2007年7月30日月曜日

いとこ同志

29/07/2007 マチネ

やられました。

坂手さんが舞台にのせた世界、当日パンフを読めばそのまんまで、
「・・・本物か。・・・偽物か。あるいは、想像上の小説の登場人物が、現実の世界に現れたのか……。現実と虚構、幾層もの世界が葛藤する」
ま、ひどいこと言えばどってことのないシンプルなプロットで、
「いま、作家である女は、『最終回』を書こうとしている」
というのも、まぁ、見えているといえば見えないことも無い。
となると、この芝居の素晴らしさは、この、少しでもやり方を誤ればただの紋切り型に落ちてしまいそうな(好意的な言い方をすればクラシックで骨太な)プロット・モチーフを、素晴らしい芝居に仕立てた作・演出+役者陣、ということになるのだろう。

小説家の妄想と現実、妄想の中の(もしかすると現実のかもしれない)登場人物達の妄想(かも知れない、現実かもしれないもの)と現実(かも知れない、妄想かもしれないもの)、そしてそれ全体をくるむ作者の妄想。
および、「とはいっても、現実としてそこに在る」舞台上の役者達。

それらの織り上げる時空を、唯一つの解釈に導こうとするのではなく、観客に任せてしまう手管は見事。
そして、妄想だろうが現実だろうが関係の無いことよ、と言わんばかりに「ただ舞台に在り」続ける渡辺美佐子さん、素晴らしい。

相変わらずの坂手風台詞回しも、この舞台の上では(クサい言い方だが)自然に捉えられて、2時間経過する頃には、舞台上の渡辺ワールドから下車したくなくなっている。

おセンチなエンディングだとちょっとだけ斜に構えてみせようとしても、芝居の力強さに引き寄せられてぐっと涙が出そうになるのをこらえて客席をで たら、坂手さんがロビーに出てきていて、会釈して二言三言交わそうとしているうちに思わずうわっとこみ上げてきて、それをごまかすようにそそくさと東京芸 術劇場を後にした。

2007年7月29日日曜日

ハイバイ ポンポン

28/07/2007 マチネ

岩井さんの芝居は、毎回、「一人称」チックな視線の動きが楽しみ。それは、ストーリーラインが、主人公ないしそれに準ずる人物の始点に沿って組み立てられていく、という印象で、今まで観たところでいえば、
無外流→お父さん
ヒッキーカンクーントルネード→お兄ちゃん
おねがい放課後→志賀ちゃん
の視点に沿って時間が組み立てられていくので、
・観ていて露骨に感情移入していける。
・でも、舞台を面で観ている感じがしない。
これ、安易な感情移入を許さず、全体のオーケストレーションで勝負する青年団とは対照的だ、と思っていた。

今回も、黒田氏演じる吾郎君の一人称ラインが見事に炸裂。ひょうきん族から死刑執行までの流れには思わず腰が浮いた。
が、実は、品川カンパニーの稽古シーンも、本来は「サービスシーン」かもしれないのにも拘らず、いや、だからこそ、吾郎くんの視線に入らない役者 達が好き放題に暴れまわって、何とも楽しかったのです。強いて言えば、そこは品川氏(orお母さん)の視点にスイッチしたのかもしれないけれど。

色々言ったけれど、楽しく観た。連れも思いっきり楽しんでいた。次回以降の展開も楽しみです。

2007年7月24日火曜日

妻子一時帰国中

私事で恐縮ながら、というか、日記なんだからもちろん私事なのだが、妻子一時帰国中です。
9月頭まで日本にいます。

単身でなくなるので、あんまり勝手気儘できません。
15日から今日まで、娘の友達母子が日本に遊びに来てました。休日ほぼフルアテンド。芝居どころじゃ、(ほぼ)ありません。
もちろん妻子は100%フルアテンドでした。

