2015年9月28日月曜日

Backstage in Biscuit Land

26/09/2015 14:30 @Pit, Barbican

自分自身がトゥレット症候群にかかっているJess Thomが主催する、Tourettesheroの公演。
非常に力強く、したたかで、かつ、暖かく聴衆全員を包み込む、素晴らしい舞台だった。

開演前、舞台上には女優一人が車いすに座り、ハムレットを読んでいる。下手に手話通訳。
下手パネルの裏に、「ひざまづいている」女性がいて、絶えず舞台上の女優にヤジというか、メッセージというか、を飛ばしている。
ちなみに、バービカンの最も下の下位に位置するPIT、その天井の10メートルぐらい上では、今まさにベネディクト・カンバーバッチのハムレットが上演中である。

開演すると、女優は立ち上がって後ろに下がり、下手にいた女性が膝をついたまま中央に出てきて、車いすに座る。それがJess Thom本人。

60分間の公演中に語られることは、彼女の病気について、子供の頃からの彼女の病気の進行について、
彼女が芝居を観に行ったときの出来事について、彼女が芝居を始めることになったきっかけについて、
冗談早押しクイズ大会をはさんで、
共演の女優がどうしてJess Thomと一緒に公演をしようと考えるようになったのか、そのきっかけについて。

語られる話自体は実話で、だから、この公演も、芝居というよりも、パフォーマンスと呼んだ方が良いのかもしれない。
でもね、これは、演劇でした。力強く、演劇でした。
障害者の支援をアピールする講演会ではなくて、障害者も健常者もなく、劇場という場を支えるしたたかな計算が、確かにそこにあった。

Jess Thomはトゥレット症候群の患者である。
チックの重いものだと考えると良いと思う。
Jessは1日に16,000回、Biscuitという言葉を発する。時としてCatっていう言葉だったりする。もっと下卑た言葉だったりする。
Jessは5秒に1度くらい、自分の胸の真ん中、鎖骨の繋がっている辺りを、自分の右の拳で殴る。放っておくと拳の骨が砕けるので、クッションになる手袋を嵌めている。
Jessは歩けない。歩こうとすると、脚が不随意に動いて、2、3歩で転ぶ。だから車椅子が要る。
Jessが皿に盛ったイチゴを右手で食べようとすると、彼女の右手はイチゴを掴んで彼女自身の顔に思い切りぶつけ、すりつぶす。彼女からはイチゴの匂いがしてくる。
トゥレット症候群は、頭の病気ではなくて、神経の病気である。だから、Jessの知的能力や意思の力には病気は及んでいない。
ただ、口から出てくる言葉や、手足の動きが、自分でコントロールできない時がある、っていうことである。それも、24時間。
Jessは公演前に「公演中に発作が出たら一旦引っ込まなきゃならないので、その時はしばらく待ってて下さい。相棒のChopinが繋ぎます」と断りを入れる。
この日の14時半の公演では発作は出なかった。

Jessがどんなに可哀想な人かを説明するために上のことを書いたのではない。
上記を前提した上で、Tourettesheroが、60分の公演をどのようにエンターテイニングなものにするかをきちんと考えて、そして面白くなっていた、という素晴らしいことについて書きたかったのです。

Jessの語ることにはテーマがあって、それは、Inclusion「包摂、かな?」ということだと、僕は思う。
他人を排除せずに、懐広く、色んなものを共有する態度。
それは、彼女の経験を元にして語れるっていう面もあれば、より重要なことに、彼女の周囲の人がどのようにしてJessのムーヴメントに取り込まれていくのか、っていうプロセスの話でもある。聴衆の態度でもある。
で、それが、パフォーマンスの間のステージの(客席への)開き方に強く表れていた。

こういう語りのパフォーマンスで、日本人が一人で座っていると、パフォーマーは目を合わそうとしない傾向がある。
どこまで自分の言葉が分かってもらえてるかに自信がないとか、表情が読めないとか、色んな理由があると思う。
が、この舞台の2人組には、そういう垣根一切無し。誰に対しても、一切無し。

日本でそういう強さを持った舞台って、僕がこれまで見た限りでは、うーん、快快、あなざーわーくす、東京デスロック、だろうか。
例えば、あなざーわーくすの凄みは、その「細やかさ」にあるとすると、
Tourettosheroの凄みは、その、あけすけなオープンさと、それでも舞台上の空間を壊させない力強さにある。

ここまで開いても、舞台って壊れないんだ!という驚き。
その要因には、もちろん、JessとChopinのキャラクター、強さもあるんだろうけれど、加えて、プロダクション自体が持つユーモア、問いかけ、「お涙ちょうだい」を自らに許さない力強さと甘えのなさ、ポジティブさ。
そういうの、すべてひっくるめて、本当に素晴らしい60分だった。

2015年9月24日木曜日

The Christians

19/09/2015 19:30 @ The Gate Theatre

まずもって、信者の方、あるいは、何らかの神様を信じていらっしゃる方には若干失礼な物言いになってしまうことをお断りします。

が、「地獄は本当にあるのか?」というテーマで、舞台上の人物達が大まじめに議論を繰り広げる80分間。
どうにも滑稽で、目が離せなかった。
こういう芝居が、真っ当な「社会派のストレートプレイ」として成り立ってしまうことに、驚きを隠せない。
(ちなみに、この芝居はアメリカを舞台にした、アメリカ人によって書かれた芝居です)

投げ出さずに最後まで観ていられたのは、それは、構成の妙と、役者の力とに依るところが大きいだろう。
でも、やっぱり、
「地獄は本当にあるのか?」「信者じゃない人は、どんなに良い人でも地獄落ちなのか?」っていう議論が、
「人と人との関係をどう作っていくのか」よりも先に立っちゃう世界って、
たとえそれが舞台の上であったとしても、どうよ?って思う。

夫婦の間で
「2人、信じている教義が違うから、あなたと私のどちらかは地獄落ちね。2人は永遠に一緒ではいられないのね」
って、僕自身や周りのできごとと繋げて考えるには、余りにも遠すぎる。

これ、信者の人が観たら一体どう思うのかって興味はあるけれど、怖くて聞けないな。

People, Places and Things

19/09/2015 14:30 @National Theatre, Dorfman Theatre

日本に岩井秀人の大傑作「ヒッキー・カンクーン・トルネード」があり、「ヒッキー・ソトニデテミターノ」があるならば、
UKにはこの芝居あり。いわば、「ジャンキー・ソトニデテミタイーノ」である。

題名の"People, Places and Things"というのは、中毒患者がリハブを出た後、近づいちゃいけないと言われている3つのもの。
すなわち、せっかく中毒を治療して出所しても、中毒のきっかけとなるトラウマになった「人物」「場所」「物事」に近づいてしまうと、
そこをきっかけにして元の木阿弥になってしまう、ということなんだそうだ。

主人公の女性は、出来の良過ぎる母と押しの弱い父と出来の良い弟に挟まれて育ち、両親にかわいがられた良い子の弟は死んでしまって出来の悪い自分は生き残り、自意識過剰で、役者志望だが薬と酒でヘロヘロになってリハブに入所。
その彼女の入所から出所までを描いた2時間半。
絵に描いたような「自意識過剰人間」を舞台に載せて、巷の評判も大変高かったものだから、「熱演勘違い女優だったらどうしよう」と心配していたのだが、それは杞憂だった。

確かに主人公は自意識過剰な女なのだけれど、その自意識に、観客に対して「分かってちょうだい!」という押しつけがましさがない。むしろ、その、イタタ、っていうか、おいおい、っていう振る舞いを観ているうちに、不思議とその自意識に近づきたい感じになってくるのだ。
で、リハブのグループセラピーで、
「じゃあ、出所した後、復帰の挨拶を誰かにする、そのリハーサルをしてみましょう。じゃあ、あなた、上司の役ね。」
みたいなことを始めたところで、あれ、これ、ひょっとして演劇療法?ってやつ?
さらに「あぁ、うまくできない!これじゃ復帰できない!もっと上手くやらなきゃ!」っていう自意識で自爆していく入所達の姿が、
そして、社会復帰したと思ったら職員としてリハブに戻ってきたりするところが、やがて、
「あ!この人達、ヒッキーだ!この主人公は、登美男だ!」
という確信に変わった。

