きなボールの客席とのやりとりに加えて、ちょっとしたウンコしっこネタや、「志村うしろー!」成分も忘れずに。
でもね、変に媚びる台詞はないし、「変な顔をしてますよー」っていう押しつけも一切無い。
そして何より、あごひげ生やしたおっさんが小さな弟の役をやってても、弟だって分かるし、ちっとも怖くも無理でもなくて(いや、そりゃ、無理はあるんだけど)、むしろ面白くて、
「役者が何かを演じるっていうことはとても楽しいことだし、観ていても楽しいことなんだよ」
っていう成分が満ちあふれている。演劇の楽しさ。

客席前方に設けられた子供アリーナ席。こどもたちはとても楽しそうで、小さい頃からこんな楽しい演劇に触れることが出来る子達が、羨ましくてしょうがなかったよ。

そもそもUnicorn自体が、子供のための劇場として造られているので、本領発揮、ってことなのかもしれないけど。
このプロダクション、アゴラに呼んでもらえないかな−。絶対面白いと思うんだけどなー。

2016年3月13日日曜日

The Encounter

05/03/2016 19:30 @Barbican Centre

フレームの嵌め方、ガジェットの駆使、語り手の技量、全てにおいて圧倒的な一人語り芸。サイモン・マクバーニーの才能の懐の深さを思い知る。

語りのレベルを複数設け、そこに聞き手を取り込んでいく手管の洗練、観客全員にヘッドセットをつけさせ、知覚を混濁させることで、現実と虚構の境目のあやふやなところに観客を宙づりにする手管、そういった、極めて「日本の小劇場演劇的な」「非常に洗練された」上演を行ってもまったく鼻につかず、バービカンで「幅広い層の観客に対する」上演を可能にするのは、プロダクションの出発点=ゴールが、演者による一人語り芸であることのしっかりした自覚と、全ての手練手管が「よりよく楽しんで聞いてもらえること」への合目的性に向かっているからだと思う。こんなにも仕掛けに溢れているのに、こんなにも地に足が付いているのだ。

そもそも、冒頭、マクバーニーは、自分がどんな手管を使って観客の近くを欺しにかかるのかについて、延々と時間をかけてネタバレしてくれるのだ。
・距離・方向がリアルに感じられるマイクとヘッドフォンの仕掛けの説明。
・だから、観客には舞台上で演者が仕掛ける「ウソ」が見えているのにも拘わらず、耳を伝わって入ってくる情報にまんまと欺されてしまいますよ、というアドバイス。
・リアルタイムでの語りと、機械を通して変成されたリアルタイムの声、録音された語り手の声、変成・録音されて再生される語り手の声、録音された効果音、リアルタイムの効果音、そうした全ての音は、ヘッドセットを通して観客の耳に届くときには、実は全て等価であって、その情報を過去・現在・未来、自己・他者、ここ・他所に仕分けするのはあくまでも自分たちの脳なのだという事の解説。
要は、そういうふうに、これから、自分は観客を欺しにかかるのだから、よろしくね、っと言っているのだ。

そうやって、全て手の内を晒された上で、それでもなおその仕掛けに喜び、驚き、語りに身を浸すことが出来ることの幸せさ。その場に居合わせることが出来た事への感謝。

日本で芝居観てて、そういうところにまで心配りが行き届いている人たちというと、快快かなぁ、と思う。あと、東京デスロック。アゴラで観た快快の「へんしん(仮)」、練馬の公民館で観た「Y時」、あるいは東京デスロックの「シンポジウム」。彼らが、キャパ1200人の小屋で、圧倒的な予算と技術力を与えられたときに、こういうものが観られるのかもしれないな、と思ったりもした。

かたやサイモン・マクバーニーは、世界に名だたる巨匠である。
なのに、この巨匠は、観客が彼の世界に近づこうとして近寄ってくることを良しとしない。むしろ、彼の方から、上演の都度、観客の方へとやってくる。個人レベルの話をしながら。携帯をいじりながら。自撮り写真を娘に送りながら。そこから、1200人を掬い取って、騙しの手管を全部ネタバレして、丁寧におびきよせて、すいーーーーっと自分の作りあげた、まさに現実と虚構の入り交じった世界の遠く彼方へと連れて行ってくれる。
(舞台なので「現実と虚構がいつまでも入り交じらざるを得ない」のがポイント。これが小説や映画なら、何を遠慮することも亡く虚構へと連れて行かれてしまう)
そのプロセスの全てを全力で受け止め、愉しむことが出来る希有な舞台。素晴らしかった。

肝心の(いや、もはや肝心ではないのかもしれない)「語られる中身」だけれども、それは、米国の写真家Loren McIntyreがアマゾンの幻の部族の集落を訪れたという話。それ自体は、よくあるアマゾンわくわくドキドキ大冒険ものと言ってもよく、コミュニケーションに関する主題が舞台の仕掛けとリンクしている、というもっともらしい指摘をしてもあながち外れてはいないと思う。
でも、本当にすごいなと思ったのは、「分かんない言葉を話す人々」との邂逅を、一人語りで語ってしまおうとすることの大冒険の方に、なんだ。それこそが、舞台で僕が目撃したい、勇気と知恵をもって立ち向かう大冒険なんだ。

