2017年4月26日水曜日

Who's Afraid of Virginia Woolf?

11/04/2017 19:30 @Harold Pinter

昨年なくなったエドワード・オルビー先生の有名戯曲「バージニア・ウルフなんてこわくない」を、Imelda Stauntonと(Game of Thronesでも有名な、でも筆者はMcPhersonのSeafarerでの演技が印象深かった)Conleth Hillで。
これまで、舞台でも映画でも未見だったのだが、各紙劇評でも素晴らしいとのことだったので当日券で。いやはや、本当に素晴らしかった。
オルビー先生が1960年代にこの戯曲を書いていたこと自体が既に素晴らしい。すぐれて現代にも通じる二組の夫婦のお話。

物事のよく分かった物知りさんによれば、これは、「二組の夫婦のあいだのエスカレートしていく罵り合いを通じて夫婦の偽善的な関係が暴きだされていくさまを描いた作品」らしいのだが、
筆者にはそういう風には見えなくて、
「いやいやいや、あの中年夫婦は罵り合ったり浮気したりさせたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、仲良く生きているんです。過去も、多分これからも。
若い夫婦も、これからずっと、借りを作ったり作られたり、嘘ついたりつかれたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、生きていくんです。
観客の皆さんも、それ、よーく分かってますよね。
くっさいドラマみたいに、幸せ夫婦が突如不幸のどん底に、とか、普通はないから。みーんな、程度の差こそあれ、こんな風にえっちらおっちら生きてくんだよね」
っていう、面白くも何ともない(でも激しくキッツい)現実を突きつけられているようにしか思えなかったのだ。

そういう、まさに、現代日本においてであれば深田晃司が映画にしているようなネタを、オルビー先生が50年前に戯曲にしていたというのが驚きだったんだ。
そうです。似たような話、「淵に立つ」で、深田監督が昨年カンヌで賞を取っている。

なんせ「淵に立つ」の宣伝文句が、「あの男が現れるまで、私たちは家族だった」である。
「バージニア・ウルフなんてこわくない」の宣伝文句は、「あの夫婦が現れるまで、私たちは家族だった」だったのに違いない。

両作品とも、現代の家族の折り合いの付け方を厳しく突きつめるという点で、キッツいのだけれど、でも、作品の結末は、必ずしも人生の終わりや夫婦の終わりではなくて、実は、始まりである。それも、「新しい希望への始まり」ではなくて、どん底の底へと落ちていくでもなく、希望の光が一条差すでもなく、まあ、折り合いをつけてやっていきましょう、という、現在地を確認したうえでの、「また始まるのかよ」っていう始まりなのである。しょうがねーなー。

そのやるせなさとキツさ、一方で、人間、結局そういう状況に折り合いつけちゃうんだよね、という切なさを、Staunton/Hillコンビが余計な色をつけずに演じきって、大満足な結果に。
最初の登場からガツーンとギアをトップに入れて、グイッと観客を引き込む手管。Stauntonの剛を柔でかわして自分のペースに持って行くHillだが、いやいや、そのリズムには愛が感じられて、こりゃ一筋縄で腑分けできない夫婦関係がそこにあるのだな、と思わせる。ウェストエンドの、ある程度年齢層の高い観客を相手にして、「分かり易さに走らない」演出とその意図をくんだ役者陣。本当に素晴らしいプロダクションだった。

2017年4月25日火曜日

Travesties

05/04/2017 19:30 @Apollo

始まった途端に嫌な予感がする、あるいは、しまった、と思う芝居に出くわすことがある。今回がそうだった。

トム・ストッパードによる1974年の戯曲は、1917年のウィーンを舞台に、その街にいた(史実としては正しい)レーニンとトリスタン・ツァラとジョイスが、実は変なところ(この戯曲では市内の図書館)で鉢合わせていたら、あるいは、変なところで微妙にすれ違っていたら、という話である。それを、狂言回しとして配置された、これまた実在の、史実としては当時確かにウィーンに駐在していた英国外交官の記憶として「語らせる」という趣向。
タイトルの"Travesty"っていうのは「滑稽化」「こじつけ」「曲解」という意味だから、そもそもストッパード自身が「これはこじつけですから、真に受けないで下さいね」と言っているのか、それとも主人公の外交官の「捩じ曲がった記憶」を使ったメタな芝居なのか。

いずれにしても。冒頭出てくる外交官の老いた姿の演技を観て「こりゃいかん」となった。
「所詮パロディーなのだから、あるいは一人の老人の記憶の中で登場人物が踊っているだけなのだから、そういう風にぺらっぺらに行きましょう!」
ということかも知れないが、もしかすると、
「話しがあちこち飛び回る戯曲であるので、ある程度分かり易くしないと観客がついて来れなくなってしまうかも知れませんね」
という気遣いなのかも知れないが、いずれにせよ、如何せん演技が観客に媚びて、段取りこなしているようにしか見えない。
「内面の演技どうこう」という気は無いのだけれど、いや、そこまで観客の方を向いて演技しなくても良いじゃないですか、と思ってしまう。

この芝居、昨年Menier Chocolate Factory史上最高の興行成績を上げて後にウェストエンドに移ってきたというのだけれど、うーん、どうしたものか。

2017年4月24日月曜日

Mark Thomas - Predictable (Work in Progress)

08/04/2017 19:30 @The Hen and Chickens

自他共に認める左翼アクティビスト芸人Mark Thomasが贈る最新企画は、観客と一緒に近未来を予測して(2ヶ月後と4年後)、その場で意見が纏まったら、その結果を賭屋に持って行って、一人1ポンドずつ(観客50人で50ポンド)賭けてみようぜ!という趣向である。

