2009年8月31日月曜日

元祖演劇の素いき座 阿房列車

29/08/2009 ソワレ

本当に、観る度に心洗われる舞台。毎回毎回、楽しみである。
1991年の初演から19年、今でも新しい。新しい、というのは、観る度に新鮮な驚きというか、毎回初恋というか、展開分かっているはずなのにこれから何が舞台上で起こるのだろうか、とドキドキしてしまうというか、そういうことです。

こういう芝居こそ、もっともっと真っ当に色んなところで採り上げられて、たーくさんの人に観てもらえたら良いのに、と思う。春風舎があんまり混んでないのは、特に夏場は(自分勝手なことを言えば)助かるけれど、いや、でも、やっぱりもっと沢山の人に愛されて当然の芝居だと思う。

初演から19年、平田オリザ20代の時の戯曲なのに、未だに鮮度たっぷりで、それにも驚く。本当に、戯曲本来の魅力もさることながら、土井氏に大切に育てられてるんだなー、と思う。

普通は良い芝居を観てると、「自分もこんな舞台に立ちたい」とか、そういう風に変に羨ましかったりするのだが、この芝居観てると、その場(観客席)に居られる自分が、居ることのできない人たちから羨ましがられて当然だ、みたいな気持ちになる。それも気持ちよい。

2009年8月30日日曜日

龍昇企画 モグラ町1丁目

29/08/2009 ソワレ

2008年春の「モグラ町」一発目が余りにも良かったので、その続きももちろん拝見しに出かけた訳である。

登場人物・設定変わらず、次男坊・四男坊が「名前のみ」の出演。作・演出の、登場人物たちに対する愛を感じた。愛のある芝居は、基本的に観ていて楽しい。

でも、愛があるだけ、登場人物を突き放してみることが、作・演出にとって難しくなってしまったのではないかとも思われた。一発目で見ることのできた、本当にどうしようもない男達の、未来も展望も無いところで開き直った凄みが、今回は寺内貫太郎一家風の優しさに化けた。

シリーズ次回作があったとして、僕はそれを観るだろうか?そのとき、作・演出は登場人物たちをどれだけ可愛がらずに、ぽーんと、舞台の上に投げ出して見せることができるのだろうか?楽しみでもあり、でもやっぱり観ない方が幸せなようでもある。

コマツ企画 新釈ヴェニスの呆人

28/08/2009 ソワレ

コマツ企画は、何だか面白い芝居をやってくれそうだ。でも、今回もまた、前回(汝、隣人に声をかけよ)と同様、どーも何かが足りない感じ。

こまつみちるさんの10分間トーク、あの「なんぴとたりともわたくしめのトークをじゃますることはできないことよ」な気合と、芝居本編での、全篇妄想へのてらいを抱えながら、それでも妄想の主体と対象の間にあるものを追っている感じとの間のギャップが、一観客としては埋めがたいところである。

「イタい女ってこう見えてるんだろーなー」というところに着目して芝居を組み立てるよりも、もっと自分の妄想に忠実にやっちゃっても面白いんじゃないかなー、とも思う。

金曜日の電車の中で、「あ、こうしたらもっと面白いんじゃないか?」と思いついたことがあったのだけれど、それが日曜日の晩になっても思い出せない。終演後48時間経ってしまった今となっては、そっちの方がむしろ頭痛い。

2009年8月28日金曜日

Castaya Project (その1)

10, 24, 25/08/2009

4回公演、都合のつく範囲で3度お邪魔した。こう書くと、何だか追っかけみたいで、かつ、こないだ飴屋演出「3人いる!」 を観て激しく自らの修行不足を感じたにも拘らずまぁたまた「1回こっきり」に命を賭けきれない自分がちょっとはずかしいのだが、まぁ、要は、欲望に素直なんだと思ってください。

http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2009/08/3_20.html

と、先日も書いた通りなので、おそらく日替わりメニューであること自体にはそんなに意味は無くて、多田氏もアフタートークでCastaya氏のメッセージとして、
「Castaya氏としては(見た目にかかわらず)毎回同じことをやっているんだと思います」
ということを話していたし、そうか、おんなじことをやってたのね。

今回のCastaya Projectを僕なりに「名付ける」とすると、「Castaya氏による名付けのレッスン」ということではなかったかと思っている。

<以下、ネタバレです>


第一講: 明らかに多田氏でない人が出てきて多田氏を名乗る。舞台上の人たちを「なっつん」とか「永井さん」とか「柴さん」とかと呼んで、芝居の稽古をする。(という芝居をする)。名付けが、どれほど名づけをする主体の恣意にかかっているか(適当に扱われうるか)を、観客は学ぶ。