僕は必ずしもコンプリシテ信者・マクバーニー信者ではないし、春琴なんかはむしろ大嫌いな部類に入るんだけれど、でも、この"The Encounter"は凄かった。

2016年3月9日水曜日

Table Top Shakespeare - Hamlet

05/03/2016 18:00 @Barbican Centre, The Pit

舞台上に役者が一人。テーブルが1つ。テーブルの向こうに役者が座る。役者の両脇、手が届くところにビールケースみたいな箱が逆さに置かれて、そのそれぞれに、調味料の瓶や殺虫剤のボトルやバラの花瓶やペットボトルやアイロンやトイレットペーパーの芯が雑然と置かれている。舞台両袖には高さ1.8m、幅3mくらいの棚があって、そこには、何百もの瓶や缶やペットボトルや何やらが、何となく整然と置かれている。

Forced EntertainmentのTable Top Shakespeare、こんな舞台設定で、シェークスピア(ほぼ)全作品を、各1時間。6日間で上演してしまおうという作品である。
わたしが観に行ったのはHamlet。

ちょっと格好良く書き始めてみようかとも思ったのだが、何のことは無い。瓶や缶やアイロンやトイレットペーパーの芯を役者に見立て、テーブルの上でシェークスピアの芝居を勧めちゃおう、っていう、こう言ってしまうと身も蓋もない企画である。
五反田団をご覧になる方には、「びんぼう君」の劇中、「熱いのぉお」で始まる人形ままごとを思い出して頂いて、それをシェークスピアでやっちゃった、って言うと分かりやすいかもしれない。

相当くだらない。しかし、相当面白い。そして緻密。

芝居=戯曲の進行は「出はけ」から決めていくと平田オリザも言っていたが、それを地で行く演技力。演技力というか、そもそもハムレットはビネガーの瓶なんだから出はけ以外の演技力は無い。そういえば、「余計な演技」も一切無い。くどくどしい長台詞も無い。
全てはメタレベルの演出家(人間の役者)の語りと操作に委ねられて、淡々と。なんだか、ロボット演劇に近い感じもしてくる。
でも、全自動のロボットじゃなくて、全手動の置物だけどね。
それが、役者としての機能を果たしてしまった(そう思わせる状況に持って行ってしまった)ところに、Forced Entertainmentの手練れどもの用意周到な謀略が隠されていて、
そう、これは謀略に違いなくて、そうでなければ、
「机の上に立っているラベル付き調味料の瓶をちょっとだけその場で回転させる」だけで、
「ホレイショが視線を移した」
って思っちゃったことの説明が付かないじゃないか。

ちょっとした言い回し。間の取り方。語り手の役者の視線の変化。そういうもので、シェークスピア、見せられちゃうモンなんですね。
いや、これはすごいもの見せていただきました。

2016年3月8日火曜日

A Girl Is a Half-Formed Thing

27/02/2016 19:45 @Young Vic

昨年のエディンバラで相当評価の高かった作品。
きっついアイルランド訛りで、一人の少女の2歳から20歳までを辿る一人語り。

(特に今のUKで)一人語りの芝居は多いけれど、そのクオリティはまさにピンキリで、
その質の高低には、2つの要素が関わっているように感じている。
1つは、もちろん、役者の技量。
もう1つは、フレームの嵌め方。
「何故わたしたちはこの人の語る言葉を聞いているのか」という問いにどう応えるか、
そこで妙な引っかかりの無いようにどのような仕掛けを作っておくか、は相当大事で、
昨年のエディンバラでも、そこを意識している作品とそうでない作品とでは、できあがりに差があったと思う。

すると、一人語りの芝居の4象限が出来上がって、
1. フレームの嵌め方、役者の技量とも素晴らしい舞台。
2. フレームの嵌め方は素晴らしいが、アイディア先行、役者の技量がついてきてない舞台。
3. フレームの嵌め方に工夫無いが、役者の技量で頑張って見せきってしまう舞台。
4. フレームの嵌め方に工夫無く、それを役者がベタッと語ってしまってうんざりする舞台。

このA Girl Is a Half-formed Thingは、第3象限に属する芝居だった。

本人、母親、弟、叔父、その他諸々、シームレスに演じ分ける技量と、
細かなところで手を抜かない真摯さで、1時間20分、ずっと観ていられるのだが、
が、うーん。これ、誰が誰に向かってどう話しているんですか、っていうフレームへの配慮はゼロ。
面白かったんだからそれで良いんでしょ、っていわれればそれまでだが、
やはり、物語と語り口だけで面白がってしまう観客にはなれないな。
どうしても観客としては「前のめり」になってしまうし、
そもそも劇場みたいな閉じられた空間にわざわざ足を運んで、その中で晴れた週末を過ごしてみたり、
オープンな空間にいてもその中にわざわざゆるゆるした脳内バリア張って、その中の出来事を眺めて面白がりたいと思ってしまう人なので。

