2007年5月28日月曜日

ハイバイ おねがい放課後

27/05/2007 ソワレ

幸福な舞台である。
誰が幸福かといえば、岩井氏と志賀さんである。

自らのトラウマや生傷を舞台に載せるという岩井氏が、顔にマジックで皺を書き入れずに自分の妄想を嬉々として体現することのできる志賀さんを得たのであるからして、これが幸せでないわけが無い。

1年で3歳分年をとる大学生志賀ちゃん

という発想の時点で「勝った」と思って全く差し支えないけれども、それを一身に引き受けてもらえる幸せさよ。

観劇直後には思いつかなかったが、今朝になって、「何がこの芝居を愛されるものにしたのか」は、そこら辺にあるような気がしてきたのだ。

マドンナマチコちゃんが本当に可愛く書けているのにも感心したし、それを石橋亜希子がまた本当に可愛く演じていたし、佐々木役の星野秀介の肌のつやと志賀ちゃんさんの顔を並べて見ることの可笑しさも良い。
品川幸雄にモデルがいて、かつ、そのモデルに「あなたがモデルです」がきちんと断ってあるというのも驚きだったし。

おそらく、この芝居を「作・演出と主演男優の間のべたべたした幸せ感」で片付けるのはあまりにも乱暴に過ぎて、かつ、それが眼に入ったために見逃 したところが多々あると思うのだけれど、でも、僕が感じたのは、そしてこの芝居から目が離せなかったのは、そのべたべた感に理由があったのではないかと考 えています。

あ、そういえば、本日は、昼はヤマちゃん、夜はタケちゃんと、Novaのお二人の追っかけをしてしまった。40にもなってこんな人たちの追っかけとは、わしも仲々イキである。

桟敷童子 軍鶏307

27/05/2007 ソワレ

<この日記は、そもそも単身赴任中の小生が「もし嫁さんと一緒に観に行っていたら観終わった後にどう言っていただろうか」という趣旨でつけ ている、いわば、半分嫁さん宛ての私信みたいなもんだと思って読んでください。そこらへんはどうぞ斟酌してお読みください>

と、わざわざ前置きをして(とはいうものの、この言い回しはなかなか当たっていて、良い。また使おう)、書く。

アングラのうわべだけを借りた朝の連続テレビ小説ミュージカル with チキン・ランのプロット。

期せずして、唐さんや鄭さんや金守珍さんや内藤裕敬さんが如何に僕にとって「アングラ」であって、如何に自分の意識、「個」に拘った芝居を作り上げていて、それが普遍に繋がりえているか、そしてそれが、どんなに稀有なことであるかを思い知る機会ともなった。

最初から普遍ぶらずに、思いっきり自分の「個」のところから始めないと、普遍でも個でもない連続ドラマが出来上がってしまう。一生懸命さだけでは許されないだろう
(ま、自分が一生懸命か、というのはあるが、少なくとも、オレ、かなり一生懸命観てるよ。どの芝居も)。

自分的に、唯一笑えたのは
「胸を病んでいるな。抵抗力が弱っている」
「ゴホゴホ」
ちなみに、劇中咳き込んでいたのはこの1箇所だけである。

燐光群 放埓の人

27/05/2007 マチネ

白状してしまうと、今まで観た燐光群の芝居の中で、最も面白かったのだ。

沢野氏の著作を(坂手さんによれば99%)手直しせずに役者が読んでいく。
芝居というよりもリーディングの様に言葉が編まれていくのだけれど、構成と演出と役者とで1つの芝居になってしまった。
その編み上げ方の力強さと美しさに、思わず見入ってしまった。

特定の本とか作者とかを下敷きにした芝居って、大抵面白くないという印象があるのだけれど、そういう先入観も覆してしまった。

役柄が入れ替わる。ナレーターと役者が入れ替わる。時に複数の役者が一つの役を引き受ける。そんな中で、沢野氏の本の中のキャラクターが、坂手さ んに憑依し、その憑依された自分をこれまた役者に憑依させ、その憑依させている自分を自覚しながらちょんと突き放してみたり、観客がそれをどう観ているの かを試すかのようにはぐらかしを散りばめる。

