2007年4月30日月曜日

東京乾電池 授業

29/04/2007 ソワレ ベンガルバージョン

いや、堪能いたしました。
濃く、短く、面白く。

ああ、こんなに意味の無い台詞を、延々と言い続けていられるなんて、教授役の方(今日はベンガル)は、ゴドー待ちのラッキーのように幸せです。角替さんのお声もお懐かしうございました。

カムカムミニキーナ 大自然

29/04/2007 マチネ

このところ、自分の嗜好に合わない芝居であっても
「ま、いいか、みんなに愛されてるみたいだし」
となるケースがままあって、その勢いでカムカムミニキーナ。
清水宏さん、80年代後半にトップスの山の手事情社で拝見して以来(って、20年ぶりか!)、という興味もあった。

当日パンフに「こういう作品をつくりたかった」とあり、「もちろん人によって様々な受け取られ方をするでしょう」とある。よし、いいぞ。押し付けられるとネガティブ先入観で入っちまうからな。で、開演。

清水さん、変わっていない。「年をとらない」ことの再定義を求められそうな若さとエネルギーである。
で、気合とキレとテンションと滑舌とパワーとスピードで、エチュードも使って組み上げたシーンで構成していって、要所要所でメン切って長ゼリ入って、
って、実は、変わっていないのは清水さんではなくて、この芝居のツクリ方、なのではないか?

80年代後半の、駒場小劇場やら出来たばかりのピカピカのトップスやら、(恥ずかしながら小生行ったことの無い)大隈講堂脇特設テントやら、もうちょい下ってモリエールやらでよくやっていた、その頃の芝居の作り方、なのではないか?
何だか、70年代ハードロックの様式美を見せ付ける英国バンドの来日公演に来てしまったような気恥ずかしさを感じてしまう。

勿論、作り方自体は芝居の出来不出来とは別なので、そういうものとして、面白ければ面白いといえば良いのだけれど。で、回りくどくなったが、感想は、「清水・今奈良の芸は面白い。でも、全体として、芝居として面白いかは別」。

きっと、80年代の「あの」傾向の芝居をどんどん煮詰めて、洗練させていったとしても、今回の「大自然」にはならなかったと思う。作っている本人 達は、特にエチュードで重ねたところは、楽しかったんだろうな、とは思うが。要は、僕にとって問題なのは、この芝居が「80年代後半の芝居に対して僕が感 じていた違和感」をそのまま2007年に持ってきていることなのだ。

で、その違和感が何だったのか、今となっては突き止めるすべもないのだけれど。ただ、それを背負いながら20年頑張っている役者は、本当に、エラい。これは、冗談でもなんでもなくて。

おめでとうサンダーランド昇格

Roy Keaneが監督となって1年経たずに再昇格。
心からおめでとうございます。

http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/teams/s/sunderland/6588831.stm

そして、その性格が心配されていたRoy Keaneに全てを預けた、オーナーでもあり選手時代からの友人でもあるNiall Quinn にも大きな拍手を贈ります。

本当に良かったね。

でも、サンダーランドの昇格で思い出すのは、Peter Reid が監督をしてプレミアに昇格したときのBBCの特集番組。1分間にF-wordが流れた回数では当時ダントツで1位だったのを覚えている(いまじゃThick of Itに抜かれたかもしれないが)。

来シーズンの楽しみが、1つ増えた。

そして、甥っ子に贈った「Keane 16」のセルティックのシャツも、満更でもないだろ、という気がしてきた。

黒テント かもめ

29/04/2007 マチネ

まず言えるのは、チェーホフの戯曲の強烈さ、ということで、まず、1点目。そして、その強烈な戯曲にそのまま乗っかろうとすると、実はそんなに甘くて優しい戯曲ではなくて、演じるにはかなり厳しい戯曲なんだろうということが、2点目。その上で、黒テントによる上演である。

乾電池のかもめは余りにも強烈で忘れられないが、この、黒テントのかもめも、安心して観ていられた。何といっても役者に力があるし、クサい演技は 常に排除しようとするベクトルが働いているし、そういう意味で、チェーホフが戯曲の中に仕掛けたハードルをクリアしながら、そこに某かのフレーバーを忍び 込ませる遊びも忘れていない、ということか。

気になったのは、小田島先生の翻訳、ですね。大体、原本ロシア語なのだが、小田島先生は英語のどのバージョンを底本にして翻訳したんだろう?かつ、やはり言葉の選択が翻訳劇チックなのが痛い。

そもそも全てのシーンを現代日本にまるっきり置き換えて贋作を作っても通用するような芝居で、「現代日本語口語」で演じられないのは惜しい。 (チェーホフが当時の口語ロシア語で戯曲を書いていないとすれば話は別だけれど)殊かもめについては現代日本語口語への大胆な翻案があってもおかしくな い。翻訳劇台詞への照れは、乾電池かチェルフィッチュくらいに芝居を壊さないと払拭できないような気もしています。

