27/12/2009 マチネ
千穐楽。大変面白く、刺激に富んだ舞台を拝見した。さすが中屋敷氏。そして中屋敷氏に仕事頼んだ三重県文化会館もさすが。
一見すると、中屋敷氏なりの柴版「御前会議」「あゆみ」「わが星」、とりわけ「あゆみ」への回答といった趣。役者の台詞をビートで縛る、役者の動きを運動で縛る、役者の表情をエアロビで縛る。その中で「割と『普遍』な」人生を辿っていく。
その趣向が面白いという人もいれば、「なんで表情を出さないのか(リアルじゃないぞ!)」とか、「台詞が一本調子ですね」という人もいるだろう。
が、多分大事なのは「縛る」ことによって役者が勝手な思い込みの演技をすることを食い止めることで、その意味で、中屋敷氏に言わせれば「そんなことは形を変えて柿喰う客で今までずっとやってきたことですよ」ということかもしれない。また、同様に、「すこやか息子」の問題意識は現代口語演劇の問題意識となんら変わるところがありません、ということではないかとも思う。
そういうことを、平田オリザのような巧妙な作家は、擬似日常の擬似リアルが示唆する外側の世界、という構図を提示することでうまーくパッケージにして観客に差し出してきたのだが、柴氏にしろ中屋敷氏にしろ、そういうのをむき出しにして、「ほれほれ」と、しかもエンターテイニングに鼻先に突きつけてくるのだ。
で、それに加えて、というか、僕がむしろガツーンとくらったのは、前回の「悪趣味」でも感じたことなんだけれど、中屋敷氏が「芝居とは名乗りと名付けのプロセスである」という命題を、またも鮮明にかつ全面に打ち出したこと。ちょっと言い方を変えると「全ての台詞は役者間の関係性を説明するための説明台詞である」ということである。
息子が生まれて夫がパパになり、妻がママになり、パパが祖父になり・・・他人が妻になり、息子が夫になり・・・夫がパパになり・・・
という説明を続けていくことで、芝居は作れてしまう!しかも、笑う人は笑えるし、泣ける人は泣けてしまう!
芝居の構成と離れても、「名乗りと名付け」が自らのアイデンティティに与える影響は誠に大きく、それをガツッと再認識させたのは実は9月の吾妻橋の飴屋法水「顔に味噌」(「よだかの星」を引用しながら!)だったことを思い出すが、「すこやか息子」も実は「名乗りと名付け」を通して人生が紡がれていく物語。「わたし」が「名付けられることで(nearly equal レッテル貼りによって)」社会と普遍を獲得し個別を失うのなら、この果てしない「名乗りと名付け」の中で役者の個はどこにあるのか?
でも、やっぱり、役者の個は見える。少なくとも、見えた。そこが勝負どころ。
これも実は、現代口語演劇が「役者の個性が見えない」「何も起きない」芝居を通してずっと抱えてきた(抱えるべきである)問題意識ではないかと思う。
週刊ダイヤモンドの最新号で大阪大の石黒浩教授が「むき身の人間」ということを言っているけれど、同様に、「むき身の役者」というのがあるのではないかとも思われる。その「むき身の役者」と「役者の個」が辛うじて交錯する地点をどうやって観客に突きつけるのか。しかも、エンターテイニングに。巧妙に。知らず知らずのうちに。
そういう課題にがっつり取り組むことが出来る中屋敷氏の技量とキャパシティに、ある意味嫉妬する。そういう場に立ち会っていた役者達にも、嫉妬する。この作品を、「全国から役者を集めて」仕立ててみせた三重文化会館には感服するほか無い。
0 件のコメント:
コメントを投稿