2009年6月29日月曜日

SPAC ふたりの女

27/06/2009 ソワレ

こら、静岡に来てるオランダ人、フランス人どもよ、これが日本のフィジカルシアターの伝統を、歌舞伎⇒赤テント⇒遊眠社⇒と受け継いできたところの、ニッポン現代演劇の現在形だぞ、めぇかっぽじって見てろよ!
といいたくなる、幸せな舞台だった。

冒頭でてくるコートの男は、唐戯曲だけあって「田口」さんかと思ったがはずれ。が、むむむ、この男対女、この女の人の微妙な頭のネジの外れ方と一人二役は、きっと、緑魔子様だったに違いない、そうするとコートの男は石橋蓮司さんか、と思いながら観た(後で解説読んだら見事当たり!)。

でも、そういう懐かしさにこの舞台の心地よさがあるんじゃなくて、唐さんの力強い戯曲を、きちんと宮城演出で静岡にのっけているというのが素晴しい。

「唐さんみたいに」「第七病棟みたいに」じゃなくて、こんな風に、宮城さん風に、でも奇をてらわずに、唐戯曲を舞台に載せてみせる力と敬意とに、本当、おそれいった。もしかすると、この戯曲の原型が「源氏」にあったために宮城さんとしては「やり易かった」(失礼)のかもしれないけれど、それにしても、良かったなぁ。

SPAC じゃじゃ馬ならし

27/06/2009 マチネ

オランダのカンパニー「トネールフループ・アムステルダム」によるじゃじゃ馬ならし。
印象としてはイーストエンダーズ(イギリスの長寿ソープオペラ)に近くて、男は酒飲みで乱暴で、女は勝手でうるさくて言うこときかなくて、でも愛し合ってるのよ、みたいな。
大作家シェークスピアの戯曲を、こんなにモダンに下品にやってみせちゃったよーん、みたいな。

プロデューサーが開演前のトークで、「芝居は簡単だ」といっていたのが良く分かる。
おそらく、この劇団は、色んなものが、舞台に乗っている下品なものやベタなストーリーや何やらが、「伝わるものだ」という前提で芝居をやっている。もちろん、洋の東西でコードは違うかもしれないけれど、でも、基本は伝わるものだと思ってやっている。
そうでないところ、伝えきれない役者の立ち、観客個人の見方等々によって色々変わってくるんだ、というところには思いが至っていないように思われる。
だから、つまらない。つまらなかった。

先々週のインドから来たパフォーマンスは、コードが違って、基本伝わらないことを前提にやっている。だから、変な押し付けが無いんだ。その差は大きい。また、日本の劇団がヨーロッパに行ったときに、「基本は伝わるもんだ」というように思われてるとすると、これは、結構、やばい。そう思う。

冒頭の繰り返しの音楽が Arrested Development の Ease My Mindのイントロだったところ(なつかし!)、出てくる俳優・女優が、顔立ち、体型、色んなところでみーんなまさにオランダ人で、あぁー、オランダの劇団なんだなー、っていうところにはちょっと食いついたけど。

劇団江本純子 セクシードライバー

26/06/2009 ソワレ

初日。いまや三島賞作家となった前田司郎氏をタクシー運転手の役で迎える贅沢な2人芝居。
上演時間80分のうち60分は前田司郎ショーの体で、すばらしくエンターテイニングな演技を堪能した。

戯曲自体は可もなく不可もなく。安藤玉恵さん、悪くは無いけれども、冒頭の説明シーン等々、遊びに遊びまくれる前田パートと比べるとかなり割を食っていたんじゃないかという印象。

本番中は、前田氏が笑うたびに上の歯(結構歯並びが良い)が見えるのがどうにも目に付いて、安藤氏の口元もじっと見てるうちに、あぁ、人間の鼻から上顎にかけての形って、こういう風に人によって違ったりするんだー、と、妙に感心してしまう。

