23/11/2009 マチネ
芝居を観る時に、ゆうざん先生な態度はいけないなー、と思っている。
何だか、「おれ様は酸いも甘いも味わいつくした、場数を踏んだ目利きだぜ」みたいなの。そういう、上から目線というか、そういうやつ。
そういう人には、「メシってのは、味より何より、誰と一緒に食べるかで美味い不味いが決まるもんなんだYo!すっこんでろ!」といいたくなってしまうだろう。
でも、何を観ても面白いなんてぇ境地に至るのは至難の業だろう。好き嫌いもあるだろう。最後まで一生懸命観て、できるだけ率直に、思ったことを(好悪であれば好悪と断って。巧拙であれば巧拙と断って)書くことぐらいでしか、「言論の人」は免罪されないと思う。
あ、なんでゆうざん先生のことを思い出したかというと、この4.48サイコシスを観た後に、はるか昔に読んだ「天下一寿司」のマンガを思い出したから。ある生意気な寿司職人が、「お前の寿司には魂がこもってないからダメだ!」みたいなことをゆうざんに言われて、放浪の旅に出る。何年か経って、とある寿司大会に出場した元生意気クンは、ボロボロの格好で手もプルプル震えながらボロボロの、まるっきり寿司の体をなしていない寿司を握るのだが、それを食べたゆうざんが「む、美味い!」だって。そういう話だったと思う。このお話を読んで思ったのは、
(1) いや、いくらなんでも、魂こもってても、こんなポロポロの寿司は不味いでしょう。さすがに。
(2) あぁ、やっぱり、美味い不味いってのは、主観の問題なんだなぁ。
と、そういうことだったのである。
そう。なんで本題に入る前にゆうざんの話とか天下一寿司の話とか書いたかというと、それは、こういうことです:
「いや、いくらサラ・ケインの遺作で、彼女の魂がこもっていたとしても、4.48サイコシスのテクストは、出来悪いでしょ。しかも、サラ・ケインはやっぱり、どうみても自意識過剰でバランスを失した書き手でしかないでしょ」
「しかし、そういうテクストが飴屋氏によって舞台に載ったのを観ると、テクストの出来が、とか、関係なく、素晴しい。そこに、ゆうざんの出る幕は無い。いや、ゆうざんも、む。っていうでしょ、きっと」
他に言葉が見つからないので、陳腐ではあるが、「真摯」といってしまいます。
舞台から客席を眺める趣向も、血の海も、鼓動も、逆さ吊りも、ホーミーも、全て、趣向としてエンターメイメントに奉仕するのではなくて、むしろテクストに密着するのを感じる。その密着した感じ。密着するというからには「間に何かとてつもなく薄いものを隔て」ながら、限りなく近い。全ての瞬間において、その距離(距離の無さ)に神経を集中させられる感覚。その感覚がテクストへの「真摯」さである。それを見せ付けられた時に、テクストの出来不出来を語ろうとするゆうざん先生は、自らを恥じるほか無い。
テクストとパフォーマーの身体と観客と劇場。この組合せから生まれる道なき道を観た。
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