2009年11月29日日曜日

海をゆく者

28/11/2009 マチネ

出羽の守扱いを恐れずに声を高くして叫ぼう。「責任者出せ!」(フォント64pt)。

マクファーソンの名作戯曲から、マクファーソンらしさやアイルランドならではの要素を一切合財取り除いて、おこちゃま観客にも受け入れやすいようにアレンジして本格派気取りかよ!
そうさおいらは出羽の守、ロンドン初演「では」ロンドン初演「では」を連発して周囲に煙たがられるお邪魔ムシさ。でも、それでも言うよ。このプロダクションはマクファーソン戯曲の魅力を全く引き出していないと。

何だかなぁ。翻訳劇って、難しいんだけど。こういう、アイルランドの臭いがいいね、っていう芝居だとますます難しいとは思うんだけど。そこで、かなり客に媚びた安易な選択肢を採り続けた結果がこのプロダクションじゃないかという気がしている。

もしかすると、初演の兄役を演じたジム・ノートンが素晴しすぎたのかもしれない。ノートンと同じ方向性の演技では勝負できないと判断して造形を変えたのなら、それはそれで一つの選択肢だが、まぁ、結論を言えば、大きく失敗していた。

<以下、ネタバレも相当なレンジで含む罵詈雑言>

・ 兄の造形を5億光年間違っている。なぜか神様が弟に肩入れする理由の大きな一つは、「どうしようもない兄の」信仰である。そういうのが戯曲の中に散りばめられているのを本プロダクションは一切無視。これではアイルランドっぽさは失われてしまうし、何故、ラスト、弟ではなく兄の方に勝負手が与えられるのかが説明できない。
・ 兄の演技、あれじゃ、目が見えない人を演じているのに全然目が見えないように見えない萩本欽一だよ。いや、ビル・ベイリーか。あ、ファーザー・テッドのファーザー・ジャックだよ。あんなに元気なんじゃ、ラスト近く、悪魔が「じゃ、兄さんが肩代わりするってことでいいよ」という台詞の意味がゼロじゃないか。
・ ニッキーの衣装は、ありゃなんだい?経済が昇り龍の勢いのダブリンであぶく銭掴んで商売始めるヤツが、あんなネルシャツ着てたりしないよ。
・ ロックハートも仕立てが良すぎ。貧乏人⇒あぶく銭⇒金持ちのグラデーションが衣装で見えないので、ロックハートだけ浮いて見えてしまう。初演はもっと「後ろから尻尾がでてきそうな」田舎紳士風の格好だったんだけど。
・ 「酒を床にこぼす」とか「暴れる」とか、そういうのを客にみせて媚びるのは止めた方が良い。あれは、「普通にやること」であって、「客に説明するためのツール」になった瞬間安っぽく薄っぺらくなる。

快快 Gorilla

27/11/2009

フォト・ロマンスを拝見した後、F/Tステーションにお邪魔したら、快快Gorillaが催眠術にかかっていた。コージGorillaがゴリラになる催眠術をかけられて、ゴリラになっていた。

練りわさびを平気で食べる人や、柱に引っ付いちゃう人や、頭から手が取れなくなっちゃう人がいて、怖かった。でも、一番怖かったのは、文句なし、岩井秀人だ。

岩井秀人に催眠術がかかっちゃって尾崎豊になっちゃったらどうしよう、というのも怖かった。
岩井秀人がくたっとなって、かかっちゃったかな?と思わせた瞬間も怖かった。
催眠術師の人があきらめた瞬間も、怖かった。
催眠術、怖いです。いろいろ。12月4日はデッサン大会なので、怖くないそうです。

ムルエ・サーネー フォト・ロマンス

27/11/2009 ソワレ

結論を先に言うと、僕には期待はずれだった。

ロンドンにいたとき2,3歳年下のレバノン人の友人が、家族と防空壕で過ごした子供時代の思い出を話してくれたことがあって、何となくびっくりしたのを覚えている。
おそらくムルエ氏もサーネー氏も僕と同じ年にレバノンで生まれているから、僕の友人と若干なりとも似たような経験をしていると推測された。
ロンドンで聞いた話の追体験のようなもの、あるいは、そこで受けたイメージに何か付け加えてくれるものを、何となく期待していたのだと思う。