そう。できるだけ、「お約束」を要求されたくない。でも、その場を共有する上で要求されている(と感じること)は最大限供出したい、
と思ってるんだな。

物語と面白い役者だけ与えられて、パッシブに楽しめるとは思ってないんだ。
そういう事のような気がする。

あ、いや、でも、力のある役者の一人芝居は、それはそれで面白いし楽しいんですよ。

The Magic Flute

26/02/2016 19:30 @Coliseum

2012年初演、Simon McBurney演出にかかるENOプロダクション。ENOなので、全部英語。しかも字幕つき。

4本のワイヤーで吊られた舞台板が格好良い。舞台下手の黒板・本その他諸々が舞台奥にバーンと投影されるのも格好良い。舞台上手のブースで音響効果作ってマイクで流すのも格好良い。フルート奏者や鍵盤奏者を舞台上に引っ張り上げて演奏させちゃうのも格好良い。
とにかく格好良くて、完成度が高くて、こんな事ばっかりしてたら高尚でスカしたオペラになっちまうぞ、と思いきや、
もともとがモーツァルトの魔笛であること、ENOだから子供もたくさんやってくる、そういうプロダクションであること、っていうのも手伝ってか、嫌味が無い。

うーむ。
が、これだけスムーズにいろいろなものを融合できるというのが、オペラ演出家としての技量の非常な高さを示すものだとして、
逆に引っかかりも無い、って気もしたんだよな。ちょっと。
いや、これ、モーツァルトだからそれで良いんだよ。って事なのかな。うん。そうやって僕も楽しんだのだけれど。
いやいやいや、勿論、「こんなもんか」ってレベルでは全然無くって、すっげえプロダクションであることは間違いないです。

どうも、自分自身、こういうのには弱い(=ピンとこないと言ってしまいたくなる、一種ひねくれた感情を持って観てしまう)のかもしれない。
ガジェット満載の日本の芝居であれば、どっちかというと「突っ込みを待っている」ところを感じて、そこに突っ込んでいくことを楽しんだりするのだが。
そういう突っ込みどころを全部予想して、事前に全部載せで対応を用意しておいて、しかもそれにプラスで何か仕掛けてくる、
そういうキャパシティは、まさにSimon McBurneyの才能の懐の深さ。こういうのを目にすることが出来るオペラファン、こどもたちは本当に羨ましい。

2016年3月7日月曜日

Battlefield

20/02/2016 14:30 @Young Vic

巨匠Peter Brookの人気作品。会場の年齢構成も高め。
役者の技量も高いし、観ていて眠り込んだりはしなかったけれど、心なしか古典芸能の香りがした。

2015年に日本でも上演していると思うのだけれど、世界各地を上演して回って、
その中で、芝居のフレームとか強度とか、そういうものがぶれていないのでは無いかと疑われる。
すなわち、「人間であれば万国共通であるはずのもの」を信じていて、
だから、マハーバーラタという、何千年も前の叙事詩を使っていて、
それを、まさに、伸び伸びと、技量の高い役者を使って、シンプルだけれども隙の無い舞台装置に載せて、これまたシンプルだけれども表情が出せる(そして、何となく世界共通な感じがする)打楽器を使って音の場を演出する。

これでは、文句つけようが無いだろう。しかも、巨匠だし。

でも、文句つけられないところからは、そこから先の思考は生まれにくいんじゃ無いだろうか。
むしろ個別のものを個別のものとして舞台に載せた方が、その先へと何かが伸びていく感じがしている。
「わたしにはこれは理解できる(と思う)。でも、あれは理解できない。あなたはどうか?」

巨匠だけに、きめ細かく作られているのだろう。突っ込みどころが無くて、文句つけられないのだ。
そこに文句をつけたい。

The Mother

13/02/2016 19:30 @Tricycle

同じ作者による昨年の姉妹作品 The Fatherは大ヒットとなって、ウェストエンドでも再度上演されている。
The Fatherもかなり質の高い舞台だったのだけれど、
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/06/the-father.html

このThe Motherも相当の出来だった。
観た順番はThe Fatherの方が先だけれど、書かれたのはThe Motherが先。おそらくフランスでの上演も先。

若年性のアルツハイマーを患った女性と、その家族の話。
結婚して25年経つ40代後半の夫婦、子供2人がちょうど親離れしたところ、という設定。
息子がちょっとマザコン気味で、母親からしても「娘よりも息子の方が可愛い」っていう、そっちはありがちな設定かも。

