2008年7月28日月曜日

@@ has a headphone "いつでもここは夏である"

26/07/2008 マチネ

楽しかった。観て楽しい、聴いて楽しい、飲んで楽しい。
山縣太一をはじめとする4人のパフォーマー達、みんなおしゃれで格好良くて身体がよく動いて、とても目が離せない。

プロジェクターで投射される記号の渦はまるで東京の街そのもので - そう、僕が久し振りに東京を歩いた時に感じた文字通りゲロ吐きそうなくらいの情報過多、「僕を見て、私を見て、これ買ってあれ買って」な記号の渦のようなのだ。

その中をくぐって、あるいはその中に全身埋まりながら、パフォーマー達は渋谷から新宿まで移動したり、バイクで走ったり、昔のことを話したりする のだが - そういう、街中で拾ってきたちょっとした身振りをダンスに仕立ててSTスポットにのっけた、なんて言っちゃったら、身も蓋もないおじさんの新 聞劇評に仕上がってしまう。

そうじゃなくて。記号の渦に逆らってるわけでもなく、でも、渦の流れに身を任せてるわけでもなく、そこにはパフォーマー達の「個」があって、
「僕を見て、私を見て、なんも買わんでいいから、僕らを見て。ここにいるの、僕らなんですけど。こうやって動いてるの、楽しいんですけど」
という、ひどく当然の、でも、伝えることも感じ取ることもエラく難しいモノが、目の前にポンと差し出されていることの興奮とせつなさ。

ポケットティッシュ手裏剣のキレの良さは往年の新宿の虎が夕刊をポストに投げ入れる時のキレを思い起こさせ、野上絹代がジャンプする瞬間に涙こぼ れそうになり、Balkan Beat Box でこんなに格好良く踊れる奴らに嫉妬する。松島誠の立ちに、山縣太一の酔拳に、山崎皓司のダッシュに、目を瞠る。

とても幸せな横浜の午後。ドリンク三杯でめでたくプレイリストも手にして、文句なくご機嫌でうちに帰りました。

2008年7月27日日曜日

三条会の真夏の夜の夢

25/07/2008 ソワレ

楽しかった。とっても楽しかった。

小田島訳のシェークスピアの台詞がこんなにしっくりと耳に入ってきたのが、まずは新鮮な驚き。これなら文句ありません。小田島先生もこの舞台を観ていたら、きっと自分も舞台に上って朗々とご自分の訳を読み上げたくなることだろう。
ボトムのロバはこれまで見た真夏の夜の夢の中でもっともグロテスクでユーモアに富む。それも含めて、素人芝居組は何とも楽しい、刺身のつまにとどまらない存在感を示す。
野外、円形の舞台もシンプルかつ美しい。舞台の向こうに木が繁って背景をなし、それが、なんとも、日本の森な感じで、それも良い。中央の円錐が、メイポールのような感じでそうでないようで、それも良い。

しかし、ショーを攫ったのは近所のおじさんだった。後半、舞台奥の役者用スタンドの間に、片手をスタンドにかけたままじっと動かず芝居の行方を見守る、いかにも近所からやってきたオヤジ。しかも、舞台奥ほぼ中央にいるので、照明モロあたり。それにも全く動じず表情も変えずに立ち尽くす姿に、観客はみなシビれていたに違いない。
結局、そのまま、芝居がはねるまで微動だにせず、舞台奥にはける役者陣も特に反応するでもなく、芝居は終わった。
あれが演出だったとすると、まさに脱帽ものです。あんなふうには、舞台に立てない。

羊と兵隊

25/07/2008 マチネ

現代のチェーホフを目指すのかあいも変わらずの岩松ワールド、今回もまた、三人姉妹の引用あり、19世紀末的な長台詞あり、奥様の不貞あり召使あり家庭教師あり、と、露骨なチェーホフトリビュート。

鉄骨剥き出しの軍靴工場オーナーの邸宅。俗物な主人、姉妹、異物としてのプラチナブロンドの中村獅童、ゴスなメイド、イカれた家庭教師。これだけ揃えて岩松シェフの厨房に並べれば面白くないわけはなくて、休憩挟んだ2時間40分、たっぷり楽しめる。

が、どことなく昨年のシェイクスピア・ソナタに較べて食い足りない気がしたのは、おそらく、下記二点による:
① 獅童の上に乗っかる年齢のいった男優が一枚足りなかったこと
② 芝居全体の中のユーモアの欠如

①についていうと、中村獅童初見だったが、獅童自身はさほど悪くない(台詞をキメすぎる嫌いがあるのは減点材料だけれど)。が、もう一枚、年齢が 上の男優に物語の差配をゆだねておいた方が、獅童の遊び方にバリエーションが出て面白かったのではないか。ちょっと役割を自分の背中に負いすぎて窮屈に なっている気もした。

