2007年6月28日木曜日

東京乾電池 眠レ、巴里

27/06/2007 ソワレ

ゴールデン街劇場。割と好きだ。平日の8時から、上演時間45分の小品を見て、サッと帰るもよし、いっぱい飲んで帰るもよし。
この小ささはなかなか良い。

で、東京乾電池のこの芝居は、登場人物3人で、また、ちんまりとしていて良い。
巴里に遊びに来た(と思われる)姉妹の、どことなく「ごっこ」の匂いがするやり取りは、そのうち、「あ、これ、しゃれじゃなくごっこなのね」ということを露骨に匂わせて、それで終わりかと思いきや、最後、谷川昭一朗が登場する。
そこで気付いたこと。

①僕は谷川昭一朗の演技が、好きだ。ということ。プリセタでもそうだったけれど、特にこの「眠レ、巴里」では、あれくらい突っ放さないけれど持たない。
②でも、戯曲としては、最後の谷川の台詞は、全て説明台詞なのである。全て。それは、イカン。姉妹の「ごっこ性」をそのまま宙吊りにしておいて幕を閉じても充分面白かったはずなのに、なぜ全てを説明したかったのか?自信が無かったのか?

イカン。これは、イカン。でも、余計な説明台詞入れて45分。最後の5分除いて40分だったとしても充分楽しめたから、いいや。最後の5分だって、谷川氏の演技拝見できたんだから、それも、イカンの7掛けくらいにしておこう。

いや、短くて、悪くない芝居って、年をとってくると貴重だ。また、月末ゴールデン街劇場、お邪魔すると思います。

2007年6月25日月曜日

新転位・21 ホタルの栖

24/06/2007 ソワレ

前回の「嗤う女」は予想外に気に入ったので、2匹目の泥鰌を狙って再度中野光座へ。
うーん。削ぎ落としすぎてなんだか痩せてしまって、本来辿りつくはずのものも辿り付かないというか。芯まで鉛筆削っちゃったらさすがにつらいよね、というか。

ちょっとがっかりでした。

でも、やっぱり、僕は、あれですよ、山崎さんの戯曲は、好きですよ。えぇ、好きですとも。
どういう理由か分からないけれど、芝居を観ながら、
「山崎さんは、唐さんのような戯曲を書いているつもりなのではないか。結果として似ても似つかないものになっていても」という気が、少しした。独白の飛ぶ方向と、どこに結実するでもない物語を語り続けることでその場限りを永らえようとする感覚が。

今回も1時間50分、変なお洒落な芝居もどき観てるよりよほど良かったし、都合と体力が付けば、次も、観にお邪魔するかもしれません。

なぜだか、20年ぶりくらいに、「まことむすびの事件」を観損ねたことの悔しさがぶり返してきました。

ポかリン記憶舎 息、秘そめて

24/06/2007 マチネ

まさに、1時間半弱の時間を「切り取って」舞台に載せて観客に提示する、その間の時間の流し方も苦しいくらいに丁寧で、切り取られたフレームの外にあるものをこれまた苦しいくらいに表に出すまいと封じ込めながら進行する、いわゆる「静かな芝居」の王道のような芝居。

役者もクサくない、受付は総和服で圧倒的に美しい、舞台美術も(エレベーターで入場なんてアゴラでは始めてだ)気が利いていると思ったら鴉屋だった、途中出場の福士史麻の美しさに文字通り息を呑む、ということで、表立って異を唱える要素はないのだけれど。

でも、この芝居の「透明さ」「洗練」「潔癖さ」が、もう一つ、僕には居心地が悪かったのだ。
言い方を変えると、「視線の逃げ場が無くて困った」のだ。
も一つ言い方を変えると、この透明感、SN比の高い、dbxでノイズリダクションされちゃったような舞台に、本当に、戸惑ってしまったのだ。

青年団だったら古館寛治の足を見るとか、松井周の独り言を聞きつけるとか、10分間台詞がなくて所在無い役者の身体の揺れを見つけるとか、そうい う「ノイズ」の発見の場が満載である。で、青年団はそうした状況にキーになる台詞を紛れ込ませたりして、SN比を意図的に下げている。
唐組の芝居は、装置から音楽から客席から役者の靴に付いた泥から顎を伝って滴り落ちる汗まで、そういう余計なものがやっぱりてんこ盛りである。40年前のカセットテープのようなSN比の低さである。
チェルフィッチュは、身振りや口調の「ノイズ」をデフォルメすることで、SN比を意図的に下げている。

もちろん、それらは計算されていたりされて無かったりするのだけれど、無論、究極のところは、人間の生身の身体がバックグラウンドとして放射せざるを得ないノイズからは逃れようが無い。

