2006年9月24日日曜日

シアタートラム エンドゲーム

開演前、当日パンフを読んでいて打ちのめされる。
石橋蓮司・柄本明のゴドー待ちが2000年に上演されていた!
あぁ、見逃した。
もし、ゴゴーが荒井注だったら、悔しさのあまりその場で死んでたと思う。と、気を取り直す。

で、本題。

柄本さんのクロヴ、手塚氏のハム。
前に観たバージョンはLee Evansのクロヴ、Michael Gambonのハム。

柄本さんのクロヴ、頭良さそう。柄本S、手塚M。
Lee Evansのクロヴ、頭は悪いが素直がとりえ。EvansのM、GambonはS。

柄本クロヴ、Evansクロヴよりも重量級。
手塚ハム、Gambonハムよりも軽量級。

勝手なことを言えば、重量級同士の戦いが見れたらな。
と思いますが、それで芝居のリズムがどうなるかはわからない。ただ、クロヴが拍子をとる、というのは悪くない。
(その代り、ハム独台詞の時はちょっとつらいかも)

ハムの台詞の翻訳、苦労が見える。どうすれば、本来英語の台詞なら役者に任せておけた部分を、日本語の台本に置き換えるか。悪い翻訳とは口が裂けてもいえないが、でも、ハムは苦労してましたね。結果も60点だし。

それで、クロヴの居るシーンで拍子を取ろうとしてしまう。
難しいですね。むしろ、「王様風」のところを全部いわゆる「現代口語」にして割り切って、思いっきり年齢のいった役者を使う、というのではどうか、などと考えながら観てました。

途中僕の両脇ともに居眠り、無理もないか?

水準以上の芝居。柄本さんすごい。でも、その2つとも、実は予想の範囲内なんですよね。趣向を上回る驚きはありませんでした。

パラドックス定数 38℃

1時間半、男7人のテンション芝居。
このテの芝居は20年ぶりくらいに観るので、ちょっと緊張していましたが、時計を見ずに最後まで一気に観れました。

作・演出が、絶叫芝居にならないように、でも、あんまりペースが緩み過ぎないように、よく考えられていたからだと思います。

最初は、30億円で細菌テロはなしよ、なーんて思いながら観てましたが、ギアが入るにつれてふと気がつくと芝居が収束しようとしていて、「やられた」と。
役者の皆さんも、「直球しか投げない人」「変化球投げる人」役割分担と見え方を意識して場を作ってました。それも良し。
もちろん、みんな、140kmのタマ投げれるんだよね。力あるのも良し。
仲間割れのようで仲間割れでない、真っ向勝負のようで真っ向勝負でない、そのバランスを理解する作者・演出・役者にとってもセンスを感じました。

一つ気に掛かるのは、やはり、「この芝居の決まり事は何か」ということ。具体的には、舞台と客席の仕切り。

「ある程度だけ」客席に開かれた空間を作るのには、2つのリスクがある。

・観客は、自分の置かれたシチュエーションに対し「どう反応することを演出に求められているか」について、ちょっと困ってしまう(細菌テロの演技 に対して、作り事だといって笑い出しちゃう人も、本当に怖くなって逃げ出す人も、「決まり事が共有されない」状態では、起こりうるリスクだと思います)。
そこらへんのうにょうにょの処理が大変上手なのが、CompliciteのSimon McBurneyだと、僕は思っていますが。

・役者は、何を意識して場を作ればよいのか、悩んだりしませんか?客席に公開講座のパンフを置いて見せたりする割には、どうも、役者は、自分たちを取り囲んでいる人々の反応については、①無頓着 あるいは ②無対象演技 を求められていたような気がする。

勿体無い。

是非、密室劇に書き直して、再演していただきたい。
そうして、作者は自分をもっと追い込んで頂きたい。演出は役者をもっともっと追い込んで頂きたい。
役者はその追い込みに耐えられる良い役者揃ってたと思います。

あ、大塚さん、前宣伝どおり、かっこよかったですよ。
また、どこかの劇場でお会いしましょう。

龍昇企画 真夜中のマクベス

芝居が終わって最初に考えたこと。
「オレ、すごく年取ったのかな?時間の進み方が速過ぎる」

1時間半、あっという間でした。
逆に、食い足りなかったのか?正直、もうちょっと観ていたかったですね。

小生、不勉強ですので、漱石の行人、読んでおりません。
マクベスと並んでどこでどうモチーフとして使われているのか、分かりませんので、そこら辺は飛ばして、思ったのは、

舞台での時間の流し方は、どこでどうやったら成立し、どうしたら失敗するのだろう?