芝居後も強く印象に残ったのは前田氏の上の歯と、微妙に捩れた立ち姿。帰り道、だれも居ないところでニカッと笑ってみたが、僕は笑っても歯が出ないみたいだ。

2009年6月25日木曜日

西村和宏+ウォーリー木下企画 ハルメリ

24/06/2009 ソワレ

実際のところどうだったのかは聞けなかったけど、舞台を拝見した限り、幸せなプロダクションだったのではないかと思われた。すっきり気持ちよく観ていられた。

まず、戯曲が優れた出来で、焦点が個人⇒全体⇒個人という風に、一点感情移入型も鳥瞰神の眼型も許さないよう、程よいタイミングで、明確な意図を持って、しかもスムーズに移動する。役者17人使った「群像劇」にわざわざしてみせる「意義」がしっかりとある。
テーマそのものは、口が悪い言い方をすると「ありがち」なのかも知れないけれど、それを、焦点をずらし続けることで、一個人とか一つの主張とか、「群衆って怖いよね」とかに収斂させない。その収斂しない、物語の一つの線として回収させない中心の空洞に、これまた「ハルメリ」なる「ことば」を据えて、と書くとなんだか天皇制を扱った芝居みたいに聞こえるかもしれないけれど、必ずしもそうでもなく、でもそうとりたい観客はそう取ればいいさ的な、平田オリザの言葉を借りると「雰囲気と言ったほうがいいのかもしれないこの感覚」に満ちて、最後まで飽きさせない。

関西からいらした木下氏も、オーディションで集まった役者陣も、その優れた戯曲に妙に斜に構えることなく、すっきりと、かつ、自分の解釈を互いに、あるいは観客に押し付けず、素直に立っていたと思う。それが気持ちよい。

息子役の山岡氏が前半にフレームを嵌め、中盤からアイドル長野海が引っ張り、が、決して自分の物語として舞台の空気を回収することなく群像の中に帰っていく。テレビ討論のシーンは、そのテのテレビを全く見ない小生にはちょい苦痛だが、「ネタ」としてでなく「舞台」として見せることを心がける演出に救われる。

そうやって、1時間45分かけて、物語や主張ではなく、舞台の空気を提示して見せたプロダクションに敬意を。こういう引き合わせが、(少なくとも観客にとっては)幸福な化学反応を起こしたことについて、西村氏に感謝。

青年団日仏交流企画 鳥の飛ぶ高さ

22/06/2009 ソワレ

うーん。
青年団の役者陣無し、かつ、平田オリザ無しでは、この作品はきっと不可能だっただろう。
でも、青年団の役者と平田オリザの台本でこういう作品を観たいとは思わない。いや、思えない。
そうなってしまう。
カーテンコールで拍手鳴り止まず、4回も5回も役者が出てくるのを観ると、もっともっと複雑な心境である。

僕のヨメがフランス人のカッコイイ男と仕事の都合でディナーに行ったりして、その男が、構造主義とかポストモダンとか詳しくて(この、「ちょっと古い」加減がポイント)、かつフランス人のエライ人を紹介してくれたりして、レストランに行っても周りが、「あらあら、あの2人はとってもお似合いね」みたいな反応で、僕の友人も、「いやー、君の嫁さんはあーいう場だと映えるね」なんて誉めてるんだか単に俺を貶めてるんだか分からないコメントをして、あー、ホント、ムコとしては面白くねー。  っていう感情である。 チェ。面白くねー。

もともとの芝居が1970年代なので、マーケティングコンサルとかMBAとかの描き方がティピカルで古臭いのは仕方が無いか。いや、むしろ、劇中の構図とか二国間の文化交流とか、そういうのが露骨にティピカルなジャポニズムと「二つの文化だよ!」というステレオタイプのフレームにはまっている演出だから、そういうフレームに合わせるにはコンサル・MBAは今回のように描かれる必要があったのだろう。

