2008年10月27日月曜日

甘もの会 炬燵電車

26/10/2008 ソワレ

千穐楽。駅前でアンパン買って食べながら行ったら、何と会場で手作りアンパン販売中。つらい。僕もつらかったが、万が一俳優がアンパン嫌いだったら、それはもっと辛かっただろう。

肝心の芝居のほうはというと、大変面白かった。1時間強、「思わぬ拾いもの」な感じで、嬉しくなる。まさに炬燵の周り、2m四方くらいのことしか取り扱っていないのに、そこに拘って芝居を作ると、その外のこと、また、世界に何千・何万とあるであろう炬燵の周りに集まる家族や叔母やいなくなった夫や父や子供達のことが見えてくる、気がするのだ。

若い役者陣で子供のいる役というのはそれなりに負荷がかかっているはずだけれど、「なんなく」とは言わないもののきちんとこなして、よし。子供の役の2人も、よし。

もしかすると、初物で、前日に土井・森下夫婦を見た後だから、それを引きずって余計に移入して良く見えたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。いずれにせよ、気になる。次も観る、と思う。

アイサツ ぼくのおうさま

26/10/2008 マチネ

現代口語演劇とか、リアルな台詞回しとか、そういう芝居はどうしても「身の回り3mのことしか言ってない、ひ弱な芝居じゃねーか」みたいな、割と 見当ハズレの批判に晒されることが多いと思うが、実際観てみたら、どう考えても想像力が身の回り3mから抜けてでいなくて、「あ、こんな芝居があるん じゃ、さっきの批判もウソじゃねーな」みたいなことを僕も思っちゃったりするような芝居も実は多い。まぁ、想像力の欠如した芝居は、現代口語だろうが新劇 だろうがアングラだろうが80年代風だろうが、ダメなものはダメなんである。当たり前だけど。

で、この、アイサツの「ぼくのおうさま」では、「身近な日常の些細な感情から離れれるだけ離れたリアル芝居」「スケールの大きな芝居をあんまり大 きい声を出さないで」とあって、そういう試みであれば行って観る価値は大いにある。上手く行っていようといまいと(乱暴な話)関係なくて、そういう試みの 働き方を観るのが面白い、はずだ。

で、観た感想はというと、なんだか、半径3mの芝居が、広い宇宙に散らばって、それらを繋ぐ糸が見えないくらいにお互いから離れてしまって、今度 は逆にそれを無理矢理繋ぐ意図に縛られて、瞬間瞬間の、それはそれで大事な半径3mの世界がなおざりになりかけたところで、舞台に放り出された、という印 象。チラシに書かれた問題意識がどういう経路を辿ってこの舞台に結びついたかを考えると、これ、結構、不本意な結果だったんじゃないかな?勝手ながら。

開始後55分で、それまで曲がりなりにも作り上げてきた世界をガラガラガッシャンと壊してしまって、これからどーするんだ、ひょっとしてこのまま 乱暴に突っ走るのか?と思わせたが、やっぱり、前半のシーンとシーンとの間の距離は、前半と後半の距離とあんまり変わらない。つまり、つながりのなさを無 理矢理つなげてる感じは変わらない。展開の仕方が苦しいので、登場人物を紋切り型に落とし込まないと上手く繋いで見せられなくなっている印象である。

まぁ、半径3mと大きな世界(大河)を繋ぐ方法は他にもあるので、今回が余り上手くいってないと小生1人が言ってみたところでなんということもあ るまい。観客にとっては舞台に乗ってるものが全てかもしれないけど、創り手にとっては問題意識のほうが実はずっと大事だったりするのだから。

2008年10月26日日曜日

三条会 班女・道成寺

25/10/2008 ソワレ

毎度毎度、三条会の何がそんなに面白く感じられるのかを、今度こそは掴んで帰るぞと思って出かける、今回もそうだったのだけれど、やはり、そのエンターテイニングなステージにやられっぱなしのまますごすごと引き揚げて来た。

班女と道成寺を1つの上演の中で組み合わせて、「狂女=清子」を軸に二つの世界をパタパタといったり来たりさせる趣向。アトリエに入るなりかかっ ている「天国への階段」ライブ版は、中学から高校に掛けて文字通り何百回も聞いた曲、むむむ、曲の最後が開演の合図になるのだなと合点がいく。

