2010年10月10日日曜日

旅とあいつとお姫様

09/10/2010 マチネ

千穐楽。甥っ子を連れて。甥っ子の小劇場初体験はアゴラで演った杉原邦生演出の「14歳の国」で、小生がナイフ振り回してしまったもんだから、実はかなりトラウマを埋め込んでしまったのではないかと反省していた。

「旅とあいつとお姫様」は、その点安心できるかなー、と思っていたら、あにはからんや、エンターテイニングでありながらも、スパンキングあり、噛み付きあり、サロメ張りの生首連発ありと、結構大人の世界だねー。母親つれてこなくて良かったー、とちょっと思う。

「鳥の劇場」の「白雪姫」もそうだったのだが、こどもに見せる芝居は、込み入った入れ子とか物語とかを使わない代わりに、動き・音・光・舞台美術の細部まで手を抜かないことが絶対条件で、この「旅をあいつとお姫様」はそこをとっても良く押さえてあって、さすがS賀先生推薦、素晴しい出来映えだった。

ロープを使った美術先ずよし。舞台上の透明の板もラスト役者がステップを踏むたびに金色の雪が舞って美しく、音の効果、光の変化、魔人のシーンのシンプルにして効果的な転換、物語における説教臭さの排除。こういう芝居を見れる今の子供は恵まれてらぁ、とつくづく思う。

しかし、である。あんなふしだらなお姫様ばかり見せられては、大人の男の子たる小生はちょっとなぁ。「本当は可愛くて綺麗なお姫様が出てくるんですよぉー」っていう引きはもうちょっと前半に欲しかったなー、あるいは、かわいいお姫様に戻ってからの事をもう少し見せてよー、とも思ったりしちゃったな。子供はどう思うか分からないけどさ。

サラダボール 柔らかなモザイクの街

02/10/2010 ソワレ

黒川さんの「ハルメリ」を西村和宏プロデュースで拝見した時も素晴しくバランスの良いプロダクションで、今回の西村演出もかなり期待できるんじゃないかなとは思っていた。その期待を全く裏切らないバランスの取れた、しかも伸び伸びとして力みやじっとり感のない舞台。堪能した。

有体に言えば「早織の一生」なんだけれど、でも、冒頭登場する車椅子の老いた早織の記憶が混濁しているのか、それとも人生のどこかで過去あるいは未来を妄想する早織がいて、その妄想が混線しているのか、いずれにせよ、島田曜蔵が歌う流行り歌でつながれる複数のシーンは、時制が狂い、記憶が混線して、首尾一貫した世界を形作っていない。それは戯曲の中で指定されているものなのか、演出の力によるものか、観客の妄想の強度に依るものなのか、そんなことはどうでもよい。要は、そうした混濁した焦点が絶えずずれていく世界が、セットの転換のない一つの舞台の中で、捩じれながら、揺れながら、「そういうもの」として一気に提示されることの快楽が重要なのだ。

惜しむらくは、後半の夫とのシーン、甥っ子とのシーンではそうした「記憶の混濁」が影を潜め、夫・甥っ子も平板なイメージに陥りがちだったこと。「混濁」しない場所では「リアルっぽい解像度」が求められてしんどくなってしまう。もう少し戯曲を書き込めばこの問題は解決されるように思われる。もっと完成度が上がれば、春風舎からもっと広い場所に出して、もっと多くの人々に楽しんでもらえて当然な作品に仕上がると思うんだけどな。どうだろう?

長短調(眺めまたは身近め) 再見

03/10/2010 マチネ

今日は身近めのライブを聴きに。

ぐおっ。やはり「眺め」のディスプレイだけで見聞きするよりも、身近めのぐっと近いところで聴いてる方がずっと気持ちよい。そして、「眺め」では気がつかなかったのだけれど、
・ テクストが「かもめ」の優れた誤意訳となっている
・ ライブの展開(そしてテクストの並び)が、もう一つの「かもめ」を形作っている
・ 従って、このライブはすぐれて「演劇」である
・ が、しかし、ライブとしても素晴しく心地よく聴ける(実際、「みずうみ」は小生の通勤時i-Podのお気に入りアルバムになってしまった)
ということなのだった。

