2008年5月29日木曜日

タテヨコ企画 月の平均台

28/05/2008 ソワレ

初日。大入り。何よりである。いきなり横田修の開演前挨拶で反則技炸裂。すっかり舞台を持っていく。本心で言うが、横田氏は客入れ・客出し、止めたほうが良い。役者がかわいそうだ。もちろん、毎度楽しみではあるのだけれど、マジで、芝居から気がそれるよ。

とはいうものの、良い芝居を楽しむことが出来て、小生ご満悦。開演前「いつもと趣が違うので心配だ」とのコメントだったが、確かに「フォーマット」に若干の違いはあってもいつもながらのタテヨコの芝居だ。

三方囲み舞台にした森の中、という設定。チップを敷き詰めた舞台、良し。濱崎賢二、良い仕事である。天井に枝・葉を垂らしてくらーい雰囲気なのだが、こういうときには駅前のタッパのなさがちょっとだけ惜しい。あと50cm(いや、1m?)だけ高ければ、もっと印象違うはず。照明も、役者の顔が見えにくい・見えるのギリギリのところで、あぁ、苦労したに違いない、と思う。結果、(タテヨコの役者の暑苦しさを考慮すると)これくらい表情読み取るのに苦労するくらいが丁度良い気がした。

「みはる」を演じた召田実子は、むかーし芝居を一緒にしてた広瀬由美子という役者になんだか雰囲気が似ていて、まずそれだけで見入ってしまう。舘智子さん、相変わらず美しい。
が、女優だけ観に行っているのではなくて、やはり、タテヨコの芝居で見入ってしまうのは、横田修の「根底にある人のよさ=世の中、みんな根は良い人だ、という根拠のない前提(少なくとも舞台の上では)」と、それに乗っかってリラックスした演技をする役者達、の関係かな。このリラックスした感じは、押し付けようと思って押し付けられるものではない。

従って、横田氏の懸念はほぼ無用と見る。が、気になったことといえば、終演後、
「いい芝居だった」 と言おうとして、
「いいハナシだった」 と言ってしまったことか。
そういえば、いつもにもまして、物語で引っ張る割合が大きかったな、と。タテヨコ役者陣だから見方を誤らなかった部分もあったが、そこらへんに本人も危うさを感じていたのだろうか?

2008年5月27日火曜日

toi "あゆみ" 稽古場襲撃

仕事が煮詰まって脳味噌が生雲丹になってしまったため、全てをなげうって職場を脱出。toiの稽古場を急襲。

稽古場に女優10人。+演出+制作+招かれざる客のわし。
「女優10人」と聞いて二の足を踏む、も○きちさんという方もいると聞いたが、それは「いい人中年隊」のメンバーらしからぬ自意識過剰であろう。自意識をなげうって稽古場に向かうべし。

稽古を見学させていただいた印象は、一言でいえば、「気持ちよかった」。
・ 鳥獣戯画のような
・ 伴大納言絵巻のような
・ 手回しオルガンを回す柴幸男の手の動き・スピードの緩急に思わず騙されてしまいそうな
・ 二次元劇団エジプトのような
・ 実はキューっと縛られている役者たちの中から、縛られてこその「個」が立ち上がってくる / 沸きあがって来るのを目の当たりにするような

あ、最後の「個が見えてくる」というのは、実は、多田淳之介の芝居や三条会でも感じることだ。もっというと、青年団の芝居の良さも、実はそこにある。と僕は思う。そういうのを感じる時にこそ、芝居は、楽しい。気持ちよい。
そういう芝居の稽古場は、気持ちよい。いくらいても飽きない。

と、あっという間に稽古が終わって、小生、頭すっきりと家路についた。

2008年5月25日日曜日

三条会 卒塔婆小町・葵上

25/05/2008 ソワレ

本日プログラムは卒塔婆小町Bプロ、葵上Aプロ。

卒塔婆小町、関氏演じる詩人の言葉は絢爛どころか軽薄で、でもそれは「軽薄に解釈して見せた」のかそもそも三島はミーハーだったのか。そういえば 昔Modeが桜の園をやったとき、(芝居自体は面白くなかったけれど)有薗芳記さんのトロフィーモフが七三分けで真面目クサって台詞言うんだけどそれがい かにも軽薄インテリワナビーな感じで強烈だったのを思い出した。

葵上、スライド投影の青の背景に黒い影が映るところ。榊原氏のスキンヘッドの頭の影が映し出されると、それはそのまんま、「サキ・コロ」のジャケである。そんなことで笑っちゃいかん、とこらえるのに必死。だって、サキ・コロのロリンズが動いたり話したりしてるんだもの。
また、90度左回転の場では、自分の首もおんなじ角度で傾けるべきか、悩む。

どちらの演目でも途中で歌謡曲かかったりするのだが(しかも結構有名な曲のような気もするのだが)、小生の知らない曲ばかり。それでも全然平気な のは、芝居の作り方が1つの読み方・見せ方によりかからないで、ありったけのものを材料として舞台に乗せてあるために、歌謡曲がアイデンティファイできず とも大勢に影響なし、ということになっているのではないかと思う。いたるところでサービス精神旺盛なのである。

どこにどういう方法論があってどうこう、というところまで、未だに見えないのだけれど、少なくとも、僕がサービスしてほしいところ(痒い所)には手が届いていて、両方とも楽しく見させていただいた。
昔の詰まんない芝居とかサキ・コロのジャケとか思い出しながら観てた、ということなので、あんまり筋・性質の良い客じゃないのかもしれませんが。

Mrs. fictions She is beyond Good and Evil

25/05/2008 マチネ

80年代後半、自分と同年代やあるいは年上の人たちがやってるこのテの芝居を、人間関係とか、友人の「面白いよ」という言葉に引っ張られて観に行って、かなりマジで怒ってたことを思い出す。思い出してみると、自分は昔からかなりレンジの狭い、心も狭い、了見も狭い観客だったというのがよ~く分かる。