日本でヒッキーが傷つきやすい自意識を抱えて日夜悩んでいるとすれば、UKではジャンキー達が、同じく傷つきやすく、そして、西洋人だけに強力な自我を伴ってしまう厄介さもはらんだ自意識を抱えて、やっぱり日夜悩んでいるわけである。

この芝居に出てくるジャンキー達も、それぞれの事情を抱えながら、文字通り生と死の狭間でフラフラしながら、どうすれば自意識と外界との折り合いがつくのか、そもそも折り合いをつけたいのか、ってところでもがき続ける。それが、劇場内の対面客席に挟まれた「タイル張り風の」舞台、ちょうど、田舎の旅館か病院の、薄い青色をした塩素臭いタイルのような壁と天井に囲まれた舞台で描かれている。

この芝居は、従って、ただのジャンキー社会復帰物語ではなくて、自意識と外界のせめぎ合いの話であって、だから、主人公の職業である「女優」という仕事も、やっぱり自意識と「ウソンコの」外界と「リアルな」外界とウソと本音とのせめぎ合いとして、示されていて、だから、この主演女優の自意識が全体のフレームの中できっちり役割を果たして、上手く収まっている。
そして、ジャンキーがいざ出所したときの、「芝居でない、リアルな」外界のキツさといったら!けだし、「人物」と「場所」と「物事」である。

この芝居には、押しつけがましい人は出てくるかもしれないけれど、観客に対する妙な感動や希望や絶望の押しつけはない。泣きはするけど泣かせはしない。でも、劇場を出てからも、色んなことを考える。
主人公のこれからや、ヒッキーのあれからや、自分と世間の折り合いや、「もしかしたらそうなっていたかもしれない」仮定の世界の自分と世間の折り合いについて、色々考える。
そういう風にさせてくれる芝居は、そんなにないと思う。素晴らしい舞台だった。

2015年9月23日水曜日

英語の芝居観てて、セリフ聞き取れるんですか?

こうして、UKに来て、芝居のブログ書いてるわけですが、今さらのように白状するが、全部の台詞が聞き取れているわけではない。

もちろん、全部聞き取れる芝居もたまーにある。普通に芝居観てると、聞き取れない箇所は沢山ある。
訛りがきつかったり、早口だったりすると、なおさらである。

聞き取れてても、単語の意味が分からない時も結構ある。
この間エディンバラで観たConfirmationでは、"Heuristic"っていう言葉が何回も出てきて、しかも解らなかった。うー。

芝居への集中度合いによって、聞き取れるモノも聞こえなくなってしまうことも、ままある。

が、これは、負け惜しみと取られても仕方がないが、聞き取れても聞き取れなくても、面白いモノと面白くないモノの区別はおおかたつく。

実際、ネイティブの人だって、全員が全部聞き取れているわけではない。はずだ。
だから、良いのだ。聞き取れなくったって、そういうものとして、楽しんでいれば。

ご参考までに、いくつか例を挙げると、

(1) 1996年、Hampstead Theatreで。とある芝居の幕間で、隣の老婦人に声をかけられて、
「あなた、このお芝居の台詞、意味は全部おわかり?」
「(ギクッ!)い、いや、正直、半分くらいは分かりません」
「そーよねー!私も半分くらい分かんないのよ。難しい単語が出てくるもんだから。」
「・・・」
「でも、良い芝居よね」
その芝居はその後ウェストエンドに進出した。

(2) 1996年、ビジネススクールの授業中(北イングランド出身の先生)、隣のシカゴ出身の同級生から、
「おい、お前、あの先生が何言ってるか、分かる?」
「・・・(ネイティブでも聞き取れないモノを、オレが分かってるわけないだろ!)」

(3) 今の職場でも、実は、時々、上司のNZ人の言ってることが分かんないときがあるのだが、
最近判明したのは、「イギリス人の部下も、時々、分かんないことがあるらしい!」
でも、日本人が聞き取れなくて分からないならともかく、イギリス人として「ちょっと聞き取れなかったんだけど」
とはとても言えず、後から「あれ、何て言ってた?」ってみんなで確認してるらしい・・・

ことほどさように、英語というのは、聞き手に余地を許してくれる言語なのである。
そこは、うまーく想像力を駆使して、切り抜ける。間違ってたら、ごめんね、って言って訂正する。
完璧に分からないと返事できないとか、感想書けないとか、そういうのは、無用の心配と割り切って、ブログ書いてます。

2015年9月22日火曜日

The Win Bin

13/09/2015 15:00 @Old Red Lion Theatre

観客10人に満たない小さな小屋での観劇だったのだけれど、途中、寝た。すみません。
でも、寝ていて損したとは思わなかった。パブの2階だったので1杯引っかけたのも良くなかったのかもしれないが、それでも十分集中してみられる芝居もあるし。

後で知ったのだが、実は登場人物6人、男女2人組×3ペアを、2人で演じ分けていたのだそうだ。
僕はずっと、2人組が違う名前でふざけて呼び合ったり、全く違うことを試してみたり、突如過去の経緯に照らして関係性が変わったりしているのかと思っていた。
「演じ分けていた」のだそうだ。

自分の英語力のせいなのか。一杯飲んだせいなのか。
いや、役者が演じ分けてなかったからだろう。敢えて言う。
「演じ分けられてなかった」んじゃないんだろう。「演じ分けてなかった」んだろう。そうでないとあそこまで同じにならないよ。

何がキューになって登場人物が切り替わったのか、正直、まったく、未だに、想像もつかない。
もしかしたら相当過激な舞台だったのかもしれない。

ただ単にダメなだけだった気が、負け惜しみでないけれど、している。

してみると。だ。エディンバラで観たときには「ヌルい!」と思ったForced EntertainmentのTomorrow's Partiesで味わった、2人でずっと話していてもきちんとついていける、ペースの変化や淡々とした中にある内側の微妙なモノがわざとらしくなく出てくる、あれは、かなりレベルの高い演技だったのかも!と思ってしまう。
何事も比較感、相場観、ってものはあるもんである。

2015年9月21日月曜日

Absent

13/09/2015 13:15 @Shoreditch Town Hall

厳密には「演劇」というより「インスタレーション」かもしれない。Shoreditch Town Hallの地上階と地下のフロアを贅沢に使い、改装中のホテルに見立てた中を観客が巡る趣向の、(そう、日本で言えば「お化け屋敷」みたいな)パフォーマンス。
非常に面白かった。
Shiningで始まり、Badly Drawn Boyの"Spitting in the Wind"のPVを思わせる展開とノスタルジア、そして飴屋法水さんの「わたしのすがた」を思い出させる「痕跡」の取り扱い。

舞台は改装中のホテル、物語は、1950年代から2015年までこのホテルに滞在していたが、ホテル代が払えなくなって追い出された「元・社交会の大物」Margaret de Beaumont。まぁ、ここまで言ってしまうと、大体は、「何が言いたいのかなー」というのが分かってしまいそうなものだし、実際、そこから大きくはみ出るプロットはないのだけれど。

が、実際に一人で入ってみると、これが、怖い。
改装中の実在の古い建物の地下と、液晶ディスプレイと、鏡との組み合わせ。
まず、「過去の記憶」の映像を見つけてそこをのぞき込むと、そこはもうShiningの世界で、「もしここでおいでおいでされたら無茶苦茶怖い、逃げ出してしまう」ぐらいの迫力はある。
一人でいるのは怖いから誰かといたい。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。何故なら、そこにいる人と手を繋ぎたくなってしまうからである。そうしないと、合わせ鏡から人が飛び出してきたらどうしようとか、クローゼットから何か出てきたらどうしようとか、扉の向こうには・・・、とか考えてしまうのである。

が、おずおずと引き返して「やっぱり見ません」というのは格好悪いので、先に進む。

先に進むにつれて、物語の構造が細かく見えてくる。それは、「過去の記憶」を再生することによって積み上げられていく。物語自体の語りは、極力抑えてあるのだけれど、まぁ、英国人を相手にせにゃならんので、ある程度説明的にはならざるを得ないかなーという感じ。
ただし、大きなどんでん返しはないにせよ、「観客に任せてある」部分が結構大きく取ってあって、それは嬉しい。

この話のモデルとなった実在の人物、The Duchess of Argyllについて知る人であれば、そのモデルについての記憶を思い起こしつつ、自分なりの物語を組み立てれば良いだろう。僕のように、モデルについて全く知らなければ、「ホテル暮らしのSocialite」という概念もいまいちピンとこない人間は、Badly Drawn BoyのPVに出てくるJoan Collinsを思い起こしながら、(実は、そのPVを最初にオランダのホテルで見たときの家族旅行のことを思い出しながら)このインスタレーションを巡ることになる。
そして、記憶の呼び覚まされ方は、人によって様々だろうし、人によっては全くピンとこないこともあるだろう。
それで良い。それくらい放ったらかしにされている方が、僕には心地よい。

トータル40分ぐらいで回り終えてしまったのだけれど、実のところ、前半、怖くて早足で進んでしまったので、もう少し長居できたのではないかと、ちょっと後悔している。
もう一回行きたい。が、一人では行きたくない。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。むむむ。

2015年9月20日日曜日

Lela and Co.

