2007年3月30日金曜日

ベケット・ラジオ 「残り火」「カスカンド」

29/03/2007 ソワレ

とんでもないものを目の当たりにしたという感覚。
岡田利規演出、松井周+増田理出演の「カスカンド」。

岡田は当パンに書く:
言葉を延々と継ぐことが絶対に思念を展開させることに結びつかないようにすること

それを実演してみせる松井と増田。恐ろしい。モンク+コルトレーンの重量感。けして流れない。滑らない。
一つ一つの音の質感。意味は勿論、つく。言葉だから。でも、それは、聞き手である僕がつける意味であって、増田と松井は余計な意味を一切つけていない。
(横道にそれるが、その時点で、このパフォーマンスは、「翻訳であること」の限界を突き抜けている。変な話、こんな演技が出来るなら、翻訳の出来が悪くても、極端に言うと、出鱈目を言っても、舞台が成立してしまうだろう)

舞台上の全役者が、ここまで余計な意味をつけずに、言葉をひりだし続ける芝居は観たことがない。増田の声。息を吸い込む音。ツバをすする音。乱れないタイム。
動かない松井。

松井の声、増田の声、音楽、この3つが絡み合った瞬間、「ブン」と来た。これは、喰らった。

終演後のレセプションで、岡田氏は「このベケットは、カンタンンだった」と言い放った。そうだろうとも。そうに違いない。
そして、松井・増田両氏にとっても、このベケットを演るのは、難しいことではなかったに違いない。
そして、「カスカンド」なーんて、意味もわかんないタイトルの、スジも終えないようなラジオドラマは、きっと、この3人によって上演されるのを待っていたのに違いない。
でも、もちろん、この3人は「カスカンド」を待っていたわけではないのだ。おそろしい3人だ。

松井周が変態役者であることは万人の知るところだが、まさか増田君がこんな変態役者になっていたとは。それが、とても嬉しい。

2007年3月28日水曜日

東京タンバリン 彼岸花

27/03/2007 ソワレ

西荻窪駅から徒歩12分。確かに駅から遠い。
芝居でもなければここまでやってくることは無かっただろう、と思われる喫茶店。

が、何と平日の夜なのに、いっぱいだ。
喫茶店のカウンターから客席を使った芝居で、その趣向とか、それは、良い。

で、芝居観ながら、思ったこと2つ。
① 台詞がよくスベる。これはいかん。もっと、役者が台詞を流さないように、きつく演出するか、あるいは、もっと言いにくい台詞を書かないと。これは、今回特に思ったことで、前回まではそんなに気にならなかったのだが。

② 高井浩子の脚本、日本に帰ってきてから4つ目でこんなことをいうのもなんですが。彼女の話は、いつも過去を振り返る。「思い出すこと」に芝居のフォーカスが向いていくことの是非ってなんだろう?
歴史物とか、登場人物の記憶を手繰るとか、その手の手法は芝居では恐ろしく多用されているのに、何故、高井芝居を観ると
「あぁ、また、過去を振りかえっとる」と思ってしまうのだ。
有体に言うと、「思い出話で芝居がつづられた結果、思い出話を聞いたことしか残らない芝居になったら嫌だな」と思いながら観てしまう自分がいる。

高井さんのスタイルが気に障るわけでは決して無いのだけれど、何だか、昔のことを語らない芝居、作ってくれないかな、と勝手に思ってしまいました。

あぁ読み返してみたらホントに勝手だわ。

2007年3月26日月曜日

五反田団 いやむしろ忘れて草 再見

25/03/2007 ソワレ

この間の日記には10回観ても良い、と書いたが、そこはサラリーマンの哀しさで、今日の追加公演観て、やっと2度目だ...

前回下手から見たので今回は上手から。端田さんの顔が良く見える。本当に、端田さんの顔ばかり見ていた。あと、靴下。あと、髪の毛。

スジを追わなくても良いので、本当に、俳優の顔や髪の毛や服の皺やノドのツバごっくんとか、そういうところしか見ない。
それが面白い。というか、そういうところだけ見ても面白い。

黒田演技、前田演技と違う。長い。表面張力を使ってコップに張った水のうえに100円玉乗っけてるような緊張感で、間をとる。ちょっと間違うと途 端にくさくなるだろう。それを、100円玉を乗せ続けて行く。これは緊張した。黒田はけると、ふーーっと息をはいて緊張をといた。
でも、黒田2度目の登場のときは、黒田さんの横顔から眼が離せなかったんだよね。本当は端田さんの顔ももっと見たかったのに。

2度目に観て思う。やっぱり、これなら10回観ても良い。と。
あるいは、10回くらい観なきゃ、と。

スロウライダー アダム・スキー

25/03/2007 マチネ

大変良い芝居を観た。
1時間50分のお化け話。チラシには「ホラー作品」とあって、うーん、外れの確率5割と踏んだがそれでも出かけた理由:
①夏目慎也、ここのところ目が離せないと思っているので。
②山中隆次郎、新国立の「エンジョイ」の遺ビデ話が面白かったので。

