2016年7月26日火曜日

Now We Are Here

23/07/2016 15:00 @Young Vic

前後半それぞれ45分。前半はUKに住む移民の男性3人が、どのような経緯で現在に至ったかを語る、実際のインタビューをもとに再構成したverbatim。後半はTamara McFarlaneによる書き下ろしの女性独り語り。

前半のverbatim、3人の物語はそれそれが十分に魅力的だった。東アフリカの戦火を逃れてUKにやって来たものの、職も居場所も見出だせずに途方に暮れるマイケル。パキスタンに生まれ、父親と弟からの暴力に晒されながら、そこから自らのアイデンティティを確立した末に現在に至るミーア。ジャマイカからやって来た、ガンの発見と同時にホスピスという居場所が確保出来てしまうという皮肉な目に遭うデズモンド。こういうキツい話についてインタビューで話すことの出来る強い人格にはシビれる。また、そうした話を、お涙頂戴に落とさずに構成してみせる手腕にも、いつも、verbatimの芝居を観ると思うことではあるけれど、敬服する。

ただし、この再構成、巧拙を問われれば、どっちかといえば、拙かなあ。何故この3人なのか、とか、3人の物語が、時系列としては重なっているような、重なっていないような、その中で、芝居として立体的な構造を為すように構成されていたかというと、そこは疑問。

後半のモノローグは、やはり、verbatimと比べると「作った台詞だなー」というのが率直な感想。物語の流れも、様々な描写も、すらすらと、磨かれて、淀みなく。物語を聴きに来た人には後半の方が耳に優しかったかも知れないが、筆者にとっては面白味に欠ける、ちょっとロマンチックが勝ちすぎのパフォーマンスだった。勿体ない。

An Evening with an Immigrant

22/07/2016 19:15 @Soho Theatre

ナイジェリアからの移民であるInua Ellamsの自作自演独り語り。ユーモアを絶やさず柔らかな語り口の中に、骨太な怒りが真っ直ぐに伝わってくる、素晴らしい90分だった。

ムスリムの父とキリスト教徒の母との間に生まれた少年(Ellams自身)が、ナイジェリアで子供時代を過ごした後、現在の境遇 - National Theatre等での演劇公演が高く評価され、エリザベス女王の園遊会に招待されると同時に、十分な身分証明を持つことが出来ず、場合によっては女王に招待されながら強制国外退去の憂き目に会うやも知れぬ状態 - に至るまでを、自作の詩の朗読を交えて語る。

何だただの身の上話じゃないか、演劇じゃ無いじゃないか、というなかれ。舞台上、観客を前にして演者が立っている時点で既に芝居は始まっている。それが本当の話なのか、フィクションなのかは後から確かめれば良いことで、少なくとも筆者は、公演を観ている間、その語り口、語られるテクスト、音楽、立ち居振る舞いに集中して、とっても面白く観ていられたのだ。

Ellamsが移民としてロンドンに初めてやって来たのが12歳の時、1996年。奇しくも筆者がロンドンに初めて来た年でもある。その後筆者は10年間ロンドンに「職を持つ正規労働者としての移民」として滞在していたわけだが、Ellams氏はといえば、家族全員が身分証明書を騙し取られた挙げ句に1999年にダブリンにやむなく移住、2002年にロンドンに戻ったが、今度は、いつまた国外に追い出されるか分からない(しかもどこへ?)移民として、である。ステータスは違っても、「これは他人事では無い」と思ってしまうのは、今の自分の母国がちょいっとおかしなことになりつつあって、本当に帰りたくなるかも知れない、その時は自分も難民申請だろうか、などと半分真剣に考えているからだけれども、それはさておき、そんなひどい目に遭ってしまう過程で彼が語る、ナイジェリアの学校の寮の思い出、ダブリンのバスケ部の思い出、詩作に関わるようになったきっかけ等々、そうしたエピソードが、彼の柔らかな声質と悪趣味に陥らないユーモアとに包まれて、押しつけがましくなく入ってくる。そういうところから始まるからこそ、「住む」ことを勝ち取るための苦難と、それに由来する、UK政府の役人どもの、場当たり主義でご都合主義で、いざとなると法律と官僚制度の奥に引っ込んで隠れて責任逃れする態度(それは、移民政策というよりも、移民への態度、であると筆者は思う)への大きな怒りが、柔らかなテクスチャーのすぐ後ろに存在していたことに、驚き、また、敬意を抱く。

すっごく怒ってるはずなのに、それを前面に出したアジ演説芝居や、涙ちょちょ切れお涙頂戴物語として自分の語りが消費されてしまうことを拒み、あくまでも90分の「移民との夕べ」を観客に過ごしてもらおうという、そのホスピタリティへの意識の高さと作劇の確かさ。これは、日本でいえば畑澤聖悟さんの懐の深さ、間口の広さ、そして怒りの強さに通ずるものがあると思った。そしてまた、これだけ強い怒りを感じていながら、その怒りで自らの眼を曇らせずに人々に語りかけることの出来るパフォーマーに出会ったとき、それに対して抱く感情は、感謝と敬意。ありがとうございました。

