2016年3月20日日曜日

Jeramee, Hartleby and Oooglemore

12/03/2016 10:30 @Unicorn Theatre

Gary Owenが台本執筆、Unicorn Theatreのプロデュースによる子供のための演劇。

子供は自由の塊である。じっとしていない。上演中も始終面白いものを捜してきょろきょろしている。油断してると舞台に上がり込んでくる。
役者に合わせて客席で踊り出す。分かんなくなると親のところまで行って「あれは何をやってるの?」と役者に聞こえる声で尋ねる。
そして一番おそろしいのは、つまんない・あきた、と感じたら途端にガン無視してくる、ということだ。

そんな世にもおそろしい観客を相手に、役者3人がほぼ素舞台上で、しかも台詞は3種類しか言えないという、
まるで、Kind of Blueのセッションの直前にマイルズがバンドのメンバー相手に言ったと伝えられる「このモードに乗ってる音以外使うな」にも比するベき制約を課されて、
さて、どう立ち向かうのか?
いや、素晴らしかったです。

3つの台詞は "Jeramee、Hartleby、Oooglemore"、つまり登場人物の名前で、スタンダードに「名乗り」「名付け」から舞台がスタートして、
その後も、3人の役者がその3つ以外の単語を発することはないのだけれど、
その後の展開とか、構成とか、とても上手く考えられていて、こどもたちのくいつき方が半端なかったんだな。

変な動き、大きなボールの客席とのやりとりに加えて、ちょっとしたウンコしっこネタや、「志村うしろー!」成分も忘れずに。
でもね、変に媚びる台詞はないし、「変な顔をしてますよー」っていう押しつけも一切無い。
そして何より、あごひげ生やしたおっさんが小さな弟の役をやってても、弟だって分かるし、ちっとも怖くも無理でもなくて(いや、そりゃ、無理はあるんだけど)、むしろ面白くて、
「役者が何かを演じるっていうことはとても楽しいことだし、観ていても楽しいことなんだよ」
っていう成分が満ちあふれている。演劇の楽しさ。

客席前方に設けられた子供アリーナ席。こどもたちはとても楽しそうで、小さい頃からこんな楽しい演劇に触れることが出来る子達が、羨ましくてしょうがなかったよ。

そもそもUnicorn自体が、子供のための劇場として造られているので、本領発揮、ってことなのかもしれないけど。
このプロダクション、アゴラに呼んでもらえないかな−。絶対面白いと思うんだけどなー。

2016年3月13日日曜日

The Encounter

05/03/2016 19:30 @Barbican Centre

フレームの嵌め方、ガジェットの駆使、語り手の技量、全てにおいて圧倒的な一人語り芸。サイモン・マクバーニーの才能の懐の深さを思い知る。

語りのレベルを複数設け、そこに聞き手を取り込んでいく手管の洗練、観客全員にヘッドセットをつけさせ、知覚を混濁させることで、現実と虚構の境目のあやふやなところに観客を宙づりにする手管、そういった、極めて「日本の小劇場演劇的な」「非常に洗練された」上演を行ってもまったく鼻につかず、バービカンで「幅広い層の観客に対する」上演を可能にするのは、プロダクションの出発点=ゴールが、演者による一人語り芸であることのしっかりした自覚と、全ての手練手管が「よりよく楽しんで聞いてもらえること」への合目的性に向かっているからだと思う。こんなにも仕掛けに溢れているのに、こんなにも地に足が付いているのだ。

そもそも、冒頭、マクバーニーは、自分がどんな手管を使って観客の近くを欺しにかかるのかについて、延々と時間をかけてネタバレしてくれるのだ。
・距離・方向がリアルに感じられるマイクとヘッドフォンの仕掛けの説明。
・だから、観客には舞台上で演者が仕掛ける「ウソ」が見えているのにも拘わらず、耳を伝わって入ってくる情報にまんまと欺されてしまいますよ、というアドバイス。
・リアルタイムでの語りと、機械を通して変成されたリアルタイムの声、録音された語り手の声、変成・録音されて再生される語り手の声、録音された効果音、リアルタイムの効果音、そうした全ての音は、ヘッドセットを通して観客の耳に届くときには、実は全て等価であって、その情報を過去・現在・未来、自己・他者、ここ・他所に仕分けするのはあくまでも自分たちの脳なのだという事の解説。
要は、そういうふうに、これから、自分は観客を欺しにかかるのだから、よろしくね、っと言っているのだ。