おそらくは自分より一回り半は若い人たちが、こういう芝居をしているのに出くわすと、
①やっぱり怒る
②説教モードに入る
③「若気のいたりよのぉ」と悟ったような顔で茶をすする
等と、種々の反応が想定されるのだが、小生の本日の反応は、④そそくさと会場を去った挙句、日記でちくりと書く、などという、誠に男らしくない結果となった。

どうやら1時間半一本の戯曲で通すのは初めてらしいので、今後の精進に期待するとして(ちょっと②が入っている)、やっぱり、芝居の創り手としては、他の芝居をた~くさん観る、血反吐を吐くまで観るってことなんだろう。「自分の言いたいこと、見せたいこと」よりも、「自分だったら何が観たいか」を優先させた時に、レファレンスとなるもの(あるいはその逆で観たくないもの=反面教師)を常に考える必要がある(固まっている必要はない)。

自分の思い・妄想・語りの類を独白で役者に語らせてそれで観客がついてこれるのは、唐十郎だけに許された特権だと、僕は思うですよ。天才でない人には別の道筋を考える必要があって、まずは、自分が観て面白いものを盗んでくる、っていうのが第一歩かと。

渡辺源四郎商店 ショウジさんの息子

24/05/2008 ソワレ

泣いてよし、泣かずともよし。畑澤芝居の内角高めの豪速球に見事してやられた。
後半に入ってからは客席のあちこちでぐしゅぐしゅと洟をすする音が。聞いている限り、「男」泣き比率高し。客席前方からはなんと大きな音で嗚咽が聞こえてくる(これも男性)。

実年齢79歳の現役俳優(デビューして6年)宮越さんのインパクトは前回の『小泊』から不変。最初の出からして「やられた!」と思わせる。が、今 回の堂々たる4番バッターはささきまことさんで、1時間30分、他の役者さんには申し訳ないが、ささきさんからどうにも目が離せなかった。ドーンとくる、 重量級の、劇場に根をしっかり張った演技に、緩みっぱなしのはずの涙腺も乾いた。

泣きポイントで泣けなかったというのは、
①実は、劇場の他所からハナぐしゅぐしゅがあんまり沢山聴こえてきて、正直、機先を制された感があったから、というのもあるが、
②泣きポイントで宮越さんや工藤さんに移入するべき(?)箇所で、実は、ささきさんから目が離せなくて、彼が何を考えているのか(役柄上&役者として)、どこに視線をやっているのか、そこにばかりこころを奪われていたから、というのも凄く大きい。

この芝居、畑澤氏いうところの「バレバレ伝説」であって、芝居前半で実は後半の展開はほぼバレバレである。でも、それを改めてばらすでもなくあか らさまに観客に隠すでもなく(勿論劇中人物は隠そうとしているんだが)、メロドラマに流れないように最後までこらえてみせる演出の手管と、それをしっかり 支えきってみせたささき氏、本当に素晴しい。

現代口語演劇は「物語」を一旦否定してみせようということから始まったともいえるのだけれど、最早、舞台上に物語があったところで、そこにもたれ かからずに存在してみせることのできる役者がいるのであれば、殊更に物語を否定せずとも充分成立するのだということが良く分かる。なべげん、おそるべし。

ウォーキング・スタッフ・プロデュース 剃刀

24/05/2008 マチネ

和田憲明演出の芝居未見であること、戦前の戯曲の翻案であること、加納さんが出演していること、その3点が今回の興味。

幕前、ウッドベースの「ジャジーな」雰囲気を強調した音楽が流れて、
「これは、ひょっとすると、オフビートでくら~くてやるせな~い話になりますよ~、というサインなのか」
と、紋切り型の嵐が吹く予感に襲われる。

開演すると案の定の展開で、ポイントとなる台詞が発せられると「こーーん」という、「ハイ、皆さん、ここ、ポイントです」な効果音が流れる分かりやすさ。女優と若い男優の紋切り型にはダメだダメだダメだダメだ(この後1億回繰り返す)を心の中で連発していた小生であるが、加納幸和さんはやっぱりさすがで、そんな芝居の中で自分が紋切り型に落ち込まずにこらえる術を心得ている。

戯曲そのものは、上手く料理すればチェーホフばりの悲喜劇に作れなくはない原作だったのではないかと想像されたが、やるせな~い感じばかりが前面に出て、役者のせいもあって一本調子。苦笑を誘ったであろうシーンも死んでいた。まぁ、ひょっとすると、もとの戯曲がこの公演よりももっとひどい「階級差別はんた~い」型ご教訓戯曲で、それをここまで持ってくるのさえすっごく苦労したんだよ、ということかもしれない。いずれにせよ、加納さんの良さがよく分かった芝居だった。

怒りは目を曇らせる

この、アーバイン・ウェルシュという男、本当にたいしたヤツである。
Trainspottingの原作者、というとイメージ沸くかもしれないが。

http://books.guardian.co.uk/departments/generalfiction/story/0,,2280915,00.html

以下、彼によるところの、ブチぎれる時の黄金ルール:
①ムリに自分の感情・憎しみを高めようとしたりするな。
・・・怒るなら、真摯に、心の底から、怒れ。
②あんまりちっちゃなことに目くじら立てると、てめえがちっちゃく見られるぜ。
・・・道路政策に怒る時に、駐車違反取締りのお兄ちゃん(おじいちゃん)にあたっちゃいかん。
③怒りにはきちんとした理由があること。
・・・怒りにはそれなりの報いが来る。それを受け入れられるか?
④常に引き際を用意しておけ。
・・・キミがいくら怒ったところで、目の前の人間を変えられる訳はないのだ。常に引くタイミングを意識しとけ。
⑤接触プレーに際しては、掴んだり押したりするな。殴れ。あるいは頭突きしろ。
・・・まあ、その結果、ルール③が適用されて3日後に病院で目を覚ましても俺は知らん。