この手の「筋を進めていく」「狂気の度合いが進んでいく」といった芝居は、大変しばしば、途中で観るに耐えないシーンが出てきたりするのだが、
この芝居に関しては、そういった見苦しいシーン、無い。
極めて消極的な褒め方をするならば、「観てらんないシーンが無い」ということは、先ず一つ、あった。

その上で、更に、登場人物に過不足が無い。過不足が無い中で、今は亡き大先生への切々たる恋心を共有する4人の男。プラス1。ほんと、男の嫉妬ってみっともないわよね。って、こういう話がつづられて行く物語を、
「やおい」
っていうんじゃなかったでしたっけ?(誰か教えて)
そうです。物語を進めていく原動力が、「ほんとーに、しんから、どーでもよいこと」なのです。この、変に勿体ぶらない姿勢が、好感度急上昇ファクター。
話が遠くなるのを食い止めている。

で、実は、出だしから、「劇の設定のフレームの嵌め方」に違和感があって、「この落とし前、どうつけるんじゃい、わざわざこんなテンポがた落ちのシーンを入れておいて、きちんと落とし前がつかなかったらただじゃおかんぞ」と思っていたら、
見事にオチた。過不足なし。ストンとオチた。
喩えるなら野茂のフォーク。落ちる系のタマで勝負してくるのが分かっていても、そのオチ方のキレが良すぎて、打てない。

阿佐ヶ谷スパイダースの「イヌの日」でもそうだったけれど、お化け噺は上手く落としてこそ、である。

ということで、「ホラー作品」であるにもかかわらず、観た後、とても清々しい気分で三鷹を後にできました。
客席が埋まりきっていないのが勿体無い。
いやー、ほんとに、いい気分。

2007年3月25日日曜日

木山事務所 やってきたゴドー

24/03/2007 ソワレ

ゴドーがついにその姿を現す芝居である。
初演、初日、俳優座劇場に着いたら最前列中央だった。
まずい。つまんなくて寝たら歴史に残る。
(まぁ、歴史には全く残らないだろうけどな...)

しょっぱな、ゴゴーがドタ靴をもって出てくる。
あれ、脱ぐんだっけ履くんだっけ?
「どうにもならん」だっけ?
舞台上からいなくなるのは小用だったっけ?
ここら辺、ディディ・ゴゴーの段取り喪失感、見事な本歌取りである。

で、喋るのが不得意なディディ。どうしちゃったの?
ラッキー、「ゴドー待ち」よりも元気だ。しかもよく喋る。
ポッツォ、心なしか所在無い。
と思っていると、

ゴドー、出る。うん。大枠、良し。ネタバレは好まないので、以下、略。が、2点だけ。

・終盤観ながら、実は、僕は、「マーちゃんの神曲」の柄本さんと木之内さんのシーンを思い出した。
「お前は、悪魔を、信じるのか?」
この芝居は、実は、こうである。
「お前は、ゴドーを、待ってたのか?」
「分からない...」
「お前は、ゴドーを、待ってたのか?」
「分からない...」
「お前は、ゴドーを、待ってたのか?」
「待ってました!」
「お前は、ゴドーを、待ってたのか!?」
「待ってました!」
チョッキン、チョッキン、
と、こういう感じ。

・1時間45分は長い。台詞に間を持たしたり、演技させたりして、無用に間延びしている。テンポ良く、戯曲を殺さぬように上演すれば1時間20分ですむ。そしてもっと観やすくなるはずだ。

ベケット・ライブVol.8 伴侶

24/03/2007 マチネ

開場すると、舞台上のスクリーンにデジタル時刻表示。10時間35分、秒、そしてその下の単位。
5分くらいすると、妙なことに気付く。時刻が進んでいないのだ。
一番小さい単位は、「20進法」である。1秒を20に割っている。3分毎に、42秒で次の「分」に移る。しかも、37分の次は35分。
要は、インチキな時間である。

「こんなト書きがベケットの指定なのか?」と思いながら当日パンフを読んでいると、なんと彼の小説を構成しなおしているとのこと。そうか。それでは、これから観る舞台上の動きは、当初テクストで特に指定が無いものとして観ればよいのだな。

ちなみに、"Not I" には、僕はちょっとうるさい。何と言っても(これはちょっと自慢入るが)娘の学校の作文の課題が "Not I" が演劇と呼べるのか?というもので、その作文のプルーフ・リーディングを頼まれたことがあるのだ(自慢ここまで)。

スピーカーからテクストが流れ始める。一人称、二人称と三人称の視線の差異が偏執的に語られて、それを追うのに四苦八苦する。失敗した。テクストだけは読んでくるのだった。
テクストの一字一句を耳で追いながら、「英語ではYouか?仏語ではVousか?Tuか? 手に負えない、は、何だ?」なんて考えていると、役者の動きへの集中がお留守になってしまう。
そのうちテクストの中身にも追いつけなくなってしまう。

要は、僕は、①余程予習してくるか、あるいは、②全く力を抜いて全体を満遍なく受け取る態度をとるか を選び取るべきだったのだ。中途半端な事前知識は邪魔なばかり。失敗した。
1時間の公演だったけれど、かなり疲れた。そして、「情報量の多い芝居だったな」と思ったのだ。
1時間の、2人芝居で。しかも、「何もかも削ぎ落とした」はずの、ベケットで!

