2008年6月30日月曜日

プリセタ ランナウェイ

29/06/2008 ソワレ

プリセタ、好みの芝居。40歳の男による40歳の男のための40歳の芝居。戸田昌宏と谷川昭一朗、いつ観ても面白い。もっともっと混んでても良いのにな。でも、若い人がわざわざ観に来るものでもないのかもしれない。むちゃくちゃ尖がった芝居でもないし。

というわけで、今回戸田vs谷川、たっぷりと堪能させていただいたのだが、実は、取り扱う事象が「家族の愛」だったり「親父と息子」だったりしたので、いつもよりも「情けなさ」「下らなさ」が遠慮して、クサい芝居がちょろっと顔を出して、苦しいところもあった。
後半妹の長台詞はちょっと危なかったし、あえて言うなら戸田昌宏の「目のそらし方」「目の伏せ方」も、今回はすこーししつこかったんじゃないか な、と。戸田昌宏、良い役者なのはみな分かっているので、後は、みんなが好きな「目の伏せ方」を封印した演技も逆に面白いんじゃないかと思うが、どうか。

全般に、「前回公演から間が詰まって、戯曲が練りきれなかったのか?」と思わせた。
「大雨による津波の心配」とか、微妙なギャグだかギャグじゃないんだか、みたいなものや、Like a Virgin 胸出し踊りも、前後の脈絡考えたらただのサービスシーンじゃないか、みたいなのもあって、それはそれで大変よろしいのだが。もっと情けなく、もっと同情に 値しないような中年男を描いていってくださることを、切に希望します。

アンナ・ハシモト クラリネットリサイタル

29/06/2008

極くたまにはクラシックも聴く。ま、大変お世話になった人の関係だから、というのもあるのだが。

英国でPurcell School⇒Royal Academy of Musicと王道を歩む彼女はまだ20歳前なのだけれど、2004年にバービカンで演奏した時に較べて、目に見えて音が出るようになっていた。
指は相変わらず良く動くけれど、そこに頼らず、色んな音域の音を自信を持って演奏できていたのが、大変印象に残る。緊張すると眼鏡に手をやる癖も、今回は3度しか出なかったし。

帰りの電車で、隣の席に「聞きつけている」ご夫婦が乗ってらして、ご主人が、
「難しい曲もやってたね、あれは難しいだろう。でも、そういうので、ピアノの音がクラリネットの音を喰っちゃいかん」とか、「あの曲は、良かった」とか、色々仰っていたのが勉強になった。かつ、よくよく楽しんで家路についてらっしゃる感じで、僕もちょっとだけ嬉しくなる。

僕が今後どのくらいクラシックを聴く機会があるか分からないけれど、その数少ない機会で、伸びやかな、キリキリしない音を耳に出来たのも幸せだった。

2008年6月29日日曜日

東京タンバリン 華燭

28/06/2008 ソワレ

杉山至+鴉屋の舞台は出色。この激しく使いづらい三鷹星のホールを、ここまでカッコよく見せたのは、これまで何度も見た中で、昨年のサンプルの舞台だけ、って、これも杉山が舞台美術担当していたのだけれど。いや、この舞台美術だけでもとは取りましたよ。マジで。

さて、肝心の芝居だけれど、東京タンバリンの舞台は、どうしても、「パッケージ商品として観客に差し出せる」という意識が先に立っているような気がしてならないのだ。
佐竹大先生の「大先生」ぶりっことか、馬場大先生の堂々たる「大先生」っぷりとか、飲んだくれ大場の猪口のあおり方とか、ソノコが何故出の時だけ 唄を歌っちゃうのか、とか、そういう紋切り型が、(もしかすると多少の諦めとともに)臆面もなく舞台に晒されて、まぁ、そんなものは放っておけばよいとい うのも1つの考え方なんだけど、

「話をうまくまとめる」

だけが芝居の勘所じゃないような気がするんだよね。じゃあどうしろっていうんだよ、という答を出せてないのが苦しいんだけど。

新国立劇場 混じりあうこと、消えること

28/06/2008 マチネ

芝居本編1時間半、アフタートーク1時間20分。
芝居本編は、これ、1時間半かけなくていいんでないの、1時間10分くらい?三条会なら35分?ってな具合で、若干台詞の言い方等々間延びした印象もあって、途中ちょっと眠くなったりもした。

戯曲の体裁は「前田不条理劇ワールド」。登場人物が「思わず口に出す言葉」が、それ以降の登場人物それぞれの行動を規定していく、そうやって、い きあたりばったりに物語が紡がれていく、そのプロセスが良く見えるお話だなあ、という印象。こういうの、おままごと、っていうんだろうと、自分の脳内では 「大人のおままごとワールド、顔と身体つきは大人の役者が演じてるけど、実は全員7歳児だと思って観てください」という芝居なんだろう、と思っていたら、 アフタートークで、「神話を作ろうとしてたんです」という話を聞いて、目から鱗でした。

これもアフタートークを聞いた後で腑に落ちたのだが、やはり、白井晃演出と4人の役者は、「そこで何が起きるのか」に集中し切れなかったようで、 どうしても「背後の物語」「人物の背景」がないと演じられ/演出できなかった、という印象。五反田団でなら目に付くであろう「余分な細部」とか、「あらぬ 方向に妄想スイッチを入れる仕掛け」は残念ながら観られず。要は、紋切り型を紋切り型からもう一段羽ばたかせる仕掛けは欠如。

アフタートークは白熱の1時間超、元NHKの堀尾アナ、新国の観客を1人でしょって立って、「分からない」「意味が分からない」「どういう意 味?」を連発。堀尾氏は「いわゆる観付けた観客」のpatronisingな態度までしょっちゃってるもんだから、途中で前田氏マジ切れ
「僕のことバカにしてませんか」「例えばNHKのアナウンサーの方だとそういう風に見えてしまうと思うんでしょうけど」
等々、おいおい、君の言葉そのまま新国立劇場の観客にざらついてるぞ、みたいな感じで進む。間に挟まって困る白井晃氏、その中庸ぶりが芝居の中途半端さを象徴しているようにも思えた。

パートナーにそのことを教えたら、「身を挺して前田君からピンポイントの説明を引き出そうとした堀尾アナの態度や善し」とのご託宣。うむうむ、ごもっとも。堀尾アナのお蔭で、

