2009年9月25日金曜日

青年団プロジェクト公演 青木さん家の奥さん 再見

23/09/2009 マチネ

長丁場の公演、役者がどう変わっているか(疲れているか)も興味のタネ。
東京公演前半に比べて、声を張ったり怒鳴ったりすることに対する「いいのかなー?」みたいな照れ・ためらいがちょっと薄まったのではないかとも思われたが、切れとパワーは落ちていない。

ビールケースで囲まれた舞台が、「そもそもそこは酒屋なのか?わざわざビールケースで固めてくるところが、どうも、青木さん家の存在とか配達の存在と一緒で、ニセ三河屋なんじゃないか?」と思わせたりして(そりゃそうだよ、ここは三河屋じゃなくて駒場アゴラ劇場だよ)、それも改めて面白かった。

2009年9月24日木曜日

鳥の劇場 シンポジウム「アーティストがつくる劇場」

21/09/2009 19:30

パフォーマー・劇団運営者・劇場運営者・プロデューサー・観客が、「しかの心」で車座になって、「アーティストがつくる劇場~可能性と突き当たる問題」について語り合った。「車座」ってのは一つ大きなポイントで、パネリストの発言過多にならず、まず、良し。

京都・鳥取・熊本・長田・つくば・那須、否が応でも、余りにも地域間で状況が異なることにみなが自覚的になってしまう。具体的な結論は出なかったにせよ、(聴衆の一員としての僕にとっては)大変有意義な場に居合わせることが出来た。

鳥の劇場中島氏の「理想の劇場とはどんな状態を指すんですか?」というシンプルな問いかけに対してすら答が一様でなかったのも面白かった。各地域でパフォーミングアートが置かれた状況と、そこから見える射程の差異が示されるように思えた。
熊本: そもそも稽古場・上演場所の確保に汲々とする
つくば: 場の確保から劇団の活動が始まる。そこで必然的に地元との交流が生まれる
京都: ある意味恵まれている。稽古場は無料(京都芸術センター)、アトリエ劇研の「質の高いカンパニーを発掘・育成する」という明確なスタンス、「劇場として」何ができるかという問題意識
長田: 育てようというプロデューサーの意図と、その「仕組み」にフリーライドしがちなカンパニーとの間の齟齬
那須: いかにコンパクトに、パフォーマーにとっても観客にとっても幸せな劇場を作るのか。釣堀を始めたら地元の人が寄ってきだした

最も面白かったのは、熊本第七インターチェンジのパフォーマー・ACOAのパフォーマーの発言が突きつけた「経済」の問題 - パフォーマー個人レベルの経済、カンパニーの経済、劇場の経済 - と、杉山氏がこだわる「質の確保」の問題とが、お互いに切り離して整理して議論しなくては、とみんなに自覚されているにも拘らず、どうしても切り離しきれないところ。難しいよ。でも、そういう局面での、杉山・大谷両氏のプロデューサーサイドからの、でも、上から目線でない発言はちょっと心強い。

心に残ったのはACOA主宰・釣堀店主の鈴木氏で、
・ 動員数が増える・キャパの大きい劇場で公演が打てる、ことと質との間に必ずしも相関は無い
・ 経済の規模を広げることが劇場・パフォーマー・劇団の幸せと必ずしも相関しなかったりする
・ 以下にコンパクトに公演の場を保ちながら活動を続けられるか
という問題意識が明確で、かつ、そこに至る経緯もお聞きするにつけ、すっかり鈴木氏のファンになってしまった。

中島・大谷・杉山氏をはじめとする、問題は手に余るほど抱えているが、次の一歩に向けてアクションの引き出しを持っている人々と、次の一歩をどこに踏み出すかについて思いあぐねる人々、どちらもが率直に話し合えるシンポって、
「鳥の演劇祭らではですね」っていうと余りにも身びいきの過ぎる宣伝文句みたいで嫌だが、でもやっぱり鳥の演劇祭ならではだったんじゃないかと思う。珍しく、聞いてて気持ちの良いシンポジウムだった。