で、ポかリン記憶舎の芝居は、そうしたノイズに、ギリギリのところまで抗っているとの印象を与えて、それが居心地が悪かったのだ。
その、こズルさのない、もしかすると100%真っ当な、ギリギリまでの潔癖さに対して、僕はどう申し開きが出来るものなのか、そればかり考えてしまったのだ。

ひょっとすると、今回の芝居はモチーフがモチーフであるだけにこうなったのか?いずれにせよ、また観たい劇団です。

小難しいこと色々書いたが、一番嬉しかったのは桜井昭子さんが舞台で観れたことかな。二番目に嬉しかったのは青年団では決して見れない福士史麻、収穫。

2007年6月24日日曜日

青年団若手 スネークさん

23/06/2007 ソワレ

そうだ。きっと、これは、「女子」な芝居だったんだ。

この芝居のコンセプトというか、意図が、僕にもずっとつかめないまま丸2日経ってしまったのだけれど、今、そんな気がしだした。
ただし、よくありがちな、「女の子」を前面に出したパフォーマンスではなくて、むしろそういうものにひっついてくる「観たくないもの」を削いでいった結果を舞台に載せたのではないか?

その結果残ったものが、舞台の上に散在する形で提示されたのであれば、それは、僕が春風舎で感じたこと:
・舞台の上の「個」の細部に注目することは非常に面白い。
・でも、全体を通した横糸が見えない。あるいは、見えてしまいそうになると逆に引いてしまうかもしれない。
そういう感想と、整合性が取れる気がする。

そもそも、男子にとっては、女子に横串を通した理解は不可能で、そんなことにくよくよしていてもしょうがない。

なので、僕に言えることは、「観ていて面白かった」ということだけで、それ以上の深い洞察は女子に任せておきます。

印象に残ったのは申ソゲの蛇のとぐろが、二回目に登場したときには短くなったこと。後半の「脱ぎ脱ぎシーン」では、きっともう一段脱皮して、両生 類だか卵だかよく分からないものになるんではないかと期待してしまったが、皆さん普通に(?)脱いでいたので、期待はずれでした。
(おそらく、そういう5流のストーリー性も、芝居を作る過程で排除されたのだと思う)

記号としての「女子っぽいもの」で女子らしさを判断されることに我慢がならない女子達による女子の世界の提示、という意味で、この芝居は僕から遠く離れたところにあり、また、その手と理解の届かなさ加減が一種の憧れを生み出した。のかな?

少なくとも、「女優さんたち、みんな、素敵でした」という台詞は吐かせない、という気合は漲っていたぞ。

弘前劇場 冬の入口

23/06/2007 マチネ

帰日して3度目の弘劇だ。いつ観てもそうだが、長谷川戯曲を福士賢治以下、永井、山田、長谷川と続く錚々たる弘劇役者陣が演じる芝居なんだから、基本的につまらなくなるはずが無い。

今回も、弘劇の、弘劇による、弘劇らしい舞台で、それだけでもう合格点になる、そういう、良い芝居だ。土曜のマチネであの客の入り具合はありえない。もっと広く観られてしかるべきである。

ただし。観ていて、一番苦しい舞台ではあった。
一幕一場面ものの現代弘前演劇が、何だか袋小路に入り込みつつあるのではないか、そういう予感がする。
「マンネリ」という言葉は当たらない。
むしろ、長谷川氏は、一幕ものの制限や、固有名詞を並べてみたり難しいことをポッと喋らせてみたりといった長谷川節へのこだわりを保ちながらも、マンネリに陥らないことへの意志をかなり強く持って戯曲を書いている。ように思える。

だから、「父の葬儀に妾の子がやってくる」という、まさにクリシェの塊のようなプロットをあえて持ってきても、そんじょそこらのマンネリ芝居にはなりえない。

問題は、すなわち、僕が苦しいと思ったのは、その、マンネリに陥らないためのミューズを、長谷川氏がひたすら自分の中に求めていっているのではな いかという懸念である。そして、そうやって自分の中だけを突き詰めていく限りにおいて、いつか井戸が枯れるのではないか、という、イヤーな予感である。

マイルス・デイビスが常に自分の周りに若くていきの良い才能を置いておいて、それらの才能の美味しいところをつまみ食いして自分のサウンドに仕上げていったような狡さは、コルトレーンのようになってしまわないためには非常に重要なのではないか。

あるいは、もし、長谷川さんが息苦しさを万が一感じているのであれば、一回、「外してる」といわれてもよいから壊してみるのも手ではないか?

