2014年11月3日月曜日

FukaiProduce 羽衣 よるべナイター

02/11/2014 マチネ

千穐楽。
Fukai Produce 羽衣のステージ(ライブも、芝居も)にはしばらく出かけていなくて、それは、きっと、うちの夫婦が夏に海水浴に行かないのと理由が似ているのではないかと、以前から思っていたのだ。
なにせ、観ると体力を消耗してしまう。圧倒的に真っ直ぐ投げかけられるエネルギー、真夏の直射日光。その場でベトベト汗まみれ、で、後でぐったり。スカして観るとか、斜に構えて観るとか、そういうの絶対に許してもらえないし。「そこに身を置く」以上、逃げ場なく、否応なく、2時間がっつり受け止めて、へとへとで劇場を後にすることになるのが分かっている。
いや、もちろん、海に行っても羽衣の舞台に行っても楽しいことがたくさんあるってことも分かってるつもりなんだけど、つい、先延ばしにしたり、別の用事入れちゃったり。そういうことなんだと思う。

で、よるべナイター。あんまりあちこちで評判がよいものだから、観に行った。行ってよかったなー。楽しかったなー。
思ったよりも、カラッとしていた。藤さんが出てないからだろうか。ベトッ、ネトッとした感じがあんまりしなかったのは、あるいは青山円形劇場の雰囲気なのか(青山円形は、円形舞台なのにもかかわらず、舞台が遠く感じられる小屋なので)、野球のユニフォームのせいなのか、そもそもそういう演出なのか、ちょっと分からないけれど。
その分、見やすくはなっていたと思うけれど、一方で、あの、観た直後のベトベト感が、妙に懐かしい気もしてしまって。

伊藤昌子さんショーが試合後半の大山場までとってあったのが心憎く(僕は伊藤さんショーが観られればそれだけでも大満足)、古田敦也出演は一生ものの思い出に(できれば、神宮でその勇姿を再び見せてほしいのだけれど)。またいつか、羽衣のエネルギーに当てられに行こう。気の晴れない週末に。カラッと気晴らししたい時に。

2014年11月1日土曜日

iaku 流れんな

01/11/2014 マチネ

iaku、初見。
1時間半、5人の役者でタイトに紡ぐ現代関西圏口語演劇。息つく間もなく一気に観た。
すっごく丁寧に編まれた会話とプロット、役者は抑制を効かせた分だけ、その場のケレンは最小限に、芝居をぐいぐいと前に進める原動力となって、本当に観ていて飽きなかった。
凡百の首都圏現代口語演劇芝居では味わえない密度とドライブ。
芝居観ながら、洪雄大氏の名台詞「エッジの効いたスリーピースを」を思い出して、こういう(作者自身「ストイック」と呼ぶような)芝居って、エッジの効いたストレートなロックンロールを聴かせるバンドのようなものだなぁと感じた。

なにしろ台本が上手い。救いのない状況に登場人物を放り込んで、ただしその落っこち方を観ている観客としては笑うしかなく、その笑いを意外な発言・行動でひねり殺して、状況を推進させる。それは、まあ、ウェルメイドの手法なのかもしれないけれど、その手法が「物語」の説明に奉仕することなく、芝居の「状況」を踏み固めることに貢献していた。「物語」ではなく「状況」と書くのは、まさにこの芝居が(ほぼ)1幕ものの現代口語演劇だからで、背景の物語を示す説明台詞もかなり手際よく処理して、相当の書き手である。「会話劇」の中心には姉妹がいるのだけれど、そこに配置された男優三人の、「何で俺たちこんなシチュエーションに居合わせてしまったのか」な佇まい、しかもそう思っているくせに「しまった、なんでオレ、こんなこと口にしてしまったのだ!」な言動をとる間抜けさ加減。それを殊更に強調せず、抑えた演技で楽しませてくれた。

北村守さんの「指」の動き。登場からラストシーンまでしつこく動かして、最後に「ああ、こういう使い方か!」と納得。
緒方晋さんの、特に後半黙りこくって以降の横顔(往年の影山雷樹さんを彷彿とさせて・・・)。
酒井善史さんの、舞台上のポジショニング。フットボールと同様、ボールを持っていないときのスペースの使い方が上手い、の一言。
ということで、男優3人には見とれてしまったのだけれど。それでは、女優2人がどうだったかといえば、うーん、そこで、この戯曲の弱点2つに触れざるを得ず、その1つが、「主人公視点の一人称芝居から抜け切れていないこと」、2つめが「妹の作り込みの(もしかしたら意図的な)欠如」。それらがやっぱりどうしても気になってしまって、勿体ない。

