2006年12月28日木曜日

National Theatre "Seafarer"

相変わらず Conor McPherson は良い。
観終わった瞬間に、「あぁ、いい芝居が観れて、オレはなんて幸せなんだ」
と思ってしまう。

初めてMcPherson芝居を観たのが1997年の The Weir で、その後幾つか観てますが、外れと感じたことが無い。
それは取りも直さず、「僕好み」ということなのかもしれないけれど。

話の筋は、まあ、言ってしまえば、
「クリスマスイブの晩に、悪魔が魂を取り立てにやってくる」
という話。
これを立派に芝居として力強く成立させる作者・演出の力はすごい。
役者も良い。The Weir や Shining City に出ていた役者がまた観れて、それも嬉しい。

主人公の履いてるジョギングシューズは、AsicsのNimbus7で、僕の履いてるのと同じバージョンでしたな。余談ですが。

勝手なことを言わせていただければ、志賀廣太郎・足立誠の兄弟タッグで観てみたい。柄本明さん・岩松了さんの悪魔はちょっと出来すぎかも、ということであれば、水下さんで。25年ぶりの再会だし。Ivanは畑澤聖悟さんで。おお、夢が膨らむのぉ。ほんと、いい芝居でした。

2006年12月18日月曜日

黒テント メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス

まず、開演前のパンフレットで、松本大洋さんが自分とおないどしであることにショックを受ける。デビュー当時から、4,5歳は年上かと思ってた。

そして、金曜日のナイスエイジの3時間半に始まり、青年団三本立て、同居人2時間15分と続いた週末の最後に差し掛かって、また、肩が泣きそうに痛い。

脚本は、予想以上に素直でストレート。
自営の長距離トラック運転手、ドライブインの人たちと、ラジオDJの話。
わざとそうなのか。ケレンなし。ひねりなし。
役者、てだれぞろい。これがまた、ケレンを見せない。
斎藤晴彦さん始め、あんなに色物やらせたら任せとけのような人が揃っているのに。

山奥のホテルで最高級の飲み物を出してくれ、と頼んだら、目の前で水道の蛇口ひねってコップに入れて出される。
えっ、と思いつつ飲んだらこれが天然の湧き水で美味い、といった趣きでした。

いい気持ちに酔っ払いたい人には薦めません。でも、シンプルな演技に徹するてだれどもの旨みを味わいたい方にはとっても良い芝居です。楽しみました。

ああ、もうこれで今年はお芝居は「ほぼ」お腹いっぱいです。ご馳走様でした。

同居人 隙間の蟻

山本了氏、「経済とH」では割と目の行く役者でした。かつ、何年か前の五反田団新年工場見学会での山本・政コンビの演技はよく覚えていて、あれは娘も非常に気に入ってました。

が、今回。演出としては甘い。役者が余計なことをするのを全く御していない。
「溜息をつく」「煙草の煙の行方をじっと見つめる」「にやっと笑いを浮かべる」「思わせぶりにちょっと遠くを見る」「はける前に一旦反対方向にかぶりを振ってブンッとはける」「目と目で見つめあう」「ぜえぜえ言う」 + 間。
こういう、1回やるごとに「お客が引く」+「芝居が40秒は確実に間延びする」一粒で二度不味いファクター、一骨一骨芝居から排除していくべき役者の不始末が、すべてオールスターで織り込まれていて、結果2時間15分。
きちんと削れば半分になる。そして観やすくなる。はず。

役者の良し悪し、戯曲の良し悪しは、きっと、その後に来るはずです。

2006年12月17日日曜日

ナイロン100℃ ナイスエイジ

志賀さんのいいお声を聴きに行った。
お元気そうで何よりでした。
佐藤誓さんも大変カッコよかったです。

最初は、世田谷パブリックシアターの小屋の大きさと客層とに、ちょっと身構えた。
6時30分開演というのも、サラリーマンの敵である。

で、入場してびっくり休憩挟んで3時間半。これじゃあ、6時半開演やむなし。これでつまんなかったら怒ろう、と思って見始めましたが、これがエンターテイニング。

3時間半、飽きずに観させ続ける技量はすごい。そして、飽きさせないためには何をすればよいのか(=何が面白いのか)について、想像力の働き方が極めて正しい(作者としてか演出としてか、それとも役者の技量か)。

じゃあ、こんな芝居がやりたいか。といえばそうでもない。
志賀さんが、青年団でもナイロンでも、どっちにいてもやっぱり志賀さんとして面白いところに、謎々を感じます。

てなことも含め、満腹しました。ご馳走様でした。

2006年12月10日日曜日

菅間馬鈴薯堂 夜明け舟

というわけで、今週末、金曜日からの6連戦の最終戦。
右肩は肩甲骨の裏側に画鋲を埋め込んだかのように痛む。
鎮痛剤飲んで王子に臨む。

と、なんと、王子小劇場が町の公民館と化していた!!
何だ、この、お年を召した方々の群れは!そして、小学生どもは!当パンに「ストリッパー」ってあるけど、いいのか?

募る不安。

で、芝居は、良かったです。
左に入れ歯がカクカクいう音、右には退屈した小学生が靴のベルクロをベリバリ言わせる音を聞きながら、最後まで、楽しんだ。

僕がいつも「ヤラレタ」と思うような方法論の冒険もないし、大きなケレンも無い。

が、観客に無理強いしない。しつこくしない。役者に無駄なことはさせない(時々無駄に怒声を上げさせるのはタマに傷だけど)。
だから、クサいシーンで「引く」前に、先に進んでしまう。一瞬泣かせにかかったか、と思うシーンでも、「タメ」を作らずスタスタ次のシーンに行ってしまうので、泣くタイミングを逃がす。このアッサリ感が、何だか大人である。だから、お年寄りの味覚に合う。

いや、肩の凝る芝居(マレビトの会、青年団、岡田利規)を観た後に、こういう芝居で締める事が出来て、本当に良かった。
終演後、肩凝りが引いてました(とはいうものの、バスに乗ったらまたすぐ痛くなったけど)。

なんだか、こうやって、肩の力抜いてお年よりも楽しめる芝居っていいよな、って昔考えてたのを思い出した。

新国立劇場 エンジョイ

芝居が始まってすぐに、
「スッげー細かい演出が入ってるな」
と分かる。

そして、「あぁー、こんな風に長ゼリが書きたかった。こんな風にダラダラとした長ゼリが喋りたかった」と思う。
五反田団を観て「オレは1989年にこんなことがやりたかったんだよ」と言った友人がいるが、
僕は岡田氏の芝居を観て「オレはずっとこんな風な芝居がしたかったんだよ」と言ってしまおう。
(でも、本当はちょっと違うけど)

こんな芝居を可能にしてしまう岡田氏のセンス+細部への視点に脱帽。
体の動きと台詞の連動をムリヤリ意識させられるという点で、役者かなりストレスを感じているはず。
それをこれだけのレベルで乗り切る役者もすごい。

方法論へのこだわりと、自己満足にしないエンターテイメントのセンスと、(話者の役柄交代や幕の始まり方といった箇所での)「これ、芝居なんです よー、言っておくけど、所詮、ゴッコなんですよー」という悪魔の耳打ち。それが、本当のギリギリのところまで手を抜かない戯曲・演出を経由して舞台に載っ ているので、ホント、始末に終えません。

1点だけかろうじてケチをつけるとすれば、フランスのデモの映像は何だか分からない。そういう説明を取り払って、もっと観客に任せても良いのではないか、と。どーせ、わかんない人にはわかんないよ。

で、終演後。肩が凝って肩が凝って、痛くて泣きそうだ。
そう。肩が凝る芝居ではある。見ごたえあり過ぎ。凄かったでした。

2006年12月9日土曜日

青年団 ソウル市民三本立て

1日三本一挙上演の暴挙。これは見逃してはいけない。ということで。

意外に三本一気に観る方多いみたいだ。

一番余裕を持って観られたのはやはり「ソウル市民」。
台本を良く知っているので、よそ見・わき見し放題。青年団観劇の醍醐味はミクロのわき道にあり、と常々思っている小生としては、嬉しい立ち上がりである。
安倍健太郎の大工の背中にまずシビれる。彼のたたずまいが、ソウル市民のみならず、三本立てのフレームワークを決めた。気もする。ちょっと褒めすぎか。

初演から17年ということで、懐かしさの余り滂沱の涙が溢れるかと思いきや、全然そんなことは無かった。ただただ、面白かったです。

1919。出戻りの幸子が内地で感じたと語る心境は、小生が今年日本に帰ってきたときの驚きとかなりかぶる。
「日本人がチラシ配り・ティッシュ配りをしている!」
いかに自分が、人種差別が根付いた国に暮していたかを思い出させる。
ラストシーンは、「お父さんのお父さん」を意識したのだろうか?気持ちは分かる。芝居をやるなら誰しも「あの、ブルーハーツ」はやってみたいと思うはずだ。でも明治時代にはブルーハーツはいなかった。
青年団を観る時にはあるまじきことだが、幸子の台詞に感情移入してしまったこともあり、この芝居からもっとも強く閉塞感を感じました。

昭和望郷編。この芝居、望郷でもなんでもないじゃん。誰が、どこの故郷を思うわけ?篠崎家の人々、ほとんどが朝鮮生まれじゃん。と、突っ込んでも良いのだが、オリザはそこらへん見越してきちんと仕掛けを作っている。でももしかすると後付けかもしれない。
時代の雰囲気としては、1991年のバブル崩壊前夜よりも、むしろ、今へのアナロジーを感じました。
なんだか、「成長なくして財政再建なし!」、「これからは、上げ潮で行こう!」みたいな...
あるいは、「中東に民主主義を!」みたいな...

で、3本観終わって: 「肩凝りがひどい」。
来週が思いやられるが、でも、僕にとっては何度観ても面白い芝居です。若手の役者の成長にも目を見張った。来週の三本立てがまた楽しみです。

マレビトの会 Autodafe

芝居を観て"ショックを受けた"のは久し振りだ。

Complicite の The Street of Crocodiles 以来、だと思う。

「え?これって、一体、どんなイミがあるのかしらねぇ?」
というオバさんたちのささやきが聞こえてきそうな芝居
(実際、ボクの隣の兄ちゃんは芝居の間ずっとチラシの束を読んでいた)。

が、そのイミを考える前に、イマ、舞台の上に載っている役者の動き、音、光をありったけ僕の五感にぶち込んでおきたい、隅から隅まで味わい尽くしたい。
でも、それがとても出来ないと最初からゲームを投げださざるを得ないほどの重量感と、幾層にも重なり合った微細な襞が、素晴らしい。

僕だって、いまだに、イミ、分かりません。有体に言ってしまえば、熔けて捻じ曲がり、焼けて灰となったモノたちの記憶が、墓守がシャッターを切るその一瞬の裂け目から姿を現す、そういう芝居でした。
でも、実はこの観方って、作者からすれば「なーんだ、全然つたわってねーな」と思うくらい見当はずれかも。まぁ、そんなことは、いい。
細かい<解釈>は、1週間経ってから、買ってきた戯曲を読んで机の上で考えれば良い。今日のところは、良い芝居を観た幸福感に浸っていよう。

そう、1週間経ったら、ど○ど企画の○山さんと松田さんの対談が載ってる当パンも読もう。芝居前に読むにはちょっと長いし、観終わった直後に読むのにはちと難しかった。

2006年12月3日日曜日

ポツドール 恋の渦

いかん。期待感が強すぎた...

出だし15分で作・演出・役者の技量を十二分に堪能。
あとは...うーむ...

劇評ならともかく、これ、日記なので、これで止めます。

2006年12月1日金曜日

パラドックス定数 Nf3 Nf6

また一つ、素晴らしい芝居を観た。
今年一番の二人芝居だろう(って、考えてみたら、二人芝居はこれしか観てませんが...)