2007年3月22日木曜日

橋を渡ったら泣け

21/03/2007 ソワレ

休憩なし2時間20分、というのでイヤな予感がしていた。
大体において、削れるシーンを削ってないか、役者に余計なことをさせて(つまりは甘やかして)客に媚びて、徒に時間を消費するパターンではないだろうか...

大災害後、コミューンが出来る、そこに男がやってくる...この設定を聞いた嫁さんのご託宣も、「凶」であった。頼む、頑張ってくれ。期待を裏切ってくれ。

***

冒頭、男が「ヨロヨロ」と橋を渡る。住人の一人と「緊迫した、けれどどこか可笑しい」会話を始める。
...散った...
2時間20分÷3分=46倍
オレはあと46倍も、このつまんない芝居を観続けねばならないのか。苦痛だ。

・土田戯曲特有の「ツッコミ」。これは、もう、しょうがない。①関西ではこれがリアルなのか ②好悪に関わらず土田戯曲のトレードマークなのか
分からないが、これで時間が延びるのは、もう、分かった!許す!
・が、「こんな子供みたいなことやめましょうよ」という台詞もあったが、設定というか、筋立てが子供劇だったな。
登場人物が全員子供でも、「蠅の王」くらいのことにはなるだろう。登場人物7人に対してこの程度の想像力では、それは、ちょっと、まずいよ。もう少しひどくなっちゃったら、もう、赤鬼だよ。やっぱり、極限モノは、難しいよ。上手くやるのは。

まぁ、土田英生氏は本当に「ウェルメイド」な戯曲も他に書いている人なので、これ以上言っても仕様があるまい。少なくとも全否定する気は無い。

しかし、だ。この芝居、観てて、演じてて、楽しいか?オレ、本当に、悲しくなったよ。五反田団を昼夜ぶっ通しで6回観ても、そのほうが楽しいよ、きっと。役者は嫌だろうけど。

で、シアターコクーンに来ている人たちは、この後、
「やっぱり、生で観れる演劇って、いいよね」
とか言って、東横線で帰っていくのか?君達は、本当に、幸せなのか?

ボクは本当に不幸せだ。沈んだ気持ちで山手線に乗った。で、それからほぼ24時間経った今でも、やっぱり不幸せです。
本当に心が狭いとか、そう言われても良い。
「ウェルメイド」と呼ばれるものは、当面、観に行くの、止めます。

花組芝居 かぶき座の怪人

21/03/2007 マチネ

開場前からビビる。周囲女性ばかりである。色々な年齢層の。
客席に入ってみても、まぁ、9割5分は女性だ。自分もすっかり女性に取り囲まれている。ビビる。

全労済ホールも、大きい。タイニイアリスが舞台上に2つ入ってしまいそうな大きさである。
と、そういえば、1989年ごろ、この小屋で黒子のバイトをしたのを思い出す。道理でここまで来る道を身体が覚えていたはずだ。

それはそれとして、花組観るのは1988年のタイニイアリス身毒丸以来なので、実は、18年ぶりだ。それ以降、ほんとにチケット取れなくなってしまって、足が遠のいた記憶がある。
が、加納さん、相変わらず、お美しう。何よりでございます。

舞台が大きくなっても、芝居が荒れてない、というか、花組の面白さは失われていなかった。それが嬉しい。観客の構成が変わっても、昔ながらのサービス、といおうか。
あぁ、そういえば、アリスの舞台は本当に沢山の役者がぎゅっと詰め込まれてて、(勿論客も詰め込んでたが)大変だったなぁ、暑かったなぁ、
そうだ。花組が大きな小屋でやる、というのは、そういう不自由さを抜けて、好きなことをもっと派手にやれる、という意味で、一種必然だったのだ、と感じました。

筋のひねりとか、役者の遊びとか、サービスシーンとか、本当に、そんじょそこらの「ウェルメイド」な芝居よりもよっぽどかエンターテイニングで、いや、そういう意味でも勉強になると思う。

それにしても、20年ですか。いや、本当に、素晴らしいことですね。もっと、男性にも観に来ていただきたいですよね。
通路に座布団しいて中年男が体操座りして一生懸命観たって良いくらいの芝居だと思いますが。どうでしょう?