2007年4月29日日曜日

電動夏子安置システム 抜かりない奴らに、ジレンマ。

28/04/2007 ソワレ

去年から気に入っている「パラドックス定数」に出ていた役者2人が出演、ということで、大塚まで出かけた。事前に上演時間を聞いたところ、2時間 30分。またもイヤーな予感がしてしまう。昼の黒テントも2時間30分。昼夜あわせて5時間も芝居小屋にいるのかよ。あんたもすきねぇ、と、自分に突っ込 んでみても寂しいだけなので、そこは端折って芝居について語ると、これが、開けてびっくり2時間30分最後まで観れてしまった。

「どどど企画」「デスロックの再生」「流山児事務所の鼠小僧」「モダンスイマーズの回転する夜」に引き続き、この芝居も現在・過去・未来ビデオ テープ巻き戻し再生もの。1回の店舗・2階のアパート・その間にある屋根裏の三層ウェハースで繰り広げられる時間の入り繰り・役柄の入り繰り・コンテクス トの入り繰りは、作者もかなり力入れて書いたんだなと思うし、ドリフの忍者屋敷を思い起こさせて懐かしく、楽しい。仕掛け自体はかなり成功している。

で、この仕掛けがどの方向に向かっているかを考えると、デスロックの「繰り返しの中の裂け目作戦」でも、天野天街の「アングラ繰り返しナンセンス お客様サービス作戦」でも、モダンスイマーズの「時間の螺旋巻き戻しクリスマスキャロル作戦」でもない。うーんと考えたのだけれど、やっぱり、ドリフの忍 者屋敷以上の理由付けは浮かんでこなかった。

なぜか?
・なぜその巻き戻しにみんなで付き合う必要があるのかの動機付けが、話自体として甚だ弱いから。(但し、その場その場が楽しければそれはそれで良し)
・「違う」ことの判断基準が、「きっちり同じ」なのか「キュー台詞」なのか「全体の印象」なのかが不明確。要は、「もし本当にこんなことが起きたら、例えばこれはどうよ?」という細かな想像力と作りこみが足りないから。
・まぁ、そもそも、細部のリアリティは無視をして(おそらくかなり割り切って)芝居を作っているから。そこが芝居というよりもコントっぽい。
・巻き戻しのきっかけが「首後ろガックン」は、駄目でしょう。分かり易くはなるかもしれないが、興ざめ。

ネガティブなコメントを並べたけれど、それは、
「ネガティブな部分を割り切ってしまえば、後はドリフの忍者屋敷として楽しめた」
ということを言うためで、屁難しいことや説教臭いことを言い出さない限りにおいて、このショーは、非常に面白い。

ただし、2時間30分は、長い。
トイレは大丈夫だったけれど、お腹が減った。終演後のセールストークにイライラしてしまう(僕は空腹時にはかなり機嫌が悪くなります)。もっとシーンを削ってインパクトを際立たせることも十分可能。

次回以降、上演時間が2時間切ったらまた出かけようかな。でも、結構皆さん、毎回長ーい芝居を楽しんでいらっしゃるようで、またも「愛される芝居とは何か」について考え込んでしまったことですよ。

2007年4月27日金曜日

猫のホテル 苦労人

26/04/2007 ソワレ

またまた、「愛される芝居とは」について考えてしまった。

一幕・休憩なしの130分。毎度ながら嫌な予感がする。
まとめきれずに2時間超えか、役者を甘やかして余計な間ばかり入って2時間超えか、そのどっちなのか観てやろう、と思って始まったが、これが、そのどちらでもない。

7世代にわたる苦労人の血筋の大河家系ドラマを、どう伏線を張るでもなく、メリハリをつけるでもなく、130分綴り続けるのであった。僕の芝居の好みとはねじれの位置にある。にも拘らず、不快感を催さない。
なぜだろう?
さすがに、ギャグのサービスシーンで周囲が笑っていても、僕は笑えなくて、きっと屁難しい顔してたのだろうが、でも、何だか、最後まで観てしまった。
① 平日で仕事帰りということもあり精神的に弱っているので怒る元気が無い。あるがままを受け入れてしまうから。
② スジが違う観客にも「不快感を催させない」何かがあるから。例えば、押し付けがましくないので、スベってても流せちゃう、とか。
そのどちらかだと思うのだが、結局結論は出ず。

でも、周りの人は幸せそうだったな。
確かに、愛される芝居だろうし、こういう、どうでもよくてくだらない(ここでは褒め言葉です)芝居を2時間超観るなら、アゴラだったらもっと近くていいんだろうなぁ、とも思ったりしたのです。

