01/11/2009 マチネ
「大先生」クローデルの戯曲を「本場」フランスから来た演出家が演出。
非常に分かりやすい構造を持った「大先生」の寓話 - 資本家、女優、労働者、その妻 - を、「寓話の大意を伝えるべく」ご教訓噺として上演することに、いかほどの意味があるのか?
そういう「寓話の読み解き、説き語りに100%奉仕せよ」との要求に対して100点満点で応えられる俳優は、むしろ青年団でないところでたーくさん見つかるのではないかと思う。青年団の役者がこのテの演出に付き合うのは、何だか本当にもったいない。
とはいうものの、役者陣が(おそらく演出の意図に反して)そこに立とうとする意志が漏れ出す箇所も多々あって、それは楽しいというかさすがというか。マイナスから始まったものを無理矢理プラスにしようとすることを喜んでよいのか悲しむべきか。
全裸の男優、好ける素材に羽毛貼り付けた女優、というのは、正直、困る。俳優を所詮寓話の説き語りに奉仕する存在としてスルーできるのなら構わないのだろうが、「虫の眼の視線」で役者を眺めると、どうしても細部に目が行くので、困る。途中から眼鏡を外して観た。眼鏡を外しても困らなかった。「役者がそこにいること」を大事にしていない演出なんだなー、と、改めて納得した。
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