2007年3月19日月曜日

野鳩 君は人のために死ねるか

18/03/2007 ソワレ

この芝居、好意的に観てリキテンシュタインのようだと呼ぶのか、または、「何だかこのテのマンガってあるよね」とモロおじさんなレスポンスに走るのか、それとも、「つまらん」「わからん」と一言で片付けるのか。
(つまらんとわからんは、「or」で結ばれているので、一言です)

うーん。個人的に、苦しいところです。

芝居のごっこ性に着目して、あるいは、ごっこ性に無自覚な芝居を気持ち悪いと思う感覚から出発して、このスタイルを選びとること自体については、僕は必ずしも否定的ではない。実際、佐伯さち子さんの演技は、先日の「ロリータ男爵」にあっても頭一つ突き抜けていた。

しかし、デフォルメを効かすこととリアルさのギャップをどう「突きつけるか」という点において、岡田利規さんは実はもっと先を行っている気がする し、また、力を入れなくてもすごい芝居が出来てしまうことは、実は何時間か前に観た五反田団が立証していて、ちょっと野鳩は分が悪い。

ウォーホルの版画が、「当時としては凄かったんだよね」といわれるのと同様、野鳩のスタイルも、「出た当時は凄く新鮮だったんだよ」と言われかね なくて(というか、言われているのではないだろうか?僕は初めて観たのでそんなことは言えないが)、正直なところ、も二つくらい何か無いと、次回からは苦 しい気もする
(と思ったら、当分お休みとの事。新装開店、上手くいくと良いですね)。

この芝居で一番驚いたのは、僕の右側の席に座っていた、芝居中ずっと鼾かいて寝てた男だ。終演後、客電がついたら、そいつ、何と靴下まで脱いでくつろいどった。その割には、足、臭ってなかったけどな。

五反田団 いやむしろ忘れて草

18/03/2007マチネ

前田氏の芝居は、彫刻刀で刺した傷のようだ。傷口はそんなに大きく見えないのだけれど、何日も何日も疼く。
去年の「さようなら僕の小さな名声」もそうだった。
今回もそうです。

大変素晴らしいので、いくら褒めても褒めたりないが、そして、ここに書ききれない部分でも素晴らしいところたくさんあるのだが、とりあえず今書けたいところだけ書く。

・アゴラがこんなに美しく見えたのは初めてか、あるいは凄く久し振りだ。照明良し。装置の選択良し。舞台奥の鉄パイプや裏の搬入口や、上手袖のはしごやエレベーターホール。客席とのバランス。素晴らしい。
上手の水道の蛇口をひねる芝居も久し振りだ。懐かしいし、効果も素晴らしい。

・役者素晴らしい。みんな素晴らしい。

・「ありふれた不幸の、ありふれた幸福の物語」とチラシにあって、そう言われてみればこれは物語なのかもしれないが、僕がそこで感じるのは物語のツボみたいなもので、それは例えば、
①「かっこいい父さん」
通勤途上、オフィスのある駅を降りると、毎日、凄くかっこいいキリッとした顔の父さんが、黄色い帽子をかぶった、顔だけは凄くお父さん似の幼稚園児の息子と、駅に向かって歩いてくる。
ある朝、僕が電車を降りると、なんと、かっこいい父さんだけがキリッと駅に向かってくる。ただならぬ気配を感じた僕は、しかし、さりげなく歩き続ける。
と、そこへ、息子が、必死に、でも、幼稚園児なのでオバサンの小走りくらいのスピードしか出ていない、でも、かなり必死に顎を上げて走ってきた。
その、後ろに伸ばした両手に感じるかっこいい父さんの酷薄さと親子の絆。
②「走る双子」
通勤途上の乗換駅で、階段を下りていくと、入れ替わりに駅に着いた電車から、わらわらと人が出てきて、階段を駆け上がってくる。
毎朝同じ車両から降りてポーズで走ってくる双子の小学生姉妹。なぜかいっつも2メートルくらい距離が開いてるんだよね。並んでなくて。遅れてくるほう、何だか、転びそうだ。
③「自転車娘とその母」
やはり通勤途上、駅に向かって自転車をこいでくる女子中学生と、その隣をちょっと早足で歩く母親。
ある日、その母親が、父親に変わっていた。
どうした、母親。

と、この3つ、全部実話なのだが、とても回りくどくて恐縮ながら、こういうところに物語を作ってしまう、幼稚園児が必死で走るとなぜか後ろに向かって伸びてしまう両手がたまらなく愛おしくなってしまうような感情を、
この「いやむしろ忘れて草」は起こさせる、ということで、
前田氏は、あんなに客を突き放しているように見せかけながら、実は、そういうところに思わずいとおしさを感じてしまう観客の気持ちを、とても細かいところまで気遣っている、(あるいはひょっとすると本能で嗅ぎ分けている)、という気がするのです。
<すいません、読み返してみると、これはさすがにボクだけのイシューですね>

・この芝居、何度でも観たい。100回観ても飽きないだろう(さすがに飽きるかな。)じゃあ、10回。10回なら絶対に飽きない。

・こういう、アゴラにぴったりな芝居が、14回しか上演されないとは。1回100人でも、1400人しか観れないということで、とても勿体無い。 でも、200人入るような小屋では観たくない。すると、アゴラで2ヶ月やれば、6000人。それくらいなら大丈夫だろ。この芝居なら。
オレ、10回観るし。
そういうことって、成立するのだろうか?本当に、広くみんなに愛でてもらいたい芝居なんだけどな。

