2007年2月26日月曜日

SKグループ B計画

25/02/2007 ソワレ

何だか最近めっきり歳をくってしまって、アゴラに入っても、あぁ、アゴラも築20年超か、いつまで今の形で続くのだろう、万が一建替えになったら、そのとき俺は生きてるんだろうか、とか、そういうことを考えてしまう。
入場時の「頭上お気をつけください」を聞いたり、下手の換気扇の蓋とか、三階ギャラリーの手すりとか見てると何だかおセンチな気分になってしまう。

で、そんなアゴラを「ホームグラウンドにしたい」というSKグループは札幌からやってきた。
巧拙でいえば明らかに拙。空間の使い方もお世辞にも上手くないし、設定・構成・演出、色々とアラを探せばキリがない。

が、劇場に入った時点で既におセンチモードに入っていた僕は、IQ150とか自在社とか、弘前劇場とか、そんなことを考えていたのである。SKGの方、集中して観てなくてすみません。

あぁ、ほんと、としとった。SKグループの皆さん、是非どんどん東京に来てください。東京のいい芝居も沢山見てください。

庭劇団ペニノ 笑顔の砦

25/02/2007 ソワレ

<本稿、ネタバレ三段活用>
ここはまだネタバレなし。

恥ずかしながら、観ていて、激しく揺さぶられた。
涙は出なかったけれど、ヤラレタ。びっくりした。

色々端折っていうと、
・マメ山田に気をつけろ。背はちっちゃいが色物役者じゃない。心して掛かるべし。
・久保井氏、唐組では青年なのにここではすっかりオヤジ兄貴分。(勿論とてもかっこよい)。
・五十嵐操、カガヤく。
・もちろん、他の役者も、よし。

序盤、これぞオフ・ビート、という紋切り型が似合うペースでのたのたと進行。
が、一気に「裂け目」がたち現れて、それが、あからさまに「ウソぴょーん」と後景に引いたようなフリをしてまたガーッと裂ける。どこで「裂け目」を観たかは、この下の行から、

とにかく、です。都合のつく方は是非観てください。良い芝居です。断言する。

<ネタバレ一の段>

介護士が隣の部屋に行っているのを、耳を壁に押し付けて聞くキク。その表情もそうだが、むしろ、火鉢の灰に突き刺した火掻棒の動きに、驚く。その 火掻棒の先に、日々の無表情な暮らしに隠れた健康な希望やら呆けた情欲やらいくら歳月を重ねても消えることの無い業火がのぞき見える。
そしてタネ火となって「一旦」静まる。
このシーンは当面忘れられないだろう。

僕にとってみると、このシーンが全てで、ラストに近づいたところで出てくる次のシーンは、いわば、付け足しである。付け足しと呼ぶには余りにも重いけれど。

<ネタバレ二の段>

なので、介護士がいきなり服を脱いじゃうのも、驚きはしたけれど、実は、キクの火鉢の熱が抜けきらずにタキコのタネ火に燃え移っちゃったわけで。でも、一切説明なし、後始末なし。落とし前なし。これぞ芝居の醍醐味。演技も演出も素晴らしい。

で、伊勢海老ぐちゃぐちゃのシーンも、それは、それで、重いけれど、何だか、えー、体育の時間に突然すごい音を立ててトレパンの股が裂けた、それ を火鉢のシーンだとすると、伊勢海老のシーンは、慌ててトレパン押さえて教室に戻ろうとすると、やっぱり無理が利かずトレパンが足首まで裂けてしまって、 それを踏んで自分でひっくりこけたくらいのショック、という、要は、インパクトはかなりでかいけれど「続き」感あり、という感じでした。

笑顔の砦を観てからこの日記読んで、「こいつ、ちっともわかっとらん」とおっしゃる方いたら、多分そっちの方が当たっているだろうと思います。
僕は壁耳火鉢のシーンですっかりやられてしまって、あとは本当にメロメロでしたから。

それにしても、弘劇にペニノ、へビーな一日だった。幸せだ。

弘前劇場 真冬の同窓会

25/02/2007 マチネ
<本稿、途中から大いにネタバレあり>

長谷川さんの新作、福士さん筆頭にした弘劇役者陣。悪い芝居になるわけが無い。なので、良いところ気に食わないところ、正直に書く。読む順番によって失礼になるかもしれないが、結論は「面白い芝居だった」ので、我慢して読んでください。