が、The Fatherと同様非常に戯曲として良く出来ているのは、
本人の認識と家族に見えていることと客観的事実、の3つが、ほぼ説明書き無しで舞台上に乗って、芝居が進行していくこと。
もちろん観客は混乱するのだけれど、
視点の変化に伴って「事実」や「役柄」や「記憶」が混濁する、そして、「時間の経過」がロジカルに流れなくなっていく中で、
「病状の進行」だけは一つの確固とした軸として残り続ける。
その残酷さが、実は、むしろ、
「あぁ、若くしてアルツハイマーって、お気の毒で家族も大変よねー」っていう視点から観客を引き剥がし、
「これはいつかみんなに起きることだ」ということを想起させるのだ。
記憶や時間が混濁するのだから、舞台に載っている「40代夫婦」は、実はもう70代や80代かもしれないし、
子供に見えているものは孫かもしれない。

ツレはずっと、「この夫として振る舞っているように見える男性は、ひょっとすると、ちらっと言及されている長男かもしれない」
と思っていたようだ。
なるほど。そういう風に見えても、実はおかしくない。

種明かしが無いと不安な人・不満な人には勧めない。正解の無い世界を描く作品に触れて、人生に正解が無いこと、でも、終わりは必ず来ることを意識することに耐えられる方には強くお勧めする。そういう芝居だった。

2016年2月15日月曜日

Escaped Alone

13/02/2016 14:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

Caryl Churchillの新作。またもやってくれました。

昨年12月、National Theatreでの"Here We Go"も相当すごかったので、本作についても期待は高かった。
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/12/here-we-go.html

今回、Royal Court での新作は、おばさん4人が退屈なうららかな午後、裏庭でお茶飲みながらお話しする、っていうだけの話。
お話の中身は大体たわいがなかったり、ちょっと険悪になったり、昔を思い出したり。
でも、4人の座り位置は60分ずっと変わらないし、4人が互いの身体に触れる瞬間は1度しかない。
そういう緩い、ぬるい関係の中で、どこに裂け目があるのか。裂け目で誰が何を考えているのか、ということなんだけど、
それとても何かしら決着をつけようとか、因果関係を見いだしていこうとか、そういう、
いわゆる英国演劇で求められているであろう観客サービスは一切ない。

しかも、退屈しないのだ。

幕の下りた直後の感想は「青年団の『海神』だ、これは!」。
青年団の1989年の作品「海神」では、7人の外見日本人が世間話をしながら、でも、会話の端々に、
「この人たち、ギリシャの神様なのか(ポセイドンとか、アテネとか、アポロンとか)?」みたいな形而上な会話が挟まって、
かつ、「おれ、風の神だから」って言い出すヤツもいたり。そういう芝居。

庭の外から自動車の騒音や何やらは聞こえてくるけれど、空はうっすらとどんよりしたまま少しずつ色を変え、雲一つなく、外の様子を垣間見ることは一切出来ない。
もしかするとそれは(ベケット的な)ディストピアなのかもしれないし、
(平田オリザ的な)ディストピアの前触れかもしれないし、何でもないのかもしれない。
その中で、やはり、リアルタイムに、4人のおばさん達の感情が微妙に揺れ、どこへも向かわないのだ。

こんな芝居を、2016年のロンドンで再び目にするとは。素晴らしい。

2016年2月14日日曜日

The Mikado

06/02/2016 14:30 @Coliseum

ギルバート&サリバンのコンビによる不朽の名作オペレッタをこれまた初演以来30年でまったく現代性を失わず色褪せないENOのプロダクションで。
間違いなく大傑作。観るのは多分4度目(このプロダクションで3度目)なのだけれど、何度観ても飽きないし、新しい発見がある。
Ko-ko役のRichard Suartも1989年からこの役を張っているけれど、円熟・深化はあれども疲れはなし。

そもそも名シーン、名曲揃いで、このオペレッタが色あせることは未来永劫無いに違いないと思う。
何と言ってもサリバンの音楽がポップで美しくて、それがこれでもかとばかりに繰り出されて息つく間もなく耳を奪われる。

そしておバカなストーリー。
ミカドが統べる日本のとある町、ティティプを舞台に繰り広げられる、
ミカドと、その跡取りと、その跡取りの婚約者に無理矢理なりおおせた「二の腕の裏側は世界一美しい」と自負する女性と、
跡取りの恋人のキャピキャピ娘と、そのキャピキャピ娘に横恋慕する仕立て屋上がりの「高等死刑執行卿」。
しかもその高等死刑執行卿、近々斬首刑を執行せねば自らの首が飛ぶぞとミカドがのたまったものだから、さあ大変。

そういうオペラである。
ヴィクトリア時代のイギリスで書かれたオペラだから、PC一切お構いなし。
が、西欧世界と異なる基盤の元に高度な法治国家を成立させて繁栄を遂げた場所を舞台に充てて、当時の英国社会を諷刺するというのが趣旨なんだから、
これのPCに目くじらを立てるのは大いに筋違いだろう。
(ガリバー旅行記を読んで小人や宇宙人への差別反対を叫ぶのと同様だと、僕は考える)

