2008年3月30日日曜日

桃園会 追奏曲、砲撃

29/03/2008 ソワレ

迷っていたのだけれど、マイミクcaminさんのポジティブ評を読んで観に行った。
観に行って正解でした。

新国立劇場の「動員挿話」は面白くなかったし(空中庭園はもっと面白くなかったけれど)、芝居を観る前の「プレレクチャー」という発想も良く分からないし、どんなもんかと思っていたのだけれど、最後まで飽きずに、すっきりと観られた。

当パンを真面目に読んでいればもう少し体力を使わずに観ることができたのだろうけれど、一人称の主人公=語り手=視点の転換の軸、となる男を挟ん で、舞台も大阪と沖縄の間を行き来する。それを丹念に見ながら追ってくると、最後、それが、電話線を通じてきっちり帳尻が合う、という構成である。

言葉の綾や単語が想起するビジュアルなイメージを軸にして、2つの時空をつなげてみる作業、あるいは、ある特定の一瞬を基点として時空をぐいっと こじあけ、芝居の世界へと作りこんでいく作業、そうして、舞台の上という特殊な空間をなんとか普遍へと持ち上げて行こうという試み、こうしたものは、考え てみれば、唐さんや野田さんがかなりの力技で創り上げた手管を、かなり真っ正直に継承していて、かつ、誤解を恐れずに言えば、現代口語演劇の出現等を横目 で見ながら、「洗練」(といってよいものか、若干ためらいつつも)が加わったものにはなっている。

なんだけど。僕はその構成自体が普遍につながるか(というか、伝わるかどうか)という点で成功していたかといえば、実は、そうは考えていない。舞 台の上に2つの場所を生起させることで、観客の意識を離れた場所へといざなおう、という企みは、結局のところ、観客を、沖縄までしか連れて行かない嫌いが あるのだ。
(あぁ、そういえば、どこか世界の果てのようでそこに至らないギリギリの場所、を指すようなせりふが、確かこの芝居の中で使われていた...思い出せない...)

とことん個に拘ることでそれを普遍へと転換し、目の前に世界をぶわあああっと広げていくことは、実は、可能なのだ。去年見た鄭義信さんの「カラフ ト伯父さん」で、地震に遭った神戸からコソボやイラクやアフガニスタンへと何百万人ものカラフト伯父さんの世界にこの劇場が繋がっている、と感じた時の圧 倒的な僕の心の動きを思い出すにつけ、この「追奏曲、砲撃」の意図が明確なだけに、なおさら、何が足りないのかについて沢山考えざるを得なかったのだ。

単に、作者の腕力の問題、戯曲の筋力の問題、として片付けてはいけない気もする。

とはいえ、この作品を90分観ることができたのは、その全体の企みと成否にかかわらず、パーツパーツに嫌味がなく、すっきりと描かれていたからだ ろう。説明台詞はむしろ過少で、「あらあら、あれは一体なんだったのかしら、ちっとも説明がなかったわよね」というお客さん連発なのは間違いないが、芝居 の企み自体が明らかな中では、くどい状況説明は悲惨な結果をもたらしていたに違いない。その辺を外さずに90分の舞台を織り上げる力量は確かとみる。色ん なことを考えながら、楽しんだ。

PINK Cosmic Live 2008

29/03/2008 マチネ

「ガツンと肉体派」なチラシはアゴラでは珍しい、ということで、観に行った。

開始早々、Matrixみたいなコート着た娘っこ3人が出てきて、アゴラの壁を地面と平行に走り回りそうな勢いで踊りだしたことである。
おおっ、そして2曲目で着替えてくると青とピンクの体操着で出てくるではないか。

これは、日本発の準サブカル・ダンスユニットとして他の国でストリートパフォーマンスかなんかしてる人たちなのだろうか?

と思わせたのだが、その後失速。投げる球が全部直球ではとりつくしまもない。ぜーはー息を切らしているのを舞台上で見せる、というアイディア否定 はしないが、背後に多田淳之介チックなSだか身体性のストーリーかなんかの裏づけを持ってきとかないと、もたない。要は、ストリートパフォーマンスに必要 な、「常に客を引き付けておく為の手練手管」が欠けているのである。

思い付きとか、身体の変な動きへの気付きとか、元気とか、そういうものはあるので、後は、
・ 客の掴み
・ 掴んだら離さない構成
が必要かと。外から構成担当呼んで来ても良いくらいだと思う。

例えば、アゴラのスペースをあんなに広く使う必要があるか、とか。舞台をもうちょっと小さくしたほうが、逆に身体の動きが大きく見えるんじゃないか、とか。あこぎさを微塵も感じさせないパフォーマンスを目の当たりにして、あこぎなことばかり考えてしまったよ。

2008年3月26日水曜日

26.25団 離陸

25/03/2008 ソワレ

去年の9月に観た時には、「もっと上手に組み立てた次回作が観たい」と思ったのである。
そしたら、今回、巧く組み立てられていて、1時間40分、面白く観させていただいた。
前作の「何だか理由は説明がつかないが、面白かったなぁ」というところから一歩進んで、「うん、次も観てみたい」という感じ。