まず、冒頭の一聴してダサいモノローグ、それも録音もの、に驚く。こんな始まり方、ありかい?
かつ、下手に座っていると客席側の椅子の背で役者が見えない。正面の観客に気を配るからか、椅子の背が下手に来るように、不自然に横置きする。ますます下手からは見えない。

と、まあ、そんなことを忘れさせるテンポでそれ以降芝居が展開。役者陣、良し。さて、後半、どう風呂敷を畳むのかな、と思っていると、<ここからネタバレ>以降に書いたような展開になって、驚く。

それは最後に読んで頂くとして、中盤に福士さんが見せる表情に、「裂け目」を感じてハッとしたのだが、それは、ラストに向けたヒントなのか?そう いうヒントは、とかく弘劇にありがちな、理に落ちる一歩手前の台詞の中や、冒頭のモノローグとラストの、茶の香りで劇のフレームを作るところにも隠れてい るのかもしれないけれど。

終わってから、「ヒント探しに」と、思わず上演台本を買ってしまいそうになったが、やめた。戯曲の解析は演劇評論家に任せておこう。今日は、お客 さんとして「いろいろ分かんなかったけど、面白い、かつ、「裂け目」を感じることの出来るいい芝居だった」と言って帰ることにする。

英語の台詞は、でも、ちょっと苦しかったな。本当にネイティブに近い人を使うか、それとも、インチキで英語使ってるのかそうでないのか最後まで分からない、という風にしないと、今回の使い方では、ちょっと、ね。

<ここからネタバレです>

何と、福士さんと冒頭モノローグの女性、その2人を除いて皆さん死者ですと。うーむ。
一体、彼らはいつ死んだのか。死者の時間は、どこでどう止まって、今はどう流れているのか、分からない。持ってる携帯は最新式みたいだし。
それは、死者には死者なりの時間が流れているということなのか?なぜ突然帰ってしまうのか?カラータイマーがあるのか?
それとも、
生者2人は毎年同じ日に会っているそうだが、そこでは毎年同じことが繰り返されるのか?それとも毎年ちょっとずつ違うのか?
先生が「もう会えないかもしれない」と言うのは、それは、今は成仏してないということなのか?
それにしても何故あの2人なのか?

そこら辺のヒント、きっと、戯曲を読み返すとちりばめられてるんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか?
ヒントすらないとすると、ちょっとオープンにし過ぎてる気もするし。誰か教えてください。

2007年2月25日日曜日

アトミック・サバイバー ワーニャの子供たち

24/02/2007 マチネ

正直に言えば、失敗している。

「事実を伝える」ためであれば芝居にする必要は無い。
本の内容を伝えるためなら本を紹介すれば良い。
このパフォーマンスをムリヤリ演劇だと言い張る前に、「これは演劇ではない」と開き直った方が正解だ。

冒頭のモノローグで、各役者の出自が凄く明らかになったのは面白かった。
福田氏、後から読んだらチェルフィッチュにも参加したことある良し。道理で。面白いし、身体の動きも意識が行き届いている。でも、時々台詞滑ってなかったか?
永井氏。良し。さすがです。でも、小生上手最前列に陣取っていたところ、自分の2メートル先でモノローグには参った。目が合わないように始終目を 伏せて聴く。すると、何と永井氏、サラリーマンのモノローグなのに舞台屋の雪駄を履いている。きっと足底は自転車のチューブに違いない。あぁ、オレは一体 何を観ているのか?
野村氏。途端に新劇。達者な新劇。
谷川氏。新劇プラス、といった感じか?

後は省略。
「原発ジプシー」だけは読んでみようかな。

2007年2月22日木曜日

ク・ナウカ 奥州安達原

21/02/2007 ソワレ

当面活動休止なんだそうである。週末から千秋楽にかけて予約がいっぱいで、やむを得ず平日ソワレにお邪魔する。
駒小で寝転んで観れた冥風過劇団とはエライ違いである。

文化学園の体育館を使った特設ステージ。僕は最後列の席で、ああ、この日もひょっとすると入れなかったのだなぁ、チケット売れているんだなぁ、と納得。
舞台、大きな三角のステージは何となく駒場小劇場のデカ平台を思い起こさせる。舞台客席を囲む白い糸で編んだバリアの向こうに、バスケットボール のゴールが見える。この、開いたような閉じたような空間は良い。客席もフットボールスタジアムのように競りあがっていて、見やすい。