「演出の違いはセブンイレブンまでの行き方の道順の違いみたいなもの」
「現代の神話を作ろうと思った」
「分かることは、カテゴライズすること。あっち側とこっち側を、分けること」
「混じりあうこと、消えることは、境界を無くしていく試みであること。前田氏はアプリオリな定義づけ・条件・境界にざらついた違和感を感じていること」

等々、前田氏の重要な発言もバッチリ聞けたのだから。

前田氏は日記で曰く「司会のアナウンサーの方は東大出身に違いないと途中から勝手に思う。」
うんにゃ、それは違うぞ、前田君。東大君は、観客をしょって引き受けたりしないぞ。どっちかとゆーと、客席に隠れて独り愉しく妄想を膨らませてるぞ。

というわけで、芝居よりもアフタートークの方が面白くなってしまったのは残念だけれど、戯曲そのものはとっても大好き。是非五反田団で観てみたい。もちろん少女役は立蔵葉子、いや、中川幸子?うーん。迷う。

青年団 眠れない夜なんてない

27/06/2008 ソワレ

初日。
ここ2年くらい観てきた青年団の舞台に較べて、人の出入りを抑え、一人ひとりが受け持つ時間帯をストレッチして、その分芝居全体のうねりも大き く、力強い。それをきっちり受けて立ち、舞台上の空気を支える役者の力も充分。終演後の「打ちのめされた感」「満腹感」は、ここ最近観た中でも一番だっ た。

「いかに相手のレスポンスを無視して無理矢理話し続けられるか」は、いわゆる長台詞への平田なりの回答かもしれないし、
「台詞のとちりだか演出なんだか最後までわからない、誰も突っ込めない言い間違い」とか、
「この人は本当のことを言ってるんだかうそを言ってるんだかわからない」とか、
ナミの戯曲ではこなせない面白テーマも盛りだくさんで、それはいうなればソースの愉しみ。

放射形の広がりを意識した舞台の「すわりの悪さ」は、「上手から下手に流れる緩やかな風」という「別役舞台風水」の風の流れを分断して、それは、この芝居ではむしろ効果としてはプラスに働いていた。
役者の衣装も、これはモロにネタバレなので書かないが、「サービスシーン」てんこ盛り。

もちろん役者の技量は保証つきで、どこを観ても飽きない造りはいつものことながら、「ひらたよーこ vs 松田弘子」「山村崇子 vs 松田弘子」は、まさに、"Clash of the Titans"と呼ぶにふさわしい。それに限らず、各役者への「重心のかかり方」が今回の青年団では非常にはっきりしていたように思う。「パス回しだけ じゃないぞ」という感じが、どの役者からも骨太に伝わった。

いまや小劇場演劇の「メインストリーム」と呼ばれることもある青年団の新作だが、青年団が、「時代を軽やかに駆け抜けて」いないことははっきりと 分かる。どこに向かっているかは一観客として知るべくもないけれど、ドーンと腹に響く一歩、次にピアノが撃つコードがまるっきりコンベンショナルなところ からかけ離れている、要は、”Giant Steps”、とまあ、お後がよろしいようで。

2008年6月22日日曜日

柿喰う客 俺を縛れ!

22/06/2008 マチネ

「柿喰う客は80年代演劇より出でて80年代演劇よりも80年代演劇」

この間の流山児事務所の芝居を観て「80年代芝居の限界」みたいなことを感じていたら、なんと王子では80年代芝居の限界をこうやって取っ払ってみちゃいました、みたいな芝居をやっていた。

2時間20分、長い長い、でもおおむね飽きずに、スピードと身体の動きとノリで見せ切ってしまう。実は、中盤、1時間30分過ぎたところでちょっとペースが落ちて眠りかけたのだけれど、スタートからラストに向けて物語のラインがガッチリあるので、特にロストすることなく観続けられた。まさにメッセージ無用の80年代演劇、妙なメッセージを取り払った分を台詞・演出・役者の技量で埋めて、ここまでやっていただければ文句ありません。

オジサン的には、すし詰めのタイニイ・アリスで観た花組の悪乗りと高揚感を思い出しました。

ポストパフォーマンストークも大変面白かった。特に、中屋敷氏が、
・ 「現代口語演劇」がここ3年面白くないと感じていること。
・ 高校時代「弘前劇場」を観て育ったこと。
・ 高校演劇をしながら80年代演劇(遊眠社・第三舞台等)の戯曲・ビデオを漁りまくったこと。
・ 日本語の「七五調」の心地よさに着目していること。
うんうん、そこまで考えて、この芝居。すごく納得的。

80年代演劇の限界だと思っていたことを、青年団は「歌わない・踊らない・笑わせない」で突き抜けようとしていたのだけれど、高校時代弘前劇場を見て育った中屋敷氏は、80年代演劇の「歌って踊って笑わせる」部分はそのままとっておいて、どうやったら2000年代に突き抜けられるかをうんと考えてやっている。同時に、ポップな作りにしてあるけれど、実は、野田の芝居が日本の芝居の正統を受け継ぐものだと井上ひさしが言っていたのと同様、柿喰う客の芝居も、しっかり「日本の芝居」しているのである。

今後、中屋敷氏がこの「借り物の80年代ぽさ」を脱ぎ捨てる時が来るのか、来ないのか。大変興味深い。


それにしても、今、小劇場では現代口語演劇が主流なのか。知らなかった。
てっきり野田とか阿佐ヶ谷スパイダーズとかキャラメルボックスとかナイロンとか大人計画が主流なんだと思っていた。それともそういう人たちは「小劇場」ではないのか?
そこらへん、事情通の人に聞いてみたい。

toi あゆみ 再見

21/06/2008 ソワレ

ああ、面白い。面白い。どこを見ていても面白い。
上下ソデで出を待っていたり、歩き終わってはけていったりする姿も面白い。
初日から微妙に振り付け・小芝居をいじっていて、その違いに30秒後くらいに気がつくのも面白い。

しばらく足だけ見てたらそれも異常に面白い。あと4、5回観に行って、どれが誰の足だか区別がつくくらいにじっと観ていたい(小生足フェチではないです。念のため)。
アンダープロネートの人、オーバープロネートの人、後ろ重心の人、前のめりの人、気合台詞で足じゃんけんがチョキになる人、蹴り上げて前に出した 足の爪先がぴょこんと曲がる人、右足だけ地面を掴む人、左足だけ掴む人、細かくステップ踏む人、踏まない人。ダンスの上手そうなスキップ、ぎこちないス テップ。