あ、もちろん、シンポジウムの後の懇親会も素晴しかったです。美味しいお酒、食べ物、美味しい空気、星空、カエルの声、楽しいお話。満喫しました。

2009年9月23日水曜日

ACOA 共生の彼方へV どんぐりと山猫

21/09/2009 16:00

鳥の演劇祭ショーケースのトリを務めるのは、那須の釣堀屋店主(って紹介しちゃって良いですか?)、鈴木史郎氏が主宰するACOA登場。

宮沢賢治の「どんぐりと山猫」を振り付けつきで読む、っていう、ただそれだけのことなんだけれど、そこにひっついてくる身体と色彩とユーモアと上品と下品が、本当にエンターテイニングに提示されて、びっくりしてしまった。

昨年の夏になぱふぇすにお邪魔した時は、もう少し生真面目で、自分が放ちうるいろいろな色の光に気づいてないんじゃないかという印象で、正直、ちょっと引き気味に見始めていたので、なおさら驚いた。

別当役の佐久間さんも素晴しいし、どんぐりの声の出演菊池さんのインパクトもすごい。どう頑張ったって、あんな風にどんぐりの台詞言って、その後視線を客席に泳がせたりはできません。

「しかの心」という場の力も、ちょっとはあったのかもしれない。どうなんだろう?何だか、またACOA観たくなってきた。

このしたやみ 紙風船/あなたの最も好きな場所

21/09/2009 14:00

鳥の演劇祭ショーケース3本立ての2本目は、京都からやってきたこのしたやみ。岸田國士の名作「紙風船」と、福永武彦の小説「あなたの最も好きな場所」朗読の2本立て。

紙風船、岸田戯曲の素晴らしさを再確認。今上演してもみずみずしく、十分にモダンである。あまりにもそちらに目が行って、どれくらい演出・役者がきちんとしているのかに目が届かなかったのが後悔のタネ。きっと、技量も、戯曲に当たる態度も、すごくきちんとしているのだろう。奇を衒わず、素直に楽しめた。

ところが、後半の朗読が始まったところで、小生の頭に邪念が芽生えた。
「この二月さんという男優さんは、Kunio05『迷路』で父親役をやってなかったっけ?」
声の質とか、ちょっと横を向いた時の感じとか、どうも似てる。が、一度伊丹で観たきりの方なので、(しかも今回はまったく台詞とちらないし)自信がもてない。

朗読に集中できず。役者には申し訳なかった。が、少なくとも、2人で互いに読む時の、視線の交わし方、反応の仕方、役割分担のスイッチの切り替え方で小説のカラーが変わるのが感じられて、それは楽しかった。

終演後、意を決して話しかけてみたら、やっぱりKunio05、出演してらっしゃいました。ちょっとだけ杉原邦生氏の話をした。

2009年9月22日火曜日

第七インターチェンジ 家は出たけれど

21/09/2009 12:00

鳥取は鳥の劇場、鳥の演劇祭の「ショーケース」企画。60分前後の作品を全国各地から募集して、3劇団。2時間ごとに上演して一日一挙三公演。

会場は鳥取市鹿野町、鳥の劇場の近所、「しかの心」。工場だったり養蚕に使われたり公民館だったり、いろんな変遷をたどってきたということだが、今はホールの横にカフェを併設。キャパ60人内外、いい感じの「小屋」である。

さて、先鋒の第七インターチェンジは熊本からハイエース一台で鳥取までやってきた。出し物は「家は出たけれど」、別役不条理劇を真似た雰囲気・物語の運び方。どうしても別役実の天才と較べてしまうので、戯曲の技術的に足りない点に目が行く。今後の精進に期待。でも、こういう機会がなければ、次にいつ第七インターチェンジに出会えるかはわからなかったし、拝見することができたこと自体は(hopefullyお互いにとって)良かったのではないかと思う。