で、と。一体何が言いたいかといえば、だ。
芝居観たりするよりも面白いことってあるんだな、と、いまさらのように感じたりしてるわけです。

2007年7月22日日曜日

パルコ劇場 The Last Laugh

21/07/2007 ソワレ

妻・娘・娘の友人(イギリス人、10日間の日本観光中)・その母・僕、の、5人で観に行った。
The Office や、Hitchhikers Guide の Martin Freeman だし、イギリス人ティーンエイジャーにも楽しんでもらえるかな、と思って、土曜の夜にアレンジしたわけである。

それだから、ハッスルマニアもtsumazuki no ishi も Never Lose も国分寺大人倶楽部も観に行かなかったのである。

だから、もうちょっと真面目にやって欲しかったかな。

マーチン・フリーマンは登場からして「ほらほら、みてみて、おれって、おもしろいでしょ。」なアピールが興醒め。この男、舞台で見るとこんなにタコだったのかい。
ロジャー・ロイド・パックが第二幕ペースを上げて何とかサマになったかと思いきや、ラストにかけておセンチ光線炸裂(これは役者のせいではないが)。前半ダメだと思ったものはやっぱりダメで終わったか、という残念な結果である。

我らがゲストも、第一幕終了後は余りの加速の悪さに呆然としていたが、後半のロジャー・ロイド・パックは楽しめたそうだ。

「ウェスト・エンドで上手くいくかな?」と娘の友人の母に水を向けたら、
「あの2人のリハーサルを前半に持ってこないと、お客が持たないだろう」とのこと。
僕も同感です。

チラシの英語もひどい(絶対にネイティブチェック入れてないね)けれど、舞台も所詮その程度だった。マーチン・フリーマンがパルコ劇場の拍手に騙されて、「日本の客はこんなもんか」と誤解しないことを切に願う。

2007年7月18日水曜日

蜻蛉玉 たいくつな女の日

17/07/2007 ソワレ

前回の蜻蛉玉を見て、印象として残っていたのは、
「島林愛のエゴの出し方は、何ともかわいい」
という、何とも自分の中でも説明つけがたい感想で、今回も、タイトルからして「たいくつな女の日」てなもんだから、島林氏のエゴがどんな風に芝居に反映されるのかが楽しみで、観に行ってしまった。

で、やはり、この芝居に登場する島林の分身たちは、みな、わがままだったり、エゴが前に出てきたり、扱いづらかったり、説明がつかなかったり、そして、何ともかわいかったのである。
この際、「かわいい」という感想が、男性から発せられる場合、
①男から見て御しやすい、という、ある意味ナメた感情
②男から見て「理解しがたい」ものを「かわいい」でごまかそうとする感情
③何でもいいから愛しちゃう感情
等々、色々あるのだろうが、こと、この芝居に関して言うと、(僕なりには)おそらく、
④もっと見たい、しりたい、
ということで、これは即ち、「今度の芝居も観てみたい、そこで、島林のエゴに触れてみたい」ということである。

そこで、「あたしを観て観て、受け入れて」という本谷風のゴリ押しをしないで、1時間10分でプイッと芝居を終わらせてしまうところや、色々なス テージでの人間模様にはわき目も降らずただただ螺旋階段を登り続ける島林の露出、といったおくゆかしさ、が、(僕にとっては)絶妙の引きとなっている。

もちろん、「何が描かれているか」だけで芝居は終わらなくて、舞台への載せ方の巧拙を論じることも必要なのだけれど、で、その意味で、あの、ひた すら登り続ける島林、というコンセプトも面白いのだけれど、今日のところはそういったところを棚上げにしておいて、また次回観に行こうかな、なんて思った りしています。

2007年7月17日火曜日

龍昇企画 こころ

16/07/2007 ソワレ

漱石プロジェクト、去年の夏から観始めて、「行人」「夢十夜」ときて、今回の「こころ(小生初見)」と来たが、これは、正直、苦しかった。

「私」と「友人」が先生とその妻の墓参りに来る、そこでの会話が芝居全体のフレームになっているが、龍さんと吉田さんのその会話が、何とも上手く いかない。説明台詞というよりもむしろ、「ナレーター台詞」というべきか、「現代国語読解台詞」とでも言おうか、「こころ」を読み解くプロセスをそのまま 台詞にされても、聴く方は戸惑うばかりである。