タイトルにあった"Work in Progress"というのは、まさにこの回がお試しバージョンだからで、Thomas自身、開演早々、「今日のお客さんはギニーピッグだからよろしく!」「まあ、オレにも一体全体これが上手くいくかどうかは分かんないよ!」って言ってたぐらいなので、そのドキドキ感は、まず、買い。
「まぁ、この回が上手くいかなくって、その後質が上がってLeicester Square辺りで上演することになったら、オレにメールしろや。自分の観た回は面白くなかったが、その礎の上にウェストエンド公演が成り立ってんだろ。招待券の一枚でも出せよ。って。まぁ、そんなメールオレに送ったところで、オレが応えてあげる保証はないけどね。ガハハ!」と、こんな感じである。

開場前に集めたアンケートに即してトークを進めていくのだけれど、流石Thomasのショーに集まってくるだけのことはあって、皆さん感覚が相当鋭い。
これから2ヶ月の間に、
・ トランプが宣戦布告する。実際には存在しない国に向かって。
・プーチンとトランプの情事が明らかになる。
なかなかどうして、皆様、硬派なわけです。そして、おもろネタを提出した人には、舞台上のThomasから、「それってどういうこと? これ書いたやつ、だれだよ!」という、遠慮仮借の無い突っ込みが入って、盛り上がる。

4年後予測は、
・ ナイジェル・ファラージュが総選挙に出馬して、100票も入らずに落選。
・ UKがメートル法を廃止。マイル法に先祖返り。
・ スコットランド独立。
これまた激しいなぁ、なんて他人事のように楽しんでいたら、

何と筆者の書いた4年後予測にThomasが「これ書いたの誰だよ?」筆者しどろもどろであった。
しかし、そこで筆者の話にきちんと耳を傾けてくれたThomasは、口は悪いがとっても優しいナイスガイオヤジだったよ。多謝!

60分、あっという間に過ぎた。これはまた、Leicester Square辺りで観られるだろう。

2017年4月23日日曜日

Limehouse

08/04/2017 14:30 @Donmar Warehouse

1981年、左派が主流だった英国労働党の中で、中道左派に近い四人組が離党宣言、他の議員も合流して新党「社会民主党」を結成した。その結成記者会見の舞台となったロンドン東部にある(後に大々的に再開発されることになる)Limehouseにあったのが、その四人組の一人、David Owenの自宅だった。

日本に当てはめれば、新自由クラブとか、自由党とか、国民の生活がいちばんとか、そういう類いの新党結成の瞬間を、河野洋平や小沢一郎の自宅を舞台に想像してみる室内劇、ということになると思う。ただし、これは、「政治を題材にした芝居」ではあっても、「政治劇」ではない。

この、一幕もの1時間45分の室内劇は、首謀者であるDavid Owenが他の3人に声を掛けてから4人で記者会見へと向かう迄の動きを辿るのだが、そこにあるのは、政治的信条だけではない。各人の生まれ育ち、人生観、保身、好き嫌い、プライベート等々。そういうものを一緒くたに背負った個人が4人集まって、さて、一つの政党を旗揚げできるのだろうか、ということ。4人の駆け引き、口論、離反、思いの交錯、そういうものが凝縮されて、ぐっと見応えのある芝居だった、
と書きたいところなのだが、うーん、同じSteve Watersの一幕ものであっても、一昨年のTempleと比較すると若干歯応えに欠ける。

それは、冒頭の台詞"The Labour is fxxxed"が、現在世界中の左派・中道左派政党が置かれた状況を余りにもあざとく意識した台詞であるように思われて引いてしまったからかも知れないし(ちなみにもとの戯曲には、そんな台詞は、ない!)、Owen役のTom Goodman-Hillの演技が若干暑苦しくてうざったく(臭く?)感じられたからかも知れないし、5人の登場人物を均等に押し出そうとした分、一人ずつの掘り下げが十分でなかったからなのかも知れない(Templeは、焦点をセントポール寺院の主教に当てた分、却って芝居全体がグイッと立ち上がっていた印象がある)。
いずれにしても、Templeの、個人の葛藤からセントポール大聖堂の向こうに拡がる世界へと続く遠近法が力強く見事だったのと比べると、パンチに欠けることは否めない。

いや、しかし、それにしても、Bill Rodgers役のPaul Chahidiは抑えた演技で素晴らしかったし、Shirley Williams役のDebra Gillettはとてもカッコ良かったし、料理とワイン、食事を挟んで起きる駆け引きは、若干あざとさを感じさせるにせよ、マカロニの焼ける臭いまで動員して一幕もの室内劇の骨格を支えていた。上質の、観るに堪える室内劇であったことは間違いない。

それにしても、だ。1981年のUKの政治情勢なんて、筆者はほとんどついていけないのだけれど、しかし、周囲の観客の平均年齢(70歳は超えていたのではないか)の高さと、彼らの食いつきの良さったら! Atley、Wilson、Thatcher、その辺の実名に即時に反応できていたのは流石。裏を返すと、その反応の良さが、「政治情勢」と「個人の葛藤」を並べて、遠近法のダイナミクスで見せようとする試みの邪魔をしていた(政治諷刺としての取られ方が強くなってしまった)のかも知れないが。

Pirates of Penzance

25/03/2017 15:00 @Coliseum

ギルバート・サリバンのコンビの人気オペレッタをENOで。オペラと言うには軽いかな。ヴィクトリア時代の作品をミュージカルと言うのもちょっと。ということでオペレッタ。
3階席、周囲は小さな子供を連れた親子連れ、孫を連れたお年寄り、お年寄り同士、等々、観客席の雰囲気も堅苦しい「オペラ」ではない。