ただし、ムッシュ・シラクが米国留学中に恋をしたとか、巴里のアメリカ人だとか、そういう仏米間のなんともいえない蜜月関係を日仏間の関係に置き換えるのは、決してムリとは言わないまでも、微妙なところで芝居のバランスに負の影響を与えていたと思う。少なくとも日本人の僕にとっては。
フランス人はきっとこういうの見て喜ぶんだろう。フランス人が演出してる芝居なんだから。

観てる最中は、商売柄もあって、
「年少180億の会社で無借金、EBITDAいくらかな?4億の借り入れ、軽いよね?」とか
「こんなコンサルは90年代のビジネススクールでも古臭いって一蹴されてたよね」とか
そういうツッコミを心の中で入れていたのだが、いや、入れつつも、2時間15分、けっして長くは無い。
白神ももこの、そこはかとなく彼女の匂いを主張する振り付けも、にやっとさせて良し。
ホント、冒頭の永井氏・山内氏はじめ、本当に青年団の役者って力があるなー、と見入ってしまうし。

でも、面白くなかったんだ。つまんない、って意味じゃなくて、オレは面白くねー。と言う意味で面白くなかったんだ。
この芝居が誉められると、フランス人の演出家が、
「ほら、オレが青年団の役者を演出すると、こんなに誉められるんだぜ」
って鼻たーかだかになりそうなのも面白くないんだ。

あぁ。面白くない。でも、皆さん、観に行くと良いと思います。

あ、そういえば、サイモン・マクバーニーの「象消滅」「春琴」もちょっとそういう匂いがしてたな。

2009年6月23日火曜日

本能中枢劇団 シリタガールの旅

21/06/2009 ソワレ

うーん、おじさん臭い物言いになってしまって申し訳ないのだけれど、
「よくわかんないんだよなー、こういうの」
と言うしかなくて、いや、確かに、チラシも当パンも開演前に読んで、どうかなー、って思ってたんだけどやっぱり
「よくわかんないんだよなー、こういうの」
と上演中思っていて、まぁ、確かに1時間20分、眠たくはならなかったけれど、うーんうーんとおじさん臭く心の中で唸っていたのです。
色んな局面で、笑いを取りに来てるのかそうでないのか(多分、あそこまでステレオタイプに近づけた動きを役者にさせるのであれば、それは単にギャグを狙ってるんじゃないだろう、よね?)というところも含めて、最後までピンと来ず。
なまじ僕の嗜好のストライクゾーンに近付いてきて、それがために「怒!」となっちゃうようなことも起きず、最後まですれ違い。

ほんっとおじさん臭いけど、趣味の違う芝居、として括ってしまいたくなってしまった。すみません。

モモンガ・コンプレックス 研Q。

20/06/2009 マチネ

モモンガ・コンプレックスの日頃の研究成果をキラリ☆ふじみの展G会議室に展Gして、さらに出し物もあり、という、何だか、女子校の文化祭に遊びに来たような企画。
モモコンはそもそもしかめっ面して腕組みして見つめるモダンダンスじゃないんだけど、上履き脱いで迷い込んだ子供がO喜びしてる、いかにもモモコンらしい、気持ちのE出C物でした。

出C物の方は、うどんあり、顔あり、チャイコフスキーFき踊り(弾き語りに対抗)あり、一反もめんあり、最強の振りあり、カーテンコールは何度もあり、と、なんとまあ飽きの来ない小ネタ連発。30分飽きることなく過ごしました。

前回の「初めまして、おひさしぶり」でも思ったのだけれど、ともするとK量Qなものとして流されちゃいそうな、でも実は見逃せない着想を、一つの出し物として1時間くらい、ときにはケレンでもってもったいぶったりしながら、どうやって上手く構成するのか、という手管が次の課題かな、と思いました。素晴C研Q成果でした。