第三講: 2人芝居を繰り返す。初回は動き・小道具なし。二回目は役を入れ替えて動き・小道具あり。初回では「呼ばれる」だけで実体が分からなかったものが二回目になって次々に指差され、名指され、より「芝居らしく」なる(しかも、登場人物2人には、名前が無いのだ!)。実体を伴う名付けのプロセスが、対象を持たない言葉から始まる観客の妄想のなお一層のジャンプの手助けをすることを、観客は身をもって感じる。

第四講: 舞台上の人が自分自身を「名付けていく」=「名乗る」。俳優となり、演出家となり、観客となり、芝居となる。観客は、ラストにかけて、舞台の構造や演劇空間の中での役割についても、「観客自らが命名し、能動的に構成することが出来る。芝居の始まりと終わりについてすら自分で名付けることができる」ということを感じる。

こう書くと屁難しく感じるかもしれないけれど、要は、ごっこ遊びをするときの、「じゃあ、こっから先は地獄ね!」「僕がライダー2号ね!」という名づけであっというまに世界が立ち上がるキレと、なんかのきっかけでプイと子供があっち行くと世界が終わってしまったりするキレと、そういう時のステキな感覚を、Castaya氏の、かなり丁寧に作られた導線を伝っていくことによって、劇場の中でじっくり(考えながら)味わえた、ということであります。
ごっこ名付け体験と、それに類似した芝居幸せexperienceの、いわば見える化、ではなかったかと思っている。

それと、観客と演じ手の「主導権の在り方」ということも考えたのだけれど、それはまた長くなるので、追って書きます。

矢野顕子トリオ ライブ

23/08/2009 1st set

とある矢野教信者に誘われて、昨年のリサイタル(@調布)に引き続いての矢野さんライブ。
Blue Note Tokyo に初めてお邪魔した。緊張した。思ったよりも冷たい雰囲気でなくて、良かった。

ベースのWill Leeと言えば、僕が中学生の頃に既にヤマハかどこかのベースのカタログに、「この人も当社ベースを使ってます」という形で登場していて、当時(1980年頃)あんなに真っ直ぐでさらさらなブロンドだったのだから、きっと今ではきれえに禿げているに違いないと思っていたら、いやいやどうして、頑張って今もサラサラ。ステージ全面の扇風機からの風が当たるとサラサラと上に舞い上がって、自毛ぶりを誇示していらっしゃる。

あ、まぁ、髪の毛のことではなくて、Will Leeも含めて、この面子は何となく70年代後半の、「クロスオーバー」「ジャズロック」を乗り越えてきた海千山千のおじさん達、ということで、そういう面子を迎えた矢野さん、聴く方の楽しみ方もさることながら、演奏する方も、Rascalsの曲も含め、そういう風に楽しんでいたのが印象的だった。

本当に上手な人たちが楽しんで演奏してくれるのは、本当に聴いていても楽しいものです。

2009年8月27日木曜日

捩子ぴじん あの世

23/08/2009 マチネ

おおー、なんか、久し振りに、センスの良い舞踏を観たなー、という感じだったのだ。
舞台上のでっかい氷の塊と、開演後出てきて氷を切り始める美術家と、関係なく出てきてぷるぷる踊り始める捩子氏。
美術家と捩子氏の関係は最後までわかんないのだけれど、そのインタラクションがなぞなぞで、
「一体何をひそひそ話していて、何を捩子氏の腕に書き込んでいるのか。読めるのか?」
「なぜ美術家は捩子氏を抱き上げるのか?」
「あの叫び声は何か?」

あれー、いろいろ、面白いことが舞台上で起こってるんだけど、
「このダンスのタイトル、なんだか意味深そうだったのは覚えてるんだが、何だったけか?」
と思ったら終わった。

アフタートークで上記疑問への答が聞けたりもしたんだけれど、何より、変なストーリーとか意味づけとかに囚われてなくて、自分の考えていることと舞台に乗ることがどれくらいrelevantなのかに焦点が当たっているところに、おおー、さすが。と思ったんである。

少年王者舘 夢+夜

22/08/2009 ソワレ

体調の悪いときに休んでりゃいいものを、観に行こうか行くまいかうじうじ悩んでいたら、柴幸男氏が大絶賛しているのを読んでしまったものだから、
「こういうときは血反吐はいても観に行くのが務めである」
と、スズナリへ。