今回面白く感じたのは渡部友一郎の使い方で、この、いかんともしがたいまでにキャラ立ちした三条会の役者陣の中にあって、道成寺の主人役がなんとも俗で良い。サングラス+じょーろのエアギターのくだりも、実は、渡部氏のずれ方が一番ヘンで面白かった。

と、こうやって面白がっているうちに今日も上演が終わって、あー、とっても面白かった。でも、やっぱり、何が面白いのかは「とにかく見てみてください」というしかないのが歯がゆい。

2008年10月25日土曜日

元祖演劇乃素いき座 虫たちの日

25/10/2008 マチネ

「不条理ってなんだい?」
「ええっ?不条理」
「そう。不条理劇って」
「あぁ、そりゃ、辻褄が合わないとか、そういうことだろ」
「不合理ってのは?」
「それは違うな。不条理と不合理は違うよ」
「要は、話の筋が通ってないってことなんだろ?」

これ、今日、開幕前に実際に客席で流れていた会話です(筆力不足で申し訳ない。本当はもっと面白かった)。

で、いき座による別役不条理劇なのだが、これがすばらしい。
別役不条理劇というと、どうしても、受付とか、男1とか、家族(らしき人たち)とか出てくるのかなー、と思ってしまうけど、これは、夫婦2人でご飯食べる芝居。
趣としては、平田オリザの2人芝居のようで、一体何が不条理なのか、と思ってずっと観ていた。

2人でご飯を食べる時の、時々舌が鳴ったり口が鳴ったりするのが、なんとも心地よいのが不思議だ。前半の夫婦の会話のかみ合わなさの間合いがなんとも絶妙で、「不条理」というより「あまりのリアルさ」に、涙を出して笑った。

ストーリーを分かりやすく組み立てていくことで時空を織り上げる(というより、「間を持たせる」だな)芝居を蹴散らすかのように、この、かみ合わ ない台詞が場の空気を目の詰まった糸で織り上げていくプロセスに、いき座の凄みがある。そうやって織り上げられた世界に、ラスト近くの妻の台詞でサッと亀 裂が入るのが感じられて、最後の土井さんの台詞によって世界が切り裂かれ、観客は宙に放り出される。

あ、これは、不条理だ。

と、放り出された一瞬に、感じた。

こういうクオリティの高い芝居は、もっともっと多くの人々に見られてしかるべきだ。この芝居は金沢に持って行くなんて話も聞いたが、これや、「阿 房列車」等は、もっともっと、日本中の人に観てもらいたい作品です。いろんな街の小さな空間に、50-60人の老若男女が集まって、じっと息を潜めて、こ ういう芝居を、1時間1本勝負で観て、観終わった後、ふーっ、と1つ息をついた後に、美味しい食事でもして帰れば(あるいは、帰って夫婦一緒にご飯を食べ れば)、それが幸せってもんでしょう。

いいむろなおきマイムカンパニー from the notebook

24/10/2008 ソワレ

うわー、おもしろーい、と、素直に楽しめることの出来るパフォーマンス。
こういうのを、小学校高学年くらいの子供と一緒に見に来ると、きっと、とても舞台を観るのが好きな子供が増えるんだろう、と思う。

とはいっても、その裏にある技量はお子様向きどころかとっても高くて、むむむとうならせる。以下何行かネタバレですが、でも、それを期待して是非アゴラに足を運んでいただきたいという思いで、敢えて記します:

・ 1人ストロボ
・ 地面に倒れる時はお定まりの身体バウンド(それが上手い!)
・ 6人その場走り、でも、舞台上で回っちゃいます
・ 大人が本気でやる電車ごっこ、「崖落ち」ついてます
・ 金魚ばちのなかはどうなってるのかなー?

前半の50分間は息つく暇もなく過ぎて、ただただマイムの世界に引っ張られていく。

難を言えば、いいむろ氏の力量が突出しているからなのか、1対5のシーンが圧倒的に多くなってしまって、中盤以降、単調に感じられた。もう少し変 化のある構成であれば、もっともっと面白く、1時間半まで一気に見せられるのではないかという気がした。ラスト近くのノートをモチーフにしたシーンも、 ちょっと時間を引っ張り過ぎな気がする。

本をいじるシーンには、下町唐座の「さすらいのジェニー」、コンプリシテの "The Street of Crocodiles" もそうなのだけれど、僕はいつも心を動かされてしまって、今回も、実は、あそこで終わってくれたらなあ、という気がしていたのだ。