12/09/2015 19:45 @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

とある田舎育ちの少女が、街で出会った男と駆け落ち同様の結婚をしてから、すっごく悲惨な目に遭った末に故郷の村に戻るまでを語る、これもやっぱり語り芝居。
相方の男優(1人)が色々な役で絡んでくるので、独り語りではない。

話のフォーマットも筋書きも、取り立てて奇をてらっているわけではないのに、最後まで目が離せない、密な舞台だった。
昼に観た芝居と比べても、予算の面でも、細部の凝り方を観ても、決して「上を行っている」とは言えないのに、観客への迫り方は圧倒的に力強い。
相方の男優が色んな役で出てくるのも良くあるパターンだし、簡単にチープな芝居と切って捨てられてもおかしくない「着飾り方」の芝居なのに、観ていて飽きなかった。

まずは舞台。変則的な形をしたRoyal Court Theatre最上階のスタジオに入ると、その壁の二辺に沿って、紅の幕が下がっている。舞台奥に"LENA"という名前が電飾が飾られ、舞台中央にはふたが開いて収納になるソファ。舞台下手に天井からつり下がったハンギングチェア。いかにもチープな地方の公民館にやって来たどさ回りの芝居という風情。
観客を笑顔で迎える、ぱっと見ルイス・スアレス似の男優は(文字通り)金ぴかのスーツに銀の靴。ハンギングチェアに「夢見る少女風」に表情を浮かべ、それに相応しい衣装を着た女優。
このチープなフレームが、実は、すごく良かったなぁ、と、芝居が終わってから思えてくるのだ。

この女優Katie West、特にしなを作るわけでもないし、かわいこぶっているわけでもないのに、目が離せない。
冒頭の少女語りの時から、何故か時として老いた感じがわき出してきそうな気がしているのだ。年齢は20台後半から30台前半か、
北の訛りの英語で、笑顔を絶やさず、時としてすごく早口で喋るのだが、不思議に話についていけなくなったりはしない
(彼女の早口については、終演後、客席にいた老齢の女性が、「あのこはちょっと早口すぎたわよね」って言ってたので間違いない)。
おそらく、「音」として、このアクセントとこの音程、解像度が、僕のツボに嵌まっているんじゃないかという気はする。聞いていて気持ちいい。
口のわきに若干大きめのニキビあるいは吹き出物が2つ。これも、場末感を醸し出すためにわざとやってるんじゃないかと思えてきたりする。
(この場末感と年齢不詳感は、一種、緑魔子さんにも通じるものがある。)

この「少女」が、まさに色んなひどい目に遭った末に実家に帰ってくるまでを、ほとんど泣きを入れずに(いや、泣きはどうしても入ってしまうんだよね。エディンバラでもそうだったけれども、女の一生ものの語りには、もう、付き物だと思ってあきらめるしかない・・・)、語るのだが、それが、どんなに悲惨な展開になっても
「わたしって!本当に可哀想!」
に落ちていかない。ここでは物語については紹介しないけれど、とりあえず、本当に悲惨な話なんだ(そしてどうもこれは実話に基づいているらしいのだ)。
それでも、劇場中が「ああ!本当に可哀想な話ね!」
の同情の渦に落ちこんでいかないところに、この芝居の力強さと、意志の力を感じたのだ。
(また別の老齢の女性は、夫に「こんな物語だと知ってたら観に来なかったわよ」とのたまわっていたが。)

出てくる男達もことごとく、ひどい男達揃えて、その癖言い訳はごまんと取りそろえて最低の奴らなのだが、芝居の機能としてうるさくない。

そうした芝居の作りが、実は、舞台のチープな作りと100%マッチしている。
語り手の居場所をきちんと作ると同時に、それを聞かされる聴衆の視線の在り方を試す構造になっていて、そこで腰が決まっているから、骨太な芝居に作り上げることができていたんだな、というのは、劇場を出てから気がついたこと。

2015年9月19日土曜日

Song From Far Away

12/09/2015 14:30 @Young Vic, Main House

戯曲が"The Curious Incident"でキレキレだったSimon Stephens、演出が"A View from the Bridge"が日本でも大人気みたいなIvo van Hove、ということでYoung Vicメインハウスの舞台も大入り、大いに期待して行ったが、どうにも退屈だった。

ニューヨークで働くオランダ人独身男性が、弟の死の知らせを受けてオランダに里帰りする。家族との行き違い、元カレとの再会と別れ、あと色々。で、ニューヨークに帰ってきてから、亡くなった弟宛の手紙を書いて、それを自分のアパートから観客に向かって朗読するという趣向の一人芝居。

よく分かったよ。さびしい人なんだって事はよく分かったよ。
物語が進むに連れて彼のさびしい内面が明かされていく、それに合わせて真っ裸になっていく。あぁ、そういう趣向ね。良ーく解ったよ。
ミニマリズムのシンプルな舞台が、彼の内面と合致して、ラストへと続く心象を良ーくあらわしている。そうだよね。その通り。上出来です。
一つ一つの仕草が、細かく彼の心の揺れを表現していている。それを上手く(何度か、どこからか聞こえてくる)劇中歌と照明の妙でサポートしている。

もう、表現したい、説明したいという臭いだけはプンプン伝わってきて、うんざりした。

それだけ表現したい放題に表現しているのに、
「なぜ、自分が死んだ弟に向けて書いた手紙を、観客席に向かって朗読するのか。しかも身振りを交えて、真っ裸になって。」
という疑問に対しては100%無防備なのにも困ったもんだ。

いや、本当は、本当に微細な表現を使った丁寧な舞台だったのかもしれないよ。観客席に向かっての朗読にもきちんとしたフレームが嵌められているのかもしれないよ。だからきっと、終演後もスタンディングオベーションの方、結構沢山いらしたし。
僕の隣の女性も、1時間以上スヤスヤと安らかな寝息を立てていらしたが、スタンディングオベーションだったし。
実際、僕は、「オランダ人のアメリカ訛りの英語」が聞き取りづらくて聞き取りづらくて、しかも芝居が単調なので眠気こらえて怒りこらえて観てたんだ。
(だから、真面目に、何か見逃していたのかもしれない)

てなことを感じながら劇場を後にしたのだが、後でウェブで各紙劇評を観たら、「平板だった」っていう評もあったので、(台詞を100%掴んでいなくても)あながち小生の感覚も外れてないはずである。

本当に、こういう「お上手な」芝居にはウンザリだなあ。こういう芝居を好む人が沢山いるっていうのも頭では理解できるんだけど。

2015年9月18日金曜日

Hotel Paradiso (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 15:15 @Pleasance Beyond, Pleasance Courtyard

先にエディンバラで10日間を過ごしていた友人の、一番のお勧めがこれ。
事前に予約していて良かった。Pleasance Coutyardの中でもおそらく最も大きい小屋であるにもかかわらず、大入り満員。
エディンバラフリンジでは整理券番号は無くて「来た順番に並ぶ」のが大凡のルールなのだが、長蛇の列になっていた。

宣伝文句は「ベルリンからやって来た仮面劇場へようこそ。舞台は家族経営のアルプス山間にあるホテル。経営は火の車、増えるは借金ならぬ死体の山ばかり。一癖も二癖もある家族と従業員による、Fawlty Tower と Bates Motel のいいとこ取りしたようなHotel Paradisoのドタバタをどうぞお楽しみ下さい」
てな感じだったのだが、まさにその通りで、セリフなしの1時間15分、十分楽しめた。

仮面をつけた役者が出てきた途端に、真っ先に考えたのは、
「なぜ、仮面をつけると、こんなオーバーアクションや妙ちくりんな演技やあからさまに下品な言動が許されてしまうのか。あるいは、何故それがこんなにも面白いのか?」

筋立て自体も予想を裏切るような展開はないし、これまでFawlty Towersやドリフで観てきたドタバタやブラックなネタをさらに上回る迫力があるわけでも無い。
ひょっとしたら、その場限りで楽しめるという意味で楽しんだだけだったのかもしれない(いや、それだって十分大変なことなのだけれど)。
でも、まだ、何だか腑に落ちていない。なんであのパフォーマンスが楽しめたんだろう?ドリフやFawlty Towersをテレビで観るのと、どんな違いがあるんだろう?

