2007年8月31日金曜日

東京乾電池 小さな家と五人の紳士

30/08/2007 ソワレ

実は、この、月末劇場、非常に気に入っている。8時始まり、1時間少々の短い芝居を2000円で。
気分としては、ちょっと一杯芝居を引っ掛けて帰る風情だ。
場所も良い。花園神社の裏、ゴールデン街のほとり。僕はゴールデン街で飲んだことは大学1年の秋以降無いのだけれど、まあ、気分としては、ちょっと一杯芝居を、という気分なのだ。

若い役者が、余計な色をつけずに演じるのも良い。
妙に趣向を凝らしたモダンなコンベア居酒屋から遠く離れて、手を加えない昔ながらの居酒屋メニューを味わう趣がある。

別役さんの戯曲、というのも趣味が良い。あぁ、不条理劇というのは、こうやって観てたら楽しめるんだ、と、素直に感じられる。僕は別役さんの戯曲をそんなに数を観ていないのだけれど、こういう演出で観させていただけるのなら、何度でも観たいと思う。

すっごく刺激を受ける、という結果は期待できないのだけれど、でも、僕が芝居を観る楽しみというのは、実はこういうところにあります。ちょっと年寄りかもしれないけれど。

2007年8月28日火曜日

田上パル、お勧めです!

26日、田上パル「アルカトラズ合宿」の通し稽古を観に行ってきた。本当は9月の本番を家族に見せたかったのだが、その前に日本を離れてしまうので、せめて通し稽古だけでも、と、劇団の方に無理を頼んでみせてもらったのである。

いや、またもや堪能してしまった。通し稽古の段階で、すでにして堪能してしまった。
妻は「役者が怪我しないか」と心配だそうだ。
娘は、間近でカツアゲや肉弾戦が展開されるのを目の当たりにして、「けっこーこわかった」といっていた。佐藤誠さんの眼も、別の意味で「いつも」怖いそうだ。

えっと、無理を聞き届けてくだすったお礼に、この場を借りて皆さんに、田上パルをお勧めします。田上パルは、本当に、面白い劇団です。みんな、観に行こう!

3行で言えば:熊本弁体育会系高校生の汗と男気と肉弾戦の青春群像劇。若い男優のピチピチした肢体がスパークする。今回は、不思議もやしくんも登場だ!

が、帰りしな嫁さんに
「これ、高校生にやらせたら面白がってやると思うんだけどな」と言ったら、
「いや、それは無理」とのこと。何故かときけば、
「高校で芝居やるような子達が、これほどまでにリアルな(=アホでほんっと何も考えてない)高校生を演じられるわけが無い」。
真理だ。だからこそ、田上パルの20歳超の連中が高校生を演じることの面白さがあるのだ。彼らは、女形が女性以上に女性らしいのと同じ意味で、高校生以上に高校生らしくなってしまっているのです。

もちろん、乱暴でスピード感溢れる役者陣をきっちり芝居にまとめる田上氏の手管と目配りも、毎回楽しみ。

この、僕にとってまさに「旬」の劇団、本番は9月5日から11日まで、アトリエ春風舎で。たったの9回しかやってません。
詳しくはこちらまで。
http://tanouepal.com/

(少しは宣伝になってましたでしょうか?)

2007年8月27日月曜日

リベールテアトル La Collection

26/08/2007 マチネ

この芝居、観終わって、うーん、とうなってしまうのは、

・やっぱり日本語とフランス語では、「会話」って成り立たないんじゃないか、と思ってしまったから
(ツレによれば、異言語でもコミュニケーションは成り立つのであって、問題は、どの言語を使うかじゃなくて、単に台詞の頭に"わざと"間をとって、しかもそれが成功していないことにあるらしいのだが)
僕は、日本人とフランス人が英語(原語)で演じても良かったのでは、と思いましたが。

・この話を「男3人に女1人が絡む」を見せてしまった時点で、「説明的なリアリズム劇」に陥ってるんじゃないか、ということ。
・この、両刀遣い3人とヘテロの女性1人という組み合わせ(要は、4人の間でどんな関係も想定しうる)がそもそもあるのなら、そういう風に、もっと何が何だかわかんなくても全く構わないんではないか、ということ。

・そもそも最後に種明かしじみた台詞が入って興ざめなのは、戯曲そのものが1961年に書かれた古いものだからか?いやいや、そうじゃなくて、もっと説明的でない終わり方もあったんじゃないのかい?演出の部分で。

うーむ。いずれにせよ、「不条理劇」ってなんなのだろうか?別役・ベケット・イヨネスコは不条理だけど。でも、これは、なぁぁ。ちょっと、退屈だったかな。1時間ちょいの芝居にしては。

