2016年1月19日火曜日

Hangmen

16/01/2016 14:30 @Wyndham Theatre

昨年Royal Court で初演されて大評判となったMartin McDonaghの新作。ウェストエンドに小屋を移して、ここでも大盛況である。
初演を見逃したわが師を連れてえいやっ!と大枚はたいてウェストエンドへ。

知らない人にこの舞台を紹介するときには、
「いや、イギリスで死刑が廃止になった1960年代のある日の、元死刑執行人達の話。まぁ、死刑の話だし、死刑執行のシーンもあって、舞台上で実際人が死ぬんだけど、でも、全編大爆笑で、下ネタあり黒いユーモアあり、3バカトリオあり、恋あり友情ありサラリーマンのペーソスもあって、これが2時間30分飽きないんだなー」
って言うことになるんだけど。我が師にもそういう説明をして、現場に臨んだのだが。

うーん。やはり、ここまで完成度の高い芝居だと、何度見ても良い。良いものは良い。そう言わざるを得ない。
戯曲の密度。役者の技術。舞台の作り込み。どこをとっても隙が無い。素晴らしい舞台である。

後半途中、いきなり舞台奥から舞台監督の女性が黒子服そのままで出てきて、
「テクニカルな問題が発生したので、何分か中断します」と宣言。緞帳が下りて、10分ぐらい客電ついたまま放置されて、
10分後に緞帳があいて、舞台監督が出てくる直前のシーンに巻き戻して再開したのだけれど、
客席から不平不満は皆無、むしろ皆さん、この後の展開について期待がどんどん膨らんで、再開には拍手で応え、
役者陣も集中切らすことなく無事演じ終えた。
なんていう、いやぁ、こんなこともあるモンなんだな、という経験が出来たのもプラス点。

うん。このプロダクションの力強さ。あんまり文句言っちゃいけないなー。

前回観たときは是非栗山民夫演出で、と書いたが、前言撤回。
この戯曲は、是非、KERAさんの演出で観たい!みのすけさんと大倉さんと仲村トオルさんの役は、僕の中ではもう決まっている。

Jane Eyre

10/01/2016 14:00 @National Theatre, Lyttleton

ジェーン・エアです。ブロンテ姉妹の長姉、シャーロット・ブロンテが19世紀に書いた長編小説の舞台化である。
読んだことのない話なので、昨年11月に本屋で買ってきて読んでおこうと思ったら、550ページあって、しかもさすが19世紀に書かれただけあって、分からない単語てんこ盛り。
何とか半分まで読んだところで1月10日、千穐楽を迎えてしまった。

娘にいわせれば「ま、キャンディ・キャンディだから」ということだったのだが。

実際観てみると、話自体はやっぱりキャンディ・キャンディである。イライザもニールもエルロイ大伯母さまも出てくる(それは本で読んで分かってはいたけれど)。寄宿舎も心に傷を持つ貴族も出てくる。意地悪な金持ちで綺麗な娘も出てくる。ラストも正統派少女マンガを地で行く終わり方。
っていうか、日本の少女マンガの骨組み自体が、ここらあたりに起源をもっているのだ、と言った方が遙かに正確なのだけれど。実際。

あ、しかし、物語の作りと芝居の面白さは全く別物で。特に今回のように、たくさんの人に読まれている名作小説の舞台化では、物語にドキドキしようと思って来てる人は殆どいないだろう。舞台の上に、「あの、物語の、グルーブがあれば!」とか、「自分が長いこと抱いている原作の一枚画が、舞台上にあれば」とか、思っているんじゃないかと想像する。
中には僕のように「この話、読んだことないけれど、舞台の評判良いから観てみたい!」という人も、極々少数ではあっても、いるのだろう。

で、肝心の舞台だが。とても面白い舞台だった。
緩やかに前傾した舞台。そこに立つ、ちょっと見るとジャングルジムのような、骨組みむき出しの舞台。スロープがあり、はしご段があり、階段がある。
舞台奥にはドラムセットが組んであるのが見えて、あぁ、生バンドが演奏するんだなぁと分かる。
役者陣は、その舞台の上で、走り、跳び上がり、飛び降り、よじ登る。歌い手は要所で舞台上を動き回りながら歌う。バンドのメンバーも、時として舞台に出てきたりする(そして、良いお声で台詞を話す!)。
その一つ一つのクオリティがとても高くて、エンターテイメントとして非常に質の高い、見ていて全く飽きない芝居だった。