2007年4月23日月曜日

間寛平・ベンガル ハレモノ

22/04/2007 ソワレ

まぁ、芝居と思って観るよりは、間寛平さんとベンガルさんの掛け合いだけに集中して、それが面白く観れれば良しとしよう、というノリで、スズナリにお邪魔しましたが、

いや、ホント、当パンにもあったし、カーテンコールでベンガルさんが「本当は間さんが言ってない台詞がたーくさんある」とも言っていたし、何より、観ていて分かるが、
稽古しないで、スカスカのまま舞台に載せてるなー。

二人がまるっきり素になって顔真っ赤にして笑いこらえてるのを観るのはとてつもなく面白かった、が、まぁ、最初にも言ったとおり、芝居と思って観ちゃいかんな、と。
が、そういう態度が、演出や他の役者からも感じられちゃうのは、如何か?
そもそも、実は、観客が何を期待すべきかが、変な意味でむちゃくちゃ狭いレンジに限定されたパフォーマンスなのではないかな、とも思えてくる。

でも、まあ、腹かかえて笑ったからいいか。青年団で笑いこらえてた分を、スズナリで取り返しました。

青年団 東京ノート (長文)

22/04/2007 マチネ

魔法の時間を過ごした、
というのは、公演後もときちさんの顔を見たから言わなきゃと思って言ってるんではなくて、素直な気持ちを短く言うとこうなる。

客入れ中、川隅の出から始まり、最後、暗転するまで、目が離せない。本当に、誰を見ても、どこを見ても、面白い。それが一体となって、場の時空を流していく美しさは、まるでマイルスの60年代後半のクィンテットのようだ。

(註:去年、坂手さんの戯曲集を読んだときの感想で、けしからんことに、以下のようなことを書き散らしているので、以下、引用。
独断と偏見で芝居を音楽に例えたら:
唐さん=オーネット・コールマン。そのこころは、思うが侭に垂れ流し。好き放題にやってかっこいい。この人はもう仕様が無い。才能だから。
平田オリザ=60年代後半のマイルス。こんなに絶妙のオーケストレーションでこんなにも美しいのに、なぜか商業的に爆発しない。
長塚圭史さん=ブランフォード・マルサリス。すくすくと、幅広く、屈託無く。ロックからジャズ、ファンクまでお任せ。器用貧乏でも終わらないよ。
山崎哲さん=エレファント・カシマシ。そのこころは、観客が身じろぎもせず舞台に見入っていたあの頃。
坂手洋二さん=ザ・フー。いいオヤジになっても相変わらずガンガンギターかき鳴らして、マイクスタンドをグルグル回してる。
ダッセー、と思ってしまうときもあるが、Live8ではティーンエイジャーの娘に「このバンドカッコイイ!」と言わせてしまい、オヤジ思わず目を剥く。 )

役者全員が場に対して極めて敏感に反応する。一瞬のスキも感じさせないオーケストレーションで、そこに生まれる演場(音場のアナロジーで)自体に感動する。

松田・山村のデュエットはまるでブランフォードとケニーカークランドのようで、絡みつつもたれず緊張感を失わないアンサンブルに、話始まったばかりなのに思わず涙し、
秋山・川隅が大竹・辻にピアニッシモで切り込んでいくときの間合いの計り方と大竹の赤い目じりにまた涙し、
堀さんって、なんでこんなに東京物語の杉村春子みたいに喋るんだろう、といっては感動し、
小河原が鈴木に何気なく吐く台詞「何にも見えないんだよ、真っ暗で」が、初演以来13年で初めて頭に飛び込んできて、ウッと感情がこみ上げる。
女子大生荻野に声を掛けられたのが自分でなくて小林であるとわかった時の足立さんのがっかりした表情に爆笑しかけて思いとどめ、
大塚先生熱弁中の足立・根本の視線の泳ぎ方に気をとられ、
能島が舞台上から客席をぐるりと睨め回す気合に気圧される。
特に全員の名前を挙げたくて書いているわけではないので、ここで止めるが、とにかく、頭のてっぺんから爪先まで、どこを見ても飽きないし、面白いのだ。

今回のキャスティングで観るのは初めてだったけれども、役者が変わっても芝居が崩れないのは、①コンポジションとしての戯曲の完成度の高さと、② 個々の役者の力、の2つが揃ってこそ。間のとり方やこまこました反応が変わっても、全体として芝居が生み出すうねりには変わりが無く、まさに古典足りう る。

なので、いちゃもんをつけるとすれば、オーケストラをけなすときに「第一バイオリンの2列目の人が演奏の途中でちいさくくしゃみをしていた」くらいのレベル感の文句しかつけられない(アンケートに書きましたが)。
あえて1つ繰り返すとすると、2014年に
「カメラっていっても、フィルムも何にも要らないんです」
という人は、きっと、いないと思う。だって、今だってフィルムカメラ使う人、いないんだから。

そして、豊穣感は、つねに、一種の饐えた匂いのそこはかとない不安感を伴う。
マイルスは音楽のスタイルを変えたが、名盤レコードは残った。青年団はスタイルを変えて、誰も見たことのない道を更に進むのか?芝居の世界に「録画芸術」はない。それでは、スタイルを変えずに、この高みから更にどこを目指して登るのか?