で、奥州安達原だが、これが、面白かった。冥風(19歳ながらにモロ訳が分からず拒絶してしまった)→ミヤギサトシショー(これもちょっと「色物」な先入観をぬぐえずその後ご無沙汰)→ク・ナウカ(今回初めて観る)、と来て、
あぁ、こんなに自身と余裕を持った、王道のパフォーマンスを見せ付けるとは、と驚いた。

当日パンフにもあったが、物語は大変入り組んでいて、かつ岩手の台詞は標準語で無いので、何いってるかわからん。
が、ムーバーはそんなこと構わず動くので、それを観ていれば面白く観れる。
要は、物語を追おうとしても土台無理なので、瞬間瞬間の役者の動きを追わないと、あるいは、語り手の抑揚をよーく聴かないと、途端に眠くなってしまうということなのだ。
こういう、教養背景ラッダイトのような振舞いは良くないかもしれないが、僕は良くない観客なのだから、と開き直って1時間半。満喫した。

美加理さんの動きにも、他の役者が静止しているところにも、大根芝居には無い意図がきちんと行き渡っているところが安心して観れる。
そして、あれほどダイナミックに物語が進んでいるのに、そして音楽も声のオーケストレーションも入るのに、総じて、時間が静かにうねっていく。このうねり感も心地よい。

これまで観てなかったのが改めて後悔されるが、次はやっぱり10年後なのかも。

2007年2月20日火曜日

Co. 美しい雪 Garden Agora 07

2月18日ソワレ。
土曜日、ビデオも観に行ったのだが、出だしあんまり面白くなかったので、20分で出た。従って、この日も期待せず(すまぬ)。

が、なかなかどうして、面白い。
3人のインタビュイーは、一体役者なのか素なのか。
素でないことは確かで、インタビューの流れには、明らかに、反復して稽古を積んだ痕跡が認められる。
けれども、インタビュイーの言いよどみ、マイクの持ち方、視線のそらし方、等々、「意識をした動きで無いもの」も多数判別がつく。
さて、或る程度演技のできるように躾けられた素人なのか、身体の動きを意識できない役者なのか、一体?

→公演後にチラシを見たら、「科学者や数学者の卵、歴史学専攻の大学生etc.」とあった。何だか納得である。
1990年ごろの東大教養学部、という感じの人も中にいらしたので。

インタビューを「これは素か、演技か」と考え込んでしまう僕がいけない観客なのかもしれないけれど、

役者: 他人を演じる。反復稽古。でも初めてのように演じる。
本人(素): 自分。初めて。演じようもなく初めて。
本人(今回): 自分。反復稽古。

で、この最後のヤツを、初めてのように演じたいのか、そうでないように流したいのか、一体、どちらなのか?実は、それを自覚的に行っているのかいないのか?

お茶を出し始めたり、河村氏本人が喋り始めたりすると、実は、自覚的でないような気もしてくる。

あれ?でも、あの、河村氏のひじをさする仕草、あれを実は誰かが演出つけて毎回同じようにやっていたとすると、それは凄いぞ。それとも、そうやってオレを混乱させるのがネライだったのか?疑問だ。とても疑問だ。
東大教養学部だし。油断ならないぞ。

これは、解けないほうが却って幸せな疑問だろう。きっと。
よってアフタートークはばっくれて、帰った。

2007年2月19日月曜日

青年団 ソウル市民昭和望郷編

18/02/2008マチネ

キラリ☆ふじみマルチホールには初めてお邪魔した。
ふじみ野の駅からバスで15分ほど。遠い。
空が広い。

上手最前列から舞台の方を向くと、出入り口を通して、向こうに池が見える。客席から自然な姿勢で池が見える劇場、というのも実は初めて。それはそれとして。

客入れ中、渡部香奈が下手から出てきて、上手にはけるだけで、面白い。役者の身体と意識の所在に興味を抱かせるのが非常に上手な芝居である。

この芝居、去年から数えて3度目だが、本当に何度観ても良い。
何度観ても発見があるのが面白い。でも、そのためには何度目であっても一生懸命見なきゃならない。そうするとそれに応えてくれる。素晴らしいオーケストレーションである。