斎場から見える沼の景色が、役者達の目にどう映っていたかは僕は知らない。でも、僕の思い浮かべるその沼は、美しく、さびしく、そして、水量を減 らしながら寂しい時の移り変わりを水面に映していたのです。上流の水源からパイプを引いたっていいじゃないか。それでこの美しいものが様々な表情を見せ続 けてくれるのであれば。

2007年6月21日木曜日

本当に痛そうだ。

お下劣なニュースですみません。

http://news.bbc.co.uk/1/hi/4253849.stm

日本でもひょっとしたら既に報道されているかもしれないが。

・「強く引っ張ったら取れた」ことに対する驚き。
・それをまた飲み込もうとしたことに対する驚き。
・それがAmandaの口から吐き出された瞬間と言ったら!
・吐き出したそれを、「これ、お前のだろ」と言って元の持ち主に手渡した友人の心持はいかに。
・そして、これだけのことをしておいて、「私は人に暴力を振るうような女じゃないのよ」と言ってのけるAmanda Montiよ。君は一体。

BBCの人気ニュースから引用させていただきました。

2007年6月19日火曜日

グリング ヒトガタ

18/06/2007 マチネ

上手い。上手い。も一つついでに、上手い。
とても上手く書けていて、凡百の戯曲家志望が来ていたらもういやんなって戦意喪失しちゃうくらいに上手く書けている。

登場人物の設定、過去の経緯、深刻一直線にもっていかない外し方。キャラクターも直球、変化球、ナックルボール、頭を狙ってくるタマ、と使い分けて、観客に的を絞らせない。飽きさせない。本当に(良い意味で)隙の無い、ズルい書き手だ。

で、この非常に出来の良い芝居を、僕は、
「いつ、どこで、ウェルメイドに落ちるだろうか」
とハラハラしながら観ていたのである。ウェルメイドまであと1㎜。そこで僕はこの芝居に興味を失うだろう。
と、一方で、
「なぜ、僕は、そういうネガティブな期待を半分抱きながらこの芝居を観ているのか」
とも考えていた。

その理由は、敢えて挙げるとすれば、
「観客がキョロキョロと視線を泳がせる余裕が与えられていない」
ことかな?それには、多分、二つの要素があって、
・余りにも隙が無いので、役者が駒として動くのは当然としても、観客の視線までもが作・演出の意図に100%はまるように作られているから。
・芝居のペースが割合に速くて、余計なことを考える暇が観客に無いから。

僕としては、「ちょ、ちょっと、待ってください。もうちょっと、この芝居から思いもよらぬ破れが裂けて出てくる瞬間を探させてください」と言いたくなる。
それを許さない、という意味で、非常に厳しい芝居であるともいえる。
はなから「客に100%与える」だけの芝居に走っていたら、それは、ただのウェルメイドなのだろうけれど、どことなく、僕には、「観る側の力を試されている」ようにも感じられた訳です。

次も観てみたい。目の玉をひん剥いて観てみたい。ウェルメイドに落ち込まない裂け目を、今度こそ覗いてみたい。でも、もう半分は、「ちぇ、ウェルメイドだったぜ」になるかもしれないというネガティブな期待感。本当はどっちだ?

2007年6月18日月曜日

鋼鉄村松 P型柔道一門

17/06/2007 ソワレ

この劇団名、気合入っていそうだ。
プロレス技が連続で炸裂するマッチョな劇団を予想していったら、やはりプロレス技や柔道技(タイトル通りか)が出てきた。

展開の出鱈目さも、最後、みんなで仲良く暮しましたとさ、のところも、信長観光旅行も、良い。それは、作り方としてOK。

でも、巧拙を問われれば、拙。

間を空けないとか、がなりすぎないとか、聞いて飽きる台詞は速く言ってしまって逃げ切るとか、そういうことをしてみて、テンポまで考えないと、折角の大技が活きないだろう。

若い劇団と見受けた。他の芝居(面白いのもつまんないのも)もっと観て、何が観客にとってたるい瞬間か、を覚えると、もっと良くなるんじゃないかと。
とか考えながら観てて、われながらジジ臭い。あー、やんなった。芝居そのものより、自分のジジ臭さがたまらん。
でも、僕の思ったことを素直に書くと、上の通りです。

2007年6月17日日曜日

風花水月 ホタルカワ

16/07/2007 ソワレ

チラシに前田司郎氏が「面白いかどうかは何ともいえませんが、とりあえず観てみて判断しても良いじゃないかな、と思わせるくらいの何かはあるんじゃないかな、と思わせるくらいです。まあ普通じゃないでしょう」と書いていたので、観に行った。