②は、僕にとってはより重要なことなのだけれど、この「羊と兵隊」という芝居は、おそらく、「悲喜劇」と呼べない、あるいは、呼ばせないつくりになっている。妙に、生真面目なのである。
ユーモアのある芝居を作り出す具体的なハウトゥーが存在するわけではないのだが、ユーモアの前提条件として、自らを第三者の眼で突き放して見る態 度があるとすれば、シェイクスピア・ソナタの戯曲・演出・役者(特に松本幸四郎と伊藤蘭)にはそれがすっかり備わっていた、そして、今回の「羊と兵隊」に はそのどれかが、ちょっとずつか、それともすっかりか、欠けていた、ということなのだろう。

いずれにせよ、「チェーホフの持つ現代性とは何か」という、チェーホフ戯曲の公演を観た後、居酒屋で4時間くらい話し続けられそうなネタを、自ら戯曲を書き演出することで世に打ち出していく岩松氏の愛と胆力には、ホント、敬服せざるを得ない。勉強になります。

2008年7月26日土曜日

岡崎藝術座 三月の5日間

25/07/2008 ソワレ

すっごく楽しかった。どんどんのめりこんで観た。

この芝居の目指す欲望がとてもはっきりしていて、
「面白い芝居がしたい」
「三月の5日間の戯曲は面白い」
「チェルフィッチュは面白い」
そこから外れることは一切目に入らないまま芝居を創ったらこうなったのではないか、とまで思わせた。

(以下、ネタバレ)






面白いことがしたい、という絶対のルールの下では、反則はない。
だから、チェルフィッチュの身振りをなぞって芝居を始めても、それはサル真似ではなくて、
「面白いことをなぞってみたい」ことの自然な発露である。
それは丁度、奥泉光が「書きたいことなど何もない」と言い切って、かつ、読書する中で「なぞりたい」「続きが書きたい」欲求を拾った結果を小説とすること、とか、高橋源一郎が、「好きな小説と遊ぶことから始める」といっているのと同じだ。

でも、なぞってもなぞっても、それは神里雄大の演出と役者の身体性を通して捩じれ、曲がって、異形の物へと逸脱していく。基本3ルールが明確だからこそ、そこに拘った結果としての逸脱にはケレンが無く、ただただ唖然として芝居を追いかけるしかなくなる。

神里氏はアフタートークで、「最初から順を追ってしか芝居を創れない」と言っていたが、それだからこそ、その逸脱のプロセスが素直に見えてきて、かつ、そこには迫力がある。そのエネルギーと、可能性がブワッと開いていく瞬間のエクスタシーに浸った。

小生的に一番印象に残ったのは、みんなで外に出た後、女優が「渋谷の街がいつもと違うみたいだ」ということを階段を上りながら話すシーン。最下段に座った僕が後ろを振り仰ぐと、そこには観客と、役者と、新百合ヶ丘駅前の10階建てくらいの背の高いマンションが見える。
その視界には、金曜日午後9時に、
・ 新百合ヶ丘で誰かの帰りを待っている人(マンションのドアの向こうの幻視)
・ 新百合ヶ丘の駅から家へと向かう人(通行人への勝手なレッテル貼り)
・ 新百合ヶ丘で芝居を観ている人(事実)
・ そこで語られているのは、いつもと違うように(観光しているように=生活と関係ないように)目に入る渋谷(=本来生活と関係の無い街)(セリフ)
・ それを聞いているのは、本来生活の場である(あるいは、通勤の通過点でしかない)新百合ヶ丘駅前まで、芝居を観に来た人々(自分には少なくとも当てはまる)
・ それを駅と家の間にある通勤路で語っている役者
そういうものが全部一遍に見えて、でも、それを繋ぐものは一観客である自分の想像力=妄想と、ふと振り仰いだという偶然の結びつきの細ーい糸でしかなく、でも、

「あぁ、こういうものが掴みたくて、オレは芝居を観に来るんだ」

と思った。

神里氏の言う「場所に拘る」芝居が、そういう宇宙を一瞬でも見せようという意図なのであれば、それはすっごくワークしていて、かつ、僕はそれを確かに感じた、気がしたのである。

2008年7月23日水曜日

東京オレンジ 真夏の夜の夢

21/07/2008 ソワレ

初見。『インプロヴィゼーショナルシアターシリーズでは、即興メソッドを使い、出演者と客席が一体となって、その肉体とアイディアを駆使し、たっ た一度しかない"いま・っこ"を創り上げていきます。』 ということだけれど、本当に面白いの? と、おじさんは、まず、懐疑的スタンスから入る。開演 後、パフォーマンスの前説によれば、どうやら、この集団は、そこいらの大喜利とは訳が違いますよ、てな鼻息なのだが、一体どうなるのか?