2009年6月21日日曜日

田上パル 報われません、勝つまでは2009

20/06/2009 マチネ 

よしっ!よしっ!よしっ!もひとつおまけによしっ!
前回の改造☆人間では今ひとつ芝居に元気がなかった田上パルだが、母校桜美林に帰ってのこの芝居は素晴らしいできばえ、初めてパルに出会ったときの衝撃を思い出させた。パル、元気です。

冒頭、コージ役の熊木さん出てきて、「あぁ、やっぱり、前回観たとき(再演時)の時よりも顔が大人びてるなー」と思ったのだけれど、いらぬ心配で、全篇男子高校生の甘酸っぱさ(もちろん、汗かいたウェアを洗濯しないで放置するので甘酸っぱい芳香を放ち始めるのだが)全開の1時間半。

目を見張ったのは海津忠で、青年団でも、はたまた、「新宿八犬伝」でも、こんなに声を張った海津氏を見たことがない。眉もきれいに揃えたのか妙に高校生で、これがはまった。聞けば途中怪我のせいで平岩氏とキャストスイッチしたらしいが、それも正解。でも、逆バージョンも絶対観てみたい!と思ってしまう。ゴジゲンの松井氏もよし。紅一点二宮氏加わって、ブラちょい見えのまさに男子高校生向けサービスシーンもパルならでは。パルらしい芝居を堪能した。

次回作「青春ボンバイエ」。なんちゅうおバカなタイトルだよ。期待高まる。

太田省吾へのオマージュ 更地

19/06/2009 ソワレ

素晴しい戯曲。演出・役者、オシイ!美術、良し。
ということで割合に気持ちよく家路につけるはずだったが、アフタートークでかなりの部分、ブチ壊し(この4文字、MSPゴシック48ptのつもり)。

拝見しながらずーっと、「あー、これ、いき座のお2人でやってくれないかなー」と思っていたのだ。舞台上に載せられた9×9=81個の"mundane"な、ありふれたモノたち。それとマッチするかのように、戯曲に書かれている台詞もそのmundaneさを備えていて、まさに「台詞をおきにいく」とピッタリくるんじゃないかとおもったり。

下総・佐藤の中年ペアは、ややもすろと、そういう、本来余計な色を削ぎとったところで充分面白いはずの台詞に着色してみたり(おそらく、一語一語から生まれるはずのイメージをニュアンスにこめて、とか、そういう作業をしていると思われた)、もっとゆっくり、自分の間合いで続けて構わないところで先を急いだり、というところがあって、それで、あー、これは、いき座で、狭い小屋で、かつ、役者が動けないように、妙に捩じれた格好で縛られてたら最高なんじゃないかなー、とか思っていたんである
(大変勉強不足な小生は、この戯曲の初演が瀬川・岸田ペアで演じられていたことを全く知らずに、上記のようなことを考えていたんである)

16歳の頃を語るシーンで一瞬力が抜けかけて、ふわっと浮きかけたが、そのまま、ズンズンズンズン演出家が意図するスレッドから逸脱してくれてたら、と、そこが惜しかった。

アフタートーク、美術の小山田氏のトークは面白く、特に、81個のモノたちの動きについて「動くと意味が付きそうでしょ?でも、意味がついているような居ないような、それくらいの動きにしたかった」というのには非常に説得力あり。が、そこでうなづいていた阿部氏、何でじゃあ、意味を着色するような演出を敢えてしたのかなー、と思ってたら、その直後に、「自分が勝手に着色した意味」について滔々と臆面も無く話し続けた!「自分の解釈押し付けるようなチープなトークしてんじゃねー」(ここの部分DF特太ゴシック72ptでお願いします)と思わず頭に血が上って、知人へのアイサツもそこそこにして、毒を振り撒かずに退散した。

アフタートーク、もう、いやだ。

2009年6月19日金曜日

乞局 芍鸝

18/06/2009 ソワレ

乞局、ほぼ1年ぶりに拝見。
文字通りの神話というか、物語の共有というか、そういうものを割りと正面から取り扱って、まさに「いわゆるストレートプレイ」である。
脚本的・演出的にリスクの多いことをしていると当パンには書いてあるけれども、変なリスクがあるようには見えずに観ていられたのは下西氏の力量か。