2007年8月22日水曜日

サマーソニック2007

実は、年甲斐も無く行ってきちまったっす。
娘の誕生日祝いにかこつけて。

お目当ては: Modest Mouse, Bloc Party
家族の目当てはこれに加えて: Fratellis, Kasabian, OK Go, Twang, Offspring, Arctic Monkeys

自分は明らかに会場の平均年齢を引き上げていた。
Cyndi Lauper や Stranglers や Pet Shop Boys ならともかく、Bloc Partyともなるとなおさらである。

娘は「モッシング禁止」に驚いていた。
娘にとってはモッシングあってのライブなんだそうだ。
...知らなかった。こいつ、ブリクストン・アカデミーでさんざん暴れてやがったのか...
(もちろん、イギリスの野郎どもは、モッシングのさなかにレディーがこけたりつらそうだったりつぶされそうになったりすると、すかさず助けてくれて、最前列の係のおいちゃんに引き渡してくれるそうだ。いいやつ。)

2日目のアリーナ。娘はFratellis→Bloc Party、Manic Street Preachersでちょっと休んで、Kasabian→Arctic Monkeys、と、午後2時以降アリーナ(ほぼ)フル出場。すごい体力だ。妻と自分は順番で休む。
Bloc Partyは(これまた年甲斐も無く)楽しんだ。ほんと、いいバンドだ。

1日目のModest Mouseも良かった。聴いているうちに「入っていく」のを感じて、それは自分的には珍しい。

他のバンドもなかなかそれで大したもんで、Arctic Monkeysも落ち着いた大物らしい演奏でした。

そういうわけで、それこそ本当に年甲斐も無く、楽しかったっす。
「焼けましたね」とのコメントには「特に山や海に出かけたわけじゃないんですよ」と答えることにしている。正解は実は「スタジアム焼け」なんである。

2007年8月20日月曜日

あなざ事情団 ゴド侍

19/08/2007 ソワレ

先ず、シンプルに言えば、
食わず嫌い気味だった「観客参加型」芝居を、素直に楽しみました。それが驚きだった。

観客参加型の芝居は難しいとずっと思っていた。
古くは1980年代、黄色舞伎団が客をいじり倒す芝居をしているという噂を聞いて、ビビッた小生は黄色舞伎団の舞台を観ないまま今日に至っている し、最近ではPotaliveなるものも駒場近辺でやっているらしいけれども、小生、観客参加型の演劇にビビッているせいで、いまだ「ポ」の札をつけて駒 場を散歩したことがないんである。

卑近なところだと、吉本新喜劇ロンドン公演で職場の同僚が舞台に引っ張り上げられたらしいし、ドリフを観てるガキどもが「うしろー!」とか「ひだ りー!」とか絶叫するのもある意味観客参加型。あるいは、客に向かってウィンクとかあからさまな問いかけとか、そういうのは後を絶たなくて、いや、ほん と、そういうのは、(極端なポジションを取るならば、舞台上の面切りも含めて)あられもないというか、ま、つまらないことが多い。少なくとも芝居として は。

某ツレも言っていたが、「観客参加型」の芝居って、ただの「客いじり」との境界線が難しい、ということなのだろう。

で、何故僕がこの芝居を楽しめたかというのは、実は説明できなくて、つらつら考えるに、
①作・演出あるいは役者への信頼感(要は、知っている人がやっているから)なのか、
②単なる客いじりに終わらないように、本当に考え抜かれているからなのか。例えば、客が客として舞台を見つめている瞬間と、客が参加者として緊張しつついる瞬間との糊代の処理とか。
③倉品女史の満面に珠となって噴出す汗を眺めるにつけ、それを50cm離れたところで一滴も汗を流さず見ている俺は一体何なんだ、何でそんなオレ がこの舞台に参加してよいのだ?という、そこはかとない罪の意識と、とはいいつつもテレビさんに指名されてすっかり舞い上がりながら感じた照れと緊張感 と、そういう自分は何なんだと考えながら過ごす時間が楽しかったのか。
④総勢30人くらい、という観客の規模が丁度よかったのか(しかも地味な情宣なので、知人・関係者率は高かったと思われる)。

いずれにせよ、僕には面白かった。
が、本当に予備知識ない人が飛び込みで観に来ても楽しかっただろうか?それはなさそうだ。だからこそ、春風舎のような、「ある程度芝居を見ている人」が来るような小屋で上演したのだろうし、そのアプローチは非常に正しい。