2016年7月25日月曜日

Wild

16/07/2016 19:30 @Hampstead Theatre

ぼくは、福原充則さんが三鷹の星のホールで上演した「全身ちぎれ節」のことを一生忘れないと思う。どんな芝居だったかは(すみません!)ほぼ全部忘れたが、ただ、千葉雅子さんが出ていて、酒焼けしたような声だったことと、最後の高松泰治さん(オマンサタバサさん)の階段落ちは、一生忘れない。星のホールのバトンの高さまで聳え立つ階段(昇りきった先には何もない、すなわち、そこから落ちてくるだけの機能しか持たされていない、トマソンを地で行くような階段)から落ちてきて、舞台前面から客席に向かって飛び出し、客席最前列の観客の間に着地してうずくまる高松氏!

乱暴だったとか、無謀だとか言っているのではない。あの高さからの階段落ちを、公演期間中、継続して実行するだけの読みと計算を効かせることのできる役者として、高松泰治さんを忘れない、という意味である(あ、もちろん、高松さんは、あなざーわーくすとかシベ少でも拝見していて、他の部分でも役者としてリスペクトです、勿論。ゴキコンは観たことないけど)。

何で、ロンドンHampstead Theatreで上演されている、Edward SnowdenとWikileaksの事件をモデルにした芝居、"Wild"のことを書くのに、星のホールでの高松さんの見事な階段落ちのことを書くのかというと、それは、まさに、
「芝居の中身は横に置いといて、ラストの装置が凄かったんです!」
と言いたいからです。以下、100%ネタバレになるけれども、他に観るべきもの、書くべき事が無い芝居なのだから、しょうが無い。

<以下、ネタバレ>

休憩なし4幕(4場?暗転3回)のこの芝居。舞台はモスクワのホテルの一室。アメリカ政府の超重要情報をリークしたばかりのアメリカ人の青年が匿われているようだ。彼は今、ロシア政府による受け入れの可能性について、「彼」(おそらくSnowden氏を指すと思われる)を介して探っている状況。そこへ、「彼」のエージェントを名乗る女性がやって来るが、彼女が居なくなると全く別人の男がやって来て、その女は贋物だと告げる。さて、誰が見方で誰が敵なのか、青年の運命はいかに。ハラハラどきどきの心理戦が繰り広げられる1時間40分。って、こんなありがちなスパイもの物語の結末なんぞ楽しみでも何でも無いわ。
案の定、ラスト、二人とも同じ穴の狢、所詮はその青年、巨大権力の掌の上で暴れてみせる孫悟空だったね、というお話なのだが。

3場目の終わり。暗転の直前に、主人公の青年がホテルの部屋の壁に手をついて、「アレッ?」という顔をするのだ。そして、4場、自身が巨大権力の掌中に落ちたと自覚しかけた彼が発する問い:「実はここ、ホテルじゃ無いだろう?」 
ハイ、ご名答!!舞台奥の壁が左右の袖に引っ込み、天井が一枚の白布となって吸い込まれ、両袖の壁は舞台奥・劇場の天井へとスライドして呑み込まれ、ホテルの部屋は一気にHampstead Theatreの素舞台へと変貌する。

そして何と、ここからが驚きの展開。素舞台だと思っていた舞台の床が、ここから反時計回りに回転していく。床だと思っていた板が、舞台上手にそびえる壁となる。床に置かれていた椅子、そこに座っていた主人公もそのまま90度回転して、壁から生えた椅子に青年は座り続けている。こりゃ凄いよ。

でもね。

そこまでやっといてだよ。舞台と客席の間の壁について一切言及が無い、もしくは処理されていないのは、不自然、いや、ダサダサだって、誰も指摘しなかったのかい?
それとも、気がついていたけれども処置なしだったのかい? それとも小生の重大な聞き逃しですか?(いや、その可能性は絶対に排除できないんですけどね・・・)

でもね、そこは放っておかれてたと思うんだよね。多分。それでもって、このどんでん返し、すごいでしょ?って言われても、興醒めだ。

終演後、パンフレットは買った。セノグラファーを確かめるため。Miriam Buether。去年小生が観た芝居だけでも、Young Vic の審判、Royal CourtのEscaped Alone、Tricycleの(その後 West Endでもロングランした)The Father、AlmeidaのBoyと、気の利いた舞台美術をたくさん手がけていた! 収穫!(ちなみに野田秀樹さんのThe Beeの美術もMiriam Buetherの手になるものだそうです。小生は観てないけど)。
作者のMike Bartlett、チャールズ3世とかで評価の高い人だけど、こういうありきたりの芝居を「ぼくって凄いでしょ?」って言いたげに作る人だとすると、今後は眉に唾して観なきゃなんないな。

