11/11/2009 マチネ
イプセン最後の作品を春風舎で。春風舎で青年団系以外の芝居が観られる機会もそうそう無いので、劇場の匂いがどう変わるのかに関心あり。
これまで「私たち死んだものが目覚めたら」を観たことも読んだこともなかったのだけれど、芝居を観た印象に基づいて、まずは物語について話す。
<ですから、以下、ネタバレといえばネタバレです>
ルーベックというひどい男がいる。
モデルのイレーネには、「俺、芸術家だから、お前と付き合う気はないね。だって、芸術がだめになっちゃうじゃん」と言う。
妻のマイアには、「俺、芸術家だから、お前といても退屈。だってお前芸術理解してないんだもん」と言う。
そうやって、常に両天秤かけながら、他の女に乗り移るタイミング計りながら、芸術家面を前面に立ててごまかしを続けるずるい男なんである。
そういうずるい男が最後天誅を喰らって、雪崩で死ぬ。
そういう話である。
shelfの演出では、ルーベックはとっても一途に人生の意味や芸術の高みを目指す人間になっている。とっても良い人。阿部氏のルーベックの悩みには、一点の小狡さもみてとれない。(いや、あるいはもしかすると、そうやって自分のずるさを正当化しようとする決死の努力を表しているのか?いや、当パンのご挨拶を見る限り、そうではあるまい)
そういう真摯で真面目な演出は、かえって芝居のもつ気持ち悪さをつるつるにしてなくしてしまう効果を持っていたのではないかと思う。「真実」とか「本質」に向かって全力疾走してしまうと、「ひょっとしたらこうなのかもしれない」という引っ掛かりを捨象してしまうのではないかと。魚の切り身には、鰓の裏とかおでこのところの、飛び切り美味しい肉は入ってない、みたいな。
だから、とことん悩みぬく真摯な阿部氏の「役作り」もそうだし、他の役者の造形も「真実」や「本質」に奉仕してしまって、正直、退屈だった。
でも、こういう芝居がささるシーン、状況、というものもきっとあるのだろう。例えば19世紀末とか。20世紀初頭とか。そういうコンテクストまで視野に入れて上演の場にのっけると面白いのかもしれないが。
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