そうやって、全て手の内を晒された上で、それでもなおその仕掛けに喜び、驚き、語りに身を浸すことが出来ることの幸せさ。その場に居合わせることが出来た事への感謝。

日本で芝居観てて、そういうところにまで心配りが行き届いている人たちというと、快快かなぁ、と思う。あと、東京デスロック。アゴラで観た快快の「へんしん(仮)」、練馬の公民館で観た「Y時」、あるいは東京デスロックの「シンポジウム」。彼らが、キャパ1200人の小屋で、圧倒的な予算と技術力を与えられたときに、こういうものが観られるのかもしれないな、と思ったりもした。

かたやサイモン・マクバーニーは、世界に名だたる巨匠である。
なのに、この巨匠は、観客が彼の世界に近づこうとして近寄ってくることを良しとしない。むしろ、彼の方から、上演の都度、観客の方へとやってくる。個人レベルの話をしながら。携帯をいじりながら。自撮り写真を娘に送りながら。そこから、1200人を掬い取って、騙しの手管を全部ネタバレして、丁寧におびきよせて、すいーーーーっと自分の作りあげた、まさに現実と虚構の入り交じった世界の遠く彼方へと連れて行ってくれる。
(舞台なので「現実と虚構がいつまでも入り交じらざるを得ない」のがポイント。これが小説や映画なら、何を遠慮することも亡く虚構へと連れて行かれてしまう)
そのプロセスの全てを全力で受け止め、愉しむことが出来る希有な舞台。素晴らしかった。

肝心の(いや、もはや肝心ではないのかもしれない)「語られる中身」だけれども、それは、米国の写真家Loren McIntyreがアマゾンの幻の部族の集落を訪れたという話。それ自体は、よくあるアマゾンわくわくドキドキ大冒険ものと言ってもよく、コミュニケーションに関する主題が舞台の仕掛けとリンクしている、というもっともらしい指摘をしてもあながち外れてはいないと思う。
でも、本当にすごいなと思ったのは、「分かんない言葉を話す人々」との邂逅を、一人語りで語ってしまおうとすることの大冒険の方に、なんだ。それこそが、舞台で僕が目撃したい、勇気と知恵をもって立ち向かう大冒険なんだ。

僕は必ずしもコンプリシテ信者・マクバーニー信者ではないし、春琴なんかはむしろ大嫌いな部類に入るんだけれど、でも、この"The Encounter"は凄かった。

2016年3月9日水曜日

Table Top Shakespeare - Hamlet

05/03/2016 18:00 @Barbican Centre, The Pit

舞台上に役者が一人。テーブルが1つ。テーブルの向こうに役者が座る。役者の両脇、手が届くところにビールケースみたいな箱が逆さに置かれて、そのそれぞれに、調味料の瓶や殺虫剤のボトルやバラの花瓶やペットボトルやアイロンやトイレットペーパーの芯が雑然と置かれている。舞台両袖には高さ1.8m、幅3mくらいの棚があって、そこには、何百もの瓶や缶やペットボトルや何やらが、何となく整然と置かれている。

Forced EntertainmentのTable Top Shakespeare、こんな舞台設定で、シェークスピア(ほぼ)全作品を、各1時間。6日間で上演してしまおうという作品である。
わたしが観に行ったのはHamlet。

ちょっと格好良く書き始めてみようかとも思ったのだが、何のことは無い。瓶や缶やアイロンやトイレットペーパーの芯を役者に見立て、テーブルの上でシェークスピアの芝居を勧めちゃおう、っていう、こう言ってしまうと身も蓋もない企画である。
五反田団をご覧になる方には、「びんぼう君」の劇中、「熱いのぉお」で始まる人形ままごとを思い出して頂いて、それをシェークスピアでやっちゃった、って言うと分かりやすいかもしれない。