2016年7月24日日曜日

Ex Machine/Robert Lepage / Needles and Opium

15/07/2016 19:45 @Barbican Theatre

ケベックが誇る、いや、カナダが誇る大御所、Robert Lepageの有名作品(1991年初演)。とはいうものの、小生はLepageの名前にも作品にも、全く縁がないままここまで生きてきたから、先入観はない。Time Out誌に「とにかく舞台装置だけでも観に行け」とあったのでのこのこ出かけていったのだが、確かに舞台装置は凄かった。

キューブの6つの面のうち3つを切り取って、3つの面を残して、それを回転させながら、「壁」「床」「天井」の役割にもローテーションを掛けていく。役者はワイヤーに吊られ、壁にもたれてこらえ、劇場の床に飛び降りながら、その空間に立ち、それを横切り、演技する。

その効果は、先ず、こけおどしとしては相当のものだし、格好良いし、洗練されているし、段取りの数も半端ないだろう。でも、その舞台装置の効果が全面的に報われているとは思わなかった。極端な話、舞台を回さずに、素舞台で役者が語ってるだけで十分説得力を持つ芝居は、他にいくらでもあるのだ。そこから始めてはいかが?と思ってしまった。

冒頭から、誰が誰に向かって話しかけているのか、焦点が定まらず。1991年の初演時にはLepage自身が演じたそうだが、その方が観ていてしっくりきたのかも知れない。役者が演じるLepageと、Cocteauと、役者自身との入れ子が、今一つ立体感を持って立ち上がってこなかった。Lepageが大西洋のあっちとこっちで仕事をする様と、Cocteauの北米での体験、Miles Davisの1949年パリツアーでの体験が織り合わさって、時間と大西洋を飛び越えた世界が拡がっていくのを期待していたのだけれど、思いの外、キューブの外に拡がりを持たずに終わってしまった。

Lepageのフランス語・英語バイリンガルならではの愚痴大会は可笑しく観たけれど、Miles Davisのパートは、(役者は変な思い込みがなくて良かったものの)相当キレイに抽象化された(殺菌された)Miles Davisになっていて、正直、Milesのパートは眠たかった。この間観た映画Miles Aheadで観た、Don Cheadleが演じるMilesの方が、余程か地上の人間として、Opiumならぬコケイン吸い込む必然性を感じさせたと思う。

総じて、大御所の舞台を拝観させていただいた、だけに終わってしまったかな。

2016年7月23日土曜日

That Catholic Thing

14/07/2016 19:30 @Camden People's Theatre

この日にCamden People's Theatreに行ったのには、芝居そのものへの興味とは別のイシューもあって、友人の演出家Sさんと、Camden People's Theatreがどんな小屋かを確かめに行こうよ、ということだったのである。もとはパブだったこのスペース、大体50−60人くらい入ると満腹感があるぐらいのキャパシティで、スタジオっぽさがちょっと日本の小劇場を思わせる。時に外を通る車の音が丸聞こえなのが難点だが、昨年観た男2人芝居"God has fallen and all safety gone"がとっても良かったものだから、Sさんにも、役者少人数でやるんならちょうど良いんじゃないかと思って紹介したわけである。ここの小屋のラインアップを一見しても、色々新しいことを受け入れてくれるような気もするし。

で、開演時刻を迎えたのだが、Sさんは現れず。

前評判がさほど高いわけでもなかったこの芝居を独りで観る羽目になったのだが。予想よりも面白かった、という感想。

カトリックの信心深い妻(妊娠中)と無神論者の夫。夫がある夜見た夢をきっかけに神様にのめり込んで、預言者を名乗るようになる。疑ってかかっていた隣人や村の神父も、ベーコンサンドイッチのベーコンに映るキリスト様の像を見て、これはほんまもんの奇跡だという話になり・・・という話である。
まあ、途中で大体予想がつくというか、ありきたりというか、物語自体に驚きはない。途中に出てくる、預言者ものならではのエキセントリックな行動・台詞も、特にそれらをもって面白いとか下らないとか、そういうことをいうほどでもない。 

でもね、気になるのは、作者のAnne Bartramがこの戯曲について、「自分のカトリック信者としてのバックグラウンドと経験を題材として」書いたとしている点。それって、この芝居は、彼女のカトリックの教義や信仰、日々の儀式に対する見方を照射した結果だ、ということで、正直、信者でない自分には、そこをどう受け止めれば良いのかは曖昧なままだ。でも、彼女の言うことをそのまま取るとすれば、カトリックって相当しんどいよね。中学生の頃、ある日曜日の朝、カトリックのミサに「お試し気分」で入ってみたら、とっても怖くなってしまって、「自分はカトリック信者にはなれないし、何かを信仰することも無理!」と確信した瞬間を思い出す。
しかも、この、Anne Bartramという人は、骨髄腫で余命幾ばくもなく、最後の願いが、自分の書いた芝居がロンドンで上演され、レビューが全国紙に載ることだって・・・
作者にとってはしんどい作品なのだろう。それを「ありきたり」と感じてしまう自分もどうしたものか。と思ってしまう。