確かに、芝居って、観てみないと判断できないのが醍醐味なので、それは当たっていた。でも、「普通じゃない」というのは、外れていました。

祖母の葬儀にやってきた四人きょうだい。そこで展開する微妙な人間関係のさざなみ。設定としてはスタンダードで悪くないでしょう。

ただし、だ。
・ここがどこかという舞台設定の状況説明に30分はかけすぎ。嫁の台詞が、おしゃべりに名を借りた説明台詞の連続技である点について自覚できているか?これでは役者がかわいそう。
・続く20分が4人きょうだいの現状説明のおしゃべり。これも時間かけすぎ。
→ この50分間、芝居は一切立ち上がる気配を見せない。90分の芝居でこれは致命的だ。

アンケートにも書いたけれど、1時間15分くらいのところで、夫婦が頭を下げるシーン。ここから芝居が立ち上がる気配を見せる。でも、すぐ終わりに差し掛かっちゃうんだよね。
例えば、岩松芝居だったら。
「暗転板付き。畳の上で頭を下げている夫婦。"まぁ、頭上げてくださいよ。フフフ"で夫婦はけて、そこからダラダラと会話続きつつ、冒頭の夫婦の投げかけたテーゼを巡ってきょうだいの今の神経症的関係性と過去の生い立ちが...」
例えば、平田芝居だったら。
「夫婦が頭下げているところに葬儀場の係りの人が来て、段取りのことで夫を呼び出す。そうこうしているうちに、夫婦がしたい話はなかなか出来ず、話が進まなくて観客いらいらする...」
例えば、前田芝居だったら。
「暗転板付き。三女がトランプぺしぺしめくりながら、"売る、売らない、売る、売らない"とひたすら花占をやっている...」

そういう展開の方が、面白かったんと違うかい?分かった口のきき方をして申し訳ないけれど。
結論は: 説明台詞を削るのには命を賭けろ。いくら姑息でも構わない。

ワンマン・ショー

16/06/2007 マチネ

終演後最初の感想は「オレ、疲れてるのかな?」。
観ながらずっと考えていたことは、「本当に上手に書けているな」。

こんなにも上手に書けている芝居であるにも拘らず、開演から終演まで、ついに「はいれずに」終わってしまったのだ。

冒頭のシーンは、つかみとして上々、その後大団円に向けて何か仕掛けがあることを予感させる。
その後展開するシーンは適度に人間関係を「説明」しながら一方で「その場のやり取り」を展開させ、同時に「伏線」もきちんと張っておいて、ラストに向けてきっちり風呂敷を閉じる。
本当に良く出来た構造で、非の打ち所が無い。

舞台も左右の傾斜がアクセントになっていて、傾斜舞台で真っ直ぐ立ったり座ったりという演技って実はきつくって、大変だろうな、何て思いながら観ていたのだけれど。

でも、この遠さはなんだろう?
何だか、プロセニアム劇場以上にプロセニアムがはまっている感じ。芝居のテーマからいって、「作り物感」を出したいということなのだろうか?うーむ、そうだとするとちょっと違うような気もするし。
でも、役者の演技自体が気に食わないわけでもなかったんだけどなぁ...

とにかく不思議だ。小屋で観ているにもかかわらず、教育テレビで芸術劇場観ているかのように芝居が展開していくのだ。
最近読んだ本のフレーズを借りると、「一枚の薄いヴェール」が僕の座る客席と舞台の間に終始かかっていたのだ。

わざと遠く創っているのであれば、「それは違うんじゃないか」と言おう。
僕に原因があるとすると、それは、
①芝居を観るときはいつも万全の体調で
という標語か、あるいは、
②残念ながら僕の趣味は若いお洒落な感性についていけてない
のか、そのどちらかだろう。何だか、スズナリで観てみたい。
(と思ったら、次は吉祥寺シアターか。微妙なプロセニアム感ですね。)

2007年6月11日月曜日

タテヨコ企画 ムラムラギッチョンチョン

10/06/2007 ソワレ

俺、本当に、横田くんの芝居、好きだなぁぁー。好きだよ。
この劇団の芝居は、本当に、もっとたくさんの人に観てもらって欲しい。

坊さん修行シリーズ第三弾(でも僕は初めて観る)。脱走した若い僧を取り戻しに、仲間の修行僧達が田舎の旧家までやってくる。という話。

いわゆる一幕ものの現代口語演劇のカテゴリーにしっかり嵌まり込み、臭い演技を排除しつつも、飽くまでエンターテイニングに、観客を飽きさせないようサービス精神旺盛な作りこみ。

かつ、この役者たちを観よ。他で客演しているのを見ても、いわゆる獣系、鎖でしっかり繋いどかないとどんな演技するかわかったもんじゃないような役者が勢ぞろいする中で、それを立派に飼いならす演出の力にも瞠目する。
他から客演する猛者どもについても同様。

