2009年12月30日水曜日

2009年振り返り

2009年は僕にとって大変幸せな年でした。収穫の多い年でした。
刈り取って放ったらかしでもなくて、色々な出会いがあったし、種も蒔けた(と思う)。

僕は心狭いから、いっつも一期一会の気持ちを忘れないでいることは出来ないし、
出会う人全てに同じように敬意を抱くことも出来ません。
でも、今年は本当に尊敬できる方々にお会いできたし、相手をしていただいた。

どれくらいお返しできているかは全く心許ないし、情の薄い男で本当に申し訳ないのですが、
今のところはただ、感謝感謝。本当に皆々様に、感謝申し上げます。

2010年(特に6月以降)は2009年ほど勝手放題出来ないことが分かっている。
その分、特に僕の2009年を幸せにしてくれた、ということかもしれない。

印象に残る舞台にも数多く出会えました。「優劣」などとてもつけようがないが、
敢えて2つだけ「特に僕にとってインパクトのあった舞台」を挙げます。
青年団演出部の方々の作品、「りたーんず」の方々の作品は敢えて挙げません。

1. 「着脱式」
人前に身体を晒すこと、人前でテクストを発話すること、観客席にいて身体を眺め、テクストを聴くこと。
それが大変な事件であることを改めて思い知らされた。

2. 飴屋法水「4.48サイコシス」
ここにきて、「4.48サイコシス」の当日パンフの「演出ノート」のことをたくさん考える。
「まちがった時代」「まちがった体」。漸近線の絶望と希望を考えています。

皆様にとって2010年が良い年でありますよう、お祈りいたします。

2009年12月29日火曜日

柿喰う客×三重県文化会館 すこやか息子

27/12/2009 マチネ

千穐楽。大変面白く、刺激に富んだ舞台を拝見した。さすが中屋敷氏。そして中屋敷氏に仕事頼んだ三重県文化会館もさすが。

一見すると、中屋敷氏なりの柴版「御前会議」「あゆみ」「わが星」、とりわけ「あゆみ」への回答といった趣。役者の台詞をビートで縛る、役者の動きを運動で縛る、役者の表情をエアロビで縛る。その中で「割と『普遍』な」人生を辿っていく。

その趣向が面白いという人もいれば、「なんで表情を出さないのか(リアルじゃないぞ!)」とか、「台詞が一本調子ですね」という人もいるだろう。
が、多分大事なのは「縛る」ことによって役者が勝手な思い込みの演技をすることを食い止めることで、その意味で、中屋敷氏に言わせれば「そんなことは形を変えて柿喰う客で今までずっとやってきたことですよ」ということかもしれない。また、同様に、「すこやか息子」の問題意識は現代口語演劇の問題意識となんら変わるところがありません、ということではないかとも思う。

そういうことを、平田オリザのような巧妙な作家は、擬似日常の擬似リアルが示唆する外側の世界、という構図を提示することでうまーくパッケージにして観客に差し出してきたのだが、柴氏にしろ中屋敷氏にしろ、そういうのをむき出しにして、「ほれほれ」と、しかもエンターテイニングに鼻先に突きつけてくるのだ。

で、それに加えて、というか、僕がむしろガツーンとくらったのは、前回の「悪趣味」でも感じたことなんだけれど、中屋敷氏が「芝居とは名乗りと名付けのプロセスである」という命題を、またも鮮明にかつ全面に打ち出したこと。ちょっと言い方を変えると「全ての台詞は役者間の関係性を説明するための説明台詞である」ということである。

息子が生まれて夫がパパになり、妻がママになり、パパが祖父になり・・・他人が妻になり、息子が夫になり・・・夫がパパになり・・・
という説明を続けていくことで、芝居は作れてしまう!しかも、笑う人は笑えるし、泣ける人は泣けてしまう!