そうなるとやっぱり気になるのは、近頃僕の頭に取り付いている「物語の所在」ということ。つまり、どうやってそこらへんにうじゃうじゃしているゲル状の物語の素を引っ張ってきて、「これが物語ですよー」といって提示して見せるか、あるいは共有するフレームを作るか、それとも強弁してみるか、ということなのだけれど。

この「芍鸝」は、プチメタ構造も含め、そこに対してはわりとストレートにぶつかっていて、そこには大きなリスクは無いだろう。そうすると、この芝居のリスクと言うのは、そうやって、上に僕が書いたように、「これって、神話の創生と崩壊と再生の話ね」と、チープな客にチープに括られてしまうリスクなんではなかろうか、と、これは半分自己批判入りつつ、考えた。

アルトロジー チェンチ一族リーディング

17/06/2009 ソワレ

神里氏は野球部だったそうだが、僕が神里氏のいるチームの監督だったら、神里氏に対して出すサインは、いつも、「満塁ホームラン打て」ではないかと思う。
9回裏ワンアウトランナーなし、3対1で負けてる局面。バッター神里。サインはもちろん、「満塁ホームラン打て」だろう。そして、そのサインを見た神里氏は、表情一つ変えず打席に向かうのだろう。

このリーディングを拝見した後、そんなことを考えた。

もちろん、そこで本当に神里氏が満塁ホームランを打つのかどうかはあんまり問題ではない。更には、神里氏の振るバットにボールが当たるのか、はたまたかすりさえするのか、ということすらも問題ではない。もっと言うと、そこが野球場であるかどうかも、実は関係ないだろう。

問題なのは、僕の眼には、
・ レフトポール際でグルグル腕を回してホームランをコールする宇田川氏と、
・ ふと眼を向けるといつのまにかマウンドにいてガックリ膝をついてうなだれてる菅原氏と、
・ 外野席でネクタイ鉢巻に締めて赤い顔でメガホン振ってる真田氏、
それに、ホームランなのに無駄にヘッドスライディングするランナーやベンチを飛び出すチームメイトやマイク握った報道陣、といったものがくっきりと見えて、

サヨナラ満塁ホームランを「本当に」目の当たりにしたのか、そうでないのか、ということは、僕にすらも関係なくなってしまった、ってことなんです。

アルトーの戯曲は、そういう意味で、9回裏ツーアウトランナーなし。5対0で負けてる局面である。そこでもちろん僕は満塁ホームランのサインを出したわけである。

2009年6月15日月曜日

東京デスロック Love (桜美林バージョン)

14/06/2009 マチネ

2年前の初演時に比べて、やってることに自信が満ちて、良い意味で生硬さが抜け、豊かな再演になったと思う。明らかに倍音が増えて、音色が豊かになっていた。

初演時に思ってたことは、ちょっと長いけど、こんなこと。
http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2007/10/love3.html

(以下、抜粋)***********************
「LOVE」では、その3人の「世界」「背景」すらも取り去った状態から芝居が始まる。背景の無い剥き出しの身体を舞台に載せたところで、どうやって虚構を紡ぐことができるのか。(中略)虚構の梃子の支点は、次の2つ:
①音楽。「これ、誰がかけたんだ?」と考える、つまり、何らかの意図を感じた途端に、世界が広がる。
②夏目登場。この男の、まるっきりコンテクストに囚われない立ちは何なんだ?強烈に色んなことを考えてしまう。

"LOVE"においては、観客は、すごく少ない小さなチャンスに自分の想像力を賭けることを強いられているのではないかと。少なくとも僕はそう感じた訳です。そういうきっかけを探しに行かないと入り込めないように出来ているのではないかと。