でも、舞台は、直接語ることの難しさを解決するために「趣向」を求めて回り道をし、結局、趣向だけが先に立って語られるものをすら絡め取ってしまった印象である。

いや、難しいんだよ。僕の友人も、決して「ストレートに語る」ことを是とはしていなかったし、それはそれとして極めて真っ当なのだけれど。でも、回り道する方向は、「趣向」に限らない気がするんだよな。趣向が優先すると、「その日、そのとき、その場に居なかった人たち」は、語りたい気持ちの上澄みだけを汲み取って、それを愛でて終わってしまうんじゃないかと思うんだよな。いや、所詮、上澄みでないところまで分かる分かる、って行ってしまうことも嘘なんだけど。

デッド・キャット・バウンス

23/11/2009 ソワレ

面白かった。100分間のリアルタイム株式投資ショー。何事も、自分で色々試してみるのが一番なんだけど、株式投資を一から自分で試してみる機会はないからね。しかも外株で。

僕はてっきり、あのVictorやらいう人はほんまもんのデイ・トレーダーなのかと思ってたら、違った。どうも自分の偏見をあぶりだされたようで、恥ずかしい思いである。

恥ずかしいといえば、僕自身は、マーケットでの切った張った売った買ったでおカネを儲けることは、モノづくりとか人を気持ちよくするサービス業とか、そういう真っ当な仕事と比べると(比較の問題として)恥ずかしい職業ではないかと思うところもあるのだけれど、この「デッド・キャット・バウンス」は、その微妙な線をついてきていたと思う。

モロ恥ずかしいトレーダーと、金融資本主義批判が逆の意味でモロ恥ずかしいマル経の大学教授と、その両極端の間に、劇場にいながらしにして株にはした金を張って一喜一憂する僕らがいて、一体、俺たちの立ち位置はどこにあるのか?なーんとなくモヤモヤとしたものを背負って帰った。

ネイティブじゃない欧州人の英語が多かったので、僕は聴き取りやすかったし、投資対象の銘柄にもなじみがあったから、そういう意味では、(あの、何が段取りで何がハプニングなのか全く分からない状態のなかで頑張っていた通訳の方お二人には申し訳ないが)通訳無しで楽しめました。

女性通訳の方はちょっとワイドショー的な要素を強調しすぎて耳障り。法政の金魚シャツの先生は明らかな人選の失敗。学者についてはもっときちんとした物言いのできる方を選ぶか、オリジナルバージョンがあったのならそれをそのまま使った方が良かったと思う。

2009年11月26日木曜日

飴屋法水 4.48サイコシス

23/11/2009 マチネ

芝居を観る時に、ゆうざん先生な態度はいけないなー、と思っている。
何だか、「おれ様は酸いも甘いも味わいつくした、場数を踏んだ目利きだぜ」みたいなの。そういう、上から目線というか、そういうやつ。
そういう人には、「メシってのは、味より何より、誰と一緒に食べるかで美味い不味いが決まるもんなんだYo!すっこんでろ!」といいたくなってしまうだろう。
でも、何を観ても面白いなんてぇ境地に至るのは至難の業だろう。好き嫌いもあるだろう。最後まで一生懸命観て、できるだけ率直に、思ったことを(好悪であれば好悪と断って。巧拙であれば巧拙と断って)書くことぐらいでしか、「言論の人」は免罪されないと思う。

あ、なんでゆうざん先生のことを思い出したかというと、この4.48サイコシスを観た後に、はるか昔に読んだ「天下一寿司」のマンガを思い出したから。ある生意気な寿司職人が、「お前の寿司には魂がこもってないからダメだ!」みたいなことをゆうざんに言われて、放浪の旅に出る。何年か経って、とある寿司大会に出場した元生意気クンは、ボロボロの格好で手もプルプル震えながらボロボロの、まるっきり寿司の体をなしていない寿司を握るのだが、それを食べたゆうざんが「む、美味い!」だって。そういう話だったと思う。このお話を読んで思ったのは、
(1) いや、いくらなんでも、魂こもってても、こんなポロポロの寿司は不味いでしょう。さすがに。
(2) あぁ、やっぱり、美味い不味いってのは、主観の問題なんだなぁ。
と、そういうことだったのである。