熊本で芝居を続けるということ。東京で芝居を「消費」すること。芝居観ながら、自分の立ち位置が試されているのを感じる。

鳥の劇場 老貴婦人の訪問

20/09/2009 ソワレ

「おカネで正義が買えるか」という命題で、しかも90分一本道のストーリーからなる戯曲なので(ちなみに案の定戦後ドイツ戯曲ときた)、ほんと、理屈っぽい退屈な芝居になってもまったく仕方がないところなのだが、そういう芝居を、フィジカルな見せ方、舞台の作り方などを通してあえて「ゆるめに」提示してみせて、最後まで見せきってしまうところに、鳥の劇場が鳥取で芝居を作っていることの成果のようなものを感じる。

2年前にブラジルの劇団の「かもめ」を観た時に、静岡SPACにはブラジルからの移民が沢山きていて、その観客ときたら、本番中携帯でしゃべるは(通話相手はおなじ劇場内の友達)席移動するは、とんでもなく行儀悪いんだけど、でも、舞台上で起きていることへの反応は良くて、舞台上の役者達もそういうところで集中乱れず「劇場」は成立していて、「あぁ、こういうしたたかさ・しなやかさって、日本の現代演劇にはないよね」と感じたのを思い出す。

東京で芝居観てるとどうしても「芝居道(しばいみち)」みたいになっちゃって、眉根を寄せて芝居観て、どうかすると語りに入っちゃったりするのだけれど、そうじゃない楽しみ方ってもっとあるはずで、いや、「芝居道」を否定するわけではないし、客席側に大変な労力を期待する芝居があっても全然いいし、なによりやっぱりオレにはオレの観かたがあるし、というようなことを考えた。ただ、鳥の劇場の客層に育てられた芝居がガラパゴス化せずに順回転で進化したら、すごく面白いことになりそうな気はする。

鳥の劇場、劇場のロケーション、運営、レパートリー、客層、雰囲気、本当にいろんなインパクトのある演劇空間である。

2009年9月21日月曜日

トマ・カラジウ劇場 三人姉妹

20\09/2009 マチネ

鳥取市鹿野にある「鳥の劇場」。第2回鳥の演劇祭招聘作品。

まずはルーマニア語の響き。ラテンの言葉とスラブの言葉とドイツの言葉が入り混じっていて、代わりばんこにその出自を主張するかのように耳に飛び込んでくる。これを聞いているだけでも飽きない。

その不思議な響きの言葉に乗せて、構成にはほぼ手を加えず、しかしながら、「肉欲万歳!」が割りと強調された三人姉妹。
舞台の部屋が「通り道」として両側客席に挟まれた格好で設定され、足や手の細かい動きまでよーく見える装置。東欧の三人姉妹が大柄な芝居になってやしないかとの心配は杞憂に終わった。小さなところまできちんと演出が行き届いて、見ごたえあり。

その中で、クルィギンは三人のお尻さわりまくるし、マーシャはあけっぴろげにヴェルシーニンに迫るし、ソリョーヌイは露骨に野獣派だし、なんとオーリガとヴェルシーニンの愛のシーンまででてきて(「この解釈入れても、チェーホフは怒らないと思うよ」とはいっていたが)、ここまで行けばたいしたものです。

第四幕、姉妹が未来に思いを寄せるシーンで、何だか突然、通路状になっている舞台の上をつーっと風が吹きぬけた、いや、空間のかたまりがもうひとつの次元を手に入れて時空となり、劇場を超えて無限に伸びていくような気がした。「今、ここで起きること」にとことんこだわったチェーホフの戯曲にこの演出で最後まで引っ張って、最後にぶわっと広がりが出る。ちょっと涙出た。素晴らしい三人姉妹だった。これだから、鳥取には毎回来る意味がある。

KUNIO 06 エンジェルス・イン・アメリカ 第一部 至福千年紀が近づく

19/09/2009 ソワレ

京都芸術センター初見参。
最初から「3時間30分、洒落になんないくらい長い」と聞いていたので、館内前田珈琲で事前に食事。ハヤシ大盛り、カフェオレ、とってもおいしゅうございました。まずこれで京都芸術センターのファンになりました。5時半に夕食とはちと早く、しかも眠い芝居だったら即落ちるのは確実な量を食べたのだったが、杞憂に終わった。