かなり役者にストレスのかかる芝居であるにもかかわらず、何度観ても、「観客に見えない部分」が大変多く残されている。はず。
演じている役者にとっても、自分のしてることが観客に見えているか、自分の台詞が観客に聞こえているか、それは、実は、余り意味のないことで、そういったヒミツを無数に織り込んだ空間が、とても贅沢に感じられる。

とても幸せな芝居。帰り道横田君にあって、駅までクルマで送ってもらいました。よこっち有難う。君と話が出来たのもちょっと幸せだった。

あひるなんちゃら UFOcm

ダラダラ駄弁芝居1時間10分、とチラシにあって、それに魅かれて王子まで出かけたわけだが、その看板にほぼ偽りなし。

例えて言うなら、がんばれタブチくんのヤスダのヘロダマのような芝居だった。
ヤスダのボールは、「打たないでください打たないでください・・・」とお願いしながらへろへろと打者に向かって飛んでくるのだが、この芝居は、
「引かないでください引かないでくださいでもマジでとるのはやめてねでも引かないでくださいでもマジじゃありません」
と観客にお願いしながら、ヘラヘラと進む。

でも、その割には、時間を区切って1日飛んだり、1年飛んだり、100年飛んだりするんだよね。それでは、お願いされてもかっ飛ばしたくなるかも。

このテのへろダマ芝居そのものを否定する気は全く無くて、どちらかといえば剛球一直線のクサい芝居よりは余程可能性がある気もする。が、工夫の仕方を間違えると痛打を食らう。

少なくとも、初球、幕前の舞台上からのアナウンスは、抜ききれずに打ちごろに力の入ったタマがど真ん中に入ってホームラン打たれるパターンだった。

2007年2月17日土曜日

ちくは ダンス・パタン・ランゲージ

面白かった。

① アゴラの内壁を白いビニールの膜で覆って、ジッパーで蓋をする。その中に観客は座る。あとからパフォーマー入ってくる。
こんな使い方もあるんだな、と、まず、面白い。
② 色々あったが、何と言っても「切り餅大王(女性ですが、『切り餅女王』ではインパクトに欠けるので敢えて『大王』と呼びます)」が面白い。直方体の見せる表情が
③ そして、最後には、その切り餅を包む大きな切り餅「メタ切り餅」がプシューと萎んで終わり。

いやー、面白かった。といっても、本当に、子供が見て「おもちろかった」というのと同じくらいのレベルなんですが。飽きなかった。

役者が色んなところにいて、観客の意識を分散させることはかなり意識的に行われている。それも、観客に空間全体を意識させるという意味で、効果を挙げている。
ビニールの膜を引っかく音や衣擦れの音は非常に意識されていて、それがまた面白い。それも、空間を「局部的に」満たすものとしての「音」を意識するきっかけになる。
音楽も、黒ガムぺりっの音やハンガーのきしむ音のその場サンプリング、フィードバック、ベルのハウリング、など、飽きさせない。たまにパフォーマーでなくて音楽の人を見てしまう。

という訳で、テクニカルなことはともかく、飽きずに拝見いたしました。

2007年2月12日月曜日

MONO 地獄でございます

上手い。達者だ。
1時間40分、飽きずに見せきる力、大したものです。

が。食い足りない。気もする。

一番大きな理由は、「突っ込み」、である。

色々な変わったこと・態度などなどに対し、必ず「突っ込み」が入るのだ。そこで観客は笑う。リズム出る。先に進む。
でもこれ、本当に突っ込まなきゃいけないかしら?そうやって突っ込むのって、リアリティあるの?
だって、観客が「えぇー、そんなの、ありか?」っていうのを舞台上の人が口に出して言ってくれたら、それこそ、考えていること口から駄々漏れ、というのと変わんないじゃん?