最後まで飽きずに観たが、終わってみれば2時間20分。長かった。だが、堪能した。

唯一気にかかるのは、「自分は今後一切沢野氏の著作を読まないのではないか。何故なら、今日の芝居以上に面白くならない可能性が高いから」という心配である。

2007年5月27日日曜日

ジェットラグプロデュース バラ咲く我が家にようこそ。

26/05/2007 マチネ

シアターサンモールは、見事なまでのプロセニアム劇場なのであった。そして、客席の傾斜も穏やかで、さぞかし後ろの席は遠かろうと思わせる小屋である。

確か90年代前半にここで嫁さんと(おそらく結婚前に)「マシュマロ・ウェーブの「二次元劇団エジプト」を観てショックを受けた、はずだ。ちなみにそれには青年団の永井秀樹さんも客演していた。

とまあ、それ以来の久し振りのサンモールなのだが、なんだか女性客多い。誰を目当てで来ているのか?まさか夏目慎也ではあるまいが。とにもかくにも、気合の入った客が入った小屋は良い。上演中携帯でも鳴らそうものなら何が起こるかわからん。

舞台には緞帳が下がっていて、それは、プロセニアムだからおろしとかないと格好が付かないという演出の判断なのか、格好は付かないけどこれくらいはしないとやられっぱなしになってしまうという判断なのか。開演を待つ。

で、(中略)、終演。緞帳が降りる。

・演出、舞台、照明、プロの仕事である。さすがだ。
・帰り際、楽屋口で坂口芳貞さんが独りでタバコを喫っていた。
・山本雅之、NOVA効果なのか、客席が安心してみていた(笑っていた)感じ。コマーシャルで露出するのも悪くない。
・細かな演出のつけ方がさすがで、手先・足先、そういうところに目をやれば退屈することは無かった。
・「一番大きなところでの舞台空間のフレームの嵌め方」と「ひどく細かい眼のやり場」が並存する芝居。誰に何を見せるかの制約がかなり明らかな芝居の演出を引き受けたときに、「さて、どうでる?」という勝負を余儀なくされるのは果たして本意か?
・いや、実は、芝居に本意も不本意も無い、か?

この芝居は、誰に愛され、誰に愛でられるのか?
そんなことを考えて新宿駅に向かった次第です。

2007年5月21日月曜日

プリセタ ロス

20/05/2007 ソワレ

これはまた変な芝居を観てしまった。

というのも、この芝居が、
「どの登場人物もお互いのいうことを全く聞いていない」
ことによってドライブされていく様は、
「会話によって(明示的にせよ暗示されるにせよ)物語が紡がれていく」
芝居に慣れた僕にとっては、かなり気持ちの悪い進み方で、その、コミュニケーション不全から全てが成り立っていて、かつ、どこにも行き場の無い展 開、誰も何に対しても落とし前を決してつけない物語、なのに、細部のアンサンブルにさえも無頓着なそぶりを装う舞台が、なんと1時間40分観るに耐えてし まう、というのがまた驚きというか、不気味なんである。

特にうわっ、と思う役者もいないし(失礼!)、これはすごい、とうなるシーンも無い(これまた失礼!)。
でも、この、何だかぬらりひょんとした時空を最初から最後まで築き通してしまう力は、買う。

この、一見したところ力のある役者達が、「細かく作るんじゃなくて、エンターテイニングに仕上げるぜ」というので作った芝居が、実は何だかエンターテイニングというよりはへーんな出来上がりで、でも、へーんななりに観れてしまうということ。

マイルスが、「これからはダンスやるぜ」と頑張ったのにもかかわらずマイルスの音楽じゃとてもじゃないが踊れなくて、それでも70年代前半のマイルスは何だか良く分からないけど何回も聞いてしまう(Live EvilとかAgarthaとか)、まるでそんな感じだ。