桃唄309 Trainhoppers

18/03/2007 マチネ

力の入った芝居で、実は、前回観た「さよなら、おじさん」の微妙に力の抜けた感じが気に入って観に来たのだが僕のほうも芝居の方も空回り否めず。

舞台も上から下へのプラットフォームが邪魔して、奥行きを使った芝居が出来ないし、正直、観ててちょっとしんどかった。

疾走感に重きを置くなら登場人物を減らしても良かった。
なんだか、Trainhopper達は、本来風の吹くまま気の向くままな人々であるはずなのに、妙にウェットに集まってしまうところが、そうじゃなきゃ物語にならない限界なのかともうがってしまう。

シーンと時空の転換が激しくて役者も大変だったとは思うけれど、うーん、これでは客がついて来れないかも。

ただし、基本的に嫌味のない舞台であるのは前回同様。ご近所でもあるし、次回も中野まで足を運ぼう(文字通りです。徒歩圏内なので)とおもったら、次回はアゴラでとの事。楽しみに待ちましょう。

2007年3月18日日曜日

田上パル 師走やぶれかぶれ

17/03/2007ソワレ

高校生+年寄りの芝居(ハイバイ)、正真正銘年寄りの芝居(龍昇企画)ときて、今度は正真正銘高校生芝居である。

あぁ、何と伸びやかに若さ爆裂の芝居をやっていることか。正直言って、羨ましい。

というところから入ったが、実は、この「汗臭さ」と「青春まっしぐら」が売りの田上パルだが、芝居についてかなり信頼して観ていられるのです。何となれば、

・しっかり作っていて、役者に遊ばせない
・物語に溺れない
・教訓も無ければオチもない。しいて言えば、前回も今回も、「そしてみんな仲良くお家に帰りました」が結論だ。こんなの、言っても何のネタバレにもならない。
・あんなに叫んでいるのに、なぜか、耳障りなうるささで無い。これは、実は不思議で、テクニカルにこれが何故なのかはいまだに良く分かりません。

ということで、本当に、次回も楽しみにしています。
いつまでこの若さを前面に押し出していけるのか。30代になっても詰襟着ていられるか(舟木一夫かよ)。

20年前にこんな芝居がしたかったよ。というのは、半分以上本音です。

龍昇企画 夢十夜 窓と鏡

17/03/2007 マチネ

何と、どうも、年寄りの芝居である。悪い意味では、勿論無い。
戯曲を書いた犬井氏からして、当パン冒頭、「人は死ぬ前に記憶のフィルムを巻き戻すという」である。龍さん、「90まで生きたい」である。

昨晩観たハイバイの「おねがい放課後」では、死が60年の彼方にある高校生達と死が4年後に控えている志賀ちゃんの時間の流れ方のギャップが舞台 に載っていた。志賀ちゃんは、自分が肉体的には過去を振り返る局面に達しているにも拘らず、高校生の自意識を持って未来に立ち向かわねばならない。
が、この「夢十夜」は、1年に1歳ずつ年をとってきた先生が0を過ぎて、死をすぐ目の前に控えていることに対して極めて自覚的になった上で、過去を振り返る様を舞台に載せている。

従って、夢十夜の先生は、志賀ちゃんのように足掻いたりしない。満たされない欲望があっても、突き止められるべき謎が突き止められなくても、フラストレーションや足掻きを感じる必要は無い。むしろそこには、微笑を浮かべた充足感のようなものが感じられる。

もちろん、満たされていないので、色々、夢を見る。時には行動を起こす。ただ、それは、なんだか、将来に向かったものではなくて、むしろ、「遣り 残したこと、突き止め得なかったもの」の帳尻あわせにすら感じられるものである。蓋し、日がな一日書斎にいて。ということだろう。

この、非常に年寄りな芝居に大きく魅かれる自分も、年をとったのだろう。

そう。そういえば、「年をとると夢も現も同じもの」ということで、この芝居の「夢」と「現」のスイッチのOn/Offは、年寄りならではの手練手管。うにょっと切り替わるその風情が素晴らしかった。

2007年3月17日土曜日

ハイバイ ヒッキー・カンクーントルネード/お願い放課後 二本立て

16/03/2007ソワレ

いや、とても面白かったっす。

「ヒッキー」さすが「とっても評判が良い」と自分で言うだけの事はあって、面白い。
またもや、「あぁ、こんな風に台詞いえるんだぁ」という若い人たちへの今更ながらの驚きと、そういう芝居が作れる作・演出の力量に感心する。
後半おねえさんが出てきて「物語」パワーが若干押し気味になるんだけれど、それは、(すっごく尊大な言い方で悪いが)ゆるす。何となれば、それは、噺を落とすために必要だから。そして、噺のオチも、愛すべき芝居としての「ヒッキー」を十分受け止めていたと思うので。
楽しうて、やがて哀しき、ひきこもりプロレス。