とはいえ、こんなカンパニーが関西にあるんだ、というのが分かってとても嬉しい。是非またアゴラで観たい。

2008年10月20日月曜日

地点 桜の園

19/10/2008 ソワレ

これまで一体何回桜の園を観たことがあったっけ、と思い返すと、実は片手で数えるほどでしかなくて、自分でも、まさかそんなことは無いだろう、と思うくらい、観ていない。それにしては、ロパーヒンやトロフィーモフやリューバやガーエフの姿を色々なバージョンで色々な場面で何度も観た気がするのは、それだけ何度も桜の園を読んでいて、その度に、脳内で役者達が勝手に動き回っているのだろう。

そういうフラッシュバックの有り様を、今回の三浦演出は、なんだか丁寧に拾い集めて提示してくれた気がするのだ。
愚痴のエピホードフや老いたフィールスをはじめとする面々は姿を見せず、舞台上には6人のみ。物語の順番もハナから無視されていて、なんと言ったって、ロパーヒンがバーンとベンチの背を叩いた瞬間のピアノの打鍵の音は、そのまま、桜の木が倒れる音である。

舞台上に敷き詰められた一円玉を踏み分けて堂々と歩くことを許された登場人物はロパーヒンただ1人で、小林洋平、その大役を見事に果たして凄みがある。ところで杉山よ、一体何円分両替したのか?

で、僕は、「ちっちゃなお百姓さん」ロパーヒンにも、理屈屋のガーエフへも、トロフィーモフへも、リューバにも、アーニャへもワーリャへも、すなわち、全ての登場人物に、移入できてしまうのだ。それは「桜の園」がそれを許すように出来ているのかもしれないし、三浦演出のせいかもしれない。どちらかは分からない。

でも、いずれにせよ、今回の桜の園では、僕が桜の園に触れた時に毎度毎度フラッシュバックする感覚を、少なくとも、邪魔することなく、1時間半、楽しめた。それはとても嬉しい。

渡辺源四郎商店 どんとゆけ

18/10/2008 ソワレ

畑澤直球芝居、今回は死刑制度を取り扱って、変に生真面目な説教芝居とお涙頂戴人情芝居の間のせま~い間隙を縫って85分、みっちり見せてくれた。

劇場に入るなり、舞台上には畳ならぬ畳の敷かれた部屋があって、周りには山下昇平得意の白塗り日常オブジェ攻撃。これだけ見てても充分楽しめる。
いざ芝居が始まると、ささきまことさんががっつり舞台のセンターを固め、あっちこっちに芝居を振り回す畑澤マジックの臍をびしっと押さえて存在感を示す。逆にささきさんがいるからこそ、畑澤氏は、こうした、右に左に振り回してこそ、の芝居を安心して創れるのだと思う。なべげんはまさに得がたいミッドフィールだーを得た。ささきさんはなべげんのパトリック・ヴィエイラです。

と、まあ、エラそうなことを書いてるけれど、実は、舞台奥の絵に、照明の当たり具合で浮き上がってくる人の絵2体、芝居が終わるまで、全く気がついていなかった。しかも、打ち上げの場で役者さんが説明してくれて、やっとこ分かるか分からないかで、従って、芝居の流れを変にきってまで照明を変えてた苦労は、僕には全く伝わってなかった、ということになる。本当に、スミマセンでした。

有体に言ってしまうと、
・ 許すこととは何か
・ 悔い改めることとは何か
・ 人の命は取り返しようがない、ということの意味は何か
って話なんだけど、それをきちんと舞台に載せるのは、難しい。それをど~んと直球で投げ込む、その後左右に変化球で散らしておいて決め球はストレートね、という畑澤芝居の配給、堪能した。

2008年10月19日日曜日

東京グローブ座 サド侯爵夫人

18/10/2008 マチネ

ここは緊迫感のあるセリフ!効果音「シャリーーーン!!」
ここは別れのシーン!効果音「教会の鐘の音」
ここでは観客、おののけ!!効果音「ドドーーーン!!」

加納さんと篠井さんを一緒に見れるのは、1989年のアリスの身毒丸以来(かな?)だと思って楽しみにしていたのだが、2人の掛け合い以外は上記の通り。やるせない。

「現在から見た60年代演劇」

17/10/2008

早稲田大学演劇博物館グローバルCOEの「国際研究集会・60年代演劇再考」の初日。平田オリザ・宮沢章夫・岡田利規の3人によるパネルディスカッション。

当代人気の劇作家3人を集めてのパネルディスカッションということで、会場は超満員、通路の補助席も埋まりきって、入りきれない方々はホールのモニターで見ていた由。

「現在から見た60年代演劇」なのだから、上記3人が定義する60年代演劇とは何か、それが彼らの劇作・演出にどう影響しているのかしていないのか、その3人の問題意識に共通するものはあるのかないのか、という話が進むことになるのかと思っていたら、さにあらず。