この男が信用できると思ったのは、
「この俺にしても、やっぱり相手を見て怒り方決めてたりするんだよね」
という一言である。こいつ、冷静だよ。

みなさまには、Thich Nhat Hanhの「怒り」をあわせて読むことをお奨めしますです。

2008年5月18日日曜日

冒険王・横尾忠則

18/05/2008

天気も良いので、自転車で世田谷美術館へ。文豪泉麻人お奨めの荒玉水道道路経由、45分で到着。ひょっとすると電車で行くよりはやい。環八の車道を下ればもっとはやいはずだが、そこは人間の通れる道ではなかった。自動車の皮をかぶった鬼がビュンビュン走っていて、断念した。歩道も狭くて、怖いとこじゃった。

と、まあ、それはさておき、横尾画伯の絵やデザインやイラストをたーくさん観たのだが、僕にとっての横尾忠則は、
・ マイルスのAgharta とPangaeaのアルバムカバーデザインを手がけた人
・ 状況劇場のポスターを手がけた人
・ 「横尾忠則も肩が凝る」とかいって、テレビCMでシューっと肩にスプレーしてた人
である。

そのイメージと今回観る横尾忠則とは、同じで、違った。
僕はどうしても、グラフィックデザイナー・イラストレーター・ポスター作家としての横尾、の方が好きだ。絵は、正直、ピンとこない。でも、ポスターやイラスト、コラージュは、60年代のものも2000年以降のものも、いずれも、良い。見ていて飽きない。あ、あと、瀬戸内寂聴先生の連載小説の挿絵は、とてもよかった。後ろから見始めて、「なんだ、この連作のイラストは。やけに面白いが」と思って遡ったら、最後にタイトルが出てきて、種明かしになった。

<Y字路>というモチーフは、いや、まあ、何となく、小学生の頃男子がよくやってた「ダブリュー・エックス・ワイ」をちょっと思い出して、気恥ずかしくなったが、そんなこと思ったのはオレだけだろうか?

マイルスのアルバムカバーが見たかった(CDではフルフルでジャケットデザインを観覧することができないのだ)のを除けば、まずまず満足のいく内容だったかな。

芝居の話をする

なんだか、週末、芝居の話を沢山した。楽しかった。やっぱり、芝居のことを話すのも、観るのと同じくらいに楽しい(こともままある)、と再認識。

王子小劇場で、田上パルの役者(特に名を伏す)と席が隣になって、開演前、最近観た芝居の話をした。
・ 某氏「東京デスロック、賛にせよ非にせよ、観た後で話がしたくなる芝居でしたよね」・・・なるほど。
・ 某氏「で、どこが面白いと感じたんですか?」・・・一瞬絶句。(しちゃいけないのだが)
⇒小生「どこを観ていてもいいんだよ、って任せてくれるところかな?」(弱い?)
・ 某氏「野毛山のずうずうしい、とっても面白かったですよ」・・・ええーっ、やっぱりぃ?
⇒小生予約入れるのが遅くなって、今回は拝見できなかったのだ。くやしい。返す返す悔しい。己の優柔不断を呪う。
・ 小生「柴幸男の御前会議は見た?」
⇒某氏「観れなかったんですよー」・・・よし、ちょっと取り返した。かも。(子供かよ)
あと、田上パルの面々がどうやってきらり富士見に通うのか、
なんてことを話してるうちに快快開演。
2人とも、快快の面白い芝居観れて、良かったよね。

と、その同じ日に、小茂根のサイマーケットで青年団の役者(特に名を伏す)と、また、席が隣になる。
1時間半くらい、ずっと、席隣同士(向かい合わせじゃなくて)で芝居の話をした。青年団の話、最近観た芝居の話、今度観る芝居の話、等々。特に唐さんの話、前田司郎氏が唐さんの芝居は良い、とどこかで言っていたにも拘らず、実は唐さんの芝居を一度も観たことがないんじゃないか疑惑、は盛り上がった。
あと、小生は、「愛される芝居」の話をした。やっぱり、芝居をやっている以上、できれば、なるべく沢山の人に愛されたいよな。と思うよね、普通、誰でも。多分。という話。

この日は、結局青年団若手を観た後も飲んだので、起きてて最低限のこと(飯とか洗濯とか掃除とか)以外をしている時間のすべてが芝居がらみだった。サラリーマンになってからこんな日は珍しい。気持ちよい一日。

燐光群アトリエの会 シンクロナイズド・ウォーキング

18/05/2008 マチネ

芝居というのは、「伝える」ものであるというよりは、むしろ「分からなさ・伝わらなさ」を舞台に載せてみせる行為ではないか、と考えている。そこに載せられたものをどうとるかとか、それについてどう考えたりするのかは、観客に任されるべきものである、と。それを前提として。

この「シンクロナイズド・ウォーキング」は、身体の不自由な人とまあ不自由でない人が出てくる話である。
人間、特に身体に不自由が無くとも、なんともコミュニケーションというのは不自由なもんやなあ、と常に感じているものであって、さらに、身体に不自由のある人となると、「上手く聞き取れないよ」とか「この人、俺の言ってることを理解してくれてるのかなあ」とか、お互いに感じることが、更にあからさまに多いはずなんである。
それは、日本に来たロシア人も、コスタリカに行った日本人も、脳性まひの人と初めて話す人も、銀行員からローンの説明を初めて受ける人も、みんなコミュニケーションの不自由を感じるのだけれど、程度の差はある、位の意味である。

この話に出てくるのも、マラソンランナーや中国人不法滞在者や進行性の筋ジストロフィー患者や脳性マヒの主人公やヤクザやホームレスだったりする。お互いのことは、最後のところは、分からないよ。その分からなさ、あるいは、どうやってその分からなさと折り合いをつけるのか、をどう舞台に乗っけるかが勝負、だったのではないかと思う。