前作もそうだったのだが、26.25団の芝居は、「日常の中に変なことが出てくる」のではなくて、「変な人の非日常」である。だから、観客に見せ るためにはどっか力技が必要で、そこを、前半赤萩・杉元の「変な人オーラのブルドーザー」でおしまくったり、演劇貧乏君を出してみたり。この強引さが「あ ざとい」と気に障る人には面白くないかもしれないし、まだまだ「普通なはずの人」に近づけても大丈夫な気はする。

が、だからといって細部がなおざりになっていないので、ペースに嵌められても気持ちよくはまっていられる。娘っこ2人のトランプのシーンはなかなか気持ち良い。演劇貧乏さんはちょとあこぎすぎと感じたりもしたが。

おそらく、この芝居は、何だか人には薦めにくいんだけど、「ギルティ・プレジャー」として毎回観に来たいと思う範疇に入る感じがしている。こういう芝居に、実は、僕の人と共有できない好みがあるのかも知らない、と思ったことである。

2008年3月25日火曜日

弦巻楽団 エブリシング・マスト・ゴー

24/02/2008 ソワレ

まず、ウェルメイドを気取るなら政治家の靴はピカピカに磨き上げるべし。
テレビのレポーターは、テレビに映っていないときにはテレビに映っているときの話し方をするものなのか?
等々、突っ込みたい箇所はいーっぱいある。

が、最も気になったのは、
「なぜこのキャストで政治家ネタ?」
ということであった。
実年齢と役年齢の差とか、もっと身近な設定でも同様の展開の芝居は書けるんじゃないかとか、そういうことを考えた。

まぁ、所詮芝居なのだから、ウソンコのことを舞台に上げている訳なので、
「出来るだけ隙のない嘘をつく」
「ミエミエの嘘だけれど勢いで乗り切る」
「嘘の上に嘘を重ねて迷宮を作ってしまう」
等々、色んな嘘の付き方はあるのだけれど、今回、そこで敢えて、
「総選挙前夜の野党幹事長の愛人宅」
という設定を選んでしまうところに、ポジティブに言えば勢いを、ネガティブに言えばナイーブさを、感じてしまう。

政治家達と僕たち非政治家達の遠近法を考えるならば、政治家達の見せ方は思いっきり虫の眼で、ミクロにこだわった見せ方をして「個」を成立させる のが、実は、政治のリアリティの示し方への近道だと思うのだが、どうか。「政治家の死」という命題は、ウェルメイドに仕立てるには余りにも遠くて重い。

2008年3月23日日曜日

あなざ事情団 三人姉妹

22/03/2008 マチネ

関西在住の弟一家を訪ねがてら、あなざ事情団のワークショップ参加&三人姉妹観劇。
いやむしろ、三人姉妹を観るための口実として弟夫婦を訪ねた、という方が当たっていると見る向きもあろう。敢えて否定はすまい。が、結果として、

① 9歳&4歳の甥っ子2人は、午前中のワークショップを本当に楽しんでいた。9歳の甥っ子の「午後の三人姉妹も観たい」という一言で、午後の三人姉妹も5人で観ることになった。
(小生が無理矢理誘ったわけではない)
② 実は22日は甥っ子の誕生日で、ワークショップの参加者の方にハッピーバースデー歌ってもらって、甥っ子大喜び。
③ しかも、終演後、わたなべなおこ氏のご母堂から姫路名物「ござそうろう」まで頂いて、みんな大喜びであった(お母様、大変有難うございました。おいしくいただきました)。

伯父としての体面は充分に保たれたといって良いのではないだろうか。

客入れ中、役者に「ベーッ」としていた甥っ子(4歳)が、ベーを仕返された途端に大泣きしたり、開演後、声の大きさにびっくりした女の子(3 歳?)が大泣きして途中退場を余儀なくされたり、まるで計ったようなタイミングでくしゃみが鳴り響いて会場中が(本人も含め)驚いて素に戻ったり、等々、 ハプニングもたっぷり用意されていたが、いやー、子供から大人まで、本当にみんな一生懸命みていたなぁ。甥っ子が「三人姉妹」の話をスッごく良く覚えてい るだろうなどとは思わないけれど、いつかどこかで回路が繋がる素地にはなったのではないかと思う。

「観客参加型」の参加の度合いがちょっと過剰な女の子がいて、最初はらはらしていたのだけれど、芝居が進行するにつれて役者2人がその女の子のコ ミットメントを汲み取りながら参加の範囲を決めていったのが、とても印象的だった。会場全体が、一人ひとりのスタンスの違いを認識しながら、1つの場を作 ることに対して真面目であること。
観客の側に「場を作る」という意思がある限りにおいては、そのコミットメントが「過小」であったり「過剰」であったりするのは、折り合いをつけられる範囲にあるのだ、ということを考えた。そういうことを、毎回色んな観客の前で実践できる役者の力も感じた。

当パンに「この作品を世界に持って行きたい」とあったけれど、あぁ、この面子なら、世界のどこに行っても、大丈夫なんだろう、と思ったことである。

2008年3月21日金曜日

燐光群 だるまさんがころんだ

20/03/2008 ソワレ、再演初日。

僕がどうにも不快感を覚えてしまう行為がいくつか定型としてあって、それは例えば、
① エレベーターで「閉」のボタンを押す輩。
② 脚の筋力で支えられないのに高いヒールの靴を履くもんだから脚が伸びず腰が前のめりになっている女性。
③ 駅の階段を上り下りしながら携帯型ゲーム機に打ち込む輩。
④ やたらとぜーはーすることによって緊迫感を「表現」しようとする役者。