直井氏演じる先生が、漱石の書いた台詞をそのまま使いつつも芝居ならではの色気と現代性を醸し出しているのといかにも対照的で、勿体無い。

女優2人と青年役2人が(おそらく狙いとして)紋切り型であるのをベテラン男優がしっかと受け止めて味付けし、観客に届けているとの印象。全体のフレームに、多少は破れがあっても遊びを持たせておけば、もっと幅のある舞台になったのではないかと考えた次第です。

ポツドール 人間<ハート>失格

16/07/2007 マチネ

前回の「激情」を観て「二度と観ない」と書いたにも拘らず再訪。

岩瀬亮とテレビ。これだけで前半40分観ていられて、
「もしかするとこれで最後までもたせたらすごいぞ。ひょっとしてありえるぞ。他の役者は全て「声の出演」だな」
と思ったのだが、

・ それくらいにテレビの使い方が効果的で、①観客の意識を分散させる ②舞台上の時間のペースメーカーとなって、時間を流す役割から役者の意識を引き離してあげられる ということを、他の役者の助けなしで達成していた、その一方で、

・ 実は、舞台に乗っている役者の数が増えても、必ずしもそれまで以上に面白くならなかった落胆、もあった。要は、役者がいなくても、場が成立しちゃってる、という、由々しき状態が生じかねない感じがしたのだ。

暗転10回、シーン数11。10個目のシーンで突如テレビの時間が逆行して、シーン6の番組オンエアー、もしダメ人間街道をまっしぐらに突っ走っていたらこうなっていた、「こうなるはずだった」シーンをみせて、一日が終わる、という仕掛け。
「のびたの夢オチ」
だ、と割り切って劇場を出たが、

ひょっとすると、これは、突っ走るのが現実で、中途半端な生活が続いていくというのは、実は、落ちて落ちて落ちまくったヤツが刹那かいま見る夢なのではないか、と。
そういう解釈も許されるなら、そうしたい。
(でも、そういう解釈を許さないような元カノの台詞が一つあったようななかったような...)

主人公の単線ストーリーで1時間50分は苦しいか。岩瀬+テレビで1時間20分くらい持たせると、もしかするととんでもないものになっていたかもしれない気はする(いや、テレビを使う手管なんて、もうどっかで使い古されているのかもしれないけれど...)。

あ、ちなみに、この芝居には娘は連れてってません。念のため。

2007年7月15日日曜日

南河内万歳一座 滅裂博士

14/07/2007 マチネ

前回「百物語」を観たときに南河内は80年代から良くも悪くも進化・進歩していないと感じたのが残っていて、その意味で、娘には、
「お父さんはね、このテの芝居を観て面白いと思ってしまったために、芝居の道に足を踏み込んでしまったのだよ。オリザだって、このテの芝居をしようとしてたこともあったんだよ。」
という教材としてみせたいと思っていた。勿論、観ていて面白い芝居、というのは最低条件だけれど。

池袋に行くと芸術劇場前に唐ゼミがテントを張っていて、うーむ、これで唐ゼミとはしごすると
なべげん(90年代風)→南河内(80年代風)→唐ゼミ(70年代風)
と、小劇場年代別逆行三段活用、となるのだったが、それは16の娘にはちとハードすぎる、ということで断念。

で、肝心の芝居だが、滅博士の生首トレー載せ後ろ足蹴り上げシーンに一家KO負け。やられた。この瞬間に、父、勝利を確信。案の定、小屋を出ると きに娘のたまわく「話が分からなかった...でも、植木鉢つかった棒倒しは面白かった。滅博士は自分でもやってみたい」。そうだろうともよ。話の筋に拘ら ないのが80年代芝居の醍醐味よ。でもよ、滅博士の真似は、良い子はしちゃいけねぇ。一発で腰に来る。