とにかく。この公演は素晴らしい。書ききれなかった素晴らしいことがたーくさんある。いくら書いても書ききれないので、とりあえず、皆さん、是非ごらんになってください。

2007年4月22日日曜日

モダンスイマーズ 回転する夜 (ネタバレあり)

21/04/2007 ソワレ

当日券で入ると、前から2列目、下手壁際の席に案内される。いわゆる、オリパパポジションである。そして、僕の好きなポジションである。
最前列のさみっと伊東氏、だいま氏の前を通って席に着く。
が、右を見ると、そこにはいき座の土井通肇さんが!何と、僕が来なければ土井さんが前から二番目最下手の席にいたということか?
「最下手壁際前列は、じじいポジション」
ということで、モダンスイマーズ初見。
(土井さん、ごめんなさい。が、僕がとても緊張していたのはお判りでしたか?)

感想は「悪くない」。
内容は「のび太のクリスマスキャロル」。

ネタバレにならない範囲で言うと、
・古川悦史氏、顔が藤井フミヤに似てないか?
・「だらー」「っち」って、どこの方言なんだろう?現実に聴いたことがないということは、僕の行ったことがない地方の方言か?気になる。
・全体に、もうちょっと、ネジを締める余地のある出来上がりだった気がする。間をとるとか、色々。そうすると、1時間30分の枠の中で、もうちょっと遊びが入れられたのでは、とも思った。



<以下、オールネタバレです。>




芝居の構造はシンプルで、まぁ、夢落ちなんですが。
「過去の1つのポイントに戻って、現在の自分に至るコースを変えられたらいーな」
というモチーフは、古典的な、古くはのび太くん、あるいは代紋TAKE2に見られ、かつ、恥ずかしながら筆者自身も時々風呂に浸かりながらそんなことを考えてたりする、とってもはずかちいネタなんである。

スクルージはクリスマスイブを起点に現在・過去・未来を回転させて、幽霊とともに時空を巡り、改心して未来へ踏み出すが、この「回転する夜」の主 人公のうらなり君も、過去の1点を軸にその後の未来を組みなおそうと試みて、まぁ、ラスト、夜が明けてから、未来に向かって一歩を踏み出すと。

よって、のび太のクリスマスキャロルである。
ジャイアン、しずか、できすぎくんもいるぞ!
あ、これ、褒め言葉ですので誤解なきよう。僕はPatrick Stuart のクリスマスキャロルは大好きだし、ドラえもんは言わずもがなの名作ですよね。
3回転目に入ったヒネリも、非常にストレートかつタイムリーに入って、効果的でした。

で、以下、僕が一番考えていたことについて。
1つのシーンを繰り返すとき、(この芝居では、現在の夜が5回、何年か前のターニングポイントのシーンが4回、回転しつつ繰り返されるが)、客は何を観るのか?あるいは、何が観たいのか?
そこに、去年の小生一押し芝居、東京デスロックの「再生」との比較が割って入る。

デスロックの繰り返し(全力投球ラジカセ唱和絶叫宴会ダンス大会を3回繰り返し)で立ち現れたのは、繰り返しの中に出てこざるを得ない裂け目、ひ び割れ、といったもので、個々の役者の体のパーツ、立ち位置、呼吸のあらさ、汗、小道具、つぶれる声、そうしたものに、どうしても眼が行かざるを得なかっ た。

一方、「回転する夜」の観客は、「次を予想する」観客である。のびた=うらなり君の思念によってコースの変わった歴史が、一体どう動くのだろう? きっとみなそれを考えていたはずだ。おそらく作者の意図でもあると思う。結果、繰り返しの糊代の部分は、「休み時間」になってしまう嫌いがあったのではな いか?役者陣、けして悪くなかったので、それは勿体無い気がする。

観客が次の展開を読むのを放棄してしまうぐらいに瞬間瞬間の役者の立ちが面白い芝居の方が、僕は好きだ。
この蓬莱さんという人もかなりのてだれと見ましたが、こういうフィクションの交錯、物語のコースの迷走の中で一気に読ます人といえば、実は、芝居 ではなくて、奥泉光さんの小説に、現在では止めを刺します。奥泉さん張りの構造を芝居で見ちゃうような日がいつかくるのだろうか?