みていると、たしかに、観客からのお題をランダムに拾って、そこから作る物語と舞台設定にどうのっかっていくか、かなり気合入れて取り組んでいるのは分かった。で、こっちも気合入れてみてると、どうやらインプロには3通りあるらしい。
① お題から物語を膨らませること
② 舞台で起きていることに、(場の中で)ビビッドに反応すること
③ 舞台で起きていることに、新たな見方・ヒネリを加えて続けること

②が決まる瞬間は観ていて気持ちよいし、③は本来妄想の持ち主である観客の役目でもあるのだが、それをうまーく先取りされたりすると、素直にヤラレタ、と思う。
が、所詮、①は大喜利だろう。しかも、全てのシーンは、構成のルール上、①から始まらざるを得ない。そこで、下記のような弱点が噴出。

① 冒頭、いきなり、「わたしはこんな人ー」という自己紹介、100%説明台詞からシーンが始まらざるを得ない
② しかも、複数の役者が場をつくってそこに観客を引き込むのではなくて、役者が役者にその場で説明せにゃならんから、説明台詞指数百倍増し。
③ 舞台で場を創るときも、1対1で会話を創るのは(難しいなりに)まだ良い。が、1人加わって3人になった途端に、場が創れなくなってしまうケース多発。

で、結局、ラストに近付くと、「まとめやすい」「観客にとって終わりやすいだろうと思われる」一本の物語に乗っかっていこうという態度がにおってきて、それも辛かった。

やっぱり純粋インプロは難しいのだ。
こんな比較の仕方は双方に失礼かもしれないが、例えば、「あなざーわーくす」の「レクリエーション演劇」は、最初から①は用意しておいて、観客に も晒しておいて、②と③に命賭けて来るから観客が入り込みやすい。かつ、観客にも振るから、出演者と客席が文字通り一体。一方、去年観たシャトナー研は、 どちらかというと大喜利に徹して、(芝居からは遠く離れても)、エンターテイニングではあった。
東京オレンジについては、そこら辺を割り切りらず、あくまでインプロにこだわろうとする生真面目さは買うが、「どうせ割り切らない限りはここまで」的な妙な諦めが、どことない内輪ノリに繋がっているとすれば、それはちょっと残念。

ゲストの絹川友梨氏、昔は「飯島由美」名で遊機械に出てらした由。おお、そういえばどことなく見覚えあったよ。まさに20年以上ぶりに舞台で拝見。ちょっと懐かしい。来年アゴラで二人芝居やる由。楽しみだ

2008年7月22日火曜日

BoroBon企画 男たちのお料理教室

21/07/2008 マチネ

東京ガスのビル内にあるほんまもんの料理教室スペースを使って芝居をやってみよう。
ということで、70席ほどが調理実習スペースの周囲に用意されていて、うち男性客8人程度。全体の1割が男性というのは花組の本公演よりも若干比率が高くて、これも「男達のお料理教室」というタイトルのなせる業か。

芝居の中身は、有体に言ってしまえば「美味しんぼ」だか「クッキングパパ」だかを芝居でやってしまった、と、そういうことで、料理の中身・味と人 情噺をうま~くリンクさせて芝居に仕立てた、という、何だかつまんない芝居みたいな言い方になってしまう。でも、そもそも料理教室スペースを使って芝居や るという時点で、実は、そういう制約はバッチリはまってるのである。だから、仕方がない。

が、テレビのお料理教室の「先生の言っているとおりなら100%確実に美味しいお料理が出来ま~す」という誰もが知っているお仕着せの予定調和と、若干予定調和かかった芝居(でも目の前でリアルタイム料理)、が組み合わさった時に、思わぬ面白みが出た。

何が面白いって、目の前で火や包丁を使って料理作るのが面白い。段取りを間違えたり、上手く包丁が使えなかったり、火をかけたままあっちにいっちゃって観客がハラハラしたり、だし汁の匂いがしてきたり。
昆布だしを火にかけて、「小さい泡が底から上がってきまーす」・・・から、実際に上がってくるまでの間の沈黙。
具をどんぶりにあける時の緊張感。

芝居の勝負どころの1つとして「いかに何回も稽古しながら、初めてのように演じるか」というのがあると思うが、特に溝口健二さん、ぜったいに、何 回稽古しても、何べん本番くぐっても、料理うまくなってないに違いない(=初めて料理教室に来たかのように演じられる)と思う。それがまた凄い。

例えば、ちょっと古いが、「料理の鉄人」が実は調理人の台詞や動き、弟子の動きやアクシデントまで全部シナリオできっちり決めていて、料理の出来 上がりまですべて台本どおりだとすると(本当はそうなんですか?)、この芝居はそれに近いのかもしれない。少なくとも飽きるまでは、僕達はその鉄人達のお 芝居を充分に楽しんでいたと思うし。
プロによる調理の予測可能性が余りにも高くて演劇に適さないのであれば、素人の料理=お料理教室。その発想は、当たり。でも、二匹目の泥鰌はいないかもしれない。