観客の視線を意識的に足に集める演出は、実は、「砂、熱い」、「足、痛い」、「新幹線から電話をかけるシーンでの所在無い娘のステップ」、等々、 実は割りと限られていたのではないかと思う。だからといって今まで足に充分目をやっていなかった自分を、ちょっと呪った。ほんとうは「あるく」芝居なのだ から、もっともっと足の表情に目が行っていて当然のはずだったのに。

でも、役者陣の顔の表情、髪をいじる仕草、もじもじして指がお尻をお散歩する仕草、そういうのもずっとみていて飽きないので、なかなか足だけに集中するわけにはいかないのだ。

もしこれを、本当に身体の癖を完璧に把握していてそれを消し去ることの出来るパフォーマー達が、機械のように一糸乱れぬ動きで1時間40分演じて 見せたらどうか。それはそれで、無茶苦茶気持ち悪くて、かつ、機械の中にやっぱり「個」が噴出してきて、恐ろしいことになるかもしれない。観てみたいよう な、観たくないような。今回の役者のレベルが、柴氏の意図したレベルなのか、そうでないのか、次はどこに行くのか、等々、興味は尽きない。

ハイバイ て

21/06/2008 マチネ

「岩井一人称芝居(*)」を予想して来た観客をまんまと罠に嵌めて、しかも現代口語演劇の手練手管だけじゃなくてしっかり家族の物語なエンターテイメントだったりするぞ、というわけで、ヤラレタ!こりゃおもしろい。

(*) 「岩井一人称芝居」とは、「岩井秀人の自意識を中心に」「岩井秀人をあらわす登場人物に移入してもらうことを前提として」「岩井秀人の視点で」「岩井秀人の物語を進行させる」芝居を称して、小生が勝手に名づけたものです。

視点のズレトリックだけで見せてるんじゃないぞ、というのが、次男坊の友人や長女のムコの使い方で、彼ら2人の存在が芝居のフォーカスが複数視点で分解されちゃうのを防いでキュッとネジを締めていた。

戯曲の話とは別に、また、どうやったら、「場として成立していないこと」を「舞台上の場として成立させる」のか、という課題もあって、そういう企みをきちんと舞台に載せるためには、もちろん役者の技量がしっかりとしてなくてはならなくて、その辺りも、猪俣氏初めとする役者陣、すばらしい。わたくしメ的には永井若葉さん素敵で素敵で仕様がないが。

芝居がはねて劇場の外に出ようとしてると、やたら興奮してお友達にまくしたててるオジサンが一人いて、よーく見ると東京芸術劇場の高萩氏でした。そりゃそうでしょうとも。とっても面白いよ。今回のハイバイは。

2008年6月21日土曜日

Hana no Michi II @東京日仏学院

20/06/2008 ソワレ

結構疲れていたので、僕の頭が変だったのかもしれないけれど、変なパフォーマンスだった。

通常は、
・ 役者が舞台上でテクストを発声する
・ 観客はそのテクストを聴き取る。意味を考えたり、時には、声質や音程や他の役者とのからみを「音をmass(質量のあるもの)として聞いたり」する
・ で、観客は、「役者が何を言ってるかわかんない」とか「意味がわかんない」とか「新聞の朗読みたい」とか「クサい」とか「気持ちが伝わってきて良かった」とか「魂を揺さぶられた」とか、色々勝手なことを言う
ということが劇場では起きるはずなのだけれど、エスパス・イマージュで僕に起きたことは、

・ 発声される、もしくはスピーカーから流れてくるテクストは、ほぼ耳を素通り。逆に、バックグラウンドのノイズのように、全体の雰囲気を規程するように働いていた
・ その一方で、プロジェクターで投影されるイメージは、布団の上でリモコンをいじったり、寝返り打ったり、騒いだり、飛んだり跳ねたり、笑ったり、と、むしろ、テクスト以上に雄弁に物語のきっかけを観客に与えているように取れた。
・ また、壁や舞台面に書き付けられるテクスト(文字)達は、そこに付着することによって、聞き流される・見過ごされることを拒否し、その場に踏みとどまろうとしているのだった。
・ じゃあ、舞台上の役者には何が起きているかというと、文字を書き付けたり、プロジェクターに投影された影絵の黒子であったり、なんだか、「私を見て!」的な動きはしていないぞ、と。

自分なりにまとめてみれば、通常は前景にあるはずの役者+テクストが、まさに発声されるテクストであるがために後景へと退いて、代わりに、普段は舞台の上で大きな顔をしていないもの(「文字」とか)がうじゃうじゃと湧き出してきたような印象だった。そういう面白がり方は、おそらく演出家の本意ではない気もするが。

それはそれで(僕にとっては)良いのかもしれないけれど、7月の「ハナノミチ」パフォーマンスで、もしテクストがもっと「伝わる」ように演出が変わっていったら、それは僕にとっては面白くないのかもしれない。

toi あゆみ

18/06/2008 ソワレ

初日。
黒子衣装の女優10人が歩んでみせる女の一生。ベタな物語に白黒の舞台なのだけれど、観終わってみると、凄く沢山の色付けが各シーンでされていることに気がつく。

ベタな物語であっても、シンプルな舞台であっても、その中から溢れてくる役者の「個」を観る喜び、そして、随所に出てくるすっごく個別の要素をきっかけとして自分の物語/妄想/想像のスイッチを入れる喜び。僕が芝居を観る喜びのツボにはまった芝居である。

芝居がはねた後、結構興奮して色んなことを喋り散らしていた気もするが・・・例えば、柴演出のファシズムと演出のデモクラシーについて(何のこっちゃ)、100人市民演劇構想、東京デスロックにおける山本雅幸の脛毛・・・今となっては自分でもその脈絡は不明だ。

で、どんな芝居なの?と聞かれたら、やっぱり分かりにくい喩えだが、ロンドンのアパートから見えた、ヒースローを離陸する旅客機みたいな話だ、と言おう。
僕の昔住んでたアパートの窓からは、ヒースローをきっちり40秒ごとに離陸する飛行機達が、左前方の木のこずえから、右の窓枠上方へと斜めに視界を横切っていくのが良く見えた。
一機目が窓枠左からゆっくりと右上方へと、僕の視界を横切っていく。
飛行機の尻尾が隠れる頃、今度は、左側、同じ木のこずえから、ほぼ同じ位置・角度・速さで次の旅客機が現われる。右へと横切る。
それが消えかける頃、次の飛行機が・・・
ぴたっと同じ動きを繰り返していくのだけれど、それは、スイス航空だったり、全日空だったり、ノースウエストだったり、そして、同じコースをそこでは辿っていくのに、じつは僕から見えないところで世界中の色んな場所に分かれて飛んでいくのだろう。なんだか不思議な気がして、見ていて飽きなかった。
この「あゆみ」も、おんなじくらい、いや、それ以上に、いくら見ていても飽きない芝居です。