結果、血反吐は吐かなかった。体調も、むしろ良くなった。と思う。観てる間だけは。
天野演出の芝居は観たことがあったけれど、少年王者舘、劇的に面白かった。少年王者舘、おそるべし。

僕の小さなキャパシティで理解していた「芝居」なるものは、もとより作・演出の脳味噌の想定を「超えた」ものが、劇場という場によって、また、観客の眼を通して、産まれるプロセスだと思っていたのだけれど、

一個人の妄想がことば・役者・音・光・劇場全体を支配してしまうおそろしさ。この芝居は天野氏の妄想の外側には一歩も出ていないはずなのに、その妄想の世界の広さ・深さにおびえてしまった。なんという妄想のキャパシティ。そして妄想なのにコンマ一秒まで精緻にできあがっとる。僕にはそこまで自分の妄想を寸分漏らさず直視する勇気はない。

登場人物も、色んな名前がついているけれど、結局、作・演出の分身その1、作・演出のアニマその1、分身その2、アニマその2、分身その3・・・、と、結局出てくる人みんな作・演出の分身で、そこには「役者の自我」なんてものが介在する余地はひとっつもなく、それを嬉々として演じる役者の潔さ。その世界にぐいぐいと呑み込まれて行く事のエクスタシー。

これだけ自身の妄想で凝り固まった世界を創れる人ならば、芝居でなくて他のメディアを使った方が、呑みこまれる方の入り易さも増す筈だし、80年代風言葉遊びを使わずにシーンを繋げる筈だ、と、すこーし思ったりもするけれど、やっぱり、
「この速さでは、そちらにタイミングよく着けません」
みたいな「物理的な限界」を敢えて妄想の世界に持ち込むことで、世界が自転・公転するスピードを制御しているようにも思えて、それもおそるべし。

2009年8月26日水曜日

イデビアン・クルー 挑発スタア

22/08/2009 マチネ

2年前に「政治的」を観てかなりぶっ飛ばされたのは今でも忘れないし、今年春のコウカシタもなかなか好きだったのだけれど、今回の「一族郎党海辺の恋の物語たち」は、何だか物語が仕草に勝って、上手くノれなかった。

日常の何気ない動きが、抽象的な動きと物語性の間を行ったり来たりゆらいで、観てる側は物語ではなくて動きが抽象されていく様に引っ張られて時間が展開する様がとっても楽しかったのだが、今回はどうも、動きの抽象化の契機を失って、物語に引き摺られた「具象のなぞり」に落ち込んでるような気がしたのかもしれない。

ともあれ、老若男女幅広くにしすがもに集めて、最後まできっちりエンターテインしてくれる地力は素晴しいし、「寄せては返す恋の駆け引きは永遠に二人だけの世界」のシーンはとっても素敵だった。

今回を機に当面活動休止と言うことだが、活動再開されたらまたきっと観にお邪魔すると思います。

青年団若手自主企画 昏睡 再見

21/08/2009 ソワレ

初日から4日目ともなると、さすがに余計な力は取れているんじゃないかと思って出かけたが、余計な力は見当たらなくとも、力を抜いている場所は見当たらず。演出・役者ともに息継ぎをする場所が見つからないまま芝居は続く。7対11でサッカーしている感じである(ちなみに最近のCarling Cupで、Swanseaは4人退場、最後は7人になってたそうです)。

まぁ、だからといって、力の入れ加減・抜き加減があからさまに見え出したら、それはそれで面白くなくなっちゃう気もするし、じゃあオレはいっぱいいっぱいの役者を観るのが好きなだけなのか、それじゃー「みなさんエンゲキがんばっててよかったですぅー」と一緒ってことか、やっぱり出来不出来はあるだろー、と言われそうなのも癪に障る...とにかく、例によってヨメに責められるところの「贔屓の引き倒し」で申し訳ないが、そのストレッチの様はどうにも面白いし、変に手を抜かれてないからこそ、妙な細部がどうにも気になって面白く観れるところもあるってことなのだ。

この日も90分間あきずに観続けて、最後のフラッシュバックに差し掛かったところで、あぁ、こうやって、人は、昏睡に落ち込むのだろうか、、と何となく思ったのである。90分間めいっぱい演じられた舞台の裏側の暗闇がチラッと見えて立ちすくみ、
・ もし自分が昏睡の中、夢の中にいるのならば、それが醒めないでいますように
・ どうか舞台がこのまま昏睡の暗闇に落ち込みませんように
という、二つ合わせると全くロジカルではない、祈りのような感覚に襲われた、というのも、それもちょっとだけホントです。