と、寄り道したけれども、この芝居、全体にペースを上げて、時間を短縮して、その短縮した時間を使って、Back to the Future ばりの遊びのシーンを、やっぱり間をとらずに入れ込んで、それによって、繰り返しが難しくなっちゃったりして、それを役者に寸分たがわず繰り返すよう要求 したりして、役者辛い、演出厳しい、観客嬉しい、ウヒ、ウヒ、ウヒヒヒヒヒヒ......という、もっと危ない芝居にもなりえたとも思うんだけれど。

...忘れてください。テレビ局からの花も届いてましたが、これくらいのレベルで収めた方が、幅広い方に楽しんでもらえるんだと思います。

遊園地再生事業団 ニュータウン入口リーディング

21/04/2007 マチネ

こういう、方法論として考え抜かれていて、とても追いつけないようなところにいる人の芝居に触れると、ヘコむ。非常にヘコむ。

冒頭PoguesのYoung Ned on the Hill がかかって、
「あ、あ、これ、どのアルバムの何て曲だっけ」
と必死に思い出すうちに、芝居の方では夫婦の台詞が既に1分半くらい進んでいる。やられた。これ、何の話になっているんだ?
後は、ロストしたり、入りかけたり、で、終わる。内容は、また、本公演の頃に。

アフタートークも示唆に富んでいて、宮沢氏のブログ「富士日記2」にもあるように、金曜日のセッションはいろんな方いらして、かつ、芝居のからくりが明らかになるような質疑もあったらしく、ちょっと羨ましいな、とも思ったが、

① 探偵小説の最後のページから読んでもしょうがない
② 芝居の構造の謎解きは、芝居そのものを楽しむこととはちょっと違う
③ 宮沢氏の戯曲の進行の度合いという事情は僕には全く関係の無い動機で、「僕が」リーディングに来た動機は、その「構造の謎解き」について、予め自分の中に仕込みしておこう、ということなので、それはそれで寝かせとけば良い
④ よって、プレビュー・本公演を観る前にリーディングに来ておいて、良かった。
Poguesへの心の準備も出来るし。

しかし、本当に、思うのは、
「自分達が演ってて楽しいことを舞台に載せたらいいじゃん」
という姿勢がかっこいい、と。だから、方法に拘る、と。
宮沢さんの姿勢は、真似ができるものではないが、いや、してもしょうがないが、昨日から、僕は、大いにヘコむとともに、まるで、
日頃のオフィスワークで近いところしか見れない僕の眼球の筋肉を無理やり伸ばすべく、
モルジブの白い浜・青い空・遠い水平線に連れて行かれて、頭と瞼固定、いくら涙が出ても、こめかみ痛くなっても、じーっと焦点の合わない遠くを凝視し続けている、
という感覚が続いている。

要は、こういうものに触れると、芝居に対するパースペクティブが、ちょっとでも、変わる、ということなのです。

2007年4月15日日曜日

乞局 媚励

14/04/2007 ソワレ

僕はきっと、下西氏の芝居が、嫌いです。
いきなり、「良い悪い」でなくて「好き嫌い」で入ってしまうのは、この、乞局という劇団は、クサくないし、役者も良いし、勘違いも(多分)していないし、設定も悪くないし、話の落とし方も悪くない。
声を大にして、「これはダメだ」とは口が裂けてもいえない。

加えて、念のために言うが、「後味の悪さ」自体は、それはそれで構わない。

それでは一体何が気に食わないのかを考えてみたが、一言で括ると、
「過剰を見せるための過剰」
ではないか、と考えた。言い方を変えると、
「裂け目が観たい、とは確かに言ったけれど、その裂け目を目の前に突きつけて『うらうらうらぁ、この裂け目、眼ん玉かっぽじって見開いて見らんかい!!』って見せられてもなぁ」
という感じかな?

例えば、パンツを嗅ぐのは、それは、それで、良い。パンツ舐めても、それは、それで、良い。でも、それが毎度毎度性欲と直結するのは、あまりにもあられがない。
不倫も酒浸りもヒステリーも、芝居の構成要素として立派に作用している。作用するのだから、逆に、抑え目に出してもOKな気がするのだが。
うーむ、要は、僕は、「チラリズム好き」ということなのか?