本当はそこのところもっと突き詰めなければならないのかもしれないけれど、それはしないまま、エディンバラを後にした。

2015年9月17日木曜日

Teaset (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 14:00 @Pleasance That, Pleasance Courtyard

今回エディンバラで観た芝居の中で、間違いなく、最低の芝居。

ふとした弾みであるクリスマスイブの一晩だけ面倒を見ることになった老いた女性との交流。
もらったものの、棚から出した際に落として割れてしまったTeaset。
その後の全く可哀想な経緯。

そうしたものを、「私は悲しかった」的な台詞満載でお送りする女性の独り語り。
「感情込めた演技でお願いします」な台詞に辟易するのに加えて、
そういう台詞に演出と演者が100%応えて、観客に対して涙うるうるかすれ声で演技してもらっても、こちらは反応に窮するばかりである。

冒頭、とある喫茶店で、割れたティーカップを紙用のスティック糊使って、
いかにも「取り乱しながらカップを元に戻そうとしています」っていう演技された時点で、勝負あり。

が、しかしこういう芝居に当たるのもフェスティバルならではの醍醐味。劇場に入らざるものは演劇を得ず。
気を取り直して、今年のエディンバラの最後の演目、Hotel Paradisoへと向かう。

2015年9月16日水曜日

The 56 (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 12:00 @Four, Assembly George Square Studios

文句なしに僕の今年のエディンバラで最も素晴らしかった舞台。
3人の語り手による、1985年5月、ヨークシャー南部、ブラッドフォード市内にあるブラッドフォード・シティ・フットボール・クラブの本拠地The Valleyで起きた火災事故の記録。リーグ3部の優勝を決めたシーズン最終戦の前半途中、スタジアムから出火し、56人が犠牲となった。

焼けたスタジアムにいた生存者2人と、反対側にいて経緯を目撃した1人。
おそらく、実際の証言を元に編集したか、ひょっとすると編集を加えずに上演しているのだと思われるのだが、

「過去に起きたことについて役者が語り伝えること」が、これほどまでに強力に迫ってきたことは、僕の人生でこれまで無かったし、今後も無いのではないかとまで思われる。

過度に感情移入すること無く、観客に感情を喚起させてやろうとする妙な色気も無く、淡々と当事者の記憶<見たこと・聞いたこと・自分がしたこと・記憶していること・記憶していないこと>を、役者が語っていく。
語られる言葉に、まず、無駄が無い。相当信頼に足ると思わせるリアルな語り口、思わせぶりの不在。レトリックや誇張の不在。これが素晴らしい。
ニュアンスを加えない、抑えた語りも余りにも素晴らしい(そして、スコットランド訛りに悪戦苦闘してきた我が身には、ヨークシャー訛りが、聞き取れる!という喜び)。
加えて、一人が語っているときの他の二人の表情が余りにも素晴らしいのだ。視線は真っ直ぐ斜め上から動かさず、一体どこを見ているんだろう。生死を分ける出来事が淡々と語られる中で、語り手もまた、ただ淡々と他の語り手の言葉に耳を傾ける。
そこには、余計なニュアンスは一つも無い。だから、全てがある。恐怖も、怒りも、痛みも、やさしさも、安堵も、誇りも、悲しみも、後悔も、きっと全部ある。全ては語られない。でも、全てが想像できる。きっと聞き手一人一人、全く違うものがわき上がっているはずだ。ストレートな語りの中に、もの凄い質量が詰め込まれて、胸が苦しくなる。

当事者による「語り」を考えてみる。それが強い力を持つことは一種当然で、それは、常日頃テレビのニュースやドキュメンタリーを見たり、講演会に行ったり、学校に語り部の方を招いたり、これまで僕たちもそれなりに経験していることではある。
だが、この舞台では、役者が語り手を演じることで、とてつもない豊かさが加わっていた。
1985年から現在を経てこれから遠い未来に向かって、
・当事者の実際の体験と、記憶と、舞台に載っている事象とのズレと、reconciliationと、その感覚を語ることと、これから。
・それを演じる(ひょっとすると当時生まれていなかったかもしれない)「役者」の記憶と、身体と、これから(次の日の公演と、その次の日の公演と、公演が終わってから)。
・それを観る「観客」個人の1985年の記憶と、他の様々な災害の記憶と、演じられる場で感じたことと、それを記憶することと、その記憶を語ること。
・この作品に未だ出会っていない人が、未来の公演で、あるいは聞き伝えで、その記憶を何らかの形で共有し、また記憶することの可能性。
今、この、劇場の中の、質量が、過去から未来に向かう時間軸を得て、さらに大きく広がっていく。

「語り」が、当事者以外の人間に語られることによって、月並みな言い方になるけれど、遠い未来に向けて新たな生命を吹き込まれていた。
George Squareの小さなスタジオの中で、僕は、大昔の竪穴式住居の中の、あるいは、昭和の田舎の炬燵のある部屋での、「語り」を想像していた。また、今から50年後、おそらく、1985年当時の当事者が誰一人いなくなった後に、同じ話が語られる場面を想像していた。

The 56 が語られることによって、いや、もうすでに、何度も語られてしまったことによって、ブラッドフォードの1985年の出来事は、それ以上の質量と広がりを持っている。その現場の一回に、居合わせてしまったことを、とてつもなく幸運であると、芝居を観てから2週間以上経った後も感じている。

2015年9月15日火曜日

ミッションとしての観劇のこと

今月初め、「観客発信メディアWL」の企画「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」について、若干思うところがあったので、備忘までに書く。

先月、3日間エディンバラまで出かけて、3日間で17本芝居観てきた。
自分としては、観たいから観ているのであって、自分にミッションを課しているわけでも、ノルマを課しているわけでも無い。
「あぁ、これは観なきゃ!」と思う芝居もあるが、それは、義務感というよりも、観なかったときに「あれ、面白かったよ!」って聞いて、悔しい気持ちになるのが嫌だからです。とにかく、面白い芝居は観たい、ということ。

そこには、苦行感もないし、達成感も無い。
喩えるなら、お菓子が大好きな子供がお菓子の家にぶち込まれたようなもので、お腹を壊すまで「幸せな気持ちで」お菓子を食べ続けるだろう。僕もそうです。
そういう意味では、余り前向きで無いかもしれない。「芝居を自分の快楽のために消費している」と後ろ指さされても仕方が無い。
いや、しかし、まずは楽しむことが大事。ミッションとか、妙な使命感持って芝居観る「必要」はない。

でも、実は、ミッションとして芝居を観ることを、否定しているわけではなくて、それを「自分でしなければ」と思ったり「誰かやってくれないだろうか」と思うこともある。
その一つの例が、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」。
こまばアゴラ劇場には芸術監督がいて、制作チームがいて、年度プログラムを何らかのポリシーに沿った形で作って、それにあった公演が上演されている。はず。
でも、芝居の公演について、「アゴラの年間ポリシーに沿ったプログラムだから」観に行く、という人はそんなにいないような気がする。
あるいは、芝居を観る中で、「今年度のアゴラのプログラムはここら辺の劇団とか、ジャンルだから、相当期待できる」とか、「今年のアゴラのプログラムの方向性は自分のテイストとちょっと違ってるから、支援会員になるのは今年は見送る」とか、そういうのもあんまり無いような気がする。
「アゴラでやるんだから、それなりのクオリティは確保されているんだろう」という推測は出来るものの、それ以上に積極的に「アゴラでやってるものだから、敢えて万難を排して観に行く」ということはない。