で、そういう「分からなさ」を舞台に載せるのには、燐光群の役者たちの演技は、あまりにも、
「自分たちが考えていることが観客に伝わるに違いない」というナイーブな楽観論に溢れている気がしたのである。言葉で伝えきれない部分は、表情で読み取ってもらって補ってもらうしかない。表情も読みにくいのなら、もっと頑張ってもらうしかない。どんなに頑張ったって、分からないものは分からない。だからドラエモンに出てきてほしい。まさにその通り。
でも、リアルにドラエモンがいないのとまったく同様に、劇場にもドラエモンはいない。いかに独白したって、サスを当てたって、「乗り越えました」という顔をしたって、分からないものは分からない。そこを伝えようと声を張るくらいなら、最初から、観客に任せる、でも、思いっきり身を乗り出して分からないなりに考えてもらう、そういう枠組みに観客を誘い込んだほうがよっぽどか面白いのではないだろうか。と、そういうことを思いながら、2時間観ていた。
あ、そうだ。「伝わらないこと」を捨象して「伝わる」ことをアプリオリに前提しているから、芝居の中での英語のシーンもあんなにぞんざいに感じられるのか、と思いつく。

だから、同じ「しょうがい者」が舞台に乗る芝居であっても、真っ当で、過激で、僕を(作家の意図に沿ってるかどうかはクソくらえな所で)感動させる強力な芝居を生み出したこふく劇場と今回の燐光群とでは、その力強さにおいて差が歴然としている。テーマ・着想自体はもっとインパクトを持ちうると思うし、そこに妙な虚構を入れ込もうなどとは微塵も考えていない態度にも好感持てる。でも、そこまで考えておきながら、なぜこの演技?と、正直に言う。
まあ、でも、「分かること」に対しての楽観主義は、実は、坂手さんの一つの「美徳」なのかも知れないんだよな。あの、みょーな前向きさ加減は。

青年団若手自主企画 新宿八犬伝

17/05/2008 ソワレ

青年団の役者たち、80年代の「叫ぶ、飛ぶ、跳ねる、面をきる」芝居を観たことも演じたことも無い連中を使った川村毅戯曲上演。演出も第三エロチカ出身のクセに80年代演劇を知らないなんて、「何をヌかすか、ホントかよ」、っていう感じである。

一度稽古場にお邪魔したときは、「おおっ、青年団の役者をしてもできないことって、あるんだー!」と、青年団の役者達の余りにも居心地悪げな動きにちょっと小躍りした小生ではあるが、本番の出来映えについては確信もてず、ドキドキ感を抱えて春風舎へ向かった。

で、出来上がったものはなんともみょうちくりんで、不ぞろいで、ゴツゴツした、良いも悪いもごった煮の、80年代の戯曲なのにノスタルジーのかけらも感じさせない芝居だった。言いたいことは沢山ある。「こんなことするなよ」とか、「こうしたほうがいいんじゃない?」とか、「これは意図してなかったかもしれないが、面白かった」とか。が、トータルで、出来の悪いところも良いところも含めて、楽しんだ。

海津マーロウの「川村毅に喧嘩売ってんのか?」みたいな、現代口語演劇の申し子のような台詞が抜群の破壊力で、もう、目が離せない。というか、海津、芝居が半分以上経過するまで、顔見えねー。
対極にある文学座組の「器用さ」も、芝居を上手く説明する方向へのベクトルを要求されていないようで、むしろ、現代口語演劇の文脈での「分からなさ」が浮き彫りになる。
元の戯曲が「紋切り型の生成と消費」を主題のひとつとして取り扱っているだけに、なんとも妙なはまり具合である。

「その場走り」にも、80年代演劇へのエクスポージャーの差が巧拙(その場走りにだって巧拙はあるのだ!)にそのまま現れて、80年代を引きずるおじさんな観客としては含み笑いをこらえられない。

その日来場した川村氏、「面白かった。もう一度くる。」と言い残して春風舎を去ったらしいが、それは演出への最大級の賛辞だろう。そうか。川村さん、面白かったですか。そういえば、付け鼻シャロンの登場のときから、声を上げて笑ってましたね。こんな風に自分の戯曲がみょーちくりんなごった煮になっちまったことを面白いと思える川村毅氏、大物ですね。

が、である。西村和宏、勝負は次だ。80年代には立ち返ってみた。それなりの成果がでた。でもそれは「習作」である。今回の公演も「試演会」からボコッとはみ出てはいない気もする。八犬伝から始めて、「テクストの扱い方」にいくのか、「役者の身体」にいくのか、現代口語の可能性の売り方にいくのか。そこらへんも含めて、次回が楽しみになった。

快快 ジンジャーに乗って

17/05/2008 マチネ

前回アゴラで観た時の通り、おしゃれでセンスのある、身体の良く動く劇団の軽々としたパフォーマンスを期待して王子に出かけた。で、まさに期待通り。

劇場に入ると、何だか「こどもアドベンチャーランド」みたいに鉄パイとタイヤとロープが組んであって、下手ギャラリーとつながっている。セグウェイが2台、舞台奥に無造作に置かれている。なんだか、たくさんのセグウェイが舞台の上を走り回って、ローラーディスコ(古い!)みたいになるのだろうか、と思わせる。

果たして、オープニングの「焼酎ナイト」は踊りも格好よくて、みんな身体が良く動いて、おおっという感じ。が、この芝居の本題は、そのまま体力に任せてセグウェイで走り回るのではなくて、セグウェイを巡って(あるいは巡らなくても)7人の若者達がうだうだしてる、という、そういう話で終始する。

うじうじ、うだうだと、でも、瞬間風速なら負けないよ、という刹那的な動きが、チェルフィッチュのようでチェルフィッチュでない快快の見所。記憶を繰り返し手繰り寄せたり、台詞と身体の動きの連結・切り離しを意識したりするところは「ぽい」かもしれないけれど、目指してるところは、もっと、理屈っぽくない、身体の欲望に近いところにあるように見えた。今の快快について僕が気に入っているところは、おそらく、その、理屈では決して追い越せない瞬間風速と、「半年後にはもうこの集団の"花"は枯れてしまっているのかもしれない」という切なさである。