もしかするとうまーく騙されているのかもしれない。いや、本当は面白いのかもしれない。いやいや、実際のところは面白くないのかもしれない。

今日のところは、少なくとも、楽しんだ。またも、Guilty Pleasure という言葉で誤魔化さざるを得ない状況である。

シャトナー研 感じわる大陸

20/05/2007 マチネ

当日観に行くはずだった桟敷童子が役者の怪我で急遽休演とのこと。時間をもてあまし新宿に出かけてみればシャトナー研。
チラシを見れば「台詞の9割が日替わり」「緻密なプロット」...
うーんと、リスクとっちゃえ。当日券で入った。

最前列ほぼ中央である。うむ。トップスの芝居にしては客の入りがちょっとさびしい...ということは、期待できるかも。

結果。えー、役者や他のお客様には迷惑だったかもしれないが、かなり大声で笑わせていただきました。これは、可笑しかった。

緻密なプロットだなんて言っちゃって、これ、シーンを決めて、やること決めて、9人の役者で順番決めて、サインは一つ、「とにかく面白くしろ」なんじゃないの?「ホームラン打て」のサインと同じである。

これは、「小劇場界の大喜利野郎ども」といっても過言ではない。バカ正直にタイムキーパーまでつけちゃって、いやはや、これを緻密だなんていったら先週観たjorroの面々に申し訳が立たん。

が、大喜利なので、その場その場の反応が勝負であるのには間違いなくて、予想外の突っ込みやボケやアクシデントが、これでもかとばかりに放たれるわけで、これは、もう、笑わなきゃやってられん。というより、限りなく素に近くないか?

タイムがキープできていれば1時間50分とのこと。この日の芝居は2時間15分。いい。許す。可笑しかったから。

紅一点小島愛は、大喜利にはちと若すぎやしないかい?時間があればもっといじる余地があったのに、オヤジ俳優どもはフラスト溜まったかも。

ラストの各人独台詞太陽にほえろシーンは、興醒め。むしろ、舞台奥で必死に紐を解いている中田顕史郎が作業を終えて額の汗をふーっと拭く姿の方が よほどか面白い。そして、爪切り族に爪を切られた人。最後の決めは、「残された爪を振り絞って黒板引っかきポーズ、ギィーッ」で逝って欲しかった。これは 余計なお世話だが。まぁ、その役者に限らず、余裕の無い独台詞は見苦しい、ということだ。

ともあれ、笑った。こういうのを、Guilty Pleasure と呼んで愛でるのも、たまには悪くないと思った次第です。

2007年5月20日日曜日

じゅんじゅんScience Science Fiction

19/05/2007 マチネ

申し訳ないが、退屈しました。というか、乗り損ねた、という感じが正しいのか。
ソロのパフォーマンス。
ダンスと呼ぶには、身体の動きだけを見ていても面白くない(何故なら身体の動きから物語を読み取ることを要請しているように思われたので)。
マイムと呼ぶには、僕には分かりにく過ぎる(物語にノルことが難しかった)。

で、なぜ乗れなかったかといえば、かなり明快で、
①下手端の席に座っていたが、前半、「柱の向こうの」舞台下手端で何かやっていたらしい。それが全く見えなかった。後半も、重力が左右に働いているようなことをやっていた「らしい」。全く見えなかった。見えないものには引き込まれない。
②かかっている音楽が陳腐で退屈。かつ、陳腐な物語を想起させるので、パフォーマンスが割を食う。

パフォーマーの名誉のために言えば、面白いといっている知人も居たのだが、だからこそ、「乗れていたら」面白かったかも、という悔いは残る。

ただ、思ったのは、上でも言ったが、客の眼を引く工夫、というところで、がーまるちょばが懐かしくなったよ。彼らだったら、「本の手渡し」パフォーマンスももっとエンターテイニングにかつ美しくキレのある動きで見せてくれただろうという気がした。
で、ダンスを強調するなら、変なストーリーは邪魔になる。