いや、実は、真相はこうかもしれない:
① 関西圏では、こうやって「突っ込み」が入るのこそがリアルであり、「突っ込み」の1つも入らずに淡々と事が進むなんてことは、実生活では絶対に有り得ない。
② そもそも芝居なんて芸事なのであって、「突っ込み」も入れないほど客を突き放して、何が面白いのか?いいじゃないか、楽しければ。

うーん。①、ということにしておこう。

それにしても、だ。何だか、ウェル冥途な芝居であった。
エンターテイメントとしては常に合格点取り続けられる芝居なんだろうな。

飛ぶ劇場 正しい街

僕は概して「集団もの」「カルトもの」が嫌いだ。
というのも、
① そもそも、集団の気持ち悪さというのは、「特殊な環境におかれた」集団でなければ抽出できないのかに疑義がある。
面白い芝居は得てして「特殊でない」環境の中から極めて特殊なものをみせ、それを普遍につなげる力を持っている。
② 「劇団」という集団も割りと閉じた集団になりやすくて、そのアナロジー(つまり、作者・演出・役者の、自分が属する劇団への思い)を脱し得ない芝居が結構多い。そんなの観ても面白くもなんとも無い。
③ 観客の側から見ると、「あぁ、こういう気持ち悪さは、カルトだからじゃなくて、実は実生活のアナロジーたり得、普遍性を持ちうる」という方向 に持っていこうという人と、逆に「あぁ、あるある、こういうカルトな集団。宗教とか、劇団とか。やーねー。関わりにならないときましょう。」で済ましちゃ う人がいると思う。そして、後者の方が圧倒的に多いはずだ。それがまた気分悪い。
④ そして、こういう「集団もの」「カルトもの」って、大体、「気持ち悪い」んだよね。すかっとしない、というか。

なので、「キリスト教カルトもの」は、その時点で最早僕の範疇から外れているといって過言ではない。④はちょっと違うけど。

実際に観てみたら上記のファクターがゼロになってしまっていたなんてことは有り得なくて、やっぱり僕の範疇ではないのだけれど、でも、大方の場面 でドツボに嵌らずに進行していく。昔のアニメかなんかで、イヌとネコとウマが運転するポンコツ車が地雷やら立ち木やら穴ぼこやらをスレスレで避けながら乱 暴運転で野原を駆け抜けていくように、何だか、
「それをやっちゃあおしまいよ」
と言わせることなく、最後まで見せきってしまったのである。

そのポイントはどこにあるのか?
① 学校の体育館という「開いた」、割りに集中しにくい空間で、かつ、両面観客席の間に舞台を張った。この「開いた」感じが、カルト物芝居の居心地の悪さを減じたから。
② そもそもいなくても芝居が成立するはずの登場人物=「外部からの闖入者」が、まさに「いなくても芝居が成立する」ことに自覚的に、客席の視点を共有するから。これがないと、カルト物はすーぐに浅間山荘になってしまうので。
もちろん、作・演出が「集団の『純粋に内部の』ドロドロを描きたいんだとすると、外部からの闖入者の視点は芝居を甘くする副作用は持っているけれど。

という訳で、芝居を観終わった後に、作・演出の泊氏、ゲストの青山真司氏、ともに門司高校出身であることを知った。弟の母校である。あぁ、よかった。ボロクソの芝居だと困っていたところだった。
(次の日弟に電話して聞いてみたら、
「門司高校ってのは、勉強するヤツ、スポーツするヤツ、芝居とか映画、バンドにはまるヤツ、結構はっきり分かれて、しかも色々出るんだよね」
とのこと。ちなみに弟は肉体派一直線の青春だったので、泊さんも青山さんも児玉貴志さんも知らなかったそうだ)

2007年2月10日土曜日

ザ・ガジラ セルロイド

<この日記には重大なネタバレに近いものが含まれています>

大久保鷹を観に来た。20年近く前、友人が、「生きていたのか大久保鷹」のコピーに魅せられて唐組の「電子城」を観に行き、最前列で大久保放つ納豆をくらったという、その大久保鷹である。

始まって3分で、女優のクサさに席を立ちたくなる。
今さらの絶叫芝居はやめてくれ。
いや、クサいのは女優だけじゃないぞ。何だこの台詞は!
かなりメタなレベルで処理してるような戯曲で無いと許されない、いや、処理しててもやっぱり許しちゃいけないような台詞の連発だ!