それは否定できないだろう。だって、僕がそうした「裂け目」に接して時々とてつもなく感動する瞬間は、どう誇張したって、2週間に1度もない。2週間に一度?それは、起きてる時間18時間×14日=252時間、のうち、ほんの1秒だよ。
252時間のうち1秒のことを、1時間40分のうちの何十分にもわたって押し込まれようとすると、僕はきっと「しつこい」と感じるのだろう。
そこらへん、平田オリザはずるい。出し惜しみすることで、逆に「リアルに近い」という錯覚を生み出しているので。1時間30分で2度3度、ってのも、まるっきり虚構なのだ。

それだから僕は言う。「下西氏の芝居は嫌いです」と。
裂け目は小出しに、短く。それが僕の好みです。ガバ股開きは、趣味じゃない。

鉄割アルバトロスケット 馬とマウスの阿房トラベル

14/04/2007 マチネ

面白かった。芝居、とは呼ばないけれど。
何が面白かったって、というので、当パン見返して、スキットのタイトルと観た内容を突き合わせてみようかと思ったら、実は、何を観たのか良く説明できないことに気付く。

嫁さんに電話かけたときに説明しようと思ったが、説明できたのは「さるとかまわし」くらい、かな?
特に、休憩後の後半は、このパフォーマンスの呼吸に合わせ易くなったからか割りと覚えていますが(ふるさわくん、最も芝居っぽいスキットで、面白くもあった)、前半の方となるととんと。

この、「泥酔芸のキラウエア火山」とも名づけるべき恐るべき芸風。
とても正気ではやってられないスキットを、素面と泥酔の際のところで、爆発的に(でも、空中高く噴煙を吹き上げるのではなく、ダラーリと地上を這っていくキラウエア火山の熔岩のイメージ)ネタを連発していく。そして時々(というか、もうちょっと頻繁に)スベる。

いやー、何だか、懐かしい気持ちになるパフォーマンスでした。受付も客入れも、こんなユルくていいんかい、という感じで、いいんだよ、とみんな入ってしまうのがまた良し。

嫁さんと娘を連れてまた来たい。そしたら、あの、僕ら三人の頭を三日三晩悩ませた「ラリブチ感」が何を意味していたのかの謎が解けると思うんだよね。

2007年4月9日月曜日

うさぎ庵 チチキトクサクラサク

08/04/2007 ソワレ

良し。今まで観た工藤芝居の中で最も良かった。

妙な「エンターテイメント性」から離れて、「タクシーの中」から膨らませたのが勝因か。
観客の視線が1時間30分集まる中、大塚・森内の2人の存在感が良く芝居を支えていた。さすがです。力がある役者が真ん中に座ると途端に居心地が良い。

それを更に支えるのに水下さん、羽場さん、山本雅幸、申そげを使っちゃうんだから贅沢だ。
申そげ、立ちがきれいだ。見とれる。
羽場さん、実は、すごくアクセントになっている。
水下さん、赤いソックスでエッチ振りを主張。
ヤマモ、遊んでるな。こういうポジティブな遊びは観ていて嬉しいぞ。

一つ難癖をつけるとすると、ラス前、病院の中はちょっと引っ張りすぎか。こういう話はサッと幕を引いて落とした方が残るんとちがうかな。

青年団 別れの唄 再見

08/04/2007 ソワレ千秋楽

良いものは何度観ても良いではないか。
ということで、観ました。
最前列、字幕の見えない場所。フランス人席である。
後ろのご夫婦が「でも、フランスで観たと思えばね、良いお席よね」なんて言ってる。その通りだ。

今回目に付いたのは、Anne役の難しさ、かな。
弔われる人の友人、日本語もちょっと分かる、でも、全部は分からない。間に入れるようで、入れない。その感覚。

あと、間口が広い舞台での、左右の距離感。
まるで奥行きが無い舞台のように役者が横に惑星直列してしまうような場面もあるのだけれど、その距離感がとれているので、かつ、奥行きが実はあるので、妙な構図。

2度目もあっという間に時間が過ぎた。本当に幸せな芝居だ。不幸せな日のことを描いているのに、幸せな芝居だ。

風琴工房 紅の舞う丘

08/04/2007 マチネ

スズナリまで出かけて朝の連続テレビ小説を観てしまった。
しかも、2時間連続である。15分で逃げて帰るわけには行かない。

何が朝の連続テレビ小説かって、
・説明台詞の嵐。状況を説明するよどみない台詞、気持ちを説明する台詞、良い人悪い人を説明する台詞。そしてその全てが、役者が立ち、関係を切り結ぶためではなくて、作者の思い描く物語を説明するために置かれている。
・ところが、台詞に自信が無いからか、身振り手振りが台詞を補って説明したくてしようがなくなる。身振り手振りが台詞連動。これじゃピンポンパンのお話コーナー。表情も同様。