デモ行進が通過するシーンはそういう意味で、僕が快快の風速と切なさを最も感じたシーンである。ぐっと来た。ぐっと来るといえば、いちいちリセッシュのスプレー(小生の自宅にも備えてあるのと同じもの)をしゅしゅっとするのも、別の意味でぐっと来た。笑った。
まぁ、じゃあ、この若者たちが何年か歳をとったらいろんなものが変わってしまうのかといえば、案外そんなもんでもないのかもしれない。遊眠社だって「身体が動かなくなったら」というところは乗り越えて芝居を続けられたのだから。一おじさんとしても、風速を感じられる限りにおいて、しばらく拝見させていただくつもりです。

2008年5月16日金曜日

百景社 授業

14/05/2008 ソワレ

寝不足で板橋までお邪魔して、詰まんなかったら寝る覚悟で行ったが、最後まできちんと観られた。
百景社初見だが、なんだか3人とも、人柄の良さそうな演技である。何をもって、というのもなんだが、割と、素直な演出だったと思う。フィジカルなところで「観せに来てるのか?」と思うところもあったけれど、基本的には「授業」の戯曲の流れに沿って演技が進んだ。

そういう素直な演出なので、どうしても、イオネスコの戯曲の面白さが表に立って、そっちに意識が飛んでしまうのが良いのか悪いのか。教授の後半の 台詞は本当に、ゴドー待ちのラッキーの長台詞と同じくらい、ループさせたテープで何回も流したくなる名台詞、何とも言いようのない意味のなさ。もしかする とそれを壊してしまうような演出の仕方もあるかもしれないけれど、とりあえず、今回は、イオネスコの名調子を楽しめた。

ちなみに、僕は板橋区内の病院で生まれ、板橋区内の幼稚園に通った。商店街からちょっと入ったりしたところの路地の雰囲気が、僕が育った町、内ゲ バで人が怪我した話があったり何とか派のビラが電柱に貼ってあったりした、そういう町の記憶を思い出させて、それもなんだか良かった。Atelier Sentio、悪くないです。

なんだかささくれ立つ日々

月曜・火曜と、全く別々に、むか~しの友人/仲間と飲んだのだが、どうも気持ちがささくれ立って、よろしくない。

久し振りに、人と会って、昔の話をしたり、今の話をしたり、これからの話をしたり。
どんなヤツと会って飲んでも楽しいはずなのだが。一方は楽しく、一方は楽しくない。

単に自分の気分だからか、と思うとそれも心苦しい。
相手が詰まんないからなのか、と自分に言い聞かせそうなのも心苦しい。
会社飲みなら割り切って飲みもするが、そうでないだけに始末が悪い。

火曜は実はなかなか気分が乗っていて、徹夜でも飲める勢いだったのが、なにぶんわしはサラリーマンである。5時半起きである。そこは「大人」になって帰宅したのだが、水曜にあるはずだったプレゼンはあえなく延期。あぁ、徹夜で飲んでおけば、と思っても後の祭りである。
(まぁ、徹夜で飲んでたら飲んでたで別のもっと大きな後悔があったかもしれないが。)

そんな中で、東京デスロック以来わたくし的に課題となっている
「芝居にとってテクストとはどれくらい大事にされるべきものなのか」
について考えたくてしょうがないのだが、酒が抜けず、考え切れないのがまた苦しい。
苦しいまま金曜に至ってしまった。・・・週末だ。ゼロクリアーだ。

2008年5月11日日曜日

ブラジル さよなら また逢う日まで

11/05/2008 ソワレ

6億円って、どんなもん?6000万円って、一生遊んで暮らせるおカネ?
そこら辺のリアリティは、正直言って僕には見当もつかない。
金利1%として、6000万円で一年に60万円。これじゃ暮せないだろう。
じゃあ、年に500万円で暮したら、12年分か。12年後、まだオレの寿命は尽きてないな。

http://www.boj.or.jp/tour/b/shinkan/1oku.htm

6億円を強奪するのに、黒服が9人人気のないところに集まったら、どんな感じよ?
怪しまれたくないなら、絶対黒のスーツは避けるだろう。

というような、チープなリアリズムに拘っていたらこの芝居は楽しめないのだろう。実際、1億円パックの大きさをずーっと考えてしまった下世話な僕は、楽しめなかった。

服装とか作戦とか「何でこいつわざわざ自分を窮地に陥れるように動くのか?芝居だからか?」とか、そんなところは、きっと捨象した上で、芝居を楽しむ術はあるのに違いない。ただし、無理して自分で引き受けるものでもないな、とは思う。

東京デスロック ワルツ マクベス

10/05/2008 ソワレ

今日も羽場睦子さんは素敵だった。役者陣はかっこよかった。

この作品は、ヨーロッパ(特にイギリス)に持って行くとすごく良く受け入れられる気がする。そういうことを考えながら観た。
マクベス・フィジカルな演劇・和風テイスト
と、三拍子揃っている。マクベス・「権力の椅子」という、ちょっと紋切り型に近いメタファーも、その「あざとさ」ゆえにむしろ受け入れ易い感じ。が、何よりも、役者7人がいずれも旬で、それを幅広く色んな人々に見てもらうのは面白いだろう、ということである。

こういう、すこぶる真っ当な演劇で、しかも4回しか公演がないにも拘らず観客席が大入り満員でないのは大変寂しい。
アフタートークで「同業者に嫌われる」芝居だ、とあったけれど、それは一体どういうことなのだろう?どうすれば、こういう芝居が、ご近所さんにも、ちょっと立ち寄った人にも、気が向いた人にも、「なんだかちょっと面白かった」といわれるようになるのだろう?