芝居の構成と離れても、「名乗りと名付け」が自らのアイデンティティに与える影響は誠に大きく、それをガツッと再認識させたのは実は9月の吾妻橋の飴屋法水「顔に味噌」(「よだかの星」を引用しながら!)だったことを思い出すが、「すこやか息子」も実は「名乗りと名付け」を通して人生が紡がれていく物語。「わたし」が「名付けられることで(nearly equal レッテル貼りによって)」社会と普遍を獲得し個別を失うのなら、この果てしない「名乗りと名付け」の中で役者の個はどこにあるのか?

でも、やっぱり、役者の個は見える。少なくとも、見えた。そこが勝負どころ。

これも実は、現代口語演劇が「役者の個性が見えない」「何も起きない」芝居を通してずっと抱えてきた(抱えるべきである)問題意識ではないかと思う。

週刊ダイヤモンドの最新号で大阪大の石黒浩教授が「むき身の人間」ということを言っているけれど、同様に、「むき身の役者」というのがあるのではないかとも思われる。その「むき身の役者」と「役者の個」が辛うじて交錯する地点をどうやって観客に突きつけるのか。しかも、エンターテイニングに。巧妙に。知らず知らずのうちに。

そういう課題にがっつり取り組むことが出来る中屋敷氏の技量とキャパシティに、ある意味嫉妬する。そういう場に立ち会っていた役者達にも、嫉妬する。この作品を、「全国から役者を集めて」仕立ててみせた三重文化会館には感服するほか無い。

2009年12月27日日曜日

Harajuku Performance Plus 2009

22/12/2009 ソワレ

何日か経ってもやっぱり何だかピンと来ないのは、個々のパフォーマンスというよりも、その並びにあるのかもしれないな、と思い始めている。

「反復かつ連続」を家族に見せることができたのは大きな収穫だった。Open Reel Ensemble、はむつんサーブ、Contact Gonzo、トーチカ、それぞれ面白かったし、それは良かったんだけど。
生西氏の出し物が思わせぶりで退屈で、不快な音で一杯なのは100%僕の趣味じゃないのも、まあ、8つも出し物があるなら1つは仕方が無い、と済ますことも出来る。山崎・黒田と続くラスト、流石に疲労困憊して寝ちゃったのも、「ゴメンナサイ」といえばよい。

が、トータルで思い出したときに、何だか、高揚感が無い。末広亭に昼過ぎに入って、用があるのでしかたなく夕方出てきちゃった後の、「あぁー、面白かったねー」感。吾妻橋でいとう氏・飴屋氏の出し物が炸裂した後の、「いや、でも、鉄割とか快快もすっごく面白かったよ」といえる感覚。「東京寄席スタイル」の、「な、なんだったんだー?」感。そういうのは、もしかすると、出し物の並べ方によるのかもしれない、ということ。

でも、こういう、「寄席」形式のパフォーマンス自体は悪くない。1月の冨士山アネット寄席は、前回のスズナリ見逃しているだけに楽しみ。

2009年12月20日日曜日

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 煉獄篇

19/12/2009 ソワレ

初日。開演20分で、午後覚えたばかりの pretentious という単語が頭の中を駆け巡る。

「典型的なブルジョア家庭の日常」はいいんだけどさ、あれじゃ下手青年団だよ。
だって、「日常の中に悪夢が潜んでいるんですよー、これは、何かが潜んでいる日常なんですよー」というのが、一挙手一投足に渾身の力で込められていて、これは、いわゆる、臭い演技である。

そしてそれを裏切らない「ショッキングなシーン」が展開されて、オーマイガー、驚け驚け、ギョッとしろー、みたいな。トホホホホ・・・

ダンテを生んだ国の芸術家がダンテに挑んだ結果なのだから、所詮翻訳でしか神曲を読んでいない日本人に何が分かる、と逆切れされても、まぁ、しょうがないとは思うが、少なくとも、日本に持って来て「これで震撼してください」と頼まれたって、それは土台無理な相談だろう。フェスティバル・トーキョー、素晴しい公演が散りばめられたプログラムだったから、こういうおミソ企画もご愛嬌ということか。

