05/07/2009 マチネ
格好悪いけど、正直に言います。途中、何度もうとうとしました。
同じ台詞・フレーズが繰り返されるシーンは、特に、つらかったです。
ホント、コンテクストを剥ぎ取られたものを、あるいは、剥ぎ取って残されたコンテクストの残滓のようなものさえ取り去ろうという、あるいは、コンテクストのタネを観客が落穂広いすることさえ拒絶しようとする意志が強烈に働いている舞台を目の前にして、僕のちゃちな「妄想力」や「物語への回収能力」は余りにももろかった。
以下、言い訳ばかりにはなるが:
やはり、コンテクストへのとっかかりが無いものを見せることは、かなりの「実験」だと思う。
「何も劇的なことが起こらない」青年団の芝居でもやっぱり「外にあるはずの物語」や「人間が身に纏っているコンテクスト - 仕草とか服の皺とか台詞のいい淀みとか」、あるいは、そこに意識してあるいは無意識に現われる「破れ」に、僕はコンテクストを見出そうとしているのだし、実際に見出せるし
多田淳之介のLoveやCastayaも、台詞や舞台装置の助けを借りずにコンテクストを創り上げるプロセスを、観客として愉しむための仕掛けは用意してある。
台詞のないダンスを観る時も、剃った頭の青さとか足の指とか、そういうとっかかりがあって、
いや、大事なのは、おそらく、創り手の側も、それをある程度期待(あるいは、それが言いすぎなら予想・許容)しているのだ。普通は。
ところが今回の三浦基の「実験」は、そもそも、「太田省吾の全テクストを切り刻んで、コンテクストとしては編まずに、でも一定の選択を加えた上で、舞台に載せる」という、コンテクストから離れる強烈な遠心力を働かせながらコアには太田省吾さんの重力があるという、二律背反から始まっていると思われる。
例えば、途中、小林洋平がブロックを積みながら戦後演劇の政治性(コンテクストに嵌らなければ現代演劇足りえないとされていたこと)についてフレーズを繰りかえすとき、それはもちろん、テクストの意味を伝えつつも、そうやって、「意味・主張の偏重」に対し一定のメッセージを伝えているように聞こえながらも、そのテクストの政治性を拒絶し、一定のコンテクストとして伝わってしまうことを強烈に拒否しているのだった。
そういう演技を目の前にして、自分の妄想スイッチを入れることが出来なかった自分は、弱い。でもこんな、強烈な意図が先走った、何の誤魔化しも許さない舞台は、多分、その意図がクリアーに舞台に乗れば乗るほど、観客を眠くさせてしまうだろう。
二つの強烈な意図の間に「ガクン」と落ちて目を覚ますプロセスを繰り返すばかりになりゃあしないか。来年1月の吉祥寺シアターがとっても楽しみではある。
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