が、それらを踏まえた上で、何といってもこの劇団の物凄いところは、

「芝居全体が横田修の<いい人>な人格で溢れている」

ところである。そしてそれを、役者たちが嬉々として演じていることである。こんなに幸せそうに芝居してる連中には滅多にお目にかかれない。
(もちろん、外から見るのと実際に中に入るのとは大違いで、実話として、僕が舞台に立っているのを見て「こんなに楽しそうに芝居ができるものなのか」と勘違いして舞台に復帰したらやっぱりつらかった、という人間を一人知っている)

でも、こんな芝居、ここまでの良い仕事ができるのなら、喜んでだまされてみたい、と思わせる。

コアとなる役者だけでなく、ワキにも実力のある役者を配して、いや、本当に良い芝居を見た。
あ、そういえば、修行僧たちって、実は、アングラ正統派の三人組の流れをきっちり踏襲していたぞ。そこんとこもおじさんにとっては堪えられないかも。

シリーズ前作では舘さんが坊主頭になっていたと聞いて、それがとてもとても楽しみだったのだけれど、受付に普通の髪型の舘さんがいて、ちょっとがっかりでした。
舘さんいつもながら面白いのだけれど、お尻を掻くところはちょっとあざとすぎでした。ま、そこは、ご愛嬌、といったところで。

一体、こういう良い芝居を、どうやってもっと沢山の人々に観てもらえるようにするのか。
動員を狙って芝居を変えるのは本末転倒だろう。
逆に言えば、このテの芝居は、マス消費がしにくい、売りにくいということなのだろう。
だから、飛びつくやつらが出てこない。
ファストフードを食べるのりで観にくる客もいない代わりに、動員がブレークすることもない。
横田修の<いい人>ぶりまで消費されちまったらそれは大変なことで、1ファンとしては、このままブレークしなくてもいいかな、と思ってしまうのだが、また、それも、良くないんだろうな、きっと。

Ronnie Rocket ともだちのともだち

10/06/2007 マチネ

Ronnie Rocketと言えば、僕にとってはイングランドのスヌーカーのスター、Ronnie "the Rocket" O'Sullivan
である。
それで、この劇団名もそこから取った、わきゃないよな、と思いながら下高井戸は青の奇蹟へ。
生まれて始めて下高井戸の駅で降りた。
(後で調べて見たら、David Lynchの未完のフィルムのタイトルみたいですな。失礼しました。)

なぜ、この芝居を見に行く気になったか?
① 僕は、小さな小屋に弱い。それも、男芝居の、かつ(おそらく極端に小さい小屋での)4-5人の芝居には弱い。
② 劇団名に引っかかるものがあったから(結局は誤解だったが)。
③ チラシの時点で、90分一本勝負にこだわっている様だったから。

で、ほぼ期待に違わぬエンターテイニングな90分。
男6人、狭いアパート・喫煙所を舞台に繰り広げるなんてことはない都市伝説ホラー、なんである。
これでもかこれでもかと都市伝説を繰り出し、出てくるそばからもぐら叩きのようにつぶして時間をドライブしていく。
だが、大事なのは狭い空間の中での暑苦しい男たちのどこにも出口の無いおしゃべりであって、物語自体ではない。
物語は、あくまでも、刺身のつま。そこに好感が持てた。

そもそも僕は小さな小屋で役者が極端に近いところで演技しているのが好きで、というのも、ちょっとしたこと
(例えば、靴下の脱ぎ方とか、足の指でグーチョキパーするとか、ダンボールとダンボールの間を指で揃えてみるとか、タバコの箱とライターをずっといじってるとか)
がよーく見えて、そういうものの積み重ねが、
「作り物としてのハイパーリアル」
ではなくて、
「今、ここに、役者がいることのリアルさ」とウソンコの台詞を喋っていることとのギャップの面白さ、
に繋がると考えているからなのだけれど、この、まさに極端に狭い小屋で、そこら辺を堪能したわけです。

青の奇蹟から表に出ると、何と雨が上がっていて、暑いくらいでした。

2007年6月10日日曜日

青年団国際演劇交流プロジェクト 愛のはじまり

09/06/2007 ソワレ

蛍光灯しか付かない真っ白な舞台。役者二人、常に前を向いて台詞を言うので、台詞が相手に向けられているのか虚空に飛んでいるのかははかりかねる。台詞も独白調とやり取りが交錯して、これも、実は、慣れるのが大変だった。