この芝居を観る側の人間として、
「なぜ知人をこの芝居に誘わないのか? / 誘えないのか?」
ということも含め、色々考えてしまう。自分が観てただ楽しいだけでなく、もっと何が出来るかを考えると、気が重くなった。もちろん、自分が観て楽 しいのはとっても大事だし、家族と一緒にいたら、そりゃみんなで来ますよ。それはとても楽しいと思う。・・・あ、そういえば、中学生以下の人、少なくとも 3人は来てたな。それはとっても心強かった。

2008年5月9日金曜日

東京デスロック ワルツ マクベス公開ゲネプロ

08/05/2008 ソワレ

とっても楽しい舞台だった。

ド頭、石橋亜希子が出てくるときの歩きにくいような突っ放したような歩き方を観て、「これは凄くなる」と決め付けた。
永井秀樹、いっつも「いい役者」なんだけど、「かっこいいじゃん」とか「すっごい役者じゃん」と素直に思えるのって、何故か多田演出の時だ。相性が良いのか。
佐山和泉の「くるくる」シーンは、素直に美しい。
でも、他の役者にも悪いが、やはり一番痺れたのは羽場睦子さん。後半、彼女が踊りだした瞬間は涙こぼれるかと思った。

どこを味わっても大丈夫な芝居空間が目の前に提示されているというのは、まさに至福の状態で、多田淳之介、「実験的」とか何とか言ってはいるが、実は驚くほどエンターテイニングなのである。それが良く分かる。

週末、お時間のある方は是非どうぞ。

<以下、ネタバレに近い記述もありますので、未見の方、ご注意ください>



開演前に演出多田氏がマイク持って舞台に立ち、マクベスのストーリーを全て説明。それはあたかもマクベスという芝居から、骨から肉をぺりぺりぺりっと剥いでいくように、物語を分離する手管のように思われた。そのナイフを操る多田淳之介の手つきや良し。

だから、いざ芝居が始まると、僕らがふつーに期待するマクベスから物語を剥ぎ取ったところに、前作Loveでも観られた「割りかし裸の」役者が立ち現れる訳で、その役者達をどう観るかは観客に任されてしまう。役者を物語に縛りたい観客は苦労するだろうし、物語から切り離して音楽椅子を楽しむ客もいるだろう。ところが、その中に、物語と身体性を仲介するかのようなヒントがまぶされて、観客は永遠にぴったりとははまらないボタンを何度も掛け違うかのように、あーでもないこーでもないと、物語と身体性の間を行き来できる仕掛けになっているのである。そこらへんの「妄想スイッチ・想像力スイッチ」の配置に、演出の企みが凝らされている。

30分経過。役者が台詞をしゃべりだすと、それがまた坪内訳のシェークスピヤ台詞で、あっと気がつけば役者陣は和装・文語調。この芝居の観客は、身体 - 物語 を行き来できるだけじゃなくて、いまどきの身体 - 明治の言葉 - シェークスピヤの物語 を行き来できる、まさに芝居の三層ミルフィーユ構造を味わうことが出来るわけだ。それをどう楽しむかがまた観客に委ねられているのが嬉しい。

いや、どんな観方をしても大丈夫なように、隙がなく作ってあるのだ、という方が当たっているだろう。そういう、どこを味わっても大丈夫な芝居空間が目の前に提示されているというのは、まさに至福の状態で、多田淳之介、「実験的」とか何とか言ってはいるが、実は驚くほどエンターテイニングなのである。

「ゲネ」なんだから2つ気になったことも挙げておくと、
①中盤、実は、「台詞なくてもいいよ」と思ってしまった。ミルフィーユ三層構造の中で、明治文語調の台詞がどのくらい効いているのか、ちょっと気になった。
実際、台詞なくても大丈夫なんだけれど、でも敢えてそこで台詞を使うこと。そこらへんもうちょっと考えたい。
②椅子取りゲームの椅子。これが限りなく「メタファー」に近づいた瞬間が自分的には苦しかったかも。確かに椅子のメタファーをわかりやすーく提示して、紋切り型スレスレまで持っていったほうが観客にとって救いになるケースもあるのかもしれないが、でも、そんなものなのかなあ?この2点、本公演でもちょっと注目してみてみたい。

2008年5月6日火曜日

モダンスイマーズ 夜光ホテル

06/05/2008 マチネ

終演後、なかなか拍手鳴りやまず。それだけの手応えは役者にもあっただろうと思われる。
モダンスイマーズ拝見するのはまだこれで二度目だが、見応え十分の1時間25分だった(もちろん、不満な点・僕のテイストに合わない部分は多分にあるのだけれど)。
6月1日までほぼ1ヶ月の公演だが、評判がどんどん良くなる可能性大。


<この後は、話の展開に大いに関連するコメントが続きます。ネタバレにつき未見の方はご遠慮ください>

乱暴にまとめに入るなら、
「少年の頃の仲間達が大人になって、あぁあの頃に戻りたい、戻れない。汚れちまったこのオレの汚れは落ちやしない。」
みたいなハナシである。

この芝居を1時間25分で切り取ったのは大正解で、おそらくそれ以上やっていると長く感じられただろう。ちなみに渡辺源四郎商店の「背中から四十 分」も、同じく北の町のホテルの一室、窓は下手向き、入り口は上手側、という設定だったが、1時間くらいだったと思う。ホテルの一部屋の閉塞感は90分が 限度、ということか。

その90分を引っ張るのは、
① 萩原たちが引き受けた「仕事」とは何か?最後に訪ねてくるのは誰か? という興味と、
② なんだか萩原が隠していることがありそうで、そのカードをいつ切るのか? という興味。
そこに向かって観客をひきつけておきながら、
ペースメーカー=津村、異物=西條、イロモノ=古山、萩原と対置される「カタギ」の人間としての小椋、の4人がうまーく配置されて、芝居をドライブしていく。

拍手の9割がたは、この5人のアンサンブルに対してのものだと思う。津村のライトウェイトに見せながらテンポを変化させてペースを作る手管、萩原 の若干後ろノリの(悪く言うと変に思わせぶりで、台詞の頭に間が入るような)台詞、小椋のビブラートなし直球演技、シンバルを鳴らすタイミングを虎視眈々 と狙う古山、タイミングの関節を外すタイミングを狙う西條。それらのピースがぴたっと嵌って、そこには、"ほとんど"破れはなかったと思う。