1点目。主人公の視点から抜け切れていないこと。そもそもこの戯曲自体が主人公の長女の話なので、仕方がないのかもしれないけれど、3人の男たちに対する作者の視点が、非常に冷めた「君たちは本当に救いのない人たちだなぁ。でも、笑ってやる」的な「突き放した」ものであるのに対し、長女に対してだけは、そうした「突き放した」態度を取り切れていない印象。それは、これだけのストイックな芝居で1時間半走らせるためには必要な「軸となる視点」なのかもしれないけれど、いやいや、それじゃあ下手すると「主人公がんばれ」な芝居で終わっちまうぞ、と。この長女をさらに突き放して見させるような仕掛けがもう一つあったら、「現代口語演劇のフォーマットをまとった一人称芝居」から、「フォーマットをぶっ飛ばした傑作芝居」になっていた気もする。

2点目。主人公視点の物語から抜け出せなかったもう一つの原因は、次女の作り込み不足ではないかと。これは、演出・役者の責任ではなく、戯曲の書き込み不足、いや、もしかしたら意図してのことかもしれないが。というのも、5人の登場人物のうち、「いつもは何をしている人なのですか?」「過去に何をした人なのですか?」というイメージ・質問が一切出てこず、エピソードも語られないのが、この、妹なのである。それで、舞台上でずーっと不機嫌な妹は「ただの不機嫌な人」としか見えず、あるいは、姉を追い立てる人としか見えず、バックグラウンドが不明瞭な分だけ、そう、クリスマス・キャロルの幽霊のように主人公を(過去のつらい記憶へと)ガイドする幽霊の「機能」を果たす役割だけを敢えて負わせているのではないかとの疑念を抱かせた。そうなると、役者を見る目としては「この人、割を食っちゃったな」と、変に気を回した見方になってしまうんだよなぁ。

いやしかし、初見でこれだけクリアーに色んなこと考えさせてくれるプロダクション、素晴らしかったです。

2014年10月26日日曜日

烏丸ストロークロック 神ノ谷㐧二隧道

25/10/2014 ソワレ

東京初日。ジャケ買いならぬ、チラシ観劇。
アゴラの受付で、異様にアウェーでの緊張感みなぎる制作陣を拝見して、これがまた、無責任な観客としては期待感高まった。
そして、期待を超える面白さ。

こんなスタイルの芝居、観たことない。と思う。冒頭から、モノローグと会話、過去の記憶と現在の出来事、今を生きる登場人物と今は亡き人物が、切れ目なく、極く目の詰まった織物のように組み合わされて、互い違いに現れては消え、緊張を切らさずに世界が積み上げられていく。それも、順を追うのではなく、出来事と出来事の間の隙間は観客に好きに埋めさせながら、肝心なところはぐいっと引っ張って方向を過たせない。その緊張感が味わえただけでも、十分、観に来て良かった。

そして、スタイルとマッチした設定。この地方都市(しかも、駅前には商店街があって、スーパーが進出したり国道が走ったりする、中途半端に開けた地方都市)は、からっと明晰なスタイルでは描ききれないのだろう。烏丸ストロークロックの、全てを一度には説明しきらないスタイルと、何かを覆いながら日の当たる場所(あるいは蛍光灯で照らされている場所)を増やしていく、一方で、覆い隠すものは一所に固めて排除していく場所の設定とが絶妙にマッチして、舞台全体のトーンがビシッと決まっていた。

今後の展開を、経済×そうでない幸せ、みたいな二元論に落としていくのは勿体ない。悪意とか嫌悪とか罪悪感とか、そういう言葉で言い表せない、でもなんだか気持ちの悪いものに肉薄できる可能性がこの芝居からは感じられるのだ。

本当は、どんな風な稽古を通じてこんな芝居ができあがるのかとか、そもそもどんな風に芝居を立ち上げてるのかとか、いろいろ聞きたかったのだけれど、トークがそっちの方向に行かずに、むしろありきたりの「テーマ性」「社会性」に流れちゃったのが残念。いや、機会があれば、もしかすると題材が変わったところで、是非また拝見したい劇団です。