550ページの物語を3時間に収めて、一つのパッケージとして提示しなければならない。しかも、物語そのものを説明するのではないけれど、物語のグルーブを再現しないことには、お客さんも納得してくれないだろう。そういう要求に、きっちり応えていたのがさすがである。
こういうことができるんだ、と見せつけられると、「大きな劇場の芝居も面白いかもなー」と思ってしまう。

問題は、半分読みかけで残っている原作の小説である。読まねば。結末が分かっていても読まねば。うう。

2016年1月18日月曜日

Ben Hur

09/01/2016 15:00 @Tricycle Theatre

今年最初の芝居は、ローマ帝国戦車レース大スペクタクル活劇を役者4人で上演、と銘打ったBen Hur。
Tricycleには老人カップル、子供連れ、孫連れ多数詰めかけて、大盛況だった。

昨年観た「羊とリア王」でもそうだったのだけれど、このテの見世物では、
「Ben Hurそのもの」をきっちり見せに行くのではなく、
「Ben Hurをどう演じるのか」のメタな構造をきっちり見せに行かないと、まず、失格。

そこを非常にうまくクリアーした、それなりに質の高い出し物だったと思う。

出だしから、お約束のネタは全部盛りで、
出はけや着替えが間に合わないとか、高速一人二役とか、説明台詞のここぞとばかりのくどい繰り返しとか。
加えて、東方の3賢人は志村けんの白鳥だったし、
ガレー船のシーンはあなざーわーくすの観客参加型だったし、
かつ、快快のY時で見た仕掛けも入ってたし、
メタ楽屋落ちもきっちりつけて、まぁ、サービス満点である。

何が残るというわけではないけれど、新年早々、こういう、下らないことに全精力を傾けて取り組むさまが観られるというのは幸せである。

あ、そうか。そういえば、日本にいたら五反田で同じような真面目な不真面目を観に行ってたんだな。
そういうもんなんだな。

2016年1月5日火曜日

Ungeduld des Herzens

25/12/2015 19:45 @Schaubuhne, Berlin

クリスマスの夜に芝居を観に行くという暴挙。
しかも、ベルリンで上演される、ドイツ語の芝居を、字幕なしで。
もちろん、僕もツレもドイツ語は全然分からない。

しかし、Simon McBurney演出作品の初演。ということであり。
映画Grand Budapest HotelのモデルとなったStefan Zweigの小説を下敷きにしている。ということもあり、
また、Compliciteを観てきた限りでは、割とフィジカルな側面も多く取り入れられるだろうし、ということもあり、
かつ、初めてベルリンに行くんだからという、観光客ならではの高揚感も手伝って、
2席だけ残っていたその芝居に予約を入れてしまったのだった。

Ungeduld des Herzens。邦題は「心の焦燥」、英語ではBeware of Pity。
慌ててネット使ってあらすじだけは押さえてからベルリンに出発。
いや、それが、サイトによって結末が微妙に違っていて、どれが本当なのかは検証できないままの出発ではあった。

「言葉を一言も解さないだろう(しかも観光客みたいな)2人組が劇場に来てるぞ」
というときの、受付や周囲の観客の緊張感は、やはり、相当のものがある。
事前にパンフレッット買って予習しようと思ったのだが、パンフも当然のことながら全文ドイツ語で、一言も分からん。作戦失敗。

手元にある材料は、いまや、ウェブで調べた曖昧なあらすじのみ。多分、
「第一次世界大戦前夜、若い軍人君が、とある館のパーティで出会った、片脚が不自由な娘と恋に落ちる。が、障害のある娘との恋に対する周りのネガティブ反応に本人の男の子も腰が引け気味に。一方、娘の恋心は募る一方。軍人君は、自分の本心が恋心なのか娘への憐憫なのか整理がつかないまま任地へ赴くが、列車の中で娘への恋心に気がつきそこから電報を送る。奇しくもその日は第一次世界大戦勃発のその日であった。」
っていう話。もちろん、原作読んでないし、芝居の台詞もほぼ全く理解できてないので、筆者の脳内でのみ通用するあらすじである。