大久保鷹、動く。口を開く。すごい。あぁ、この人は、「ここに、居る」。なんと、この、生身の凄み。

女優でマイナス6000円、大久保鷹でプラス3000円。チケット代はすったと思い切れば、チャラ。

途中で思い始める。あぁ、これは、次のどちらかだろう:
① ヴァージニア・ウルフなんか怖くない、パターン。すなわち、家族三人が外部からの闖入者をいたぶっているパターン。
② 夢落ち、パターン。すなわち、誰かの罪の意識がこのシーンをその誰かの脳内に生ぜしめているパターン。
そうだ、そうに違いない。そうでなければ許されない。

あぁ、きっと、これは、大久保鷹の芝居なのだ。彼の脳内の話なのだ。だから彼は聞くのだ。「お前の望みは何だ?」と。この世界は彼が作っているのだ。

でも、僕の読みは、違った。当らずといえども遠からずだったけど、きっと、僕がもっとも望まなかった結末に進んだ。しかも、構造の説明に時間とりすぎ。

「人はとかく分かりやすい人間を求めがち」「テレビドラマはその典型であり、そこに存在しているのは「人間」ではなく、「情報化された人間」ばかりである。演劇は、それだけは避けたいと願ってやまない」
と当パンに書くのなら、多少芝居の絵解きが難しくなってもいいから、そういう風に作ってほしいものである。

大変がっかり。
効果音・照明も、何だか、できの悪い戯曲を厚化粧でごまかしているようにしか感じられない。
同じコンセプトでも、役者そろえて、きちんと作りこめば、きっと1万倍は良くなったはずだ。

2007年2月4日日曜日

ロリータ男爵 来来!図書館

僕は、「本」を扱う芝居に弱い。
唐組の「ジェニー」。Compliciteの「Street of Crocodiles」。
で、この、来来!図書館である。思わず観に行ってしまう。

幕前の役者トークとセットを観て、ここは自分の来るべき場所ではなかったと、事前に納得。要は、芝居の趣味が179度違う。1度ずれてる分だけ当り散らしようも無い。

で、本の話、というより、加齢臭とインチキと屋台崩しと自殺志願の話なのであった。それもまた100%自分のせいなので、もう、観るしかない。

ということで、収穫をいくつか
・佐伯さちこ、大収穫。好みでないにも拘らず。野鳩もきっと観に行くと思います。野鳩も趣味ではないと思うが、あえてリスクとる価値あるかも。
・仕込みご苦労様でした。1日2回公演は大変だろう。1日の最初の回に行って良かった。

それにしてもこの芝居もいっぱい観客が入っていて、「愛される芝居とは」を考えざるを得なかったことである。

仁3プロデュースの会 Black Jack Pizza

良い芝居。4回公演なのが勿体無い。

児玉貴志観るのは3回目だけれど、今までの中で一番良かった。芸達者な変態役者は便所に閉じ込めておくに限る。それでもなおかつ滲み出てしまう変態さ加減が丁度いい塩梅。

他の2人も勿論同じくらい良くて、それはきっと戯曲の作りも演出の意図も良かったのだろうけれど、「仕掛け」として、「客にどう観てもらうか」よりも「相手の反応をどう感じるか」に集中せざるを得ないように芝居が出来上がっている感じ。

週末を締めるのに丁度良い芝居でした。

神村恵カンパニー 山脈

前にも書いたが、僕はダンスを観るときは、できるだけ「バカ」の視線で観る。解釈無用、読み解き無用。ただ、楽しむべし。

この公演、楽しかった。
いっせいに同じ方向を向く足の裏。じっとしていても開いてくる足の指(僕は左足の小指が開かないので羨ましい)。プルプルふるえているときの、微妙に踊り手の間でズレがある、そのズレ方。観てて飽きない。

で、もうちょっと読みを入れると、
「空間の中で自分と他社とのポジショニングを測る」
その中で
「自分の動きがどれほどのものかを、自分の容積がどれほどのものかを、確認していく」
という感じがして、それも良し。

1時間強、「楽しく」観続ける事ができました。

流山児事務所 浮世混浴鼠小僧次郎吉

劇団の方にお詫びしなければならないのは、開演後10分してから、自転車置場にある重要な忘れ物をしたことに気付き、かなり気もそぞろになりながらその後の芝居を観てしまったことです。結局事なきを得ましたが、観る私に集中力無かった。
なので、以下、述べることも、その分差し引いてご理解いただければ、と。何卒ご容赦頂きたい。

が、その「忘れ物」を忘れさせるほどのパワーで芝居が迫ってこなかったのもまた事実。

戯曲は36年前の世相を映す。演出は80年代以降のアングラ古典芸能を引きずる。これが2007年にどんなインパクトをもたらすか。
よく訓練された役者、テンポを失わずに繰り出すケレン味、スピード感と重量感。

それでも、それが、トータルで迫ってこなかったのは何故だろう?ひょっとするとそれは、36年のギャップへの演出家の自覚が、あるいは自ら出演した流山児氏の自覚が、却って戯曲と今のあいだにスキマをうんでしまったのか?