多田氏は、そうやって勝手な想像力が膨らむことを観客に許す。いや、勝手に膨らませることを強要する。そのための仕掛けだけはちょっとだけ残しといてくれている。その「ちょっとだけ」が、どんどんデスロックの芝居から剥ぎ取られていく。
(抜粋おわり)***********************

豊かになったってことは、観客が妄想力・想像力を働かせるきっかけが、役者の立ちも関係のとり方も、色んなものひっくるめて、多くなったんじゃないか、ってことだと思う。剥ぎ取ったところから、逆に豊かなものが、「寄り添うべき物語・設定等々」を介さずとも、妄想の枝葉に繋がってくれる。そして、そういうきっかけを散りばめても、「ありがち」にいかないように気配りがしてあって。なんか、すげーなー。
芝居って、楽しいよなー。 そう思ったんです。

SPAC プ・レ・ス

13/06/2009 ソワレ

当日はブラスティッドの初日が満席でキャンセル待ち報われず、静岡芸術劇場での「プ・レ・ス」までしばらく時間をつぶして臨んだ。

が。こりゃダメだ。
冒頭、パフォーマーが立つ空間の中に流れる音は、
「これって、時代設定不明な近未来風だよ~~」な音楽。喩えるなら、ハイバイ「kobito」 の劇中劇での「ぺぽぱぱぴぽぱぽ」に近い。それじゃ文字、文字。シナガワユキコさんにご指導いただいてください。
そしてそこに立つパフォーマーのたたずまいは、デビッド・ボウイが一時期組んでたTin Machine の、微妙に8年くらい古臭くて外してる感じ。
と言えばよろしいでしょうか。

「プレスされる空間で躍りつづける男」ってことなんだけど、同じ設定を見るなら、ぜひドリフで見たかった。アイディア一発で、あとは、「オレ、面白いでしょ?でしょ?」っていうアピールのみ。チャーミングさは皆無。

あ~あ。こういう詰まんないパフォーマンスの後って、フランス人は絶対になが~くて理屈っぽいアフタートークするに違いないと思って、アフタートークは聞かず。
本日の静岡、1勝2敗(うち不戦敗1、コールド負け1)。

2009年6月14日日曜日

SPAC 半人半獅子ヴィシュヌ神

13/06/2009 マチネ

これは、とんでもなく素晴しいものを観てしまった。
あの眉間の動き、眼球の動き、顔の筋肉の一つ一つを別々に鍛えて何十年だよ、と思ったら、パフォーマーはなんと82年生まれのうら若き女性で、それにも驚く。声も響くし身動きも軽い。
1時間半、本当に飽きずにパフォーマー1人+太鼓隊を見続けていられたのだ。

指の動き、手の動き、首の動き、足指の緊張の度合い、全てに、おそらく意味づけがあって、神話を語る上での文節になっているのだろうと言う印象を持ったのだが、果たしてアフタートークでは、「動きには全て文法がある」とのこと。お神楽みたいなものか。

きっと、インドケララ州の人々は、あの恐ろしく優雅な動きの一つ一つから、一定の物語を「読み解いて」いくのだろう。そして、「ははぁー、ヴィシュヌ神の威光おそるべし。」と何度も何度も思うのだろう。語り手の高い能力の裏側に、人々は神の姿を透かして見たりするのだろう。

その意味で、僕が全く文法を理解しないままこのパフォーマンスを素晴しいと思うのは、全く知らない言語を聞いて素晴しいと思っちゃうのに、実は近いのかもしれない(例えば、女性がフランス語をしゃべってると、意味わかんないのに何だかモナムゥ~ルな感じがしちゃうとか、そういうこと)が、まぁ、そうだとしても、すごいものはすごいのだからしょうがない。

こういう素晴しいもので神話を見せられると、思わず改宗しちゃう人も出るかもしれないな。こうやって布教して回ってたのかな?まずは身体の動きでおぉーっと思わせておいて、そのままお祈りに入っちゃうみたいな。などと、罰当たりなことを考えながら観ていたのだが、それはまぁ、それとして、今日の公演は、すばらしかった。