別に100%拒否、って訳ではないし、僕だって四六時中これらが気に障ってしょうがない、というわけでもないし、まず第一に、この4つを100%拒否してたらとても東京で正気を保つことは出来ないと思われるのだが、それにしても、である。

演出の力の入り方が、このモチーフの持つべき力強さをむしろ減殺しているのではないかと思えて仕様が無かった。別に、平田オリザ風にやれと言っているわけでは全くないが。

中途半端な英語の使い方も引き続き気になる。だって、アメリカ人の役者と英語でコミュニケーション取れてないだろ、あれじゃ。どこかの東南アジア の国の村の人たちは日本語で話している時に、NYPDの警察官が英語で話す必要も、他国の空港の荷物検査官が英語で話す必要も、ない。

「放埓の人」くらいに役者をスピード感でふんじばって、ひたすら舞台を回していっても、燐光群の役者の力があれば充分に色気をもって、力強さを もって伝わるはず。そこのところを信じているので、毎度劇場にお邪魔するのだけれど、これじゃあ村山監督時代の阪神になっちまうよ。

2008年3月20日木曜日

青年団の若手自主企画「御前会議」お奨めですよ

何だか柴幸男という演出家がトンデモないことを企てているらしい、という噂を聞きつけて、3月19日に稽古場を襲撃。撃沈。面白すぎる。稽古の段階でこんなにも面白い。本番は必見。

帰りに、「劇王」で上演されたという「反復かつ連続」のDVDを借りて帰る。20日に昼飯を喰いながら見る。またも撃沈。柴幸男は、パンクだ。壊 しにかかっている。でも、ロジカルだ。時に、リニアなまでにロジカルだ。「反復かつ連続」は、ジャコパスのベースラインのようにロジカルで過激な芝居でし た。

で、これが「御前会議」公演案内のサイト。

http://www.komaba-agora.com/line_up/2008_04/gozen.html

また、下記のサイトで、何が起きる予定かが全てご覧になれます。ネタバレでもやっぱりとても面白い芝居になるでしょうから、剛毅な方はどうぞご覧 下さい。気の弱い方は、いきなり春風舎に行くのをお奨めします。芝居が終わってから下記ブログをご覧になってもよろしいかと思います。

http://cassette-conte.air-nifty.com/

いずれにせよ、柴幸男、大注目です。

ラドママ・プロデュース アリスマテリアル

19/03/2008 ソワレ

ラドママ・プロデュース、初見。すみません。どうも、この芝居は、マズいような気がします。
どういう経緯でこのプロダクションが立ち上がって、人が集まって、こういう形で上演されるに至ったか。客入れが終わる前に上演が始まってしまったのには驚いたけれど、それも含めて、考えると辛いことがたくさんありそうなので、考えないことにします。

なので、しょっぱなの映像について気がついたことを1つだけ書きます。
折角カメラを撮る人を登場させているのに、映像の中で、「被写体」「撮影者」「撮影者を撮っているカメラの視点」「それを劇場で観る観客の視点」について余りにも意識がされていない。これでは効果半減、興醒めです。
自分が映像に撮られていることに対して無自覚なカメラマンでは、ろくな写真は取れないに違いない、と思ってしまいました。

2008年3月17日月曜日

チェルフィッチュ フリータイム

16/03/2008 ソワレ

30分早く家を出て会社の近所の朝のファミレスで文字を使わない日記を書く人。
そこから半径2メートルで起きることを複数のカメラ・語り手を使って語り、同じ話を複数の語り手によって語らせ、時間は行きつ戻りつし、役者も行きつ戻りつし、最後まで役者も観客もその30分から外に出ないまま終わる。

色や手触りが微妙に異なる薄い和紙を微妙にずらしながら積み重ねていくようなプロセスは、昨年桜美林で見たGhost Youthと同じ。
ただし、昨年の桜美林では、その繰り返しの中から、分けの分からない小人のようなもの(青い鳥に出てくるこれから生まれ出る赤ん坊の群れのようなもの)がわらわらと浮き出してきて、主婦が家庭で過ごす午後の一瞬恐るべし、次世代の者たち恐るべし、と思わせたのだが、

今回は、そのわらわら感はなくて、その代りに、和紙が積み重なる中で、パフォーマンスの大団円に向けて、何か、1点に向けて突き詰めていく印象を 受けた。全体のあり方が、どうも拡散しなかったし、「台詞を話していない役者」に対する意識の分散も、僕としてはどうも上手くいかなかった。それで、最後 の台詞がちょっと種明かし(あるいはオチ)ぽくて、恥ずかしい感じもしたのである。

別の言い方をすると、チェルフィッチュらしい、デフォルメされた動きとデフォルメされた語りから観客が読み出して、何かしらの像を結ぼうとする、その像の輪郭を、かなりぶっとく決めてきた(悪い言い方をすると、観客を誘導しに来た)、という印象が、してしまったのだ。
もちろん、誘導された方が分かり易いのだけれど、もっと好き勝手なことを妄想させてくれても良いのに、と思ったこともこれまた事実なので、そう書きます。