収容所の地下室で2人の男がチェスを指す話。
後はバラしません。

アンケートにも書いたが、冒頭、最初の「すわれ」までは余計な説明シーンで、ちょっとドキドキする
(「まさか、38℃ はまぐれだったのか?」)
が、そこで10点減点した上で、100点満点の120点の芝居。

骨太のタイマン会話劇でありながら、チェスの駒を動かす手、チョークの動き等々、細部も観ていて飽きない。これは戯曲もよいが役者も演出もきちんとした方向感で神経が行き届いているからだろう。満喫した。

それにしても、野木さん、何故男芝居なんでしょうか?

高村薫の小説は実はハードボイルドの皮を被ったやおいである、ということは遍く知られているが、
ひょっとすると野木萌葱の芝居は、硬派男芝居の皮をかぶったやおいなのではないだろうか?
そうでもなければ何故この芝居のラストシーンはこんなにも切なく優しいのか(と、いきなり紋切り型だが、ネタバレを恐れてきちんとは言えません)、と思ってしまう。

(間違っていたらごめん。もう誰もが知っていることだったらやっぱりごめん。どちらにせよ、こんなことを口走ってしまいごめんなさい)

とにかく。だ。この面白さは少なくとも高村薫に肩を並べる。

この芝居、このレベルで2000円ははっきり言って安い。終演後の「是非観る場所を変えて再度どうぞ」に、コロッとなっちまいそうです。

2006年11月30日木曜日

僕は蛾アレルギー

来年のスギ花粉症の季節に備え、アレルゲンの検査を受けた。
今日、結果を聞いたら、

スギ花粉 陰性。
ハウスダスト 陰性。

過去11年間のアレルギーの歴史は一体なんだったのか?
4月の日本をあれほど避けた意味はどこにあったのか?
かなりショックを受けました。で、

ハンノキ 陽性。
ヒノキ 擬似陽性。
ガ 擬似陽性。

私 「先生、ハンノキって、何の木ですか?花粉はいつ頃飛ぶんでしょうか?」
先生 「さあ、何でしょうね?」

後で調べた。Alder/Birchの類で、やっぱり3~5月に花粉が飛ぶらしい。なるほど。

蛾のアレルギーって言うのは、小学4年のとき、夏に電気つけて窓を全開にしていたら、夕食の間に6畳間の天井がビッシリ蛾で埋まっていた、あのトラウマ以来なのだろうか...
(その蛾達は母が掃除機で吸い取っていた...)

2006年11月26日日曜日

東京ナイス 九日目にはもう飽きている

むむむ。
芝居の枠組みが、最初から見切れているような、かといって最後まで分からないような。

時間の流し方も、上手く捌いているような、でも、上滑りなような。
1986年から超特急で時間を回して見せるのは、アイディアとして否定しないけれど、観客と共有するのが難しい。事実の積み重ねは、興味が重ならない人には面白くないだろう。

作・演出のアイディアに載って役者が動くのは、装置としては面白いのかもしれないけれど、その分、役者が死ぬ。役者の持ち味は、もうちょっと他にあるかもしれません。

追悼 アニタ・オデイ

映画「真夏の夜のジャズ」で観たアニタ・オデイは、何とも金持ちで余裕があっておしゃれなアメリカのキレイな女性の代表選手だった。
羽飾りのついた黒いドレスで、海風を気にしてか軽く帽子を押さえながら歌う彼女は、高校生の僕に溜息をつかせるに十分な、そうだ、「ゴージャスな」女性歌手だったのです。

その後も"This is Anita" "Sings the Winners" を愛聴。
2,3年前にロンドンに来た時に聴きに行かなかったのが悔やまれます。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=121614&media_id=20

山の手事情社 青い鳥

阿佐ヶ谷スパイダースが伸びやかに育った物語を提示するとすれば、山の手事情社の青い鳥は、畸形一歩手前の、苦しく折れ曲がった世界を突きつける。

銀座線以来の山の手事情社ですが、うーむ。
ここまで厳しい芝居をやっているとは。
当日パンフにある、安田さんのメーテルリンクの解釈は、それはそれで説得力があって、
しかし、それはやはり、メーテルリンクがコドモ劇として書いたものを安田さんの考える水準まで引き上げて演じるのは、またそれも厳しいのではないかと...

多分ファウストは観ない。が、安田さんのテクストを演じる公演があれば、それは観に行くだろう。

この苦しさをもって表現しなければならない世界とは一体何か?窮屈に身を屈めながら是非また観てみたいのです。

2006年11月25日土曜日

阿佐ヶ谷スパイダース イヌの日

初めて観ましたが、何でこんなに人気があるのか、とってもよく分かった。

伸びやかで、すっきりと、変な思い込みも、変な自己否定も無く、骨太な物語を力強く観客に提示していく。
過激な様でいて実は「芝居」の伝統のツボを押さえた展開にも、全く嫌味がない。

2時間50分近く、休憩なしの芝居を、飽きさせずに最後まで力強く引っ張っていく力量は、これはすごい。

そう、この伸びやかな匂いは、日本の小劇場で見つけるのは難しかった気がする。むしろこれは、ロンドンのストレートプレイの匂いだ。
あの、「本場」英国の、骨太な物語をあくまで骨太に、拗ねることなくケレンに走ることも無く、力のある役者が真っ直ぐに見せていく、そういう匂い。

日経の劇評はラストが気に召さなかったらしいが、何の何の。古今東西、骨太のお化け話はこうやって終わると相場が決まっている。僕はConor McPhersonのShining City を思い出してニヤリとしたね。

日本の「小劇場」でこんな芝居を観るのは、あたかも、日本の女の子の体型が西洋人に近づいてきたのに似る。昔はアメリカ西海岸のビキニの女性の伸 びやかな肢体は日本では見るべくもなく、「出かけていって見る(眺める)」ものだったが、今時の若い子には何だか負けてない人も多い、という意味で。

久々の本多で、舞台が遠く感じたけれども、それは、それで良いのだ。だって、細かなところに拘って楽しむ芝居じゃないんだから。

で、そうした伸びやかな芝居や肢体を前にすると気後れしてしまう僕は、ちょっと肩をすくめて呟くのです。
「すっげえいい芝居だよね。オレには出来ないけど」。
それから三福林でメシ食って帰りました。

2006年11月19日日曜日

無機王 吉田鳥夫の未来

サミット伊東さんが前回出演してた「無機王」である。

記憶が一定時間経つと振り出しに戻る設定は、最近バカ売れして映画化もされたけれどあんまり面白くないセンチな小説、「博士の愛した数式」と同じ。

一旦巷で消費されちまったネタで芝居やるんだから、それは、頑張っているに違いない、と期待して行った。

結果、面白い芝居でした。

アンケートにも書いたが、印象に残ったのは、
・ 虎美、ウンコ座りするも、(オレと同様)足首堅いからか、かかとが浮いている。
・ 女子中学生、横倒しに倒れるときに足がピクピクしている。
・ タミアイ、卓袱台を引っかく音が聞こえる。しびれた。
・ 女子中学生、リップクリームが取れないように横向きでストローを使うと宣言し、堂々と、時間をかけて面を切る。これにもしびれにしびれた。
・ 洋、たじろぎ方が何とも言えない。虎美、卓袱台の下から洋を引っ張り出すとき、電気あんまをしなかったのが残念だ

うーん、オレは、一体何を観ていたのだろう?

でも、そういう細部に目が行くということは、全体の作りについて安心できていたということです。
贅沢を言えば、もっと鳥夫と保を観たかったんだけど。何だか、最初は鳥夫の話だったのに、書いているうちに周りの登場人物にすっごく情が移っちゃって、鳥夫・保が割りを食った印象あり。
割を食ったのは、鳥夫・保の他、喜一郎と海老子もそうですね。他の役者ほど遊びを与えられていなかった。
ああ、この芝居、2時間超えてもいいから、もっと沢山みたかったなぁ。

一つ難癖つけるとすると、「幸せいっぱいサザエさん風ファミリーで始め、ハッピーエンドで終える」トーンの決め方、かな?
もっと気持ちの悪いハッピーエンド、あるいは、希望の持てる悲しい大団円、もしかすると、何だかよくわかんない結末、というのもあったかも知れない。そういうことの出来る力のある劇団だと思いました。

ジャブジャブサーキット 歪みたがる隊列

昼の『鵺』のせいで余りにも考えすぎて頭に血が行っており、
夕飯を食ったらその血が一気に胃に降りて貧血でアブラ汗がダラダラ流れ、横になって休むまもなくそのまま開場になだれ込み、真っ青な顔で、
「2時間吐かずに芝居を観れるだろうか」
と人知れず心配しつつ眼を閉じていたら、芝居が始まってしまった。

ジャブジャブサーキットの方々、すみませんでした。次からは体調100%で来ますから。今回は大目に見てください。

と心の中で唱えていたのだが、1時間50分、あっという間に過ぎた。1時間位したところで体調もすっきり。

前半のどうしても説明台詞にならざるを得ないところを、はしぐち氏がよく支えた。
物語りも種明かしもきちんとあるのだけれど、やり過ぎない役者が押し付けがましくない。

終演後に初めてきちんと読めた当パンに、
「全速力で回避したつもりでも、気付けばじわじわとドラマが侵食してきます」
とある。まさにその通りで、多重人格を題材とした時点で、はせ氏は、メロドラマへ真っ逆様のクレバスを避けながら、時速100KMを超えるスピードで滑降し続ける、芝居界の三浦雄一郎とならざるを得なかった。

その場にお付き合いすることを許していただいたことは、一種嬉しい体験でした。

2006年11月16日木曜日

シアタートラム 鵺

二日酔いを引き摺っての観戦。

いきなり、役者陣の芝居芝居したセリフや面切り百連発に戸惑う。なぜ、宮沢さんはそんな演技を役者にさせるのだろう?

劇中劇に清水邦夫さんの戯曲が引っ張ってこられて、それらの台詞が、今、21世紀の東京でリアリティを持つのはすごく大変だな、と思う。
なぜ、宮沢さんは、わざわざそんなものを舞台に載せるのだろう?

半分を過ぎたところで、役者が、
「長ゼリって、一体誰に向かって話してるんだろうね?」
「芝居の中の音楽って、どこで鳴ってるの?」
と、今更ながらの突込みを入れる。
演出家役の上杉氏、「お前らのそういう賢いところが気持ち悪い」と言う。
なぜ、そんな自己完結したやり取りをわざわざ舞台上で説明するのだろう?

なんてことを、二日酔いの頭で考えながら観ていた。
で、この芝居の観方として成り立ちうる幾つかの類型。

① 遠く日本を離れた異郷で、時空を超えた友情がよみがえる。現代のお化け話、おとぎ話。ちょっといい話。

② Velvet Goldmine が変節しちまったDavid Bowie の大断罪映画だとすれば(くわしくは本田透氏のこのコラムを参照
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/vg.htm)、
これは、70年代以降大先生になっちまった蜷川幸雄氏の大断罪芝居である(日経の劇評パターン)

③ この芝居は、かつての時代の空気にあってはリアリティを持ちえた戯曲の言葉が、いまや時代とのリンクを失いつつある、その働きを鵺に例え、日本の芝居人の来し方行く末を見つめなおそうとする試みである(当日パンフそのまま)

④ この芝居は、全篇、1演出家の妄想の世界である。或いは、昔日のアングラスターの死の直前の、一瞬現れて消える妄想の世界である。そのどちらか(2つの妄想が交錯して現れたものではない)。
妄想の中で「現実」とみなされる人の動き、話し方は、「演出家(本当は役者かもしれないが、以下、演出家で統一)」が世界とコネクションを試みる中での現実なので、演出家が外界に求めるようにしかならない。すなわち、芝居がかっている。
その態度が本当の現実世界との中でリアリティを持ちえず演出家が苦しむのと同様に、清水邦夫の戯曲の言葉もまたもがき苦しむ。
シアタートラムに居る観客は、そのなんとも苦痛に満ちた、しかも決して解決されることの無い苦痛を、妄想を観るもう一人の演出家自身として体験する、という構造。
・ハンディカムで記録をとり続ける男は、妄想の登場人物達が自分達が現実であることを殊更に強調するための道具たてである。テープを入れ替える 間、彼らが演技をやめるのは、「全く最近の連中はいつもカメラ目線で困る」ということを匂わせるためではなく「役者たちの振る舞いが何らかのフレームに収 まっていることを示唆する仕掛け」として使われている。
・役者たちの自分突っ込みは、妄想・夢の中の「これは夢だかんね」という自分説明の代用として使われている。
→ 1人の男の非常に特殊な妄想のありようの中で、この男の外界の捉え方のメソドロジーをとことん剥ぎ取ったところで、この芝居のリアリティが普遍として観客に迫ってくる仕掛け。