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 天国篇

19/12/2009

西巣鴨、創造舎に設けられたインスタレーション。
「標準鑑賞時間」5分とあるが、これ、「5分もすれば飽きる」のか、「5分以上観ているのは(いろんな意味で)耐えられない」のか、「5分以上観ていると入場待ちの行列が伸びる」のか、分からないけれど、結果的に僕も場内にいた時間は6-7分だったと思う。

当日券で入った娘曰く、「Pretentiousだった」。プリテンシャスって、なんですか?
辞書を引くと「もったいぶった」「仰々しい」そういう意味だそうです。勉強しました。

これ自体はつまらなくはない。でも、これだけを西巣鴨まで観に行くのはどうか、という気もする。他の力強いインスタレーションとともになにかの展覧会で展示されていたら、そのとき、この天国のインスタレーションは負けないぐらいに面白いのだろうか、というと疑問もわいてくる。それでは、カステルッチの神曲三部作のコンテクストの中に位置づけたからこそ面白いのだ、と言ってしまえばよいかといえば、そういう縦軸は残念ながら思いつき以上のものとは感じられない。

そこら辺の「コンテクストがあるんですよぉ~」みたいなのが、僕にはプリテンシャスに思えてしまった。

アジア劇作家会議 「3P」

19/12/2009

高円寺の靴屋さんに行きたかったのです。その口実に、「天気いいし」「座・高円寺に行ったことがないし」「三条会の関さんの演出だし」とか何とか言って家族を連れ出したのです。動機不純で申し訳ないです。

が「3P」、とても面白かった。素晴しかった。演出、パフォーマーについては全くもって信頼して構えていたから、もちろん素晴しかったのだけれど、戯曲も素晴しかった。3人芝居で「3P」と「政治運動」を取り扱いながら、この切れ味、思わせぶりっこの無さ。素晴しい。学生運動のうねりの中で、妙なおセンチとかドラマとか、そういうのを切り捨てて、あくまでも「個」にフォーカスを当てて、しかも、それは「全体対個」なんていう紋切り型からはみ出し、あふれ出し、油断してると学生運動にはまったく遅れてやってきた僕たちのパーソナリティに忍び込んでくる。そういう技に関演出がやすりをかけて、一層切れ味鋭く、かつエンターテイニングに提示してきたもんだから、すっかりヤラレてしまった。ヨメ・娘も大満足であった。

動機不純につき時間の都合がつかず、スピーチとトークセッション聴けなかったのが残念。きちんと計画しておけばよかった。

2009年12月19日土曜日

RTNプロジェクト 就活支援セミナー

12/12/2009

昨年に引き続き、全く懲りずに、「帰国子女のための就活セミナー」にパネリストの1人として参加してきた。ちなみに、僕は帰国子女ではない。娘は海外で長いこと過ごしたが、結局帰国しないので、僕は「帰国子女の親」ですらない。

http://www.rtnproject.com/

今年も好きなことばかりぶちかまして、就活の役に立つことは一切話さず。そのうち切られるだろうとは思うけれど、切られない限りにおいてはぶちかまし続けるほか無い。

本当に、「就職したヤツが立派なヤツ」ではまったくないのだ、ということを伝えるのは難しい。僕が就職して会社員を見て、「なんて会社員はなってないんだ!」と思ったことを伝えるのも難しい。自己全否定に陥らずに、でも、視界を狭めないように、って、色々難しい。

特に、今年の大学三年生は就活、本当に大変なんだろう。そういう、就活だけが人生だなぞというインチキに騙されるなよ!という文句には、ほぼ耳が貸されていなかったと思う。

困る。僕がサラリーマンを続けながらずっと抱いている「負け犬感覚」を、年齢が僕の半分の人たちにどう伝えたらよいのか、困る。まぁ、そこらへん分かってて、セミナー主宰の方は僕を呼んでくれてるんだと思う。本当にありがたいことである。ありがたい。

セミナー後、2次会まで下北で飲んだ。2次会はセミナー主宰とパネリストの方(すごくカッコイイ男)と、3人で。珍しく酔った。同じことを繰り返しがなっていた自分を覚えている。ちょっと気持ちよかったな。

流山児☆事務所 田園に死す

13/12/2009 マチネ

最近パイプ椅子のないスズナリは珍しいのだけれど、それで満杯、ひょっとしたら靴袋まで出るかもしれない、っていうくらいの一種懐かしい期待感が、開演前の場内に溢れる。

映画の「田園に死す」は恥ずかしながら未見。むかーし(ひょっとしたら小学生の頃)トレーラーだけを観たような記憶はある。いつ、どこだったのだろう?