当日のあうるすぽっとでは、2つの「かもめ」がすっごく近いところで上演されていて、それが捩じれの位置に位置しているようでいて実はぐいっと組み合わさって、1つのコンセプトにまとまっていたのだった。だから、一度に片方しか観られなくともそれは全く問題なくて、2つとも観たい人はそれはそれで2度+α楽しめるというだけの話だ。

どちらの(どちらの切り出し方をされた)「かもめ」の方が気に入るか、という違いはあるだろうけれど、少なくとも僕にとってはどちらの「かもめ」も充分にエンターテイニングで、刺激的だった。逆に、どちらか一方だったら成立していたか、となると(まるで中野氏の意図を裏付けるかのように)それは心もとない。おそらく、2つを同時に上演してこそ、この劇の時空が成り立っていたとも思われる。

創り手にとっては気の遠くなるような作業ではなかったかと思われるものの、「気の遠くなる作業を経た芝居だからよいに決まっている」というのはウソで、僕にとっては、「どちらも面白い『かもめ』だった」というのがとても重要。もしももっと労力をかけるのであれば、観客席を分離せず、むしろ、「眺め」と「身近め」を観客がゆるーく行き来しつつ、2つの舞台の時間の流れ方の違いにかるーく眩暈など起こしつつ、1時間強を過ごせるような場所が出現したらすげーだろーな、と思っちゃったりもするが、それは遥かな妄想の世界。

長短調(または眺め身近め)

02/10/2010 マチネ (眺め席)

とりあえずは、先ず、手放しで誉めてしまおうかな、と。
いや、誉める、じゃないな。それは不遜だな。気持ち良かったんだな。僕が。

眺め席から見える舞台の上の役者達を「ジャズコンボのフロントマン達」、裏でラップのライブしている人たちを「リズム隊」に例えると、この舞台はマイルスのネフェルティティのようで、つまり、フロントマン達は引っ張ったモチーフをたっぷりと、でも歌わないように演じ、その裏の空隙をラップ隊がテクストで埋めまくる。もちろん底にあるのは「かもめ」のテクストなのだけれど、次元をかえて捩じれたフロントラインとリズム隊を両方視野に入れることで、「インクのシミ」と「その解釈・上演」からさらに飛び出してくるものがある。

村上聡一と死んでいたかもめが踊りだす瞬間は、(僕には)神がかって見えて、ぞわぞわーっと、「これが『劇的』ということか」と。うん。確かにこれは「かもめ」だ。

「眺め」舞台が流す2年間と、「身近め」ライブの60分強と。この2つの時間が共存する並べ方は、toiの「華麗なる招待」の2つのバージョンの時間の流れ方の違いにも似ているなーと感じたり。

翌日には「身近め」ライブを聴きに行く予定。さて、どうなるか。

モモンガ・コンプレックス ずうずうしい、です。

26/09/2010

雲に覆われて今にも泣き出しそうな野毛山動物園。が、動物園はやはり嬉しい。今年は一人でないのもよい。

中野成樹+フランケンズの動物園物語は、どうしても「場」として動物園の大きさにしてやられた気がしたが、今年はなんといってもモモンガ・コンプレックスだけに、がっぷり四つに組むことはしてこないだろう。そうすれば、あの空間に上手く肩透かしを食わせながらエンターテイニングに展開することも可能なのではないか、と期待した。

確かに、モモコンは、空間をより自由に使って、時には不自由な空間(ワイさんち)も使って、すごくエンターテイニングだったのだけれど、でも、やっぱり何か欠けてたんだよなー。と割り切れない気持ちで一週間くらい考えていたのだけれど。