まずは司会者が、自分の思い込みによる紋切り型60年代演劇と紋切り型の「平田芝居」「宮沢芝居」「岡田芝居」を規定して、それらを結びつけ、そ れに対してそれぞれのパネリストがどう考えるかを聞いていくスタイルになった。これでは推進力をもったディスカッションは起こらないだろうし、第一、司会 者の思いには聴衆の105%は興味持ってないよ。なので、このパネルディスカッションは、その始まりから、上手く運ばないことが既に約束されていた。

発言がもっともアグレッシブだったのは平田で、「いかに青年団とアゴラは戦ってきたのか」「なぜ平田は政治や地方公共団体(=体制側のようなも の)に近付く戦術をとるのか」「10年後、20年後は、役者は全員ロボットでよい」等々、ふかすふかす。岡田氏ドン引き、政治には興味ないっすから、みた いな砦に立てこもってしまった。その中で、おそらく3人の中で、最も、全体の会の進行に気を配っていたであろうと思われる宮沢氏が色々軌道修正に繋がりえ る牽制球投げるのだが、これもワークしなかった。まぁ、どれもこれも、パネリストの責任では全くないのだけれど。

話が前に進まなかったのは、議論の立て付けを誤っていたからなので、それについて3人を責めることはできない。むしろ、三者三様の異なった態度を見ることができたこと自体をエンターテイニングだったと考えるべきだろう。

まぁ、しかし、平田が何を言うにせよ、根底にあるのは、
「オレの芝居をもっと沢山の人に観てほしい」
というただ1つの欲望に尽きるのであって、それ以上でも以下でもない。社会への働きかけもヨーロッパばなしもロボットも政治も助成金も、そんなも のは、上記の欲望が満たされる限りにおいて、二の次・三の次だ。そこは岡田氏が言う「90分-120分の時空を創り上げて、観客にそこで過ごしてもらうこ とにしか興味がない」態度と100%同義だと、僕は信じる。

だから、「芝居が社会に対してどういうインパクトを持ちうるのか」とか、「芝居を道具としてたたかうのだ」とかいうアジテーションが入り込む余地は、本当は、無いはずなのだ。そのことは、どの程度聴衆に伝わっていたのだろうか?

2008年10月14日火曜日

映画 東京人間喜劇

13/10/2008

青年団の役者陣を贅沢に使って、しかも出来上がった映像はきっかり深田晃司の眼で見た世界。「深田氏の眼には、青年団の役者はこんな風に見えていたのか!!」という驚きがとても新鮮だった。

芝居で観ている時にはどうしても奥行きがある三次元の空間で役者が動いていることに無自覚なのだけれど、映画のスクリーンの二次元に役者が映され ると、そこに、監督の目で切り取られ配置された「カタチ」と「色」の概念が生まれて、うなじや背中や全体のシルエットやおでこどもが、ニットやマフラーに いろどられてスクリーンの上を滑っていく。映画を見つけた人にはごくごく当たり前のことなのかもしれないが、少なくとも僕にはそれが非常に新鮮だった。

岩下徹さんのパフォーマンスは「晩春」の能舞台を思わせたし、志賀廣太郎の医師は「鉄男」の六平さんを思い出させる。佐藤誠・大竹直・酒井和哉の3人のシーンは、ここでは敢えて言わないが、出色の出来。

「全体に生きる個の孤独と、そこにある『救済の可能性』」と、チラシにはあるが、まさに、救済の可能性について思いをめぐらせるきっかけとなりう る映画で、そこには何の説教臭さもあきらめもなく、ひとつの世界が提示されている。「人間喜劇」とはよくぞ名づけたものだ。満喫した。

dracom祭典2008 ハカラズモ

13/10/2008 マチネ

役者が出てくるとPAから台詞が流れてきて、それに合わせて役者が当てぶりするかと思いきや、台詞と動きがシンクロしていない!
台詞に若干遅れて動きが出るのか、先行して動きが出るのか、読めない。もしかするとまったくリンクさせてないのかと思いきや、シンクロする瞬間が出てきたりして、もてあそばれ感あり。