で、こういうおバカなストーリーにのっかるポップな曲は、もちろんおバカな歌詞が載っかってとてもうきうきするのだけれど、
でも、やはり圧巻なのは、このおバカなストーリーに載っけてとてつもなく美しい曲が、しかもその場で聞いていると「なんだか美しくなきゃならない」みたいに歌われるシーン。
ヒロインの独唱"The Sun Whose Rays Are All Ablaze"(わたし、こんなに悲劇のヒロインになっちゃって、美しすぎて困るわぁ)
Ko-koの独唱 "On a Tree By a River a Little Tom Tit"(この曲を歌い上げて口説き落とさねばおれの首は救われない)
何度聞いても涙が出てくる。

ヴィクトリア時代の人々は、これ観て大いに喜び、笑い、楽しんで家路についたのだろうと想像される。テレビ・映画のない時代である。
その頃に素晴らしかったものは、テレビ・映画がはびこる世になってもバッチリ生き残る。
彼らに負けず劣らず僕も楽しんで帰ってきたし、何度行っても楽しめる自信があるんだ。

D"Oily Carteのプロダクションではキャスト全員着物で出てくるのだが(ご覧になりたい方はMike Leighの映画'Topsy Turvy'を見て下さい!)、
このプロダクションは海辺のリゾート地を舞台に、イングランド風の衣装で固めて、舞台中真っ白で統一して、現実感をかっ飛ばして観客に提示する
(そう、現代においてはちょんまげ・着物のエグゾティシズムは諷刺に資するものとしてはもはや通用しないのですから)。
そういう一手間も手伝って、また、(現在のENOプロダクションの初演ではKo-koを演じたのはEric Idleだったとのこともあり)Monty Python風の小芝居も手伝って、
全く古臭くない。

本当はこういうのを日本で映像で観て、「やっぱりロンドンでミカド観たいわぁ」と言って欲しいんだよな。みんなに。お勧めですよ。ほんと。

2016年2月8日月曜日

黒塚

30/01/2016 20:00 @パリ日本文化会館

木ノ下歌舞伎のパリ公演。フランスの観衆が木ノ下歌舞伎をどう捉えるかにも興味があったし、パリ日本文化会館の広めの小屋で黒塚がどう見えるかにも興味があった。
でも、なにより、木ノ下歌舞伎が観たかったんだよ!
僕と同じく、アゴラでの四谷怪談が木ノ下初めだった友人F氏も来たパリ千穐楽。

観に行って本当に良かった。
作品としての成熟が見られたのもよかったし、広い小屋(日本で言うとあうるすぽっと位の広さはあるかなー。吉田町スタジオが20コくらい入りそうな)でも十分に通用する、というか、座組が小屋の広さに対して十分な意識をもって対処してれば全く関係ない、というのが分かったことも大きかった。
ちょっと引いたところで拝見したのだけれど、北尾氏のダイナミックな動きとか、武谷氏の緩急とか、旅僧達のポジション取りとか、そういうのがよーく見えたのも良かった。

本当に、何度観ても良い芝居。

木ノ下先生/邦王子のトークを開演前にもってきて、「口語台詞」「文語台詞」の区別が字幕についてることの説明があったことも奏功。
僕もちょっと迷ったら字幕で確認したりして。

しかし、なんと言ってもパリの人たちの「面白そうな芝居」「美味しそうな料理」に対する貪欲さといったら・・・
こういう芝居をロンドンにもってきて、面白がってくれるだろうかというと、正直、自信が無い。
却って完成度が高いだけに、何かと難癖をつけてこけおろしにくるんじゃないかという気がする。そうじゃないと、イギリスの現代演劇が何に対して手を抜いているかがあからさまになってしまうおそれがあるから。

うん。そうだよ。ロンドンにいては観られないものが観たかったんだ。それができるのはパリ。ロンドンからはそもそも呼びもしないだろって思う。そういう違いは大きいよ。

2016年2月7日日曜日

Stilles Meer 《海、静かな海》

24/01/2016 20:00 @Hamburgische Staatsoper

オペラこのような素晴らしいものであるのなら、これからもずっとオペラを観たいと思う。
「オペラは総合芸術である」という言葉を聞くたびに「ケッ」と思ったり、
(これはミュージカルでも同じことだけど)なんで突然歌い出すんだとか、台詞を歌で言わなきゃならないんだとか、演技が変だとか、それこそ現代口語演劇原理主義者に極めて近いところに出自を持つ小生としては、
正直、オペラは敷居がとても高い。

今回、平田オリザがリブレットを担当していること、舞台美術を杉山至が、衣装を正金彩が、照明をDaniel Levyが、それぞれ担当していること、
ハンブルクは多和田葉子さんが長いこと住んでいた、そして、彼女の小説にも度々登場する街で、以前から是非一度訪れたいと思っていたこと、
そういうのがあって、半分勢いでハンブルク州立オペラにお邪魔したわけである。
「平田オリザのオペラ」ってどうよ?というのもある。ダメだったらそう言えば良いのだし。