そう。なんで本題に入る前にゆうざんの話とか天下一寿司の話とか書いたかというと、それは、こういうことです:
「いや、いくらサラ・ケインの遺作で、彼女の魂がこもっていたとしても、4.48サイコシスのテクストは、出来悪いでしょ。しかも、サラ・ケインはやっぱり、どうみても自意識過剰でバランスを失した書き手でしかないでしょ」
「しかし、そういうテクストが飴屋氏によって舞台に載ったのを観ると、テクストの出来が、とか、関係なく、素晴しい。そこに、ゆうざんの出る幕は無い。いや、ゆうざんも、む。っていうでしょ、きっと」

他に言葉が見つからないので、陳腐ではあるが、「真摯」といってしまいます。
舞台から客席を眺める趣向も、血の海も、鼓動も、逆さ吊りも、ホーミーも、全て、趣向としてエンターメイメントに奉仕するのではなくて、むしろテクストに密着するのを感じる。その密着した感じ。密着するというからには「間に何かとてつもなく薄いものを隔て」ながら、限りなく近い。全ての瞬間において、その距離(距離の無さ)に神経を集中させられる感覚。その感覚がテクストへの「真摯」さである。それを見せ付けられた時に、テクストの出来不出来を語ろうとするゆうざん先生は、自らを恥じるほか無い。

テクストとパフォーマーの身体と観客と劇場。この組合せから生まれる道なき道を観た。

2009年11月23日月曜日

西村企画+わたなべなおこ 動員挿話

22/11/2009 ソワレ

西村和宏の問題意識の持ち方には、西村氏に対して大変不遜な物言いではあるが、いつもとても共感できる。
同じ青年団の演出家達に明らかに刺激を受けながら、そこで一歩立ち止まって「ちょっと待てよ」と敢えて言ってみせること。ぐいっと振り返って、「じゃあ、現代口語演劇にとって80年代とは?」「現代口語演劇にとって物語とは?」「現代口語演劇にとって観客とは?」「演劇にとってエンターテイメントとは?」みたいな青臭い問題提起をしてみせて、しかも、それを前に進んで振り切るのではなく、3分の1だけ重心を後ろに残して、「これまで演劇を観てきた人たち・こころもち」に最大限の敬意を示しつつ芝居を提示するという、いわば、現代口語演劇のしんがりを買って出ている気がしているのである。

今回は岸田國士のクラシック「動員挿話」と観客参加型演劇の極北を征くわたなべなおこを引っ付けて、そこに更に自分の問題意識を埋め込んでくる試み。いいぞいいぞ。

が、うーむ。やりたいことの1/3ですか...そういう感じもしたなー。本当は、西村は100%やりたいことをした、わたなべも100%した、役者も100%出した。足して300、それでは100%に収まらないから舟が山に登った、みたいなモノが観たかったんだけど...だからやっぱり、トータルの印象では、今回、ちょっとお行儀の良い中途半端な感じがぬぐえなかった。

わたなべ作のうじむしくんコーナーは、吹っ切れた感じが良し。が、岸田戯曲は無理矢理現代口語の台詞に直さずとも充分面白く出来たのではないかと(大西さんをみよ!)。台詞を直した部分の言い回しに、むしろ西村or役者のクセが出て、却って気になった。

日本兵の格好の男は、僕はてっきりこれから戦地に赴く「馬」かと思ってましたが、連れによると「軍国主義とかそういうもの」が家にお邪魔してきて、それが夫婦のいざこざのとばっちりを受けるのが楽しかった、んだそうだ。その方がはるかにきちんとした観方だろう。