このCamden People's Theatreは、おそらく、もっとスタジオのように使って、ものを置かずに演技スペースを取った方が良いのではないかな、と思った。やはり、小さい小屋に小さいセットはどうしても貧乏くさく見えてしまうので。

Sさんは、早く着いてしまったので近所を散歩してたら戻って来られなかったんだそうだ。下手ではけ口と観客の入場口がほぼ一緒の場所にあるので、開演してしまうと絶対に途中入場できない作りになっているのです。終演後に無事にロビーで落ち合って、飯食って帰りました。

2016年7月19日火曜日

地点 ファッツァー

09/07/2016 20:00 @Ringlokshuppen Ruhr

渇いた身体に水を飲むと胃の腑にしみわたるように、舞台上の色々の事象が五感に突き刺さってきた。地点のファッツアーはNHKテレビの録画も含めて何度も観てきたけれど、今回ほど、音と目に見えるものの輪郭がクリアーに感じられたことはなかったと思う。空間現代の野口氏のテレキャス、山田氏のハイハット、古谷野氏の重低音、窪田さんの台詞、ベルの音、壁についた軍歌の足跡、黒時々赤、河野さんの脚、ストロボ。ああ、これが見たかったんだ、これが聞きたかったんだなあ、と感じた。

その前の公演の閉幕が押したために開演も15分間押して、観客がちょっとざわついているところに、ライプツィヒ大学のギュンター・ヘーグ先生が飛び入りで事前豆レクチャーをしてくれた。まずは、今の日本の社会・政治状況と演劇シーンについて、安倍政権の性質、安保法案や改憲等に触れつつ、東北の震災と原発経由で三浦基・岡田利規・マレビトの会などに言及。続いて、地点のスタイルについて、能や文楽から説き起こして説明。これを15分間で。ドイツ語を解さない小生にすら何を話しているかが分かり易いレクチャーだったのだから、きっとドイツ人にとっても論旨明快、分かり易い導入だったに違いない。そのせいもあってか、本番に入っても客席が集中していて、200人程度は入りそうな、アンダースローと比べるととても大きな小屋だったけれども、空間現代の存在感は全く減じることなく、役者も遠く感じることなく、緊密な空間が生まれていた。と思う(小生のお隣のドイツ人の方はいびきかいていらしたが・・・)。

舞台奥の壁はへなへなにしなる仕様になっていて、役者が張り付くとしなって揺れる。これは面白い効果だな、と思っていたら、色んな事情でそうなってしまった、というだけのことらしいのだが、いや、でも、面白かった。ソンム100年を様々なところで目にしてきた後だからか、舞台上の溝はかなりはっきりと塹壕として認識された。役者同士は対面せず、客席の方を向いて話す台詞が、会話の切り貼りのようにも、切り分けられない群衆の中から湧き出る囁きのようにも聞こえる。そうやって、この上演は、色々な境目を強力に乗り越えていた。芝居だけれどもライブ。ドイツの話だけれど、日本人のこと。日本人の役者だけれども、ドイツの話。6人で演じるけれども、5人の話であり、みんなの事象である。群衆の話だけれども,一人一人のことだ。そういう広がりを持つ素晴らしい作品だと再認識。

Saarländisches Staatstheater / Fatzer

09/07/2016 18:00 @Ringlockschuppen Ruhr

ドイツ西部にある町、ミュールハイム市まで、ファッツァー祭りを観に行ってきた。デュッセルドルフから電車で30分、ルール工業地帯の中にあって、デュイスブルグとエッセンという、2つの大きな都市に挟まれ、古くは石炭・鉄鋼に関連した都市として栄えた。石炭採掘をやめてからは緑の多い、静かな、大都市からちょっと外れたルール河畔のこぢんまりとした町となっている。が、何を隠そう、ブレヒトの「ファッツアー」に出てくる脱走兵達は、ミュールハイム市内の地下室に身を隠す、という設定になっている。そして、ミュールハイムにある劇場Ringlokschuppen(ラウンドハウス)では、それを祝して(?)、毎年初夏に「ファッツァー祭り」を開催しているのだ。今年は、日本から地点、ザールブリュッケン市のザールラント州立劇場のプロダクション、そして、ベルリンから来た若手2人組バンドの演奏、シンポジウムとアーティストトーク、といったプログラムだった。

まずはザールラント州立劇場のプロダクション。登場人物は男性4人と女性1人。原作とこれは同様だけれども、ファッツァーをネタにしたレビュー仕立ての1時間45分。お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。前半はブラックタイとイブニングドレスの5人によるポリティカルなせめぎ合い。後半は「人間の形をした着ぐるみ」を着た5人による市民座談会から、混沌としたエンディングへとなだれ込んでいく。小生がドイツ語を解さないせいで、全く面白さの拾いようがなかった、という面もあろうけれど、翌日偶々電車で一緒になったドイツ人の某教授も「あれは良くなかった」とおっしゃっていたから、まあ、言葉に関係なく、出来は良くなかったのだろう。展開に行き詰まると音楽を鳴らしたり、声を揃えて台詞を言ったり、そういった手口がいかにも苦しい。交渉が舞台・客席を覆って終わる、という意図と意気込みは伝わってきたけれど、そこまで全く持って行けてないことをもって「面白い芝居だった」とはとても言えない。