そうだ。通行人がいないんだ。動物園を形作るものは、動物と、園舎と、飼育員と、あと、大人達や子供達なんだ。そう思うと、おのずとこの企画の限界も見えた気がする。

例えば、冒頭の七人の侍も、ざわざわと人が動き回って邪魔でしょうがない真昼の動物園の中で、あたかもモーゼの紅海のように人の波がざわーっと割れてそこからあの7人のパフォーマー達が現われていたら、ものすごいインパクトだったと思うのだ。ワイさんちも、知らない子供が入っていって、お化粧中のおねーさんをいきなり見かけて泣き喚きながらでてくるとか、女の子が自分も入りたがるとか、そういう風になっていたらもっと愉快で開いていて、かつ、空間がさびしくないパフォーマンスになっていたんじゃないかと思う。

実際、動物園見学の時間帯に、檻の中のサルに向かってお話したり休憩所で集ったりしてるモモコンの面々を見つけたときには、かなりインパクトあったし。

だから、中野成樹+フランケンズの動物園物語も、昼間の、開演している動物園の中で、でもなぜかその周辺だけみんな静まり返って台詞聞いているみたいな、そこだけ時間の流れ方違うぞ、みたいな風に見れたらすっごくステキなんじゃないかなー、と思ったりするのだ(ま、不可能なんですが)。

青年団 砂と兵隊

25/09/2010 ソワレ

初演もかなり議論を呼んだ作品だとは聞いていたけれど、その評判どおり、本当に何ともいえない作品だった。

松井周作品を2つ観た後では、下手から上手へと砂の上を進む役者達はまるでジオラマの上をコンベアで運ばれる人形のようだ。この繰り返しの虚構のプラットフォームの中で、「現代口語演劇」が進行するのだが、正直なところ、その虚構のレベル感に、最後まで焦点を合わせ切れなかった。それは、青年団の芝居を見つけているはずの自分が感じる戸惑いに「不安」を植えつける一方で、「いつもの」セミ・パブリックな「ありそうな空間を」「覗き見する」感じに平田オリザと青年団が安住する集団ではないのだという点で僕を「安心」させるものでもあった。

月の砂漠でギターを弾くと、ロマンチックなどころか、音が吸われてまったく響かないばかりか、目や口や、身体のあらゆる湿った部分に蝿がたかって散々な思いをする、ということをどこかで読んだことがある。「砂と兵隊」の圧倒的な砂の上で展開される「現代口語の会話」も、いつもの「何か意図を持った空間(ロビー・客間兼食堂等)」や「具象的な小道具」の中で豊かに響きあうハーモニーの妙によりかかることを得ず、ともすれば砂に吸われる音を、懸命の「あと一押し」をもってどこかへぶつけようとしているように思われた。虚構のプラットフォームをいっそ全て取り去ってしまえば、「素舞台での芝居」と割り切ることも出来ようが、この一面の砂の上に立つ役者の負担はいかばかりであろうかと想像される。

その苦行の中から立ち上がる虚構の世界には、さすがは砂漠の話だけあって豊かな彩が纏わりつくことなく、極めてドライな時間しか進行しない。兵はいつか斃れ、人はいつか死ぬ。そのジオラマの外にはただ機械室の歯車がギシギシと回るばかりである。そんな不毛の世界を匍匐前進でにじり続ける青年団役者陣の筋力ときたら。

その砂漠のモノクロの世界の中に一滴の血が鮮やかに滴る瞬間が僕に掴めていたなら、と思う。そういう裂け目は、福士史麻とひらたよーこのシーンでは「予兆」として、堀夏子が叫ぶシーンでは「アフターマス」として示されるが、でも、けして舞台上に見つけることはできなかったのだ。それは、残念なことだろうか?それとも、「真っ当な」ことなのだろうか?

2010年10月3日日曜日

さいたまゴールドシアター 聖地

23/09/2010 マチネ

蜷川演出の芝居を観るのは1987年のテンペスト(確か日生劇場)以来で、まぁ、それ以来「蜷川さんの芝居は観てもしょうがない」とずーっと思っていたのだけれど、今回の「聖地」を観て、そこまでムキになって観ないと決めることもなかったかもしれない、と思ったのである。

松井周の戯曲が、確かなカタチをとって舞台の上に載り、しかも、戯曲の行間にあったふくよかさ、豊かさが、たっぷりと劇場の中を漂っていた。素晴しい戯曲だし、素晴しい演出だし、しかも、役者陣も素晴しかった。プロとして芸暦を重ねてきたわけではない役者達にここまで素晴しい芝居をさせるのだから、蜷川演出、素晴しいと言わざるを得ない。