筆者にとっては2000年のOpen Airでのプロダクションが、この「ペンザンスの海賊」の初見で、その時は、ただただおバカでご都合主義なプロットと、警官隊の剽軽な行進だけが印象に残っていて、肝心の音楽や歌はあんまり覚えていない。ギルバート・サリバンのオペレッタと言えば筆者は「ミカド」にとどめを刺して、あの、突飛なシーンでの超絶美しいメロディ群にはとても及ばないのでは、と思っていたのだが・・・

やはり一幕目はどうしてもピンと来ず。後半の「タラッタラーン」まで辿り着いたところで、ようやっとノれた感あり。大団円に掛けての盛り上げ方はさすがだけれども、うーん、前半からこれ位ぶっ飛ばしてくれていたらなあ、とどうしても思ってしまった。

しかしまあ、作品毎の差はどうしてもあるとはいえ、観ていて楽しめる作品であることは確かで、ヴィクトリア時代のドリフは100年経ってもやっぱり家族みんなで楽しめちゃうわけである。それは、とても喜ばしいことなのだ。だから、インパクト不足、美メロディー不足を恨む気持ちはさらさら無い。ま、敢えてギルバート・サリバンを観るなら、まず、ミカドから。とだけは申し上げたいですが。

2017年4月22日土曜日

Wish List

04/02/2017 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs

若手劇作家にコミッションを出して新作上演の機会を与え、次世代の劇作家を育てる方針を売りにしているRoyal Court。
今回観に行ったのはKatherine Soperによる"Wish List"。

Soperは20代半ば、ケンブリッジ出身の新進劇作家で、この"Wish List"はマンチェスターのRoyal Exchangeとの共同制作作品。
2015年に賞を取り、2016年にマンチェスターで初演。今回のロンドン公演に至っている。

メディアのレビューでは、
「引きこもりの弟と、バイトで自分と弟の生活費をかつかつ稼ぐ姉、それを取り巻く人々の、心の交流を描く作品」
とあって、ちょっと心配してたんである。ありきたりのハートウォーミングストーリー? 社会告発アジ芝居?

心配無用だった。余計な自己主張をしない、けれんのない、極々質素な造りの作品の中には、筆者が芝居小屋で観たいものがたくさん詰まっていた。

この芝居で筆者が最も美しいと感じたシーンの一つは、姉が職場の同僚とパブで話しているときに、不意に、堰を切ったように天文学についての情熱が噴き出す場面。渇いた日常の中から不意に驚くべき色彩が飛び出してくる瞬間は、筆者が劇場に行きたいと思う理由の中で最も重要なものの一つで、筆者は、この先何年経とうと、繰り返し、あの、突如きらめきを顕すまばゆい光を思い起こすだろう。

それを聞く同僚は、家族との葛藤を抱えつつも、如才なく、自分の行きたい方向へと環境をマネージできる人間として描かれている。その意味で彼はティピカルには「劇的」ではないのだけれど、実は、「劇的でない人」が舞台に乗っているということはとても大事で、同僚役の若い役者は、その役割を十二分に理解した、素晴らしい演技を見せる。

一方で、引きこもりの弟である。髪型にとりつかれて社会へのとりつくしまを無くしてしまったように思われる弟ではあるけれども、彼の周囲の、とっちらかった原色の絵の具が生硬にぶちまけられたような暮らしの中から、ラスト、すーっと、白色光が一筋差し込んで、空間が凪ぐ。それもとても美しかった。思わせぶりの感動的な台詞や音楽や後光が一切無かったのも好もしかった。希望というものが目に見える瞬間があるとすると、それは、思わせぶりの中にではなく、目を凝らさないと一瞬で消えてしまう一筋の光の中にある。その瞬間をきちんと舞台に載せてくれた作者・演出・スタッフ・役者に、心から感謝する。

ついでに言うと、この、「裂け目」と「日常」の行ったり来たりは、実は同じ日に同じ劇場の別の階で上演されていたCaryl ChurchillのEscaped Aloneでは、もっと直截に、暴力的に提示されていて、かつ、素晴らしい芝居で、だから、この日、この二つの芝居が同時に上演されていたRoyal Courtは、またとないほど幸福な時間を迎えていたはずで、そこに居合わせた筆者もとても幸福なときに居合わせた、ということになる。それは、芝居がはねた後にバーで水を飲んでいたSoperが、「あ、Carylが帰っていくよ!」と、その偉大な劇作家の後ろ姿を指して言ったときにも、ちょっとだけ感じたことではある。

2017年3月30日木曜日

Beware of Pity

12/02/2017 15:00 @Barbican

2015年末、ベルリンで初演されたSimon McBurney演出の大傑作。英語字幕も出来上がって、待望のロンドン公演。
初演時、筆者はたまたまベルリンに来ていて、ドイツ語を100%解しないまま劇場に突撃、字幕無し上演後に「すごい芝居を観た!」と確信したのだが。

<当時の感想は以下の通り>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/01/ungeduld-des-herzens.html

今回、英語字幕付きの上演。
話はとてもよく分かったよ。あの後、ツヴァイクの原作小説も(途中までだけど英語で)読んだし、筋書きはとてもよく分かったよ。登場人物が何言ってるかも分かった。
でも、字幕と舞台を交互に見ていると、それによって失われる情報量が凄まじい、ってことも良ーく分かったんだ。

ベルリンで観たときの、あの、とにかく五感を総動員して何が起きているのか、誰がどんな反応しているのかを追い続けた体験と比べると、
トータルで舞台から受け取った「質量」が遙かに小さくなったと感じた。