あ、そういえば、何年か前、ロンドンにベルギーの料理人集団がやってきて、バービカンの舞台上で料理作ってサーブする、というパフォーマンスをやっていなかったっけ?でも、それは、予測可能性が高すぎて、芝居にはならず、ただのあざといレストラン、みたいな印象だった。
日本でも、去年の庭劇団ペニノには料理シーン出てきたし、乾電池の「おとうさんのおとうさん」でも鍋をつついていたけれど、今回の「男達の料理教室」のように「料理する行為」を虫眼鏡で見せたりはしていなかった。と思います。

2008年7月21日月曜日

ジョン・ボーナムの気持ち

飲んで帰って、寝て、夜中に異様にむせて起きた。
むせたつばが妙に胃液臭くて、気持ち悪い。
戻すほど飲んではなかったと思うのだが(そして、その後も実際戻さなかったのだが)、なぜ、むせたのか?
「そんなん、いつものことやんか」という向きもあるかもしれないが、小生にとっては生まれて初めての感覚だった。

それにしても、である。
ジョン・ボーナムはきっと、死ぬ直前、
「この胃液の臭い、なんとかならんか!」
と思っていたに違いない。ちょっとだけ彼の気持ちに近づけたかな。
(だれか、「なわきゃねーだろ」と突っ込んでください)。

青年団国際演劇交流プロジェクト ハナノミチ

20/07/2008 ソワレ

6月のソロパフォーマンスを観たときに、
『7月の「ハナノミチ」パフォーマンスで、もしテクストがもっと「伝わる」ように演出が変わっていったら、それは僕にとっては面白くないのかもしれない』
と思っていたのだけれど、まさにその通りになった、と思う。

やはり、芝居が始まるなり、僕はテクストに対して耳をふさごうとしてしまって、それは、翻訳がどうこうとかいうのではなくて、(これはパフォーマ ンスの後半、テクストが耳に入り始めて気がついたのだけれど)そもそもテクストの内容が作者のマスターベーションじゃねーか、ということなのだ。

要は、異邦の地、京都、異邦人なオレはひとりぼっち。さびしかったり、娘のことや別れた配偶者のことを考えたり、「あ、オレが今感じているのって、ひょっとして、空?」みたいな。岩井芝居の一人称なんて屁でもない、究極の一人称。要は、独りよがりでつまらない。

「日本語に翻訳したテクストなので、フランス人演出家の手に負えなくなってしまった(伝え方という意味で)」という考え方もあるかもしれないが、逆に、フランス語のテクストとしてフランス人が聞いたら、シンプルにつまんないのではないか。どうせ作・演出家には日本語分からないのだから、と観客も割り切って、アルファベット変換して「エグゾティックな音の連なり」として聞けば、内容に立ち入らなくて良くて、大丈夫かも。

役者たちの獅子奮迅の活躍が、
(註:ベッカムがシメオネにぴょこたん蹴りを入れて退場を喰らい、イングランドがアルゼンチンに敗れた試合で、ホドル監督は残ったイングランドの選手達の戦いぶりを、文字通り「あいつらはライオンのように戦った」と褒め称えた)
あたかも、「テクストに耳を傾けないでくれー。おれたち、テクスト以外のところでこんなに面白いことをしてるんだからさー。」というように見え て、痛々しさすら感じる。でも、そこに青年団の役者達の底力を感じて、というのも、その緊張感で1時間50分、集中力を持続して、観客の眼を引きつけ続け るわけだから。

安倍健太郎の立ち、多田淳之介のテクストのあしらい方、鄭亜美の声の説得力、工藤倫子の存在の通奏低音な安定感、熊谷祐子の動き、兵藤公美の視野の広さと舞台上で起きていることの掬い取り方。それぞれが個の能力を発揮しながら、モーメントを交換していく。
(まるで、調子の良いベルカンプとアンリとピレスとヴィエイラとエドゥとコールとローレンが持ち場を守りながら自在にパスをまわしているかのように。その間、レイ・パーラーがフィールドを走り回って相手ミッドフィールダーを倒しまくっているかのように。)
全員が舞台上で起きていることに対して集中を切らさず、確実に瞬間をキャプチャーする力を満喫した。ヤン・アレグレも、そういう瞬間を掴む能力は備えているのかもしれない。

後半、舞台が壊れて、役者の持ち駒が尽きた頃になって、テクストが浮き立ってくると、ちょっと引く。ところが、9-1で川隅奈保子がテクストを話 すところだけは、なんだか見とれた。中身は知らないけれど。役者が舞台に立っていて、音を発しているだけで観ていられる、ってこういうことか?不思議だ。

公演中、音楽は全く使われなかったけれど、僕の頭の中にはなぜか開演直後からRadiohead の Optimistic がかかりっぱなしで、それもあってか、墨一色で汚されていく舞台に、いろんな色がぶちまけられている感じがして、それもまた楽しかった。

結論。テクスト以外は全部良し。

北京故宮 書の名宝展

20/07/2008 @江戸東京博物館

これは本当に素晴しい。みなさんに一度観に行っていただきたい。そして、どの書がお気に入りか、それを話し合いたい。
両国の江戸東京博物館、新宿から総武線で20分、駅から3分、是非どうぞ。