2009年8月25日火曜日

初期型 The Pop

19/08/2009 ソワレ

前回アサヒアートスクエアで"Dumb!"を観たときの「突き抜けることへの意志」とあのスピード感、疾走感をアゴラに持ってきたら、ひょっとしてとんでもないことになるかもしれないと期待していたのだ。

が、むしろ、アゴラの空間を(狭さの故か)持て余していた感がある。どうも動きから加速度が削がれている気がして、それは(色んな小技もあって)観ている側にとってはエンターテイニングな域に踏みとどまっているにせよ、むしろ演じている側がフラストレーションを感じているのではないかと疑われた。

そのフラストが、後半のカワムラ氏の「天井鉄パイプ雲梯アゴラ2周」の荒業に繋がったのではないかと、勝手に推測する。それと同時に起きていた「客席背泳ぎ」の方がむしろ今回の舞台の中で最も「速度をもって進んでる感じ」がしたのが印象的だった。舞台の上で加速度を出すのって、難しい。

青年団若手自主企画 昏睡

17/08/2009 ソワレ

初日。青年団山内健司氏(ほんとーに若手じゃないぞ!)の企画に兵藤公美・「乱暴者」神里雄大を迎えて、かつ、戯曲が、去年のエーブルアートで小生を大泣きに泣かせたこふく劇場の永山氏なのだから、これは観に行くしかないでしょう。サマーソニックと並ぶ当家の一大ファミリーイベントと言って差し支えございません。

当初から「これきりで済ませず、永く続ける企画です」と言ってある上演のど初日の開演前、このわくわく感を家族三人でじっと待つ感覚は、ちょっと忘れられない。

開演直後、いきなり「力漲る」山内氏が登場してから90分間、2人の役者出ずっぱりで駆け抜ける。駆け抜けるといっても「疾走感」はなくて、ドロドロの湿地をトラクターが黒煙吹き上げながらエンジン吹かしっぱなし、但し速度は問わない、といった趣である。

僕はそういう舞台をむしろ堪能したのだけれど、帰り道は朗らかな家族の会話よりはむしろマジ話に近く、焦点は専ら演出家泣かせだったに違いない永山戯曲。
「できが悪い」と切り捨ててしまえるのか。
「なぜ山内氏はこんなにやりにくい戯曲を選んだのか」
「これからどうなっていくのか。戯曲をいじるのかいじらないのか」
「山内氏は初日だから力が入っていたのか」
「兵藤さんは良かったよねー」
「ラス前のフラッシュバックのシーンは良かったよねー」
等々。

今回もう一度観られる僕は幸運だと思う。この初日のドロドロは結構肥沃だ、という予感はある。

2009年8月20日木曜日

肉体関係 48

14/08/2009 ソワレ

おー、京極氏、身体動く動く。富松氏、ほっぺた膨らむ膨らむ。
このユニットのエッチ度はどこまで上がるのか? と思ったのだが、
終演後お2人にもチラッとお話しましたが、どことなく、初日だったからなのか、アウェー感が最後までただよって、もったいなかった。

48手、手を尽くしながらも不発というか、突き抜けないというか、そういうフラストレーションは感じざるを得なくて、もしかすると、演じている方は、観客が乗ってこないのにフラストレーションを感じながらだったのかもしれない。

いずれにせよ。もーーっといけるだろ!なーに出し惜しみしてんだよ!(オレは知ってるぞ!知らんけど)
という気がしたんです。

飴屋法水 3人いる! 再見

20/08/2009 マチネ

飴屋演出による多田淳之介戯曲「3人いる!」の日替わり12バージョン公演、2度目。
美術・音響・照明・趣向全て変えて、でも台詞は多田戯曲にほぼ忠実に。

第一印象は、「あぁ、芝居の演出ってこんなに楽しそうなことなんだ」ということで、
① 演出家の「解釈」を説明する、あるいはそれにそって戯曲を「説明する」演出
② 戯曲の世界・可能性を押し広げる可能性としての演出(そういえば、多田氏がこないだ1+1が何になるかを愉しむ、とか書いていた記憶があるな)
の2通りがあるとすれば、まさに②のプロセスは、楽しいに違いない。観ていても楽しいし。

で、その可能性の拡張に気がつくことに、「上演される演劇を観ること」の愉しみがあるのだとすると、今回の日替わり12バージョンは、観客にとっても創り手にとっても、その気付きの契機として提示されているのではないか、とちょっとおもったわけである
(残念ながら、そうだとすると、小生は、リトルモア地下を2回訪れるまでそれに気がつかなかったのだが)。そうか、そういうひとまとめでのパッケージというか、展示というか、そういうものだったのか。なぁ?