僕は、途中、④の観方に辿り着いたところで、最初の3つの疑問(本当はもっと色々あったが)が解けて、この芝居を楽に観れるようになりました。それまでは、色んな疑心暗鬼が渦巻いて、大変だった。

観終わって、とても満腹感がありました。言い方を変えれば、疲れた。とてもよく考えられている芝居。頭を使う芝居。

でも、少なくともこの芝居は、あんまりエンターテイニングには受け取られないのではないだろうか。
まぁ、読み返してみると、かなり僕の観方もひねくれまくってますが。個人的にはこう読み解かないと納得いかなかったです。

2006年11月15日水曜日

富士山が見える

朝、起きて出かけるとき、ドアを開けた真正面に富士山が見えます。
何と、引っ越してきて半年にして初めて気が付いた。

オフィスの窓から、やはり富士山が見えます。
今日は南アルプスも見えたらしい(僕は見逃した)。

やっぱり、富士山はいいのぉ。
昔は十条の小学校の屋上から見えた、ような記憶があるが、今じゃ背が低すぎて見えないでしょう。

日本に居て本当によかった、と思う数少ない機会の1つです。

2006年11月13日月曜日

タテヨコ企画 フラミンゴの夢

ヨコタ君の芝居を初めて観るのは、緊張した。
万が一すごく恥ずかしい芝居を演出していようものなら、僕が居たたまれなくなってしまうだろう。そして、芝居前に顔を合わせていたにも拘らず、眼をあわさぬようにしてコソコソと帰らなければならないだろう。そして、日記には何と書けばよいのか!

という緊張感である。なので、終演後の乾杯にもちょっとお付き合いできて、良かったです。というか、安心した。

すごく良い芝居。役者良し。使い方良し。そして何より、丁寧に作ってました。アンケートにも書いたが、「アラの探せない」芝居。

で、何が不満か。観終わって一日経って、何だかふつふつと形になりつつある感想。

「人柄の良い芝居でありすぎる」
そのこころは、①ヨコタ君の人柄のよさが前面ににじみ出ている ②登場人物みんなが、実はいいやつ ③で、その、いい人たちの空間が、善意も悪意も、良い人のエッセンスが紡ぐループの中で閉じている

それって、とっても気持ちいい。

でも、芝居でぐっと来る瞬間って、えてして、そういう心地よい空間の中に、一瞬裂け目が開いて、そこから冷たくて生臭い風が、あっと声を上げるまもなく、瞬間吹きこんで、たちまちに止む、というようなところにあったりもするんです。

今度は、そこを覗いてみたい。ヨコタ君に見える世界に一瞬開いて閉じる闇の世界への窓。いい人の役柄を与えられながら、分けの分からない心地悪さ(かもしれないしそうでないかもしれないもの)を残す役者。

次も楽しみにしてます。

2006年11月12日日曜日

新転位・21 嗤う女

チラシには
「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか?」
とあり、
「本作品は林真須美被告を真犯人と特定して書かれたものではありません」
とある。

僕は、この事件の騒ぎの間、日本に居なかったので、他の観客が共有しているバックグラウンド、あるいは、作演出者が、「共有しているだろう」と前提しているバックグラウンドが欠落しているところがあったかもしれませんが、以下、その前提で。

とても切なくなる芝居でした。「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか」なんて、本当は、分かる訳ないんです。
分かる訳ないんだけれども、それが分かっていて、なお、転位の芝居は、その分かるか分からないかのギリギリのX軸まで、漸近線を引いていく。
それは丁度、演じる役者と演じられる配役が、本当は全く関係の無い2つのものであるのと一緒だ。「迫真の演技」という使い古された言葉があるけれ ど、本当にその通りで、「真」に向かってどこまで漸近線を引いていこうとも、真になる訳が無い。なったと信じた時点で頭がどうかしている。

だから、芝居の中でいくら突き詰めていっても、本当の真実は見えない。その点について余りにも無自覚だったり楽観的だったりする芝居(や観客)が溢れる中で、転位の芝居は余りにも自覚的で、かつ悲観的だ。

辿り着かないのが分かっているのに、そこに向けて歩まざるを得ない、その、駆り立てる何かが、とても切ない。

いい芝居でした。

ハナオフ 相対的浮世絵

良きにつけ悪しきにつけ、大人の芝居。
口の悪い言い方をすれば、年寄くさい。
でも、その分、安心して観れる。最後まで一線を外さないで芝居が進むだろうという安心感。

無駄なシーンも多い。年寄りだけあって、芝居の体脂肪率も高め。20年前に比べて明らかに体脂肪率が落ちて、何だかむしろ若返ってしまったようにも見えた水下さん本人と対照的。水下さんの体脂肪率が14%なら、この芝居の体脂肪率は23%くらい。

ただし、削って削って芝居を作りこむ先に、結構不毛な地点が出てくるってことも何となく見当が付いていて(僕らエタノールを飲まないのと同じで)、じゃあ、どれくらい混じり物が入っていれば良いかなんていうのは、舞台に載せてみなきゃ分からない。

こうして書いてると、何だか、一番咎められるべきは実は観客としての僕の態度で、一体、オレ、何を水下さんの芝居に期待してたんだろうね、ってこ とで、まさか「可も無く不可も無く」を期待してて、その枠の中に入ってたのでOK、みたいなナメた態度で芝居小屋に足を運んではならんのである。

ああ、水下さん、ごめんなさい。僕が水下さんに言わなきゃなんなかったのは、実は、こういうことです:
「ミズさん、もっとそぎ落とした、エッジの効いた芝居もやってくださいよ。まだ落ち着く歳じゃないっすよ」

モンキー・ロード えんかえれじい

モンキー・ロード。小生恥ずかしながら予見ゼロ。
北村想さんの新作書き下ろし、ということだが、実は、その時になって初めて気がついた。僕は北村想さんの芝居を観たことがなかった。あれ?「雪わたり」観たっけか?思い出せない。うーん。
というくらい予見ゼロでした。

さて、観てみると、苦しい芝居だった。さぞ書いていて苦しかっただろう。だって、歌のシーンが無ければ正味20分くらいの芝居だよね?
あれ、演歌ミュージカルとして観れば、その時間配分で正しいのか?

でも、演歌で押し通すのにはちょっと息切れしてしまっていて、後半ハチドリの話とか病気の説明とかしだすと、途端に焦点が合わなくなる。

折角演歌ミュージカルって大見得切るんだから、最後まで元気にエンターテインして頂く方が、むしろすっきりしたんじゃないかしら。

2006年11月5日日曜日

燐光群 チェックポイント黒点島

坂手さんは、僕が芝居と関わる態度を形成する中で、かなり重要な一言を僕に投げかけた人で(多分1989年ごろ。ご本人は全然覚えてないと思いますが)、その頃からその政治意識と舞台への意思と取り敢えず走ってみる、という態度は、常に一種敬意の対象となってきました。

今日、2日目。客席のオバサン指数は、100点満点で5万点くらい。かなり戸惑う。

だが、竹下景子さんが出ようと、渡辺美佐子さんが出ようと、坂手節は一つも変わらない。青年団を静かな芝居、岩松さんを神経症芝居と呼ぶならば、坂手シュプレヒコール芝居は変わらない。

全篇役者が叫んでる、ってことじゃないですよ。
「言いたいことを全て舞台の上に、台詞の上に、のっけてやろう。感じたことを、考えたことを、とにかく全て舞台という拡声器を通して叫んでやる。伝えきれないことは分かってても、咽喉が枯れるまで叫んでやる」
という態度が、僕なりに定義するシュプレヒコール芝居の真髄です。

これって、舞台に載せられている発想やモチーフの量があれだけ大量だと、かなり乱暴なゴール設定で、実際、芝居も乱暴かつ風呂敷畳めてない。

でも、坂手さんの頭に渦巻いているものが、妙に整理されないままのっかってる、そこにカッコつけもスタイルも要らない、という意思表明が気持ち良い。

観てる最中に「何で芝居というメディアを使うの?」という疑問が沸いてくる。それを力技で2時間20分押しまくる。
人に薦められる完成度、ではないけれど、
一種Guilty Pleasureなところがある芝居でした。

2006年11月4日土曜日

新宿梁山泊 風のほこり

十何年かぶりに浅草木馬亭へ。当たり前かもしれないが、周りの風情は変わっていない。
そういえば、梁山泊も十何年かぶりだ。吉祥寺東口のビルで六平さんが旗を振っていた芝居以来。

六平さんも、14年ぶりの梁山泊だそうだ。登場するときに「むさか!」とか、「待ってました!」とか、でるかなあ、と思ってましたが、出ませんでしたね。この日は。

この芝居、「アングラ古典芸能」というにはすこうし乱暴さ加減が足りず、センチすぎ、汗と血と土の臭いがしてこない。でも、それをもって梁山泊が十何年か前より詰まらない、ということではない。十何年かとしを取った僕にはちょうど良い塩梅でした。

ついでながら、唐さんの戯曲を舞台で見る度に、李麗仙・緑魔子・金久美子・(あと、唐さんの芝居じゃないですが、銀粉蝶)以降の女優は苦労するなー、と思う。今回も例外ではない。まるでマックス・ローチとトニー・ウィリアムズ以降のジャズドラマーのようだ。

新国立劇場 シラノ

シラノは、中2のときに中高合同の文化祭で上演したシラノに、尼さん役で出させてもらった(男子校だったので)、小生にとっては数ある芝居への入り口の1つに位置する、大事な芝居。

かたや鈴木忠志さんの芝居は初めて。
あのワセ小歩き以外にこれといった予備知識も無く、拙者昔っからあれできないし、ロビーに着くと観客の平均年齢高いし、どうなることかと思っていましたが。

ああ、シラノって、いい話だなあ。っと。帰り道、年配の男性が、「最後、男のこころいきだ!っていうのが良いんだよね」って、本当に、そうですよね。僕も同感です。

で、鈴木ワールドは、というと、僕にとっては、「歌舞伎」や「能」が観ていて面白いのと同じ意味で、面白かったです。逆に言うと、現代の芝居として捉えるのはつらい。

もしも鈴木ワールドが「世界で激賞されている」のであれば、それはそれで良い。でも、今後の日本の芝居を変えるインパクトは感じませんでした。本当はもっと他のところに意味深いものがあるのかもしれませんが。すみません。

2006年10月29日日曜日

五反田団 さようなら僕の小さな名声

本当に小さな名声でした。
というのはさておき、大変面白い芝居でした。
前田さん、相変わらず激しい。

で、この後はネタバレです。

風呂に入っていて気がついた。
最初に一緒に出てくる女の子は、あれは、前田さんだったんだ。だから、名前もついていなくて、「彼女?」って聞かれたときにも前田さん口ごもってたんだ。
あぁ、芝居観終わって5時間もしないとそんなことに気がつかないオレは、だめだ。

だって、作者本人が、「私演劇だ」って言ってんだから、そりゃ、「私」が出てきて当然じゃないか。
ということで、外に開いた自分探しの旅のようで、実は、すごく閉じた芝居です。

閉じた世界の中の探検ですら、こんなに楽しいものか。小河原さんを始め、役者も楽しい。こんなダメな僕が観てても、十分ずっと楽しい。
芝居のテーマなんて(と一括りにすると前田さんに失礼ながら)、そんなもので良いんです。エゴあってこその芝居。で、それはどっかに放っておいて、後は、舞台にのっているもので勝負だ。
その割り切りがきちんとしていて、美しい。
非常に良い芝居でした。

2006年10月28日土曜日

東京デスロック 再生

日本に帰ってきてから観た芝居の中で、文句なしのベスト。
こんな芝居が観たかった。

その割には、お客さんの入りがどうも、という気もしました。火曜日までやってますので、大野さんも是非どうぞ。
私も、明日の五反田団が「万が一」面白くなかったら、もう一度観に行くかも。

今の時点では芝居の内容についてきっちり書くのは憚られますので、これだけじゃ何言ってるか分かんないかもしれませんが、僕が芝居中考えていたことは:
・ はい、それでは、間違い探しです。左ページと右ページ、どこが違う?
・ エレファントカシマシの「おはよう こんにちは」
・ 昔駒場小劇場で観たどどど企画の芝居。「ガチャコン」ってレバーを引くやつ(タイトル失念、失礼。劇団君とイッパツ君、だったっけ?)
・ アンディ・ウォーホル
・ 平田オリザが柄本明さんのことを言うときに使っていた言葉「何度やっても初めてのように台詞を言えてすごい」
・ 観客にとって思い入れのある曲が掛かっているときとはじめて聞く曲が掛かっているときとで、芝居を観ている感じ方が違ったりするだろうか?