何といっても、「その場」で勝負しなけりゃならんので、置いていかれちゃった客は寂しいよな。

新国立劇場 下周村

19/05/2007 ソワレ

失敗だな、こりゃ。何だか訳のわかんないものに仕上がっちまって、喩えて言うなら焼きそばパンの向こうを張ったうどんパン、ラーメンパン、手打ちそばサンド、豚まんの向こうを張った串カツまん、という感じか。

劇場を出た瞬間、変な芝居だ、というフレーズがこびりついて離れなくなったが、一晩たって頭冷やしてみると、やっぱり変な芝居かつ失敗だ。

篠塚さんはいつ見ても素晴らしくて、特に今回は2人の演出家がきっとそれぞれ全然違うことを要求して、日本人の役者は苦しんでいたであろう中できちんとしていたのは、本当に尊敬に値する。
「来るかな?」の待ち方は「これが中国式の待ち方か?」という感じで興味深かったし、アナーキーな書割も面白いといえば面白い。
中国人役者が、どうしても台詞を言う前に面を切って間をとってしまうのは、中国はみんなそうなのか、この演出家がそうなのか、平田も一緒にそうしたのか、なぞが残る。
まぁ、色々考え出すと、突っ込むネタもどうしても解決の付かない謎もうじゃうじゃ沸いてきて、それを面白いと呼ぶなら面白かったのではあるが。

でも、本当に気になったのは、日本人の大学生が、両親が帰った後、面をきって、間をとって、表情を変えて、涙を拭く。その一連の動きだ。オリザよ、なぜそれを演出として許した?それは、何かに対する諦めなのか?一体何を諦めてそれを許したのか?
少なくとも僕は許したくない。裏にどんな苦労があったとしてもだ。

2007年5月13日日曜日

jorro トライアウト

12/05/2007 マチネ

悪くない。
と書くと、きっと、作・演出は気を悪くしてしまうと思うのだ。

まずは当日パンフのご挨拶から引用:
「台本にセリフはありません」「基本的に言葉はアドリブですが間違った言葉を選んでしまうと致命的」「私達が手段にしているリアリズムは現実の劣化コピーではなく」

これは、客入れ曲のグールドはゴールドバーグ変奏曲を聴きながら客席で読むと、かなりドキドキする。

幕が開くといきなり同時並行の会話がスタート。ポツドールの恋の渦もこうだったかな、あれ、出てる役者もポツドールやsmartballで観た顔だね、って、最初から分かってろよ、と自分で突っ込みを入れてしまうが、みなさん、達者です。
安心して観ていられる。
携帯に着信するとか、人の出入りとか、「プロットだけ決めてる」っていっても、段取りとキューはかなりきっちり作ってあるみたいだし。



そうやって、「きっちり作った芝居を」「安心して」観てしまうことは、実は、作・演出の意図ではないのではないか?
もしかすると、携帯の鳴るタイミングとかではけさえもアドリブに任せてるのか?だとするとかなりドキドキだけど。

と思って観ているうちに、芝居は終わった。1時間45分。悪くない。達者な役者。仄めかされる物語。終わり方(話の落とし方)も良い。

でも、正直な感想はこうだ。
「こんなにきっちり作り込むんだったら、台詞も決めちゃって良かったんじゃないの?」
台詞を決めていないがためのエクストラの緊張感は、残念だが僕は感じられなかった。
むしろ、「あぁ、ここ、ちょっと間を埋めるためにだけ喋ってない?」というのがちょこちょこあって、それが残念であった。