ちょっと待てよ。そもそも、本来、芝居って同じ演出でも1回1回違うんだし(観客の客層も含めたトータルの劇場のあり方は、絶対に違う)。でも、だからといって毎日観たりはしないし(僕は何度も観たりするけれど)。そう。だから、大抵の観客は1回きりしか観ないよ。芝居って。

だから、
①「今日の飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら複数回リトルモア地下に行くこと
②「飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら1回だけリトルモア地下に行くこと
③1度リトルモア地下に行ったことをすっかり忘れてしまって、もう一度「飴屋さんはどういう演出なのかなー?」と、楽しみにしながら再度リトルモア地下に行くこと
この3つは、本当は、同じように楽しめるはずなんだ。「1回きり」を味わいつくすということに命かけてたら。

でも、僕は、「3人いる!」飴屋演出を2度観るまで、それに気がつかなかったわけだ。
まだまだ、修行不足。

今回バージョンの印象としては、ウンジンさんのバイリンガルな頭が、うちの娘のバイリンガルな頭の脳内プロセスとシンクロしている感じがして、とても興味深かった。
例えば、うちの娘は、英語⇒日本語、日本語⇒英語の翻訳を常にしているそうで、そしたら、考えてるときは何語で考えているかというと、どうも、トピックによってそれが切り替わってる感じなのだ。
すなわち、言語Aのわたしと言語Bのわたし。その橋渡しをするわたし。わたしは、3人いる。
そういう感じ。それを娘にも伝えたが、どうもピンとこなかったみたい。

2009年8月16日日曜日

サマーソニック2009

08/08/2009 - 09/08/2009

不調な中ででかけたサマーソニック2009、自分的には不発、まぁ、色々と考えさせられた2日間だった。

7日の雷雨の中の 9 Inch Nails は凄かったらしいが、小生は仕事で不在。ま、そもそも聞きに行かなかったとは思いますが・・・

8日は、All American Rejects が予想外に良いバンドで、これは収穫。Placebo のすべりまくるMCとカッコよい演奏のギャップを愛で、Elvis Costello のロッケンローラー振りを堪能(ギターソロがちと長いか)。Specialsは素晴しかったけれど、聴衆は80年代ロンドンの怒りを共有できてない様子で、ライブを共有する幸せ感に欠けた。ラインアップが小生にとって意地悪なつくりになってて、Tom Tom Club 中抜け、CSS はきけずじまい。

9日はRazorlightからユニコーンとスタジアムで流して、Gogol Bordelloへ。こりゃ凄かった。Gogol を Pogues と較べる向きもあるがそれには小生反対で、Shane McGowan のリリシズムはGogol にはない。東欧風の音をNYで聞かせるならBalkan Beat Box の方が僕好みだし。ただし、会場の盛り上がりは凄くて、みんな百姓一揆のように前へ前へと殺到し踊り狂うとる。一曲目から様子見だった小生は結局取り残されて、「なんじゃこれ?」のまま終演。

『ランバダ百姓パンク』

とでも名付けましょうか。小難しい怒りは不要。とにかくもやもやと不満があって、ええじゃないかと踊れよ騒げよ、ただし、そうやってけしかけるステージ上の奴らにはきちんと計算があって、「この百姓ノリなら世界中どこでもウケるに違いない」なところがランバダの再来を思わせる。エスニックのようでエスニックではない。

こういうバンドも大事だし、頭っから否定するわけでもないんだけど、でも、やっぱしおれは、Specialsのライブで "Doesn't Make It Alright"をみんなで唱和したかった。そういう方が良いよ。

飴屋法水 3人いる!