が、一幕、2時間弱の上演中、まったく飽きることがなかった。

オーケストラ、音楽、歌、演技、舞台美術、衣装、照明、ロボット、全ての要素が緊密に舞台上に織り上げられていた。そして、それら全ての要素とそれに拘わる人間達が、「オレがオレが」という我を一切張ることなく、同時に力をめいっぱい発揮して、
杉山の舞台美術は、このオペラが素材にした「隅田川」を意識した舞台上手の桟橋と、舞台中央、観客席に向かって傾斜した円形の「太陽光発電パネル」にも見える主舞台、舞台中央につり下げられた11本の光る管。構図・構造は力強く、同時に、能舞台のようなニュアンス。それが、照明の当たり方によって絶えず表情を変えていく
舞台奥のホリ幕にはおそろしく美しい「アンバー」とも「金色」ともつかない明かりが当たっていて、上演中、それが青や黒や黄昏の色に変化して見応えあり。
日本語でシチュエーションを告げるロボット「ロボビー」も、おまけで出てきたわけではなかった。冒頭のロボットのアナウンス、動きが、舞台上の出来事にぐいっとフレームを嵌めて、空間を締めていることに驚く。
細川俊夫氏の音楽も素晴らしい。平田のリブレットは、普段見る青年団の「現代口語演劇」の戯曲と比べればシンプルで骨太、微細なニュアンスでの勝負はしていない。口の悪い言い方をすると「編み込み」が足りない気もするのだけれど、音楽と編み込まれることで、立体感や深みが出ていて、「これがオペラか!」とうなる。
オペラ歌手だからといって、あの、テレビでよく見るような「わたしを見てー!わたしだけを見てー!こんなに歌の上手いわたしが美しい(悲しい)歌を歌い上げてるのよー!」なところは一切無い。変な物語や感情に奉仕するのではなく、作品にコミットして素晴らしい。特にカウンターテナーの男性は出色。

震災後の被災地に暮らす人々を描いており、そこに切り込む演劇ではあるけれど、「隅田川」をモチーフとして母親に焦点を当てながら、そこに入ってくる第三者としてドイツ人の男性を配し、彼があたかも「イザナミを追うイザナギ」(=冥府を訪れるオルフェウス)のように機能して、シンプルな中にも観客の目線を立体化する仕掛けが施され、一本調子の押しつけがましい芝居に陥らず、さすがは平田戯曲。それをとても良く理解していると思われる細川氏の音楽、ナガノ氏の指揮、歌い手達。クールで中身の詰まったパフォーマンス。

駄作には戯曲家に生卵をぶつけて応えると言われるハンブルクの観客、「熱狂的」ではないが、おべっかでない、圧のあるカーテンコールが長く続いて、日本人としてはちょっとほっとすると同時に、「うん、そうだよね、すごく良いオペラなんだよね、これ」とあらためて納得。

いや、素晴らしい体験だった。

2016年1月19日火曜日

Hangmen

16/01/2016 14:30 @Wyndham Theatre

昨年Royal Court で初演されて大評判となったMartin McDonaghの新作。ウェストエンドに小屋を移して、ここでも大盛況である。
初演を見逃したわが師を連れてえいやっ!と大枚はたいてウェストエンドへ。

知らない人にこの舞台を紹介するときには、
「いや、イギリスで死刑が廃止になった1960年代のある日の、元死刑執行人達の話。まぁ、死刑の話だし、死刑執行のシーンもあって、舞台上で実際人が死ぬんだけど、でも、全編大爆笑で、下ネタあり黒いユーモアあり、3バカトリオあり、恋あり友情ありサラリーマンのペーソスもあって、これが2時間30分飽きないんだなー」
って言うことになるんだけど。我が師にもそういう説明をして、現場に臨んだのだが。

うーん。やはり、ここまで完成度の高い芝居だと、何度見ても良い。良いものは良い。そう言わざるを得ない。
戯曲の密度。役者の技術。舞台の作り込み。どこをとっても隙が無い。素晴らしい舞台である。

後半途中、いきなり舞台奥から舞台監督の女性が黒子服そのままで出てきて、
「テクニカルな問題が発生したので、何分か中断します」と宣言。緞帳が下りて、10分ぐらい客電ついたまま放置されて、
10分後に緞帳があいて、舞台監督が出てくる直前のシーンに巻き戻して再開したのだけれど、
客席から不平不満は皆無、むしろ皆さん、この後の展開について期待がどんどん膨らんで、再開には拍手で応え、
役者陣も集中切らすことなく無事演じ終えた。
なんていう、いやぁ、こんなこともあるモンなんだな、という経験が出来たのもプラス点。

うん。このプロダクションの力強さ。あんまり文句言っちゃいけないなー。

前回観たときは是非栗山民夫演出で、と書いたが、前言撤回。
この戯曲は、是非、KERAさんの演出で観たい!みのすけさんと大倉さんと仲村トオルさんの役は、僕の中ではもう決まっている。