まぁ、僕がそうとしか感じられないのは僕の芝居に対する捉え方が狭いからで、本当は、
A. 台詞が決まっているがト書きが少ない芝居
B. ト書きがきっちりしているが台詞が書いてない芝居
この2つって、等価なんだろう。演出・役者に任すという意味では。僕の視点からだと、
「その場のアドリブの緊張感」よりも
「決められた台詞でも、毎回初めてのように演技する緊張感」
の方が、「好きだ」という、好悪の問題でしかなかろう。
それは、恰も、ジャズのコンボを聴きに行くようなもので、その刺激がとっても魅力的なのは分かる。
ただ、ジャズのアドリブで1音外しても「致命的」ではなくて、強引に正しい音にしちゃってもいいのだけれど、芝居では同じことは出来ないでしょ。ちょっと。
ということは、だ。
役者も、「安全策をとらざるを得ない」んじゃないかい?

それが、僕の思った「安心してみてられた」のに繋がっていたとすると、僕の感想「悪くない」は、作・演出の気に触るはずだ。それは申し訳ない。

が、勝手を言えば、こんなにきっちり作れる技量があるのだから、書いた台詞でもっとギリギリのことをして勝負してほしい。正直な気持ちです。

2007年5月12日土曜日

ナイロン100℃ イヌは鎖につなぐべからず

11/05/2007 ソワレ

休憩を挟んで3時間。長い。が、気にならずに観れてしまった。それ自体が、まず、素晴らしい。

岸田國士戯曲を切って貼って繋いで一つにするという趣向で、前半はその繋ぎ目も分かり易く、かつ観やすく、2時間弱にまとめてみせる手管はそれはそれで鮮やかながら、それだけでは
「現代人にご紹介、入門岸田戯曲アンソロジー」
で終わりだろう。

休憩後の後半の、それまでの登場人物総ざらえ、役柄をズラしながらの大団円へと繋ぐ手管にやられた。大変面白い。

それにしても、3時間を超える芝居を作って、しかも、もとは別にあったものを切り貼りしてトーンを合わせてかつ「違うもの」を創ってしまうのだから、ケラさんという人は大変に体力がある人なのに違いない
(ま、そこは十分に分かったので、体力の無い人にも大丈夫なように、もっと短いものをお願いします!)。

1点難癖をつけるとすれば、松永令子嬢のカクカク動く首と余計な動きか。台詞言うのに回り舞台を半周走って行く間合いを取るかな?彼女を観に来た方々には面白いのかもしれないが、芝居のテンポは崩れてたと思う。彼女を見せにかかると。

総じて、構成・演出の独り勝ち。素材としての戯曲、役者陣、決して悪くは無いけれど、やはり演出の妙が引き立つ結果となった。

2007年5月7日月曜日

唐組 行商人ネモ

06/05/2007

最近、娘がテレビで見ていたく感動したのが、スイスにある超大型加速器CERNで、なんと直径21キロの円周を沿って原子を超高速で走らせ、それらが正面衝突するところに4次元を超えた次元が現出する、という目論見だそうだ。

かたや日本では、直径20mのテントの中に据え付けられた直径1.5mの乾燥機を人力のスピードで回転させ、その力でもって、一体何次元だか分からないが少なくとも割り切れる数の次元ではないことが確かな世界を、唐組が現出させて見せた。

テントまで来てまでそのポジションに拘るかという如くに下手最前列に座ってしまったが(決して意図して下手に向かったわけではない)、やはり桟敷 最前列かぶりつきは何とも心地よくて、雨降りしきる外から運ばれて靴底に付着した泥やたくましい裸足の足指や鳥山氏のちょっぴりたぽっとしてきた腹や時折 真上から降り注ぐ唾の飛沫を、誰憚ることなく満喫したわけである。

そうやって、いつにもまして近いところで唐的物語の世界に付いて行っていたつもりだったのだが。
薄水色から濃紺へと移り変わる縫い合わされたハンカチの上を転がったさくらんぼが僕の膝の上に落ちた瞬間、自分がその舞台の上からとんでもなく遠いところにいたことに気がついて、一瞬身がすくんだ。