07/08/2009 ソワレ

12日間日替わりの第7日。
多田淳之介作の「3人いる!」はとても好きな戯曲で、これを飴屋氏が演出するとなればこれは見逃せない。とはいうものの、12日間日替わり全部観るわけにはいかないし、昔あった「In Through The Out Door のジャケット全種類買い揃えました」みたいなのもどうよ、という思いもあり、「2回だけ」観ることにしてます。

台詞はほぼオリジナル台本どおり。固有名詞などの細部とラストに変更。これは「転校生」のときと同様で、「台本に指定されていない部分」を加えたり、変えてみたり。立ち上がり若干すべり気味な気もしたけれど、戯曲の構造の確かさにも支えられて、グイグイ進む。飴屋氏の用意した趣向も、戯曲の進行と「並走して」進む。

その2つのラインが、どラストどう昇華するか、というのが楽しみで、こちらとしては泣く用意できていたのだが、どういうわけだか不発。最初のフレームの嵌め方が見事なだけに、残念。

終演後、N村氏と飲むも、そこでも小生不発。この不発感はなにか。芝居のせいで不発だったのではないのかもしれない。調子が悪いのかもしれない。

2009年8月8日土曜日

ニッポンの思想

1980年代以降の日本の名だたる秀才・論客どもが新書サイズにギュッと押し込まれてゼロ年代まで。因果は巡る20年、クラインの壷の内外を駆け巡りながら行き着いた先はどこか、いや、そもそも行き着く先などあったのか、といった風情で、大きな物語も小さな物語も所詮は新書300ページの夢に回収される。何者にも回収されじと逃げ惑う努力の儚さよ。

もちろん佐々木氏も登場人物どもをひょいと瓢箪の中に吸い込んで見せようなどという傲岸さは持ち合わせておらず、その意味で腰巻の「この一冊で、思想と批評がわかる」ってーのははったりついでの宣伝文句。ただ、思想の「きちんとした」読み手佐々木の20年余りを辿り、その立ち居振る舞いを自分のそれと(もちろん自分は中途半端で途中でほっぽり出す読み手であるが)どう違うかを手繰り寄せる作業は、多分に気恥ずかしさを伴いつつ、頭の整理体操になった。

自分を「ニッポンの思想」のコンテクストに嵌めるとすれば、まだ、80年代に縛られた発想を続けているんだなぁ、と感じた。でも、「逃げる」という動作を伴わずに、じっと地面に足をつけて立ちながら、同時に内と外の両方、あるいは、システムの中の(あらゆる場所ではなくて)自分で選んだ場所に立っていたい。瞬間移動。色即是空。だめかな?

パラドックス定数 五人の執事

05/08/2009 ソワレ

自分でコントロールできない仕事の事情とはいえ、開演時刻を20分過ぎてからの入場。パラドックス定数の芝居を考えると「開演後の入場お断り」と言われても仕方の無い状況だったが、入れていただけました。まずはこの場を借りて関係者及び周囲の観客諸氏にお詫び・お礼申し上げます。

なので、これを読んで小生が「誉めすぎ」と思ったなら「最初の20分観てないクセに誉めやがって」と思ってください。また、「この芝居を必要以上にくさしている」と思ったら「最初の20分観てないクセに何言ってやがる」と思ってください。

が、遅れて入ったからといって大きな筋立てのポイントを観逃したとは思っていない。残り70分の間に起きることで充分バックアップ可能な、「意外性」「新奇さ」に頼らないフレームになっていたからである。ストーリーの展開で引っ張るよりもむしろ各場面・局面での5人の男優の立ち居振る舞い・舞台の構図・ウケセメ(失礼ながら!)に視点が向くように創られているのである(もちろんあの、いかにもインチキっぽい、太宰の「斜陽」のような、過剰に丁寧な言葉遣いも含めてですが)。

そういう佇まいこそが、「わたしにとっての」パラドックス定数の本旨なのであって、それはとりもなおさず「何も芝居というメディアじゃなくても良いではないか」との批判に小生が「それは、そうですよね」と頷いてしまう理由でもある。「個」を捨てて「物語」や「メッセージ」「人間賛歌」に俳優の全てを捧げさせてしまう芝居は星の数ほどあるが、「個」を捨てて佇まいに俳優の全てを捧げさせる芝居はそんなには無い。と思う。そういう小説はあるが(高村薫)。

定刻前に入場していたツレ(パラドックス定数初見)も大方小生の見立てに異議なく、胸をなでおろす。芝居じゃなけりゃなんだということで、「敢えてキズをあげつらえば役者が若すぎる。年寄りの役者揃えて、映画でも出来るだろう」ということになり、キャスティングについて家族会議。
定番は軸にアンソニー・ホプキンスでキマリなんだろうけど、あえてハリウッド風豪華キャストに拘れば、
ニコラスケイジ・ブラッドピット・ジェレミーアイアンズ・ジョンマルコビッチ・イライジャウッド
では如何か。まぁ、自分で言っといてなんだが、これで嵌らないことはないけど、こんなキャスティングの映画観るなら、今日の芝居の方が千倍良いや。