こんなものを観に来たわけじゃないんだよね。くだらない。
と、思っていたら、大崎さんが、舞台上から
「くだらないことはないと思うのよね」

台詞だった。これには吃驚した。

笹野鈴々音、良し。「わたくし、自分を見せ付ける以外の目的の説明台詞は発しませんことよ」という気合あり。
夏目慎也、良し。出てきたときは驚いたが、ゲストだったんですね。

僕は大崎由利子さんが大好きで、本当に、目の前に大崎さんがいるとドギマギして(すごく古い!)しまうぐらいファンなのだが、この芝居は、悲しかった。佐藤誓さんが出ても、篠塚さんが出ても、やっぱり駄目なんじゃないか、という悲しい予感を胸に、スズナリを出た。

2007年4月6日金曜日

青年団 別れの唄

05/04/2007 ソワレ

異文化との出会いやすれ違いやコミュニケーションの不成立・成立する一瞬、といったモチーフは、実は、もうそれだけで一本芝居がかけてしまって、 Royal Hunt of the Sun とか 赤鬼 とか、往々にしてそれだけピックアップして悦に入る向きも後を絶たないのだが、その点平田オリザという男は良く考えていて、そこに、フランス人の妻の葬式 を日本でたてる、という設定を嵌めてくる。

宮沢章夫さんがどこかで、「平田というヤツはリアルというところで大胆なすり替えを仕掛けてくる」というようなことを言っていた気がするが(間違っていたら御免なさい)、それはこの芝居でもLaurent Gutmannとのコンビで存分に発揮されていて、
・リアル以上に低い鴨居
・リアル以上に広い部屋
・実際の時間通りには動いてないのに30分毎に律儀に鳴る掛け時計
特に、この、掛け時計が刻む時間の伸縮自在な様が、「なんてズルイ仕掛けなんだ」と思わせる。

フランス人役者の「足」で遊んで見せたのはGutmannのフランス人観客へのサービスなのだろうが、残念ながらFrancoisの靴下に穴が開いてるのには長い間気付かず。

本当に、60年代後半のマイルスのクインテットのような、美しく編まれたアンサンブルである。役者が何を演出から要求されているかについて自覚的 である限りにおいて、どの言語で演じられているかはほとんど関係が無い。厳しく作っていることと、しなやかに柔らかに出来上がることとは両立しうるんです な。

残念なのは、やはり「字幕」に眼が行ってしまうことで、その間はどうしても役者の動きの面白さが追えない。
おそらくもう一度観に行くだろう。そして、字幕なしにもチャレンジしてみようと思ってます。

あと、いちゃもんつけるとすれば、「オチの無い話」の「多用」かな。手を変え品を変え、5回ぐらい使ってたと思うんだが、それはどうか。この20 年間、オチのない話のオーソリチィであると自他共に認める小生をして、ちょっと多いかな、とは思いました。でも、そういうオチのない話ネタって、フランス 人には面白いのかな?

芝居の後に飲んだ酒も、異様に楽しかった。月曜日以来何かとふさぐことも多かったのだが、金曜の朝起きたら全部吹っ飛んでいました。

あれ、言うの忘れてた。本当に良い芝居です。フランスに興味の無い人も、必見です。日曜までです。

2007年4月2日月曜日

メタリック農家 癖

01/04/2007 ソワレ

ウソをつく女(というウソンコを演じる女)とそれに乗る男(というウソンコを演じる男)が舞台上にいる。芝居という大きな「ウソ」を観に来ているくせに、「リアルじゃなきゃ」と言ってしまうわがままな観客がいる。

最終的には物語のツジツマはつくのだけれど、うーん、ツジツマをつける必要は、実は無いよね。テレビドラマじゃないから。

どちらかというと、ウソをついたりつかれたり共謀したり、といったプロセスの中で、何だか筋書き通りに行かない破れがあったり、期待してた滑らかなストーリー面に断層を走らせたりするところが、実は面白いんじゃないかとも思う。

同じ理由で、人を舞台上で殺す必要は無いんですよね。殺さなくても死んでる人っているし。分かんない人もいるし。

なんて事を考えながら観てました。
ウソの話を大きなウソに入れ込んで見せると言うのは、かなりの力が必要で、うーむ、そこまでしなくても、とも思ってしまいました。

ニットキャップシアター 彼岸の魚

01/04/2007 マチネ (一部途中からネタバレあります)

芝居の作り方 - 面きり、役者のキレ、ナゾの展開、ロジカルに筋を掴もうとする客を突き放す不条理な展開 - が何だか80年代っぽい。

「存在と記憶」がテーマとのこと。記憶そのものが曖昧にしか紡げない、また、勝手に紡げてもしまうものだ、ということであれば、記憶に立脚する「存在」感は極めて曖昧となる。
だから、この芝居のシーンの一つ一つについても、もしかすると、ヒロインが勝手に紡いだものかもしれませんよ。でも、これは芝居ですから、ヒロインではなくて、他の誰かが勝手に紡いだ記憶かもしれませんよ。
と、上演中、ずっと言ってるんである。この芝居は。