パラドックス定数 東京裁判

22/11/2009 マチネ

2007年の初演に引き続き、王子に出かける。
観終わって、連れと連発したのが「巧く作ってるよねー」というコメント。役者も上手になっているし、ますます確固とした野木ワールドを感じた。

でもなー。ここまで出来上がっているとなー。もうちょっと破れのあるものが観たいなー、とか、もっともっと役者をストレッチしてしまった挙句に破綻の兆しが見えたぞー、と思ってしまいたいという欲もでてくる。パラドックス定数、演劇から芸能に形を変えかねない危なさが見えてきた。

一つだけ。小野さんの靴がラバー底だったのは小さな瑕として気になった。というか、ほっともした。
逆に言えば、それ以外に気になるところの無い、本当にできの良い芝居だったということ。

2009年11月18日水曜日

ひげ太夫 アユタヤ順風伝

16/11/2009 ソワレ

千穐楽。あー、面白かった。笑った、笑った、楽しんだ。
なんてったって、
「どどーん」「と、その頃王宮では」「もわももわ~」「さて、これからこのお芝居の最大の見世物です」
だもの。そして、そういう口上に甘えることなく、むしろそうやってお客の注意を引いて、引いた分だけ(いや、それ以上に)バッチリ魅せて、1時間50分手抜きなし。素晴しい。

妙に思わせぶりな「お客さん、あなたが愚かでなければ理解してくれるでしょう?」式の記号演技より1億倍くらい良いよ。
なんていったって、観客の眼に入るのは舞台上の役者の姿しかないのだから。

サンプル あの人の世界 再見

15/11/2009 マチネ

字幕付きで。
まずはほっとした。(字幕は)悪くないよ。やっぱりオペレータがよーく分かっているというのが大きい。情報量を意識的に落としたのも良いほうに働いていたと思う。
ただし、客席に座って観ていると、やっぱり「あれはこうしたほうが、これはあーしたほうが」というアラが見えてくる。行の割り方とか、台詞の呼吸・間との整合とか、情報量を削りすぎたところとか。直したくなる。千穐楽なのに。

芝居はといえば、さらに輪郭の鮮明さを増していた。はっきりくっきりと舞台上で起きる事柄が空気に焼き付けられていた。これを嫌う人も好む人もいるだろうということも、先週観た時と変わらない。

そうだ。昔松井氏がユリイカに書いていたこと。
「今ここで起きていることだけ」を頼りにして、人間の「謎」や「奥行き」から解放されること。
これは、松井氏がポツドールやチェルフィッチュについて使った言葉だけれど、実は、この「あの人の世界」は、この松井氏の言葉を更に鮮明に舞台に載せた芝居だといっても良いのではないか。

物語を巡る寓話。でも、物語は、この舞台の上にも、舞台の外にインプライされる世界にも、どちらにも見つからないし、そもそも用意されていないのだ。
「夫婦」「姉弟」「嫁姑」「運命の人探し」「祭と復活」「自分探し」
物語のパーツはこんなに散りばめられているのに、物語はどこにも無い。頼りは「今ここで起きていることだけ」だ。
そうやってサンプルは、「過剰で空疎な現実」を、舞台の時空一杯で、全面的に引き受けて見せる。ポツドールやチェルフィッチュのような意匠を欠いている分、その皮相さ加減(=コスプレさ加減)はなお一層たちが悪いように思われる。

だから、この「あの人の世界」という芝居は、トンでもない芝居だし、評判が悪くてもおかしくない芝居だし、分からなくても仕方が無い芝居だし、むしろ分かる分かるといわれてはいけない芝居だし、寓話なのに物語から遠く、寓話なのに皮相的で本質を要求せず、現実から遠いのに現実に限りなく近く、余韻を残さずに記憶に焼きつく芝居なのである。

こういうリスクをとることの出来る作者・演出家・役者・スタッフの揃った座組みは素晴しい。万人に受け入れられることがなくとも、(自己満足ではなく)新しい地平の一つに踏み出す現場だったのではないか、とすら(考えれば考えるほど)思われてくる。