小生、小学六年から筆で字を書いたことがないし、書道教室に行ったこともないし、ペンの持ち方も「頭が悪いみたいな持ち方をする」と言われるし、もちろん字が下手で慶弔ごとの記帳のときに本当に恥ずかしい思いをするし、というくらい書道と縁がない。筆の運びとか、形の良し悪しとか、そういうのは、全然分からない。その僕が、(妙な憧れじみたものを抜きにして)撃たれた。

老若男女、分かる人も分からない人もいて、昔の字を声に出して連れに読んであげてるお爺さんや、名人の筆の動きを宙でなぞっている若者や、薀蓄たれてるオジサンや、自分の分かる漢字を拾って喜んでる人や、そういう人たちを見るのも愉しい。

書は分からないので、解説は出来ません。でも、1つだけ感想を言う。

70点近く展示してある書の中で、ひときわ、伸びやかな線で、何の屈託もなく、四肢が素直に伸びて、健康に、力強く、自由に動いてしかも過たない、そういうのをイメージさせる作品が1つあって、一通り見た後やっぱり気になって誰が書いたのか確かめてみたら、清の乾隆帝の書。これにも撃たれた。「本当に、皇帝らしい皇帝だったんだろう」と思う。

それだけでもみんなに観に行ってほしいと思うけれど、もっともっと素晴しいものがたくさん展示してありました。展示場を出た後の書道関連グッズ直売コーナーも、ちょっと異次元な感じが面白かった。

2008年7月20日日曜日

青年団若手自主企画 World's Dutch

19/07/2008 ソワレ 

作・演出本人にも言ったし、飲みながら5、6回は言ったので、もう辟易している人も要るかもしれないが、
「これを手放しで面白いといってしまったら、ウソな気がする。でも、面白くないということは全くない。そこらへんのほそ~いラインの上を、危ういバランスを取りながら、1時間15分集中を途切れさせずに観てしまった」
というのが正直な感想。

"World's Dutch" というタイトルでセクシュアリティについての芝居だと聞くと、まず「スカなのではないか」という疑念が沸きあがる。
英語では"sex doll" だから、"世界のダッチ"って言われても、"人間だったら友達だけどワールドだからワールドダッチ"、みたいな感じしかしないだろう(しないか。イギリス人がロボダッチを知っているわけないし)。

というわけだが、開演すると、辻美奈子(ヒロイン)が自分について客席に向かって語り始める。これは、①チェルフィッチュぽいのか  ②Vagina Talksっぽいのか、と考えてしまうのだけど、でも、結局どこにも着地せずに(というか、ほっぽらかしになってしまったかのように)、ラストまで行って しまう。入れ子構造も、整合性がついているのかいないのか、いや、おそらく考えてないんじゃないか?みたいな感じで処理されている。

話が進行するにつれて、これは肉欲万歳!!の話なのか、フェミニニティの話なのか、自意識についての話なのか、男ってバカね、な話なのか、世界と 自分との関係を確認する中で感じるざらつきの一断面として偶々今回セックスを採り上げたのか(僕個人はこの最後の選択肢を推す)。
おそらく、凄く陳腐な言い方で申し訳ないが、この芝居は上記すべてのちょっとずつであり、逆に、どれでもない。その、どこにも着地させないとこ ろが、この芝居の面白いところなのだけれど、じゃあ、それがかなりその狭いストライクゾーンに狙って投げた結果なのかといえば、そこは確信が持てない。も しかしたら(大変失礼ながら)結果オーライなのかもしれない。

この芝居を観終わって、その取り扱う素材にも拘らず「ドロドロした印象がない」のは、おそらく、セックスに関する話についても、「ドロドロする」 とか「観客を興奮させる」手前でほっぽらかしているからで、そこから先はかなり乱暴に観客に任されている。この寸止め感すら中途半端で、時としてモロな紋 切り型が噴出しかけるが、それすらも寸止めでとどまり、危ういところで道を踏み外さない。もちろん、その自意識の奥までを観客に晒さない作・演出や役者の 中がどれくらいドロドロしているかは、観客の妄想に任されているわけである。

ラストシーンは、おそらく、唯一、明確な方向感を舞台上及び観客に与えるシーンとなっているのだけれど、これも、「終わりのサイン」=オチ として観てしまえばさほどガックリ来るわけでなく、かつ、深刻にも陥らず。不思議な1時間15分。

ロンドンの「今年の目標!One night standは控えること!」とのたまった女性に捧げたい芝居です。

東京乾電池 黙読

19/07/2008 マチネ

エンターテイニングで思わず身を乗り出したのは前半10分、あとは苦しかった。
このテの演出で三人芝居、1時間超を持たすのにはかなりあざといことをしないといけないのではないか、あるいは、もっと観客に対して「緊張を切らしてはいけませんよー」という明確なメッセージを送らなければならないのではないか。そういうことを考えていた。