2014年10月25日土曜日

青年団 暗愚小傳

18/10/2014 マチネ

名作。やっぱり、平田オリザ戯曲の中で1、2を争うくらい好きな戯曲だし、1991年の改訂バージョン初演以来、全く色あせることなく、未だにみずみずしさを保って、あぁ、この芝居を再び、こんな素晴らしい役者陣で観ることが出来て、自分は本当に幸せだ、と心から思ったんだ。

役者陣、山内、松田の1991年来の2人はもちろん、当時と比べるとみんな上手だなーと。そして、「技量」だけでは語ることの出来ない「戯曲」の骨組み、設計図のようなものが、役者の技量によって、より生き生きと立ち上がっているのを感じたんだ。

たとえば、第4場、マイケル西田が笛を吹いて「難しいですね」という場面。僕は、このシーン、この台詞が、どのような経緯で生まれたかをよーく知っている。でもね、なんたることか、このシーンでこらえきれず涙出てきちゃったのだ。何故、あの日、あの場面、あの稽古場で、平田オリザが、この「笛」と「難しいですね」を拾い取って、戯曲に落とし込んだのか、それがどうやって「それを最初に口にした役者」のもとから離れて、「暗愚小傳」という戯曲のコンテクストの中で新たな生命を得て、今、吉祥寺シアターの舞台で、折原アキラの口から発せられて、で、1990年には思いもしなかったような豊かなコンテクストの厚みとニュアンスをもって蘇り、僕に涙を流させるのか。その23年の流れと積み重ねたるや・・・
役者の円熟と技量とに支えられて、「暗愚小傳」が新しいうねり・グルーブを手に入れていた。先日、木ノ下歌舞伎の「三人吉三」を観て、日本の芝居でも骨太なうねりのある物語が十分可能なんだということを思い知らされたのだけれど、「暗愚小傳」が、現代口語演劇110分のフォーマットを採りながら、30年のうねりを骨太に描き出していることに、今更ながらに気づいて恥じ入ってしまう。

現代口語演劇が、実は「100%リアル」なものではなくて「平田ワールド」のリアルを映しているということ、高村光太郎の30年が、実は「100%史実のリアル」ではないこと、でも、目の前に役者がいて言葉を発していることは100%リアルで、そうした要素を繋げているのは、実は観客席にいる僕らの想像力であること。今、改めて「暗愚小傳」を観て、1991年当時からそうしたうそんことリアルのリンクがここまで「あからさまでないように」でも「分かりやすく」提示されていたことを思い知る。これからも繰り返し、何度でも上演されてほしい。

大道寺梨乃 ソーシャルストリップ

25/10/2014 マチネ

楽しかった。追加公演、滑り込みで観に行けて、本当に良かった。
シンプルな構成で、力強いコンセプト。最後まで飽きないのは、大道寺梨乃のルックスもあるし、それ以上に、見せ方の技量を感じた。

まずはパフォーマー本人を曝しておいて、「モノ」を媒介にしながら彼女の「記憶」「過去」「社会との繋がり」を剥ぎ取っちゃおう、っていうコンセプトはシンプルで、ある意味ゴリゴリ迫ってきて、やり方を間違えると「痛タターーー」ってなってしまいそうなものだけれど、それを、客入れの空気作りから初まる柔らかなパッケージング(ラッピング?)で包み込んで、上手いこと最後まで持って行く。

僕はストリップを観たことはないのだけれど、ストリップで綺麗なのは、服を脱いだ後の身体の綺麗さもあるのだろうけれど、どちらかと言えば、おそらく、服を剥ぎ取っていく所作にあるんじゃないだろうか、ということを思っていて、だから、今日も70分間楽しく拝見したのは、脱いだ後の「大道寺梨乃の裸の自我」ではなくって、過去の「記憶」や「物語」を剥ぎ取ってヒラヒラさせるその所作なんだと思う。その所作だったり、モノにまつわる記憶だったり、ちょっとした回り道だったり、そういう夾雑物が、「どこまで本当なのかな」とか「どこまで曝しているのかな」という疑問符を生み、僕に想像の余地を与えてくれる。豊かな時空の誕生。