現代アメリカ戯曲で、しかもレーガン時代、HIVがまだ「ジャンキーとホモセクシュアルに特有の病気」という誤解を受けていた時代、の話だから、「アメリカ帝国の滅亡」(あれはカナダの話だけれど)みたいな話なんじゃないかとも思っていたのだが、いやいやどうして、べったべたな愛の物語であった。そして、とっても面白うございました。こんなべったべたな話なのに、どう僕の嗜好と波長が合ったものやら、(けっして身びいきではないぞ)3時間50分、まったく飽きなかった。、

冒頭出てきた杉原「出たがり」邦生の前説には、「こいつ、またも出たがり演出か?」とも思ったが、案外おとなしく、タテヨコ企画の「ひょっとすると芝居より面白い、役者には迷惑な主宰挨拶」ほどではなかった。まず、よし。

全編通して何といっても目を引くのが、「183cm、低音の魅力」前回の田中祐弥で、文字通り最後まで目が離せず。松田卓三とのカップリングもバランスよし。前回拝見したのは「14歳りたーんず」の中屋敷組、お兄さん役だったのが、いきなりこれ。杉原邦生の慧眼。というか、この役者をお兄さん役で使った中屋敷氏の慧眼、というべきか。
プライアー・ウォルターはバイユのタペストリーに名前が縫いこまれてるそうだが、バイユにはあっしも訪れてタペストリー見たたことがあって、ぐっとプライアー一族が近くに感じられる。それもよし。

坂原わかこ、よし。外見は欧米人の「肉欲万歳!」からは遠いところにあると思うが、ただの「みゆき風な夢見がち」に陥らず、観ていられる。田中・坂原の妄想が交錯するシーンがぐっときて、それから一気に引き込まれた。
脇も池浦さだ夢、森田真和の変態コンビが素晴らしく、飽きさせない。藤代敬弘のアフリカン・アメリカンのゲイも妙にはまって好感。

装置も面白かった。というか、パネル倒しで三角やロープやてっかん結びの気配やウェイトが見えると、20年前自分でやってたことを思い出して、懐かしいというか、好感持てるというか。洗練は感じないけれど、ガツンと勢いで勝負するところが邦生らしい。

80年代半ばの「アメリカでいいじゃないか」という内向き保守的な感情と「ミレニアムorノストラダムスまで10年ちょい」という滅びに向かう感覚のミックスは、時に現在の小泉時代以降の日本の感じと似ている気がする。だから、日本の若い役者を使ってこの戯曲を「今」上演することに、(いつものオレらしくもなく)意義を感じてしまったりもした。

客席に空きがあったのは、これだけ面白い芝居なのでとってももったいないけれど、一人で3・4人分くらいアクのある観客がたーくさんいらしてたから、それも良いのか?いや、よくないだろう。関西にいてこの芝居見逃した方、後悔してください。

2009年9月15日火曜日

秋吉敏子さんのこと

Nむさんのブログを読んでいたら、秋吉敏子さんのことを思い出したよ。
(今はもっぱら「穐吉」と綴られているみたいですが、当時は当パンも含め秋吉と書いていらっしゃいました)

田舎町に秋吉さんのピアノトリオがやってきて、田舎の高校生達が連れ立って聴きに行ったんだけど、いたく感動した田舎の高校生は、秋吉さんからパンフレットにサインもらうついでに、こんな質問をしてしまった。
(何分田舎のことなので、世界レベルのピアノトリオが生で聴ける機会は2年に1度くらいだったと思う。そして何分田舎のことなので、演奏が終わったあとも何だかのどかで、たっぷり時間が取れたんだ)