面白くなかったとまでは言わないけれど、でも、Ghost Youthの方が、より、楽しめました。

ムネモパーク

16/03/2008 マチネ

鉄道模型ファン狂喜乱舞の舞台パフォーマンス、だったと思う。少なくとも厳格な意味での「芝居」とは呼ばないだろう。「だったと思う」という理由は、僕が鉄道模型ファンじゃないから。

1/87の鉄道模型ファン4人(平均年齢72.5歳)と役者1人、手作り楽器の音楽家1人。Mnemo Parkというくらいなのだから、何らかの形で「お年寄りの記憶」についての話になるだろうという予想はついたが、まさか鉄道模型搭載のカメラ・及びその スクリーンに混在して映し出される実写映像とシンクロして模型操作者達が演技し、過去を語る趣向とは、なかなかもって、鉄道模型を超えてオタクっぽい。

全体の筋書きの中に挿入されるボリウッド映画の筋書きがカシミールを舞台にしているのはどういう意味があるのだろうか? 長い間風光明媚、異宗教 が共存し独自の文化を築いたカシミールとスイスとを対比させているのか? などと難しいことをついつい考えるが、そんなことを考え出しては素直にこのパ フォーマンスを楽しむことは出来ないだろう。案の定、ボリウッド映画の多くがスイスロケをしてるから、という何だかそっけない理由ではあった。

なんだか、カシミールの話にしても、「肉の山」にしても、スイスの牧畜業の話にしても、シリアスなのかそうでないのか、何らかのコンテクストに結 び付けたいのか結び付けたくないのか、老人一人ひとりの「記憶」と、その手が確かに生み出した成果としての「モデル」をどう結び付けたいのか結び付けたく ないのか、それがどうにも見えてこないのは、まぁ、なんにせよ、

①この舞台にあって最も存在感を示していたのは鉄道模型とジオラマであったから。
②舞台の上にいて、老人達が最も生き生きと語ったのは鉄道模型についてであったから。
③でも、老人達が最も得意げな顔を見せて輝いたのは、上演後に、「観客の皆さん、舞台に降りてきて、近くで模型をご覧になっていいですよ」と言ったときであったから。
と、こういう理由なのだろう。

要は、演出家の考えたプロットは、鉄道模型を超えられなかった、ということになる。
色々な趣向や、知られていない数字や、事実や、歴史や、そういうものを組み合わせて舞台に載せてみても、やっぱり、バーゼル鉄道模型友の会まで出かけて、そこで彼らと2時間色んな話をするほうが、なんの先入観もなく、もっと面白いに違いない。

いや、このパフォーマンスも面白かったのは面白かったのだけれど、それは、実は、
「パフォーマンス自体が面白かった」というより、
「パフォーマンス自体を楽しんでいる老人の姿が面白かった」という方が正しい。そしてそれは、この老人達が「ずぶの素人であるに相違ない」という、僕が立てた前提に基づく。

ただもし、この老人達の語る過去が全てフィクションで、舞台上の鉄道模型も実はこの舞台のためだけに作られていて、老人達の素人っぽい所作が全て演出の成果であったなら、その時は脱帽しよう。そうでなければ、やはり、バーゼル鉄道模型友の会まで出かけた方が面白そうだ。

2008年3月15日土曜日

MONO なるべく派手な服を着る

14/03/2008 ソワレ

雨の日ということもあり客席後方には若干空席もある中での当日券。
前回観た「地獄でございます」や文化村プロデュースの「橋を渡って泣け」、水下きよし演出の「相対的浮世絵」から推し量るに、今回もウェルメイド な匂いは消えないだろうと若干迷いもあったが、こんな雨の金曜日、芝居観なきゃ他にろくなこともしないだろうし、スズナリを訪問。

役者は9人。出はけ口6箇所(実は1箇所は隠れているのだが)。暗転4回を挟んで、大凡の人の出入りでシーン分けをすれば、17シーン(30分) /11シーン(20分)/12シーン(15分)/13シーン(30分)/9シーン(10分)。トータル1時間45分の、かっちり造られた芝居。勉強にな る。

うーむ、お前、でハケの回数数えとったんかい? と突っ込まれると、「すみません」というしかない。が、映画やアニメではそういう見方をする人もいるようだし、こんな見方をしてる客がいると分かったらかなり気分悪いだろうけれど、ご堪忍を。

ただ、ウェルメイドな芝居で仕掛けに先が見えるというのはまさにこういうことで、例えば、最初の30分で大体の状況を説明して、次の2つのシーン でそれを受けて、長めのシーンで盛り上げて、最後は短く大団円。客の方もそれをある程度予想しながら観ているし、演じる方も大方そこから外れていない。

そもそもこちらでそれを期待して小屋までやってきている以上、ウェルメイドなこと自体はネガティブな要素足りえないのだが、でも、そこに「破れ」「裂け目」がもちこまれないと、厳しい。

役者も良く考えて、しかも、おそらく細かい演出がついて、舞台に乗っているのに、そこに「破れ」の匂いがしないのが何とも口惜しい。芝居の構成も そうなのだが、どうも「予定調和的」な匂いがしてしまうのだ。じゃあ、予定調和じゃない演技ってどうよ、といわれると言葉に詰まるが、が、その演技の「運 動としての方向性」は確かに観客席からも感じられるわけで、

あぁ、僕はもっとポジティブな刺激のある芝居が観たい!