BATIK 花は流れて時は固まる

15/11/2009 ソワレ

初日。BATIK初見。
終演後、拍手鳴り止まず、カーテンコールはトリプル。そうなる理由は良く分かる。
パフォーマー達は身体が良く動くし、上手だし、その身体を出し惜しみせずに最後まで動かし続けるし、読み取ろうとすれば適度に物語も用意してくれて、やはり、評価の高い、レベルの高いコンテンポラリー・ダンスってこういうのなんだろうなー、と思う。

そこに読み取れる「物語」、パートナーによると「少女のこと、女の子同士のいじめ」だそうです。僕は「ニグレクトされた不幸な女の一生」です。いずれにしても当パンに書いてあった「生活賛歌」ではなかった。本当のところ・意図は分からないけれど、90分面白く拝見できたのならそれで良い。充分エンターテイニングでした。

機会が合えばまた観に行くと思う。でも、僕はきっと、こういう大掛かりで大きくて上手なダンスよりも、もっと小さなダンスが好きだ。すすんでこのカンパニーにのめりこむことは無いと思う。でも、とっても良いカンパニー・パフォーマンスでしたよ。

2009年11月17日火曜日

元祖演劇の素いき座+龍昇企画 チャイニーズ・スープ

14/11/2009 ソワレ

いやいや、ホント、すんませんでした。
トークを聴かれた方々、すんませんでした。僕の力じゃあ、あれで一杯一杯です。
土井さんは「まぁ、なれてないからね」なんてフォローしてらしたけれど、それはモロ「お前、ダメダメだよ」って言われてるってことだからね。へこむね。トークの終盤、土井さん明らかに怒ってたしね。

芝居の方は、やっぱりどうやったって面白くって、もう、土井さんが立ってるってだけで充分素晴しくって、そこに龍さんがいるということもどうにも面白くって、そうやって60分過ぎる。

じゃ、それが何で素晴しくなっちゃうのかについて、言葉で説明することはとんでもなく難しくって、土井さんに言わせれば「それを言葉で語るのが『言論の人』の仕事でしょ。僕は役者だから、なんも話すこと無いよ」ってことになっちゃうんだろうけれど、でも、どうしても知りたいし、語りたい。
20年分の後ろから背中を眺めて、「どうやったらそこにたどり着けるのですか?」と聞きたくなる。でも、土井さんの立ちは、どうやってもその場・その瞬間に集中してて、時間と経験が「積み重なるものだ」とは、その場ではどうしても思えなくなる。ホントに難しい。

柴氏は土井・龍両氏に演出つける中で、そこら辺の秘術を見たのだろうか?見たに違いない。そうじゃなきゃこんな面白い芝居が出来上がるわけが無い。そしてそうやって、より一層パワーアップしたのに違いない。クソ。とんでもない人たちだよ。

鉄割アルバトロスケット 鉄割のアルバトロ助

13/11/2009 ソワレ

いつ観ても、面白いじゃないか!
こんなにグダグダで、一体、ここの役者陣、稽古で「何をどうやって詰めているのか」?
全然分からない。でも、稽古を積んできたからこんなに面白く観れる仕上がりなんじゃないかとも思われて、どう考えても不思議。
冒頭の野坂昭如固めの(分かって欲しくてやってる?な)力の抜け具合がおじさんには気持ち良く、馬鹿舞伎はいつも通り素晴しく、ラストの射的はとてつもなく格好良かった。

戌井氏の本の解説によると、鉄割には「熱狂的なファン」がついているらしい。
熱狂的でない方にも是非観てほしい。そして、半分ダマされたような、でも、また来てみたいような、ヘンな気分になって家路について欲しい。

青年団 ヤルタ会談・隣にいても一人(関西編)

08/11/2009 マチネ

学習院女子大「やわらぎホール」での2本立て。何だか大学祭のざわざわした中に出かけるものだと思い込んでいたが、大学祭りはやっていなかった。屋台も出ていなかった。客席の女子大生比率も、(少なくとも小生の期待よりは)はるかに低かった。