後で当日パンフ読み返すと、確かに、前作「もれうた」でも「録音された台詞と俳優の演技する身体がずれる」ということをやっていて、そうか、それが作・演出にとって面白いことなんだな、と思った。

それと、「コート」という場を巡って交わされる様々な会話の断片が組み合わさって、何かひとつの世界が織り上がるのかと思いきや、最後まで端切れ は端切れのまま拡散して、統一感のない感じ。そもそも白線で囲まれた制度としての「場」が既にある以上、そこに物語を持ち込むまでもなく、断片がコートを 通り過ぎる瞬間を定点観測することで世界を成立させよう、ってか?

うーん、そういう「ズレ」の感覚とか、あるいは、「振り付け」が実は台詞と連動していないこと、というのはわからいでもないが、それと断片化が合わさると、ちょっと、眠い。
どうしても舞台上の現象を一定の(自分なりの)コンテクストに当てはめて咀嚼しようとする限り、それが不可能に近付けば近付くほど、眠くなる。でも、まあ、最初から70分の公演だと分かっているので、落ちずに観ていたのだけれど。

紋切り型の「お芝居」からどこまでズレを生じさせたら、「刺激」として楽しむことが出来、どこから先に行ってしまうと「コンテクストに嵌められな いもの」として拒絶してしまうのか、という線を自覚させられたみたいで、ちょっと後味の悪い芝居だった。が、次回同じテを使ってきたら、もう少し突っ込ん で観る覚悟は出来ているつもり。

吾妻橋ダンスクロッシング

10/10/2008 ソワレ

40過ぎのサラリーマン、仕事帰りにアサヒアートスクエアに立ち寄って、若くてカッコいい客の揃った会場で缶ビールを開けると、若くて美しい女性から声を掛けられた。おやま、これも吾妻橋ダンスクロッシングのご利益か、ムリして来て本当に良かったと思ったら、なんのことはない友人の彼女で、遠慮のない40男は、その友人の不在にかこつけて隣に掛けさせてもらう。ビールも進むが舞台も進む。

快快の「ファイファイマーチとpeter-pan」は相変わらず切れ良し見栄え良しセンス良し。これと鉄割アルバトロスケットの戌井・村上両氏+康本雅子さんの「五輪さん」が観られただけでジーンときて、おじさんはもう言うことなし。

それに加えてLine京急の「これでもか」な技量。ついていけないことの心地よさ。

Miles Runs the Voodoo Down まるまる一曲に合わせて踊りきったKentaro Dx!!の軽やかさ、愛らしさ!これは全く思いもよらなかった収穫で、マイルスでここまで無理なく踊っちゃうなんて、またもover40枠には堪えられない舞台。

こういう寄席スタイルの公演は、最近の、ジャンルで固められたくないパフォーマー達を集めるのにはとても向いている。また、ジャンルで固まっている人たちであっても、その組み合わせ次第で(必ずしも全部が当たりでなくても)飽きずに観せられる。これは楽しい。

幸せな気分で会場を出る間際、快快野上女史に鉢合わせてご挨拶、握手、これもまた幸せの素、40男の幸せなんてこんなもの。で、友人の彼女と連れ立って下北沢で一杯やるのが幸せのピーク。もちろん友人(男)も合流して3人飲みですが。これもまたダンスクロッシングのご利益ということで。

2008年10月7日火曜日

鵺の会 タンタジルの死

06/10/2008 ソワレ

「額縁劇」というアイディア自体はけして悪くなくて、実際、幕が開いて最初に役者が出てきた瞬間、「メークからしてまるっきり絵画の登場人物なりきりですか!」と驚いたのだ。

でも、美術館に行って一枚の絵を1時間半見ることはないだろう。たとえその額縁の中の絵がゆっくりと変化するからといって、やっぱり、15分以上1つの額縁の中を見ている事はないだろう。

だから、額縁を1時間半観させるのは、はなから無理だったのではないか。と、途中、何の臆面もなく眠ってしまった言い訳ではなく、思う。奥行き 30cmの舞台ですれ違う時の、あのなんとも二次元劇団エジプトな動きはとても滑稽で面白いのに、次に役者がすれ違うまでに20分も待たなきゃならないの は苦しい。

「タンタジルの死」の戯曲そのものもそもそも一本調子で、90分観続けるのもつらかった。

前回アゴラで観た「小平次」は面白かったのだけれど、鵺の会、次はどう出る?