興味深かったのは、(ドイツ語を解さないのにどこまで分かっているつもりなんだ? と突っ込まれると答えに窮するものの)、どうやら、ファッツァーの仲間内、あるいは、登場人物の仲間内での摩擦を、「個人と個人の間の摩擦、権力闘争」として捉えている感が全面に押し出されていたこと。この後拝見することになる地点のファッツァーが、「分割できないものとしての群衆」や「何者でもないものとしての個人」を意識した仕立てになっているのとは対照的だった。やはり、西洋は、個人があって、対話があって、そこから集団を形成していく土地柄なのかなー、と考えたことである。

2016年7月17日日曜日

Queens of Syria

09/07/2016 19:45 @Young Vic

シリア人の女優13人による「トロイの女」とその周辺。冒頭、13人が舞台に登場した時点で涙が出てきて止まらない。彼女たちが舞台に立つこと自体が強烈に政治的であること。政治を語らずとも - アサドという名も、ISという名も、欧米諸国の名前すら、一切口に出さずとも - 彼女たちが舞台にいること自体が十分に強力で、自分はどの顔をしてこの客席に座っていられるのか、と自問し続けざるを得ない。

彼女たちは語る。ダマスカスやホムスでの暮らしについて。お気に入りの壁紙や庭の花壇や調度やごちそうや家族との暮らしについて。ある者は語る。自分は台所にいて、わが家の女王であったと。またある者は語る。いとこの死について。兄弟の脱出や自宅への爆撃や頭上を旋回するミグや国境で袖の下として差し出したスマートフォンについて。彼女たちは自分たちが失ったものについて語る。家族、親族、住居、スマートフォン、街、国。淡々と、泣きを入れずに語る。でも、時には言葉に詰まり、涙を拭う。無理もないだろう。でも、自分はもらい泣きしない。何故ならこれは舞台上演だから。お涙頂戴の感動の一端にあずかりたいのであれば、他に行くべき劇場は山ほどある。

舞台俳優としての彼女たちは、取り立てて凄みのある、技術を備えた役者達ではない。とてつもない出来事をくぐり抜けてきたからといって、必ずしも演技に厚みや渋みが加わるわけでも、顔に苦悩の皺が余計に刻み込まれているわけでもない。文字通り、等身大の、シリアの女性達が、舞台に立って、「演技している」。

これは、演劇なのか。アジ演説と変わりないのか?

筆者にとっては100%演劇である。たとえ台詞が一言もなかったとしても、声を揃えて「トロイの女」の台詞を読まなかったとしても、彼女たちが舞台に立っているということ自体が、十分に演劇的であり、十分に政治的である。等身大の姿が、そこから始めて、シリアとロンドンの間の距離を感じさせ、過去と現在と未来の間の距離を感じさせ、彼女たちの内面にあるもの(そもそも内面なんて目に見えるわけがないのは分かっているけれども)を強烈に想像させる。それが、演劇ならではの圧倒的な力だ。だから、これは凄い演劇なんだ。そう思う

Faith Healer

01/07/2016 19:30 @Donmar Warehouse

北アイルランド出身の劇作家Brian Frielによる3人芝居。1979年にブロードウェイで初演、その時は不入りだったようだが、その後あちこちで再演を重ねている。今回は(Game of ThronesやThe Real Thingで有名な)Stephen DillaneやRon Cookも出演ということで、8月の千穐楽まで売切御礼。偶々リターンか何かで出ていたチケットをネットで手に入れてDonmarへ。客入れ中、舞台を囲むように水が絶え間なく上から降り注いでカーテンとなり、それを鈴なりになったハロゲンランプが上から照らす。開演すると中に舞台が現れる。板張りの床。質素な舞台。

3人芝居。2幕4場。モノローグのみ。Faith Healer(直訳だと信仰治療師だが、実態は田舎のパブをどさ回りしてあぶく銭を稼ぐ、治るも八卦治らぬも八卦の呪い療法師)と、その妻と、マネージャー。3人のどさ回りの思い出と、アイルランドのとある小さな村での事件の顛末について順番に語る構成をとる。それぞれに微妙に記述が食い違っているのだが、その整合性チェックと真実の所在の謎解きはこの芝居の主題ではない。むしろ、このテの「信頼できない語り手」による語り芝居では、受け手の想像力のスイッチをどうオンにして、受け手一人一人に勝手に物語を紡がせるかに醍醐味があるはずで、その背後に芝居がお膳立てしてくれた豊穣な世界(そこは曖昧模糊とした世界で、そこには必ずしも一つの真実は隠れていない)を堪能。ただしそこから「隠れた関係性の襞」が汲み取れなかったのは、小生の英語力の不足か、モノローグ芝居故の至らなさか。いずれにせよ少し残念。