しかし、ヤルタ会談と「隣」を青年団の達者な役者陣で満喫できる幸せは何事にも替えがたい。2本とも心から堪能した。

「隣」関西編は、初演をアゴラで観た時よりもパワーというか好き勝手さというか、そういうものが増していて、そこら辺を任されてバッチリそれに応える役者陣が素晴しい。4人とも良いけれど、特に永井-井上の掛け合いは見応え充分。

いや、なんだか、他に何が言えましょうか。ヤルタ会談も、何度観ても面白くて、次もまた楽しみになる。妙な欲が沸かず、ただただ観て愉しむ。幸せだ。

2009年11月16日月曜日

サンプル あの人の世界

07/11/2009 ソワレ

この作品には、小生自身「字幕用英訳担当」として参加しているので「観る人」に徹した観方はどうしてもできないのだけれど。
とっても褒めたい。そしてとっても貶したい。
ということでしょうか。

ここまで明確に松井周の世界が舞台上に焼き付けられてしまうと、観る側に残されるのはその世界に対する好悪でしかないのではないかと思われてくる。松井氏によれば、顔合わせ・本読みの頃から参加者が「全く分からない」っていう顔をしていて、でも、松井氏本人にはこの話は当初から極めて明確だった、ということなのだが、僕ももちろん「分からなかった」。今でも、「分かる分かる」と言ったらウソになる。
松井周本人がどう思っているかは分からないけれど、今回の舞台には、かなり明瞭にその「彼にとっての明らかな世界が」載っかっていたのではないかと推察される。

だから、観終わった後、「この芝居は、悪い評判が立っても不思議じゃないな」と思ったのだ。実際、「関係者席」に座ってた招待客2人組は、途中で帰っちゃってたし(もちろん、招待を受けておいて終演まで残らないで帰ってしまうような「お忙しい」方は、最初から観劇には向いていない人種だと思いますが)。

で、じゃあ、松井氏の嗜好が僕のストライクゾーンかと言うと、それも全くそうじゃなくて、じゃあ一体僕はサンプルの何を面白がっているのかってことになる。難しい。

2006年に帰国した初日に同じサンプルの「地下室」を観て、「ちょっと久し振りに日本に帰ってきたおじさんには刺激が強すぎて・・・」と思ったのを思い出す。また、東京デスロックのLoveを観て、想像力の進み具合についていけない、もう、振り落とされてしまいそうだ、と感じたことも思い出す。

何だかトンでもないものを観てる気はする。もう一度、字幕つきのバージョンを観に伺うので、それまで考え続けることにはなると思います。

グルーポ・ヂ・フーア H3

07/11/2009 マチネ

むちゃくちゃ気持ちの良い60分。
「哲学」は感じなかった。
「細部」と「構造」、「質量」と「緩急」は沢山感じた。時計が伸び縮みしながら、速く進んだりしゃっくりのように止まったりした。
「カポエラ」を観たときの興奮と恍惚を思い出させた。ブラジルの「火の酒」が舌の上でシュワッとくる感覚。パフォーマーがリングの中に入ったりそこから出たりするインターバルも、なんだかカポエラに似ている。

僕はヒップホップやストリートダンスには全く知見が無いけれど、おそらく、公園で車座になってカポエラやってるシーンは、ストリートダンスに近いのかもしれないな、とぼんやり考えた。

9人で一斉に後ろ向き全力疾走するシーンだけでも「すげー」と思わせるに充分だけれど、前半の、音楽無しで、呼吸だけで振り付けを合わせるところもダンスというより武術のようで(いや、実は小生武術にすら知見全く無いのですが)、それにも息を呑む。ダンスの公演はいつも「機会が合えば」と思いがちだけれど、「グルーポ・ヂ・フーア」は、今度来日しても必ず観に行くと思う。