<以下、ネタバレ気味に>

歩くペースであゆみの人生を辿っていって、山登りでスピードが遅くなる。すると、先読みする観客の常として、
「あ、終わりに差し掛かってきた。いつ、歩みが止まるのだろうか?」
というドキドキ感が高まる。
で、「立蔵葉子が止まった!」と思った瞬間に、それまで抑えたスピードに蓋をされていたものが舞台上にぶわーっと弾けて出てきて、思わず涙が出た。
そこで一回緩めておいて、その後はゆるーくふわふわと流していく緩急良し。

照明は工夫の余地有り。2人並んで歩く時、奥側の人の顔がくらーく見えちゃったのはもったいなかった。

2008年6月17日火曜日

消防士さんは子供の憧れ

通勤時に、会社近くの消防署から消防自動車が二台出て行くところだった。
今朝初めて気がついたのだが、消防自動車は、全身に意志を漲らせている。
「火事があったら、消しますよ」
という強い意志。余計なスペックは不要である。

火事で出動している訳ではないので2台揃って信号待ちしているところに、向こうから道を曲がって小学生の兄妹、登場。
2人ともじーっと消防自動車を見ながら、こっちに歩いてきたが、
ちょうど、消防自動車が発進するのと同じタイミングで、
兄、消防自動車のホースに「ぴとっ」と触ってみせた。

あぶねーよ、おまえ。でも、その触ってみる気持ち、痛いほど分かるよ。

イギリスで、消防自動車を見物に行って消防自動車に轢かれて死ぬ子供が結構いるっていうのも、とっても良く分かったよ。

2008年6月16日月曜日

流山児事務所 双葉のレッスン

16/06/2008 ソワレ

ごまのはえ氏のニットキャップシアター、彼岸の魚という芝居を1年くらい前に観て、なんだか80年代っぽい芝居だなー、もうちょっと突っ込んで書 ける人なんじゃないかなー、と思っていたのだが、何と今回、すっごく良く書けた台本で、さすがに作者のごまのはえ氏、天野天街・流山児祥の両氏に五度も書 き直させられただけの事はある。

前半の繰り返しパートのドライブ感、ズラしを入れながらの後半への加速感はなんとも観ていて心地よく、観客が「種明かしに向けたヒント」を見つけ に走らないよう、エンターテイニングに、テンポ良く進む。このテンポは2年前に早稲田で同じく天野演出の芝居を観た時と同様で、ああ、これが天野節なの か、と思ったりもする。

そういうわけで、後半に差し掛かるまで、悪い意味ではなくて、「80年代演劇との幸福な再会」な感じがしていたのである。正直、それだけでも、この芝居、観る価値はあると思う。

でも、最後になって、このわけの分からない話の風呂敷を、何と、畳んで、オチをつけてしまったのは、とても残念。これだけしつこくめくるめく不条 理な繰り返しを見せ付けているのだから、そこから物語を妄想する作業と勝手なオチをつける作業は、客に任せてほしかった。メッセージは要らない。ただた だ、役者が舞台上をぐるぐると巡り続けるだけで、スッごく強力な、まさに「演劇でしか出来ない」舞台になっていたのじゃないかと、思ってしまった。
そこらへんが、実は、80年代に僕が観ていた芝居に感じていた限界と妙に重なって、懐かしいというか、惜しいというか。

中野成樹+フランケンズ 夜明け前後

15/06/2008 マチネ

フランケンズ、初見。
「誤意訳」というのだから、翻訳劇っぽくないのだろう、現代口語っぽい日本語訳とはどういうものなのだろう、という興味があったのだけれど、幕 前、福田氏(だったっけ?)が「割とストレートに訳して」と言っていた通り、というか、原文読む前に額面どおりに受け取っていいのか知らないが、壊れきっ た日本語訳ではなかったと思う。

ただ、その辺の、「100%現代口語に持ってきてないんだよ~」というような引っ掛かりが、面白かった。
「こんな風にしゃべるやつなんていねーよ」的な突っ込みを入れるよりも、
「こんな風に日本語喋るやつって、どうなんだろう」的な興味の入り方。

誤意訳部分と下西氏書き下ろしの前日譚と、どことなく「リズム」というか「うねり」が違っていて、それもまた、面白い。

「短々とした仕事」だけあって、淡々と始まり、淡々と終わったが、こういう、昆布茶みたいな芝居が観られる環境にいることは、われながら幸せだと 思う。本当はおじさんには気がつかないような毒が入ってるのかもしれないが、湯のみ一杯では「あれ?ピリッときた?」位のことである。

昆布茶なので、終演後ホーンがパラパーーッと鳴り響く必要は無いと思ったが、石塚レイ氏の当パンの文章とっても面白くて、曲も面白かったので、それも良し。楽しかった。乾電池の月末劇場じゃないけど、木曜の夜の会社帰りに寄って行きたい芝居かな。

2008年6月15日日曜日

SPAC 鳥の劇場 剣を鍛える話

14/06/2008 ソワレ

物語と舞台芸術の幸福な結合。劇場・観客・天候・魯迅・音響・役者の動き・語り、全てが何を足しても何を引いてもこうはならなかっただろう、とでもいうかのように結びついて、素晴しいステージだった。

糸を紡ぎながら・洗濯しながら・炊事をしながら、子に物語をする母親。酒を飲みながら物語を「読む」親爺。物語られる登場人物たち。観客はそれらを見比べながら、自分の立ち位置を確認しつつ、いつしか物語の中に引き込まれるのだが、その引き込み方の巧みさは、素材の選び方と場の設定の仕方に多くを負っている。

「語られている物語の舞台は、多分、中国なのだろう。でも、おおきみ、って、どこの言い回しだ?」というのと、「語られている現場として提示されている場所は、おそらく、日本なのだろう。でも、一体、いつの時代だ?」という、2つの引っ掛かりが全体に覆いかぶさって、それが、物語提示型舞台にありがちな「突っ込みたくなるポイント」をうまーく回収していく。