加藤戯曲を 恐怖ハト男⇒コーヒー入門⇒黙読 と観てきたけれど、ハト男がやっぱり一番面白い。今回は特に、あざとさを削り取った分が、そのまま辛くなってしまった印象である。
特に、折り返しラン以降、このシチュエーションに至った経緯を三人で語りだすと、その場がどこに向かうのかというモメンタムが一気に失速した感じがして、辛かった。。これは、演出・役者ではなくて、戯曲の責任だろう。

つくづく、少人数の不条理劇を退屈させずに構成する別役さんの力を思い知った、というのが今日の結論。

2008年7月14日月曜日

東京ネジ みみ

13/07/2008 ソワレ 

救われる話には救いがない。

精神的外傷のせいで聴力をほぼ失った女性。王子様はその原因の核心に迫り、女性はトラウマから救われる。

むむむ。こんなに簡単にまとめてしまって良いのか。良くないかも。でも、前半、分身が出てきて、フリーライターが王子様に変身したところで、観客としての僕は大団円の王子様のキスと解けた呪いを(イヤイヤながらも)期待する以外に選択肢がなくなってしまったのだ。

物事の解決に向けたアリバイの積み重ねに役者をつぎ込むのは、途方もなく贅沢だけれども、そこに芝居として立ち上がるものは(ほとんど)ない。

そうなると、男優陣(王子様、犬=家来、プレイボーイ、無責任男)のどこに移入させられようとしているのか、どんな風にアリバイのピースとして作 用させられようとしているのか、あとはたま~にでてくる小芝居とか、そういうところにしか目が行かなくなって、なんとも残念な時間となってしまった。

アリバイは不要。小生には、
「本当に聴力が弱いのか、聞こえない振りしてるのか分からない」
「語った過去が本当なのかウソなのか分からない」
「人格に惚れてるのか、耳かきテクに惚れてるのか、分からない」
「女王と犬の話は、ライターが書いているのかヒロインの妄想なのか、はたまた女子高生の妄想なのかその父の妄想なのか、芝居が終わっても全然分からない」
「会社の会長は実はうさぎの耳の後ろの垢を舐めるのが大好きなのかもしれない」
とか、それくらい分からない救われない話で充分だ。

帰り道、「耳かき屋さん」なんて初めて聞いたなあ、と思って五反田から山手線に乗ったら、あったあった、ホームを思いっきり目黒方向に歩いていって、西を見上げると、そのビルには「耳かき屋さん」の看板が燦然とそびえていたよ。

2008年7月13日日曜日

ドラマチック、の回

マイミクまちこさんのお勧め。アンテナが低くて気がついていなかったが、昨年の青年団自主企画「スネークさん」の振り付けをした田畑さんの構成・振付。デスロックに出ていて靴が際立ってかっこよかったのが印象に残る白神ももこさんも出演。
千歳烏山の住宅地の真ん中にあるStudio Gooに急遽当日券でお邪魔した。

で、さすがまちこさんのお勧めだけあって、大変面白かったです。まちこさん、改めてお礼を申し上げます。

なんといっても一番打たれたのは、全編を通して溢れるユーモア。「身を聖地に向けて投げ出せ、そして進め。それもリズムに合わせて」とか、「後ろを向いて手をしきりに動かしてなにをしてるのかな~?」とか、「私のおしりってどうよ?」とか、「カセットテレコ自転公転ドップラー効果(みたいに聞こえているんじゃないか)」とか、「チッチとサリーのたけくらべ」とか、「落ち着かない騎馬の馬」とか、まあ、タイトルは小生が勝手につけたのだが、特に観客の受けを取りに来ていないのに、愉快なものが溢れてきて、幸せな気持ちになる。

それほど大きなスタジオではないのに、6人のパフォーマーが空間を上手く切り分けて、コントラストをつけて、前景と後景を作りながら実は後景で変な動きをして見せたり、絶えずきょろきょろと舞台中に眼を配らないと面白い動きを見逃して損した気分になる。要は、空間の構成に深み・厚みとカラーがある。ソロで動いている時の緩急、注意のひき方も何ともチャーミングで、息抜きがしたければそちらに注目したり、またよそ見したり。

あっという間に40分過ぎて、寝てたわけでもないのに夢を見てた後の感じがした。気持ちの良いパフォーマンスだった。ラストの、「オアシスの象たちの乱舞」のカタルシスは、良い意味でツベルクリンを思い出させた。

ミクニヤナイハラ プロジェクト 五人姉妹

12/07/2008 ソワレ

マチネ後、「ざらついてはいかん、撥ね付けてはいかん、食わず嫌いはいかん」と唱えてアゴラにお邪魔したのだが、でも、1時間10分、つらかった。まぁ、評判も良いみたいなので、「分かってない奴の戯言」と仰っていただいて全く構わないが、正直、楽しめず。