渡辺源四郎商店 今日もいい天気

06/11/2009 ソワレ

僕は、芝居観ながら当パンを音を出してめくる行為は許せないと思ってしまう神経質な観客ですが、この日ばかりは、1時間くらい経過したところで、
「ああ! おじさん役の人の名前が『ノリスケ』さんかどうか、確認したい!」
という思いを抑えるのに大変苦労した。
そうだよね。○みへい、さ○え、か○○、ToRoちゃん、タマ。
タイトルからして、そうだもんね。もっと早く気付けよ!と自分を責めるしかない。

しかしこの、なべげんの芝居のこの面白さはなんだ。
現代口語演劇の芝居の作り方、組み上げ方が、(乱暴に言うと)ミリ単位できっちり精緻に建て込む建造物だとすると、畑澤演出はあたかも免震構造の、わざとアソビを作りこんであって、見かけはどうあれ、かなりな揺れが来ても倒壊しない、そういうものにたとえられるのではないかと思う。もちろんパーツはきっちり組んであるのが前提で。

そういう土壌で、宮腰さんや田中店主、(初舞台とは驚きの)吉田さんはじめとする役者陣が生き生きと動く。山田百次、工藤由佳子はどっちかというとパーツの骨組みのボルトナットを引き受けて若干割り食ってる感じもするけれど、でも、全体の思想が座組内でバッチリ共有されている安心感は何物にも変えがたい。山下昇平の「マジックで書いた」書割セットも相当素晴しい。

なべげん、かなり素晴しい集団になっているのではないかと推察される。スタイルが集団を変えるのか、集団がスタイルを創るのか、判然とはしないけれど、いずれにせよかなり幸せな状態にあることは間違いない気がする。芝居は「地獄」じゃないよ。芝居は「幸せ」だよ。

Fukai Produce羽衣 ライブ Vol.1

04/11/2009 ソワレ

芝居じゃないです。ライブです。
でも、なんだか、芝居を観に行くのとあんまり変わらない心持で観に行った。あ、聞きに行った。

やっぱり楽しい。女性はかわいく、男性も愛くるしく。高橋・鯉和デュエットの時も、「鯉和さん、かわいい。でも、高橋サンの愛くるしさ、目が離せない!」となってしまい、かなり自分が入れ込んでいることを自覚する。

ゲストのハイバイ組、岩井&金子両氏もかなりハイテンションで、岩井氏は目がかなりヤバかった。そしてアクションもヤバかった。歌はかっこよかったです。藤一平さんは、モリッシーに似ているらしい。そして、確かに似ていた。本人は意識しているのだろうか?
ずーっと前から気になってたのだけれど、藤さんは游劇社にいらした、1987年のアリスフェスで絶対に拝見している、ということを、何故か今日になって確信した。

こういう取り留めの無い話になってしまうのだけれど、Fukai Produce羽衣って、じゃあ、一体、どんな芝居・どんな音楽を演るのか。毎度説明に苦しむ。
「みょージカル」
という呼び方は、かなり当たっている。音楽と芝居を一緒に愉しむなら、これくらい猥雑に、楽しくやるのが正解。ミュージカルで(いや、そもそも芝居であっても)人生や愛や家族や運命について講釈受けたくないし、人生は思いもかけず短かったりするのだから。

へこんだり元気が出たり

10日くらい書き込んでませんが、芝居を観に行ってないわけではないです。

・ ちょっとしたことでへこんだりとか、
・ 昔話をしていたら、自分の記憶に全く残っていないことが実はその友人・知人には結構インパクトがあったことを知って驚いたりとか、
・ 励ましをもらってなんだかちょっと元気の出ることがあったりとか、
・ あんまりたくさんキーボードに向かうと指が痺れるとか、

そういう風にすごしています。

そもそもこのブログは、「単身赴任中の、家族へのアリバイ作り(というか近況報告)」だったので、単身赴任じゃなくなると、
「思ったことを書きこむ」 ⇒ 「思ったことはパートナーに話す」
へのモードの変化が著しい。
もし、この日録のトーンが変わったとすると、そんなところにも一因があると思います。