そして、お願い放課後。(旧仮題 しがちゃん☆セブンティーン)。プレビュー公演。
「1年に4歳歳をとってしまう奇病にかかっている志賀君」
この時点で、岸田賞3つ差し上げます!!前田司郎もびっくりだ!
アゴラ公演では役者入れ替えるらしいのだが、そうであるならますます来ておいてよかった。
えっと、総論でいうと、
「色々注文はあるが、大変面白い。5月が大変楽しみだ」

僕の嫁さん曰く、「え、でも、その病気にかかると、寿命、20年くらいだよね」。
極めて正しい。
だから、岩井氏がどんなに気合を入れて気楽に作っても、この芝居は、「愛と死を見つめる志賀ちゃん」にならざるを得ないのだ。
年をとると時間の過ぎるのが早くなるというけれど、そろそろ僕もそれを実感していて、正しい。すると、高校生の志賀ちゃんは、死に向かうすり鉢の 中を、同級生よりもかなーり下の方でくるくる旋回していて、つまり、周囲とのズレとか孤独感とかを、「話題が合わなくってね」とか「最近の若いもんは」と か、そういうのとは全然違う次元で常時感じていなくてはならない。辛い話です。

そこら辺のズレを、プレビューでは若い役者が演じた。本番では志賀さんが演じる。むちゃくちゃ楽しみです。

注文は、さっきも書いたが沢山あります。
一番の注文は、石橋亜希子の使い方がちょっと添えものっぽかったことかな。大変勿体無い。あと、お母さんも。
5月のアゴラ公演は、必見。

2007年3月16日金曜日

Familia Productions 囚われの身体たち

15/03/2006 ソワレ

素晴らしい芝居。席が埋まり切っていないのが大変勿体無い。
表にチュニジア大使館の車がとめてあって、チュニジア人の方もかなり来てらしたが、確かに、この芝居であれば誇りに思って当然だろう。

一言で言えば...カルタゴの歴史とマグレブ(仏領北アフリカ)の洗練を、燐光群と新宿梁山泊を混ぜ合わせたものに付け加えた、ように、僕は感じました。

勿論、これは、かなり乱暴な形容の仕方だけれども。そして勿論、燐光群や梁山泊が洗練されていないとは思っていないのですが。

でも、僕は、この芝居を観ながら、何故僕が坂手さんの芝居をシュプレヒコール芝居と勝手に名づけながらも嫌いにならないのかとか、芝居をすること に対して切羽詰るとは一体どういうことかとか、問題意識を舞台上から観客に突きつけるとはどういうことなのかとか、そういうことを始終考えていた。

役者達は、そんな僕に構うことなく、素足で舞台を踏みつけ、踏み鳴らし、サンドバッグを撃つ。青臭い理屈は所詮は不要のもの、ここに在る、身体を観よ、という自信に溢れている。それがまた素晴らしい。

すっかりやられました。2時間20分、あっという間だった。

カーテンコール、最前列のチュニジア人の方、スタンディングオベーション。僕は日本の日本人の観客なので立たない。でも、勿論気持ちはスタンディングオベーションです。

紹介してくれたもときちさん、この場を借りて感謝いたします。

2007年3月12日月曜日

F's Company ロン通り13番地

11/03/2007 マチネ

とても良い戯曲でした。
スプーンのカチカチいう音が、三菱重工の街長崎を連想させる。

人を生かすとか、生かされるとか、誰が救われて誰が救われないか、というモチーフが、
同じく長崎が生んだ偉大な小説家、カズオ・イシグロのNever Let Me Go を想い起こさせる。

長崎弁の職人のニュアンスのつき方は、どこと無く、機嫌が上下するときの僕の義弟を思わせる。

早く、芝居として上演されるのを観てみたい。

1つだけ。
ロン・戦争を取り扱う以上、どこかで人の生き死にや別れについて触れざるを得なくて、そこを如何に泣かせないで切り抜けるか、というところは、言われてみれば、課題かもしれない。
「行かないで」
って、難しいですよね。芝居にするのが。

2007年3月11日日曜日

ユニークポイント イメージの世界

10/03/2007 ソワレ

観客が物語を追うような作りを嫌い、ディスクリートなシーンで時間を紡ごうという意図が見える。
が、そのディスクリートさが、散漫さに繋がっていた。

印象で言えば、「空気が薄い」。
口の悪い言い方をすると「会話がペラペラ」。薄っぺらい事しか言っていないとか、そういう意味ではない。時空の紡ぎ方が、余りにも疎なのである。

舞台上に2人しかいないシーンが多く、3人・4人と増えて会話が交錯する(いや、そこまでは要求しないにせよ、空気を共有する、違和感を覚える、何となく気になる、そういう)ことが無い。

じゃあ、何が濃密なのかと問われれば、その代表選手は平田オリザの東京ノートだろう。
それでは、2人芝居だといつも空気が薄いかといえば、そうではなくて、ずっと舞台上に2人しかいなかった畑澤聖吾「背中から40分」は十分濃密に空間を編んでいた。

