2009年5月16日土曜日

サンプル 通過

15/05/2009 ソワレ

初日。
処女作の再演ということだったのだけれど、確かに、カロリーの消費→家族の肖像→伝記 と来て、その延長線上に位置づけるよりも、シフト→地下室→・・・(それ以前は残念ながら見逃しているので)と先祖がえりしていく感じはする。そういう意味で、とても松井周っぽい芝居だった。

でも、そういう「歴史」とか「フレーム」で芝居を捉えること自体にはあんまり積極的な意味は無くて、むしろ、フレームの中でどれくらい「はみだすもの」とか「回収し切れないなにか」がにじみ出てくるかが問題なのではないかと。

アフタートークの内野氏が、「僕は青年団を認めませんから」から始まる、非常に男気あふれかつ分かりやすいトークを繰り広げて、それにも大満足だった。
彼が何故青年団を認めないか、何故青年団周辺の若手の芝居を観るのか、が、非常に良く分かった。必ずしもすべてにおいて同意は出来ないけれど、氏が青年団の芝居に対して抱えている問題意識は自分のそれとさほど変わりが無いのではないかとも思った。
(今でこそ言うけれど、ユリイカを読んで以降、僕は、内野氏がなぜ青年団と新劇を近いものとして捉えていたのかがどうも良く分からなかったし、それがために、『この人はとんちんかんなのではないか』とすら思っていて、それで、14歳りたーんずの杉原組が内野氏にちょっと誉められてたらしい、と聞いて、複雑な心境だったりしたのです)

「通過」には、もちろんある程度の物語があって、メタ芝居につながるフレームがあって、その処理の巧拙というものは、あらゆる芝居にあるように、この芝居にもある。実際、「通過」においてそれは「巧」である。でも、そんなもんは、いずれ批評家の眼や観客の眼によって回収されてしまうもので、その意味において、ディズニーや四季やハリウッド映画と変わりはしない。「芝居」にとっての勝負どころは、だから、そこで説明しきれないもの、その場でしか味わえない何か、ということで、松井周の芝居は、それを決して分かりやすく提示せずに、でも、演出はそれを意識しているのに違いない、と思わせるという点で、成功している。

うん。で、内野先生のトークを聞きながら、「彼は奥泉光の小説はどう捉えるのだろう?」と思ったりもしたのです。奥泉大先生のように、本当にキャパシティが大きくて、推理小説やSFのフォーマットを借りて、そこにべたっと近付きながら、説明しきれないもの、テクストを読まねば浮き出してこない、説明では回収しきれない何か、を提示してしまう偉大な作家を思い返すにつけ、

松井周よ、なにも、毎回、君の変態リビドーから入ることに拘らなくったっていいじゃないか。と思っちゃったりしたのである。もっとずるーく、観客で星のホールを埋め尽くせちゃう位のことができるキャパシティは、松井氏は持っているんじゃないか、と思ったりしたんです。

0 件のコメント: