2008年12月18日木曜日

桃唄309 おやすみ、おじさん3 草の子、見えずの雪ふる

17/12/2008 ソワレ

スズナリ初日。
ちょっと面白くないことがあって、また、冷たい雨も降っていて、あまり心のコンディションはよくなかったのだけれど、最後まで面白くて、観終わったらやなこと忘れた。

もちろん桃唄309の芝居は好きで見ているというのもあるけれど、菅原直樹は最近調子に乗っているのではないか(もちろん良い意味で)と思っているので、ちょっとスケジュール無理して行ったのだけれど、よい結果である。しめしめ。

何が良いって、一番良かったのは、僕が桃唄で一番気に入っている、なんとも気持ちの良いグルーブ感が、今回は真っ直ぐに前面に出ていたことなんだけれど、「物語を 聴き手=舞台上の役者 が共有していく構造」が、山中の図書館にキュッと凝縮されて、そこと現実(のはずの舞台上の世界)とのやり取りがうまーく作用していたのも、もう一つの勝因。

登場する全ての要素を僕が物語として消化しきれたわけではないのだけれど、それはそれで良い。何度か視点を変えてみてみたり、他の人と一緒に観に行って、見えたところ見えなかったところ、比べてみてもきっと面白いと思う。力の入る寸前でふっと抜くタイミングが、今回の舞台では特にはまって、その美味しいポジションに菅原氏が身を置いていた。さすが調子に乗っているだけの事はある。この芝居の1時間50分は、ちっとも長くない。

『おととうごき』 稽古見学

14/11/2008 夜

15日に池袋のModelTで上演された三本立てのパフォーマンス 『おととうごき』の一本に山内健司氏に出演する由。小生15日は都合つかないため、14日夜の公開稽古へ。

山内健司(青年団)+上村なおか(ダンサー)+川口知美(衣装)

もう本番も終わってしまって3日も経ってから何を言うか、ということはあるものの、とっても面白かったので、「何が面白かったか」書きます。

トータルな印象は、
「ロッキー山脈のインディアンのトーテムポールのきぐるみを着たお神楽」
とでもいおうか。

言葉と動きが寄り添いそうで寄り添いきらず、緊張感を維持した40分。「おととうごき」なので、発せられる台詞は必ずしも「ことば」として機能し なくても可、という決まり事が、かえって、緊張を保ったままで自由度を増している。後から聞いたら、「意味耳」と「音耳」があるそうで、なるほどうーん、 とうなづいてしまった。

川口さんの衣装も面白くて、上村さんが着る前は「すっかり皮を剥がれたビーバーの皮」な風情だったのだけれど、それを上村さんが着て動き出すや、 精気を吹き込まれ、すっくと立ってトーテムポールと化す。それと平行して、山内氏の吐き出す言葉は音素に分解されて意味を失い、祝詞の「リズムならぬリズ ム」を纏って絡む。それも面白い。

上村さんは全身に動物の精霊を纏っているから、身体がのぞいている部分は白く目立つ: 手指、左右の鎖骨が出会うところ、首、帽子で半分隠れた 顔。あと、時々のぞく足。たまに真っ直ぐ身体が伸びると、「あぁ、身体が真っ直ぐな時は、腱がこんな風に伸びているのか」というのが何だか新鮮でもある。

そんなことを考えていたら、終わった。本番がどのような構成なのかとか、残りの2つのパフォーマンスがどうだったかとかは知らない。でも、こうい う、じいぃっと見ていて、あるいは聞き耳を立てていて、飽きずに見ていられるパフォーマンスは良い。衣装もことばもうごきも、実際以上に色彩が豊かに使っ てあるように感じて、それも愉快だった。

2008年12月14日日曜日

竹中直人の匙かげん 三人の女

14/12/2008 マチネ

この芝居、あんまり誉める人いないんじゃないかな、と思った。
「あらあら、一体、なんだったのかしらねー」という感想が多いんじゃないかな。
でも、僕はこの芝居を観て、「岡田利規氏はやっぱり面白い戯曲を書く人なんだな」とも思いました。

幕前、両袖にたかーい壁が建って、暗い照明や舞台中央のパーティな雰囲気のテーブルがマシュー・ボーンの「くるみ割り人形」を思わせる。
開演するとひろーい舞台を少ない役者がいっぱいに使って、長ーい台詞の応酬。例えば
「自分がこれこれと思っているように見えるとあなたが言うのはそれはあなたの主観が入っているからそうなのであって、だから自分が思っていようといまいとそれはそれが事実であることとは無縁な・・・」
って感じなので、開始5分で寝ちゃった人を僕は複数人知っている(僕ではありません)。

そこら辺の饒舌さが、町田康の「宿屋めぐり」「告白」の語りも似る。語り手を変えながら話がどこにも進まず、役者の台詞が、意味のスレッドさえも 振り切りながらブンブンと唸る。それが面白い。出来れば本多でなく、もっと小さい小屋で、役者を小さなスペースに押し込んで観てみたい芝居である。

女優の数が舞台上に増えるにつれて、その「ブンブン唸る感じ」が消えて、役者が「演じよう、何とか意味を見出そう、伝えよう」という努力が前面に出ると、舞台の面白さはフェイドアウトしていった。それが残念。もっと、伝える努力をしなくても良いはずの戯曲なのに。

竹中氏の芝居は、94年の「月光のつつしみ」以来だと思うけれど、相変わらずの神経症芝居が懐かしい。岡田戯曲はデフォルメされたチェーホフな感 じがして、そこも岩松戯曲に通じた感じがしてしまうのは、僕の主観入りすぎか。戯曲良し、雰囲気良し。もっと評判が悪くなるくらいストイックにやればより 僕好み、ということでしょうか。

五反田団 あらわれる、飛んでみる、いなくなる。

13/12/2008 ソワレ

奇跡のようにといってしまっては前田氏と役者達に大変失礼になるのだけれど、でも、本当に、とんでもなく面白い芝居だった。やられた。

幕が開いてからのテンポのよさ、余計なもののなさ、意識の拡散、暴力的な関心のなさと空気への反応の共存、色んな点で、いわゆる現代口語演劇で 「あ、こういうのみたい!」と思わせるものが全部てんこ盛り。かつ高校生ならではの夾雑物が入り込んで、まさに「卒業しちゃったら再演できないからさ」と いうもったいなさがとてもよく分かった。

カジロの「なんば」な体重移動、ピンキーが体操ずわりしているときの土踏まず、後ろで様子をうかがっている4人の爪先の動き、お菓子の包装を剥く 音、ゆーみんは果たして自転車に乗れる人なのか乗れないのか、あ、そもそも、マソンって、何で「いることになってしまった」んだっけ?
いろんなことが細部まで詰まって、かつ謎々として残って、1時間40分突っ走る。すげーなー。

で、この芝居で最も得るところが在ったのは、実は、前田氏ではないかと思っている。色んなものがきちんと組み合わさって、すごい面白いものが出来ちゃう、ということが、芝居として実証されちゃったんだから。

が、「卒業公演だから」なのか、「完成度の高い芝居だから」なのか、「五反田団本公演じゃないから」なのか、「この先この才能はどうなっちゃうん だろう?」というドキドキ感には欠けた気がする。それは、とっても贅沢で、ひょっとするとひがみ半分の意地悪な要求なんじゃないかと、自分で思ったりする のだが。

2008年12月13日土曜日

RTNプロジェクト 就活支援セミナー その2

07/12/2008

これもいささか旧聞に属することになってしまったが、7日、帰国子女のための就活セミナーに、パネリストの1人として「懲りずにもう一度」呼ばれて行ってきた。

http://www.rtnproject.com/

「最近の若い人に一言」ということだったので:

① 会社で働くということは、所詮、個人と企業のバーゲニングでしかない。個人は、「企業という組織を使って自分の力にレバレッジをかけたい」と 思っている一方で、企業は、あくまでも使い勝手の良い個人、あるいは、企業を変えてくれても壊すまでには至らない個人、を求めている。
② でも、いざ勝負してみると、企業の方に一日の長がある。すなわち、企業は、「あぁ、この会社に入ってよかったなぁ。やりがいもあるし。」と いう幻想を働いている人に抱かせることが、とても上手。すると、個人にとっては、本来手段であったはずの「会社で働くこと」が、目的と化してしまうことが 往々にしてある。
③ その罠にはまらないためには、会社で働く際にも、「何で働くのか?」「何でお金儲けをするのか?」を常に頭の片隅においておく必要がある。
最近の若い人を見てると、①-③に対して無自覚であるために、問題解決能力は高くても、何故それが問題なのか、について考える能力が欠如している人が多いように思われる。