こういった、僕の気になった部分は作・演出の意図なのか、それとも巧拙に属することなのか、それは分からないけれども、でも、ひょっとすると、1 時間13分の芝居、本当は、45分に縮められたのかもしれない。そして、もうちょっと沢山のことを、もう少し絡み合わせて、膨らませられたのかもしれな い。

そういう気がしました。

2007年3月5日月曜日

ポツドール 激情

04/03/2007 ソワレ

もう観に行かないと思う。つまらなかった。
ただし、それは、かなり偏った強い趣味のある一人の観客としての僕から見て非常につまらなかった、ということであって、
終演後、「これがいいんだよ」と行って帰ってる方も沢山いらしたことは、予め申し上げます。

・ 囁き声をマイクで拾うのはやめてくれ。最初から小さな声でも大丈夫な小さな小屋でやってくれ。
・ テクニカルなミスは、僕がこの芝居が激しく気に入らないこととは全く関係ありません。念のため。なぜなら、細かいミスが気になるような木目細かな芝居でなく、非常に大ざっぱな芝居だったので。
・ 物語が役者を引っ張っているのが見え見えで、それが一番つらかった。どんな芝居であれ、物語がどこかにあること自体は全否定出来ないけれど、役者の一挙手一投足が予め決められた物語の周辺に当て嵌められているのが見て取れると、観てる側のドキドキ感は損なわれる。
本多の舞台にあったのは、展開見え見えホラー映画の「ジェイソン、いつ出てくるかな」という、あのドキドキ感であって、そういう感覚は、少なくとも僕は芝居には求めていない。意外なラストとか、ひねりとか、そういうところでは勝負して欲しくない。
・ 同じ意味で、「後味の悪さ」は、この芝居においては、「レミゼ」を観て泣いた、「キャッツ」で感動した、というのの、「真裏」でしかない、という気がした。つまり、他の読み方を許さない、ということ。
・ 折角良い役者が揃っているのに、とても残念です。

羽衣 あのひとたちのリサイタル

04/03/2007 マチネ

このテの舞台で面白かったためしというのはあんまりなくて、いや、むしろ、無かったということかもしれなくて、なので、
「みょーじかる」というキャッチコピーを読んでの予想は、
「テイストが合わないのは仕方が無い。ほかで勝負だ」
というものだった。
あ、ここで「このテの」といってるのは、小劇場で歌あり踊りありのミュージカル(あるいはミュージカルもどき)という意味です。

が、予想に反して(失礼!)、面白い。
アゴラの空間が8人の役者でいっぱいいっぱいに埋まってしまうというのもすごい。きれいに纏めた空間を作らず、猥雑なままのものをゴリゴリと押し付けてくるのが、大変清々しい。
筋はあるような無いような(春夏秋冬と人間の一生を一応縦糸にはしているものの、そこに拘らないと観れないものではない)、従って、糞ミュージカルにありがちな「これからこんなことがはじまるぅ~」とか「いま、ぼくは、こんなきもちぃ~」とかいう歌は一切無い。
歌は、作演出の糸井氏の歌ということで、歌詞は聞き取れなかったりするけれど、それは、「あとで歌詞カード読めよ」位のことで、役者の気合を感じるのが気持ちよくて、それでよい。
いやいや、ほんと、エンターテイニングでした。
こういうことの出来る人々もいたんだ、という心地よい驚きがありました。

いくつか、細かい注文をつけると、
・ 前日の寝不足で、中盤のペースが落ちたシーン、一本調子になったシーンでは、ちょっと、寝た。すまん。
・ 暗転の時間が長い。危うくそのまま寝るところだった。でも、寝てませんが。
・ 床が汚いまんま、というのは気になりました。思い切ってどっかでおおっぴらに片付けてもよいのでは。
・ あと、2時間休みなしは、ちょっと、長い。二幕もの途中休憩10分でも充分持つ(そうすれば床の掃除も出来るでしょ?)。あるいは、1時間30分、モロ気合で押し切れる時間。

いや、しかし、楽しみました。

2007年3月4日日曜日

東京デスロック unlock#1

03/03/2007ソワレ

アルジャーノンに花束を、にインスパイアされて、ということで作ったアトリエ公演。
なるほど春風舎の中もなんだかアトリエ風だ。壁にギターが立てかけてあったりして。でも、実は、「アトリエ公演っぽい雰囲気」と「僕がアトリエ公演で見たいもの」の間にはあんまり関係はない。

客入れにYMOのリミックスがかかっているが、実はこの日の朝の僕のお掃除BGMはYMOであった。それは、多田氏とデスロックの役者にとっては100%関係ないが、僕が公演を観る上では結構関係あるかもしれない。

で、開演。
のったり、すかすかと始まる。
多田氏、わざと、火を通しきらないで料理出しとるな
(ということは、芝居の後多田氏もなんとなく言っていた)。
で、上り坂、下り坂、いろいろあるが、最後はヨシの声で終わる。

多田演出の芝居は3度目だけれども「役者を見たい」という観客の欲望に対して、非常にサービス精神旺盛で、ほんと、助かります。逆に言えば、わしは毎回やられている。そこが良い。