一番気になったのは、台詞のスピード、身体の動きのスピード、台詞の音程、といったものが、1時間、一定だったこと。人間、同じレベルの刺激をずーっと加え続けると、感覚が痺れてきて眠くなる。だから、芝居でもダンスでも緩急をつける。そこに注意を払っていない気がした。
今回は、1時間10分の上演時間が分かっていて、かつ、最初の5分くらいでそれを感じて「ざらつきアドレナリン」が分泌されてしまったので、寝なかったけど、でも、困った。

パフォーマー達の身体も良く動いているし、振り付けはお洒落だし、台詞何言ってるかわからなかったり聞こえてきたり、というのも、ダサい試みとは言わない。でも、聞こえてくる時に面切っていう台詞がダサいと、聞いていて恥ずかしくなります。

ということで、観ながらずっと、なぜ、80年代後半の「ツベルクリン」が打ちのめされるほどに突出してお洒落で面白かったのか、ということを考え ていた。単に僕が若かっただけだとは思わない。でも、「自分が出来ること」を考えるんじゃなくて「昔こういうものがあった」としかいえないのはちょっと心 苦しくて、悲しい。

燐光群 ローゼ・ベルント

12/07/2008 マチネ

せんがわ劇場初見参。思ったよりも大きな建物で驚く。新しい劇場だけれど、冷たい感じのしない、割と感じの良い小屋だ。

ここのところ、燐光群の芝居は、観に行っては毒づくことが多かったのだけれど、何といっても今回は大鷹明良さんが出演しているので、それを観たかった。そして、それは、ある程度満たされた。と思う。

でも、やっぱり今回も、坂手シュプレヒコール演出が凶と出て、2時間20分、つらかった。いや、そもそも、19世紀末の「自然主義悲劇の最高傑作」と燐光群の本人達は非常に幸福な結婚、でも、いかんせん100年遅かった、ということなのだろうか。

色々毒づくポイントはあるのだけれど、一番大きいのは占部房子の使い方で、正直、2時間強の叫びっぱなし、暴れっぱなし、観ていられず目のやり場 に困った。一言も叫ばず、暴れず、男を舐めたような目つきで、でも、狂気へと進んでいく(われながらなんてチープな!)姿がみれたらよかったのになー、 と、冒頭からずっと思っていた。そして、そのまま終わった。坂手流の「現代テイスト」への改訂も、今回は皮相的に過ぎて苦しかった。

その日他で飲んでいてなるほどと思ったのだが、話のモチーフは去年武藤真弓演出のリーディングで観たファスビンガーの「ブレーメンの自由」に似て いる -社会の抑圧、家族、ジェンダー、宗教-。でも、「悲劇のヒロイン」の見せ方が坂手演出と武藤演出で全然違っていて、正直、村田牧子のヒロインの方 が全然面白かった。

芝居がはねた後、黙って前のめりで早足で帰ろうかとも思ったのだが、Nじさん、Sい君と鉢合わせて、近所でお茶。Nさんの演劇Loveぶりに、ざ らついてばかりの自分が恥ずかしくなった。あぁ、ほんとうの芝居好きというのは、あなたのことを指すのだろう。心が洗われました。で、その場で言い忘れて いてまたもあとで後悔したのだが、「て、の演技、素晴しかったですよ」。この場を借りて申し上げます。だれかNじさんにあったら伝えて。

2008年7月7日月曜日

青年団 眠れない夜なんてない 再見

06/07/2008 ソワレ

千穐楽。
ゆったりと、焦って事件を追わずに、でも、油断なく、舞台に眺め入る。

どっかの劇評に「手に汗を握ることは起きない」と書いてあったが、こんなに充実した舞台に見入っていて「手に汗を握らない」というのは一体いかがなものか。ハリウッドのアクション映画でしか手に汗を握れないのは、コーラの飲みすぎで味蕾が死んじゃったようなものである。
ま、逆を返すと、僕がコーラがぶ飲みしたら一発でお腹壊しちゃうということだが。

ゆったりとしたうねりが気持ち良い。ディテールがポンと目に触れることがあって、それも良い。

どこか作り物っぽい環境の中で作り物っぽい日々を過ごして、そこから出たくなくなっちゃう人たちを、「本当の作り物」の中で演じているのが、何だ か面白かった。でも、そういう「作り物of作り物」の裂け目から、作りきれない何かが染み出てきちゃったりするのが、また面白い。

何度見ても、誰と見ても、きっと違うものが見えてきて、面白いのだろうと思う。

地点 三人姉妹

06/06/2008 ソワレ

初日。
叔母に「関西で面白い芝居はあるか」と聞かれて地点を挙げ、挙げてしまった以上時間をとってお付き合いせずばなるまい、という口実で、大阪まで来た。
三浦演出の三人姉妹は春風舎で見逃していたので、一度観たかったというのもある。新幹線の往復チケット取った後になって、秋に東京に来ることが判明。まんまとはめられた。