あと、Transatlanticな恋愛、というのは、いくら作・演出本人の体験といっても、余りにもありがちなパターンで、正直、どうなることかと思った。

が、1時間とはいえ、最後まで観れてしまったのは、独断と偏見で断じるとすれば、役者の力だろう。

ランベール氏のインタビューでは、「俳優それぞれの内面にあるものを上手く引き出して」とあるが、正直、僕はそんなものには関心が無い。だって、 上演中の俳優は「次の台詞は?」とか「なんで今日は相方の役者はこんなふうに台詞を言うんだ?」とか考えているので、そんな内面を引き出されてもしょうが ない。だから、僕の言う役者の力は、どちらかというと、

ハードウェアとしての役者の力。

永井・荻野ともハードウェアとしての立ち居振る舞いが非常に力強く、余計なものが無く、美しい。
もし、余計なものを削ぎとって、そこに滓のように残ったものを「内面」と呼ぶのであれば、確かに内面は引き出されていた。

並びの席に、小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子が父親と来ていて、僕としてはかなり心配していたのだけれど、彼女は最後まで集中を切らすことなく役者を見つめ続けていた。
大人の観客の中には居眠りしてる人もいて、それは、芝居中に他の観客のことが気になった身としては、多分に同情できる
(でも、僕は寝てません)。
そういうことである。
役者の手の動き、視線の動き、アクセント、台詞、それら全て、食い入るようにして見るに値する。だから、他の観客が気になってしまう僕は、失格です。
(でも、その子供は、唄の繰り返しの4番目くらいにはちょっと飽きてたかな。)

言い訳として付け加えるなら、投射される英語字幕と日本語の台詞のズレは、かなり面白かった。なので、僕の視線は、
永井→荻野→字幕→永井→字幕→荻野→永井→字幕→荻野→(ときどき客席)
というさまよい方をしていたわけです。

全体としての評判がどうなるかは良く分からないけれど、僕の印象は、役者一人勝ち。

NEVER LOSE  タバコトーク

09/06/2007 マチネ

主宰谷本氏が10何年前に芝居人生を始めた場所が当時の中村組稽古場(現在アトリエ春風舎)であるならば、僕が芝居人生を始めたころ、1987年に中村座の稽古を目の当たりにしてショックを受けたのも同じ場所だ。こっちはもう20年前になる。

で、芝居の話。一言で言うと、好感度の高い芝居。

まず、冒頭出てくる役者の顔が良い。まっすぐ椅子に向かわずに、無対象廊下と無対象の教室のドアを開けて椅子にたどり着くために、下手のへちを客に向かって真っ直ぐ歩いてくるのだが、その時の顔が良い。
大体、隠れて煙草吸いに行ったりエロ本買いに行ったり便所に立ったりするときって、こういう顔をしていた、その記憶に訴える。

そして、冒頭の台詞の掴み。「5点。」説明無くとも何のことだかすーぐに分かってしまう。おじさんはやられた。

激するとすぐがなるのはどうかと思うけれど、説明台詞とか変な伏線なしの直球勝負が好感の持てる理由。

ある日眼が覚めるとオッサンになっていた、というのも、良い。とても良い。繰り返して言わなければならないのは、ハイバイの「1年に3歳年をとっ てしまう大学生志賀くん」のインパクトにはとても敵わないからで、でも、敵わないけれど、良い、といわないとネガティブに聞こえてしまうので、繰り返して 言う。良い。

この、シンプルな直球勝負の芝居は、やはり、1時間以上は持たないだろう。この劇団は初見だったが、変化球も取り混ぜて1時間半完投できるかどうか、興味深い。スケジュールのやりくりが付けば7月の芸術劇場も是非行きたいのだけれど...

2007年6月7日木曜日

本谷有希子 ファイナルファンタジックスーパーノーフラット

06/06/2007 ソワレ

本田透氏が目を剥くだろうところの、本谷版電車男。
(2001年の芝居のリメークということは、「本谷版電車男」という名づけは当たらないかもしれないし、そもそも、俺、電車男読んでないのだけれど)

何で本田氏が眼を剥くかといえば、主人公の男が、自らの「モテの危機」について余りにも無自覚なまま、三次元の女性を受け入れてしまっているからである。
そもそも「三次元の女に用はない」はずの男が、中途半端に生身の世界に未練を残したばっかりに起こる悲劇というか喜劇というか。その中途半端さは 本田氏をして「この男はまがいものだ!!負け犬の陰謀だ!」と叫ばせるに足るであろうし、一方で、この芝居の世界がラストに向かって走っていく駆動力とし て機能している。トシロー役の高橋一生が、そこら辺の中途半端さを冒頭から「吐き気を催さない程度に分かりやすく」演じていて中々良い。