・ YMOのRydeenは、かかるたびに、中学生のときに聞いた月曜日渋谷陽一のサウンドストリートのある晩の一発目の曲だったこととすごく密 接に結びついていて、イントロを聞くと男子寮の机に向かっている自分が見える。こういう曲は意味がついちゃって難しいと思うんだけど、が、しかし、それを あっさり使って見せちゃう、それもかっこよく、というのが多田氏のかっこいいところなんだよなー。
・ King Crimsonはちょっと?いい曲だが。歌詞の意味がつきすぎるというか、でも、それでもいい、と多田氏はいうんだろーな。
・ 毎回そうですが、役者陣、よく多田氏の要求に応えている。力がある。ので、観ていて気持ちよい。

時間があればもう一度観たい。次回作はアゴラだし必ず観たい。楽しみです。

パラドックス定数 プライベート・ジョーク

03/03/2007マチネ

戦間期のマドリッド。ロルカとダリとブニュエルが暮らす学生寮をピカソとアインシュタインが訪問する。その5人の愛憎・嫉妬・友情。
と書くと、なんだか有名人の名前を借りたベタな芝居のように聞こえるけれども、そして、野木氏の前二作と同様、屁難しい言葉の出てくる会話がこれ でもかというように繰り出される、その緊迫感をいかに役者が殺さずに演技しすぎずにストイックに舞台に載せられるかが勝負、という予想が立つのだが、まさ にその予想を裏切らず。
相変わらずたいした手管である。

この劇団の台詞の織り上げ方は変わっていて、
・ 青年団風、転位風の、いいよどみ、会話の切断、平行等等、いわゆる「役者に演じさせないようにする」工夫はほとんどない。
・ 従って、台詞が滑るか滑らないかは、かなり役者に負荷をかけている。
・ 一方で、役者は、間をおかず、余計なニュアンスを入れずに台詞を発することも要求されている。あるいは、おそらく、間を取ったりした瞬間に芝居がクサくなることを、意識として共有している。あるいは、誰かが強烈に認識している。
・ それによって、字面だけで判断するとむっかしの翻訳劇みたいなとりかたをされそうな危険な戯曲を、緊張感のある世界として舞台に乗せることに成功している。

と、今のところの感想ですが、作・演出のネライと違っていたらごめんなさい。

今回の芝居は、5人中4人が芸術家。芸術家だけだとベタベタになってしまうところにアインシュタインを配することで、うまくリズムが作れていた。
引き続き、役者陣には力がある。男の三角関係も友情も、変な色気を出さずにまっすぐ好演。
ただし、僕の観た会はトチリ多かった。この、パラドックス定数の芝居だからこそ、すなわち、完璧に紡ぎ切った時空の中でそこはかとない裂け目を 「感じさせる(立ち現わす、ではない)」芝居だからこそ、トチリでその部分だけビリッと裂けてほつれてしまうのは余りにももったいない。難しいとは思いま すが、見ていて
「たのむよ。この世界を壊さんといてくれよ」
と思ってしまった。
まぁ、客の身分で「たのむよ」ってのは生意気だが。

小屋主の「Nf3 Nf6は何ちゃら戯曲賞をしのぐ出来」といっていたのは、100%当たっているとは思わないけれど、でも、モ○ヤ氏の戯曲なら100万倍はしのいでいるな。

次回以降も大変楽しみです。

八時半 むかしここは沼だった。しろく

03/03/2007マチネ

冒頭シーンはテンションで会話を立ち上げる。お。力ある。
開始10分、説明台詞が苦しいぞ。ちょっと説明しすぎ?
ならはら電話シーン、うーん、こんなに電話で状況を自ら語ってしまう人って、いるだろうか?いるか?うーん、いや、いるかもしれない、いてもいいかも?うーん、
おい、福田役、そんなに動くか?動くか?うっとおしくないか?本当か?うーん、
あれ、この、シーンの間の人の動きは、東京タンバリンか?
後半、叫びすぎてないか?叫ばないとテンション持たないのでは主客転倒ではないか?

色々と考えながら観ました。
その後一緒に飲んだ百さん曰く「こういう劇団が日程を長くとって公演できないのが問題なんだよね」。それには全く同感である。色々あるにせよ、力 ある。一緒に飲んで文句言いたい(自分が自分で芝居始めたら、です。自分で芝居やってないやつは、正面から当たる資格無いので)芝居。

アフタートーク。一般論としては好きじゃないが、今回は前田司郎氏がゲストということで、聞く。大変面白かった。鈴江氏43歳、いまだにあがいて おられるのが分かって、ちょっと気持ちが軽くなる。とともに、さっき観た芝居の「あがき方」が、途端に好感度の高いものとして認識されてくる。

クサい芝居はしたくない。でも、「屋上でビール飲んでおしまい」じゃ、意味が無い。身体性を無視した芝居は出来ない。でも、今更アングラは無い。物語に引っ張られたくない。でも、お客さんにわかんない芝居じゃ厳しすぎる。
あぁ、みんな悩んで大きくなっている。