今では、芸術監督の平田オリザですらアゴラで上演される全ての公演を観ることができないはずで、そういう意味では、
「今、アゴラはどの方向に向かっているのか」を、観客として見定めようとしている人は、少なくとも僕の知ってる範囲では、いない。

更に言うと「何が起きているのか」もなるだけウォッチしないと、「どの方向に向かっているのか」を測ることが出来ない気もする。
当初プログラムに沿って上演が行われても、「上演される芝居が、プログラム策定時の意図を超えた思いがけない事象が引き起こされて、そこから将来に向けた思いがけない動きが生まれてくる」事もあるのかもしれない。毎日劇場に行くことは出来ないけれど、少なくとも、全ての上演についてカバーできたらなぁ、と思ったりする。

なので、僕の希望として、誰か、アゴラの芝居を1年間通して観てくれて、芸術監督のポリシーなり、劇場としての注目分野なりを、観客の立場から認識して、伝えてくれたり、あるいは、小屋主の目の届かないところでアゴラに起きている異変を指摘してくれたりしないかなー、と思っていた。
それを、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」のミッションとして期待している。

できれば、それは、自分がやりたい。
昔、アゴラに、自らを「下足番」と名乗り、全ての公演に必ず目を通している方が居たことを、僕は知っている。
加えて、アゴラは、自分に人格形成にとって極めて大きな影響を与えた場であって、一種「実家」のようなものでもある。
でも、できないなぁ、って思っていたところに、観客メディア発信WLの企画。

企画に参加している方々、あからさまに好みで無い芝居にも出かけていって、一種ミッション遂行のための「苦行」にも近い時間を過ごすこともあろうけれど、それは、違うレベルで、「アゴラで観る芝居は、今後どうなっていくんだろう?」という興味と、「そういう興味を他者と共有したい」という希望に支えられているものだと信じます。
だから、「アゴラ完全制覇ミッション」、頑張れ。

The Communist Threat (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 10:40 @Studio, Zoo Southside

第二次大戦後、冷戦期のウィーンを舞台に、MI5のスパイ2人が出てくる芝居、と聞いて、こりゃかるーいタッチのお笑いコメディかな、と決めてかかっていて、
エディンバラ最終日の午前中2本目の芝居はその名も"Communist Threat"「共産主義者の脅威」で、日本ならともかく、UKだとちょっと冗談系だろうと思っていたら、
事もあろうにパラドックス定数系のハードボイルドな舞台運び、しかもパブリックスクール出身の男の純愛描いて、これがなかなかストレートで好感の持てる芝居だったんだ。

ワーキングクラス出身のスパイと、ミドルクラスでオクスフォード出身のスパイ。生まれ育ち、アクセント、言葉遣い、着てるものも違えば食事の好みも好きなスポーツも違う2人がウィーンのホテルで落ち合ってなにやら暗殺の段取りの相談。ただし、何から何まで違うこの2人だから、会話も棘のあるものにならざるを得ず。
共通点と言えば2人とも陸軍にいたことだが、ワーキングクラス君は1941年にはアジアで日本軍に捕まってPOWキャンプでひどい目に遭った口。
オクスフォード君は戦争末期にソ連が解放することになる地域でドイツ軍の捕虜になってたという設定。

ということは、東西両陣営が交わるウィーンにあって、ワーキングクラス君は資本家を忌み嫌う出自であるから、実はここで東側に寝返っているんじゃないか?
いやいや逆に、ソ連の解放区で捕虜になってたこのオクスフォード君の方がむしろ怪しいんじゃないか?
で、この2人が会うことになってるミドルクラスのイギリス人の某大物って、一体何者か?
みたいな。

極めてスタンダードでオーソドックスなスパイもの。しかも、男の純愛です。ド純愛でした。45分でまとめて、濃くなりすぎない味付けにしたのが勝因か。

結局のところ、分かりやすい構造ですっきり観られて、かるーいタッチで劇場を後にした、という点では予想通り、と言えるのかもしれない。

2015年9月14日月曜日

Cracked Tiles (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 09:05 @Zone Theatre, Spotlites

前評判が高かったわけでもなく、大入りだったわけでもなく、ただ、朝9時5分から始まる芝居が他にないし、というかなり消極的な理由で観に行った芝居だが、いやはやどうして、心に残るステージだった。
オフィスビル(開演5分前になるまで、ビルの入り口に入ることすら出来ない、本当の会社の入ったオフィスビル!)の地下の奥深いところにある、キャパシティ20人弱、ちょうど、ゴールデン街劇場を更にもう一回り縮めたような中での独り語り。観客は僕を含めて4人。プラス関係者1人。

で、客電が消えて、パフォーマーが出てきた瞬間に、あぁ、オレはこんな場所で、こんな芝居が観たかったんだよ、って思ったんだ。
台詞語り始める前から。芝居が始まるか始まらないかの、その瞬間に。
エディンバラに来て、フリンジ大好きで、幸せだなー、って思ったんだ。不思議だった。その瞬間だけはずっと忘れないだろうと思う。

肝心の芝居の方は、というと、これは、やはり男性独り語り。イタリアから移民してきてグラスゴーでサンドイッチ屋を営む父と自分のこと。
終演後、演者が「かなりパーソナルな思い入れのある話をした」と語っていたので、彼自身のことが相当程度入っていたのかもしれない。
実際、グラスゴー訛りは、聞き取れない・・・きつい・・・
(演者が小生と目を合わせないように苦労していたのは、やはり、自分の訛りは日本人にはキツかろうと思っていたからだろうか?)
そしてナレーターの父はイタリア訛りで、これは、聞き取れる・・・

語り手としてあまりこなれた感じはせず。
「語り手としての地の部分の語り」が、素直で真っ直ぐすぎて辛いときがある一方で、例えば、サンドイッチ屋の常連客や、イタリア人の祖父母を演じるときの、「ちょっと離れて観た客観目線」と「子供の時の自分が観ていたときの印象目線」のバランスがどうにも面白くて、で、「語り」と「他人を観察した目線」の落差が素直に出てきているのがとても面白かった。
あぁ、この人は「油断ならないと思わせないし、実際油断していて良い、真っ直ぐな(いい人な)語り手なんだな」ということもよく分かった。
それは美徳であると共に、ある意味、コクに欠けるのだけれど、いやいや、それを上回って、「場」としての親密さは相当なもので、いや、これがあるから、フリンジは止められないんです。

2015年9月13日日曜日

Am I Dead Yet? (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 23:15 @Traverse 2

白いグンゼ風のランニングに白ブリーフ、どこから見ても中年度満点な2人が深夜のTraverseで繰り広げる生と死の狭間のお話。
エディンバラ初っぱなに観たConfirmationに引き続いて、Chris Thorpeによる「いかがわしい語り手」を満喫。かたや相方のJon Spoonerもしっかり受けて立って、この日6本目の芝居であるにもかかわらず全く眠たくならない。それどころか帰り道は若干興奮気味で、実は後ろの席に前の晩飲んだA/M両氏いらしたにも拘わらず気がつかないで帰ってしまった。

語られる「お話」は主に2つで、一つは轢死体のパーツを探す2人組の警官。もう一つは真冬の凍った湖に落ちて心臓が止まった女の子。その他、AEDの使い方等々。物語としては取り立てて衝撃的であったり感動的であったりはしないのだけれど、この劇場の中でこの2人に語られるときに、確かに何かしら作用していることを感じる。

確かに。この劇場に入る前と出た後とで、何かしら、おそらくちょっとだけ、生と死に関する感じ方が影響を受けていて、こういう風なのを異化効果と言うんだろうか、などと考えた次第。

ポイントは、語り口。観客との関係の取り方。ギアの入れ方。この辺りの上手さには本当にしてやられる。

ちなみに、開演前に観客にA5版のカードが配られて、"I think I will die..."と書いてある。「私はこんな風に死ぬと思う・・・」と最上段に書いて後は空白。そこを埋めて、アンケート箱に入れておいて下さいね、ということだったのだけど、このパフォーマンスのラスト15分は、そのカードに書かれているままを歌詞にして、2人で「僕たち、いつか死ぬよね。わかっちゃいるけど、いつか死ぬよね」と、歌い上げてくれる!そして最後は客席もご一緒に、サビの部分は合唱で(まぁ、大合唱と言うほどには人も入ってないのだが)。
僕の考える死に様も、(かなりくどくどしく長ーく書いてあったのだが)きちんと歌ってもらえて、嬉しかったな。自分の死に様を人に歌ってもらうっていうのは、カタルシスがある。自分としてはかなり正直に書いたつもりで、それを先のA/M両氏も聞いているはずだが、まぁ、内容自体は秘密。