ラストシーンも、(ひょっとすると、バービカンの小屋の大きさに比してスクリーンの大きさが小さかった、ということも作用したのかも知れないが)ベルリンで観たときの「ドドーン」というインパクトはない。
正直、字幕の方に意識が半分行っていたからだ。
自分的には非常に残念な観劇体験となった。作品にではない。自分自身にである。
そして、日本の芝居を「字幕付き」で英語圏に持ってくる時の限界も考えてしまった。ネイティブで言語を解する人とそうでない人との間での、受け取る情報量の落差は如何ともしがたい。

2017年3月29日水曜日

Us/Them

18/02/2017 20:00 @National Theatre, Dorfman

昨年のエディンバラで大好評を博した、ベルギーのカンパニーによる2人芝居。今回ロンドンはNational Theatreに登場。

<昨年観たときの感想はこちら>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/09/us-them-edinburgh-festival-fringe-2016.html

昨年観たときよりも、公演としてこなれた印象。悪く言えば、小屋がNTだから、ということもあるのかも知れないが、若干よそ行きな感じがした。
明らかに「上手に」こなしていて、昨年の、ともすると勢いで乗り切ろう、という面は削られていたのは良いのだが、
「こなして話しを前に進めている」感じが、時々見えた気がして。

エディンバラで観たときはSummerhallの、「学校の階段教室を改造しました」感溢れる雰囲気の中での上演だったのに対して、
今回は見るからに「スタジオ方の中劇場です」感溢れるDorfmanだった、というのも多分にあるのかも知れない。

入ってくる観客が、エディンバラの、芝居をよく観る人、観ない人、関係者の若い人、というミックスから、
ロンドンの、情報感度の高い観客に絞られてしまったからかも知れない。

ひょっとすると、筆者自身が「2度目」ということで、集中力を欠いていたのかも知れない。

どうだったのだろう? 例えば、SPACや芸劇に持って行ったら、観客層の雰囲気も相当違うから、今回と異なる緊張感で観られるのかも知れないし。どうだろう?

Hamlet

25/02/2017 19:00 @Almeida

ロバート・アイク演出、タイトルロールにアンドリュー・スコット(シャーロックのモリアーティ役だった人)を配して、アルメイダからお送りするハムレット。
きりっと締まった、幹のぶれないシェークスピアを期待して出かけたが、結果も、ほぼ、期待に違わず。
「ほぼ」というのは、この3時間45分の上演の、最後の5分で、え!え!え!?ってなったからで、そこは末尾に<ネタバレ>として書きます。

舞台装置・衣装等々を現代に置き換えて、ニュース映像はデンマーク語で流す趣向。父ハムレットの亡霊は場内遠くに見えるのではなく、セキュリティ監視カメラの向こう、ディスプレイ越しにはっきりと映ったりする。ハムレットの人物造形も、平たくいえば抑えめ、誉めていうなら現代口語演劇風、くさしていうなら(多分)パワー不足の焦点がはっきりしない演技で、筆者好み。ハムレットの言動や感情の振れ幅がそもそも大きいのだから、それを全部増幅して舞台に載せるとハムレット個人に全体が振り回されてしまい、主役に頼った「スター芝居」になってしまう。今回のアイクのハムレットには、それを極力避けたいという意図が感じられた。

クローディアスのアンガス・ライト、ガートルードのジュリエット・スティーブンソン、オフィーリアのジェシカ・ブラウン・フィンドレーと、アイクの座組でおなじみの役者を揃えて、周囲の状況をキリッと輪郭づけ、ポローニアスのピーター・ワイト(一昨年のThe Red Lionsに出てたんだ!)とローゼンクランツ・ギルデンスターンのコンビ(出落ち気味に登場!)が微妙にコミックリリーフの役割を与えられて、渋すぎないように全体を組み立てる。その中にハムレットを放り込んで、個人の振れ幅は飽くまでも全体の枠組みの中に抑えて下さいね。ただし、注ぎ込むエネルギーの総量を抑えろといってるわけではないので、そこのところよろしく! って言ってる気がする。

アンドリュー・スコットはそこにきっちり応えて、多少手がヒラヒラしすぎかな、という気はするものの、現代風の、振れ幅ダダ漏れでない、でも、確実に危ないところへと進んでいくハムレットを演じて、見飽きない。アンガス・ライトのクローディアスが、なんとも「ひょんなことで国王になっちまった(あるいは、ひょんなことで前王を殺しちまった)」王を演じていて素晴らしい。前王ハムレットの「こいつひょっとして亡霊のくせに嘘ついて息子を煽ってるだろう?」的な何とも読みにくい振る舞いも良し。ジェシカ・ブラウン・フィンドレーには、ワーニャ伯父さんの時の突出した素晴らしさはなく、むしろ、冒頭スカートの不釣り合いな短さとヒールで歩くときの前かがみの姿勢が気になったけれども、兄レアティーズの前に現れたときの演技は圧巻。

そういう枠の中でのハムレットの物語は、定番の「ガートルード・ハムレットのマザコンねっとりな関係」「かまって光線バシバシ(©平田オリザ)のハムレット中二病描写」を排して、極めてドライに進行する。味がくどくないから、3時間超えてもお腹にもたれない。かつ、あ、これ、やべー、という感じが、しっかり伝わってくる。これまで筆者が観てきたハムレットの中でも出色のプロダクションだと思う。

<で、ここからネタバレ>

で、これだけ抑えて3時間45分進行しても、でも、やっぱり、最後はみーんな死んじゃうんだよね。そのカタルシスに対する照れくささは、みんな死んじゃう以上、拭い去れないわけで。さて、どうする?
2013年に上演された多田淳之介のハムレットは、みんなが死ぬシーンの前で芝居をぶったち切ってしまって、それはそれで「おお!」と思ったのだが。
今回のアイク演出では、ラスト、死者たちは、舞台上に設けられた大きな窓(引き戸)の向こう、舞台奥へと一人ずつ去って行く。舞台奥では、冒頭に現れたパーティーの続きが展開しているようにも思われる。それを舞台奥に感じながら、客の方を向いてニヤッとするハムレット。舞台奥のピクチャーに自分も加わろうとしているのか?
ん? これは、いやいやいや、これは、あれですか?