読み返しても何のことだか、という気もしますが、でも、本当にそういうことを考えていたのだからしょうがない。

多田さん、この芝居を「実験的」ということは無いです。
問題意識として極めてまっとうな芝居のカタチだと思います。

素晴らしい舞台でした。

2006年10月25日水曜日

ファイターズの思い出

1975-6年ごろ、住んでいた町に日本ハムファイターズがやってきた。
近所の旅館に泊まっているという話を聞いて、小学生の私は、友人(or弟?)と、サインをもらいにでかけた。

一番のお目当ては、4番バッターの小田選手。次は、下手投げの高橋直樹さん。

旅館に着いたら、本当にファイターズの選手が沢山居た。
小田選手は、テレビで見ても小さいが、やっぱり小さかった。
でも、他の選手たちは、ごつくってでかくって、見分けがつかなくて、その町に沢山居たヤクザの人たちよりもよっぽど怖かった。

ギロッとした目が僕の目と合ったのは、広島から移ってきていた上垣内選手。思わず、白い野球帽を差し出して「サインお願いします」と言ってしまった。ツバのところにサインしてくれた。
隣にいた選手もサインしてくれた。

わしらは、家に逃げて帰った。

上垣内選手でない、もう一人の選手の名前は、どうやっても読めなかったし、今となっては分かりようもない。

何だか、札幌の人たちに愛されてて、良かったね。
と、ふと思い出しました。

2006年10月23日月曜日

Z は Zawinul の Z

久しぶりに愉快な吊り広告発見。

前面にZawinulじいさんの写真。
雑誌の名前は、もちろん、Z。

コピーもすごいぞ。
「青二才禁止!55歳以上限定!!人生最後のメンズファッション雑誌」

で、インタビューの相手が、
ザヴィヌル爺さんと
鮎川誠さん...

それにしても、ザヴィヌル爺さん、70超えてなおつやつやしてますな。スーパーエゴの力ってすごいっす。
きっと、「あなたの名前にちなんで雑誌の名前をつけさせていただきました」とか適当なこと言われてご満悦なのに違いない。

しかし、Joe Zawinulを観てピンと来ちゃう人って、やっぱり55+っすかねえ?

2006年10月22日日曜日

ばってん荒川さんの死を悼む

子供のころ、九州の祖父母の家でテレビつけると、よく出ていらっしゃいました。そのころは、なにぶん子供だったので、本当にオバサンなんだと思ってましたが...

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=106024&media_id=2

僕にとっては、荒井注さんには及ばないまでも、ゴールデンハーフのエバちゃんよりは大事なキャラクターでした。

でも、素顔、初めて拝見いたしました。

田上パル 報われません勝つまでは

80分間ノンストップの体育会男芝居。

作・演出のネライ通り、暑苦しく、すがすがしかった。

「泣いて笑って喧嘩してぇ~」と、ど根性ガエルのテーマが流れそうな、昼に見たsmartballと同じくらいどってことのない筋書きで、しかも、テーマも「泣いて笑って喧嘩してぇ~」。
戯曲の構造も、割と現代口語演劇の教科書に則った出はけの1幕もの。
しかも、役者、最初から最後までほとんどムダに声がでかい。

これで全編観客を置き去りにせずに突っ走れる技量は高い。作・演出・役者含めて。

で、この舞台終わった後、アツくダメだしミーティングとかやってるんだろうな。とも思ったりして、それも暑苦しい。
夏とか梅雨時の上演じゃなくて、よかったです。

この土曜日、smartballと田上パル、2つ良い芝居を観た。
持ち味はぜんぜん違いますが、両者ともに、現代口語演劇に収まらないものを意志として持っていて、そこに見応えがある。

でも、さすがにこの2つを同じ日に観るのは無理があったようで、日曜日には疲労困憊していました。

smartball My Legendary Girlfriend

いまどき珍しい途中休憩なしの2時間超。面白かった。

昔平田オリザは、「元気な女の子たちを書きたかった」といって、大学の研究室を使って「科学する精神」という芝居を書いた。

名執氏は、元気な女を描くのに、大久保と歌舞伎町とセックスを使ってこの芝居を書いた、と思われる。

物語自体はどうってことない。お芝居で物語を追いたい人には向きません。最初の5分で結末は分かる。その中で交換される、各登場人物の恋愛観なりセックス感なり人生観、が芝居の味噌。

時には長台詞となり、時には会話となり、3つの場所を巡りながら時間が流れる。そこを行き来している役者たちが、最後まで飽きさせなかった。シーンが変わって灯が落ちている間の「(おやすみ)演技」も、大変面白かったです。

それにしても思うのが、いまや、方法論として「普通に台詞を言う」役者のあり方や「普通に台詞を言わせる」戯曲って、もはや達成するのが難しいこ とではなくて、若いセンスのある人々は、既に平田の方法論を超える所で色んなことをやっているな、ということです。今更かい、っていわれるかもしれないけ れど、すみません、今浦島なもんで。

セックスを舞台に乗せるのは、でも、僕には難しい。
最後の岡崎vs淋淋は良かった。「あ、これがやりたかったのかな?その前のセックスシーンは全部この前振り?」とまで思いましたが。
ただ、セックスを舞台に乗せられると、
「荒木が鼻を掻く」のと同じ次元で、「岡崎がどうやってちんぽを取り出すのか」を見たくなるんですよね。そういう演技を。「ちゃんと立っているのか」「何故前戯なしか」も含めて。演技として興味があっても、特にそんなに観たいわけではないし。うーむ、難しい。

総じて、おじさんには刺激の強い芝居でした。

客出しのSpice Girlsのカバーの曲も、芝居のムードともマッチしてかっこよかったです。誰が演ってるかは分からなかったけど。

2006年10月18日水曜日

伴大納言絵巻

実は、仏像を見た後に、出光美術館で伴大納言絵巻を見てきました。上・中・下、計三巻。
上巻にたどり着くまでに1時間半並んだ。

ま、そこで順番ぬかしするおばさんとか、「こうしたらもっといい筈だ」と主張してるけど結局自分の不愉快を事もあろうに罪の無い警備員のおじさんに当り散らしてるだけのおじさんとか、そういう人々が続出していたわけですが。
おかげで、小生、宮沢章夫さんの本をあらかたそこで読み終わったのですが。
まあ、それはともかく。

絵巻物って、思ったよりも短いのだった。
フランスで見たノルマン・コンクエスト絵巻はやったら長かったが、伴大納言ものは、何だかあっさりしている。しかも、余白が多い。余白で見せる。 きっと、そういう間を取って、読み手の人が「いやー、実はこの裏ではこんなことも起こってましてね」とか、説明してたんだろうか?

そもそも。絵巻物。何時間くらいかけて、どうやって読んだのだろう?一人で読むのか、大勢で、弁士もつけて読むのか。
途中休憩は入るのか?

そっちの方に想像力が飛んでしまって、どうも、芸術的価値云々とか、赤外線で絵巻を焙煎したら新しいものが見えたとか、そういうのは、全部忘れました。

絵巻物の正しい読み方。知ってる方、今度ゆっくり教えてください。

Thom Yorkeは立派な人だ

本当に彼らしいというか、いつまでも良い意味でナイーブで大人でないというか。

http://arts.guardian.co.uk/news/story/0,,1924075,00.html

京都議定書を批准していない国には行かないとか、
CO2削減目標を達成しない国には行かないとか、
そういう言い方でなくて、
「もう真っ平だ」
というところが、いまだに等身大に近くて、ほっとします。

2006年10月16日月曜日

劇団本谷有希子 遭難、

記憶の中から抹消したい。

「人の心なんか分からない!」ぜっきょー、
って、
わたしゃ下丸子の大田区民ホール、マルコマルコ下丸子の離風霊船の悪夢を思い出しちまったよ。

以上、恥をしのんで、「そこにいた」という記録だけは残させていただきます。

2006年10月15日日曜日

国立博物館 仏像

10月9日、仏像を観てきた。

仏像というからには仏様であって、
仏様というのは人々の祈りの対象である。
従って、仏師たちも、お祈りの対象となる物を彫るのだから、
「とうとい仏様を彫ろう」
と思って彫ったに違いない。

よしんば、「適当に彫ろう」と思って彫ったとしても、そういう仏様は、
①人々にありがたがられなかったのでもう朽ちてしまった、か、
②それでも人々にありがたがられて、その結果、人々の思い・祈りが染みついて、今では本当にとうとい仏様になったか
のどちらかだろう。

だから、遠回しだけれども、みーんな、とうとい仏様だった。
思わず手を合わせてお祈りしたくなる。
だが、そうやってゆっくり拝むのには、連休3日目の国立博物館は余りにも混雑していた。あっちのオバハンにぶつかられ、こっちの方からはオヤジがわざわざ小生と仏様の間に割って入って立ち止まる。全く最近の日本の年寄は躾がなってない。と、年寄りじみた愚痴の一つも出る。

が、仏様は仏様だけあって、そういう下界の些細なことには心を動かさず、微笑をたたえ続けているのであった。
ああ、ありがたい。

個人的には、円空の彫った十一面観音・善財童子・善女龍王の三体セットがもっとも有難かった。もう一回行きます。
前・後期通しチケット買ってあるし。

Shampoo Hat 津田沼

アパートの一室のセット。よく出来てるぞ(後で見たら役者の福田さんが美術担当でした。福田さん、いいセットですね)。

いかにも、「日常の中に違和感が浮かび上がる云々」の現代口語演劇っぽいセットだ。お、五反田団に出てる黒田さんも出てるぞ。これは、ますます、「現代口語演劇」組か?
一つ引っ掛かるのは、客入れの「おセンチ」なBGMだけど。

と思ったら、(引っ張りすぎて済みません)全然違いました。
今日は大変なことになるかもしれないと、登場人物達が覚悟を決めているある一日に、全く違った意味ですごく大変なことが次々に起きていく、という、
「日常」のひとかけらも無い、強烈にぶっとい物語でした。

役者も達者な方が揃っていて、それは、それで良い。

が。
物語がぶっと過ぎて、団地6畳等身大では、収まらないのではないですか?
あるいは、1時間40分では収まらないのではないですか?
あるいは、この設定・舞台・演出・役者陣で、ぶっとい物語をやるのは、無理がないですか?