Our Ladies of Perpetual Succour (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 21:15 @Traverse 1

Billy Elliott (邦題リトルダンサー)のLee Hallが台本書いた女子高校生6人の青春ミュージカル、とくれば、これは観に行かなくては!
というだったのだけれど、やっぱり良かった。
期待値が高すぎたからか、期待を上回る衝撃はなかったけれど、期待通りに面白かった。

タイトルはLadiesを単数形にして、Our Lady of Perpetual Succourにすると聖マリアのことなので、登場人物の女の子複数と言うことで複数形に直して、
日本語だときっと、「嗚呼!聖マリア女学院合唱部!」あるいは「魁!聖マリア女学院合唱部!」。

18歳、卒業間近の合唱部仲良し6人組が、スコットランド大会に出場すべく田舎町オーバンからエディンバラにやってくる。
そこで繰り広げる恋・友情・家族・不治の病・進路・セックス・酒・ゲロ・妊娠・・・
全部盛りの青春ミュージカルがテンポ良く繰り広げられて、とんでもなく楽しい。

女の子の青春仲良しモノと言えば、日本ではももクロの「幕が上がる」や平田オリザの「転校生」が頭に浮かぶ。フォーマットとしては大凡同じだし、目指せ全国!だし、
キャラの割り振りも似ている。

ただし、この芝居のももクロでの上演は無理だろう。
ももクロのメンバーは舞台上で、精液が鼻水みたいな味がするとか、そういうことを語り合ったりはしないだろうからである。
で、まぁ、そういうお下劣な台詞は満載なのだが、そしてその度に、客席のおばさま方は「あらあら」「あらまあ」みたいな反応だったり、あまりにお下劣な台詞に場内爆笑だったりするのだが(あ、小生はさすがに早口のテイーンエイジャーのスコットランド訛りにはほとんどついて行けてません。ほぼ決め台詞に近い超お下劣なやりとりはちゃんと聞こえたのが不思議だけれど・・・)、
ただし、この芝居が面白いのは、そういった悪のりに近い(時として鼻につく)部分ではなくて、やはり、テンポと、歌と(上手!)、メタ構造のフレームの嵌め方の出来映えに依るところ大。芝居の虚構の作り方がしっかりしていると、その中でいかに若い役者が羽目を外しても、きっちり芝居の世界の中に取り込んで、芝居の滋養にしてしまうことが出来る。さすがである。

キャスティングの要請もあって、このメンバーで再演見られるかどうかはまったく分からないから、いや、無理して初演観て良かった、良かった。大満足。

2015年9月12日土曜日

Man to Man (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 17:40 @Topside, Underbelly Potterrow

男装の女性による独り語り芝居。
ガーディアンをはじめとする各紙で5つ星評価を受けていた作品。前評判ではなくて、エディンバラフェス開幕後に評判の良かった作品だけに期待していたのだが。
前日飲んだときにT氏・A氏の評価がそうでもなくて警戒はしていたものの・・・

これはいかんでしょう。これでは。
ナチスドイツ下で夫を亡くし、職ほしさに男装して過ごした女性が、男装のまま第二次大戦を切り抜け、その後も男装を解くことのないまま歳をとる、っていう話。
話の内容をいかんとは言わない。いかんのは、「あー哀れ、私は可哀想な人。あー可哀想。こんな私に誰がした。世間を恨む、運命を恨む」調で終始自分の可哀想に追い詰められた話を聞かせ続ける戯曲・演出・役者である。

若干傾斜のかかった舞台、時として布で身体を巻いて天井からぶら下がってみたり、まぁそういうのも屁難しい理屈か意味かなんかをつけてそうしているのだろうけれども、
「熱演ご苦労様」以外に何もないように、僕には思われた。

前日、別の場所で「人間は演技を観て感動するんじゃなくて、物語に感動するものなのよ」みたいなことを言われて、うむむ、と思ってたのだけれど、こんなものに5つ星つける人は、きっと芝居観る前からプロット聞いた時点で5つ星決めてたんじゃないかなー、って思ってしまったよ。いや、本当に、いかんです。

The Solid Life of Sugar Water (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 16:00 @Queen Dome, Pleasance Dome

エディンバラを離れてから、何日か経っても、じわじわと「あぁ、あの芝居はとても良かったなー」と思えてくる芝居があって、
これがその一つ。

若い夫婦の、出会いとセックスと死産とそれからのこと。俳優2人の語り芝居。
冒頭、二人のセックスについての相当微に入り細に入った語りから始まる。前戯の語りに5分は軽くかけている。もちろんその続きもある。
それが、全くエロくない。指の動き、女性の身体の反応、それをどう捉えるか、彼女がどんなアクションに出るのか、
すっごく細かく語っているのに、全くエロくない。
そう感じられた原因は、僕にあるのか役者にあるのか、それとも台本にあるのかは分からないけれども、少なくとも、このエロくなさは、
作品全体にとってとってもポジティブなことで、
というのは、この芝居は、
エロ話の観客サービスでも、観客にエロい感情を催させるためのものでも、難しい話をエロに包んだ小咄仕立てでもなくて、
極めて正直に、真っ直ぐに、若いカップルのコミュニケーション、その不全、それとセックスとの関係、無関係、無意識の権力関係、暴力、優しさ、冷淡さ、無関心、鈍感さ、敏感さ、わがまま、気遣い、そういったものを、織り上げた作品になっていたから。セックスの語りも、その全体の織り上がりの中にしっかりと組み込まれてすっごく大事な一部分として機能している。だから、「冒頭にセックスの極めて詳細な描写があること」は、エロくない意味で、すごく大事なことなのだ。

同じことは、すごく早い時期に破水してから死産に至るまでのことを語るシーンも同じ重みでそうだし、ハリウッド恋愛コメディの出来損ないみたいな出会いのシーンもそう。大事なことは、言葉で語られことも多いし、言葉がミスリードすることも多い。言葉で語られないことがボディランゲージで語られないこともあれば、そのためにミスコミュニケーションが起きることもある。思いは思っているだけでは伝わらない。それは、当たり前。だから、言葉のコミュニケーションも含めていろいろなサインがいろいろな階層で交わされる。でも、伝わらないものは伝わっていないのだ。

その2人のコミュニケーション・ミスコミュニケーションを、観客は神の視点で(すなわち、2人がお互いに言わないこと、が聞こえるように)眺める。それは、切ないことだ。なぜならば、そこで起きていることを自分がどう捉えたかについて、隣の観客やパートナーに伝えられるのかについて、ひょっとして・・・という疑念無しにはいられないからだ。そして自分のぎこちない・ぎこちなくないセックスが一体何なのかを考えざるを得ないからだ。もちろん、それは、セックスに限らないのだけれど。

俳優2人の演技が真摯で、余計な小芝居なしなのが、すごく良い。
男優が右腕に障害を持っており(右腕が短い)、女優が両耳に補聴器をつけていることは、極めて高い彼らの演技の質や、芝居の本筋とは関係ない。ただし、いわゆる健常者の観客に、自らの本当に不自由な部分がどこにあってどこが自由なのかを意識させる装置としては、絶大な威力を発揮していた。

舞台上、ベッドがこちら向きに垂直に立っていて、「寝ている」役者2人が実は垂直に立っていたりするのだけれど、従って、開演前は「垂直ベッド上の小咄集だったらどうしよう」という危惧も覚えたのだけれど、杞憂だった。そこにベッドを置いてあることの意味も、きちんとあるのだった。

極めて良質なプロダクション。次の作品も、是非観てみたくなった。

2015年9月11日金曜日

Iphigenia in Splott (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 13:50 @King Dome, Pleasance Dome

Gary OwenのGhost Cityを訳したのは1年ちょっと前。その時に消化しきれなかった部分を解決したいというのもあって、彼の芝居は努めて観るようにしている。