が、「田園に死す」を知っているとか知らないとか、アングラ通だとか通でないとか、そういうのをすっとばして、天野演出が紡ぎだすメタ構造に酔う2時間。夢+夜のように自らの妄想だけで固めた時空も凄かったけれど、寺山ワールドに自分の妄想を巧みに編みこんで主客分かちがたく、その編みこみの中を鉈だか鎌だかを手に手に持った風情で駆け抜ける役者陣のかっこよさ。

アングラの見かけの上澄みだけ借りてきて郷愁たっぷりにみせる輩もある中で、飽くまでも妄想とノイズと特権的肉体で劇場の時空を埋め尽くす試みをどアングラと呼ぶとするなら、まさにどアングラ、おれ、やっぱりアングラ好きだなぁ。格好良いなぁ、と思う。高揚した。

連れは、開場直前に、「なぁーんか、役者が1人、すかした格好で階段登って行くなぁー。こんな時間になんでかっこつけてそんなことするのかなぁー?」と思っていたらしい。僕は見逃した。見逃した人には時空は開いたままである。連れにはきちんと落とし前がついている。それがちょっと悔しい。

2009年12月13日日曜日

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 神曲 地獄篇

11/12/2009 ソワレ

初日。
地獄のようなのは1階席5列目近辺で、客席がほぼフラット、やや沈み気味になる中、頭の高さと舞台がほぼ同じ高さ、しかも寝転ぶ演技続出で、舞台見えず。これぞ生き地獄。
なので、この舞台に対して冷静に判断することは難しいのだが。まぁ、そもそも舞台が見えてないんだから判断も糞もないのだが。

最初から最後までピンと来ないまま終わった。
エクストラをたくさん使っても、それが舞台の迫力に反映されず。手数は出すもののヒットしない感じの1時間20分。
そもそも、幕前から思わせぶりな蛍光灯バチバチ音とか、はじまったら「これぞ地獄、(ファセットで宗教音楽風に)ハーーー」みたいな音が流れるのは、まったくもって興醒め。

インスタレーション風にアイディア・イメージを並べて「どうつなげるのかは観客にお任せします」なのか、「西洋の教養をある程度バックグラウンドに持ってないと難しいかもしれませんね」なのか、どちらなのかは分からないが、いずれにしても、僕がこのパフォーマンスを「ちっとも面白くない」と感じた時に、それが100%僕の責任であると言えてしまうような仕上がり。つまり、演出家の自己満足を誰かが諌める機会は与えられていないわけだ。

そういうところが、何だか、雑で、丁寧でなくて、単純に比べるのは飴屋氏に失礼かもしれないけれど、4.48サイコシスと比べてもクオリティが圧倒的に低い気がしてしまう。煉獄篇・天国篇が思いやられる。

岩下徹 放下22

07/12/2009

ぐぅの音も出ない、とはこのことか。
その瞬間・地点にいる事。観客と時空を共有すること。交感すること。
身体が動くこと、動かないこと。
空間を支配すること、すべること。
それら全てを自覚しながら、次の瞬間に集中し続けること。

確かな技術と精神力の裏づけがあって、そこへの静かな自信も感じられる。根拠のない独りよがりなものではない自信もありうる、というのが、ダンスの最中にも、ダンスの後のお話からも、感じられる。

パフォーミングアートって本当に真摯で素晴しくあり得る、ということにたいして信頼感を確かにする機会だった。その場に居合わせることが出来た幸せを噛みしめる。一週間たっても、思い出すたび興奮する。