観客として言えば、ぶっとい物語について行くので精一杯の1時間40分、終わってみれば、もっと興味が出てしかるべき登場人物たちに対して、何の興味も無いことに気がついて愕然とする。
舞台の上の物語が出来上がっているために、舞台の外の物語(「台詞で示唆される物語」じゃないですよ。「観客が勝手にあれこれ想像してしまう物語」ですよ。)に対して興味が沸いてこないんですよ。

やってる役者も、実はそう思ってないですか?
物語に乗るのは良いけれど、外の世界への想像力が、見えなくなってないですか?
照れ隠しのように挿入される「日常レベルに落とした会話」「異能ギャグ」、単品では面白いです。
でも、ちょっと、取ってつけた感あり。あるいは、「これくらいなら出来るよ」的な、センスの誇示。
もっと、別の切り口で、僕等の想像力を喚起させる余地はあったはず。物語要素・ギャグ・役者をぎゅっと削って、観客に任せても良いと思いますよ。

一言でいうと、センスと達者な役者の無駄遣い。
次回来るかは、微妙です。

ひょっとこ乱舞 でも時々動いているわ

うーむ、どうも、このテの芝居は、苦手です。

全体に、
(唐さん風に)「オレの物語を聴け!」
(平田オリザ風に)「ほれほれ、続きが覗いてみたいだろ」
(柄本さん風に)「俺が次に何をするか、見当もつかねーだろ!悔しかったらこんなに伸び縮む俺の下顎でも見てやがれ」
(荒井注風に)「(伝家の宝刀)This is a pen!!」
とか、そういう
「観て、観て!!」
というオーラが足りなかったような気がする。

戯曲のつくり、あるいは、ひょっとすると、その前の、戯曲を書くモチベーションの問題なのかな、と思いました。

なので、舞台に載ったものについて、個別に色々あるが、オブラートが破れないよう、ここでは書かないことにします。

2006年10月14日土曜日

何と中村俊輔ハット!

いやー、帰ってくるなり、
Wigan 1 - Man U 0
はそれはそれでよいが、
Dundee 1 - Celtic 4

http://newsimg.bbc.co.uk/sport1/hi/football/teams/d/dundee_utd/live_text/default.stm

中村3点、驚きました。

本当に、大したもんです。
欲を言えば、中盤でRoy Keaneと組む姿をもっと見たかったのですが。
Chris SuttonもJohn Hartsonも居なくなっちまって、
知ってるのはNial LennonとBaldeくらいです。

でも、本当に、SPLとはいえ、大したものです。

MODE 秘密の花園

唐さんの戯曲を他の人の演出で観るのは、
東京グローブ座、岩松さんの「それからのジョン・シルバー」
で、岩松さんが持つ唐さんへの倒錯した愛情を感じて以来
(でも、あの芝居は、その倒錯した愛情をもってしてもやはり失敗だったのではないかと思う)。

MODEを観るのは、
TOPSで「桜の園」を観て、有薗さん以外に見るべきものがなくて大変がっかりして以来。

という先入観を持って笹塚ファクトリー(初めて)にお邪魔しました。

「意外に」(というとぶっ飛ばされるかもしれないが)、すばらしい舞台でした。

唐戯曲の魅力について、さすが松本さん、勘違いが一切無い。非常にストレートに、僕が唐戯曲で観たいものがそこに在った。

勿論、テントではないし、(赤テントとは違って)異能の役者も居ないし、その意味で、芝居にエグみとかカスクの香りとか、そういう味わいはあまり望めない(勿論先週の唐組と比べて)。
でも、同年代の役者が出てる学生演劇もどきとは百万光年の開きがある。ストレートに戯曲をちゃんと解釈・演出しただけで、こんなに違うのだ。

私流に言えば、こういう芝居は
「このMODEは、ぜひともコドモに観てもらいたい。そうしてよーく勉強してほしい」

とっても得した気分です。

2006年10月11日水曜日

靴の最期の時

靴のソールが剥がれたので、Mister Minitに持参。
「ソールを交換してください」
「ソールだけじゃなくて、その内側の革まで剥がれてますよ。
これだとそこから全部交換です」
とのこと。費用は1万2千円。

1998年の1月に29ポンド(5500円くらい)で買った靴なので、さすがに修理断念。
Mister Minitのお兄さんに処分をお願いしたら、
「練習用の靴として使わせてもらいます」
と、大変ありがたいお言葉を頂いた。
練習台として、しっかりと第二の人生を送ってほしい。

思えば、ソールも何度か張り替えて、この8年間、よく頑張ってくれた。
買った当時のことを思い出して、ちょっとセンチになってしまった。合掌。

2006年10月10日火曜日

ポール・ハンターの冥福を祈る

朝一番でウェブ版の新聞を開けて知った。

http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/other_sports/snooker/6035879.stm

化学療法を受けながら、ツアーにも参加していたので、
てっきり一旦直してから再発したのかと思っていたら、
実は、痛みをこらえながら試合していたらしい。

対戦する選手も
「ポールに勝っても心の底からは喜べない」
状態だったらしい。

ブロンドで甘い顔したヨークシャーの男。
パッと見た目いい男だったが、テレビに出ててもやっぱりカラッと明るい、いい男だった。

特に応援してた訳ではないけれど(僕は「青筋君」Ken Doherty、「Welsh Potting Machine」Mark Williamsと、何だか本番に弱い Matthew Stevens を贔屓にしてるので)、
27歳は早過ぎる。

もっともっと、その容貌とキャラクターでスヌーカーを盛り上げてほしかった。本当に残念です。

2006年10月9日月曜日

唐組 透明人間

まさに、アングラ古典芸能、満喫いたしました。
嫌味で言ってるのではなくて、本当に、観てて楽しい。

唐組を見たくなった理由の一つは、最近観る芝居の台詞が、割と、いわゆる「現代口語演劇」の枠組みにはまっていた、ということがあったと思います。そうでなくて、且つ面白い芝居を観たかった。
もう一つは、「アジアの女」が、料理の仕方を変えれば唐・梁山泊系の芝居になったんではないか、と、漠然と思ったこと。

で、芝居は、まず理屈抜きで、エンターテイニングでした。
それは、小生ごときがツベコベ言うことではなくて、素晴らしい。

でも、小生理屈っぽいので、「何故こんなに面白いのか」の理屈を考えてしまう。で、次のような式をひねり出した。

唐芝居 = 物語の語り(モノローグ)+ コント

つまり、役者の長台詞は必ずしも役者間で交わされる会話として舞台の場を成立させずとも良い、という割り切り。
また、説明台詞は聞くに堪えないけれど、物語の語りは、講談のあったその昔から、僕ら、喜んで聞いてきたではないか、という前提。
加えて、芝居はエンターテインメントであるべし、という意味でのコント。これが面白い限りにおいて、また、物語の語り手を(全体の構成の中で)邪魔しない限りにおいて、このコントに対して誰が文句をつけましょう?
(唐さんの白川先生は、まるで草間彌生のようで、絶品でした)

これらを、芝居として一つの場に纏め上げる唐さんの才能が、とんでもなく素晴らしい、ということなのであろう。そして、その「場」が、
・観客に覗かれるものとしてある舞台 ではなくて、 
・一人の役者の語りに、他の役者と一体となって小屋の中の観客が耳を傾ける、そういう場
であることが素晴らしい。ですから、テント芝居なのです。トップスや紀伊国屋では成立しない。

まるでオーネットコールマンが自分の脳みそを音楽に変えてウニウニとアルトサックスのチューブから搾り出してくるように台詞をウニウニといい続けられたら、というのは僕の一つの夢ですが、それは所詮自分ひとりのエゴなので、きっと他人が見ても面白くもなんとも無い。
と、それを成立させる唐さんはエライ!と思った次第です。

2006年10月8日日曜日

ハイバイ 無外流津川吾郎

スカスカな作り方。
空間を埋めようとしない舞台美術があるように、
時間を埋めようとしない芝居があってもよい。
それは、一種力が抜けてて、良い。

が。
「シワを書いているから老人だ」
というのは、本人が考えているほど面白くない。
「シワがなくても老人だ」
とひたすら言い張る方が余程面白かっただろう。

津川役の「マンガチックに老人のような」台詞の言い方も面白くない。普通に喋って、「老人です」と言い張った方が余程面白かっただろう。

老人組は、この「書いた皺」に拘束されたせいか、窮屈な感じがした。
若者芝居組は、その制約がない分、(ひょっとすると相対的に)面白い。「こんなやついねーよ」と思うのに、面白い。

ですので、
「志賀ちゃん☆セブンティーン」
いつもの志賀さんで台詞言わしてください。
あと、作ってる人が面白いからと言って、五分刈りにしたり頬紅ささせたりしないようにお願いします。
でも、三つ編みで出てきたら歓喜の涙かも。

結論。今回だけでは判断つかず。次回志賀ちゃんに期待。

乞局 廻罠

冒頭シーン良し。
下西・秋吉の掛け合い、予告通り「後味の悪い」芝居を期待させる。

で、観終わった感想は、
「悲惨な芝居にするために登場人物を死なせたり気を狂わせたりする必要はありません」
冒頭のシーンだけで十分後味悪いんだから。

中盤以降、登場人物の身の振り方を作者がキメて行こう、そうして、物語を収束させよう、というモメンタムが大きく感じられて、失速する。
すなわち、登場人物すべてに対して勧善懲悪の辻褄をつけるまでは死に切れなかった、「南総里見八犬伝の滝沢馬琴状態」である。

そう、思い出した。この間のWorld's endもそうだったが、「登場人物が死なないと物語が終わらせられない」芝居って、実はそんなに無いはずなんだよね。
もっと下世話な言い方すると、そんなシーン、観たくないんだ。客は。少なくとも僕は。
そういうところは、平田オリザの「S高原から」はとても上手なのです。

この芝居、ちょっと勿体無かった。次も観に行くと思いますが。

それで、参考ながら、この芝居のテーマ、「脱出できるのに脱出しない」人々のモチーフ。
砂の女、カッコーの巣の上で、S高原から、冒険王(青年団)、アジアの女、諸星大二郎の漫画(タイトル失念)、駒場走ろう会(特にタイトル伏す)。
直截でくどくなくてメッセージの伝え方がカッコ良い、という切り口だけだと、一番すっきりしているのは、諸星大先生だと思う。
後は、種々の「混ぜ物」がしてあるために、味が深まるというか、そういうことですな。

今回の廻罠は、モチーフを超える混ぜ物に欠ける。もっと物語を離れて(物語をつむぐ作業は観客の勝手な想像に任せて)、混ぜ物にこだわるべし。

2006年10月1日日曜日

新国立劇場 アジアの女

岩松さんを観に行くのだ、と、自分の中で言い訳をして観に行きました。
作・演出の長塚氏は、「今をときめく」阿佐ヶ谷スパイダースの方で、第一線の方で、かたや、当方10年間日本の芝居を観ていないし。
ひょっとして、何だかカッコ良さそうな劇団の名前からして、あぁ、お洒落なスカした芝居だったらどうしよう、とか、いろいろ、余計なことを、失礼ながら、観る前に考えていた訳です。

岩松さんの舞台を見るのは「お父さんのお父さん」以来。自分の口に合わない芝居だったら、岩松さんだけみてればよい、と思っていました。

が、あにはからんや、良い芝居。

きちんとしていました。いろんな意味で。
富田靖子の演技で、なぜか、石橋蓮司を思い出す。役者の立ちを観ていて、(似てるというわけでもないのに)唐組を思い出す。もちろんアングラではなくて、「今」のお芝居なのですが。岩松さん、かっこよい。

もちろん、ストーリーで引っ張る分、たるい所もあるが、それは言わない約束だろう。2時間、楽しみました。

公演後のトークでも、皆さん、きちんとしていました。
富田さんが「てにをはが言いにくくて」と言っていたが、そのように、違和感を味わいながら台詞を言ってるのか、うらやましいぞ。あ、そこのところが石橋さんに似てるのか?
(←本気でこんなことをいってしまって、世間様を怒らせないか、とも思うが、でも、そう思ってしまったので、書きます。勝手に、アホーと思ってください。そういえば、石橋さんももう12年くらい舞台で観ていない...)