他の観客の皆さん大変愉快そうにこの芝居を観てたのに、僕はちょっと取り残された気分で、しかも頭の中の10分の1は忘れ物のことをチラと考えながら、こんなことを考えていたのです。

2007年2月3日土曜日

燐光群 Philippine Bedtime Stories

この公演の案内は、オフィスに送られてきた。
郵便を配る女性が、(多分気を遣ったのだろう)僕のデスクの上に、「封筒を裏返して」置いてくれたのである。
:おばたさん、こんなのしょくばにもちこまないでくださいね!!
職場が蒲田に近いこともあり、この誤解はある種やむを得ない。
これは、観に行かずばなるまい。そしてアンケートに住所変更をお願いせねばなるまい。

という、甚だ不謹慎な理由で森下まで出かけたが、何と何と、これが面白い。
フィリピン人役者のみによる「ドゥルセの胸に1000の詩を」、良い。字幕で集中力が落ちたが、これなら字幕なしでも十分いけたと思う。
代理母もの、男女2人もの、ドライ・ドライ。この書きっぷりはなんだろうと思ったら、案の定、後で見たらフィリピン人による戯曲である。
吸血鬼の誕生、は、日本人とフィリピン人を反転させて2バージョン。これがまた、加害者・被害者の転倒というシンプルな図式を超えて、面白い。勿 論、背後にあるドライな視線が、この短い芝居を、フィリピンのジャングルから世界中のジャングルへ(東京→上海→ロンドン→NY→LA)と拡大する。

が、止めを刺したのは内田春菊による「フィリピンパブで幸せを」。底抜けに明るい不条理劇が国籍・性別ともに不明のカオスの中でピカピカに光っていた。役者も楽しんでいたが、いやはや、楽しむに足る良いホンでした。

再度演じられるときには案内は自宅に来るだろうが、きっとそれも観に伺います。

青年団若手自主企画 ブレーメンの自由

リーディングなので、「聴く」というべきなのかもしれないけれど、これは、やはり「観る」だ。

何の先入観もなく、かつファスビンダー映画を観たことのない身として言うが、テーマも進行も割りと古典的(悪く言えば紋切り型に近い)。現在僕たちが目にしている色々なモチーフの源流がファスビンダーにあるのであれば、それは凄いが、でも、多分違うだろう。

僕は「リーディング」に出かけるのも初めてだけれども、リーディングというよりは、「役者が動かない芝居」に近く感じられたこと。変に芝居をつけるよりはこれくらい抑えていた方が、僕には心地よい。

が、それは別に、リーディング中ずっと考えていたのは、「ベェエェエシェ」と、みんな、妙にヒロインの名前を伸ばして言っていたこと。これは、何故だろう。しかも、用件を言った後、間を入れずに「ベェエェエシェ」である。とても、名前を呼んでるようには聞こえない。

後半になって、僕の中では、「ベェエェエシェ」は「レレレノのレー」に変換された。
「お出かけですかレレレのレー」
「罰が当たるぞレレレのレー」
「金を返してくれレレレのレー」
何だか、等価である。それは、ちょっと、面白かった。

まぁ、変に理屈をつけて言えば、皆に呼ばれている名前は、ヒロインにとっては、
「自分が社会で果たすべきと期待されている役割の総体に対する呼び名」
であって、自分ではないという違和感があったから、ベェエェシェもレレレのレーも等価なんだ、と。それを表す、ということか(自分で言うのもなんだが、クサイな)。

こういう風にリーディングを味わえると、映画みたいと思わなかったりもした。イベントの趣旨には反するかもしれないが。

アフタートーク、岡田利規氏と中原昌也氏。飛ばす中原氏に、岡田氏ひたすら困る。岡田氏、「自分が人が悪くなりきれないことにコンプレックス感じる」と言ってたが、それ、ウソでしょう。あの困り方は、根っからの悪人じゃないと出来ませんぜ。