特に、連続しない数多くのシーンの積み重ねで一つのイメージを紡いでいく芝居は、失敗する確率高いと思っていたのに、あっさり上手くいっていることで、小生、混乱しました。
役者の年季?見せ方?
本当にそうなのかな?
もっともっと芝居を観ないと。そして考えないと。

2006年9月18日月曜日

リール近代美術館展

「ピカソとモディリアーニの時代」と銘打ってある。
小生、ミーハーなので、モディリアーニのなで肩を見ようということで、朝一番で行ってきた。

・生まれて初めてブラックの絵が好きになりました。
・その隣にピカソの絵が掛かっていて、やはり、いかにもスカした絵でした。ピカソはすごい人です。
・「あぁ、この絵は綺麗だな」と思って近寄ると、カンディンスキでした。隣にクレーが掛かっていた。館内で一番気持ちの良い場所だった。またベルンに行きたくなった。

肝心のモディリアーニですが、自分がモディリアーニの絵が好きだということは再確認できたけれども、キュビズムの絵と合わせて見たこともあり、余計なことばかり考えてしまい、今ひとつ楽しめなかった。

細かいところは飛ばすが、「あぁ、いいなぁ」と思う絵と、その全体の印象を支える詳細(おそらくかなり技術的なこと)とのリンクが、自分には全く欠けているということ。
それは、「いい芝居」と、それを支える細かな役者の動きや集中の勘所、とのリンクと並べて考えられるだろうか?
等と考えていたら、疲れた。

余談ながら、美術館は女性がもっとも美しく見える場所のひとつだと、小生信じているのですが、今日は何だか、違ったな。

2006年9月17日日曜日

東京タンバリン ワルツ

面白かった。まずは、素直に。
・先週との連関が分かった、謎解きの楽しみ
・高井さんのタッチ、悪くないです

が、
先週の「立待月」の方が面白かった。
なぜでしょうか?
1. 先週が姉妹の芝居で今週が汗臭い男の話だから。
2. 「ワルツ」の方が、冒頭5分で全貌が予測でき、展開がそれを上回れなかったから
3. ラストがどうなるかを実は先週「隣から聞いていた」から
4. ワキ役の使い方が、先週の芝居の方がよかったから
5. ストーリーラインが太く書かれ過ぎて、ディテールを観れなくなってしまうから

うーむ、分からん。
でも、楽しみました。ガチンコで観れたし。満腹です。

2006年9月16日土曜日

風神雷神図屏風

出た、「かぜひいてまんねん」、の風神様。
こいつはいっちょ見ときますか、という位の軽ーい気持ちで参りましたが。

ブン、と来た。

俵屋宗達。すごい絵描きなのかどうかは勉強不足で知らないが、この風神雷神図はすごい。ガラス窓の向こうで風が吹いているのを感じた。

って、クサい役者のクサい演技に騙られて吹いてもいない風を感じる(と勘違いする)アホな客のようだが。でも、そんな風に感じたのだからしょうがない。玄人の方、どうぞ笑ってください。

こんな絵が初っ端に出てきては、後に出てくる絵は分が悪い。光琳の風神雷神図、何だかうっすらとちんまりまとまって、風、やみました。抱一になると、これではどっちかというと薬屋の登録商標に近い。こりゃ最初の一枚だけかい、と思った矢先、

気合の入った紅白梅図。息を呑んだ(本当に、我ながら陳腐だと思うが、本当に息を呑んだのだからしょうがない)。抱一の気合みなぎる。いや、しか し一層気合みなぎると感じたのは燕子花図。商業デザイナー抱一の面目躍如、画面を斜めに突っ切る流しソーメン!!そこにグサグサとぶっきらぼうに、おしゃ れに立ち並ぶ花々は!
抱一のこの割り切りは、風神だの雷神だのを寄せ付けないモダンな眼のなせる業かと。

で、一体尾形光琳というのはどんな人なのか?ほんとーに、勉強不足ですみません。宗達以降3人並ぶと、何だか影の薄い次男坊みたいだが、いやいやどうして、
出口に一番近いところの掛け軸3点セット。布袋と松・梅、ああ、こんな絵が欲しい。と思ってしまう。すごい切れ味です。

いやいや、本当にすばらしい絵って、あるんですね。
時間のある方は絶対、ない方も是非時間を作って、どうぞ。
息つく間を与えない、すばらしい展示だったと思います。

2006年9月11日月曜日

パパ・タラフマラ 僕の青空

うむ、すごく、カッコいいぞ。

でも、実は、そのカッコいいパフォーマンスを観ながら、僕がずっと考えてたのは、
「パパ・タラフマラの決まり事って何だろう?」
ということなのです。

決まり事を知らない、僕にとっては、
カッコいい男女4人組が、すごく気持ちよさげに体を動かして、歌を歌って、笑っているのが見える。

で、そこが僕の限界。そこで、何と愚かなことに、このパフォーマンスの座標(=フレーム。物語なのか、テーマなのか、それはよく表現できないが)を見つけ出そうとして、ドツボにはまってしまったのです。