シャイニング

ですか? 舞台奥に加わって、みんなが満面の笑みで写真撮影したら、まるっきりシャイニングじゃないですか?その写真がお城の壁に飾られる、っていう趣向ですか?
とまあ、実際にはシャイニングみたいには終わらなかったのだけれど、でもね、終演後、一緒に観てた娘に「あのラストは一体何だい」ってきいたら、何と、娘曰く、

あれは、タイタニックのラストです。

世代差はあるにせよ、同じようなことを感じていたらしい。筆者、タイタニックは観ていないので何とも言えないが。
いやはや、「時計の着脱」の意味づけについてもアイクさんに聞いてみたい気がするが、いや、でも、なにもシャイニングとかタイタニックにしなくとも、十分締まった見応えのある上演だったと、筆者は思ってるんですよ。そこら辺、どうですか?

2017年3月28日火曜日

The Red Shed

11/02/2017 15:00 @Battersea Arts Centre

アクティヴィスト芸人Mark Thomasの一人ショー。昨年のエディンバラで観て、相当のインパクトがあったのだが、今回ロンドン、Battersea Arts Centreでの上演ということで、再度拝見。

<昨年観たときの感想はこちら>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/09/mark-thomas-red-shed-edinburgh-festival.html

Thomas自身、今回の会場にほど近いClapham生まれということもあって、去年Traverseで観たときよりも客席との距離が近く感じる。今回BACは初めてだったのだけれど、ひょっとするとBACという小屋の雰囲気なのかも知れないけれど。

やはり、自分の中の美しい物語を解きほぐしてそのルーツに迫り、その過程がまた新たな物語を産むという、良質なロードムービーの美徳をきっちり備えながら、舞台ならではの仕掛け - ICレコーダー再生、観客を巻き込んだ合唱等々 - を使って、その劇場にいるという体験自体を一つの記憶として刻み込みに来る。観客としては、「Mark Thomasの物語」「それを解き明かすMark Thomasの旅の物語」「そこで解き明かされる生き証人たちの物語」「それを聴かされる自分の物語」を行き来して、劇場を出たときには、おそらく、色んな記憶がぐしゃっとなりながら、ボトムラインでは「あぁ、お面白かった!」っていう、それはそれで一つの美しい物語を持って帰るのだろう。

方法論とテーマ、語り口等々、様々なものが、実に幸福に共存していて、それは、Mark Thomasの資質・企みによるものなのか、それとも今回のテーマが偶々ヒットしたのか。どうも筆者には前者のように思われて、このアクティヴィスト芸人、ソフトにアジりに来てるんだなあ、しかもそれが相当上手ときてる、というように思われて、次回公演も見逃せないな、と思った次第。

2017年3月27日月曜日

The Kid Stays in the Picture

11/03/2017 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

ハリウッドの映画プロデューサー、Love Story、The Godfather、Cotton Club等を手がけたロバート・エバンズの自伝を、サイモン・マクバーニーが舞台化。
3月4日がプレビュー初日。テクニカルに相当作り込んだ舞台にするのだろうから、若干こなれてきた11日に観に行くのが良かろうと思ってRoyal Courtまで来てみれば、何とプレビューは延期されていて、筆者の観る回がプレビュー初回ということになっていた。道理で怖い顔したマクバーニーが劇場内歩きまわっとったわ、と妙に得心。本当の初回が観られて、吉と出るか凶と出るか。幕前にRoyal Courtの芸術監督とマクバーニーが並んで出てきて、「新作プレミアへようこそ! 実はゲネもやってません、よろしく!」みたいなご挨拶。80年代小劇場演劇、アリス界隈ではそういうのも結構あったよなー、何て思いながら、このわくわく感は、正直、大好きです。

で、パフォーマンス始まってみると、こなれてないのはしょうが無いとして、テクニカルな理由で上演が途切れることもなく、無難に公演終了。舞台上のアクリル板に、客席上に設けられたプロンプターのディスプレイが映り込んでいて「ああ、台詞入るところまで来ていないのかなあ」と思ったが、後でメディアのレビューを読んでもどうやら映り込んでいたみたいなので、おそらくそれはプレビューだから、ということではなかったのだろう。

語り手と身体を動かす人を分けたり一緒にしたり、投影した背景と役者を並べてそれを更に撮影して投影したり、それはそれはテクニカルに大変なことをやっているのは良ーく分かったが、構成・意匠としてはBeware of Pityとそんなに変わることがなかったし(しかもBeware of Pityの方が、観客と語り手の距離の取り方と、記憶の共有の仕方とに、はるかに説得力があった)、一方で、物語の「語り」の一形態としてこの舞台を捉えるとすると、導入から客の引っ張り込み方、突き放し方等々、Encounterには比べるべくもない。この、ハリウッドプロデューサーの一代記を、なんで語りたくなったのかが明確でないまま、メソッドだけは自分が目下取り組んでいることを思いっきり放り込んで、どうだ? っていう感じなのだろうか。

もちろん、役者も達者だし、話自体も荒唐無稽かつノンフィクションなので、へえー、という感じではある。でも、そこまで。それ以上になにか、と言われると出てこない。
要は、ピンと来なかった。あるいは、面白くなかった。あるいは、フツー。