アフタートークで出演者も指摘していたが、観客側の集中力も高く、客席にいても幸せな時間だった。

ハイバイ リサイクルショップ Kobito 再見

12/06/2009 ソワレ

・ 初日以降稽古を重ねて積み重ねるところもあるだろう
・ 役者が慣れてきたら、それを壊すための仕掛けもしてあるだろう
・ あと、気になっている、「物語は、あのざわめきの中のどこにどう埋まっているのか」を突き止めるために、
ということで、再見。

2日目に比べて、かなりこなれた印象。グルーヴ感がまして、上演時間はほとんど変わらないのに、時間が速く過ぎた。「ざわざわ」部分ののりしろの処理を施した由。うん、完成度上がってる。でも、役者が「これでいいのかな?」と思いながら、あちこちバリが残りながらの上演、ってのも悪くないとは思っているのだけれど。

あぁ、それにしても、物語はどこにあり、どうやったらひょこっと地上に姿を現し、どのようにして共有されるのか?この芝居を再び観て、何だかそればっかり考え始めた。冨子さんや山本さんの物語は、どうしてそのお店の中で共有できるのか、なんで観客もそれを観ていられるのか、本当にそれらの物語は登美子さんや山本さんに特権的なものなのか、それとも、聞き手がいてこそ成り立つものなのか?あれ?僕はそもそも彼女達の物語をどう受け止めているのか?

劇空間の物語への寄りかかり方が、14歳りたーんずの「グァラニー」や「少年B」に似ている気がしてきた。みんなに話すと、「そりゃ違うよ」と言われるから、多分違うんだろうが、でも、そしたら、なんで似ている、って思ったんだろう?色々考えてしまう。

2009年6月9日火曜日

ハイバイ リサイクルショップ Kobito

06/06/2009 ソワレ

前作「て」で一人称口語演劇から一歩踏み出した(と勝手に僕は思っているが)ハイバイ岩井秀人氏の新作は、都下のリサイクルショップに渦巻いて(クダ巻いて?)ざわめく「集団としてのおばさん」(当パンの「何人かで一つの生き物」というのはまさに言いえて妙)を三人称(永井若葉)の視点でばっちり捉えて、最後まで目が離せない。

<以下、ネタバレ>

と思いきや、後半になると若干趣を変えて、おばさん2人の一代記になっていくのだけれど、これが何とも微妙な味わいで、前半に見せた「火の鳥未来篇」の劇中劇と同様、おばさんたちの人生は仲間のおばさんや出入りの不動産屋によって演じられて、一体全体、「この人たちの自我はどこに存するのだ?」というザワつき・不安が最後までつきまとう。

ラスト、カセットに入った曲をカラオケでかけてみんなで歌いだすと、それは恰も「火の鳥未来篇」のラスト、山之辺と珠美の魂が宇宙生命体と混じりあうシーンにも似て、「火の鳥」って読んだ当時小学生の僕は「なんのこっちゃ」と思ったのを思い出しながら、今回のざわざわ感、
「複数で一人感」をたっぷり堪能いたしましたですよ。

だから、何も「前半だけ」「後半だけ」にしなくとも、(何事もすっきり回収してしまおうとする)大人の視点でも十二分に愉しめる芝居だったなぁ、と思うわけです。

有川マコトさんと19年ぶりに話できたのも良かったし、岩瀬亮さんのこういう演技が見られたのもとっても良かった。岩瀬さんは是非こういう舞台にどんどん出てほしい、と思います。