以下、ネタバレありで、観たままを。

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1時間半、すごく面白かったんだ。
言葉はやっぱり全く分からなかったけれど、退屈しなかった。

主人公の軍人くんと離れたところに、本人をナレーターとして配していたいて、物語はナレーターによって語られる。軍人くんのアクションとの二重写しは、
何てことはない仕掛けではあるのだけれど、観客からしてみれば、語り手(その語る物語と、語るときの様子)に加えて、語られる本人(物語の中での言動)も観られるという、
一粒で二度美味しい構造が得られることになる(あ、僕は「語られる」物語は一切聞き取れませんが)。

言葉が分からない中では、物語が進んでいるのかいないのか、コンプリシテ風の演出ではなかなか判断できないのだが、
どうも片脚が不自由な娘が「地雷女」といっても良いぐらいの猛烈アタックを掛けている様子が見て取れる。
しかも、どうやら家族ぐるみ。あるいは、将を射るにはまず馬を射よ、みたいな遠回しの作戦も仕掛けているような。それで若い軍人くん、たじたじとなるわけだが、
そういう展開が手を変え品を変え何度も何度も繰り返し舞台に現れるとなると、なんだか、
うーむ、それって、「事柄」の記述なんじゃなくて、「軍人くんのパーセプション」でしか無いんじゃないの、って思えてくる。
しかもそれを説明しているのは「後年の本人」なんだから、本当に迫られてたのか、ただの思い込みなのか、でっちあげなのか、そこら辺、真偽のほどが定かでない。
そう。一人称芝居の醍醐味、「信頼できない語り手かもしれない」体験を、ナレーターと「昔の本人」という二重構造をとることで、強力に成立させているのでした。

舞台を眺めているうちに、(少なくとも言葉を解さない)観客の焦点は、「事実の成り行き」ではなくて、主人公=軍人くん=ナレーター=一人称視点の持ち主の語り口(こいつ、どんな気持ちでこの話を語ってるんだ?)へと、どんどん絞られていくのだ。

で、僕の目に見えたのは、「事実がどうであったのかはこの際関係なく」ただただ積もっていく「罪の意識」の一点。それ、相当、見ててイタいです。

「オレ、あの娘を放っておいて良いわけ?」「そもそもそういう上から目線って良いわけ?」「周りの目を気にする自分っておかしくね?」
「いや、そういう自意識を言い訳にしてないかい、オレ?」「言い訳で結婚するってどうよ?」がグルグル回ってる。でも、都度、女の子を振り切ってしまう。
あぶり出されるのは自己完結する自意識と罪の意識。それを後年の自分自身がナレーションであぶり出してる。

と、そこまでグリグリ攻めておいて、マクバーニー演出は、オーラス、舞台奥に写真の投影をぶち込んでくる。第一次世界大戦、戦間期、ナチ、第二次世界大戦、冷戦、壁、そして2015年、難民。軍人くんの人生を辿るのではなく、その先へ先へと時間が飛んでいく。
そして、1914年の軍人くんの罪の意識と、2015年の観客の罪の意識が舞台を介して繋がって、アッと思ったところで、芝居は終わる。

カーテンコール。「割れんばかり」ではないのに観客の本気が十分伝わる、まさかの5回コール。いや、しかし、十分それに値する公演だった。
言葉が分かってないから、ひょっとすると、上に書いていることは全て僕の勝手な思い込みですが、それでちっとも構わない。素晴らしい舞台を体験させて頂いた。

2016年1月2日土曜日

Barbarians

18/12/2015 19:45 @Young Vic

10月にトットナム・コート・ロードで観たのと同じ戯曲を別バージョンで。
戯曲が強烈なので、座組や演出の意匠が変わっても、芝居自体の与える印象はさほど変わらないなーとの印象。
ただし、今回のバージョンは基本、洗練され、テンポがとても良かった。その分、荒削りな部分は捨てていた。

異なる演出をもってしてもそれほど受ける印象が変わらないというのは、
1. 戯曲が相当強いから
2. 演出の傾向がUKの中でそんなに変わらないから
というのが考えられるけれど、まあ、どちらもかな。

まんま突撃板みたいに据え付けてあるパネルに、ラスト、バーーンってぶつかってくれたのはちょっと嬉しかったな。