疑問符がつくとすると、従って、作・演出の部分に対してであって、それは例えば、
① 萩原がカードを切るタイミング(ツッキーの息子カード & 刺青消去カード & クスリカード)が、あまりにも遅くないか?これでは、いわゆ る「あっと驚く意外性溢れるラストシーン」の紋切り型に落ちているといわれても仕方がない。もっと早くカードを切っておいて、その後の展開を見せた方が、 「エンターテイメント」としてはともかく、「舞台」としては見ごたえあったのではないか。(でも、萩原のキャラの設定ともからむので、難しいバランスかも しれないが)
② ラスト、音楽大音量で締めくくるのは如何か。音楽を鳴らさないと持たない演技ではなかったと思う。
③ あと、やっぱり、主題としてあまりにも紋切り型から入っている印象がどうしてもぬぐえない。妙なメッセージ性で締めくくろうとしてない分だ け、かろうじて踏みとどまっているんだけれど。これだけアンサンブルのきちんとした役者陣なら、「物語」と「主題」と「あっと驚く新展開」から逸脱したと ころで勝負かけても充分勝ち目があったと思うのだが、どうか。

という訳で、気に喰わないところも大いにありました、と胸を張って言えるくらいに、一生懸命観られる見応えたっぷりの芝居でした。

2008年5月4日日曜日

唐組 夕坂童子

04/05/2008 ソワレ

紅テントを観に行く時は、いつも、丸山厚人の客整列・客入れ口上が始まるあたりからもうドキドキしてきて、今日は何が出るのか、役者がどう出るのか、芝居が僕の妄想をどこへ引っ張って行ってくれるのか、楽しみでしようがなくなってしまう。

で、今日は、鶯谷の谷底から見上げる西に向かって上る坂の向こうに沈む夕日を見に連れて行ってもらった。

冒頭稲荷氏が出てくるところでなんだか嬉しくってぐっと来る。
ビクターの犬が登場するとともに蓄音機を待ちわびる。
夕日に向かって手袋かざすその感覚が、まるで最初からその一点しかありえなかったかのように、僕自身の子供の頃の近所の遊び場(「はらっぱ」と呼んでいた場所)へと僕を呼び戻して、芝居に持っていかれながらも、もう一方では僕自身の記憶へと遡る作業を続けていた。

今回の唐組は、いつになく単線なプロットに乗せて物語が運んでいたような気がする。その分上演時間も短く、最後まですっと物語の時間が進んだ。その分、場所・モノのイメージが舞台に固定して濃厚ではあったけれど、もしかすると好みが分かれるところかもしれない。

いずれにせよ、だ。ホント、娘を一度連れて観に来たい芝居ナンバー1。これが唐さんの芝居だよ、って。

タカハ劇団 プール

04/05/2008 マチネ

初見。若い。上手い。気に入った。でも、冒頭とラストは何とかならないか。ということで、「次も観てみよう」と思う劇団がまたひとつ増えた。

舞台は大学の(しかも医学部・解剖学関連の)研究室のようなそうでないような場所で、手前にみんながうだうだするテーブルが置いてあって、一見、 「カガクするココロ」を思い出す。王子ならではの二階建て舞台の奥は、どうやら、階上の廊下らしい。舞台美術の作りこみ、まず、良し。一瞬鴉屋系かと思っ たが、違った。

望月という新入りのバイト学生の目を通してそこで展開するさまざまな出来事を描いていくのだが、まず、何が上手いかといえば、望月が「明示的に入 手する」情報と、望月が「なんとなくそうなんじゃないかと推測しているであろうと観客が推測する」情報が、きちっと分けられていること。この手の「主人公 を通して出来事が展開する」芝居でこれがされているとまず合格。

さらに、「望月もこう考えてるんじゃないかなぁ」と思うくらいの推測が観客にも可能で、それを最後まで決め打ちさせないで、最後まで引っ張ってい くところが良い。要は、「ラストに出てくる驚愕のどんでん返し」とか、「最後まで次に何が起こるかわからずドキドキする展開」のようなチープな売り方をせ ず、
「何だか分からない、いや、分かってるような気もするんだけど口には出さない/出せない」
雰囲気を、1時間45分持たせる、で、それを楽しませる、というところに徹しているのが、良い意味で非常にエンターテイニングだった。

役者陣も、「あー、全部吐き出したいんだけど吐き出せない」という雰囲気を、
①それが劇中の設定だから
②そういう演出だから
という二重の意味で自分をよく抑えてかもし出していたと思う。

で、何とかならないかと思ったのが、冒頭とラスト。
まず冒頭。望月入場時の持って行き方が強引過ぎ。セミ秘密の場所に異分子が入ってきたときの反応、も少し丁寧にできんか、と思った。これは演出の方針・戯曲の入り方、だと思う。
ラスト。照明変えない方が絶対に怖いよ。あと、役者も、驚かないほうが、怖いよ。だから、フリーズしない方がきっと怖いよ。普通に終わったらもっと怖かったはず。で、それが残念だったかな。

でも、初見、飛び込み当日券の劇団でここまで面白かったのだから満足度大。「王子だからひょっとすると面白いぞ」と思ってきたら、案の定、若くてざらついた芝居が観れた。さすが、王子です。

A.C.O.A. 霧笛 -共生の彼方へ-

03/05/2008 ソワレ

A.C.O.A.の主宰にしてアトリエの小屋主、要は、今回の「なぱふぇす」の主、鈴木氏によるレイ・ブラッドベリ作品の一人語り。

幕前、鈴木氏がご挨拶されて、「中央のカネと風評を逃れてきて、こういう場所で、一人ひとりの顔の見えるところで、芝居ができるのは幸せだ。」とのこと。
非常に真っ直ぐな、良い意味で愚直な生真面目さを感じる。

作品も、ブラッドベリの原作に対して非常に愚直に作ってある。真っ直ぐに伝えること。SCOTにいらしたそうで、身体の動きにも変な無駄がないし、奇をてらう気配は一切なし。好感度高い。エディンバラフェスで良くやっているような一人芝居を思い起こさせたりもする。

が、その生真面目さが、時として息苦しくも感じられた。ブラッドベリの物語を「伝える」ことに対して、無駄と思われるものをとことんそぎ落として観客に提示すること。でも、それは、「敢えて観客に回り道をしてもらったりする機会を排除すること」とは少し違うんじゃないかと思ったりもした。