と思ってしまう。それはいっつもそうなのか、今週のことなのか、それとも今日だけのことなのか。そこら辺は実は「自分自身への興味」でもあるのだが。

2008年3月10日月曜日

五反田団 偉大なる生活の冒険

09/03/2008 ソワレ

龍昇企画、あなざーわーくすと、花粉症の辛さにもかかわらず本当に満ち足りた幸せな週末、締めくくりは五反田団。やっぱり幸せだった。

小説「グレート生活アドベンチャー」はもう読んでいたから、その小説の一人称の主人公=この芝居の主役、の前田司郎は、もういいや、というところ もあって、実は、加奈子・妹・隣人・その彼女、というところがどう観られるのだろうか、というのが、僕なりの勝負ポイントだったのだけれど、そのポイント を難なくクリアーして、面白い芝居だった。

土曜日に観た龍昇企画の「モグラ町」は、50過ぎてダメダメな男達を描いて秀逸だったけれど、この五反田団は30歳でダメダメな男が、「これから どうなるのだろう」と考えているのかいないのか、いや、考えていないだろう、という話である。但し、「モグラ町」の人々は、もう今更、「ちゃんとしなよ」 といってくれる相手もなく、もはやつべこべ言わずに足が前に出ちゃってたのに対し、この芝居の「村上さん」は、周りから「考えなきゃ」と言われて、いっ ちょまえに考えるフリをしたりするのである。でも、動かない。だから、がむしゃらさに於いて、モグラ町のオヤジどもの方が、むしろ、若々しい。

でも、前田芝居がジジむさいというのではなくて、実は、その、動かないことも、充分、アドベンチャーなのだ、ということは、忘れないようにしない といけない。決められた線の上を動くのも選択、動かないのもまた選択。その動かない選択をどれだけ面白いと思ってじぃーっと眺めていられるかが、前田氏に とっても、観客にとっても、勝負どころである。

アフタートークで、妙に前田氏が優しく、丁寧に、芝居の「物語」について「種明かし的に」説明してあげていたのが印象に残った。ちょっと客層が広がったのを意識して、まるくなったか。

内田慈帰宅発狂シーンで黙々とファミコンをいじり続ける安倍健太郎、ファミコンを不意に覗き込む中川幸子、掛け布団でテント立てる石橋亜希子、秀逸。
でも、ごめん、いちばん美しかったのは、実は、前半、お腹出して布団に仰向けにねっころがって、未来のことなんかだらーっと話しながら、無防備に 天井のほうに視線を泳がせる内田慈さんでした。これにやられた。あの妙に幸せそうな目線は、一体何を考えていたんだろうか、(いや、次の段取りのことなん じゃない?あるいは、灯体の数数えてるとかでしょ?)、などと自問自答を繰り返させる、印象に残るシーンでした。

あなざーわーくすワークショップ

09/03/2008

えー、年甲斐も無く、演劇ワークショップに参加してしまったわけです。
これがまた、楽しかった。もう誰が何と言おうと楽しかった。
簡単な仕草の決めから初めて、短い(10秒くらいの)スキット、ちょっと膨らませたスキット、そこに「異物」を加えて更に膨らませ、観客参加型に変形して最後はミュージカル仕立てに。
というのを三人一組で。2時間半、あっという間に過ぎた。

そして、なんとも、他の参加者の方々の、なんとも幸せなクリエイティビティの発露に、大いに笑い、かつ、感心してしまった。
そして、それをナビゲートするわたなべなおこは、顔はずーーーっとニコニコしていたが、実のところはやっぱり余裕があるのだろう。修行を積み重ねて一定のメソッドの軸を兼ね備えた武術の師匠、喩えるなら、ヨーダ(失礼!)のような気合と深みを感じた。

で、終わってから自分の所業を思い返してみると、やっぱり自分は頭でっかちであると、芝居についてこんなにこわばった感覚でいてはどうしようもない、だめだだめだだめだーーーーー、と、何ともいえぬ自己嫌悪に陥ってしまった。でも、楽しかった。

演劇ワークショップといってもよいし、心(というと誤解を生むのかもしれないけれど)の柔軟体操と言っても良い。少なくとも、自分のどういうところがこわばっているのかを自覚するツールにはなると思う。お勧めです。

2008年3月9日日曜日

あなざーわーくす 2010年のエレクトラ

08/03/2008 ソワレ

かみさんのたまわく、「わたなべなおこには才能がある」。
オレ、勝手にのたまわく、「岩井秀人には才能がある」。
よし、観に行こう。でも、オレ、単身赴任中。よって一人で行く。

あぁ、楽しかった。楽しいったら楽しかった。

本を読むということが、「読書」という場を作者と読者が共謀してつくりだすのと同様に、
芝居を観ることが、「劇場」という場を演じ手と観客が共謀して作り出すのと同様に、
つまり、観客も、「受身の観客」ではなくて、観客としての役柄を積極的に果たすことで、
劇空間が成立するのであれば、だ、
「観客参加型」って、実は大いにありなのだ、ということを、