例えば、語りの中で、現代口語演劇なら「多分」というところ、「おそらく」という言葉が発せられると、普通は、「あぁ、翻訳劇、っぽい」と思うのだけれど、それが、①魯迅の語りだからか、②中国の語りだからか、③母親の口伝だからか、と思ううちに、スーッとどこかに回収されて、逆に物語世界に引き込まれていく。斬られた首が舞う場面も、奇術師がメガネをかけ巨大な蝶ネクタイを締めているのも、全体の物語の構造の中できっちり成立していた。

凄く乱暴に言うと、作・演出の意図は、物語を語られるあの気持ちよさの再現にあると思われた。耳から入った情報をもとに子供が織り上げる妄想・想像の世界をどうやって舞台に載せるか。しかも、ここの観客の想像力に出来るだけ多くを委ねながら。そういう、ちょっと考えると、自分の個人的な気持ちよさにとどめておいて共有を諦めてしまいたくなる様な難しい連立方程式を、こうしてすんなりと舞台に載せてしまった手管に、素直に脱帽した。

加えて、魯迅の物語→語り手の物語→舞台を観る観客の物語 の入れ子構造の中に、図らずも、あるいは、測ったの如くにカラフルなノイズが埋め込まれて、まるで魯迅の物語の朗読をSP盤78回転で、戦前に耳を澄まして聞いた子供達のことを想像しながら聴いている、そういう気分にもなった。幸せな場だった。

作・演出の中島氏は、実は彼の大学時代から知っていて、だけれども一緒に芝居することもなく、また、留年の回数の多寡もあって卒業年次も異なり、20年近く彼の居場所について全く知らなかった。そういう人の芝居を観るのは、「気に入らなかったらどうしよう」というネガティブなドキドキ感が付きまとう(自分が現代口語演劇に入れ込んでいれば尚の事である)のだが、いや、身内びいきじゃないが(身内というほど近しくもないのだが)、素晴しい仕事である。素晴しい。という思いとともに、自分の過去20年を思って自責の念を感じないでもない。クヤシイ!それが、新宿に向かうバスに乗り込む直前、僕の頭の中に詰まっていた単語です。

SPAC ハビマ国立劇場・カメリ劇場 アンティゴネ

14/06/2008 マチネ

悲劇とは、「神の掟」と「人の掟」の狭間に投げ込まれ、破滅への道筋を辿らなければならないことに自覚的でありながらなお破滅へと突き進む一人間が、そこで逡巡しつつも立ち止まることが出来ない、その内面のジレンマにこそ存在する、と、このプロダクションを観て学んだ。

この素晴しいプロダクションの中で、悲劇を背負うのはクレオンである。そして、立ち位置を右に左に揺らしながらテーバイの破滅を見届けなければならない退役軍人たち(コロスたち)である。

物語をドライブするのはもちろんアンティゴネである。ただし、彼女が「人の掟」に逆らい「神の掟」を選び取ることは、「悲劇的」ではない。少なく とも彼女はこのプロダクションでは、(最後の最後、感情にとらわれかけるその一瞬を除いては)、ただの感情に流されて聞き耳を持たない人であるかのように 描かれており、クレオンにとっては、自分が悲劇的状況に陥るきっかけを作った困った人であり、テーバイの市民にとっては、自らの運命を方向付ける(だがし かしその運命はどうやら自分達に都合が良くないものになりそうだ)新たなスフィンクスである。
ハイモンもまた、父に妥協を請い、最後には恋人とともに死ぬわけだから、その物語は充分表面上「悲劇的」なのだけれど、恋に生き、恋に死ぬその物語は、「神の掟」と「人の掟」の拮抗の1つの帰結ではあっても、悲劇的ではない。

クレオンの悲劇は、アンティゴネが最初に捕らえられてきたのを発見した際の驚きと戸惑いと、あの、「困ったことになった」という表情に集約されて おり、そこが、小生にとってのこの芝居の「臍」であった。そこにおいてクレオンは、今まさに自分が悲劇的状況に投げ込まれ、運命のレールをくだり始めたこ とを知る。後は運命のみぞ知る。

そのクレオンの運命を横目で見るテーバイの市民達もまた、運命の虜である。市民はアンティゴネに同情しさえすれ、クレオンの掟を進んで破ろうとは しない。その意味で、知恵と歴史がそのジャケットの中に詰め込まれた退役軍人たちは、オーウェルの動物農場に出てくるロバを思い出させる。

クレオンもテーバイの市民達も観客も、「神の掟」に逆らうことが破滅への一本道であることにはとうに気がついている。何となれば、舞台奥の壁の上には英語とヘブライ語で、
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
と大書してあるではないか。それに充分自覚的でありながら、なおかつここの意思決定において「人の掟」を選び取らざるを得ないクレオンのジレンマ こそ、すぐれて「アンティゴネ」の現代的テーマなのであり、その一点において、観客はクレオンに、はたまた舞台上の退役軍人たちに、感情移入することが出 来る。

このプロダクションには、2006年の第二次レバノン紛争に触発された部分が大きい、と演出のスニル氏は語った。2006年の最終的な停戦では、 シーア派武装勢力ヒズボラが「勝利宣言」を出す一方で、イスラエル側は当初作戦に失敗し、時の政権が政治的・外交的ダメージを受ける結果となっている。
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
イスラエル政府はその傲慢さゆえに作戦に失敗し、ヒズボラに外交的勝利を収めさせてしまったのだろうか。そしてそのことが1つの悲劇としてこのプ ロダクションを触発したのだろうか?いや、そんな表層的な類似だけで、このプロダクションがここまで力強いものとなったとはとても思えない。

もしもソフォクレスの悲劇がイスラエル・レバノン紛争と通底するものを持ち、また、より普遍的な現代への力強いインプリケーションを持つとすれ ば、それは、破滅へと繋がりかねない状況に放り込まれていることに充分自覚的でありながら、なお、いくさを続けるという選択肢を選び取らざるを得ないイス ラエル政府/軍の指導者のジレンマが、そしてその選択肢に必ずしも100%同意できずとも、積極的に「否」という選択肢もありえないイスラエル国民のジレ ンマが、まさに、運命に虜われた状況として、悲劇的だからである。

アンティゴネが「神の掟」を選び取って死に至り、「神の掟」を退けたクレオンとテーバイを滅ぼしたのに対し、現在の中東では、「神」を前面に出す者達が両陣営において破滅へと繋がりかねない選択肢を強く推している状況には、一種の皮肉を感じる。