2009年12月6日日曜日

木ノ下歌舞伎 伊達娘恋緋鹿子

06/12/2009 マチネ

あぁ、面白かった。
こういう面白い戯曲を、若い人たちが、きちんと舞台に載せてくれるのが、とても嬉しい。

2年前に初めて木ノ下歌舞伎を拝見した時に、こんなことを書いていて、
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シェークスピアであろうが、南北であろうが、「現代性」「同時代性」を備えるべきは観客の側であって、演出がいかに突飛なことをしてみせてもそれは100%上手くいってせいぜい「触媒」「きっかけ」にすぎない。
いかにして観客の視線の揺らぎを喚起し、同時代性を自覚させ、そこから見える古典の姿がどう揺らぎ、どう自らに関わってくるかを試すこと。それがこの四谷怪談の狙いだったのならば、それは、僕と娘には少なくとも伝わっているはずだ。
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うむむ。そのときに抱いた木ノ下歌舞伎のアプローチに対する印象は、良い意味で、変わっていない。今日も、充分面白い元の戯曲に対して、構成(編集)や舞台美術や衣装や演出をもって、十二分に対峙していたように思う。

もちろん、若い集団ゆえ(というか、はっと学生の芝居だということに気がついた!)の粗さもあるけれど、それをここで言ってもしょうがない。放って置いても人間年をとるもんなんだから。今日の公演は、とっても楽しかった。それが大事。

タニノクロウ 太陽と下着の見える町

04/12/2009 ソワレ

初日。いやー、格好良かった。そして、ある意味、さわやかだった。意図が徹底していて、かつ、エンターテイニングだった。
同じ、「えぇっ!?」と思うネタであっても、サンプルの松井周が気持ち悪いところに観客を宙吊りにして放置するのに対して、この舞台はエンターテイメントとしてカタルシスのあるところでひとまず決着をつける。良し悪しではないけれども、そういう差は、感じた。

パンチラ(とセックスシーン)はもちろん頻発するのだけれども、いやらしさはない。なぜなら、それらのパンチラは、きちんと演出されていて、観客の目に対して「はぁーいこっちこっち、ご期待通りのパンチラですよー、さぁ見てくださいねー」というように示されるからで、僕はもともとそんなにパンチラ好きではないのだが、それにしても、パンツ見てこんなにいやらしくないとなー。女優陣折角きれいなのになー、と、自責の念にかられる。それにしても、パンツの見せ方に関するタニノ氏の演出はかなり細かかったに違いない。マガジンとかサンデーで読んだ少年マンガの「少年妄想パンチラ」の構図に限りなく近く、それも幼女パンチラから40台パンチラまで用意して、全く周到である。

パンチラはそれくらいでいいや。実は僕は「妄想の倍音成分」について考えていたのです。

4.48サイコシスで、飴屋氏は、もうぐちゃぐちゃでどうにも均整の取れていないテクストの倍音を一個一個丁寧に解きほぐして、取り出して、色んなレベルで舞台に載せてみせた。それはホーミーとのアナロジーで、その場で思いついた絵なんだけれど、倍音と言うのは、字面だけみても立ち上がってこなくて、かなり丁寧に解きほぐさないと聞こえてこない。それをやってた飴屋さんは本当に真摯で、粘り強くて、ピッチにうるさくて、かつ、当たりの鋭い演出家だと思ったのだ。

で、タニノ氏がこの舞台で示しているものも、妄想の倍音成分だといってほぼ間違いないのではないかと思う。久保井氏演ずる50台男に焦点を当てたときに、他の登場人物が久保井氏の妄想の産物なのか、それとも本当にいる人なのか、という問いには答が出せないし、答えは示されないけれど、少なくとも、久保井氏含めた登場人物が、タニノ氏の妄想(失礼!想像力)の産物であることは確かで、タニノ氏が、テクスト書きながら、色んな音域に自分の想像力(本当は妄想と書きたい!)を割り振っている、その丁寧さがうかがえるのが楽しかった。一聴すると無関係でテンデばらばらに見える各シーンは、実は一つにキュッとまとまった世界になっているという信頼感というか、安心感というか。