相当くだらない。しかし、相当面白い。そして緻密。

芝居=戯曲の進行は「出はけ」から決めていくと平田オリザも言っていたが、それを地で行く演技力。演技力というか、そもそもハムレットはビネガーの瓶なんだから出はけ以外の演技力は無い。そういえば、「余計な演技」も一切無い。くどくどしい長台詞も無い。
全てはメタレベルの演出家(人間の役者)の語りと操作に委ねられて、淡々と。なんだか、ロボット演劇に近い感じもしてくる。
でも、全自動のロボットじゃなくて、全手動の置物だけどね。
それが、役者としての機能を果たしてしまった(そう思わせる状況に持って行ってしまった)ところに、Forced Entertainmentの手練れどもの用意周到な謀略が隠されていて、
そう、これは謀略に違いなくて、そうでなければ、
「机の上に立っているラベル付き調味料の瓶をちょっとだけその場で回転させる」だけで、
「ホレイショが視線を移した」
って思っちゃったことの説明が付かないじゃないか。

ちょっとした言い回し。間の取り方。語り手の役者の視線の変化。そういうもので、シェークスピア、見せられちゃうモンなんですね。
いや、これはすごいもの見せていただきました。

2016年3月8日火曜日

A Girl Is a Half-Formed Thing

27/02/2016 19:45 @Young Vic

昨年のエディンバラで相当評価の高かった作品。
きっついアイルランド訛りで、一人の少女の2歳から20歳までを辿る一人語り。

(特に今のUKで)一人語りの芝居は多いけれど、そのクオリティはまさにピンキリで、
その質の高低には、2つの要素が関わっているように感じている。
1つは、もちろん、役者の技量。
もう1つは、フレームの嵌め方。
「何故わたしたちはこの人の語る言葉を聞いているのか」という問いにどう応えるか、
そこで妙な引っかかりの無いようにどのような仕掛けを作っておくか、は相当大事で、
昨年のエディンバラでも、そこを意識している作品とそうでない作品とでは、できあがりに差があったと思う。

すると、一人語りの芝居の4象限が出来上がって、
1. フレームの嵌め方、役者の技量とも素晴らしい舞台。
2. フレームの嵌め方は素晴らしいが、アイディア先行、役者の技量がついてきてない舞台。
3. フレームの嵌め方に工夫無いが、役者の技量で頑張って見せきってしまう舞台。
4. フレームの嵌め方に工夫無く、それを役者がベタッと語ってしまってうんざりする舞台。

このA Girl Is a Half-formed Thingは、第3象限に属する芝居だった。

本人、母親、弟、叔父、その他諸々、シームレスに演じ分ける技量と、
細かなところで手を抜かない真摯さで、1時間20分、ずっと観ていられるのだが、
が、うーん。これ、誰が誰に向かってどう話しているんですか、っていうフレームへの配慮はゼロ。
面白かったんだからそれで良いんでしょ、っていわれればそれまでだが、
やはり、物語と語り口だけで面白がってしまう観客にはなれないな。
どうしても観客としては「前のめり」になってしまうし、
そもそも劇場みたいな閉じられた空間にわざわざ足を運んで、その中で晴れた週末を過ごしてみたり、
オープンな空間にいてもその中にわざわざゆるゆるした脳内バリア張って、その中の出来事を眺めて面白がりたいと思ってしまう人なので。

そう。できるだけ、「お約束」を要求されたくない。でも、その場を共有する上で要求されている(と感じること)は最大限供出したい、
と思ってるんだな。

物語と面白い役者だけ与えられて、パッシブに楽しめるとは思ってないんだ。
そういう事のような気がする。

あ、いや、でも、力のある役者の一人芝居は、それはそれで面白いし楽しいんですよ。

The Magic Flute

26/02/2016 19:30 @Coliseum

2012年初演、Simon McBurney演出にかかるENOプロダクション。ENOなので、全部英語。しかも字幕つき。

4本のワイヤーで吊られた舞台板が格好良い。舞台下手の黒板・本その他諸々が舞台奥にバーンと投影されるのも格好良い。舞台上手のブースで音響効果作ってマイクで流すのも格好良い。フルート奏者や鍵盤奏者を舞台上に引っ張り上げて演奏させちゃうのも格好良い。
とにかく格好良くて、完成度が高くて、こんな事ばっかりしてたら高尚でスカしたオペラになっちまうぞ、と思いきや、
もともとがモーツァルトの魔笛であること、ENOだから子供もたくさんやってくる、そういうプロダクションであること、っていうのも手伝ってか、嫌味が無い。