「ピアノは自分のために弾くのか?人に聞かせるために弾くのか?音楽でおカネをとることをどう思うか?」

秋吉さんがあと20歳くらい若かったら、横面を張り飛ばされていたんじゃなかろうかと、今となっては思われる位のひでえ質問なのだが、さすが世界の秋吉さん、慌てず破顔一笑、

「もちろんピアノは自分のためよ。でも、誰も聞いてくれなかったらさびしいじゃない?」

それだけだよ。小岩の安アパートに住んでいた時分、ピアノの練習の音がうるさいと文句を言いに来た近所の人が、彼女の鬼の形相に文句も言えずに逃げたとの伝説を持つ秋吉さんが、笑ってそれだけだよ。
その夜、田舎の高校生は、「オレはさもしい。こんなにさもしいのでは、オレはゲージュツで生きる人には絶対になれないだろう」
と思ったんですが。まあ、その予想の通り、ゲージュツで生きてはいないんですが。

まあ、自転車に乗るようなもんだ。左にハンドルを切るか右にハンドルを切るか、考えてても仕方ないだろう。
「正しいバランスだから自転車に乗っていられる」 のではない。
「自転車に乗っていられるのが正しいバランス」 なのです。多分。

サスペンデッズ 夜と森のミュンヒハウゼン

13/09/2009 マチネ

三鷹の八幡様のお祭りの日。子供らが担ぐみこしを越え、人ごみを越えて星のホールへ。
開場すると、装置良し。星のホールのぺったりした空間をぺったりと使ってしまえという発想は、杉山至の美術以外では初めて見たと思う。客席の配置も良し。

で、開演。うーん、そうですか、そういう趣向ですか。
20日まで公演が続くので、詳しいことは書かないけれど、こういう風に「物語の構成」を書き込むと、どうしても俳優たちがその「物語の構成」に奉仕しなくてはならない流れになりがちなんじゃないかと思う。観ていても、どうしても、「物語の構成」の辻褄に向かって全てが流れていく、その流れを追うようになってしまいがちで。

こんな風に書いて、あたかも観る側に問題が無いようにいってしまうのはちょっと自分でもいやらしいとは思うけれど、僕はやっぱり、もっと「構成の謎解き」と関係の無い、もっと余裕の虫の眼で見ていられる芝居の方が好きなんだなー、と思う。
本当は、なんだか余裕があるんだか無いんだかってな具合で、上演中ずっと役者の襟足とか足首の曲がり具合とか声のピッチとか歩幅とかに集中していられたらずっとずっと幸せなんだけど。

2009年9月14日月曜日

青年団プロジェクト公演 青木さん家の奥さん

12/09/2009 ソワレ

客入れのときから、席が隣になったご夫婦が、
「あれ、あのビールケースは中ビンだよ。みんな中ビンかな?」
「いや、あっちは大瓶よ」
「いろいろあるんだな」
「あれ、ビンの中みんな入ってて、芝居しながら端からドンドン飲んでいったら面白いな」
「あの、あそこにおいてるビンは、あれは、重石になってんのかな?かざりかな?デザインだな」
「なんか、砂みたいなの入ってるわよ」
「あ、ほんとだ」
「この曲、いいよね」
みたいな会話を続けてらして、僕はもうそれだけで劇場の中に居るのが嬉しくなって、涙出そうになったのです。

芝居の方も文句なく面白くて、なんだか、平田オリザは、これまで20年間、「静かな演劇」なんてぇ旗印をうっかり掲げちまったばっかりにずっとやりたくてもできなかったことを、「南河内との合同企画」にかこつけてここぞとばかりにやっちまったんじゃないか、という気がした。
掛け値なしに、客入れの時間も含めて楽しいときを過ごしました。

箱庭円舞曲 極めて美しいお世辞

12/09/2009 マチネ

美容室ビルドゥングスロマン。
適度の色恋沙汰と不快感と青春のしょんべんくささを振りまきながら、2時間苦しくさせず、そわそわさせずに見せきったのは、多分、上手なんだろう。すっきり観れたし。