あとで、ゴドー待ちの「時間をつぶす」ということをやってみたかったということを聞いてしまうと、若干芝居の意図が紋切型に落ちた気もするし、それでは朝日のような夕日を連れてに陥る危険大である。危険は大きいけれども、少なくとも僕の見た回は落ちていませんでした。

むしろ、娘の批判は僕に向けられていて、
「チャンネルを変えるときの切り替えのキレが悪かった」
そうだ。返す言葉も無い。

ともあれ、観客参加型、のパフォーマンスの意味を、もちっと真面目に考えてみよう、と思ったことです。

2007年8月19日日曜日

木ノ下歌舞伎 yotsuya-kaidan

18/08/2007 マチネ

まず、森山さんや松田さんがチラシの裏に書いているこの芝居の紹介が、難しくてよく分からないのである。
なんだかとっても誉めているようなのだが、でも、どこを良いと言っているのかがよく分からないのである。
これは、森山さんや松田さんが訳のわかんない人たちだ、ということでは、決して無い。
むしろ、このテの、なんだかよく分からないけれど誉められている劇団というのは、観てみてもやっぱりよく分からないけれども、面白かったりする、ということが往々にしてある、ということを言いたいのである。

娘と劇場に入って当日パンフを読むと、そこにある八角氏の文章も、これまたよく分からないのである。そして、客層も、森山氏をはじめ、何だか錚々たる観客な感じなのである。

客入れ時から幕の後ろでガヤガヤ無駄話していて、僕の後ろの観客が「あのイカレタ連中は何とかしなきゃなんないんじゃないの。早くやめさせなきゃ。」と言っている。その連れが、「いや、これも芝居の一部ですから」と言っている。

この趣向、この客層、一体どんな芝居になるのだろうか、と思ううちに開演。

芝居後、娘は「面白かった」そうだ。よかった。
僕も「つまらない芝居」とは思わなかった。勘違いした前衛でもないぞ。うむ。

が、何が面白かったかといわれると、これが難しい。
強いて言えば、「ずっと観ていると面白くなるんではないだろうか」という期待感が持てるという意味で、「つまらなくない」ということだったのかもしれない。

歌舞伎・現代風とくれば花組と比べてしまうけれど、ケレンとか、役者のずるさとか、そういうことを考えると、たとえフォーマットが紋切り型であろうとなんであろうと、文句なしに花組のほうが「面白い」だろう。

そうすると、この、役者も20代前半の若い方が多数を占めるこの劇団で出来ることは、きっと、古典の演目の「安心感」を揺らがそうとする試みであ るに違いない。この四谷怪談で紋切り型の古典の安心感がひっくり返ったとはとても思えないけれど(失礼!)、でも、その揺らぎは確かに感じた気がするし、 それは、芝居を観る楽しみの一つでもある。

と、こうやって書くと、イギリスの演出家がシェークスピアに現代性(同時代性?)を与えようと腐心しつつ敗れさっていく種々の事例が思い出される。
そう。シェークスピアであろうが、南北であろうが、「現代性」「同時代性」を備えるべきは観客の側であって、演出がいかに突飛なことをしてみせてもそれは100%上手くいってせいぜい「触媒」「きっかけ」にすぎない。
いかにして観客の視線の揺らぎを喚起し、同時代性を自覚させ、そこから見える古典の姿がどう揺らぎ、どう自らに関わってくるかを試すこと。それがこの四谷怪談の狙いだったのならば、それは、僕と娘には少なくとも伝わっているはずだ。

何だか難しくなってしまった。自分でも何言ってんだか、というかんじだが、でも、要は、そういう芝居だったんです。

2007年8月11日土曜日

東京デスロック ソラリス

10/08/2007 ソワレ

東京デスロック、僕にとっては今年の夏休みのメインメニューの一つである。妻と娘にとってはサマーソニックの前哨戦である。

この劇団、演出、この役者陣ではずれるわけが無い、と予め家族には断言していたものの、いざ幕前となるとさすがに緊張する。もしこれで万万が一面白くなかったら、父権の凋落間違いない。

ということだったのだが、結論から言うと、一瞬でも「もし面白くなかったら」と考えたオレが悪かった。デスロックの皆様、すまなかった。東京デスロックは疑う余地無く、今、東京で一番面白い劇団の一つだ。

こういう芝居を観ると、まずは、やはり、「クリアすべき一定のレベル」というものが芝居にはあるのではないか、と考えてしまう。この芝居はいろいろな面でこの「一定のレベル」を超えていて、凡百の劇団と一線を画す。

が、その上で、さらに、どんな面白いことが出来るのか、を考えて実践してしまうのが多田氏のエラいところで、また、デスロックを観に行く楽しみでもあり、そこに全く頭が下がる思いである。