今回の書き下ろし、今年初めにウェールズで初演されたときには評判が良かった芝居。
この前Royal Courtで観た "Violence and Son"が今一つだったので、今回もドキドキではあったが、ぐっと覚悟を決めて観に行った。

そして、よし!相当気合いの入った、かつ、輪郭もフォーカスもくっきり立ち上がった、質の高い芝居だった。
Ghost Cityでいうと、後半の、ドラッグをいけ好かないビジネスマンに売りつける二人組の話を膨らませて突きつけてきた感じ。

タイトルのイピネゲイア(英語だとイフィジナイア)は、ギリシャ神話に出てくるアガメムノンの娘で、トロイ戦争出陣の際、戦勝のために父自身の手にかかって生贄として捧げられる。
一方、Splottってのはカーディフ市内の地域の名前(区、みたいなものか)で、一言で言えば、ガラの悪い街ですな。
UK Crime Statsによれば、ウェールズで9番目に治安の悪い地域ってことになっていて、特に街娼どうするか、について議論されてたりする。

芝居の設定は、この、Splottに住んでる街娼、Effieによる独り語り(ネタバレが本当に嫌いな人はこの先何行か、読まないで下さい。でも、ストーリーのネタバレはこの芝居の美徳を一切損なわないと考え、敢えて書いてます):

家族のある傷痍軍人と一夜を共にして、ガラにもなく本気になったところが捨てられて、妊娠していることが分かって、産むことに決めるのだけれども、極端な早産に加えて地元の病院には産婦人科病床も人手も足りておらず、別の病院に搬送される途中で救急車が雪でスリップして結局たどり着けず死産になってしまう、っていう、極めて救いのない話。

が、観客は、その物語に動かされるわけではない。演者の所作とか、語り口とか、舞台の様子とか、そういうものに晒されて、で、感情が動くのではないかと僕は考えている。少なくとも僕はそうした「可哀想な物語」に動かされる観客ではない。
もっと言うと、観客はきっと、平田オリザの東京ノートの台詞にあるように、
「芝居を観ているときに、自分は一体何を見てるんでしょうか?」という謎々を常に自分で問いかけているのである。
演者を観ているのか?そこで語られる物語を聞いているのか?それを聞いている自分を後ろからもう一人の自分として観ているのか?

この芝居の最初の台詞は、それへの問いかけである。最後の台詞も、観客への挑戦である。そういうネタバレは、ここではしない。
最初と最後の台詞でフレームがかっちり決まった時点で、この芝居は「勝利」している。
そして、役者がそこを勘違いせずに、焦点をずらさずに、演じきったことで、この芝居は生を得ていたのだと思う。
Effiが世界を観る視点と、演技者が観客を見る目線。その先にある世界と観客と、それを感じながら演技者=Effiを観る僕と。最後までその焦点が緩まない、素晴らしいパフォーマンスだった。

A Gamblers' Guide to Dying (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 11:15 @Traverse 2

エディンバラ2日目のしょっぱなは、男性独り語りによる「ギャンブル好きおじいちゃんの生き様」。
開演1分にして、メロメロ。涙出てきた。
語り始めるときの、観客との関係の切り結び方の間合い。口ごもり。
さて、どこから始めようか?どういう人の話になるだろうか? その、場に対する真摯さに、感動した。
それだけで、この公演に来て良かったと心の底から思えたんだ。

お話自体はそんなに難しくなくて、
ギャンブル好きのおじいちゃんがガンで余命1ヶ月、と診断されたときに、
「じゃあ、オレ、余命がもっと長い方に賭けるから」って大金賭けて、それでどうなったか、っていう話。
まぁ、こうやって一括りに話すと、よくある「ちょっといい話」だな。

してみると、やはりこの芝居の魅力は、ストーリーそのものではなくて、語り口とか、そういう細部にあった、ってことなんだと思う。
もちろん、エディンバラのフリンジフェスの観客層はとても広いし、
基本的にはスコットランド人のためのフェスなのだから、地元のスコットランド人のじっちゃん・ばっちゃんが多数詰めかけるステージだったのだけど
(日曜日の午前中公演でもあるし)、従って、観客の間口は「ストーリーを愉しむ」人に向けても広げておかないといけなくて、そして実際間口はうまーく広くとってあって、
その上で、しっかりと、語り口で勝負。素晴らしい。そこら辺は畑澤聖悟さんの上手さに似たキャパシティを感じた。

「自分の祖父の話」なのだから、語り手のパーソナルなものが入り込む余地は多分にあるのだが、役者がここでも
「語り手・語られる人・演じ手・観客(総体として・個として)」のそれぞれの視線を整理した上で舞台に上がっているので、クリアーで、
かつ、境界をぼやかして遊んでも心配にならない。安心して身を預けていられた。

いや、素晴らしかったです。

2015年9月10日木曜日

Swallow (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 21:45 @Traverse 1

Traverseってのは設備もとても良いし併設のパブもとても感じが良くて、小屋としては一流。キャパシティ250人くらいの擂り鉢状の舞台が心地よい。

Swallowは、英国に住む女性3人の孤独と触れ合いを、時としてモノローグで、時として「限られた時間の中での」交流を通じて描く現代劇。
こんなクリシェがとてもお似合いの、ぬるくて退屈な芝居だった。

どんな女性たちかというと、最近ボーイフレンドの浮気が発覚してショックのあまり自分の顔に沢山縫うような傷をつけて仕事も休んでしまったバリキャリの人と、性同一性障害で悩む生理学的には女性な人と、ここ2年ぐらい兄弟のカネで借りているフラットに引きこもっている女性。
そういうキャラ設定自体にケチをつけるつもりはないのだけれど、おそらく、この芝居を台無しにしてしまっているのは、引きこもりの女性が、「引きこもりって多分こんなもの」みたいなドリーム入った感じでしか描かれていなくて、切実さがまったく感じられなかった、ってことなのではないかと思う。

起きていることとして語られる出来事はヒリヒリしていることを訴えるかのように語られるのだけれど(鏡を全部割ってモザイクに作り替えるとか、家具調度を全部なくすとか、カーテンを全部ハサミできってペリカンの巣にするとか)、岩井ヒッキーワールドの切実さは皆無。説得力がない分だけ女優が「熱演」「熱弁」に頼らざるを得なくて、まぁ、その熱についてはちょっとだけ買っても良いが、それ以上のものではない。

そうだ!この芝居は、引きこもっていたことのある人、引きこもっている人のための芝居ではなくて、
「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」による、「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」のための、「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」の芝居なんだ!
だからこうなっちゃうんだよ。

そういうぬるい進行を全体として許容しているものだから、ラストシーン、初雪が降ってその冷たさに触れて「私は外に出られたのよ!」みたいにいきなり解放されちゃうという途方もなくお人好しで、ストーリー上はみんながちょっとだけ救われるように書かれているのにも拘わらず客席では誰も救われないという大惨事になってしまうのだ。
いや、違うな。客席はけっこうみんな喜んでみてたな。喜んでないのはオレだけかもな。

まぁいいや。僕にはつまらなかったです。

2015年9月9日水曜日

This Much (or An Act of Violence Towards the Institution of Marriage) (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 19:45 @The Monkey House, Zoo

男優3人のガチ三角関係もの。これからの人生の同志に娶られるのか、セックス含めて自由に快楽を追求するパートナーを取るのか。さあどうする?
っていう芝居で、これが殊の外楽しめたのである。

そもそも、男女関係でなくて男々関係にする必然性があるのかという向きもあるかもしれないが、必然性はないよ。だって普通に男々関係がある世の中で、普通にそれを拾ってきただけのことなんだから。
もちろん、男女関係を縛るものとして色んな社会規範とか制約があるのと同様に、男々関係を縛るものも多々あって、その在り方は男女関係とは若干違うかもしれないけれど、それは大して重要なことではない。

この芝居では、だから、カップルの在り方を縛るものとして、「ゲイに対する偏見」ではなくて「結婚という制度」を持ってくるという、極めて古典的なフレームを使っている。後は、男優3人で演じるんだから視覚に訴えるシーンは当然出てくるんだけど(たとえば、男優のウェディングドレス姿とか)、後は、浮気発覚の瞬間とか、3人対決のシーンとか、ごくごくスタンダードな三角関係もの。
それを、変な色を出して媚びていこうというのではなく、ストレートに見せてくれたことに好感を覚えた。