もちろん、この芝居が戦火の中東でのみ成立する悲劇であると結論付けるのは早計に過ぎる。例えば、静岡の舞台上に載っているのが、勲章をつけた後 期高齢者のコロスたち、老人への手厚い福祉を訴えるアンティゴネと、財政再建・福祉充実のジレンマに喘ぐクレオン・政権与党の姿だ、と考えてみても構わな いだろう。重要なのは、このプロダクションが、「悲劇的であること」を大きな物語から引き離し、個人レベルに落とし込んで見せたこと、それによって観客 は、一個人から始まって、自由な大きな物語を逆に編み上げていく自由を与えられた、ということである。芝居における普遍はとことん個に拘ることから生じる ことの、素晴しい一例だと思う。

2008年6月9日月曜日

南河内万歳一座 ジャングル

08/06/2008 マチネ(千穐楽)

相変わらず巧拙渦巻く舞台上、下手だの無理があるだのと言わば言え、誰が何と言おうと1時間30分押し切るぞ、という気合に免じて(いや、免じなくとも)言おう。 おもしろかった。

何と言おうか、餃子を包むちっちゃなちっちゃな手付きの丁寧さ、スーパー巡り3人組の「何もここまで作らんでも」な作りこみ方と、相撲からラスト になだれ込んでいくあのぞんざいさが、どうやったら同じ芝居の中に共存できるのか。ひょっとしたら、実は、何も考えてないだけなんじゃないか。

80年代に置いてきたはずの「あの」こっ恥ずかしい立ち回りやギャグやリリシズムや三人組やなんやかやを、そのままリヤカーに乗っけて、そのリヤカーを肩に担いで全力で走っている、そんな印象の芝居である。半年に一回くらい、本当に観たくなってしまう類の芝居だ。

toi "あゆみ" 稽古場再襲撃

08/06/2008
再び toi の稽古にお邪魔した。
夕方お邪魔して結局稽古が終わるまで、延々、正味4時間稽古場に居座っていたが、全く飽きない。大変幸せな時間を過ごさせていただいた。

お暇した後も、実は芝居のことをずーっと考えていて、ちょっと興奮が醒めない部分もあったのだが、これ以上引っ張ると忘れるので、取り急ぎ書き留める。

・ まず、稽古が進んだ結果だと思うが、役者が保っている緊張感のレベルが明らかに上がっていた。もちろん、力が入っているというわけではなく て。前は手を抜いていた、というわけでもなくて。まずはそれが良い。「あゆみ」は、スッごく役者に負担がかかる芝居だと思う。役者、頑張っている。
・ 端田さんのシーン、稽古だというのに、涙が出てきちゃったよ。
・ 野上さんがサジェストした新しいシーン、素晴しい。身をよじって笑った。こんなにも「個」がくっきりと見えて、しかもそれが、ややもすると紋 切り型に落ち込みそうなところからハジけて出てくるのが、どうにも観ていて楽しいから。それを苦もなく軽やかに拾い上げる野上さんの才能恐るべし。
・ まだまだこまか~いところまで、本当に飽きずにいくらでも観ていられたし、いくらでも面白ポイント列挙できるんだが、ネタバレになるのもなんなので、これくらいで止める。

だが、本当は、24時間ずっと考えていたのは、演出柴氏の発言2つで(不正確だったら柴氏に申し訳ないが):
① 青年団って、個別のシーンをそれぞれ稽古して、いきなり通したり、するじゃないですか。「あゆみ」はそれができないんですよね。
② 「あゆみ」を観ている観客が、そこから好きなように妄想/想像を巡らし、物語を創り出せるようにしてあげることが目標。

むむむ。②の発言にはシビれた。なぜなら、それは僕が観客として芝居の創り手にもっとも求めている態度ドンピシャだったからです。ウソだと思ったらこれを読んで下さい。たぶん似たようなことを言っている(つもりだった):
http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2007/10/love3.html

また、こういうことも考えた:
A 物語を紡ぐ上で、「タイムラインを繋ぐ」作業は、暗転やシーン転換の中で、観客が(少なくともフラッシュバックとかを多少は経験している観客 が)割と自由に行える作業である。つまり、演じている側は、タイムラインの操作をある程度客に任せちゃっても、芝居は成立する。けだし、柴氏の①発言。
B. 一方、「あゆみ」の役者は、集団として、「集中を切らさない」こと、「タイムキープし続けること」を求められていて、これはしんどい。 だって、観客が内面でタイムラインを勝手に処理してくれていた材料を、剥ぎとって、その代りに、タイムラインを一本通す作業が全部役者に押し付けられてい るからです。
C. しかも、そのタイムラインは、途切れちゃいけないのに、時々ワープする。一幕もの芝居のタイムラインと訳が違う。
D. で、その上に乗っかって、柴氏は、「観客に身を乗り出してみてもらう。勝手に物語への想像を膨らませてもらう」と言ってる訳で(上記②)、 これは、常日頃、ディスクリートなシーンの中で妄想スイッチを探して血眼になっている小生のような観客にとっては、堪えられない新たな挑戦である。妄想/ 想像がとんでもない膨らみ方をするのではないか、と期待が大きくなる。

本番、ちょっと、とんでもないことになりそうな予感がする。

あ、それと、柴氏の演出家としての解像度の高さ+同時に広角で捉えることのできる能力に素直に感服。と同時に、前日に見たブラジルから来た芝居の 解像度の低さと、それだからこその力強さ(というか、適当なことの強み)を比べざるを得なかったのも本当で、そうすると、本番どういう解像度の芝居になる のか、それも楽しみだ。

てなことをここまで文章にするのに24時間かかって、かつ、後で読み返して意味を成すかも自信がない。自分の脳力・考える体力・キレがあからさまに低下しているのを感じる。
自分に残された時間は本当に少ない。 焦る。

あ、そうそう。というわけで、toiの「あゆみ」、本当にお奨めです。僕は4時間観てても飽きませんでした。アゴラで1時間30分、飽きる訳がない。
http://toizuqnz.exblog.jp/

2008年6月8日日曜日

SPAC かもめ・・・プレイ

07/06/2008 ソワレ

新宿西口からバスで3時間、静岡は舞台芸術公園まで日帰りで往復。ブラジルからやって来た「かもめ」+会場前のブラジル料理屋台。言った甲斐はと問われれば、楽しかった、と答えよう。でも、魂を揺さぶられたりするような経験とまではならなかった。