どんなに舞台に近いところで観ていたつもりでも、唐組の想像力のスピードには全く付いて行っていなかったのである。

異界へと通じる裂け目が予期せぬところに開いた瞬間、そのチャンスを掴むか否か。思わず身をすくめた自分には、如何にそこでそのさくらんぼをほお ばるあるいは握りつぶすことが芝居の観客としてのルール違反であることが理解されていたとしても、所詮チャンスを掴む気概も資格も備わっていなかったとい うことだ。

またしても、唐の想像力に置いてけぼりを食らった自分を自覚せざるを得ない結果に終わってしまった。

2007年5月6日日曜日

ヨーロッパ企画 冬のユリゲラー

05/05/2007 ソワレ

「俺は、本当に、狭い意味の芝居が観たいんだなぁ」
と、つくづく考えた。
あるいは、
「しまったぁ、芝居でないものを観に来てしまったぁ!」
と言って自分を正当化することも出来ないでもないだろうが、それはよす。

芝居としては楽しめず、さりとて最後まで一度も笑えず、心底、周囲からの疎外感を感じながら、終わってしまった。

テレビのセンスに近いのだろうか?「観客からすれば与えてくれるのを待っていれば良い気楽なショー」という意味で。皆さん良く笑い、良く反応していたし。

天気予報以外にテレビをほとんど観ない僕にとっては、スズナリにいるにも関わらず「情報が飛んでこない、何も見えない」のと同じ状態で、つまらない芝居を観ているときにこみ上げる怒りさえも湧き出さない。

そうか、みんな、こういうのが好きで、楽しいのか。そうなのか。
さびしい気持ちでいっぱいのまま家路についたことである。

でも、鉄割アルバトロスケットでは爆笑できたのになぁ。やっぱり、「身を乗り出して」「期待して」見すぎなのかなぁ?

青年団 東京ノート

05/05/2007 マチネ

僕は、石川淳の諸国き人伝の冒頭、小林如泥の章を読むと、必ず泣いてしまう。その文章の美しさに思わず涙が出てきてしまうのである。

東京ノートの冒頭も、涙が出る。小林・能島・松田・山村のアンサンブルの美しさに、泣いてしまう。もしかすると、繰り返しになるが、平田オリザのコンポジションの美しさかもしれない。
日本語の美しさを否定してかかる男の芝居を観て、そのコンポジションの美しさに涙が出るとは、すっかり、してやられているわけだが、涙が出てしまうものはしょうがない。

もちろん、芝居が進んでいる間、ずっと涙が出続けるわけでもないし、だからといって中盤以降の芝居がたるいというわけでは全く無いのだけれど。それはきっと、何度観ても、いくら、方法や展開を分かっていても、やっぱり観るたびにびっくりしてしまう、ということなんだろう。

何度観ても、初めて観るかのように新鮮な芝居。観客冥利に尽きる。

2007年5月5日土曜日

青年団若手自主公演 UNIT

04/05/2007 ソワレ

繰り返しになってしまうけれども、僕は「カルトもの」とか「ギリギリ状況集団もの」とか、余り好きじゃない。設定を見せられた瞬間に、ラストに近 づいたところでの集団の綻びや個と集団の軋轢の中での絶叫個人技がワンサカ出てきそうな気配がしてしまって、そっちの方にドキドキしてしまうのだ(もちろ ん悪い意味で)。

入場した途端に、新興宗教の臭いプンプンな設定・舞台で、これは、まさに、ドキドキした。

が、最後まで、絶叫個人技を押さえ込みつつ、集団の綻びチラリ作戦も(ほとんど)無く、見せ切ってしまう。幕前の予想を良い方に裏切る良い芝居である。

滝沢さんの、「集団にとっての外部の人」に加えて「実はこいつ、外の世間でも外部でしょう」という人の破壊力。その顛末を、(前回の芝居のよう に)暴力で解決するでなく、それが「内部への物理的でない暴力の形を取ったやつあたりと組織の自己崩壊」に昇華するわけでなく、全てのフラストレーション が不発するサマが、何とも心地よい。