低予算のプロダクションの限界は、ステージの作りとか小道具の取り回しとかに見て取れるし、演出のとっちらかったところも気になるし、真っ裸になって男二人でチンチンぐるぐる回してみせるのも100%無駄なシーンだとは思ったけれども、それを補ってあまりある三角関係真っ向勝負の潔さ。愉しんだ。

4x4 Ephemeral Architectures (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 17:30 @Assembly George Square Theatre

ジャグラー4人とバレエ・ダンサー4人が組んで、バンド生演奏で魅せるパフォーマンス。

先にエディンバラ入りしていた友人の超お勧め演目、第2位の作品だった。ロボット演劇を観るはずだったのが、そっちは当日になって売切御礼、友人には失礼ながら、「次点」で滑り込み当日券ゲット。Assemblyのシアターがとても大きな小屋だったので、当日券も手に入れることが出来たのだが、結果、超ラッキー。

色んな突っ込みはとりあえずおいといて、見た目に楽しく、音楽も楽しく、60分、フルに満喫した。
安野光雅さんの絵本で、サーカスの曲芸師が操るクラブやボールが変な連なり方をしてる絵があったような、朧な記憶があるのだけれど、
それを舞台に映したような感覚。

お手玉名人の側にいてボールをかっさらっちゃったらどうなるのか、とか、
そのボールを気がつかないようにお手玉名人に返すことは出来るのか、とか、
くるくると回るクラブの間を縫って縄跳びのように動き回れるのか、とか、
複数の人がちょっとずつタイミングをずらしてお手玉したらどんな風に繋がって見えるのか、とか、
そういう、
子供の頃、何秒か考えたことはあっても、その後絶えて思い出すことのなかった試みを、
なんと目の前で展開している人々がいる、ということに、単純に、「すごいなー、こんなことができるんだー」
と見入ってしまった。

このパフォーマンスは、単純な、ある意味稚気に満ちた、アイディアを、極めて高い技量を尽くして実現してしまったことが、エラい!のである。

技量の高いシーンはもちろん凄いのだけれど、んぐぐ、と唸ってしまうのは、
ジャグラー達とダンサーが横に並んで複数のボールの上下動を連ねて一枚絵で見せるシーン。
なんと、バレエ・ダンサーの女性はお手玉せずに、ずっと泊まって前向いて、ボールを上に放って取るという、いわば、観ている子供でも出来ること繰り返すのだ。
「僕でも出来る」仕草が組み込まれて、しかも、それが美しい一枚絵の全体に貢献しているという、
あれは、かなりやられる。

もちろん突っ込みどころはある。
何故ダンサーがバレエじゃなきゃならないのか?とか、
途中で出てくる何だか高尚ぶった語りは、ありゃ一体何だ、とか。
が、そんなことを考えているヒマがあったら愉しんだ者勝ちである。単純にすごいじゃないか。楽しいじゃないか。良かったなあ。

2015年9月8日火曜日

Lungs (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 15:35 @Roundabout, Summerhall

男女2人が子供を持とうと決めてから、結婚、流産、別れ、その他いろいろ紆余曲折を経て、一緒になって死に別れるまでを描いた、
2人芝居なのに実は女性独り語りによる「女の一生」もの。

最初の場面から女優が一人でまくしたてて相方の男性にしゃべらせないところから、既に辟易する。
「そもそもこんな女性は嫌い。いや、ここまで人の言うことを聞かない女性はリアルにはいない。あるいは重度の病気」というのが半分、
「狙ってこうしているとするとこれからの70分相当キツいな」というのが半分。
男優が台詞を言って会話がどうにか成立しそうになると相当安心するのだが、どうも芝居全体の構造が女性の視線に偏っていて、据わりが悪い。

この台本を書いた男性は、相当女性に対して悪意を持っているのではないかとすら思えてくる。

後半は男性の台詞も増えてくるのだけれど、物語の組み方からして既に「女性の視点から見て男性の台詞がどう聞こえるのか」しか見えてこない。
それだったら男性の役なんか不要で、最初から女性一人芝居にして男性は添え物にする、あるいは色んな役を引き受けさせたら良かったじゃん、
と思わざるを得ず。

後で観た "The Solid Life of Sugary Water" も似たような主題を扱っていたのだけれど、「真面目さ」においては同じくらいだと思うのに、
形にしてみると圧倒的に "Solid Life" の方が面白く、しかも「伝わる」仕上がりになっていた。

2015年9月6日日曜日

Tomorrow's Parties (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 13:20 @Summerhall, Old Lab

Forced Entertainmentは、日本にも何度か来ていた記憶があるけれども、僕自身は初見。
男女2人が演壇(辻説法に使っているような風情の)に乗って、未来についてしゃべくりまくる夫婦漫才を60分。
エディンバラに居ながらにして、三球・照代師匠の地下鉄漫才を思い出させてくれたというのは大きな収穫かも。
逆に言えば、絶妙な二人の掛け合い(何というクリシェ、しかしクリシェの範囲でしか面白くないところも実査沢山あったのだ)、
時としてゆるーい下ネタや時事ネタもしのばせながら、
その中に顔を出す未来に対する不安、絶望めいたもの(これもまたクリシェ!)、
それ以上に僕の関心を引いてくれるような瞬間は訪れず。残念。

Confirmation (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 11:50 @The Dissection Room, Summerhall

エディンバラ到着後一発目の芝居は、Chris Thorpe作・自演の独り語り、時として観客参加型。

Confirmationっていうのは、(これは後で調べたことなんだけど)日本語では「確証バイアス」と呼ばれていて、
「人間ってのは、自分が既に持っている信念をサポートしてくれるような材料を集めて「客観」を名乗ろうとする」ということらしいんだけど。

とある街の郊外で行われた在郷軍人会の話から始まって、街の排外主義者のこと、米国の著名な排外右翼学者との会話等々。語り手であるChrisは自らを「英国に住む白人でリベラル左翼」であると名乗り、その視点から語られる人々は(自称へたれ左翼の一観客からすると)排外主義の白人どもの話で、おそらくこの手の芝居を観に来てるということは、会場にいるおよそ100人の人々は(9割以上が白人だったけれども)、ほとんどが「リベラルな思想の持ち主」なんだろうなとも推測される。
が、ここで困ったことに、
(1) この芝居の中で語られる対象としての排外主義者達の主張は、大体において、Confirmationの典型例のように思われる・・・(困ったもんだよなー)一方で、実は、
(2) この客席の中でも確実にConfirmationが作用していて、さらに、
(3) 語り手のChrisは、そのバイアスに自覚的でありながら、実はその罠の中にいるのか外にいるのか、語りの中では絶対に明らかにはならない
ということなのだ。

しかも、語られるトピックは、特に日本人である僕にとっては、「白人の排外主義者」のフレームで語られているにも拘わらず、
もちろん、現代日本の排外主義者と彼らが依って立つconfirmationの問題とパラレルで
(高等教育を受けていてそれなりの教養を身につけている人が、強固に理論武装されたconfirmationに陥っている状況に眉をひそめざるを得ない現状では特にそうで)、
冷静に聞いてられない、ということは、自らも実際のところはconfirmationの陥穽にはまっているんじゃないだろうか、
と困りだしたところで、ぎゅぎゅっと結末をたたんで60分のパフォーマンスが終わる。

本当に、困ってしまう芝居を観てしまった。もちろん、良い意味で。
柔らかな語り口で観客を取り込みながら、そして、取り逃がさないように手練手管を尽くしながら、ラスト、きちんと困らせてくる。
そこら辺の使い分け。語り手、語られる人の描写、語り手を演じる俳優、観客(しかも、総体としての観客と、1対1で対峙する観客との使い分け!)、その辺りの整理がきちんとついていて、しかも、あからさまになりすぎないようにコントロールしているところに巧みさ、凄みを感じた。

こういう芝居を日本で演るのは難しいだろうな、とも思った。主義主張の左右に拘わらず、confirmationの存在を指摘されると逆ギレする人に満ちてそうな気がするから。
その点、イギリス人は(少なくとも芝居を観に来る層の人は)偽善者ではあるかもしれないが、少なくともconfirmationの存在を一旦受け止める度量くらいは持ち合わせているだろう。ん?だから日本でやってみたいと思うのか。そうだね。やってみたいよね。で、沢山の人に観てもらいたいよね。