トシローの周囲に集まってくる女性達は、揃いも揃って「生身の私、そのままの私を見て見て愛して、受け入れて」と叫び続けていて、それは思い切っ て単純化すれば、二次元の世界に行ってしまった彼を生身の愛で引き戻せるはずという図式。トシローからすれば、あぁ、二次元の世界から出てこれなくなっ ちゃった僕ちんを、誰かそのままで受け止めて、そして生身の人間として愛して頂戴、という、いつか王子様が、な図式。
その図式がかっこ良いかかっこ悪いか、気持ち悪いか気持ち良いか、という区分を超えて、「あぁ!いいから、あるがままを受け入れて、認めて!」というオーラが劇中に溢れているわけである。

ここにいたって、前回の「遭難、」になんで僕があれほど不快感を覚えたかの50%、そして、今回の芝居もやっぱり気に食わない理由がやっと理解できた。
この、「現実の汚い私を受け入れて」の図式が、昔モーニングに連載していた「宮本から君へ」にそっくりなんである。
当時僕があのマンガを眼にして覚えた不快感が、本谷芝居にはあるのだ。

で、僕は非常にすっきりした気分で劇場を出た。
「宮本から君へ」が当時広く受け入れられていたことに文句をつけ得なかったように、今、本谷芝居が受け入れられる理由も何となく理解できる気がするし、それにケチをつけてはいけない。本谷芝居は、広く、受け入れられるだろう。

この芝居の舞台となっている遊園地も、実は、絶えず、「ここは遊園地なんですよーーー!」と人々の五感に訴え続けなければ遊園地として成立しないという宿命を負っている。そういうフレームをこの芝居に嵌めたところに、どことないセンスも感じたのである。

勿論、大部分において(例えば音楽や照明の使い方、説明台詞や説明シーンの多様など)本谷芝居は、旧来の芝居の文法の上に成り立っていて、これを 「新しい感性」とか「新しい芝居」と呼ぶ人の眼は節穴だろう。そして、生身を見て見てのオーラからたち現れるものについて、表現者としてどうよ、という留 保はつけたい。
でも、「何で本谷芝居をみんなが観たがるのか」について疑問を差し挟むのは、もう、やめます。

1行でいえば:
「流行る理由は良く分かった。でも、僕の趣味じゃない」

(ちなみに、前回の遭難、が気に食わなかった理由の残りの50%は、松永令子さんの演技です。あしからず)

2007年6月4日月曜日

猫の会 しゃべる猫とだらしないひと

03/06/2007 ソワレ

「ゆるい芝居」と銘打ったときに気をつけなければならないのは、「ぬるい芝居」にならないことと、「紋切り型」に陥らないことではないかと考えている。

重たい飛行機が空に浮いていられるのは高速で進んでいるからで、速度が緩んでもなお浮いていることは非常に難しい。速度のゆるい飛行機とゆるい芝居は、なかなか成立が難しいのである。

で、この芝居は、「だらしないひと」という割合紋切り型の設定に対して、「しゃべる猫」という設定を持ち込むことでモメンタムを持たせようとしているように見受けたが。

やはり苦しいのは、「猫っぽさ」とか「だらしなさ」とか、そういうものは紋切り型への罠を多分に含んでいて、この芝居もそこから抜けきれていなかったことかな。

あと、基本的なことでいうと、本来説明不要な状況の説明に説明台詞が使われちゃっていたことか。もともと緩くつくっているだけに、そういうところで推進力が更に落ちると、芝居が失速しかねない。

とはいえ、「感動させてやろう」という余計な力が入らないところから始まっていることは好感度もてる芝居でもあり、色んなテクニカルなところをチューンアップ出来たらな、と、素直に思ったわけです。

結城座 ドールズタウン

03/06/2007 マチネ

カラフト伯父さんで大泣きに泣いた小生、またも鄭義信マジックにしてやられて涙止まらず。

でも、実は、冒頭、ひょっとこの唄に誘われて人形達が登場した時点で涙出ちゃいました。そのシーンの美しさよ。こういうものこそ、子供と一緒に来たかったよなぁ。うちの娘がもっと小さいときに。

なーんて思ってしまった。
しかし、本当に、芝居小屋で笑ったり泣いたりが殆ど無い(と思っている)自分が、こんなに簡単に涙のツボに入ってしまうとは。
ゾウリの伏線にも、それを予期した時点で涙が出そうになるし、おかめの「あんたぁ」にもウッとつまってしまう。
(まつお、吉祥寺で観た近藤優花さんの「あんたぁ!」も良かったけど、こっちの「あんたぁ」も別の意味できれいだぜ!)