2009年6月1日月曜日

二騎の会 一月三日、木村家の人々 再見

29/05/2009 ソワレ

初日に観たのが余りにも気持ちよかったので、再度お邪魔した。
やっぱりいい。
作者と演出と役者陣が互いに敬意と信頼をもって芝居をしている、感じがした。いや、大抵の芝居はそうなんだろうけれど。
えーと、そうです。きょうび、作・演出を兼ねるケースが多い中で、作者と演出の間の緊張関係が、気持ちよく表に出ているのって、気持ちよい。
昔JATPが来日した時のエラ・フィッツジェラルドの歌伴がポール・スミスだった気がするけど、その2人の関係の気持ちよさのように気持ちが良い。べたっとせずに寄り添ってる感じ。

もちろん役者もとても良いのだけれど、どうしても二騎の会を観ると作者と演出家の関係について考えてしまう。

唐組 黒手帳に頬紅を

24/05/2009 ソワレ

雨の雑司が谷鬼子母神、豚インフルエンザ上陸などものともせず集いたるつわものたちの、何故か空いている最前列下手側に忍び込んで役者の飛沫を浴びる。

丸山厚人のいない客入れには若干の寂しさを覚えるが、芝居の方は相も変わらずの唐ワールド全開、黒い革でできた「(最早僕の脳内では)こうもりくん」が赤松由美の胸をねぐらに遥か南にあったという斜坑の中を自在に飛んで、ちぎれた翼を取り返す。

小説「朝顔男」にも黒い手帳は出てくるのだけれどそっちの小説は今ひとつで、今回同じモチーフを使った芝居がどうなってしまうのかちょっと心配だったけど、要らぬ心配だった。唐さん演ずるターさんは金粉ショーの自虐ネタを繰り出すサービス振り(年配の客にしか分からないかも)がチャーミングで、今回初見の大鶴さんも、ひょっとすると今しかお目にかかれないのではないかという危ういバランスで少年を演じていた。丸山はいなくとも古株・若手ともに健在、大いに愉し
んだ。

二騎の会 一月三日、木村家の人々

23/05/2009 ソワレ

多田淳之介自身は「宮森戯曲を好き勝手に演出している」と言うけれど、でも、こんなに多田氏が戯曲を大事にして演出している場って、無いんじゃないかと思ったりしている。

客席に対して270度開き、ではけの奈落まで観客に晒した舞台が、多田氏の真冬な格好での前説(こりゃベタだ)もあいまって「おままごと性」 「ごっこ性」をフレームとして示す。そのフレームを背負いながら、フレーム自体で遊ぶというよりも、「フレームを意識しながら、ごっこの虚実をすきーにら くーに行き来してみて下さいね」みたいな感じが、心地よい。

小河原氏の背中の曲がり方が、笠智衆さんにそっくりじゃないか、小津の「麦秋」みたいだなー、とか、携帯のダイヤルの仕方とか、細かいところを見てても飽きず。細部に隙が無いからこそフレームで遊べるってところはある。

後半長男が連呼する「家族なんだから」って、なんかの芝居とイメージが重なると思ってたら、5日くらいたって思い出した。ハイバイの「て」で長女が言う「だってみんな集まったんだから」だ!
何が共通してるかって、「家族の絆、理不尽なり」ってことだろう。

イキウメ 関数ドミノ

23/05/2009 マチネ

あー、上手に作ってあるお芝居だなー、と思ったり、お芝居というよりどちらかといえばシナリオ、っていう感じだなー、と思ったり。

こういう筋書きに役者が奉仕する芝居ではどうしても「細部の愉しみ」が犠牲になって、芝居観てる途中で「ラストどんでん返しの予測」に走ってしまう。それ、別に楽しくなくは無いので文句を言う筋合いのものではないが、必ずしも芝居小屋で観たいとは思わないかもしれない。

そういう意味では、役者陣も、筋書きを壊さない、きちんと盛り上げるという点で、素直でよい役者がそろっているってことなんだろう。若い役者がこういう「壊さない」お行儀の良い演技をしているのを見ると、どうにも血がざわざわする。
もっと、全然言うことを聞かない役者が見たくなってしまう。