こういう風に比べるのは失礼かもしれないけれど、当日の昼に観た三条会の「がはは感」、あるいはかっこよく言うと「哄笑の渦」、あるいは、誤解を呼ぶと嫌だが「ユーモア」みたいなものが、この「霧笛」には割って入りづらい気がしたのである。
(鈴木氏にユーモアが欠けている、という意味ではない。生硬なユーモアの発露、というのも勿論ありです)

それは例えば、鈴木氏の発する「恐竜の声」に対して「ほんとかよ」と突っ込みを入れる余地がない、とか、背中のうろこを観ても「突っ込んでよいのだろうか?」と自問してしまったり、最後お尻をペロンと出してしまっても何だか(僕は)笑えなかったり、ということなのだ。

僕は今それに対して「回答」を出すことは出来ないのだけれど、やっぱり、僕は、どっかで「破れ」が生じる、あるいは、皮膜が破れてしまいそうな、そういう瞬間を目の当たりにしたい、そこにたどり着けませんでした、というのが率直なところ。

鈴木氏は7月の三条会「夏の夜の夢」に出演される由。三条会の「がはは感」の中で鈴木氏の生真面目な身体がどう活かされるのか、大変興味深い。

三条会 ひかりごけ

03/05/2008 マチネ

新宿から2時間半、黒磯の駅から送迎バスでさらに25分、A.C.O.A.のアトリエにお邪魔した。こんな物好きはそうそういないかと思っていたら、マイクロバスの中には10人強の客が乗り合わせて、なかなか賑やかである。

念願の三条会の「ひかりごけ」初見。もうひとつは、首都圏から3時間離れた場所にあって、A.C.O.A.が一体どんな小屋なのか覗きに来たかったこと。動機としては十分。

小屋主曰く「廃屋」を改造した、平屋のスペースで、上手そで、窓の向こうには道の向こうの二階家のベランダに干してある洗濯物が見える。客入れ 中、あるいはせりふの合間に鶯が鳴く。雰囲気悪くない、でも、役者やってたらなんとなく意識が拡散してやらしいな、と感じそうな小屋だ。

ここのところ三条会にはまっていて、一体何がこんなに面白いのか、ということをずっと考えてるのだが、他の芝居を観ていて、
「三条会の役者は、一見過剰に目を見開いたりいいお声だったり瞬きしなかったり汗かいたりするんだけど、それって、過剰なものを見せようというんじゃなくて、むしろ、余計なことをさせない、ってことなんじゃないか」
と思い始めた。みなが「マスクをかぶっている」感じ。それを確かめたかった。

それは、今回ある程度確認できた気はする。が、でも、観ていると、結構微妙に表情変えてたり、声色も使うんだな。そういうのを逐一チェックするのがまた面白い。

「ひかりごけ」という点で言うと、元の戯曲にさらにフレームを嵌めて、観客から観た遠近感をいじってみせる手法が面白い。

後半の裁判シーンの「この裁判の権威を覆そうとしているんだろう」という検事のせりふのあたりで、戯曲に書かれた虚構の世界と役者の「ごっこ」と 観客が身を置く劇場というフレームの境目が、へその穴の奥の膜のようにすごく湿った感じでうすーくなっているのに気がついて、はっとする。

4度、5度観てきて、三条会の芝居への僕なりの距離は取れてきた。次は、いかにして自分の妄想スイッチに点火・噴射するかである。

2008年5月3日土曜日

熱帯 次の曲をかけるのは誰だ

02/05/2008 ソワレ

劇中の音楽の使い方も、色々考えると実は難しい。まず、
・ その曲が劇中人物にも聞こえているという約束なのか、それとも観客にだけ聞こえるのか
・ 劇中人物に聞こえているとすると、どこから聞こえているのか、誰がかけているのか
なーんていう、簡単なお約束に対して創り手が意識的かどうか、という線引きはある。

最近は客入れ時にも音楽を流さない劇団が増えてきた。それはそれで、「意識」した使い分けをしてるということなので、僕としては喜ばしい。

劇中だと、最近は「悲しいシーンで悲しい曲をかける」とか「ドラマチックなシーンでドラマチックな音楽がかかる」みたいなクッサーい音楽を使う芝居には行かなくなったから滅多にそんなのには出会わないが、テレビでかかっている
「さあぁ、ここで明るくなって!」「さ、ここで悲しくなって、涙流して!」
みたいな音楽が耳に入るにつけ、おそらく巷にはそのテの悲惨な芝居がまだまだ溢れているに違いない。

で、今回の「熱帯」、初見だが、正直、
「次の曲をかけるのはいったい誰なのか。BGMをめぐる戦いは、もうすでに始まっている」
とチラシに書かれると、これは「観に行かなきゃならん」と思ってしまったわけである。そのBGMのかかり方が、役者レベルでのものになるのか、観 客を巻き込んで劇場の雰囲気を変えて遊びにかかるのか、ハロルド坂田ばりにCDをフリスビーのように投げつけ合ったりするのか、一体全体舞台上の「音」が どんな風に聞こえてくるのか。とても楽しみだった。この際、劇風がどうであろうが構わない。BGMに着目したそのアイディア1点に賭けて観に行った。

全て過去形である。雑なつくりの芝居で残念だ。
せめて、ラジカセの電源をつける・消す、ボリュームを調整する、音源を切り替える(CD⇔ラジオ)、その時に曲が途中からかかるのか頭からかかる のか、ラジカセをいじる人がきちんと操作に集中しているか、等々、それくらいはきちんと演技・演出してほしかった。オレ、正直言って「そこに」集中して芝 居みてたのに。少なくとも舞台の上は、「ラジカセ」に視線が集まるように組んであったよね?

不夜城のデザイン事務所で窓が無くて一体何時だか分からなくて、出はけの間に実は2時間経ってましたとか、ここは10分経過とか、時間の流し方をうにょうにょっとさせるやり方は、それはそれでよいんだが、これも、役者の出はけの雑なのが気になって、楽しめなかった。
ほんと、残念だ。