頭で分かっていても、「演じる側としての自意識がっ!!」 あるいは 「シャイな観客としての自意識がっ!!」邪魔をしているのだ。いつも。

あなざーわーくすは、その自意識があることを出発点として、そこから、極めてメソディカルに、観客のコミットメントを引き出していく。その手管が、なんとも押し付けがましくなく、どんどん引き込まれる。

そのコミットの仕方は、「自分が演じる側に立っている」というのとはちょっと違って、実は、
「演じている人々をよりよく観る、じっと観る、触れてみる、感じる」というコミットメントなのではないか、と感じる。その意味で、僕はやっぱり観 客であって、「演じる側」に対してはどこかで閉じていたのだと思う。でも、演技する人たちへの距離が明らかに近く感じられたのも確かで、それが非常に嬉し かった。

そんな中で展開されるギリシャ悲劇の物語は、当パンにある「2008年にとっての2010年」のような距離感で、すなわち、「現代から見た古代ギ リシャ」の遠いところで起きるのではなく、まさに、「演じる側と」「観る側の間の」、観客参加によってぐじゃぐじゃに入り組んだ薄皮一枚で隔てられたび みょーな距離で進んでいく。

それを、ぐっと近いところで見つめる僕らは、自他の距離の近さを、でも、「近い」ということは離れているということだ、という当たり前のことを、なんとまあ、自覚せざるを得ないのである。

かみさんのたまわく、「わたなべなおこには才能がある」。髄から納得しました。

龍昇企画 モグラ町

08/03/2008 マチネ

感想を一言で言うと、「大入りになってしかるべき、良い舞台だった」。

前日の金曜日に当日で入れるかな~と思って岩戸町に寄ったらなんと大入りで入れず、「前川麻子の集客力は衰えていないことを確認」と、すっごく失礼な感想をもちつつ土曜日を予約。土曜日も大入りであった。

僕にとって前川麻子とは、20年前「銀座小劇場のセンチメンタルアマレット」を観た「うーむ、これじゃあなあ」であり、「マニャーナ・セラ・マ ニャーナ」を観た「うーむ、龍さん、これ、続けるんですか?」であり、要は、20年前のネガティブな感想以来ご無沙汰している人だった。おととしに日本に 帰ってきて、昨年の龍昇企画で観たら、ちょっと感じが変わっていてあれっと思ったくらい。小説も書いているらしいが、読んだことはない。

前置き長くなったが、要は、「龍さんの芝居だから」観に行ったわけです。でも、そう思った自分を(ちょっとだけ)恥じるくらいに、良い芝居だった。

まず、「40-55歳の時間の捉え方」。50も半ばに差し掛かった役者および登場人物を考えれば、舞台に乗るのは過去の回想であり、来るべき自分の人生の終わり方であり、子供の未来である。それだけのモチーフで良い芝居はたーくさんできる。
が、モグラ町の5人兄弟+周囲の人々は、過去も背負っているし、人生の終わり方も考えなきゃならないはずだし、腹違いの妹の未来は一応心配してみ せるのに、みーんなそろって、そういうコンテクストを投げ出して、自分の今のことしか考えてやーがらないのだ。その「自分しかない、今しかない」の切羽詰 り方が、どうにも力強くて、楽しかった。

冒頭の役者の登場の仕方、カッコいい。塩野谷正幸さん、実は初見だが、カッコいい。こんな風に早口で誰に向かって何しゃべってんだか分からない様に台詞言って、役者の方を向いてんだか面切ってんだか自閉してるんだか分からない目線を保てるのはスゴい。

あと、気がついたのは、「どうしようもない男の描き方」に際しての、ロマンチシズムの入らなさ。どうしようもない男に引っ付いちゃう女性を描くの は、まぁ、同性のことだから醒めた目線で書けるのは納得できるが、異性に対してギリギリまで余計な目線を加えずに突っ放していたのが印象的だった。日頃平 田芝居に触れる機会が多いと、とりわけそう感じる。

龍さん以下、役者陣の演技ももちろん素晴らしくって、充分堪能。ここのところ龍昇企画の芝居は「年寄り人生振り返り・清算型」が続いていて、それ はそれでカッコよいのだが、今回の新しい切り口も充分カッコいい。当日パンフに「これからも前川氏との共同作業が続きそうな予感がする」と書いてらした が、是非、続けていただきたい。

(ラストのカズーぶーぶー合奏会は、ちょっと、ダサかったけど。照れ隠しであるとしても。ちょっと。)

2008年3月6日木曜日

アマネク 終焉ヶ原で逢いませう

05/03/2008 ソワレ

どうもあちこちで拝見した - 「青年団」「東京デスロック」「田上パル」「東京タンバリン」「パラドックス定数」「遊園地再生事業団」というところでお見かけした - 役者が集まっていて、ゆくゆく話を聞けば何だか桜美林オールスターゲーム、といった趣だった。まずは、おそるべし、桜美林。
で、役者の力量が一定程度確保されているとすると、芝居の出来・不出来は作・演出が一身に負わなければならなくて、実は、芝居を観ていても、前半・中盤・後半の出来不出来の波が、ほぼ全面的に(おそらく)作・演出の出来不出来と連動している印象を受けた。