マクバーニーに対し、常に、より新しいことを求める、ということではない。コンプリシテのプロダクションが過去100%面白かったというわけでもない。だから、この作品がイマイチ冴えないからといって、マクバーニーへの信頼度が落ちるわけでは全くないのだけれど。

Amadeus

14/03/2017 19:30 @National Theatre, Olivier

2016年シーズンNational Theatreのスマッシュヒット。とにかく評判が良くてチケットも取れず、ようやく観ることが出来た。やはり、文句の付けようのない出来映え。

筆者は学生時代、英語劇でこの芝居にかかわっていたので、全体の構成、細かい台詞、そういうところまで割と覚えていたのだけれど、それと比べても、今回のプロダクションでは、特に奇をてらったとか、大幅に切り貼りしたとか、そういうのは感じなかった。飽くまでスタンダードに、でも、2017年に上演するからにはその観客に向けてどのように見せていくのか。そこへの目配り・気配りが本当に丁寧で、その丁寧さを実現できる予算もバッチリついて、なんて羨ましいプロダクションなのだろう、と思ったことである。

生真面目なサリエリに、下ネタ連発のモーツァルト(30年の月日を経て、それなりに年取って、英語の単語も増えてから聞くと、そのお下品さが分かり易くなっていた!)、おバカキャラ全開のヨーゼフ二世、かわいこちゃんでなくて、地に足がついていてすれてさばけた感じのコンスタンツァ、生声でマジックフルートのアリア歌って魅せたカテリーナ、何故か映画でも英語劇でも今回プロダクションでもしゃべり方が一緒になってしまうローゼンバーグ、嬉々として演技もしちゃうオーケストラの面々、幕間にステージ上で自撮りするバイオリニスト、楽器持った間者の二人、女性フォンストラック、その他全員、全ての役者が魅力的で、作りも丁寧で、なんだか、「うわー!素敵だなー」と、素直に思ってしまった。

<ここでネタバレ>
実は、アマデウスのクライマックスというと「死ね−!アマデウス、てめー、死ねやー!」の絶叫が英語劇以来頭にこびりついていたのだが、今回は、その絶叫は無し。
その代わりに、この生真面目なサリエリ、モーツァルトの家で一緒にすすり泣いちゃって、こりゃまあ、酷い女(ここでは神様!)に魅了されて、お互い貶め合ったりケンカしたり色々あったりした挙げ句、最後は両方その女に裏切られてすすり泣き大会、ってのが、驚きとともに、うん、それは大いにあり、もっともな展開だとも思えてしまう。

とにかく上質で、おそらく、演劇を見つけていない人にも100%楽しめて、隙の無いプロダクション。UK演劇の底力。

2017年3月26日日曜日

Lost Without Words

18/03/2017 18:00 @National Theatre, Dorfman

キャリアの長いシニア俳優(70代、80代)を6人舞台に載せて(筆者が拝見した日は男性がお一人都合で出演せず、5人のプロダクションとなったが)、
演出家2人の演出のもとで、即興の芝居を披露する、という試み。なんだか大喜利っぽくもある。完全即興の掌編5本、大変楽しんだ。

当日のお題は、(1)前庭で世間話する老人二人、(2)"d"を使わないで話して下さい、(3)ベッドの二人、(4)弟の思い出独り語り、(5)居心地の良い地元のクラブ、(6)全部の台詞で韻を踏んで下さい、の6本立て。

筆者の先入観として、英国の役者は「既にある言葉を発する」ことを重視している印象があって、自分で台詞を創りながら話さなきゃならない時にどういう態度を取るのかには非常に興味があったのだが、やはり、状況を説明しだしてしまう人あり(説明台詞100%!)、演出に与えられた状況をそのまま台詞として発語してしまう人あり、つなぎ・受身の演技に徹して物語の進行への貢献は放棄する人ありと、様々な反応が見られて興味深い。でも、やっぱり、筆者にとっては、物語をどこかに運ぼうとしない演技の中から裂け目が現れて、舞台上の空気が突拍子もないところへと向かっていく瞬間がいちばん楽しかった。

演技中に容赦なくだめ出しする演出家二人。「こう言って下さい」「こう展開して下さい」「その展開はあなたたちが思っているほど面白くないですよ」。それも観客の面前で。
それに応えながら、どのように「自分ならではの一刺し」の演技・一言を繰り出すかを忘れないのが、老練・手練れの役者陣。この回も、予想もつかない決め台詞ビシッと決めて暗転、なんていうこともあって、それは、演技を楽しむというよりはむしろやっぱり大喜利の醍醐味。

最後、演出による役者紹介「この役者たちは、一切を捨て、勇気だけをもって舞台に上がってくれました」。違うだろ。勇気だけじゃない。技術と老獪さも一緒に持って上がっていたよ。

My Country; a work in progress

18/03/2017 20:00 @National Theatre, Dorfman

UKのEU離脱に関する2016年6月のレファレンダムについて、当時のUK市民へのインタビューと政治家の発言をコラージュしたverbatim。
登場人物は7名、Britannia, Caledonia, The North East, Cymru, The South West, Northern Ireland, The East Midlands。
それぞれUK各地を擬人化して、それらの地域でのインタビューを読み上げる。

もっとシリアスなverbatimを期待していたけれども、意外に軽いタッチで、ご当地ジョークも繰り出して、深刻になりすぎずに75分見せた。
見せきってはくれたんだけど、そしておそらく、これ位軽いタッチにしないと、キツすぎて見ていられなくなるのかも知れないのだけれど。