2009年11月5日木曜日

維新派 ろじ式

03/11/2009 マチネ

維新派初見。千穐楽。
格好良い舞台装置、オリジナルの音楽に乗せて、歴史と記憶を単語に散らしてイメージを紡ぐ、歌い上げない日本語ミュージカル。
ままごとの「わが星」を思い出す。そういえば、「わが星」も一種ミュージカルだった。

40分経過、60分経過、75分経過、というところで眠くなって時計を見た。
路地にまつわる歴史と記憶が、舞台上の立方体の中の骨格標本のようにお行儀良く作・演出のイメージの枠内に収まって、こちらに向かってこない。
もちろん、一見トータルとしてお行儀よくっても、役者の「個」がどうしても裂け目からはみ出してくる芝居があるってことも分かってる。だけど残念ながら、今回の維新派の芝居では
・ 舞台が広すぎて?遠すぎて?
・ 役者の動きに破れがなさすぎて?
・ 僕のコンディションが悪くて?
そういう風に観られなかった。残念

音楽のペースがずーっと一緒なのも気になった。眠くなれと言っているようなものだ。

青年団国際演劇交流プロジェクト 交換

01/11/2009 マチネ

「大先生」クローデルの戯曲を「本場」フランスから来た演出家が演出。
非常に分かりやすい構造を持った「大先生」の寓話 - 資本家、女優、労働者、その妻 - を、「寓話の大意を伝えるべく」ご教訓噺として上演することに、いかほどの意味があるのか?

そういう「寓話の読み解き、説き語りに100%奉仕せよ」との要求に対して100点満点で応えられる俳優は、むしろ青年団でないところでたーくさん見つかるのではないかと思う。青年団の役者がこのテの演出に付き合うのは、何だか本当にもったいない。

とはいうものの、役者陣が(おそらく演出の意図に反して)そこに立とうとする意志が漏れ出す箇所も多々あって、それは楽しいというかさすがというか。マイナスから始まったものを無理矢理プラスにしようとすることを喜んでよいのか悲しむべきか。

全裸の男優、好ける素材に羽毛貼り付けた女優、というのは、正直、困る。俳優を所詮寓話の説き語りに奉仕する存在としてスルーできるのなら構わないのだろうが、「虫の眼の視線」で役者を眺めると、どうしても細部に目が行くので、困る。途中から眼鏡を外して観た。眼鏡を外しても困らなかった。「役者がそこにいること」を大事にしていない演出なんだなー、と、改めて納得した。

2009年11月1日日曜日

新国立劇場 ヘンリー六世

31/10/2009 マチネ

総上演時間9時間を3つに分けた中の第一部。朝11時から休憩つきできっかり3時間。
ひょんなことからチケットが手に入り、でかけた。自分でチケット買って観に行く範囲からは外れているし。

実際に観てみると、やはり僕が観るべき芝居の範囲を大幅に外れていた。僕の眼には
「予算と時間をかけたイモ学芸会」
としか見えなくて、まぁ、予想通りとはいえ、かなり呆然とした。

あとは、サフォーク公のブーツのかかとがやけに高いのが気になった程度かな。

田上パル 青春ボンバイエ

29/10/2009 ソワレ

バカだねー、ほんっと、バカだねー。
でも、そこがいいんだよねー。
と、ニコニコ顔で劇場を後にすることが出来る、いまどき珍しい「純粋爽やか系」現代熊本弁口語演劇。

彼ら、「青春の甘酸っぱさ」の酸っぱいところは、実は、汗をたっぷり吸った服を洗濯しないで放っておいた結果としての酸っぱい臭いだということをよーく分かっている。改造☆人間から出てきた女優陣ですら分かっている。それが強み。

ただし。いつまでも「バカだねー」では済まないんじゃないかなー、ということは、何となく自分たちでも分かってるんではないだろうか。どんな風に一皮剥けていったら良いのだろうか。毎度毎度「元気炸裂」だけでみせていれば良いのではなくて、どんな要素が加われば、もっと色んな人に観てもらえるのだろうか。そういうことを、「注文をつける」ではないけれど、考えてしまうのだ。その「足りない一滴」がなんなのかは、良く分からないのだけれど。