で、あえて難癖をつけるとすれば。
ラストはセンチに過ぎる。
公演後のトークで言っていたように、「色んな解釈を観客に任せてよい」というのであれば、ラストは要らない。まさに観客に任せる部分ではないか。
あと、「アジアの女」で無くても良いですよね。あるいは、タイトルが先に決まっていても、それに関係なく芝居作っちゃっても良かったような気がする。
もう一つ。舞台が広いので、役者と役者の距離が遠い。僕のように小さい芝居を見つけた人には、ちょっと不自然に遠かったです。もうちょっと小さい小屋で見たい。

と、まあ、こんな感じですが、こういうきちんとした、かつ、センチな芝居を作る長塚さんは、一体「いい人」なのかなぁ、と。是非また、彼の手になる別の芝居を観てみたい、と。
イヌの日、楽しみにしております。

(以下、10月7日の追伸)
岩松さんを狂言回し=物語を発見していく人、として位置づけるのは、ある意味作者にとって楽しい作業だし、実際に岩松さんの演技すばらしく、分かりやすく見れた。けだし、扇田氏の劇評で「ほとんど主役のよう」である。
でも、それ、やっぱり、ぬるくないかしら?
だって、物語を説明しちゃうわけでしょう?そもそも観客が物語を発見しなきゃなんないはずなんだから。その種を蒔くのが富田靖子さんだったはずなんだよね?
だって、今のままじゃ、岩松さんの存在自体が説明台詞になっちゃったりしないのかしら?
・・・でも、やっぱり岩松さん、面白かったんですよね。こういうの、ギルティ・プレジャーっていうのだろうか?

渡辺源四郎商店 背中から四十分

坂手洋二さんに言わせると、
「近代劇の一つの正統であるところの1対1対決ふたり芝居」
だし、僕が思ったのは、
「コナー・マクファーソン流の、骨太モノローグ合戦芝居」
なのですが、作家ご本人は、
「ゴドー待ちみたいなものを作りたかった」
とおっしゃる。

ゴドー待ちにしては、単線で(リニアに)展開する芝居。
ゴドー待ちのような、「どこにも行かない」感は、この芝居には無い。代わりに、登場人物2人の骨太・シンプルな物語がある。意地悪く言えばありきたりの設定。

が、そのリニアな展開をこれでもかと説明、無理強いしないところがすばらしい。そこにこの芝居の味わいが生まれる。
で、そのための仕掛けが、「マッサージ」という身体の動きであります。
マッサージしている時はきちんとマッサージしなきゃなんないので(これ、当たり前のことですが、その当たり前のことをしてない芝居って結構多いですよね)、
「生き死にのことを考えているだろう登場人物」と、
「指先の感覚や背中の感覚に意識がいっているだろう登場人物」
の間には、常にギャップがあって、観客の意識はそこを行き来できる。そこに想像力がはたらく。

シンプルでリニアな設定にシンプルかつ効果的な仕掛け。
坂手氏は舞台装置を「アンシンメトリーの教科書のような舞台」と褒めてらっしゃいましたが、
小生、この芝居を「役者の意識を物語の説明、泣かせに向けないためにはどうしたらよいかの教科書のような舞台」
とでも呼びたい。

畑澤さんが高校の先生だからか、何だか、教科書のような、という言い方をしてしまうが、他意はありません。

と、かように教科書的にきちんと出来ている戯曲ですので、力の足りない役者がやると、性質の悪い新劇か学生演劇になってしまうでしょう。

役者4人に力があるので、その点も安心。
山内さんをアゴラで観るのは何年ぶりだったか忘れたが、相変わらず素晴らしかったです。勿論、他のかたがたも。

良い芝居、堪能しました。
土曜日のソワレ、もっとお客さんがいても良かった。

2006年9月24日日曜日

シアタートラム エンドゲーム

開演前、当日パンフを読んでいて打ちのめされる。
石橋蓮司・柄本明のゴドー待ちが2000年に上演されていた!
あぁ、見逃した。
もし、ゴゴーが荒井注だったら、悔しさのあまりその場で死んでたと思う。と、気を取り直す。

で、本題。

柄本さんのクロヴ、手塚氏のハム。
前に観たバージョンはLee Evansのクロヴ、Michael Gambonのハム。

柄本さんのクロヴ、頭良さそう。柄本S、手塚M。
Lee Evansのクロヴ、頭は悪いが素直がとりえ。EvansのM、GambonはS。

柄本クロヴ、Evansクロヴよりも重量級。
手塚ハム、Gambonハムよりも軽量級。

勝手なことを言えば、重量級同士の戦いが見れたらな。
と思いますが、それで芝居のリズムがどうなるかはわからない。ただ、クロヴが拍子をとる、というのは悪くない。
(その代り、ハム独台詞の時はちょっとつらいかも)

ハムの台詞の翻訳、苦労が見える。どうすれば、本来英語の台詞なら役者に任せておけた部分を、日本語の台本に置き換えるか。悪い翻訳とは口が裂けてもいえないが、でも、ハムは苦労してましたね。結果も60点だし。

それで、クロヴの居るシーンで拍子を取ろうとしてしまう。
難しいですね。むしろ、「王様風」のところを全部いわゆる「現代口語」にして割り切って、思いっきり年齢のいった役者を使う、というのではどうか、などと考えながら観てました。

途中僕の両脇ともに居眠り、無理もないか?

水準以上の芝居。柄本さんすごい。でも、その2つとも、実は予想の範囲内なんですよね。趣向を上回る驚きはありませんでした。

パラドックス定数 38℃

1時間半、男7人のテンション芝居。
このテの芝居は20年ぶりくらいに観るので、ちょっと緊張していましたが、時計を見ずに最後まで一気に観れました。

作・演出が、絶叫芝居にならないように、でも、あんまりペースが緩み過ぎないように、よく考えられていたからだと思います。

最初は、30億円で細菌テロはなしよ、なーんて思いながら観てましたが、ギアが入るにつれてふと気がつくと芝居が収束しようとしていて、「やられた」と。
役者の皆さんも、「直球しか投げない人」「変化球投げる人」役割分担と見え方を意識して場を作ってました。それも良し。
もちろん、みんな、140kmのタマ投げれるんだよね。力あるのも良し。
仲間割れのようで仲間割れでない、真っ向勝負のようで真っ向勝負でない、そのバランスを理解する作者・演出・役者にとってもセンスを感じました。

一つ気に掛かるのは、やはり、「この芝居の決まり事は何か」ということ。具体的には、舞台と客席の仕切り。

「ある程度だけ」客席に開かれた空間を作るのには、2つのリスクがある。

・観客は、自分の置かれたシチュエーションに対し「どう反応することを演出に求められているか」について、ちょっと困ってしまう(細菌テロの演技 に対して、作り事だといって笑い出しちゃう人も、本当に怖くなって逃げ出す人も、「決まり事が共有されない」状態では、起こりうるリスクだと思います)。
そこらへんのうにょうにょの処理が大変上手なのが、CompliciteのSimon McBurneyだと、僕は思っていますが。

・役者は、何を意識して場を作ればよいのか、悩んだりしませんか?客席に公開講座のパンフを置いて見せたりする割には、どうも、役者は、自分たちを取り囲んでいる人々の反応については、①無頓着 あるいは ②無対象演技 を求められていたような気がする。

勿体無い。

是非、密室劇に書き直して、再演していただきたい。
そうして、作者は自分をもっと追い込んで頂きたい。演出は役者をもっともっと追い込んで頂きたい。
役者はその追い込みに耐えられる良い役者揃ってたと思います。

あ、大塚さん、前宣伝どおり、かっこよかったですよ。
また、どこかの劇場でお会いしましょう。

龍昇企画 真夜中のマクベス

芝居が終わって最初に考えたこと。
「オレ、すごく年取ったのかな?時間の進み方が速過ぎる」

1時間半、あっという間でした。
逆に、食い足りなかったのか?正直、もうちょっと観ていたかったですね。

小生、不勉強ですので、漱石の行人、読んでおりません。
マクベスと並んでどこでどうモチーフとして使われているのか、分かりませんので、そこら辺は飛ばして、思ったのは、

舞台での時間の流し方は、どこでどうやったら成立し、どうしたら失敗するのだろう?

特に、連続しない数多くのシーンの積み重ねで一つのイメージを紡いでいく芝居は、失敗する確率高いと思っていたのに、あっさり上手くいっていることで、小生、混乱しました。
役者の年季?見せ方?
本当にそうなのかな?
もっともっと芝居を観ないと。そして考えないと。

2006年9月18日月曜日

リール近代美術館展

「ピカソとモディリアーニの時代」と銘打ってある。
小生、ミーハーなので、モディリアーニのなで肩を見ようということで、朝一番で行ってきた。

・生まれて初めてブラックの絵が好きになりました。
・その隣にピカソの絵が掛かっていて、やはり、いかにもスカした絵でした。ピカソはすごい人です。
・「あぁ、この絵は綺麗だな」と思って近寄ると、カンディンスキでした。隣にクレーが掛かっていた。館内で一番気持ちの良い場所だった。またベルンに行きたくなった。

肝心のモディリアーニですが、自分がモディリアーニの絵が好きだということは再確認できたけれども、キュビズムの絵と合わせて見たこともあり、余計なことばかり考えてしまい、今ひとつ楽しめなかった。

細かいところは飛ばすが、「あぁ、いいなぁ」と思う絵と、その全体の印象を支える詳細(おそらくかなり技術的なこと)とのリンクが、自分には全く欠けているということ。
それは、「いい芝居」と、それを支える細かな役者の動きや集中の勘所、とのリンクと並べて考えられるだろうか?
等と考えていたら、疲れた。

余談ながら、美術館は女性がもっとも美しく見える場所のひとつだと、小生信じているのですが、今日は何だか、違ったな。

2006年9月17日日曜日

東京タンバリン ワルツ

面白かった。まずは、素直に。
・先週との連関が分かった、謎解きの楽しみ
・高井さんのタッチ、悪くないです

が、
先週の「立待月」の方が面白かった。
なぜでしょうか?
1. 先週が姉妹の芝居で今週が汗臭い男の話だから。
2. 「ワルツ」の方が、冒頭5分で全貌が予測でき、展開がそれを上回れなかったから
3. ラストがどうなるかを実は先週「隣から聞いていた」から
4. ワキ役の使い方が、先週の芝居の方がよかったから
5. ストーリーラインが太く書かれ過ぎて、ディテールを観れなくなってしまうから

うーむ、分からん。
でも、楽しみました。ガチンコで観れたし。満腹です。

2006年9月16日土曜日

風神雷神図屏風

出た、「かぜひいてまんねん」、の風神様。
こいつはいっちょ見ときますか、という位の軽ーい気持ちで参りましたが。

ブン、と来た。

俵屋宗達。すごい絵描きなのかどうかは勉強不足で知らないが、この風神雷神図はすごい。ガラス窓の向こうで風が吹いているのを感じた。

って、クサい役者のクサい演技に騙られて吹いてもいない風を感じる(と勘違いする)アホな客のようだが。でも、そんな風に感じたのだからしょうがない。玄人の方、どうぞ笑ってください。

こんな絵が初っ端に出てきては、後に出てくる絵は分が悪い。光琳の風神雷神図、何だかうっすらとちんまりまとまって、風、やみました。抱一になると、これではどっちかというと薬屋の登録商標に近い。こりゃ最初の一枚だけかい、と思った矢先、

気合の入った紅白梅図。息を呑んだ(本当に、我ながら陳腐だと思うが、本当に息を呑んだのだからしょうがない)。抱一の気合みなぎる。いや、しか し一層気合みなぎると感じたのは燕子花図。商業デザイナー抱一の面目躍如、画面を斜めに突っ切る流しソーメン!!そこにグサグサとぶっきらぼうに、おしゃ れに立ち並ぶ花々は!
抱一のこの割り切りは、風神だの雷神だのを寄せ付けないモダンな眼のなせる業かと。

で、一体尾形光琳というのはどんな人なのか?ほんとーに、勉強不足ですみません。宗達以降3人並ぶと、何だか影の薄い次男坊みたいだが、いやいやどうして、
出口に一番近いところの掛け軸3点セット。布袋と松・梅、ああ、こんな絵が欲しい。と思ってしまう。すごい切れ味です。

いやいや、本当にすばらしい絵って、あるんですね。
時間のある方は絶対、ない方も是非時間を作って、どうぞ。
息つく間を与えない、すばらしい展示だったと思います。

2006年9月11日月曜日

パパ・タラフマラ 僕の青空

うむ、すごく、カッコいいぞ。

でも、実は、そのカッコいいパフォーマンスを観ながら、僕がずっと考えてたのは、
「パパ・タラフマラの決まり事って何だろう?」
ということなのです。

決まり事を知らない、僕にとっては、
カッコいい男女4人組が、すごく気持ちよさげに体を動かして、歌を歌って、笑っているのが見える。

で、そこが僕の限界。そこで、何と愚かなことに、このパフォーマンスの座標(=フレーム。物語なのか、テーマなのか、それはよく表現できないが)を見つけ出そうとして、ドツボにはまってしまったのです。