あれ?そうそう、肝心の芝居だが、相変わらず巧拙乱れ打ちスタイルに変化なし。自らの「巧」の部分を自覚しているのかしていないのか、敢えて磨か ないことで輝きを保ち、一方「拙」の方もこれはおそらく自覚せぬままほったらかしでいたら黒光りして、「これでいいんだよ」の開き直りに凄みが滲む。内藤 氏が「うまいことやろう」と考えない限りにおいてこの劇団は下北沢三福林のような存在感を示し続けるだろう。僕は、いつかそれにも終わりが来ることを予感 しつつ、せめてそれまでは折を見て遊びに行こう、という気になってしまうのだ。

2007年7月14日土曜日

渡部源四郎商店 小泊の長い夏

13/07/2007 ソワレ

娘の夏休み「芝居養成ギプスシリーズ」第一弾ということで、畑澤戯曲。昨年夏の「猫の恋」では、やはり新劇は新劇だ、というような結論になって、 涙流して観てた娘も、「女優は何とかならんのか」みたいなことをのたもうて、我が英才教育プランは何と順調なことかと秘かにほくそ笑んでいたのだが、はた してなべげん公演の成果は如何に。

と、前置き長くなったが、やはり、力のある戯曲、安心して観ていられた。フレームの嵌め方(親子ごっこ)、紋切り型に陥りそうなシーンを救うズルさ(親子ごっこ中を時折覗きに来る佐藤誠)、泣かせ寸止めの手管(親子のシーン、ラスト)、どこをとっても、上手い。

安心して観られなかったのは、宮越氏である。実年齢80歳が車椅子に乗って登場とは。それだけで全自動卓を舞台上に置くくらいのインパクトと引力を放つ。その、紋切り型に言えば「本番中に倒れないだろうな」みたいな男優が、
「オレは余計なこと何にもしないし余計な抑揚も何にもつけないよ。年寄り臭い演技なんて一つもないよ。でも、見てみ。よーく、見てみ。」
という演技をしてみせる。まさにその「身体性」に圧倒された。これは、やられた。

佐藤誠、相変わらず調子に乗っている。どうだ、聴き取れまい、理解できまい、という津軽弁が、舞台上の人物どころか観客まで恫喝する気合である。ささきまこと氏、好感度高い演技。あざとさまでも敢えて殺して臨んでいたように窺えた。

うん。納得。でも、なんだか、まとまっていたかな。風が吹かなかった。勝手なことを言わせてもらえば、畑澤さんの芝居では、その巨体から繰り出される風が「ぶんっ」と音を立てて客席を吹き抜ける瞬間を感じたい。僕は欲深な観客なのである。

2007年7月11日水曜日

青☆組 おやすみ、枇杷の木

10/07/2007 ソワレ

意図は見えるし、やりたいこともただの猿真似ではないと思うのだけれど、いかんせん、技量に修行の余地あり。
一本調子でタマが真ん中に集まって打ち込まれる新人投手の趣である。これでは「下手オリザ」といわれても仕方が無い。
(関係者の方、余り気を悪くされないように。小生も昔は下手転位、って言われてたものです)

・舞台がいっぱいに使えていない。舞台を見せるというのは、必ずしも台詞が発せられる口元や、その台詞を発する・発せられる人物の身振り周辺だけを見せるということではない。場をもっと見せる意図を持って欲しい。
・上記の裏返しで、観客の意識をそらそう、あるいはタイミングを外そうとするときの身振り、表情、イベント、その他諸々が、あざとすぎるという か、意図としてみえすぎるというか、要は、タイミングを外そうとするカーブが見え見えでしかもキレが悪くてホームラン浴びるような感じだった。工夫の余地 あり。
・台詞の「ことば」はかなり気を遣っているとみた。だからこそ、その点については99点を100点にする野望を持って欲しい。極くたま~にある変な言葉(テレビドラマっぽい紋切り型の修飾語)がひどく耳に付く。これは、かなり練れているからこそなのだけれど。
・全体の物語の紋切り型をものともしない「何か」が足りない。あれだけ強力な青年団役者陣を揃えていてかつ足りないのだから、それは、作・演出の責任だろう。

高橋智子が何かの拍子にお茶を載せたお盆を片手でひょいと持ち上げるシーンはとても気に入った。心に残る。
こういう、なんか意図があるのかないのか、多分無いんだろうな、くらいの演出が丁度よいのではないかな、と思ったことです。次回、そういうシーンがもう少し沢山観れるだろうか?