ああ、でも、すっきりと2時間の長ーいストーリーを流せる達者な役者達の、それでもすっきり流れない、どういうつもりだかストーリーに全く貢献しようとしない、劇場の中の空気がささくれ立つような、そんなものがチラッと見えたなら、そっちの方を僕はより愛するんだろうと思う。

2009年9月13日日曜日

吾妻橋ダンスクロッシング

11/09/2009 ソワレ

スケジュールがどうしても合わなかったとか、チケットが売り切れちゃってて・・・とかいう方にも会ったが、そういう人には僕は、
「いや、何を差し置いても観に行け、というものでもなかったよ」
というようにしている。理由はいくつかあって、

① 何だか、「次回もチケット蒸発必至、ご予約はお早めにね!」みたいな雰囲気(あるいは、あの、「伝説の」というような誤った伝わり方)を(僕が)煽るのはどうかと思うし、そういう状況は主催者の意図とも(きっと)違うんじゃないかな、と思うから。
② 初日だったかもしれないが、ちょっと、客席が「サロン」じみてたところもあって、自分がそういう場に居てしまうことへのうっすらとした嫌悪感と、うーむ、ここでこう閉じてしまうのはどうだろう、ともちょっと思ったから。それは、この催し物に限った状況ではないのだけれど。
③ 飴屋氏の出し物も含め、素晴しいものはいくつもあった。でも、その素晴しさは、「吾妻橋」の場だからこそ、この一回きりだからこそ、(だから、ぜったい行きなさいよー!)という面と、逆に、「でもこれ、観る側の意識さえ澄ましていれば、実はいつでもどこでも味わえる類のものなのではないか(ちょっと危ないが)」という面もあるんじゃないか、ってことも最近考えているので。

特にいとうせいこう氏の朗読と飴屋氏の出し物を観ていて、「名乗ること」と「名付けられること」、「名付けること」と「歴史を書くこと」、「歴史に書かれること」と「名付けられること」、「匿名でいること」と「名乗りを上げること」、及び、それらの状況で発生する/しない異議申し立てについてずっと考えていた。それが「舞台」にのって「観客」に観られていること。それを観ていない人がいること。そういったことも含めて。

もっともっと開かれていくために、どうするか・・・。
そこから先をどうも考えきれず、頭の中モヤモヤなのだが。

快快や鉄割など、他の出し物についてがいかに素晴しかったかについては、きっと語る方が数多くいるだろうから、特にここには書きません。

池ノ上のモンキーズ

土曜日の夕方、下北沢から駒場に向けてプラプラ散歩しておりますと、頭上のスピーカーから、盆踊りや秋祭りのピーヒャラでもなく、ハワイアンでもなく、童謡でもなく、アークティクモンキーズが流れていたです。

http://www.youtube.com/watch?v=30w8DyEJ__0

池ノ上商栄会、おそるべし。

とあるお店の引き戸がガラガラと開いて、店主と思しきおばさま登場、何の曲かと見上げていたのがチャーミングでした。

2009年9月7日月曜日

南河内万歳一座 S高原から

05/09/2009 ソワレ

アゴラの中に入った瞬間から、おぉーっ、この舞台でどんなS高原からを上演するんだろう、ってドキドキ感が充満する。いや、実は、アゴラに入る前から、あの、南河内ののぼりを見てからずっと高揚感が続いていたのだけれど。

そして、青年団バージョンでは開場後/開演前ずーっと座って雑誌読んでる役者がいるのだが、それは南河内バージョンではなくって、その代りに恒例の幕前物販コーナーが。いやー、生きてて良かった。アゴラで南河内観れるとは。

内藤演出のS高原は、意外にも戯曲に忠実に、プロセス技は抑えに抑えて、敢えて平田の土俵に乗り込んだ上でケレンなしの勝負を挑む。これは、観ていて楽しい。台詞を最初に読んでから、舞台上で台詞を口に出すまでのプロセスというか、回路が、青年団の役者と南河内の役者とでは違うんじゃないか、それを極めて自覚的に(もしかすると自虐的に)南河内は受けて立っている印象である。なんだか、ぐわぁーっと行きたい自分を、全身の筋肉プルプルさせながら抑えて抑えて舞台に立ってる感じが、少なくとも観ている側としてはとっても楽しかった。