同じ音の倍音ばかり聞かせていると観客は退屈するから、パンチラをまぶして、そのざらつき具合で舞台を引っ張ってみせたりする。佐野陽一演じるパンティ君とマメ山田さんは、その倍音から外れたところに置かれて、観客が世界にのめりこむことを許さない。そのバランスも素晴しかったと思う。

そういう豊かな世界の中を、90分間フルに行ったり来たりできることは、観客として無常の喜びである。陳腐で使い古された「メロディ」にこだわる一本調子の芝居がまだまだ多いんだもの。

あ、そうだ。最後、拍手が起きるタイミングを許さない終わり方を狙っていたようだけれども、そこに限っては演出の思う壺にははまらないぞ。こんな素晴しい舞台、拍手をしないテはない。

山海塾 卵を立てることから - 卵熟

05/12/2009 マチネ

お坊様が踊っていた。四体の仏像様が踊っていた。
卵に関して色んなことがあったけれども、結局のところ、卵とお坊様は永遠ではなくて、仏様は永遠である。なんだか、そういうストーリーを作ってしまった。

舞踏を観るのであるから、そんな陳腐なストーリーに嵌めないで舞踏手の動きを観ていれば良いのだけれど、特に前半は舞踏手が遠くて動きが微細で、しかも絶え間なく水の落ちる音(いわゆるアルファー波?だっけ?)かつ音楽が電子音の繰り返しなので、ストーリーを編まないと眠くなる。ストーリーを編んでも眠くなる。舞台が動かないので、僕の脳内でストーリーが暴走し始める。

以上、上演中(前半)「眠ってしまった」ことへの露骨な言い訳です。

後半のカタルシスを知ってしまった上で言えば、前半眠ってしまったのは口惜しい。もう一度機会があれば、と思う。でも、体調次第ではやっぱり眠ってしまうだろう。そういうものなのかもしれない。また、前半眠いからといって、この出し物が退屈だというわけでは全く無い。「どうだった?」と聴かれたら、素直に、「前半寝た。でも、すっごく面白かった」と言います。

リミニ・プロトコル Cargo Tokyo-Yokohama

04/12/2009

品川からトラックに積載されて横浜まで。運転手さんの実況ガイド付き。その他おまけ付き。
斜に構えればそれだけのことなのだけど。

天気も最高だったし、房総半島は見られたし、横浜の夜のライトアップも綺麗だったし、あんまり素直に楽しみすぎて、「これが演劇と呼べるのか」とか、そういう難しいことはその場では考えられなかった。

今回の2時間半で得られた驚きや喜びといったものは、その「ねらい」「方向感」ということでいえば、社会科見学やはとバスツアーでも達成できる類のものかもしれない。はとバスの運転手さんやガイドさんのプライベートに突っ込む客がいることも、僕たちは良く知っている。
でも、社会科見学やはとバスではほぼ絶対に達成できないものがこのCargo Tokyo-Yokohamaでは達成されていて、そこにはあきらかに「観客側からは見えないようになっている」仕掛けがある。それを「演劇的」と呼ぶのかもしれない。そうなのかなあ?

更に無理矢理考えると、芝居(特に現代口語演劇)を観ていて役者の仕草やちょっとした台詞に驚いたり喜んだりする時、その驚きや喜びは日常生活でも体験できないわけではない。見つければいいのだから。でも、日常生活ではほぼ絶対に目が行かない、あるいは看過してしまうことに、目を向けさせてしまう、あるいは、驚かせてしまうところに、「演劇」としての手管がある。その、視線の誘導の仕方が勝負どころ。なのかなあ?

去年11月の「多摩川線劇場」にはもっとやり方の可能性があるなー、とか、いままで都合がつかなかったり避けてたりしたPota-Live、行ってみたいなー、と思い始めたりしてるのです。