2007年7月7日土曜日

花組ヌーベル 恐怖時代

06/07/2007 ソワレ

なんと、初日だった。
都合の付く日が偶々この日だけだったので。
今日分かったこと: 花組の2時間15分は安心して観てられる。短く感じる。
だからこそ、アリスでぎゅうぎゅうづめで正座して2時間観ていられたのだろう。

でも、前口上で、「初日は出来が悪い」なんていっちゃいかんでしょ。柄本さんの口上をちびっと見習って頂きたい、とちょっと思う。

スズナリサイズの小屋での公演は久し振りということだったが、やはり花組はさすがだ。役者が近くても充分耐えられる。
谷崎"変態大王"潤一郎先生の作品を下敷きにしているが、プロット自体はなんということも無い、「紋切り型」といっても良いストーリー、そこで思う存分暴れて遊んでみせる役者がやはり花組の醍醐味で、乾電池とやってることは違うけれど、
「所詮芝居でござんす、何の役にも立ちません」
ということを身をもって示し続ける加納一座、尊敬に値する。

2007年7月5日木曜日

下北沢三福林閉店

2007年6月末をもって閉店、と、閉じられたシャッターに張り紙がしてあった。
今にして思えば、携帯電話で写真でも撮って、なっちゃんに送るんだったか、とも思うが、そんな気にもならず、引き返した。

三福林のテーブル席でビールを一杯...本当に見果てぬ夢で終わってしまった。
こうなったら不滅のフォーメーションをちょっとばかし変えても構わない。復活を切に望む。

2007年7月2日月曜日

東京タンバリン 鉄の纏足

01/07/2007 マチネ

趣向と紋切り型が織り重ねられた何ともいいがたい芝居。

ビデオ屋の人間関係と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を思い出させる図書館の光景とを組み合わせて、バスケットボールをその入り繰りの鍵に見立てる。

紋切り型のやり取りの中にもビデオ屋の客やなにかしらの、「あきさせない or 目先を変える」趣向が用意されていて、1時間55分最後まで見せる手管はさすが高井さん手馴れたものではあるが、ただし、

・図書館で穏やかになっちゃった人たちが、子供SFの宇宙人に乗っ取られて穏やかになっちゃった人みたいにしゃべるのは、いかがなものか。
・女の子の意地悪って、あんなに紋切り型なもんなのかい?あんまり積み重なると、くどくないかい?

全体的な感じとして、仕掛けと趣向に引きずり回されて、役者の足が地についていない気がしたかな。もっとガッチリ演出つければ、趣向に関係なく濃 い空間が出来上がってたはずなのに、どうも流れちゃってる気がして。それとも、趣向と「いま、ここにいること」と、そこのバランスにおいてギリギリのとこ ろを狙っているのかしら?狙っているのだとすると、次回以降は「趣向」をある程度犠牲にして欲しい気はした。役者のコマはそれなりに揃っているのだから。

阿佐ヶ谷スパイダース 少女とガソリン

01/07/2007 ソワレ

初見の「イヌの日」で感じた「ヤバさ」のかけらも無く、純朴に人民万歳、平等万歳を、何の毒も無く素直に舞台に乗っけられると、観ているおじさんは途方にくれた。

一つには、スズナリというある程度小さな、観客席の近い小屋で演じたときにどうなるかな、という興味もあったのだが、この阿佐ヶ谷スパイダースに はでかい小屋のほうが良い。と思った。スズナリをこんなに「大きく」使う劇団は余りみたことがない(物理的に、というのも若干はあるが、「演技が」という 意味です)。
大きな小屋が似合う舞台を無理やり小さいところに押し込めているみたいで、違和感あり。

で、小さな小屋の大きな演技。紋切り型に輪がかかる。
そもそも、物語自体が、
「なんでわざわざ娘っこアイドルを連れてきちゃったのか」
という、劇中で中村まことが思わず聞いてしまうような根本的な瑕疵をかかえたまんま走っている。
そして、平等なコミューンの賛歌やらその後のコミューンの成り行きやら意外な事実やら、そういう、