一番印象に残ったのは役者達の余裕、緩さ、それに伴う強さ。開場すると既に稽古場に見立てた舞台上に役者達がいて、そこから観客席をぐるりと見回す余裕にまずは恐れ入る。

この、「稽古場」という状況設定はなかなかイカしていて、
・ 「かもめ」そのものがそもそも劇中劇を持っているので、稽古場を入れると全体の入れ子が「劇中劇中劇」にできる。その行き来が、単純に面白い。
・ クサい芝居に入り込んだ役者を、他の役者がニヤニヤして眺めていることが出来る。役者が「演じる」あるいは「演じることを演じる」ことに対する抑止力が、芝居の構造の中に用意されている。
・ 役柄を固定しなくて良い。1人3役、3人1役、その辺りをゆるーく組みまわすことが出来る。役者の身体をテクストに縛らなくても、場として成立させることが可能になる。

そうやって、舞台の上に色々なズレを生じさせようとしていたように思われる。
そういう問題意識は、おそらく、日本の現代演劇にも共通のものだと想像された。

ドライヤー=銃、トマト=脳味噌、盆栽=ヘルメット=かもめ、杖=骨、といった見立てのオンパレードは勿論楽しいし、ラジコンヘリコプターやマックを使ったプロジェクター等、ガジェットもたっぷり。そういう遊びの要素がふんだんに織り込まれているのも楽しくて、観客を惹きつける。

何だけれど、そういうガジェットものの使用や、「役者」がテレビの仕事について話したりするくだりは、どうも、「かもめを現代に近づけて解釈してみよう」というありきたりな試みと紙一重で、これに、ラスト近く、
「あ、これ、役に入れ込んじゃってるよ」
と思わせる部分と重なると、ちょっと苦しい、というか、折角の「クサくならないために嵌められたフレーム」に台無し感あり。やはり、ぐっと入ってはいけないのだ。

なので、最後まで見通した印象は、この芝居、(陳腐な物言いで恐縮ながら)脱構築ではなく、再構築に近いな、ということである。おんなじことを日本の若い演出家が思いついていたら、もっと過激でシャープな芝居になっていたのではないかと思われた。

一方で、そこら辺の緩さが強みなのかもしれない、という印象もある。これくらいの緩いつくりだからこそ、本番中に客席が壊れたり、舞台袖に入って行っちゃうお客さんがいたり、大きな蛾が舞台を横切ったり、観客席でフラッシュたいたり携帯を耳に当てたりしてても、芝居が壊れることなく最後までグルーブできちゃうのだろう。

同じ問題意識を持っていても、方法論だけで突っ走るのではなく、うまくゆるく組み立てることで、より広い観客を惹きつけながら芝居の醍醐味を味わえる舞台に仕上げることが出来るってことか・・・うーん、なんだかお勉強みたいになってしまった。

乞局 杭抗

06/06/2008 ソワレ

これが、予想に反して、つまんなかったんである。出演者をはじめ多くの方が気を悪くするかもしれないが、つまんなかったんである。そして、この乞 局という劇団、作・演出・役者・舞台美術、全てにおいて力がある劇団だと思っているだけに(今も思っているだけに)、余計に、残念なのである。

「媚励」を観たときには「これを面白いと思えないのは向き・不向きのせいではないか」と思ったのだが、今回観て、つまんなかったのは「向き・不向き」のせいではなかったと思い始めている。

端的に言えば、
「居心地の悪い状況にいること対して、役者がちっとも居心地悪そうでない、むしろ安住している」
のがとてもつまんなかったのだ。

人を殺しても、殴っても、強姦しても、精液飲んでも、訳の分かんない叫び声挙げても、別にいいんだけど、
「観客さん、観ていて居心地悪いでしょ?」
と親切に記号で見せてもらっても、ちっとも居心地悪くならない。
いや、悪くなるか。「はい、居心地悪くなってください」という押し付けに対して。

僕がワクワクするのは、状況が異常であれ日常であれ、そこに居心地の悪さが、あるいは、裂け目が、出てくる瞬間で、それは、役者がどれだけ舞台に立っていること、この世にいること、等々に対して居心地の悪さを自覚しているかに拠っていると思うのだ。

1つ例を引くと、木引優子、「陰漏」ではとっても普通で異常で観ていて気持ちよかったのに、今回は変な人の記号だった。その差、一事が万事。それが、「陰漏」が面白くて「杭抗」がつまんないポイントです。僕にとっては。

2008年6月2日月曜日

あなざーわーくすワークショップ

今年3月、大阪でのあなざ事情団の家族ぐるみワークショップに引き続き、あなざーわーくすのワークショップ3回目の参加。はっきり言って、はまっている。わたなべなおこ氏はヨガにはまっているらしいが、小生も3ヶ月の間に3回ワークショップ受けているのだから、はまっているといっても差し支えない。

会場が練馬区春日町。僕は学生時代4年間春日町に住んでいたので、一個手前の駅で降りて、かつて住んでいたアパート経由で現地まで歩いた。住んでいたアパートは表札も変わっていて、なんだか、事務所兼社宅みたいな風情であった。夜勤のバイトをしていた「都内で最も儲かっていないファミリーマート(当時)」のあったところにはトイザラスが建っていた。

ワークショップは、もちろん、今回も楽しかった。あっという間の3時間。
同じグループの人にやたらめったら現代口語演劇の人がいて、「いつもどんな芝居をしてらっしゃるんですか?」と聞いたら、ハイバイの方でした。すみません。会ってすぐ気がつくべきでした...とか、桃唄309の方もいたり、とか、小生、かなり勝手に興奮していた、と思う。他の参加者の方々には申し訳なかったかも。

現代口語演劇を楽しむ/楽しんでもらうための1つの鍵は、「どうやって舞台の上で起こっていることに対して細部にわたるまで興味を持ってもらうか」ということにあると、常々思っているのだけれど、そうやって「観客の気を引く」ことに対する後ろめたさもあったり、逆に「難しいことは悪いことではない」と開き直っちゃったりすることもあって、なかなか、愛される芝居に仕上がらなかったりする。

あなざーわーくすの参加型演劇は、とにかく観客に楽しんでもらう、という軸がぶれないので、少なくとも、赤ん坊から中学生からお年寄まで、細部はともかくとして「舞台の上で起こっている事に対して前のめりになって興味を持ってもらう」ことにはかなり成功している。パフォーマーが投げかけたことに対して反応してもらうこと。現代口語演劇も、パフォームされている「場」が投げかけたことに対して、思いっきり想像力のスイッチを入れて観てほしい、と思っているはずなんだよな。