なんてことを考えてながら観ていたら、最後の最後に文字通りの「大道寺梨乃の裸」が出てきちゃったのだけれど、これはどちらかというと「それで安心できた」ということなのだと思う。服を脱がずとも自我をボロボロになるまで剥ぎ取られて(あるいは自ら曝しちゃって)見ちゃいられない事態に陥らず、「演劇作品」としてのフレームを嵌める効果を感じた。それは、「痛タターーー」とならないための見せ方の技量であり、パッケージングの妙である。はるかさん含むスタッフ陣も、登場の仕方、立ち居振る舞い、とっても大人で、安心して身を委ねていられるし、そういうところで絶対に観客を置いてけぼりにしない気配りが、快快の連中の真骨頂。正直「あぁ、こんなに気持ちよく見せてくれるなら、ぜーんぶでっち上げでもいいや。最後まで気持ちよーくだましてねー。」って思ってしまうのだ。

2014年10月22日水曜日

ハイバイ 霊感少女ヒドミ

18/10/2014 ソワレ

初日。再演でも、再々演でも、何度でも観たくなる作品。 岩井秀人は、演劇・テレビドラマ・小説・映像、どのメディアを選択しても「このメディアを使うことで、他のメディアでは実現できなかった"これ"ができちゃうんだ!だから使うんだ!」という必然性を感じさせてくれる。「生むと生まれる・・・」も「終電ご飯」もテレビドラマならでは、って思ったし、「ヒッキー」の小説も「あぁ、小説だからこそこういう展開に出来る」って思ったし、「ヒドミ」も、ただミシェルゴンドリーがやりたかったから、というところにとどまらない必然性とクオリティを感じる(実際、ヒドミの元ネタがゴンドリーだと岩井氏が書いていたのを読んで、僕もゴンドリーのDVD買って観てみたのだけれど、ここがパクリ、っていう箇所は結局分かんなかったし・・・すんません・・・)。

正直、前半から中盤の生身+映像の組み合わせは、「必然」だとは思わないし、むしろ「こんな使い方も面白いよねー」という感覚を楽しむ程度だと思う。ところが、サブローの回想シーンから、いきなりグワッと迫ってくるんだ。 今のヒドミとその傍らの男と、昔の自分とその彼女とを見るサブロー。そしてそれを観る僕。僕の記憶。何と残酷な、思うようにならない世界。ただし希望はある。どっかに一筋くらいはあるはず。でも、僕が観たその希望は喜びに満ちていない。ただただ切ない。

いや、でも、その切なさって、非モテかつ文字通り見た目の通りキモメンなサブローが、よせば良いのにヒドミにある意味横恋慕して、案の定振られて、で、自分が生き返れるチャンスは人に愛されるときだなんて信じ込んじゃって、「おまえ、ヒキガエルになった王子様気取りかよ!」って突っ込みたくなるんだけれど、そうやって、3年後の朝の76個目のコンクリートの塊の一瞬にチャンスをかける、って、それ、切ないって言って良いのか?身勝手にもほどがないか? いや、いいんです。切ないです。サブローと同じくらい非モテな僕が言うんだから良いんです。その僕が観ていて切なくなる分には放っておいてくれよ!って、言いたくなる。そういうことです。

3年後の朝の76個目のコンクリートの塊にチャンスをかけたって、報われる見込みはまずなくて、ないんだけれども妙にこだわってみたりして、というのも過去の幸せな一瞬がサブローの記憶に残っていて、でも、それはあくまで過去の話で、その記憶もいつかうすーくなって消えて行ってしまう。ような気がする。だからこそ敢えてそこにこだわってみる。一瞬に賭けて、待ってみる。元手は過去の幸せの記憶。そうだ。希望ってのは、幸せの記憶があってこそ成り立つものなのだ。

その、サブローの現在と、記憶と、未来と、観ている僕の現在と、記憶と、ありうべき未来がまぜこぜになって在るのが、舞台+投影+客席=ヘリコプターで、それって、映像なしでは成立しなかっただろうし、そこで呼び起こされた僕の幸せな記憶や切ない思いは、まさに、その一瞬にぱぁっと咲いて、劇場を出たらたちまちぼやーっと形を失って、こうやって無理矢理キーボードに向かわなきゃ、きっと雲散霧消してしまう類いのものなのだ。きっと。でも、そこで感じた切なさだけは、国道16号線の標識の残像とともに僕の記憶のどこかに残っていて、「ヒドミやるんだ」って聞くと、また観に行きたくなってしまう。そういうことなんだろうな、って思う。