なーんて話をかましてきたのですが、ご存知の通り、こういう言葉って、そのまんま自分に返ってきますからね。怖いですね。

ポイントは、僕が言っているようなことも、実は、「幸せに生きるための処世術」でしかないよ、ってことなんですよね。

2008年12月6日土曜日

あなざーわーくす マンヂウ団地妻

05/12/2008 ソワレ

初日。あー楽しかった。楽しかった。

1時間、どこかの場に居たということ。で、その空間を、知らない人や知っている人と共有していたこと。それらの人の表情や動きや発する言葉に心を奪われたこと。おもてなしされたこと。
こんな簡単なことに、僕は飢えているのか?
でも、そんな簡単なことが、とてつもなく嬉しい。

当パンに「お客様の中に埋もれるようにお芝居をしてみたい」とあるが、まさにその通り、役者は観客に埋もれ、観客は役者の醸し出す団地キャバレーに埋もれ、お互いの存在を探りあいながら、世界を織り上げる。

若人あきこが外反母趾な(と思われる)裸足で割烹着着て動き回る生々しさは今までのあなざーわーくすでは見たことがなくって、それがまた楽しい。
(えーと、喩えるとすれば、柏屋コッコのマンガの中に突如楳図かずおの絵が飛び込んだような生々しさ。若人さんはとてもきれいな方です。誤解の無いように言うが。あ、あなざの他の役者さんがマンガ顔といってるわけでもないです。ただの喩えです。)

割烹着の下、両の胸につけてる星マークが、在りし日の「週間プレイボーイ」の新聞広告、乳首だけ星マークついてたのを思い出させて、それもうれしい(関根恵子のグラビアの載っていた号の新聞広告は今でも鮮明に覚えている)。
タイトルが「団地妻」なので、サービスシーンありよ、でも、ここ(胸の星)までよ、ということなんでしょうか?

もちろんお饅頭もとってもおいしくて、虫歯治療直後、まだ上あごが麻酔で痺れているというのに饅頭2個にビールまで頂いて、ご満悦の体で帰宅した。

2008年12月2日火曜日

青年団 冒険王 再々見

30/12/2008 ソワレ

未見の友人と2人で。流石に3度目となるとマニアじみるが、何度見ても面白いものは面白いのだから仕方がない。

今回は最前列で。ラグビーの試合をピッチのすぐ外から見ると、身体と身体のぶつかる音がバチンとかゴツンとか聞こえて、その臨場感たるやなかなかのものなのだが、今回の冒険王、最前列で見ると大塚氏のお腹を軽くぱしぱし叩く音が聞こえて、それもまた臨場感あり。

その他、遠目では見逃しそうな細かいところまで目に入って、虫の眼の観客としてはこたえられない喜びを味わった。どこまでも観ていて楽しい芝居だとつくづく感じた。

2008年12月1日月曜日

ポかリン記憶舎 鳥のまなざし

30/11/2008 マチネ

千穐楽。
「舞台と足の裏が触れる触感」と福士史麻の横顔につきる。

シアター・トラムのプロセニアムを取り払って、劇場中央にドカンと置かれたマウンドは、リノリウムや木の触感ではなくて、どうやら布、薄いスポン ジかそれに近い素材。見た目にやわらかいのだけれど、自ら触って確かめるべくもない。が、裸足の役者が出てきてそこに足を触れるや否や、そのやわらかさが 確認できると同時に、さらに「皺が見たい。たわみが見たい」と思ってしまう。照明の当たり具合からか、なかなかその皺が目に入らず、中盤に照明が横から当 たって陰影が見えやすくなって、ようやっと、「ああ、たわんでいる」と確認できる。

で、小生の視線はその柔らかい床を歩く役者の裸足の足に釘付け(小生足フェチではありません。念のため)。かかと着地の人、足先が反り返る人、爪先着地の人(女優2人)。長い足、幅の広い足。それらのバラエティに富んだ足が舞台に触れる触感が、見た目にも気持ちが良い。

タイトルの「鳥のまなざし」は、僕にはピンと来ない。所詮、僕の芝居を観る目は、地べたに張り付いた虫のまなざしである。

で、その、「街」というよりも「砂丘」を思わせる長方形の舞台の周りを、福士史麻が何度も走ってまわるのだが、これがまた、「走る役者の横顔を見 て!」といわんばかりである。そういえば、前回観た「息、秘そめて」でも福士史麻は横顔で登場、横顔で退場だった。「かわいいから出す」というよりも、む しろ、「ハードウェアとしてキレイだから福士史麻の横顔を使う」のではないかとまで思わせるものがある。

以上2点をもって良しとする。芝居の構成については、正直、ついていけなかった。話の構成を見ず、足ばかり見ていたせいだろう。ラストシーンも、 「一体誰と誰が出会ったのか」分かりませんでした。それはそれでよいのでしょうか?そのうち、誰かに話の筋を教えてもらうつもり。