Jane Eyre

10/01/2016 14:00 @National Theatre, Lyttleton

ジェーン・エアです。ブロンテ姉妹の長姉、シャーロット・ブロンテが19世紀に書いた長編小説の舞台化である。
読んだことのない話なので、昨年11月に本屋で買ってきて読んでおこうと思ったら、550ページあって、しかもさすが19世紀に書かれただけあって、分からない単語てんこ盛り。
何とか半分まで読んだところで1月10日、千穐楽を迎えてしまった。

娘にいわせれば「ま、キャンディ・キャンディだから」ということだったのだが。

実際観てみると、話自体はやっぱりキャンディ・キャンディである。イライザもニールもエルロイ大伯母さまも出てくる(それは本で読んで分かってはいたけれど)。寄宿舎も心に傷を持つ貴族も出てくる。意地悪な金持ちで綺麗な娘も出てくる。ラストも正統派少女マンガを地で行く終わり方。
っていうか、日本の少女マンガの骨組み自体が、ここらあたりに起源をもっているのだ、と言った方が遙かに正確なのだけれど。実際。

あ、しかし、物語の作りと芝居の面白さは全く別物で。特に今回のように、たくさんの人に読まれている名作小説の舞台化では、物語にドキドキしようと思って来てる人は殆どいないだろう。舞台の上に、「あの、物語の、グルーブがあれば!」とか、「自分が長いこと抱いている原作の一枚画が、舞台上にあれば」とか、思っているんじゃないかと想像する。
中には僕のように「この話、読んだことないけれど、舞台の評判良いから観てみたい!」という人も、極々少数ではあっても、いるのだろう。

で、肝心の舞台だが。とても面白い舞台だった。
緩やかに前傾した舞台。そこに立つ、ちょっと見るとジャングルジムのような、骨組みむき出しの舞台。スロープがあり、はしご段があり、階段がある。
舞台奥にはドラムセットが組んであるのが見えて、あぁ、生バンドが演奏するんだなぁと分かる。
役者陣は、その舞台の上で、走り、跳び上がり、飛び降り、よじ登る。歌い手は要所で舞台上を動き回りながら歌う。バンドのメンバーも、時として舞台に出てきたりする(そして、良いお声で台詞を話す!)。
その一つ一つのクオリティがとても高くて、エンターテイメントとして非常に質の高い、見ていて全く飽きない芝居だった。

550ページの物語を3時間に収めて、一つのパッケージとして提示しなければならない。しかも、物語そのものを説明するのではないけれど、物語のグルーブを再現しないことには、お客さんも納得してくれないだろう。そういう要求に、きっちり応えていたのがさすがである。
こういうことができるんだ、と見せつけられると、「大きな劇場の芝居も面白いかもなー」と思ってしまう。

問題は、半分読みかけで残っている原作の小説である。読まねば。結末が分かっていても読まねば。うう。

2016年1月18日月曜日

Ben Hur

09/01/2016 15:00 @Tricycle Theatre

今年最初の芝居は、ローマ帝国戦車レース大スペクタクル活劇を役者4人で上演、と銘打ったBen Hur。
Tricycleには老人カップル、子供連れ、孫連れ多数詰めかけて、大盛況だった。

昨年観た「羊とリア王」でもそうだったのだけれど、このテの見世物では、
「Ben Hurそのもの」をきっちり見せに行くのではなく、
「Ben Hurをどう演じるのか」のメタな構造をきっちり見せに行かないと、まず、失格。

そこを非常にうまくクリアーした、それなりに質の高い出し物だったと思う。

出だしから、お約束のネタは全部盛りで、
出はけや着替えが間に合わないとか、高速一人二役とか、説明台詞のここぞとばかりのくどい繰り返しとか。
加えて、東方の3賢人は志村けんの白鳥だったし、
ガレー船のシーンはあなざーわーくすの観客参加型だったし、
かつ、快快のY時で見た仕掛けも入ってたし、
メタ楽屋落ちもきっちりつけて、まぁ、サービス満点である。

何が残るというわけではないけれど、新年早々、こういう、下らないことに全精力を傾けて取り組むさまが観られるというのは幸せである。

あ、そうか。そういえば、日本にいたら五反田で同じような真面目な不真面目を観に行ってたんだな。
そういうもんなんだな。

2016年1月5日火曜日

Ungeduld des Herzens

25/12/2015 19:45 @Schaubuhne, Berlin

クリスマスの夜に芝居を観に行くという暴挙。
しかも、ベルリンで上演される、ドイツ語の芝居を、字幕なしで。
もちろん、僕もツレもドイツ語は全然分からない。

しかし、Simon McBurney演出作品の初演。ということであり。
映画Grand Budapest HotelのモデルとなったStefan Zweigの小説を下敷きにしている。ということもあり、
また、Compliciteを観てきた限りでは、割とフィジカルな側面も多く取り入れられるだろうし、ということもあり、
かつ、初めてベルリンに行くんだからという、観光客ならではの高揚感も手伝って、
2席だけ残っていたその芝居に予約を入れてしまったのだった。