2014年10月15日水曜日

小指の思い出

05/10/2014 マチネ

そもそも、遊眠社時代の野田戯曲を「遊眠社でないように」上演するのはすごく難しいというか、無理なんじゃないかなぁ、と、この30年くらい漠然と感じていて、まず、そこに挑んだ時点で、プロダクションの心意気や良し、ということではあった。 かくいう小生も遊眠社を見たのは1987年以降何回かだけだし、従って、「小指の思い出」は1、2度VHSで観たことしかなくて、「観劇中、物語を追うことになると勿体ないから」というせこい理由で、古本屋で戯曲買っちゃったのだが、最初の2、3ページでその豊かさと切れ味に圧倒された。若い時分は台詞回しのスピードと華やかな舞台に目が眩んで気がつかなかったが、実は「読み物としても」手応えずっしりの、素晴らしい戯曲だったのだ(今更気がついたか・・・)。 この素晴らしい戯曲に対して、今回のプロダクションでは演出・スタッフ・役者陣一歩も引かず、がっぷり四つに組んだ素晴らしい舞台となっていた。戯曲と演出スタイルの相性は必ずしも良くなかったかもしれないけれど、そこで生じた摩擦、ざらつきが芝居としての熱量と飛距離に繋がっていた。

まずは幕開け。唐さんから(もしかするとそのもっと以前、歌舞伎の頃から)遊眠社を経て綿々と続く日本のフィジカルシアターの伝統といえば、「幕が切って落とされるや否や」異界への入り口がさっと開いて、観客は否が応でも異界の中を引きずり回され、めくるめく妄想の高みへと引き揚げられたと思いきや幕が閉まって現実へと真っ逆さま、何がなにやら分からぬままに、「いやー、訳分かんなかったけど面白かったねー」ってな感想を呟いて家路につくのが常。一方、藤田芝居はむしろ異界との「きわ」に観客を置き去りにしながら、これでもかとばかりに記憶の痛みをぐりぐり擦り込むリフレインの手管、ふと気がつけば役者の向こうに清澄白河在住のおっちゃんおばちゃんが見えて、ああ、オレは異界に踏み込んでいたのだなぁと、ぶるっと震える算段。この「小指の思い出」も、地獄の番犬ケルベロス飴屋、いや、青柳いづみとの狛犬ペアが、がっつり異界の門番の役割を果たし、観客が異界ツアーに身を委ねることを決して許してくれない。30年前は上杉祥三が務めた異界のツアコンに挑む前髪クネオは異界のあっちとこっちとに両股かけて、一歩踏み外したらお払い箱になりかねないところをしっかり踏ん張り、異界に埋もれず観客の視点におもねず、最後まで自分の立ち位置見失わなかったのは天晴れ。こうして、幕を切って落とさずとも、世界は立ち上がる。幕を閉じずとも、芝居の記憶は擦り込まれる。

そして、芝居のペース。敢えてゆっくりと、遊眠社よりも、マームよりも更に速度を落として、じっくり進める。遊眠社式の速射砲のような(ある意味台詞の意味を消化する間もなく次に行ってしまうような)展開を採らなかった時点で、すでに元の戯曲とかなりの摩擦を生じている。この摩擦をしっかり受け止めて、失速しないように、芝居前半をダイナモのように繰り回していたのが、青柳・飴屋ペアに加えて山内健司、中島広隆、石井亮介の3人。舞台転換のペースも芝居のペース作りに一役買っていたなぁ、すげえなぁ、と思っていたのだけれど、待てよ、あの、「邪魔になっていなかった」音楽の貢献は、実はかなり大きかったのじゃないかと、ハタと思い当たる。どんな音楽かは朧気にすら覚えていないのに、芝居のペースだけはしっかりと身に染みこんでいて、うん、そう言われてみれば、今回のこの芝居、藤田演出の「音のオーケストレーション」としては「僕好みの音質」に仕上がっていたなぁ。

あれあれあれ、こんだけ書いて幕の開け方とペースの話だけ?テーマの話とかリフレインとか、どこに行っちゃったの?と自分でも思うのだが、いやいやいや、芝居小屋に客を呼び込むっていう企てのツボは、一定の時間と劇場の空間、その時空をしっかり支配してそれを観客に体験してもらうところにあるのだとすると、この芝居、最後まで、隅々まで、時空を支配しきっていたと思う。本当に充実した2時間。芝居を観るって、本当に愉しいなぁ。