で、男女関係とか、泥棒稼業とか、そういう、陳腐なフレームが与えられると、
「あぁ、陳腐」
と思ってしまうのが僕の限界で、本当は、パパ・タラフマラのパフォーマーたちは勿論、何度もパパ・タラフマラを観に来ている人たちは、きっと、
「そんな陳腐なフレームはたいしたことではない。それは軽く笑い飛ばしたところで楽しまないと」
って思ってるんだろう。
そういう、カッコいい決まり事が共有できない自分が、ちょっとみじめな気持ちである。
(読み返すと、すっごく嫌味な文句に読める。でも、そんなつもりじゃないんです。ホント。踊れないやつがナイトクラブに行って、踊れるやつのことを僻んでるとか、そういうレベルです)

1995年のマクベスを観た時(それが今まで観た唯一のパパ・タラフマラの舞台だったのですが)の衝撃は、今でも忘れられない。
ひょっとすると、そのときには、「マクベス」という、僕も共有できる「決まり事」があったから(そして、パフォーマンスが、その決まり事にグイッと切り込んでいったから)、安心して観れたのかもしれない。

「僕の青空」カッコいい。でも、僕はちょっと居心地悪かった。
パパ・タラフマラ、また舞台観にお邪魔すると思います。
でも、「僕の青空」の再演には行かないと思う。

桃唄309 おやすみ、おじさん

さかもっちが元気に芝居してるか、それを確かめたくて、というのが、他の皆様には大変失礼ながら、ザ・ポケットに当日券でお邪魔した第1の理由でしたが。

いや、本当に、失礼いたしました。

芝居、大変面白かったです。

お話は、「百鬼夜行抄」みたいな、妖怪と式神と中学生と近所の人たちの話。
失われていくコミュニティへの郷愁、というような、あまりにもあからさまで朝日新聞受けしそうなものはおいとくとしても、
(誤解しないでください。それがよくない、っていってるのではなくて、朝日新聞みたいに、そこしか見ない人たちがいるとやだな、ということです)

引き込まれて最後まできちんと観てしまうのは、なぜだろう?
多分、役者の集中のしどころが、正しいから?かな?
自立不能舞台装置システムも、この劇団の舞台の上ではワークしてたし、
えーと、そう、一幕ものに拘らずとも、舞台上の時間を思うように、かつ見苦しくなく流していける、というのが、とっても観てて嬉しかったんですね。

テンポ良く進めるために、役者は、きっと余計なことを考えたりしたりする余裕があんまりなかったんじゃないかと。
それも良かった。

観後感、良し。気持ちよく帰りました。

あ、いい忘れてましたが、さかもっち、かっこいい役でした。
元気そうで、本当に、何よりでした。

2006年9月10日日曜日

東京タンバリン 立待月

旗揚げを観て以来、久しぶりにお邪魔しました。
面白い。

・役者が達者。どれくらいやるとやりすぎで興ざめか、どれくらいやらないと退屈するか、というレベル感について、
①役者が分かっているか、②演出が行き届いているか、
のどちらか。

・舞台上でリアルであるかのように時間を運ぶことと、舞台上のことはウソンコであることについて、整理がついている。

・で、一番のポイントは、「そこらへんのスィートスポットが、評者と非常に良く似ている」ということでした。
言い方を変えると、「この芝居の作・演出者が、芝居を見始めたり、自分で始めたり、問題意識を持ったり、という生い立ちが、自分のケースとそっくりなのではないか」。

たとえて言うと、あるバンドのギター聞いてて、「あ、こいつ、ジミーページ好きだったんだろうーな。で、一時期ウェザーリポートばっかり聞いてたこともあっただろ!」というような。あんまり他の人に言えないような。

これ、面白いんだけど、かつ、非常に気にかかることでもある。というのは、あまりにも自分のツボにはまった芝居については、「他の人に薦められるか」を冷静に語れないから。

もう一つ気にかかること。この芝居に限ったことではないが。
最近観る芝居、登場人物に悪人多すぎませんか?
「悪人」ってのは違うな。そうだ。作者が、ネガティブな印象を持って興味を持っている人。
面白いんだけど、エッジが効きすぎてておじさんにはちょっとつらい。

平田風に言えば、(自称・他称)善人の、自分では気がつかない、いや、本当は気がついてるんだけどいわない、そういう悪意。
表には出ていないんだけど、従って、セリフや行動では見えないんだけど、芝居観終わって20分くらいして、客が「あ、あの人、ひょっとするとこういう人だったのかもしれない」と思っちゃうような、そういう悪意とか、真意というもの。
そんなのがもっとみれたらなー、と、ちょっと思いました。

なので、来週も「隣の男」の方を観に行きます。期待度大。
「隣舞台同時上演」の趣向についても、両方見終わってから書きます。
あ、少なくとも一ついえるのは、「こっちだけ観ても十分OK」。

2006年9月9日土曜日

エコノミスト誌に腐女子登場

仕事柄、英誌エコノミストは毎週読んで、日本関連の記事は必ずチェックしてますが、
何と、今日届いたエコノミスト誌、唯一の日本関連の記事は:

Kick-ass Maidens

でした。
細かいことは、わしは知らん。
ただ、世界を代表する経済雑誌Economist誌の記事の中に、
"fujoshi = rotten ladies" とか、"boys love" とか "dojinshi" とか "butler's cafe" とか、
次は"Schoolboy Cafe"だ、とか。
書いてあった。

ご興味ある方は、Economist誌9月2日号、ご購入ください。
後は任せます。

2006年9月3日日曜日

だだもれですみません

ある程度予想していたことですが、
妻子がロンドンに帰った途端に日記・レビューの数が増えた。
ほぼ、だだ漏れ状態です。

やはり、まあ、映画や、音楽や、芝居、は、近い人と一緒に行って、終演後や、聞き終わった後や、そんなときに、良いだの悪いだの、うなづきあったり喧嘩したりするのが良いんですな。

手前味噌で申し訳ないが、うちの嫁さんと娘は、そういうことをしてて最高の人たちであることは間違いない。

で、その相手がいないもんだから、こうやってだだ漏れになる、と。

仕事が殺人的になるとか、また家族と一緒になるとか、それまでの間は、しばらくご辛抱ください(って、誰が読んでるわけでもないだろうけれど)。

経済とH 北限の猿

芝居は、一つの空間(場)、を、一定の時間、スピードをコントロールしながら(特に平田戯曲なら、1秒=1秒でゆっくりと)、過不足無く、推し進めなくては、成立しない。それを、目を詰めて織り上げていくのが、演出・役者の仕事である。

ということに、無自覚なように思いました。

役者という生き物は、放っておくと余計なことをして、「場を織り上げる」ことに無頓着になっちまう傾向がある、というのも、改めて分かりました。

もちろん、良い役者、悪い役者、いましたが、このテの芝居では個々の役者の出来不出来は小さな問題であって、オーケストレーションの問題ですから。つまり、演出に問題がある、ちゅうことですか。

加えて、初演のときに自分が如何にダメだったか、ということも思い出して、それにも参った。

2006年9月2日土曜日

二騎の会 直線

酔いが醒めましたので、大幅に修正します。

当たり。
土曜日の晩に良い芝居を観ることができて、幸せでした。
他のもっとつまんない芝居を観てフラストしてる方々、是非こちらへどうぞ。

芝居を観る快楽というのは、ストーリーを追うとか、感情移入して大泣きするとか、しみじみ考えさせられるとか、そういうところには、実は、無い。
「その場に居合わせること」の快楽である、と、これから2,3日は言い続けたくなるくらい、心地よかった。演出・役者にやられっぱなしでした。

じゃあ、個々のシーンが良ければそれでよし、という訳でもなくて、それが念入りに織り上げられて、幕が上がってから終演まで、きちんと時間が流れることも大事ですよね(そうでないと、「居合わせている」感覚に水が差されてしまうので)。
それが、戯曲として、きちんとできていれば、良し。
その点も良かった。

それじゃ、戯曲は演出の邪魔をしなければそれで良いのか。
いやいや、ゴドー待ちのように演出が余計なことをしたくなる衝動を一切拒否するような、完璧な戯曲もあるし。

今回は演出をとても褒めたいですが、が、演出が使ってみたくなる戯曲って、素晴らしいですよ。

双数姉妹 トリアージ

日本に帰ってきてから、面白くない芝居は観ていない、むしろ、観る芝居観る芝居、できの良い悪いは別として、ぜーんぶ面白く観てきたのですが、
この芝居は、掛け値なしに面白くなかった。

プラス点
・ミュージカルの劇中挿入歌が、どうやって芝居にインチキ臭さを持ち込むのかについて、小劇場の場で分かりやすく観客に説明した。
・ネタバレっぽいので言わないが、もうひとつあった。

マイナス点
たくさんありまっせ。ここでは言わないけど。

ということですが、お客さんは満杯。さすがシアタートップス。で、こういう芝居を観て興奮したり、救われたり、元気が出たり、パートナーといい雰囲気になったり、社会正義に燃えたり、そういう方も沢山いるんだろうな、と思って、
世を拗ねる自分の態度がやになったりもする。少しだけ。

2006年8月29日火曜日

妻子ロンドンに帰る

ということで、単身生活再開(夏休み中は、通い婚でした)。

妻子、電車で成田に行くため、朝5時に目覚ましかけて起きたが、何と、近所から
「充電が十分でない電気剃刀で必死にヒゲを剃ろうとしている」
音が聞こえてきた。

う、う、うぃ、うぃー、うぃーン、う、うぃ。

何とも早起きな人だと思って、しばらく、その、止まりかけたモーターの音に耳を澄ましていると、やがて、その音に上の倍音追加。
するとこうなる。

ミ、ミ、ミィ、ミィー、ミィーン、ミィーン、ミン、ミィーーーーーーン。

どうやらミンミンゼミのウォームアップだったようです。

2006年8月27日日曜日

下北沢北口の眼鏡屋密度

今日は娘と下北沢ショッピングに行ってきました。

あさって妻子はロンドンに帰るので、その前の最後の買い物。
娘、ティーンエージャーですから、下北の古着屋、とか、オリジナルの服作ってるお店、とか、回ってみようということで。
結構楽しかった。本多・スズナリ・駅前劇場、あと、三福林くらいしか知らない僕にとっては、「私の知らなかった下北」という感じでした。

が、実は一番驚いたのは、下北北口の眼鏡屋密度の高さ!半径15mの圏内に、少なくとも3つは眼鏡屋がある。
これを、半径50mに伸ばすと、きっと6つはあるはず。
週末になると買い物客が集まる町とはいえ、一体どんなわけがあってこんなことになってしまったのか?

皆様、下北においでの際は、ぜひ、眼鏡屋さんの数を数えながらお歩きください。あと、なぜあれほど眼鏡屋さんの数が多いのか、ご存知の方いらしたら、教えてください。

2006年8月24日木曜日

ロイ・キーンがサンダーランドの監督に!

なるそうです。
去年甥っ子にプレゼントした"Keane 16"のCelticのシャツはどうなってしまうのか...
一体、あんな彼に監督業が勤まるのか...

が、しかし、わたし、ロイ・キーンの味方です。
ぜひともナイアル・クインの熱い友情に応えて、
サンダーランドをプレミアに昇格させてほしい。

試合後のインタビューも、毎回しっかり答えてね!

http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/teams/s/sunderland/5281188.stm

2006年6月13日火曜日

下北沢三福林健在!