ということで劇場に着くと、Mさんとでくわす。初めて紹介されたのが那須のなぱふぇす、次に顔をあわせるのが大阪で地点の初日。M氏はその後午前零時開演のやみいちこうどうに出かけていったが、いやいや、ホント、好きモンですねえ。かないませんわ。その他、いろんな人に出くわす。美術の杉山にも出くわす(初日だから一種当然か)。芝居がハネた後、なぜか叔母と二人で打ち上げにもお邪魔した。なにがかなしうて大阪まで来て杉山と飲む?まあ、叔母は楽しかったみたいで、それがなにより良かったのだけれど。

で、肝心の芝居だが、これは、本当に、観に来て良かった。
まさに公演中舞台上にあるものすべてに演出の意図が行き渡っていて、役者も舞台も戯曲も音も、すべて芝居の切り離しえない部分となっている。それがすごい - と感じるということは、じゃあ、常々見ている芝居では演出の意図が行き渡っていないということか?いや、そうじゃないよね。

おそらく、自分としては、芝居の中の時空の「粗と密」を楽しむ部分はきっとあると思っている。三浦演出はその「粗」を許していなくて、まさに「芝居を作りこむ」とはこういうことなのか、と思わせる。役者・音響・照明・美術・舞監、みんな、すごいストレスにさらされていることだろう。
で、そういう、芝居の中で起こっている・中にあるすべての事物について、「あれはどういう意図なのか?」と問うた時に、演出家から100%答えが返ってきそうな感じって、果たしてどうよ、ということはすこーし考えたけれど。すごい気合を入れて描き込んだ油絵みたいな印象が強烈に残る。

もちろん、一筆書きの一字だって、面白いものは1時間観ていて飽きないものなのだ。そこら辺のことをウンウン考えてしまった。東京公演も大変楽しみ。それまでにありったけ考えておかなくちゃ。

A級 Missing Link 裏山の犬にでも喰われろ!

05/07/2008 マチネ

初見。精華小劇場にも初めてお邪魔した。
なんばの街の人通り、人のうねりにあてられつつ劇場へ。小学校の体育館跡ということで、もっとだだっ広く拡散する空間かと思っていたが、案外そうでもない。

舞台上に作られた10畳間が、いろんな時点の・いろんな場所の、複数の登場チームの活動の場となっていて、それが、「人間よりも古くから地球上にいる一族」の姉妹の話とリンクしながら物語をドライブする。冒頭の姉妹の会話がちょっと力入っていて、かつ思わせぶりすぎるところもあって、2時間強の芝居、どうなっちゃうんだろう、とも思ったが、逆にそこで余計な期待をやめた分、楽に観れたのかもしれない。妙にいらいらすることなくあとの2時間集中途切れず観た。

複数の物語の絡ませ方自体は悪くなかったのだと思う。そこで不快感を催さないから2時間もったのだろう。ただし、抑圧するもの⇔されるもの、の単純二元論は弱いし、劇団ネタ、台本入れ子ネタは、「あざといプロットの入門編」みたいな風もあって、工夫の余地ありか。一度つくった物語の構造を壊して、もう少しうにょうにょと分かりにくくしても良かったと思う。

一方で、関西弁の台詞の芝居だったのは好感度アップ要因。関西の劇団だから当然か、というと、東京で観る関西の劇団は必ずしもそうでもないし、そこら辺が「ああ、やっぱり来てみるもんだ」と思えたりする。

大きな減点要因は、冷房の効かせ過ぎ。後半は左肩が冷えて冷えて。全般に大阪は東京に較べて冷房が激しい感じがした。喫茶店、電車の中も含めて。みんな、平気なのかな?

鉄割アルバトロスケット 鉄割の信天翁が

04/07/2008 ソワレ

鉄割を見始めてからもう何回目かになる。当パンに自分の好きなネタが載っていると、大変にうれしい。開演前から期待感が高まる。オープニングの「はじ◎よ」、やたらカッコよくて、ここだけでもう「来てよかった」感たっぷり。あとはリラックスして観た。

あれ、なんか、前半だけで帰っちゃった人も結構いるみたいだけど?
っていう風になるのも、実は今回、ちょっと頷けないこともなくて、その回の前半にはキレを感じず。「もうすぐ休憩ですからね」ってえ台詞が本当に苦しく聞こえて、どうしちゃったのかと思う。
後半盛り返して、馬鹿舞伎には拍手も出たが、トータルではやはり長く感じた(って、実際2時間30分近くやっててくれたので、僕としてはお得感あり)。

「いつわさん」、カッコよい。泣ける。「麻薬の取引現場」、Sabotageのクリップをそのまま舞台でやる根性に感服。その他色々あるが、中島弟の露出度がいまいちだったかも(それは言わない約束か?)。

初見でこの長さだったら、やっぱりきつかっただろうと思う。が、末広亭で寄席を見たら、休憩挟んでもっと長い時間やってるわけなので、そのつもりで観れば、なんてことはないのだ。
力を抜くのが、ポイントでしょうか。