「聖地」が「擬似集団もしくは擬似家族・擬似パラダイス」「リビドーのうごめき」「倒錯したフェティシズム」「漸近し、でも交わることなくすれ違う物語たち」を描く様は、それほど従来の松井戯曲からかけ離れたものではない。語り手をかます構造もそうだし、登場人物たちが(従って観客たちも)物語に「ノる・ノラない」に賭ける中で時間軸が進む構造もそうだろう。

しかし、松井演出の諸作品と比べて、この「聖地」は、「突きつける」よりも「膨らませ、魅せる」ことに重心を置いた点で異なっていたのではないかと思う。松井演出作品では、「戯曲を書く松井周」にスタッフ・役者が加わったうねりの中で、「演出家松井周」は「サンプルの中の一つの要素」という(ある程度控えめな)位置取りをしているように思われる一方で、「演出家蜷川幸雄」の主張は際立って表に露出する。それが邪魔だといっているのではない。その違いによって、劇の入れ子構造の中に、
サンプル: 劇中人物 ⇒ (語り手)⇒「松井周+サンプル」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
聖地: 劇中人物 ⇒ 語り手 ⇒ 蜷川幸雄 ⇒ 「さいたまゴールドシアター」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
と、一つ階層が加わって、ことこの作品ではその構造の変化が「豊かさ・雄弁さ」に繋がっているように感じられた。そして、そうした構造を要求する蜷川幸雄のスーパーエゴに、しっかりと松井周の戯曲が耐えられることにも、ポジティブな意味で驚いた。

前半の遠山陽一さんと木下小春の「フリのシンクロ」のシーンは途方も無く美しく、既に涙止まらず。後半になってそのモンスターぶりが羽場睦子さんをも凌駕しかねないとさえ思われた重本恵津子さん(84歳!)、小宮山・藤川(宅嶋・吉久のお二方)のからみの後のきまずさ。そして絵描きの益田ひろ子さんとヘルパー手打隆盛の二人の心の交歓も、これでもかとばかりに美しい。これだけのものが3時間半に詰め込まれて、しかもそれを余さず取り出し、加えて演出家のスーパーエゴが噴出しながらラストへと突き進む中での新聞紙の堆積、ヘリコプターの出現による遠近の錯乱、これにどうやって整理をつければよいのか。目の当たりにした世界の余りの豊かさに、未だ茫然としている、というのが正直なところなのだ。

2010年10月2日土曜日

サンプル 自慢の息子 再見

20/09/2010 マチネ 英語字幕付き

今回の公演、英語字幕の作成を担当させていただいたので(オペレーションには入っていない)、その出来栄えを本番確認。僕自身が初日以降小屋に入れず、本番を映したビデオと照合しながらの調整ができていないので、不安。

で、開演すると、何と、字が小さくて読めない!あるいは、目が悪くなっていて字幕の字に焦点が合わせられない!なんたること。いきなり蹟いた。
続いて羽場さんの語り。これも、間の取り方ときっちり合わせていないので、読みづらい。追いづらい。きっとオペしづらい。三好さん、ゴメンね!と叫んだ(もちろん心の中でだけど)。

会話のテンポで進むところはまあ大丈夫だったと思うのだが、日本語ノンネイティブの観客にはどうだったんだろう?とっても気にかかる。

そうやって観ていると、やっぱり、芝居そのものの方にはなかなか注意が向かなかった。ただ、客席のあったまり方という点て言うと、おそらく、前作までと比べて、「受け付けない」人の数が減ったのではないかという印象はある。「シフト」以来たどってきた(ように思われる)「似非物語のパッチワーク」の危うさのバランスが、今回の「自慢の息子」に至って、磨かれ、熟し、―且の完成形として示された印象はある。ここまでやってもらえると、「次はどこに行くんですか?」と聞いてもいいのかな?いけないのかな?いずれにせよ、大いに楽しみ。