Radiohead さいたまアリーナ

05/10/2008

Radiohead、ライブバンドだったんだ。ギターバンドだったんだ。
トム・ヨーク、声、通るんだ。

と、そういう感想が真っ先に来る。レコードでしか聞いたことなかったために、このバンドのことを思いっきり誤解していた。失礼しました。
しかも、ギターバンド丸出しのPablo Honeyの曲は一曲もやらなかった(気がする)し。

素晴しいライブで、Just、Everything in its Right Place、My Iron Lung 等の昔の曲がかかったときには振り切れそうになった。スタンディングだったらフューズが飛んでいたのではないかと思われる。

イギリスのティーンエイジャーには「リズムなしメロディーなしコードなし」と揶揄されたりもするRadioheadだが、いやいや、このバンド、すごいよ。

志賀さん、初主演ですか。

これは、ちょっと、見ねばなるまい。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20081006et08.htm

2008年10月5日日曜日

鳥の演劇祭シンポジウム 地方の現場から演劇の未来を考える

28/09/2008 夜

鳥の劇場、鳥の演劇祭の最終日前夜は、鳥取・東京・富山からパネリストを迎えたシンポジウム。

「演劇の公共性」とは何かを軸に話が進んだけれども、パネリスト達、「自分たちが考える演劇の公共性の定義」については語れても、「観客にとって芝居の公共性とは何か」に言及する、あるいは、そこに想像力を働かせた発言が極々限られていたのが非常に残念だった。

一観客として言えば、芝居の公共性とは、
・ 鳥取に芝居を観に行くのに、1人で行かないこと。ま、別に1人で行ってもよいけど、観終わったらそれについて思いを語り合える人がそばにいること。
・ もっと踏み込んで、他人でも良い。観終わった後、その芝居について語り合える場があること。
・ それは、鹿野の町で言えば、鹿野の人たちが、「ゆうべの鳥の劇場の芝居は、あれはさあ・・・」と語り合えること。
・ 鹿野まで芝居を観に来た僕に、「ようこそ。芝居を楽しんでいってくださいね」と、町の人がいってくれること。
そういう体験のこと、あるいは、そういう体験から広がって得られる何かではないか。そこからしか始まらないんじゃないか。と考える。

鹿野の町を1人で歩いていたら、すれ違う人に「こんにちは」と声を掛けられて、それだけでもう、僕は、鹿野で「公共性」に触れた、と思ったわけで ある。声すら掛けられないAlienな存在ではなくて、「日頃町では見ないけれど、おそらく他所から芝居を観に来た人」というポジション・コンテクスト を、すれ違う一瞬で組み立てる。そういう、コミュニティのコミュニケーションのコンテクストに組み込まれることが公共性であるとすれば、鹿野には、芝居の 公共性であっても、どんどん広がる余地が、本当に豊かにあるのだと思う。
東京では、公共性どころか、人間が機械人でないことを疎明することにすら汲々としているのだから。

「料理昇降機」に出てくる二人は、それぞれ、アストン・ビラとトットナム・ホットスパーというフットボールクラブのファンなのだけれど、彼ら、別 に、フットボールが無茶苦茶上手いわけでもないだろうし、選手が知り合いな訳でもない。でもやっぱり試合結果に対してアツくなるのは、それは、フットボー ルが、イギリスで、「公共性」を有しているからです。公共性を持つスポーツだから、大資本が入ってくることへの警戒感・嫌悪感を持つし、よそ者選手が入っ てきてもその公共の場に受け入れられる素地があるし、どこのクラブをサポートしているかで、何となく出自とか性格とか、そういうところまで思いが語れる。 イギリスのフットボールには思想がなくとも公共性がついてきた。日本の演劇、どうだ?鳥取の演劇、どうだ?