とすると、その不発は、何もカルト教団でなくても良かったのでは、というのが当然にでてくる疑問だが、演出氏はどうも真正面からカルト教団にぶち当たったようだ。そのナイーブさが、今回は吉と出た。

この、ナイーブに核心に踏み込んでいかんとする態度を保ちつつ、もっとずるく、今度はそこに踏み込む自分に興味をズラしながら、「ドリフ」をやるのならそれはそれで一層興味深い。
ホント、ここまで出来るなら、僕の好みとしては、カルトとかやって欲しくないような。ネタはそこここに転がって、凝らした眼に対してだけ裂け目をさらしている。西村企画がそこを捉える眼を持っていることを今回の芝居は示した。次は眼のやり場がテーマです。

2007年5月1日火曜日

城山羊の会 若い夫のすてきな微笑み

30/04/2007 マチネ

冒頭、フフフ、と始まって、あぁ、岩松さんの町内劇やお父さんシリーズみたいだ、と思う。
(古くてすいません。月光のつつしみ以来岩松戯曲の芝居を観てないので)
それで、芝居にはスッと入っていけたのだけれど。

芝居が終わってみると、一体何だったのだろう、という、腑に落ちなさが残った。何故だろう。

① シーンが変わるたびに、時空に対する集中が切れるから。役者が遠くなったり、遠くにバーカウンターが出来たり、そのたびに、折角それまで積み上がっていた場の空気・匂いが、消されてしまう気がして、勿体無かった。
せめて、暗転で時間を飛ばしても良いので(つまり、一幕物に拘らなくてもよいから)、同じシーンに固定して欲しかった。

② 観客の視点と作者の視点、という意味で、主役・脇役の区別がつきすぎかな。深浦さん・初音さん・大沢さん、みな華のある役者なんだけれど、作者の視点がそこに固定されると、舞台を見渡す観客からはちとつらい。
もちろん、観客が主役に移入して成立する舞台も数多くあるとは思うが、岩松型の芝居にそれは無いのではないか。
もっと、焦点が複数ある芝居を作る技量は十分にあるのに、なぜそれをしなかったのか?腑に落ちない。

③ 台詞がテレビっぽいから?これは、僕自身天気予報以外にテレビを観ないだけに、説得力の無い理由だな。

でも、本当に、何でこんなに上手なのに、こんなにピンとこないのか。不思議である。愛される芝居があるのと同様、愛されない芝居もあるのか?本当に不思議だ。

東京乾電池 授業 柄本明バージョン

30/04/2007 ソワレ

今回は柄本明さんが教授の役である。
こころなしかベンガルバージョンより混んでいた。

生徒役の方の脚が、何だかリカちゃん人形みたいだったな、ということ以外、実は、あんまり取り立てて言いたいことは無い。

29日のベンガルバージョンのときもそうだったが、実は、ちょっとクサいけれども、こんなに素直に芝居を楽しめる機会はそうそうない。
役者も余計な力一切入らないし、観てる側に余計な力を要求しない。要求されるのは、ただ、集中して観て、楽しむことだけ。
一挙手一投足を観て、味わう。それ以外、なーんもなし。
次の展開にドキドキワクワクとか、世界の状況に真正面から向き合うとか、感動を有難うとか、そういうものは全部排除。強いて言えば、「次に何をするのか」「次に舞台で何が起こるのか」という極めて微分された興味だけが積み重なった幸せな1時間。

世界と向き合いたくば、そういう、ひたすら個体に近いところの自分に興味を持ち、近いところの他人に興味を持つところから向き合い始めたらよい。 一足飛びに「異文化」「戦争」「暴力」と向き合うったって、土台ムリがあるよね。と、日経の野田秀樹インタビューを読んで思った次第です。