語り手は観客席に対して語りかけるので、客席の反応へのレスポンス、目線の配り方、客席でのノイズへの反応が注目されるけれど、Ron Cook(Conor McPhersonのSeafarerで悪魔を演じていた方)が出色で、さすがと思わせる。「誰がどういう状況で誰に対して」語っているのかは、この芝居では最後まで曖昧なまま、そして登場人物3人の記憶も、曖昧なのか故意・錯誤で歪められているのかは判然としない。とにかく、本人の「ここにいるのだ」という確信と、3人の関係性だけは、確かにそこにあった。

平田オリザの「所詮2人の仲は平行線。でも、そこに一本斜めに線を引けば、そこに2つできる錯覚(錯角)と錯覚(錯角)は互いに等しいじゃないか」ていう台詞を思い出したりしたのだ。

2016年7月16日土曜日

革命アイドル暴走ちゃん

25/06/2016 18:30 @Barbican, Pit

2016年、夏の欧州ツアーの最後を飾るバービカン・センターでの上演は、期待に違わぬフルスロットルでの暴走に圧倒的な作り込みの完成度の高さがきちんとついてきて、息もつかせぬ45分間。観ている最中、余計なことが頭から離れて、心を持って行かれた。観終わった後、劇場を出ても、スカッとした気分。

まずは客入れ。MCが良い。革命アイドル暴走ちゃんのコンセプトをしっかり理解していて、開演に向けて客席からの期待感を絶妙に、どんぴしゃりに操っていた。続いて登場する二階堂瞳子さんの日本語挨拶通訳付き、ってこらーっ、早口すぎてネイティブ日本人にも全く何言ってるのか分かんないじゃないかー、と思ううちに本編に突入するのだが、そういえばそうだ。革命アイドル暴走ちゃんの醍醐味は、意味を追ってもしようがないと思わせるまでの圧倒的な場量の多さとスピードと、それをつきぬけたところにある、どうしようもない伝わらなさの涅槃にあったんじゃないか。それを思い出した。

雪、花、わかめ、水は、今回は海外公演だからか臭い控えめ、下ネタ控えめ。舌ベロベロは、若干春画ジャポネスクを意識したサービスか。テキサス人のアマンダが舞台のセンターに立つ場面が多いように思ったが、それはおそらく、言葉のこともあったかも知れないけれども、あまりにこの座組を「日本チック」に固めると、観客の意識が「海の向こう、極東からやって来たキワモノでも観に行くか」っていう感覚に心地よく収まってしまうことを防ぐ効果があったとも思われる。そしてその効果は十分に上がっていたと思う。観客を舞台に上げて、その挙句に客席から舞台に向かってお辞儀してさっとはけていくフィナーレまで、見事な出来映え。猥雑さを失わずに余計な者をそぎ落として完成度を上げた、本当に素晴らしいパフォーマンスだった。

Open for Everything

18/06/2016 19:30 @Royal Court Downstairs

ロマ(日本語だとジプシーといった方が分かりやすいかも知れないが)のパフォーマー15人を中東欧各国からオーディションで集め、それに韓国・ドイツ等の「西側の」身体の良く動くパフォーマーを加えておくる90分。歌、語り、踊り、時としてちょっと説教臭さが鼻につくスキット。最後まで飽きずに観た。

目を奪われたのはやはりロマのダンサーの中でも身体の動く男の子達。独特のリズム(筆者は最後まで拍子が取れなかった)に乗せたダンスが、技巧は凝らしてもしなやかで、スカして見えず、印象的だった。だけれども、最も格好良かったのはバンドの面々。キーボード、ドラム、ベース、バイオリン、ギター。クレズマーっぽいバンドが「クレズマー、やりまーす」ではなくて、飽くまでも舞台をドライブする手段として音楽を鳴らし続ける。楽団は舞台の上方、雛壇の上からダンサー達を観ながら、ダンサーの熱量に合わせて演奏の熱も上下動させる。オッサン達の舞台のうねりの差配に、シビれた。ドヴォルザークの「新世界より」のアレンジにも、シビれた。

今の欧州でロマの置かれている立場と状況を考えれば、客席からこういうショーを素直に楽しんでしまって良いのか、という疑問も無くはないけれど、良いんだ。楽しめば。舞台上のパフォーマー達は、踊れる者も踊れない者も、少なくとも「自分たちは、居る」ということを強烈にアピールしていて、それ自体が最早政治家に委ねるにはあまりにも政治的だ。それをそのまま受け取れば良いのだ、と開き直って楽しませていただいた。

2016年7月15日金曜日

Blue/Orange

18/06/2016 14:30 @Young Vic

精神病棟に1ヶ月入院していた青年。統合失調症のおそれあり、長期入院させて「助けてあげるべき」という意見の新人医師。経営上の(より具体的には病床数の)理由から退院させるべきという意見の上司。3人のやりとりの中から、陰に陽に現れ出でる権力関係の諸形態。