戯曲に忠実だからこそ、「あぁ、ここは、そうきますかー」というのが部分部分で立ち現われて、それも楽しい。賑やか4人組(福島組)の人間関係が青年団とは違った形でくっきりみえたり、風立ちぬ兄妹の兄の格好は、これは、パリで観たフランス人バージョン以上にキテますよ、とか、そういうところ。それもこれも、南河内がガチンコで戯曲にぶつかった結果。さすが南河内、と思ったことです。

2009年9月6日日曜日

ロハ下ル わるくち草原の見はり塔

05/09/2009 マチネ

マチネは男性編。小生は男性編のみお邪魔する。夏目慎也目当て。
始まってみるとなんだか豪華キャストで、へー、と思う。

が、始まってみるとなんだかうーん、「そうですか、ロハ下ル版の蝿の王ですか、まさにそんな感じですねー。なっつんって本当にイジメられキャラ合ってますよねー、いやいや、他の役者陣も、みんな味があるよねー、キャラ立ってるよねー・・・」みたいな、紋切り型なコメントしか出てこないんだ。

1時間50分、眠くはならないのに、そして、役者を観ていて辛くは無いのに、退屈だった。
・ もっと刺激のあるストーリーがほしかったわけではないんです。
・ もっと方法論でとんがってくれ、っていってるわけでもないんです。

これはもう、芝居の何を面白いと思うかが(この集団と僕との間で)ネジれの位置にあるのではないか、と思うしかなくて、それじゃあ、三鷹で「アダムスキー」を観た時に面白いと思ったあれは何だったのだろうか、錯覚だったのだろうか、と、あれこれ考える。

終演後Mとひろ氏に出くわして、思わず口から出た言葉が、
「あの、引きずり込む役、クレジットなんか要らないから、是非やってみたいですよね!」
Mとひろ氏ドドーンと引いていたが、僕の真意は、「あぁ、いいなぁ、こんな役、やってみたいですよね、という役が他に無かったんですよ」の婉曲表現なのです。変わった趣味を持っているからではないんですよ。

柿喰う客 悪趣味

04/09/2009 ソワレ

タイトルには「悪趣味」とあるけれど、予想していたほど「悪趣味」ではなかった。
面白くなかった、という意味では、ぜんぜんない。

トラムで久々にみた「打ちっぱなしの外壁を見せないように作り込んだセット(まさに「セット」と呼ぶのにふさわしい)」を使って、しかも主なあらすじは「家族のお話」、中屋敷氏、正統派紋切り型の極致といってもよいフレームを持ち出してくる。

で、まぁ、そういう、「どうでもよい」設定を使って繰り出す「もっとどうでもよいけれど、ぜひとも"演劇"でやってみたい企み」のオンパレードが気持ち良く、こころゆくまで満喫。
(が、一方で、もちろん、本当に芯の芯までどうでもよいと本人が思ってたら、舞台にすら載せないとは思うが)

とりわけ「こども」と「かっぱ」「警官たち」が小生のお気に入り。ネタバレになるのでこれ以上書きませんが。

本当に、中屋敷の芝居を観る度に、芝居というのは、名付けや名指しや説明台詞で成り立つ壮大なごっこ遊びであることを、(本当に痛みを感じながら)痛感するのです。それを俯瞰しながら、自らの才能を舞台に投げ込んであらゆる空間・時間を使いつくす中屋敷氏、おそるべし。

中屋敷氏が「やりつくしちゃった。次、どうしたらいいんだ?」とか、「本当に舞台に載せたいことが何もなくなっちゃった」と考え始めたり、自分に疑念を抱き始めたら、きっともっと面白いものが観れちゃうんじゃないかという気もしているが。そう。すべてにおいて、あまりにもポジティブで。「悪趣味」なことにもポジティブで。何ともねたましい。