「おらおらおらぁ、紋切り型だけどパワーで押すぜ、役者の面白さで突っ切るぜぇ、」

というタイプの芝居なんだから、せめて役者が紋切り型の演技をしたり、余計な間をとったり、漫才な突っ込みを入れたり、というのは削ぎとって欲し かった。そうすれば、2時間半もかける芝居ではなくなると思う。イヌの日、って、そういう、エンターテイニングな部分を削いでもなおかつ2時間超で、かつ 充分面白かったんだが。

小劇場の皮をかぶっているように見せて、根っこは意外とコンサバなんだな、と得心した。

2007年7月1日日曜日

ユニットR 吸血鬼

30/06/2007 ソワレ

岸田理生さんの芝居を観たことは、1度あったかもしれない。なかったかも知らない。いや、あったような気もする。80年代後半、スタジオあくとれにお邪魔したような気もする。気がするだけかもしれない。
少なくとも、1987年に糸地獄の糸車を借りにお邪魔したことは、ある。

いずれにせよ、僕にとって岸田芝居というのは90年代に至らず、80年代のにおいのまま止まっていて、今回アゴラに行ってみたのも、その80年代のにおいを嗅ぎに(確かめに? 見物に? 体験しに?)行った、ということなのです。

で、アゴラの雰囲気は、すっかり懐かしくなっていた。全席ベンチ椅子だったり、3階ギャラリーに12,3人も入ってみたり、何だか、この手の芝居がアゴラで観れた、というのも久し振りで、
それでは、結局このユニットRの公演には「懐古」とか「昔のアングラぽさ」とか、そういうものしかないのかと思いきや、

若い客もいて、かつ、年取った客も若い客も、この、言い方によっては古臭いところから蘇ってきた「岸田理生古典芸能」を、嬉々としてみている。

それは、一体、岸田戯曲が現代性を失わずにいるからなのか、それとも、現代性の有無に関わらず、愛されていればトシの差なんて、ということなの か、どちらかといえば後者のような気はするのだけれど、でも、そこで気取りが無いということは最小限「愛される」理由としては成立する。

で、岸田戯曲が「愛されている」という前提に立つのなら、そしたら、もちょっとモダンな演出をかけて見るのも一興かもしれない。「ぽさ」を削ぎとったところに何が残るか、それでもなお岸田戯曲は愛されるのだろうか、それをそのうち見てみたい。

遊園地再生事業団 ニュータウン入口プレビュー

30/06/2007 マチネ

いや、毎回、「方法論」の問題意識に触れるのが楽しみな芝居です。

舞台上のコミュニケーション一つとってみても
・チェルフィッチュの権化山縣氏、出てくるなり自転車に話しかける。話しかけられるはずの夫婦は、その1分後に出てきて、同じ会話が繰り返される。
・スクリーンの中で役者演技する。そのスクリーンの方を向かずに面を切っている舞台上の別の役者、スクリーンの中と会話する。
・スクリーンの中の山縣氏以下何名か、いきなり青年団モードで舞台上の役者に語りかける。身振りの無い山縣氏が新鮮。
・アンティゴネーとイスメネ、舞台上で互いに面をきったままコミュニケーションする。でも、そのコミュニケーションは実は鳩男によって運ばれている。
・もちろん、スタンダードな舞台上の対面会話もあるよ。

こういう、いろいろなモードが切り替わり入り乱れる中から何が抽出できるのか、と頑張って考えてみても、その場では置いてきぼりをくらったまま、放っておくうちに「やられた」という感覚だけが残るのが常なのだけれど。

今回、台詞の中に初めて「神戸の事件」が言及されて、それでやっと、この芝居が神戸の事件のことであると理解できた(遅い!)のだが、小生神戸の 事件の頃は日本のマスコミから遠く離れたところにいたので、予備知識/観客として共有されているはずの知識が欠落していて、ちと苦しかったかも。
ただ、まあ、本公演まではまだ間があるし、「ノイズ文化論」も買って来たし。

本当に、本公演が楽しみです。