うーむ。
が、これだけスムーズにいろいろなものを融合できるというのが、オペラ演出家としての技量の非常な高さを示すものだとして、
逆に引っかかりも無い、って気もしたんだよな。ちょっと。
いや、これ、モーツァルトだからそれで良いんだよ。って事なのかな。うん。そうやって僕も楽しんだのだけれど。
いやいやいや、勿論、「こんなもんか」ってレベルでは全然無くって、すっげえプロダクションであることは間違いないです。

どうも、自分自身、こういうのには弱い(=ピンとこないと言ってしまいたくなる、一種ひねくれた感情を持って観てしまう)のかもしれない。
ガジェット満載の日本の芝居であれば、どっちかというと「突っ込みを待っている」ところを感じて、そこに突っ込んでいくことを楽しんだりするのだが。
そういう突っ込みどころを全部予想して、事前に全部載せで対応を用意しておいて、しかもそれにプラスで何か仕掛けてくる、
そういうキャパシティは、まさにSimon McBurneyの才能の懐の深さ。こういうのを目にすることが出来るオペラファン、こどもたちは本当に羨ましい。

2016年3月7日月曜日

Battlefield

20/02/2016 14:30 @Young Vic

巨匠Peter Brookの人気作品。会場の年齢構成も高め。
役者の技量も高いし、観ていて眠り込んだりはしなかったけれど、心なしか古典芸能の香りがした。

2015年に日本でも上演していると思うのだけれど、世界各地を上演して回って、
その中で、芝居のフレームとか強度とか、そういうものがぶれていないのでは無いかと疑われる。
すなわち、「人間であれば万国共通であるはずのもの」を信じていて、
だから、マハーバーラタという、何千年も前の叙事詩を使っていて、
それを、まさに、伸び伸びと、技量の高い役者を使って、シンプルだけれども隙の無い舞台装置に載せて、これまたシンプルだけれども表情が出せる(そして、何となく世界共通な感じがする)打楽器を使って音の場を演出する。

これでは、文句つけようが無いだろう。しかも、巨匠だし。

でも、文句つけられないところからは、そこから先の思考は生まれにくいんじゃ無いだろうか。
むしろ個別のものを個別のものとして舞台に載せた方が、その先へと何かが伸びていく感じがしている。
「わたしにはこれは理解できる(と思う)。でも、あれは理解できない。あなたはどうか?」

巨匠だけに、きめ細かく作られているのだろう。突っ込みどころが無くて、文句つけられないのだ。
そこに文句をつけたい。

The Mother

13/02/2016 19:30 @Tricycle

同じ作者による昨年の姉妹作品 The Fatherは大ヒットとなって、ウェストエンドでも再度上演されている。
The Fatherもかなり質の高い舞台だったのだけれど、
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/06/the-father.html

このThe Motherも相当の出来だった。
観た順番はThe Fatherの方が先だけれど、書かれたのはThe Motherが先。おそらくフランスでの上演も先。

若年性のアルツハイマーを患った女性と、その家族の話。
結婚して25年経つ40代後半の夫婦、子供2人がちょうど親離れしたところ、という設定。
息子がちょっとマザコン気味で、母親からしても「娘よりも息子の方が可愛い」っていう、そっちはありがちな設定かも。

が、The Fatherと同様非常に戯曲として良く出来ているのは、
本人の認識と家族に見えていることと客観的事実、の3つが、ほぼ説明書き無しで舞台上に乗って、芝居が進行していくこと。
もちろん観客は混乱するのだけれど、
視点の変化に伴って「事実」や「役柄」や「記憶」が混濁する、そして、「時間の経過」がロジカルに流れなくなっていく中で、
「病状の進行」だけは一つの確固とした軸として残り続ける。
その残酷さが、実は、むしろ、
「あぁ、若くしてアルツハイマーって、お気の毒で家族も大変よねー」っていう視点から観客を引き剥がし、
「これはいつかみんなに起きることだ」ということを想起させるのだ。
記憶や時間が混濁するのだから、舞台に載っている「40代夫婦」は、実はもう70代や80代かもしれないし、
子供に見えているものは孫かもしれない。

ツレはずっと、「この夫として振る舞っているように見える男性は、ひょっとすると、ちらっと言及されている長男かもしれない」
と思っていたようだ。
なるほど。そういう風に見えても、実はおかしくない。

種明かしが無いと不安な人・不満な人には勧めない。正解の無い世界を描く作品に触れて、人生に正解が無いこと、でも、終わりは必ず来ることを意識することに耐えられる方には強くお勧めする。そういう芝居だった。