で、そんな風に色々あったうえで、さらにさらに、舞台がはじまると役者(+舞台)を見ているのが面白くて面白くて、上手奥から下手手前まで、髪の 毛の先の育毛スプレーから土踏まずまで、何一つ見逃すまいと思って一生懸命観るのだけれど当然全てを観つくすことはできなくて、そこが芝居の醍醐味だとそ れすらも喜ばしく、また、多田淳之介のスカした手管に自分が乗せられているかと思うと心憎く、そうやって役者(+舞台)を食い入るように観ている間に90 分過ぎた。

この芝居、アゴラで火曜日までというのは本当に勿体無い。無理してでも観に行く価値あり。
娘も「かっこよかった」を連発。父権は悠々と守られた一幕であった。空腹につきアフタートークをきけなかったのが残念。

以下、内容について二、三言うと(これから観に行かれる方は、特にネタバレじゃないですが、読まないほうがよいと思います)


・誰が現実で誰が海に作られたのかが、最後まで分からないし、考えれば考えるほどいろいろな解釈ができる仕掛けになっている。それが良い。
・役者陣は事前の予想通り全員、よし。
・アゴラにプールとは恐れ入った。アイスホッケーのリンクのようなプラスチック板も良し。舞台で水掛け合ってしかもアングラにならないとは、さすがである。
・声を大きくしたり、わざと変な声を出してみせるところは、実は夫婦意見分かれたところで、「奇をてらっているわけではなくて、一定のロジック立 てをして見せ方も考えた結果なのだから可」とするのか、「だからこそ、その声の調子に頼って中盤若干だれた」というのか。しかし、一致したのは、そんな箇 所ぐらいでしか議論にならないくらいにきちんとした芝居だった、ということ。

でも、春風舎でやるときと比べて、今回はちょっとよそゆきだったかな?

2007年8月8日水曜日

ブルドッキングヘッドロック 不確かな怪物

07/08/2007 ソワレ

2時間15分、これと言った苦痛もなく観れたが(それ自体は褒め言葉ですが)、この芝居を語るのにふさわしい言葉をずっと考えた結果、まことに失 礼ながら「そこそこの芝居」という言葉しか出てこないのだ。そこそこ、と言ってしまう、その8割方は、2時間以上の芝居でそこそこ観ていられたから、とい う、まさに、そこそこのところに収まっているのだ。

何故か。多分、役者が多かったので飽きなかったのだろう。
役者5/6人でやってたら飽きて苦しかっただろうし、逆に、こんなに長くなることも無かっただろう。

虚構と現実が入り乱れる妄想芝居においては、先日の坂手作「いとこ同志」のように、あるいは、唐の芝居のように、
「結局のところどっちでも構わないのさ」
的な突き放したところが無いと苦しい。

どこでどう虚構と現実が絡み合っているかという構造自体を芝居を通じて暴いていく or 読み取らせていく or 物語っていく芝居は、どうにも苦しいし、第一、役者がつまらなくなる。倉持裕氏の「ワンマンショー」、本谷有希子氏の「ファイナルファンタジックスーパー ノーフラット」なんかもそうだった。

世界の謎解きに興味はない。役者の立ち居振る舞いになら興味がもてる。

だから、20人近い役者が入れ替わり立ち代り出てくるこの芝居を最後まで見通して、最後の最後にやはり虚構と現実の関係を説明してくれちゃうと、何ともいえなくなってしまうのだ。だから、「そこそこの芝居だった」といわざるを得ないのです。

2007年8月5日日曜日

鹿殺し 魔人現る

04/08/2007 マチネ

嫁と娘が、チラシを見て、「観に行きたい」といったのだ。本当だ。当日、娘が都合が悪くなり観れなくなって、かなり機嫌が悪かったのも本当らしい。

・・・

色んな言い方はあるのだろうが、とりあえず、沢山芝居を観ることなのではないだろうか?どんな演技にしびれて、どんな演技をクサいと思うのか。芝居が1時間半あったら、どんなときにタルいと思うのか、どういうときにぐっと客を掴んでいるのか。
もちろんそこに主観は入り込むけれど、つまり、好みはあるだろうけれど、それにしても、この芝居では、思い込み先行と言われても仕方が無いのでは ないか。自分でやっていることで他人がやっていないことがあったら、そこで一歩下がって、「何故他人がそれをしないのか」考えてみる価値はあると思う。

...なんだかじじーの繰言みたいだが、この芝居のことを考えるとそういう考えしか浮かんでこないんだ。