そこら辺の秘密、今回こそ盗みたいと思っていたのだけれど、ワークショップ開始10分で冷静さをなくした。

ふと思い返すと、やっぱり自分はダメであると、もっと周りが見えていないと、そして空気をキャッチできなくってどうしようもない、だめだだめだだめだーーーーー、と、前回に引き続き何ともいえぬ自己嫌悪に陥ってしまった。次回こそは。と思う。芝居脳味噌の柔軟体操、芝居やる人にも観る人にも、芝居に触れたことのない人にも、みーんなにお奨めです。

マチルドハイタワー

01/06/2008 マチネ

1時間、退屈した。
動きを少なく、台詞も絞ったところで、空いたところに観客の想像力は果たして働いていただろうか?僕はどうしてもそこが埋められなかったし、想像力のスイッチは入らなかった。
どこかのギャラリーで、観客が自分達のおしゃべりをしたり出入りしたりするのを許される仕掛けであれば、このスカスカさに耐えられるだろうけれど、でも、一応、音の出る機器の電源を切って、その場にじっとして、「待っている」のだから、それには応えてほしかった。

なーんてことを考えていたら、申し訳ないが、何度か、落ちた。特に、出の直後、はけの直前。人が入れ替わるところ。われながらショック。

何で眠たくなるのか、何でだろう、それを必死で考えだしたのだが、あ、そうだ、出はけと「雰囲気を変えたいとき」にかかる、この、「雰囲気を規定 するための」音楽がありきたりだからだ、と気がついた。そうだ、だから、僕はもうちょっと、この舞台に対して腹を立てても良いのではないだろうか、と、俄 然目がさえてきたところで、終演。

2008年6月1日日曜日

龍昇企画 夫婦善哉

31/05/2008 ソワレ

うーむ。期待が大きすぎたかも。
平田戯曲、演出次第で良くも悪くもなりうるという、残念な方の結果になってしまった。

なんだか、龍さんが舞台上で窮屈に感じている気がした。本当はもっと力を抜きたいのに、と。1月の劇研の「隣にいても一人」の時と較べるとなおさらだ。

「隣」といえば、それもやっぱり離婚と子供を巡る話だったが、「隣」の方が戯曲としてもより力の抜けた、こなれた感じになっていたと思う。逆に言うと、夫婦善哉の方がより「余地の少ない」厳しい戯曲になっていて、その分、演技の違和感は際立つ。

一番気になったのは、実は、「女優がちょこを口へ運ぶ時の顔のしかめ方が、テレビドラマみたいだったこと」である。一度気になりだすと、その後は、「舞台上のどこに目をやって観ればよいのか」をひたすら探し続ける1時間半。ちと辛かった。

料理の匂い、よし。質感も良し。回り舞台、よし。でも客に殊更に見せる必要はなし。

芝居中にパンフレットを読む客、ロボコン零点。こんな静かな芝居でチラシの束をガサガサさせるのは他の観客+役者に対して無礼だ。あと、貧乏ゆすりも。
もしかすると、そういうので僕も必要以上にささくれ立っていたのかもしれない。

上演権切れるということだが、是非是非次回も、龍さんの演技で、もっとタイトな演出で観てみたい。

文学座 風のつめたき櫻かな

31/05/2008 マチネ

平田戯曲は割と余地を残さないように書いてあって、調子っぱずれの演出が入ると本当に救いようの無い芝居に仕上がってしまう。平田戯曲に限らず 「現代口語演劇」系の戯曲に思いっきり新劇な演出がついてぶち壊し、という例は、小生が幸いにも目にしていない例も含め、枚挙に暇が無いものと予想され る。今回も、今だから言えるが、それをちょっと心配していた。

僕は戌井演出の芝居を観るのは初めてだが、今年の初め、青年団若手の「革命日記」を観に、春風舎にいらしてたのを目撃した時はちょっと衝撃だっ た。90を超えたおじいさんが、春風舎の螺旋階段を下りて、青年団の「若手公演」を観に行くのだから。その筋に長けた老人は何と恐るべき貪欲さを備えてい ることよ、と、その時は思っていて、だから、今回の芝居、その点は、逆にとっても楽しみだったのである。

して、その結果はといえば、作者と演出家がお互いに敬意をもって芝居作りに臨んだことが全体から窺われる、幸せな、末永く愛されるべき舞台が出来上がっていた。

平田戯曲は「新劇のベテランによって演じられること」を前提に、そのプラスマイナスを計算に入れて書かれているという印象だった(例えば、台詞の 長さ、おそらくト書きの指定、等々)。一方戌井演出の方には、平田が用意した「長台詞聞かせどころポイント」「泣かせポイント」を、どうしたら従来の新劇 の観客層にきちんと伝えつつ、そこで流れを止めないようにするか、に腐心した形跡が見えた。と思う。役者もその要求にうま~く応えていた。

戯曲は、久保田万太郎を下敷きにしながら(未読だが、そう言っているので)、花郎+さよならだけが人生か+光の都(チャンピオン)、の組み合わせ。
文具屋の市山は、実は市沢文具店である。喫茶ラインは、実はイーグルである。ラインというのは散髪屋の名前である。金物屋とパン屋は、実は同じお 店でかどやと呼ばれている。電気屋は東○電気である。宵町商店街のおじさんたちは、きっと、高校野球トトカルチョで一斉にしょっ引かれたり(誰か身内にち くるヤツがいたから)、酔っ払って「宵町商店街は、負け犬だぁ」と叫んでみたり、そういう人たちである。そんなことを考えて観た。平田は下町っ子ではない けれど、東京地元っ子であることは間違いない。

1つ気になったのは、太一が「わかさぎの甘露煮と土浦の蓮根」という台詞を言った時に、客席から、「ツチウラのレンコン!?」という、ものすごい 反応が起きたこと。いやいや、そういう、僕なら100%スルーしてしまうような台詞に反応が出るというのには、スッごく驚いた。きっと、その台詞にものす ごいリアリティ(いや、もしかすると違和感)を感じた観客がいたわけである。
後で調べたら、土浦は、日本一の蓮根の産地だそうだ。なるへそ。

やっぱり大方の泣かせポイントでは泣けなかったけど、最初に桜の花びらがカウンターに乗っかっているシーンでは、ちょっと、来た。単純な仕掛けだけど、そういうのが良い。坂口さん、トレンチコートで出てくるとき、実はその中に、「わたしは、櫻の精よ、うふ」っていうような、ジュディオング張りの桜色フリフリドレスを着込んでいたのではないかと思わせる。そんな遊び方(遊んでいるな、という思わせ方)も、僕には丁度よい塩梅だった。

気持ちよい舞台だった。