前半30分の布石の打ち方は、大いに改善の余地あり。現代口語演劇の定石にのっとっている様でありながら、実は、
・ 最初の20分間芝居の中心がテーブルから動かず、観客の意識が拡散しない。
・ 細切れにつなぐ台詞が上手なパス回しとなって立ち上がってこないのは、実は「不要な細かいパス」が多分にあるから
・ 第三に、場の時間を流していくドライブに欠ける。
この3つ目の点というのは、この芝居を観ながら改めて思ったのだけれど、決して表立って言わないながらも、非常に巧妙に平田オリザの芝居の中に組 み込まれている要素である。平田戯曲の中で「一見何も起こらない」芝居は、実はないのだ。「待ち人来たる」「ちょっと出てくる」「たまたま出会う」「追い かける」等々、時間を流すためのアクションが必ず織り込まれている。このドライブは、特に前半、観客を引き込むには必要なんだなぁ、と、何だか勉強になっ た。

中盤になって、それでも大枠がつかめてくると、芝居に入っていくことができて、それは、良し。ぐっと集中して見られた。一つ一つの台詞が長くなってくるのが、逆に見易さに繋がって、実は、長い台詞でも疲れないで聞いていられた。

で、終盤、巧くオチがつきそうで、つかない。オールスターに若干気を遣ったのか、中盤でいなくなってそれっきりになっても良い人が戻ってきたりす るのは、実は、中盤の落とし前がきっちりついていなかったからだろうか。まぁ、クラシックでも、「名曲はなかなか終わらない」というから、そういうことな のかもしれないけれど。

全体としては、従って、オールスターのサッカーを観ているようだ。そのこころは、個人技は見苦しくないし、パスもそれなりに出ているのに、最後、ゴールに繋がらず。調子の悪いArsenalもそんな感じだ。
現代口語演劇の定石を一度取り払ったところから始めて、芝居のドライブ感を乱暴に前面に打ち出してみても大丈夫な気はする。この役者陣、最後はク サい芝居にならないように仕上げてくれる面子だとお見受けしたのだが、どうか。大丈夫。昨夜のWenger監督の一見乱暴な選手交代も、見事に実を結んだ のだから。

2008年3月3日月曜日

FUKAI PRODUCE 羽衣 宿題と遠吠え

02/03/2008 ソワレ

あぁ、楽しかった。観ていて、楽しかった。カラッとエッチで、健全に後ろめたくって、これなら16歳の娘を連れてきても一緒に楽しめた、だろう。多分。

去年もアゴラの冬のサミットで見たのだが、その時はどうも、2時間の公演で、途中で居眠りしたりしていたらしい。今回は1時間半、バッチリ最後まで拝観いたしました。

改めて感じるのは、みーんな歌えて踊れて、しかも舞台へちまで出てきて腕をぶん回しても観客に当てない気合と(おそらく)稽古量。こんなアホーな パフォーマンスにきっちり時間かけて、バッチリ気合で見せてくれるのが嬉しい。しかも、変な勘違いをした連中に「頑張っている汗がよかったですっ!」と か、「かんどーしました!」とか絶対に言わせないぞ、という気合がすがすがしいぜ。

「丸い絨毯の喫茶」の最後、観客全員の視線が舞台前、藤一平さんに集中している時に、明かりの当たっていない舞台奥で男優2人キスしてフリーズしていたのが何ともいじましかった。

カラフルな、おふざけ満点のパフォーマンスなのだけれど、かなり大人なエンターテイメントでした。また是非アゴラで観たい。

新国立劇場 空中庭園 動員挿話

02/03/2008 マチネ

岸田戯曲の面白さについては、昨年のケラさんの芝居、乾電池の月末劇場等々拝見して、はっとさせられていたのですが、どうも、この新国立劇場のプロダクションは、その嚆矢となったようなことがどこかに書いてあった。どれ、観てみるか。

僕の中で、「新劇的なもの」 と 「現代口語演劇と呼ばれているもの的なもの」 を整理したり、線引きしたりする時の基準は、次のような感じ。

「新劇的なもの」
・ 戯曲には必ず主題・メッセージが込められているから、それが明確に分かりやすく伝わるように舞台を作らねばならない。
・ あるいは、古い戯曲に対しても、何かしら新解釈・新しいメッセージが付け加えられるのであれば、それを見出して舞台に載せるのが演出家の仕事である。
・ つまり、演出家+役者の仕事は、戯曲のメッセージを、あるいは、自分が解釈したメッセージを、分かりやすく、コンテクストに載せて観客に伝えることである。
・ 従って、その目的に沿った演技の肉付け、時間の流し方が求められる。ノイズは排除する。一見ノイズに見えるようなギャグ・小芝居も、新劇的なものの中では「合目的的に」使用される。
・ よって、芝居がはねた後の観客の感想は、「ほんっと、役者さんがじょうずよねぇー」=「役者さんが上手にお話を説明してくれたので、楽ーにみれたわ」となりがち。

「現代口語演劇と呼ばれているもの的なもの」
・ 主題はもちろんある。でも、それが、作者の思うように伝えられる必要は一切ない。
・ 演出家の仕事は解釈やメッセージを巧く舞台に載せることではない。「観客が観ている事のできる」舞台を創って提示することである。
・ 解釈・コンテクストの辻褄併せは、観客に委ねられる。
・ 従って、一見「合目的的でない」ものが舞台に載せられる。
・ よって、芝居がはねた後の観客の感想は、「あらあら、でもこれ、何が言いたかったのかしらねぇえ?」=「説明してくれなきゃわかんないわよ」  とか、「なんかわからんかったけど、面白かった」=「オイラ、物語のことは良くわかんないけど、○○のシーンの△△役のあの動きは面白かったよなぁ」と なりがち。