で、男女関係とか、泥棒稼業とか、そういう、陳腐なフレームが与えられると、
「あぁ、陳腐」
と思ってしまうのが僕の限界で、本当は、パパ・タラフマラのパフォーマーたちは勿論、何度もパパ・タラフマラを観に来ている人たちは、きっと、
「そんな陳腐なフレームはたいしたことではない。それは軽く笑い飛ばしたところで楽しまないと」
って思ってるんだろう。
そういう、カッコいい決まり事が共有できない自分が、ちょっとみじめな気持ちである。
(読み返すと、すっごく嫌味な文句に読める。でも、そんなつもりじゃないんです。ホント。踊れないやつがナイトクラブに行って、踊れるやつのことを僻んでるとか、そういうレベルです)

1995年のマクベスを観た時(それが今まで観た唯一のパパ・タラフマラの舞台だったのですが)の衝撃は、今でも忘れられない。
ひょっとすると、そのときには、「マクベス」という、僕も共有できる「決まり事」があったから(そして、パフォーマンスが、その決まり事にグイッと切り込んでいったから)、安心して観れたのかもしれない。

「僕の青空」カッコいい。でも、僕はちょっと居心地悪かった。
パパ・タラフマラ、また舞台観にお邪魔すると思います。
でも、「僕の青空」の再演には行かないと思う。

桃唄309 おやすみ、おじさん

さかもっちが元気に芝居してるか、それを確かめたくて、というのが、他の皆様には大変失礼ながら、ザ・ポケットに当日券でお邪魔した第1の理由でしたが。

いや、本当に、失礼いたしました。

芝居、大変面白かったです。

お話は、「百鬼夜行抄」みたいな、妖怪と式神と中学生と近所の人たちの話。
失われていくコミュニティへの郷愁、というような、あまりにもあからさまで朝日新聞受けしそうなものはおいとくとしても、
(誤解しないでください。それがよくない、っていってるのではなくて、朝日新聞みたいに、そこしか見ない人たちがいるとやだな、ということです)

引き込まれて最後まできちんと観てしまうのは、なぜだろう?
多分、役者の集中のしどころが、正しいから?かな?
自立不能舞台装置システムも、この劇団の舞台の上ではワークしてたし、
えーと、そう、一幕ものに拘らずとも、舞台上の時間を思うように、かつ見苦しくなく流していける、というのが、とっても観てて嬉しかったんですね。

テンポ良く進めるために、役者は、きっと余計なことを考えたりしたりする余裕があんまりなかったんじゃないかと。
それも良かった。

観後感、良し。気持ちよく帰りました。

あ、いい忘れてましたが、さかもっち、かっこいい役でした。
元気そうで、本当に、何よりでした。

2006年9月10日日曜日

東京タンバリン 立待月

旗揚げを観て以来、久しぶりにお邪魔しました。
面白い。

・役者が達者。どれくらいやるとやりすぎで興ざめか、どれくらいやらないと退屈するか、というレベル感について、
①役者が分かっているか、②演出が行き届いているか、
のどちらか。

・舞台上でリアルであるかのように時間を運ぶことと、舞台上のことはウソンコであることについて、整理がついている。

・で、一番のポイントは、「そこらへんのスィートスポットが、評者と非常に良く似ている」ということでした。
言い方を変えると、「この芝居の作・演出者が、芝居を見始めたり、自分で始めたり、問題意識を持ったり、という生い立ちが、自分のケースとそっくりなのではないか」。

たとえて言うと、あるバンドのギター聞いてて、「あ、こいつ、ジミーページ好きだったんだろうーな。で、一時期ウェザーリポートばっかり聞いてたこともあっただろ!」というような。あんまり他の人に言えないような。

これ、面白いんだけど、かつ、非常に気にかかることでもある。というのは、あまりにも自分のツボにはまった芝居については、「他の人に薦められるか」を冷静に語れないから。

もう一つ気にかかること。この芝居に限ったことではないが。
最近観る芝居、登場人物に悪人多すぎませんか?
「悪人」ってのは違うな。そうだ。作者が、ネガティブな印象を持って興味を持っている人。
面白いんだけど、エッジが効きすぎてておじさんにはちょっとつらい。

平田風に言えば、(自称・他称)善人の、自分では気がつかない、いや、本当は気がついてるんだけどいわない、そういう悪意。
表には出ていないんだけど、従って、セリフや行動では見えないんだけど、芝居観終わって20分くらいして、客が「あ、あの人、ひょっとするとこういう人だったのかもしれない」と思っちゃうような、そういう悪意とか、真意というもの。
そんなのがもっとみれたらなー、と、ちょっと思いました。