だからこそ、シンポジウムで語られた内容にはがっかりしたし、逆に、このシンポジウムが開かれるに至った積み重ねや、鹿野の町の文明の開かれ方には、本当に感動したんです。

パラドックス定数 三億円事件

03/10/2008 ソワレ

「実際に起きた事件を元に虚構を組みなおすハードボイルド男芝居」の名を借りた野木萌葱の腐女子芝居、今回は三億円事件時効直前の刑事達のドラマ。

はい、もうこれだけで一気に妄想広がっちゃうひと、いたでしょう?そういう期待を裏切らない、全員メガネ・ダークスーツ仕立て。役者陣、あと20歳年取ったらオノ・ナツメの世界。

とはいうものの、正直なところを白状すると、観る直前になって、「また同じ趣向の芝居を1時間半観ちまうのか」という気分にはなった。野木氏の世界がなまじ閉じた格好で完結しているがために、「次はどうかな?」のワクワク感に欠けるのは、仕方がないのであろうか?

しょっぱな諌山氏の力の入った台詞は先行き心配になるが、時間の進行とともにきちんと台詞の力の入り具合にもオチがついて、各役者とも出すぎず引っ込みすぎず、野木ワールドを織り上げて、1時間40分飽きずに一気に見切った。やっぱり、何のかんの言って、面白い。

終演後、マイミク非夏氏、劇作家M女史と飲み。男2人がかりでMさんに、いかにパラドックス定数が腐女子芝居であるかを、「BL」の定義から説き起こして説明。その後、パラドックス定数が芝居である必要があるのか、という話に及んで、小生、持論の「高村薫はハードボイルドの名を借りたやをいである」論を繰り出すも、不発。その他色々話して、結局朝4時半。それだけ話せるネタを提供してくれたパラドックス定数にとりあえず感謝です。

2008年10月1日水曜日

瀕死の王

28/09/2008 マチネ

初日。
退屈な芝居。
そもそもの戯曲が、ラストの死に向けて緩慢に1次元の時間を流しながら、間に思い出したように茶々を入れてみせるつくりだから、というのに加え、
「人々の姿をユーモラスに描きつつ、人間の悲劇性や存在の意味を鮮やかに劇化」(チラシより引用)しちゃってるもんだから、
説明したい役者は思いっきり説明に走っちゃうし、そこから脱したい役者もトータルの紋切り型の中に絡めとられちゃうし、観ていて何も掻き立てられない。

40分経過の頃から、うとうとした。55分くらいになって、これではけなすことも出来ないと思い、思いっきり起きてみた。90分経過して、やはりどうにも眠くなった。我慢はしましたが。

小田島雄志大先生が元気に観にいらしている姿をお見かけできたのは収穫でした。

青年団 火宅か修羅か(鳥の劇場)

27/09/2008 ソワレ

劇場前で青年団の連中に会って、
「お、追っかけですか? こんなところまで?」
なんて言われたが、それは誤解。僕は、「鳥の劇場が一目見たくて」鹿野に来たのです。

マチネのスタジオと打って変わって、劇場の方は学校の体育館をホールに改造。にしすがもの創造舎や精華小劇場も同様に体育館なんだけれど、今まで のところ、鳥の劇場がベストと言い切る。体育館を改造した建物につきものの反響を如何に殺すかとか、どうやったら公民館ぽくならないかとか、すごく大事な ことに気を遣っている。客席の組み方もあわせて、一見すると吉祥寺シアターと見間違うほどの出来映えは素晴しい。難点は、やっぱり専門のホールと較べると 貧弱なバトン周りか。でも、とってもいい感じ。

劇場に入ると、平田オリザが客入れをしている。彼の客入れを見るなんて、20年ぶりに近いのではないか、と、ちょっと嬉しかった。

約150席がほぼ一杯になって、年齢層も幅広く、その中で演じられた火宅か修羅かは、やはり素晴しい出来映え。しかも客席も素晴しくて、終演後、 役者が、「観客があったかかった」と言っていたが、まさにその通り。役者の一挙手一投足に対する集中の仕方が、なんだか、張り詰めたとは言わない、でも けっして途切れない、そういう、幸せな感じだったのである。

青年団のように、東京では、「ちょっと高踏派」みたいに見られている劇団が、こういうあたたかでしっかりした観客の眼に晒されるのはとても良いことだと思う。鳥の劇場、観客を育てるという意味でも良い仕事してるんじゃないだろうか。

芝居のことについて一言いうと、前半の高橋縁「死ぬのがバカらしくなっちゃう」の台詞は、本当に美しい。この日このとき、この役者からじゃなきゃ聞けないんじゃないか、っていうくらい、この日は、彼女の台詞に、打たれた。