今週は会社お休みして、古着とかガラクタとか古本の処分をしてます。

駒場に寄ったついでに、下北沢に昼飯を食いに出る。南口三福林がまだあるかどうかを確かめるため。

ありました。内装は1980年代後半に改装して一部で「カフェバー三福林」と呼ばれた当時のそのまま。
お店の方お二人も、当時と同じフォームで働いていた。三福林の真髄は、2人のフォームとコンビネーションにあり。

変わらぬフォームに万歳!涙出るほどうれしい。

変わったのは自分のほうか。学生時代は、昼飯から三福林に来ることはなかったな、と。定食の代金500-800円が自分にとってどれくらいの重みを持つか、も、正直、変わった。
三福林の変わらぬオヤジたちの定点観測は、街の変わり具合、人の変わり具合をどう測っているのだろうか?

聞いてみたい気もするが、余計なこと聞くとフォームを崩すかもしれないと思って自重した。また、今度は晩飯にでも行きます。

2006年6月3日土曜日

高円寺侮りがたし

10年前に倉庫に預けたままになっていて、腰が入らなくなったスーツの直しに行く。

近所のクリーニング屋に飛び込んで、どこかに洋裁屋さんがないか、親父に聞いたら、
100mくらい離れたところにある「洋服の病院」というお店を紹介してもらう。
入ると、「洋裁屋」のおばさんではなくて、「テーラーの店主」という風情の、メガネをかけてネクタイ締めた店主が出てくる。
腰を出すのに1着2100円。安い。
ということで、お願いしました。よかった、安心して頼めるところがあって。

今では、「テーラー(=紳士服仕立て屋さん)」って劇的に数が減っていて、昔は杉並区だけで200件近くあったテーラーも、今では25件くらいになってしまったそうです。

なんて話を伺った後、今度は、カラーボックスの棚に使うピンと、割れてしまった棚の代替に使う板の調達に入る。

やはりその近所に、なんとなく雑駁な感じの家具屋さんがあって、そこの親父さんに聞いてみる。
なんと、ピンがもらえた。ただで。
それではあんまり申し訳ないので、100円払う。
ついでに、棚板の話をしたら、店主、うーん、とひとしきり考えた後で、
「コンパネでいいですかね?」
100%OK。(コンパネって言葉も、むちゃくちゃ久しぶりに聞きましたが)
店主、店の裏からコンパネ引っ張り出してきて、採寸すると、おもむろに手ノコでコンパネを切り始める。
(切ってもらうかもしれないことを前提にメジャーで寸法測っていた自分もすごいが)。
店主、上手です。
お代は、「要らない」とのことでしたが、あまりの手捌きに、気持ち分払う。
店主、「こんなに要らないよ」とおっしゃって、さっきの100円は返してくれました。

うちに帰って付けてみたら、ぴったりでした。ありがとう、家具屋の店主さん。

高円寺、なかなか侮れない場所です。

そして荷解きは進む。

ダンボールの片づけの続きをやる。

本の箱は易しい。古本屋に売るものと残すものを分けるだけ。
難しいのは、写真と芝居関係の箱。

出演したすべての芝居の台本が出てくる。
学生のころに観た殆どすべての芝居の当パンが出てくる。
青年団に入るのを決めた時に観た芝居、「烏のいる麦畑」の当パンも出てくる。
初めて観た青年団の芝居「わが心石となりても」の当パンも出てくる。
「バンザイスワローズ92」ちゅうのも出てくる。
嫁さんの出産前の「Balloon」なんちゅう雑誌も出てくる。
ICUの2階教室でやった「桜前線」の写真がいっぱい出てくる。

娘が赤ん坊のときに使った、天井から下げるメリーゴーラウンドも出てくる。

新婚のときにいった長崎の観光地図が出てくる。
大学4年の時に祖父について行った北欧の観光地図も出てくる。

ここでは書けないような恥ずかしいものもいっぱい出てくる。でも、捨てられない。
(おいらに「ソクラテスの弁明」についてのレポートをお願いした、当時大学4回生の「由美ちゃん」って、いったい誰だよ!)


祖父が娘の名前を毛筆で書いた色紙が出てくる。部屋に飾る。

あぁ、こうやって、捨てられないものが増えていく。

みなさん、こういうふるーいものって、どうしてるんでしょうか?教えて!

2006年5月30日火曜日

帰国しました(2)

で、午後も作業継続。

なぜかプサンのホテルのアメニティセットが出てくる。
93年、青年団韓国旅公演のお土産だと思われる。
香港のマンダリンオリエンタルのアメニティセットも出てくる。理由は不明。
シーツの中に、やけに小さいのが出てくる。子供用である。
うちわも3枚出てくる。捨てる。
スーパーマイルドシャンプー、使いかけが出てくる。もったいないので、使うことにする。
紅茶の缶が出てくる。空だ。捨てる。
嫁さんが小学生のとき使ってたランドセルが出てくる。
僕が中学生のとき使ってたテニスラケットが出てくる。

「スーツ」と書いてある箱を開ける。
クリーニング屋さんの袋に入っているにもかかわらず袖口・襟口の黄ばみが無残に広がっているシャツを多数発見。
「俺ってこんなもん着とったんか」というようなものも出てくる。綿パンの腰周りは残酷なまでに10年後の私には小さすぎる。
で、スーツ。虫食いもなく、着れました。ジャケットは。
ズボンは、はけません...

高円寺近辺の上手な洋裁屋さん、大募集中です。

日本に帰ってきて思うところはもっともっとありますが、とりあえず今の僕の視線は著しく限られていて、半径3mくらいなので...

それでは、おやすみなさい。

帰国しました

28日に帰国しました。

今朝、会社の独身寮に入居。

現状、PCもテレビもラジオもなし。
われながら情けない話ですが、インターネットへのアクセスなしでは3日と続かないとは...
「インターネット・マンガ喫茶」からこの日記書いてます。

朝一番で、10年前に物を預けた倉庫やさんが、荷物を届けに来る。
すべてのものが、10年前ビンテージである。
蒲団は無事だ。ラッキー。
枕は2個のうち、1個の黄ばみがひどい。やはり。すべてが無事、というわけにはいかん。
ダンボール60個口のうち半数を占める「雑貨」ボックスは、実は大多数が本であることが判明。行方不明だった「やまのかいしゃ」も発見。しばし作業中断して再読。
青年団の台本も多数発掘。当日パンフも発掘。87年ごろの当パン、プレミアムつくでしょうか?
自分の中学時代の写真も出てくる。
塩ビのレコードも出てくる。行方不明だったAristid Bruantのライブ、発掘。
いかん、昼を回ったのに作業は中断しっぱなしだ。

これではいかん、と、午後の部に続く。

2006年5月17日水曜日

バービカンでロリンズを聴く

バービカンでソニー・ロリンズ聴きにいきました。

何だか、やっぱり、1年ぶりのロリンズは1年分歳をとっていた。

我が家ではロリンズのことを「ジャズ黄門様」と呼んでいますが、
黄門様の印籠、テナーマッドネスもセントトーマスも出なかった。
(でも、Without a Songはよかったです。アレンジはBridgeでの演奏と変わんなかったけど)

その代わりに、「風車の弥七ベース」、この40年間黄門様に尽くしているのに去年・一昨年見せ場(=ソロ)の無かった地味ーなボブ・クランショーが、2回もソロをとった。
クリフトン・アンダーソンも、1985年に初めてなまで聴いたときは初々しかったが、今ではすっかりおじさんである。
ボビー・ブルームのソロはなんとなく後ろのりだった。

あぁ、なにが言いたいんだか。そう、とにかく、である。
音楽的に新しくなくても、冒険が無くても、である。
僕はソニー・ロリンズ黄門様の歌が聞けてとっても嬉しかったのです。
バンドは、歌心です。

2006年5月8日月曜日

スパーズ散る

今季のプレミアリーグ全日程、ただいま終了。

トットナム・ホットスパーとアーセナルは、ともに北ロンドンに本拠を置く宿敵同士。その2つのクラブが来期の欧州チャンピオンズリーグの出場権を賭けた4位争いは、最終戦にもつれ込んでいました。
チャンピオンズリーグ、出ると出ないとで収入が何十億円か違うので、両チームともマジ必死。

12月以来4位から落ちたことの無いスパーズは、今日ウェストハムに勝てば文句なし4位。引分けてもアーセナルがウィガンに勝てなければ4位。
そしてその結末は。

昨夜以来主力選手7人がお腹を壊したスパーズは、ウェストハムに2-1で負けて散った。

勝って4位を決めたアーセナルの喜びの表情を伝えるテレビ中継。

昨夜スパーズの選手が泊まったホテルには、警察が呼ばれてるらしい。
って、スパーズサポーターなら絶対に何だか疑っちゃうシナリオですな。
普通、食中毒なら保健所が先に呼ばれるはずだし。

小生はロンドンに来た時期がヴェンガー監督とかパトリック・ヴィエイラ(今はいないけど)と近いので、心情的にはアーセナル応援してますが。

こんなマンガみたいな話も、本当に起きちゃったりするんですねー。今後の展開に期待。

ただ、個人的にもっと注目してるのは、ニューカッスルのグレン・ローダー監督。2年前にウェストハムを降格させて、その上降格寸前のタイミングで 脳腫瘍で倒れたりして、まったくついてない、という印象の人でしたが、今季はシーズン途中からニューカッスルを見事に立て直し、7位で終了。たいした方で す。ローダーさん、おめでとうございました。

2006年4月23日日曜日

ロンドンマラソン、頑張れ山内さん

「明日のロンドンマラソンで、山内さんがトップを狙う。」
と、こっちの新聞に書いていました。
山内さん、新聞記者に「日本食パワー」を力説。ヒジキ、納豆、のり、お餅と、伝統的な日本食を直前に食べてレースに臨むそうです。

http://sport.guardian.co.uk/athletics/story/0,,1758078,00.html

で、タワーブリッジを背にトレーニングしてる写真が載っていたが、日本人は一人も写っていない。 - Mara Yamauchi さん、明日出場するイギリス人ランナーとしては最も期待のかかる選手。
日本人と結婚して苗字が変わってますが、れっきとしたイギリス人の方でした。

頑張れ、山内さん。最初は日本人かと勘違いしてて申し訳ありませんでしたが、引続き応援します。
でも、納豆とお餅をレース直前に食べたりして、おなか痛くなったりしませんか?

2006年4月9日日曜日

バービカンでゴドー待ち

今、ロンドンのバービカンセンターでベケット特集をやってます。
ゆうべ、ゴドー待ちを観てきた。
とても良し。
良い戯曲を、変な解釈を加えずにテンポ良く演じてるのを観るのは気持ちが良い。

日本語で観たい。変な解釈の入らないバージョンで。
ゴゴーは志村けんさん。ディディは柄本明さん。ポッツォはベンガルさん。ラッキーは、うーんと、SMAPの中井君?
荒井注さんや天本英世さんが生きていらした頃は、荒井注のゴゴー、天本さんのラッキーなら絶対観たい、と思ってたんですが(ピーターホールのゴドー待ちを観た頃)。

でも、本当は、そういう素晴らしいゴドー待ちが、日本でも既に上演されているのかもしれない。僕が知らないだけかもしれない。

実際、物事を知らないってのは恐くて、しかも恥ずかしい。
この間「ヴァージニアウルフなんか恐くない」をキャスリーンターナー主演で観たときに、嫁さんに、
「いや、こういうのは、八千草薫みたいな、美人美人な奥さんじゃないと」
なんて話をしたのですが、実は、皆さんご存知のとおり、
「ヴァージニアウルフ」映画版の主演はエリザベステイラーだったんですね。いやー、話してた相手が嫁さんでよかった、よかった。

ちなみに、キャスリーンターナー、のどが枯れて声が出なくて、休み休みの出演になっちゃったみたいです。

2006年3月19日日曜日

日本に帰ります

日本に転勤することになりました。
時期は決まっていないけれど、多分5月の終わり頃。

娘の学校の関係で、おそらく単身帰国になります。
ちょっとつらい。

日本で働くのは10年ぶりなので、それもとても不安。
梅雨時のベタベタした通勤電車や、効きすぎの冷房、とか。
会社で友達できるかな、とか。

詳細決まったら、関係各位にはまたご連絡します。

ロンドンではやっと梅が咲き始めました。近くのフラットの玄関前に、紅梅と白梅が並んで植わっているのを発見しました。