でもね、どうしても、ノリが、演劇よりは、「仁鶴のバラエティー生活笑百科」に近い気がしてしまって。
連合王国の中の相談事おまへんか? 四角い仁鶴が、ま~るく収めまっせ。
って感じだったんだよなー。
会場も適度に温まってるとはいうものの、芝居の観客よりもむしろ、バラエティー生活笑百科のオーディエンスに近い。
これからUK各地を巡演するそうなので、それに対応できるゆるーいフォーマットとして今回の上演の形に落ち着いたのだろうけれど、
それにしても、ロンドンに住む芝居好き外国人としては食い足りない感じ。

ま、そもそもタイトルからしてMy Countryだから。筆者はあくまでも移民だし。他人事として適度に面白かったです、ということになるのだろう。
ちょっと残念ではある。

2017年3月25日土曜日

Roman Tragedies

19/03/2017 16:00 @Barbican Theatre

いまや大人気のオランダ人演出家Ivo van Hoveがシェークスピアのローマ悲劇3作品「コリオレイナス」「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」を一挙通し上演。
途中何回か、5分ぐらいのトイレ休憩をさんで、合計6時間。途中、舞台上に上がってそこにある(ひょっとするとさっきまで役者が座っていた)ソファに掛けても良し、端っこに立ってても良し。
舞台上には売店もあって、軽食・飲み物購入可能。

正直、Ivo van Hoveの芝居については「ケッ」と思うこともこれまで何度かあって、今回も「ビジュアル過多の肩すかし」を心配していたのだが、なかなかどうして、大変楽しんだ。
「舞台上出入り自由」にするところとか、「ビッグスクリーンに役者大写しになっているのだから、必ずしも客席から舞台が見える必要無いでしょう」と割り切ってしまうところとか、「オランダ語+英語字幕でも、字幕をビッグスクリーンに投影すれば、観客は首を動かさなくて良くて楽でしょう?」という割り切りとか(えええ?じゃあ何で舞台で上演するの?という突っ込みは取りあえず放って置かれている)、「物語の進行の説明にニュース番組を使ってみせるとか(しかもその使い方は、アイクのハムレットに比べると相当ダサい感じ)」、そういう、「生の舞台を楽しみたい派」を置き去りにして、できるだけさらっとご覧頂こうという趣向が功を奏して、6時間通し公演、シェークスピアのローマ悲劇3つをぶっ通しで観ても疲れない。ゆるーいエンターテイメントとしての完成度は非常に高かった。けだし、「わくわくシェークスピア悲劇ランド」と呼ぶに相応しい仕上がり。

一方で、役者は、極めて普通の演技を見せる。モダンな家具の配置に、ダークスーツの登場人物たち、マイクを握っての演説等々、「現代風」の趣向は見せるものの、取り立てて凝った演技は見せず。そこが、ギトギトに飾り立てたテーマパークな演出とのカウンターバランスとして働いているようにも見えた。
アントニーのシーザー追悼演説を舞台上・間近な位置で見られたり、カシアスとブルータスのいさかいを近くで眺めたり、舞台上でぼーっと座ってるシーザーの亡霊に目を向けてみたりと、ジュリアスシーザー好きの筆者にはとても「楽しい」舞台だった。アントニーを演じたHans Kestingが出色。

2017年3月19日日曜日

深田晃司「淵に立つ」

14/10/2016 @角川シネマ新宿

昨年10月から当ブログ滞っていたのだが、まぁ、色々な理由や言い訳はある。「エディンバラ」から「初期チェーホフ三本立て」の流れで観劇疲れしてしまったとか、ちょっと他のことで芝居にかかわってたとか、この年になって初めて買ったPS4にハマったとか、色々ある。
で、それらが落ち着いて、再開しようとするにあたって、どこで中断してたのかを確かめたら、なんと、というか、予想通り、なのか、「淵に立つ」の感想が書けていなかったのだった。
すごく腑に落ちる。「淵に立つ」について人にどう語るかがモヤモヤして、半年間糞詰まっていたのだ。ある意味。

もしかすると、「淵に立つ」を観たら芝居を観に行く気がしなくなっていた、ということかも知れない。昔、中上健次の小説をいくつか読んだ後、本を読むのが嫌になったのを思い出したりする。

で、なんで糞詰まるのかっていうと、多分、筆者は、「淵に立つ」が気にくわないのだ。
最初に書いておく。筆者は深田監督への身びいきが激しい方だと自認しているし、師匠からそのことを指摘されて逆ギレしたりもする。れっきとしたファンだと思っている。だけれども、多分、僕は、「淵に立つ」について、「(他の凡百の映画と比べて)出来の良い作品だと思う」けれども、「素晴らしい作品だ」と言いたくないのだ。

話はちょっと変わるが、昔、たしか、開高健さんのエッセイで「100%牛肉のハンバーグ、つなぎなし!のハンバーグを食べようと思ったら、フライパンの上でぽろぽろに崩れて、食べられなかった」という話を読んだことがある。つなぎの量や配合の好みは人それぞれ、どれが正解ということはないと思う。が、つなぎの量に加えて、肉の質、味付け、焼き方、いろんな条件によって、確かに美味しいハンバーグと不味いハンバーグはある。
映画の作り方もちょっとそれに似たところがあると思っている。思いっきり化学調味料ぶっ込んだ映画も沢山あるし、具材で勝負の映画もある。

「淵に立つ」は、そういう意味で、まず、好もしい映画だ。殊更に強い調味料を使わない。観る人によって色々な味わい方があるし、味わい方によって色々な味がする。だから、きっと何度観ても楽しめる。そして何より、筆者にとって好もしいのは、「物語のつなぎの量を抑えている」ことだ。それは、深田監督作品について、僕がいつも思うことではある。