なので、来週も「隣の男」の方を観に行きます。期待度大。
「隣舞台同時上演」の趣向についても、両方見終わってから書きます。
あ、少なくとも一ついえるのは、「こっちだけ観ても十分OK」。

2006年9月9日土曜日

エコノミスト誌に腐女子登場

仕事柄、英誌エコノミストは毎週読んで、日本関連の記事は必ずチェックしてますが、
何と、今日届いたエコノミスト誌、唯一の日本関連の記事は:

Kick-ass Maidens

でした。
細かいことは、わしは知らん。
ただ、世界を代表する経済雑誌Economist誌の記事の中に、
"fujoshi = rotten ladies" とか、"boys love" とか "dojinshi" とか "butler's cafe" とか、
次は"Schoolboy Cafe"だ、とか。
書いてあった。

ご興味ある方は、Economist誌9月2日号、ご購入ください。
後は任せます。

2006年9月3日日曜日

だだもれですみません

ある程度予想していたことですが、
妻子がロンドンに帰った途端に日記・レビューの数が増えた。
ほぼ、だだ漏れ状態です。

やはり、まあ、映画や、音楽や、芝居、は、近い人と一緒に行って、終演後や、聞き終わった後や、そんなときに、良いだの悪いだの、うなづきあったり喧嘩したりするのが良いんですな。

手前味噌で申し訳ないが、うちの嫁さんと娘は、そういうことをしてて最高の人たちであることは間違いない。

で、その相手がいないもんだから、こうやってだだ漏れになる、と。

仕事が殺人的になるとか、また家族と一緒になるとか、それまでの間は、しばらくご辛抱ください(って、誰が読んでるわけでもないだろうけれど)。

経済とH 北限の猿

芝居は、一つの空間(場)、を、一定の時間、スピードをコントロールしながら(特に平田戯曲なら、1秒=1秒でゆっくりと)、過不足無く、推し進めなくては、成立しない。それを、目を詰めて織り上げていくのが、演出・役者の仕事である。

ということに、無自覚なように思いました。

役者という生き物は、放っておくと余計なことをして、「場を織り上げる」ことに無頓着になっちまう傾向がある、というのも、改めて分かりました。

もちろん、良い役者、悪い役者、いましたが、このテの芝居では個々の役者の出来不出来は小さな問題であって、オーケストレーションの問題ですから。つまり、演出に問題がある、ちゅうことですか。

加えて、初演のときに自分が如何にダメだったか、ということも思い出して、それにも参った。

2006年9月2日土曜日

二騎の会 直線

酔いが醒めましたので、大幅に修正します。

当たり。
土曜日の晩に良い芝居を観ることができて、幸せでした。
他のもっとつまんない芝居を観てフラストしてる方々、是非こちらへどうぞ。

芝居を観る快楽というのは、ストーリーを追うとか、感情移入して大泣きするとか、しみじみ考えさせられるとか、そういうところには、実は、無い。
「その場に居合わせること」の快楽である、と、これから2,3日は言い続けたくなるくらい、心地よかった。演出・役者にやられっぱなしでした。

じゃあ、個々のシーンが良ければそれでよし、という訳でもなくて、それが念入りに織り上げられて、幕が上がってから終演まで、きちんと時間が流れることも大事ですよね(そうでないと、「居合わせている」感覚に水が差されてしまうので)。
それが、戯曲として、きちんとできていれば、良し。
その点も良かった。

それじゃ、戯曲は演出の邪魔をしなければそれで良いのか。
いやいや、ゴドー待ちのように演出が余計なことをしたくなる衝動を一切拒否するような、完璧な戯曲もあるし。

今回は演出をとても褒めたいですが、が、演出が使ってみたくなる戯曲って、素晴らしいですよ。

双数姉妹 トリアージ

日本に帰ってきてから、面白くない芝居は観ていない、むしろ、観る芝居観る芝居、できの良い悪いは別として、ぜーんぶ面白く観てきたのですが、
この芝居は、掛け値なしに面白くなかった。

プラス点
・ミュージカルの劇中挿入歌が、どうやって芝居にインチキ臭さを持ち込むのかについて、小劇場の場で分かりやすく観客に説明した。
・ネタバレっぽいので言わないが、もうひとつあった。

マイナス点
たくさんありまっせ。ここでは言わないけど。

ということですが、お客さんは満杯。さすがシアタートップス。で、こういう芝居を観て興奮したり、救われたり、元気が出たり、パートナーといい雰囲気になったり、社会正義に燃えたり、そういう方も沢山いるんだろうな、と思って、
世を拗ねる自分の態度がやになったりもする。少しだけ。