Ungeduld des Herzens。邦題は「心の焦燥」、英語ではBeware of Pity。
慌ててネット使ってあらすじだけは押さえてからベルリンに出発。
いや、それが、サイトによって結末が微妙に違っていて、どれが本当なのかは検証できないままの出発ではあった。

「言葉を一言も解さないだろう(しかも観光客みたいな)2人組が劇場に来てるぞ」
というときの、受付や周囲の観客の緊張感は、やはり、相当のものがある。
事前にパンフレッット買って予習しようと思ったのだが、パンフも当然のことながら全文ドイツ語で、一言も分からん。作戦失敗。

手元にある材料は、いまや、ウェブで調べた曖昧なあらすじのみ。多分、
「第一次世界大戦前夜、若い軍人君が、とある館のパーティで出会った、片脚が不自由な娘と恋に落ちる。が、障害のある娘との恋に対する周りのネガティブ反応に本人の男の子も腰が引け気味に。一方、娘の恋心は募る一方。軍人君は、自分の本心が恋心なのか娘への憐憫なのか整理がつかないまま任地へ赴くが、列車の中で娘への恋心に気がつきそこから電報を送る。奇しくもその日は第一次世界大戦勃発のその日であった。」
っていう話。もちろん、原作読んでないし、芝居の台詞もほぼ全く理解できてないので、筆者の脳内でのみ通用するあらすじである。

以下、ネタバレありで、観たままを。

***************************

1時間半、すごく面白かったんだ。
言葉はやっぱり全く分からなかったけれど、退屈しなかった。

主人公の軍人くんと離れたところに、本人をナレーターとして配していたいて、物語はナレーターによって語られる。軍人くんのアクションとの二重写しは、
何てことはない仕掛けではあるのだけれど、観客からしてみれば、語り手(その語る物語と、語るときの様子)に加えて、語られる本人(物語の中での言動)も観られるという、
一粒で二度美味しい構造が得られることになる(あ、僕は「語られる」物語は一切聞き取れませんが)。

言葉が分からない中では、物語が進んでいるのかいないのか、コンプリシテ風の演出ではなかなか判断できないのだが、
どうも片脚が不自由な娘が「地雷女」といっても良いぐらいの猛烈アタックを掛けている様子が見て取れる。
しかも、どうやら家族ぐるみ。あるいは、将を射るにはまず馬を射よ、みたいな遠回しの作戦も仕掛けているような。それで若い軍人くん、たじたじとなるわけだが、
そういう展開が手を変え品を変え何度も何度も繰り返し舞台に現れるとなると、なんだか、
うーむ、それって、「事柄」の記述なんじゃなくて、「軍人くんのパーセプション」でしか無いんじゃないの、って思えてくる。
しかもそれを説明しているのは「後年の本人」なんだから、本当に迫られてたのか、ただの思い込みなのか、でっちあげなのか、そこら辺、真偽のほどが定かでない。
そう。一人称芝居の醍醐味、「信頼できない語り手かもしれない」体験を、ナレーターと「昔の本人」という二重構造をとることで、強力に成立させているのでした。

舞台を眺めているうちに、(少なくとも言葉を解さない)観客の焦点は、「事実の成り行き」ではなくて、主人公=軍人くん=ナレーター=一人称視点の持ち主の語り口(こいつ、どんな気持ちでこの話を語ってるんだ?)へと、どんどん絞られていくのだ。

で、僕の目に見えたのは、「事実がどうであったのかはこの際関係なく」ただただ積もっていく「罪の意識」の一点。それ、相当、見ててイタいです。

「オレ、あの娘を放っておいて良いわけ?」「そもそもそういう上から目線って良いわけ?」「周りの目を気にする自分っておかしくね?」
「いや、そういう自意識を言い訳にしてないかい、オレ?」「言い訳で結婚するってどうよ?」がグルグル回ってる。でも、都度、女の子を振り切ってしまう。
あぶり出されるのは自己完結する自意識と罪の意識。それを後年の自分自身がナレーションであぶり出してる。

と、そこまでグリグリ攻めておいて、マクバーニー演出は、オーラス、舞台奥に写真の投影をぶち込んでくる。第一次世界大戦、戦間期、ナチ、第二次世界大戦、冷戦、壁、そして2015年、難民。軍人くんの人生を辿るのではなく、その先へ先へと時間が飛んでいく。
そして、1914年の軍人くんの罪の意識と、2015年の観客の罪の意識が舞台を介して繋がって、アッと思ったところで、芝居は終わる。

カーテンコール。「割れんばかり」ではないのに観客の本気が十分伝わる、まさかの5回コール。いや、しかし、十分それに値する公演だった。
言葉が分かってないから、ひょっとすると、上に書いていることは全て僕の勝手な思い込みですが、それでちっとも構わない。素晴らしい舞台を体験させて頂いた。