劇場のドアをくぐって観客席に向かうと、診療室を通り抜ける。へえっと思って客席につくと、何と囲い舞台をめぐる蹴込み(透明のアクリル板である)を通して、さっき通ってきた診療室が見える。舞台はその真上にあって、さっき見たのと同じ椅子、机、ウォータークーラーが配されている。すなわち、真下の診療室の壁を取り払った恰好になっていて、何だか「いいですか?本当はここに壁があるんですよ」と言われているみたいで、ちょっとくすぐったい。

登場人物3人の間では、上司と部下、医師と患者、白人と黒人という権力関係が明確で、その関係を突き詰めた、濃密で剥き出しのやりとりがこの舞台の見所であることは間違いない。一方で、白人=医師、移民=患者という上下・階級関係の分かり易さは(それがUKの現実なのだとしても)、ステレオタイプな同情と、それと裏返しの状況として、観客を「物わかりの良い、安全な立ち位置に身を置いた」人へと押し上げてしまっていた気がする。先日Royal Courtで観たCyprus Avenueでは、診断される側が比較的裕福なプロテスタントの初老の白人男性、セラピストがアフリカンの若い女性という風に置くことで効果を挙げていた。それは「先入観をひっくり返す試み」といった軽はずみで小便臭い売り文句ではなくて、劇場に足を運ぶ「もっぱら教育のある、ある程度生活に余裕のある人々(もちろん白人が多い)」を安全な立ち位置に置いてしまわないための仕掛けである。

その意味で、緊張感のある熱の入った芝居であることは認めるとしても、観客を安全な立ち位置から引き離すまでには至らず、これまた惜しい芝居だった。

Human Animals

11/06/2016 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs

ロンドンの街にキツネやらハトやら何やら、動物が異常に増えて溢れて、感染症の懼れが広がって、動物の駆除が始まって、人の出入りまでもが制限されたときに、そこに閉じ込められた人々がどう振る舞うのかという話。もちろん舞台上に動物は出せないから、外の様子は6人の役者の会話から推測するしかない。すなわち、役者の会話の外でドラマが進行している。現代口語演劇まであと一歩。

この芝居の面白さは、街が動物で覆われる事態を、大掛かりなハリウッド映画で見せるのでなく、登場人物のミクロな感情の揺らぎで見せていくところにある。母と娘、パブで知り合った男二人、若いカップル。もしこれらの会話がもっと微に入り細に入り、完成度が上がっていたなら、窓の向こうに血が飛び散る仕掛けすら不要の厳しい芝居として成立していたはずなのだけれど、惜しい。

もちろん、異物としての動物は、人間をあらわすメタファーと取ることも出来る。特にロンドン近辺でどんどん増えていく移民・難民。コミュニケーションが取りにくく、何を考えているかも分かりにくく、自らの生活を圧迫しているかのようにも感じられる存在。そういう意味では、イギリス人の観客は登場人物の側、筆者は動物の側にいる。曲がりなりにも税金払ってる筆者と違って、職探しも、声を挙げる機会を見いだすことも、コミュニケーションの手段を手に入れることも難しい移民たちが、この舞台の上の動物だとするならば、この芝居がEU離脱の国民投票の直前に上演されたことには微妙な意味がある。

もし、この芝居で「動物」を持ち出さず、その代わりに言葉の全く通じない「人間」を使っていたら(かつメロドラマに落とし込まなかったなら)どんな恐ろしい芝居に仕上がっていただろうか、と思うと、やはり、惜しい(ん?それって、ひょっとしてブレードランナーか?)。作者のStef Smithは昨年エディンバラで観たSwallowの作者でもある。そう言えばSwallowも惜しい芝居だったな、と。

2016年7月14日木曜日

Phaedra(s)

10/06/2016 19:00 @Barbican

トータル3時間半の長い芝居。最初の2時間半、延々と、ワジディ・ムアマッドバージョンとセイラ・ケインバージョンのパイドラを絶叫芝居で熱演させておいて、観客に「くだらねえ!」と感じさせておいて、その後クッツェーのキャラであるエリザベス・コステロ登場。「いいか、フェードルっていったって俺様の手にかかればこんな知的なエスプリの塊として提示できるんだぜ」という展開。演出家の意図は、ここでエリザベス・コステロ出して「さすがオデオン座のフェードル」って言わしたいのだろうから、一観客としてはここは素直に「はいはい、演出の方の頭が良いのも、イザベル・ユペールが絶叫芝居も知的エスプリ芝居も両方こなせる大した役者さんであることも、どっちも良—く分かりました。分かったから、頼むから、最初から面白い芝居を見せてくれよ」と言うしかない。カーテンコールの拍手も、「はいはい、よーくできました。役者さん、頑張りました。お疲れー」な拍手以外のモノではない。