第一、ひょっとこの引くリヤカーのタイヤ、12インチだよ。ありえないよ。歩道と車道の間の段差、越えられないよ。そんなありえないリヤカーが坂 道を登り、街を見下ろし、山を越えてどこにあるとも知れぬ「隣の街」へ進んでいく。そのイメージだけで涙がTシャツの首周りのところまで流れてくる。傍で 見ていたらとても気持ち悪いだろう(幸いなことに隣で観ていらしたご婦人は居眠りこいていた)。

後ろからしゃくりあげる音、鼻をかむ音が聞こえてくる。後ろの席の(おそらく朝鮮半島から来た)カップルの男も、男泣きに泣いていた。そうだよな。涙出ちゃうよな。俺だけじゃないよな。

てな具合の鄭マジックだけではなくて、さすが人形芝居、MATRIXもウルトラQもNever Ending Storyも特撮なしで可能になっちまうので、そういうエンターテイニングなところも含めてすっかりやられました。

いやはや、芝居って、本当に、面白い。大いに楽しんだ。

2007年6月3日日曜日

大人計画 ドブの輝き

02/06/2007 ソワレ

芝居のチケットを買うのにここまで頑張って買ったことは今まで無かったし、これからも無いだろう。

先行販売の抽選にことごとく外れ、一般前売り開始直後にチケットは蒸発し、大人計画の人気のほどを思い知り、自分の世間知らずを思い知った。
で、実は平日ソワレの当日券を買おうと思って電話かけたら思いのほか繋がったものの、「5時45分集合です」と、サラリーマン殺しの一言。平日ソ ワレを断念し、悔しさの余り何と土曜ソワレの当日券を狙う暴挙。案の定電話は繋がらず、繋がらないどころかNTTから「ただいまこの方面には電話が繋がり にくい状態で」などと、婉曲に、「何しつこくかけてんだよこの演劇マニアがあぁ!!」と言われている様で、すごすごと引き下がってタイムアップ。駅に向か いながら未練たらたら掛けてみた所が繋がった、という次第ですが。

そこまでして観るほどの芝居か、と尋ねられれば。
「そこまでして観たい人が沢山いることについて、しっかり納得が出来ました」
という答になるだろう。

エンターテイニングかつセンスもあって、役者に力がある。あと、人気があるのに、「客の笑いをとりにいかない」態度が良い。笑いたい人は笑ってください、そうでない人は笑わなくてよいです。僕らは自分が面白いと思うことをやっている。
という態度のように感じた。
なので、僕はそんなに笑わなかったけれど、面白いものを観た、とは確かにいえる。

(1つだけ例外があるとすれば、映画の中で執拗に阿部サダヲの変な顔を見せたがっていたのは、あれはダメだった)

でも、次回以降、気合入れてチケット手に入れて観に行くか?行きません。
公演回数を2倍に増やしてください。人気あるんですから。

(2時間半の芝居を1日2本はつらい。帰宅時にはぐったりして機嫌が異常に悪くなっていた)

シベリア少女鉄道 永遠かもしれない

02/06/2007 マチネ

正直言って、あんまり期待していなかったんである。
理由を具体的に書くと、シベリア少女鉄道と全く関係の無いところで波風が立つので書かないが、期待していなかったんである。

1980年代末に仕事をして以来のシアターグリーンは、見違えるような近代的なビルに立て替わり、ビルの中に2つも劇場が出来ていた。いきなり驚く。が、客席の質素さにちょっとだけほっとする。

で、芝居はといえば、これが、とても面白かった。期待していなかったことがすまんかった位に面白かった。2時間20分はちと長くて、もちろんもっと削る余地ありとは思ったけれど、それを補って余りあるくらい面白かったし、何しろセンスがある。

何をどうかいてもネタバレなので(とはいってももう日曜日で千秋楽ではあるが)できるだけ書かないことにするが、どこに「やられた」と思ったかというと、
・忠臣蔵とサザエさんのリンク付けとその落とし方
・2時間10分経過時、「そろそろ客席飽きてきたかな」のタイミングでの女子学生上手のはけ。
この2つが秀逸。

全体のノリは、何となく80年代の山の手事情社等、TOPSやアリスで観たような芝居を思い出したけれども、
・全体のフレームの嵌め方と役者のあてがい方
・「演劇のごっこ性」の、微妙なところで勘違いしない遊び方
を心得ているように見受けられて、妙な懐かしさ無し。

なるほど人気がある劇団なわけだ。納得した。

ただし、前半25分はたるいし、つらい。全体のフレームの嵌め方とエンディングに向けての加速度を考えたら今回のようなペース配分と序盤のスピードの無さはむしろ必要と考える向きもあるかもしれないけれど、
ハイバイのように、下手な説明台詞を「開演前の作・演出からのアナウンス」で代替して時間をセーブする方法もありなんですから。