<ここからネタバレ>


結局最後まで真相は明らかにしないし、明らかになる必要も無い。
ここが、鐘下辰夫の「セルロイド」がつまらなくて、この、彼岸の魚が、苦しいながらも、また、陳腐な「私って一体何ナノ?」的なところに足をとられながらも、最後まで何とか辿り付けた理由かな。

でも、もっと言ってしまうと、わざわざ事態をこんがらせなくとも、舞台に対して、どのシーンが誰のどのような現実なのか妄想なのか、というフレームを嵌めたがる観客からすれば、いろんなフレームを逆妄想する余地はあるわけです。
例えば、平田オリザの戯曲だって、どリアルと見せかけて実はすごく虚構だし、じゃあ誰の視点なのか、と言うことだけでもかなり遊べる余地がある。

この芝居に余地がないかといえば、ありました。でも、だからこそ、その、観客の妄想の余地をもう一段バールでこじ開けるような芝居を期待したいです。出来ないことはないと思います。

2007年4月1日日曜日

蜻蛉玉 頂戴

31/03/2007 ソワレ

欠点を指摘することは出来るけれども、観てて気持ちいい舞台だった。
素舞台に近いアゴラ。なぜか舞台奥の鉄のドアが剥き出しで、「お、いつか開くんじゃないか」と思わせる。ちょっと昔が懐かしくなって、嬉しい。

上演中も、3階に上がってみたり、ハシゴを昇り降りしたり、エレベーター使ってみたり、奈落の上に卓袱台載せて掘り炬燵にしてみたり、うん、アゴラの使い方を良く心得ておるぞ。

この芝居でも、過去の思い出・物語が繰り返し語られる。で、その物語の総体をどう現在で受け止めて、で、
で、それを未来に向かってどう打ち出すかは描かない。と。
それをどう評価するかは難しくて、本当は、その「先」の足掻きを観たいとも思ったりするのだが、
島林愛のエゴはまだそんなところまで来ていないのかな、という気もする。良い意味で、若い。その先にはまだ興味が無くても許される、現在に特化する権利を持っている、という気もしました。

で、破れということでいうと、やはり、芝居も島林のエゴが前面に出ていて、その点で、男優に優しくないかな。
で、美雨も「わかんない、わかんない」いうのは、しつこいぞ。でも、まあ、島林のエゴもそう言っていて答出てないんだろうけど、それは、逆に、何だか、許すけど、
でも、「聞いてるほうの身にもなれ」というところを、一歩下がって、舞台の上で出しても、よかないかな?
と、ちょっと思いました。

文句は言うけれど、気持ちの良い舞台だった。今日一日、竹中某の詰まんない本とか、自分のテイストに合わないパフォーマンスとか、前の日3時まで 飲んできつかったとか、考えてみたら水曜からずっとアルコールが抜けてないじゃんとか、そういうのを、アゴラでの90分間は忘れてました。サンキュ!

亀田興毅 対 前田司郎

僕は夢日記はつけないのですが、余りにも鮮明で変な夢だったので、書きます。

亀田興毅、挑戦者に何と劇作家前田司郎を指名。
受けて立つ前田に勝機はあるのか?

第1ラウンド、前田のパンチが空を切る。難なくかわす亀田。が、そのとき、前田のパンチの風圧で後ろにのけぞる亀田。
おまえ、赤胴鈴之介かい。

で、眼が覚めた。前田氏、何だかボクシング用のトランクスがサマになってました。

指輪ホテル Ying & Yang

31/03/2007 マチネ

暗転から明るくなって飛び出してくる、とびっきりの笑顔を作る女達。オレ、ドン引き。これをあと90分か...

好きにやってくれ。どうせオレはこの手のものに理解ないですから。
あぁ、顔を作らないでくれ、びっくりのポーズをしないでくれ、みんなで同じ振りをしないでくれ。
ありきたりのものの中から裂け目を見せるのであれば、一つ一つをもっと丁寧に見せてくれ。

全身で物語を語りたくてしようが無い人々が舞台に乗っていると、こっちは本当に、目のやり場に困る。僕は、普通の表情の中にちらと見える何かとか、足の裏の土踏まずがぴくっと動くとか、そういうのに興味があるのであって、どんな物語を説明されたいとも思ってやしない。
あれやこれやが何やかんやを表徴しているだなんて、そういう難しいこと言わないでね。

このパフォーマンスを楽しむ人を、僕は咎めません。
僕にはまったく向いていなかった、ということは明確に分かりました。