ヒッポリュトス役の役者が、疲れた中年男の風体で味が染みている。その味が、芝居そのものではなく、演出家の知性のひけらかしにのみ奉仕していたのが何とも残念だった。

The Threepenny Opera

04/06/2016 14:00 @National Theatre, Olivier

Rory Kinnearは決して悪い役者ではないのだろうとは思うのだけれど、何の相性が悪いのか、昨年Young Vicで観た「審判」に引き続き、今回の三文オペラもパッとしない。何と言っても、オペラを銘打っているにもかかわらず、歌のパートになると苦しそうに見えるのが辛い。演技しているときは細かいところまで丁寧に演じて決してダメな役者ではないのに、丁寧に台詞を喋っている分だけ、歌になるとどうしても余裕のなさが見えて、ニュアンスが死んでしまうのが苦しい。

National Theatreのプロダクションで三文オペラを上演するからには、予算も取ってあるし意匠も凝らしてあるし、そこは十分に見応えがあった。回り舞台やせり上がり、櫓も建てて、時にはパネルのプチ屋体崩しから3階建て階段まで、豪華かつ効果的。バンドの使い方も上手だった。乞食社長が出てくるシーンはダイナミックで、唐組の舞台を思い出すし、マックの手下の若い衆は三人組の原点じゃないか!と思われるような活躍ぶりだった。ただし、そうした面白味が、どうも一定のレベルまでのおとなしさ・収まりの良さに収斂していて、弾ける感じには至らず。トータルでも合格点取ってハンカチで汗を拭いてみせる、優等生なできあがりになっていたのが残念だった。

2016年7月13日水曜日

Apichatpong Weerasethakul - Memorandum

29/05/2016

今年のクンステンフェスティバルの会期中、関係者の間では常にApicatpongの名前が囁かれていると聞いていたので、これは観に行こうと、フェスティバル最終日に飛び込みで。恥ずかしながらこれまで彼の映画を観たことは一度もなかったのだけれど、だからこそ、なのか、でも、なのかは不明だが、全く飽きずに会場にいられた。ショートフィルムや、映画の断片のようなシーンが会場に並べられていて、現代美術のインスタレーションの展示とさほど変わるところもない。

光の具合、色の生々しさ、敢えて物語のペースからは外れて、違う場所へと意識を持って行ってくれようとしているようで、心地よかった。作者のストーリーをごり押しせずに、観ている人々に組み立てさせようとしているのではないかと思われ、だから、カメラの視点も妙なところに置かれていて、そこにも僕の妄想が働く余地がある。

廃屋か倉庫のような建物の中に差し込む日光が生み出す光と影の変化を一日追い続けてみたり、森の中に開けた場所にぽつんと置いたベンチに、若者達が順番に並んでポートレイトを撮って貰ったり、骨董というほど古くもないが成金というほどピカピカでもない石像達をずっと追ってみたり、人工透析を繰り返したり、可愛くも何ともない若い男性の寝顔を追い続けたり。押しつけてないんだけれども印象に残る。これは大変な人だ、と思う。

家に帰ったら、買って観ないままに放置しているUncle BoonmeeのDVDを観ようと決めた。観たら、それもやはり大変素晴らしい映画だったのだ。

2016年7月11日月曜日

Eleanor Bauer & Chris Peck / Goodmove & Ictus / Meyoucycle

28/06/2016 22:00 @Kaaitheater (Kunstenfestivaldesarts)

行き過ぎた情報化社会に異を唱え、wifiやスマホと袂を分かち、自分のエゴと身の回りだけを信じて地下に潜ろう、溢れる情報に操作される世界よさようなら、自我の回復よこんにちは、というメッセージを力強く観客に押しつけ続ける2時間。絶叫とナルちゃんエモギターを主軸にミュージカル仕立てにしてあるけれども、技術の伴った学園祭の出し物の域を出ず。

観ながら感心していたのは、パフォーマー達が、上演中、常に自信満々であるように見えていたこと。こういうパフォーマンスを、真っ直ぐに、伝わるに違いないと信じて(あるいはこれで伝わらない奴らはバカか敵に違いないとみなして)舞台に乗せていること。「妙な情報化の中で自分を見失っていませんか?」という、ある意味大変重要なテーマなのだから、稚気に溢れたアイロニーも含めて受け容れられてしかるべきだ、という気合いが充ちみちていることに感心したのだ。帰り道、演出家・振付家のH氏(あれ、K氏だったっけ?)いわく、最初の10分でいいたいことは分かっちゃったと。その通りである。事実、僕が25字以内で纏めてあげているではないか。

それをクンステンフェスティバルに出品してしまうという荒技は、この集団だから出来るのか、アメリカ人だから出来るのか、クンステンだから出来るのか。答は分からない。クンステンの出し物の中でも評判が良いらしいよ、と聞いて出向き、客席も一杯だったのだが、さすがにブリュッセルの観客の中にもカーテンコールで全く拍手してない人たちが結構いて、そこは不幸中の幸いだった。