で、それを踏まえて、自分に気にくわなかったところを幾つかあげる。<以下、ネタバレ>

1. 浅野さんの赤いTシャツは「勝負Tシャツ」なのか?あれは、「荷造りが出来ていた」ことから推察すると、「旅立ちTシャツ」だったのか?それとも、いつも赤いTシャツで、たまたまローテーションがその日に当たっていたのか?ちょっとその後の出来事を予見させすぎてないか?
2. 事件のあった公園に「痴漢に注意」の看板が一枚映り込んでいたら、「浅野がやったのか?」がますますよく分からなくなっていたのではないか?
3. 河原で浅野がすごむシーン、あれ、声を荒げない方がもっと怖かったのでは無いか?あるいは、優しい声だった方が、その凄みが現実なのか「古舘寛治の脳内」が分からなくて良かったのでは無いか?
4. 後半の筒井さんのキレイ好きは、普段から露骨に見えるのでは無くて、「普通」の中から間歇的に噴き出してきても良かったのではないか。

うーむ。映画観て半年たっても、やっぱりこういう細かいところばかり気に掛かるのか。細かいというか、「ツナギを入れすぎないハンバーグ」がウリの店に来て、「もっとツナギを削れ」と難癖つける客のようなものだ。
我が師曰く「あんたの趣味に合わせて作ってたら、映画として観るに堪えないものになっちまう」。・・・然り。

「ツナギ」は、この映画を語るコンテクストでは、「観客が、スクリーンに映っている事象に基づいて、物語を組み立てるための材料・ヒント」ということになる。
「淵に立つ」の解釈の多様性は、深田監督が意図して「ツナギ」を削ることで増すのであって、そのツナギの分量のバランス感が、映っていないところにもあるはずの世界の豊かさを保証しつつ、一方で観客を途方に暮れさせない役割を果たす。本作品のバランスは、まず、「実験作」ではなくて、「秀作」と呼ばれるに相応しいと思う。

で、面白いのは、その「ツナギ」のまぶし方の差配が、作中の各登場人物の生き方・見え方をも支配しているように思えることだ。
例えば、前半、浅野さんについては「かなりあからさまに」示されるツナギ要素として、「ぎこちなさ」がある。彼のぎこちなさが、豊富に提供される物語要素 - 殺人、服役、裏切り、欲望 - と、それを制御しようとする日常とのギャップから来るものである、という説明を、いわば親切にしてくれているのである。

ところが、後半、太賀さんの登場後、深田監督は、物語要素 - 親子関係、母の状況、等々 - を太賀に向かって放り込むにもかかわらず、太賀がとる行動は、それらの物語のコンテクストに、「影響を与えていないように見える!」のだ。太賀は、あたかもそういったコンテクストとかけ離れたところで生きている。彼の行動が何に規定されているのかが全く分かんない。これが、実は、この映画を観てて、筆者が

すげえ! 謎すぎ!

と思った箇所だ。
裏を返すと、父親・母親・友人の、3人の大人たちの演技は、相当程度コンテクストに規定されている気がした。太賀と娘(後半)の取る行動が、コンテクストと無縁である(娘のケースでは無縁にならざるを得ない)ことを引き立てるために、大人3人の「コンテクストからの自立」が制限されている気がしたのだ。それは、僕にしてみれば勿体ないと映る。「もっとツナギ削ってもいいんじゃないの?」っていうことだ。

でも、ひょっとすると、そういうことを考えている時点で、筆者は深田監督の術中に嵌まっているのかも知れない。
というのは、この映画で示されているのは、5人の主要登場人物がそれぞれに物語を生きる様は、あたかも、相手にも札が読めないインディアンポーカーのようなもので(結局は、その中にいる人には自分の物語すら俯瞰することが出来ないのだから)、

・ 自分は自分で一つの物語を背負って生きて行かざるを得ない。
・ 自分の物語を他人が見ることが出来ているかというと、必ずしもそうではない(たとえそれが家族であっても)。
・ でも、自分の来歴と現実のギャップは、何かにつけて噴き出してくる。それは、他者にとって受け容れがたいかも知れない。他者に気がつかれていないかも知れない。
・ 自分は、他者と生活するに当たって、そこから始めなくてはならない。物語を完全には共有することが出来ないところから。
・ そこに、「とにかく何でも良いから、どこかで折り合いをつける」ところから、やっと一歩踏み出せる。

それは絶望的な状況では無くて、むしろそれに直面して、インタラクションが始まって、っていうことなので、実は、それは、ポジティブな人生賛歌なのだ、と、筆者は思う。
だから、ラストシーンは、絶望的なラストではなくて、そこから色んな方向に踏み出すことが出来る、始まりのシーンで、だから、この映画はすっごくキツいけど、勇気の出る、前向きな映画なんだ、って思う。

筆者にはそう見えている。だから、この映画は、「不気味」でも「ホラー」でもない。人生賛歌じゃないか、って思う。
「あの男が現れるまで、わたしたちは家族だった」っていうキャッチ、やめてくれ。「いわゆる家族」から「折り合いをつけて一緒にやっていこうとする家族の出発点」に立ったんだから。って思う。
浅野さんの「不気味演技」やめてくれ、って思う。他人と生きることって、それだけで十分不気味なんだから、って思う。

ということについて、深田監督がどう思っているのかは分からない。ツナギの差配の具合が上手くいって、カンヌでも評価されたのかも知れない。
でも、もっとツナギを削っても(少なくとも僕には)面白いはずなのに、不気味な映画と呼ばれて、そういうところで「怖い」とか「素晴らしい」とかっていう評判が立っていることに、筆者は、少なくとも、苛立っている。だから、「素晴らしい」とは言いたくない。

そういう思いで、半年たってもまだ、「淵に立つ」のことを考えています。