で、今日は、その、新劇的なものを1時間50分、全身に浴び続けたわけである。
役者は、新劇だろうがアングラだろうが現代口語演劇であろうが、常に何らかの意図と段取りを持って舞台に立っているはずなのだけれど、この舞台の 役者の動きは、間のとり方から表情の作り方、広い空中庭園に何故か4人しかいない、その4人が何故か離れて立っている、そこで動き回る、その動きのとり方 まで、「新劇的なもの」で説明がつきそうだ。
動員挿話が始まって、何だか変な動きの役者が出てきたな、と思ったら、案の定青年団の太田宏だった。うーむ。45分新劇を観た後では、現代口語演劇の人の動きは、「変な動き」に見えてしまうのか...

動員挿話も良い戯曲だと思う。ちょっとしつこいけれど。乾電池の月末劇場かなんかで、高速の台詞回しで45分くらいに縮めたものを観てみたい、と思ったことである。

2008年3月2日日曜日

弘前劇場 檸檬/蜜柑

01/03/2008 ソワレ

舞台中央のビリヤード台には、やはり、存在感がある。Crucibleに置かれたスヌーカーの台がそれだけで数々の物語とかたれてしまうのと同じ で、あるいはまた、アゴラの舞台上に置かれた全自動卓がその存在感を誇示した例もあった様に、ビリヤード台、スズナリの舞台に置くと、でかい。そして、芝 居を呑み込んでしまいかねないという危惧さえも抱かせる。

案の定、玉を突きながら台詞をつなげていく役者の技量には感心するのだけれども、やはり玉の行く手に目を奪われてしまって、本来なら目が行くべき役者の動き、ニュアンス、そういうところが、「観客として」おろそかになってしまうのを自覚した。
それは、「同時多発会話」で聞き逃した会話についてどう考えるか、というのとちょっと違って、「舞台上で偶然に起きること」に対して、どう対処し たらよいのだろうか、との思いである。舞台上の台で偶然すばらしいポットを決めた時に、それは演技にどう反映させれば良いのだろうか?という問題である。

と、まあ、そっちの方が気になって、筋書きとかそっちの方は二の次になりがちだったのは申し訳なかったのですが。

芝居の構造として、いろいろなことが舞台の外で起きていることについては、特に異存はない。セミ・パブリックな場としての玉突屋、そこに集まる人々、それも常道。
でも、観客としては、そこで動く役者が観たいんだよな。で、役者の動きや台詞がきっかけとなって、いろいろなことに思いをめぐらせるんだと思う。だから、
「舞台で起こっていること」の中心にビリヤード台があるということは、
①舞台の周縁部で起きていることに目が向かなくなってしまう
②舞台中央(すなわちビリヤード台で起きていること)を、観客の想像力のきっかけとして取り扱わざるを得ないところに追い込まれてしまう
という2つのリスクを負うことになって、実際、芝居自体が玉突きから更に先へとはばたかなかった。

あたかも、劇的なものがキューとボールとがぶつかってはじける音や、ボールとラシャとの間の摩擦熱や、そんなものに拡散された挙句に、カコン、という音を立てて台の下へと吸い込まれていくような。そんな感じがした。

力のある弘劇の役者をもってしてこれである。良い子は真似しちゃいけない芸当だ。気をつけよう、全自動卓とビリヤード台。

サイモン・マクバーニーの春琴

01/03/2008 マチネ

去年ロンドンであったA Disappearing Numberがすっごく良かったらしくて、マクバーニーの芝居は是非観たかったのだけれど、ただ、
「春琴抄と陰翳礼賛にインスパイアされて」というのが気になる。
一冊の本にインスパイアされて、それを舞台に乗せるとなると、大体において元の本を読んだほうがよっぽど面白いからだ。しかも、アイリッシュ・ア メリカンのマクバーニーが谷崎ワールドを舞台に乗せるって、何だか想像がつきそうな気がして、ま、怖いもの見たさ半分、ひょっとしてすごいかもが三分の 一、あとはもういいや、ってとこでした。

で、結論は、やっぱり、元の春琴抄を読んだ方が面白いだろう。
「春琴抄を皆さんに紹介したい」という意図で、例えば、これを、ロンドンでやるなら許す。きっと高い評価を受けると思う。
でも、日本でこれを高く評価しちゃいけんのじゃないか、と思ったわけです。谷崎変態先生の変態妄想力を踏み台にしてさらに妄想を羽ばたかせること には、マクバーニー氏は興味がなかったようだ。むしろ、彼得意の「テクストを語る・読むメタ構造」と、「現実から妄想へと続く奥行きに、時間と歴史の感覚 というディメンション」を付け加えて彼なりの「分析と解釈」を示した点で、このステージには一定の評価を与えても良い、という程度。もちろん、分析と解釈 を加えると、それなかりせば成立したはずの妄想のPathを幾つか潰してしまうことになるのだ。

「複数役者横ゴロゴロ攻撃」「複数役者同時演技攻撃」「紙パタパタ羽ばたき攻撃」等々、コンプリシテではお馴染みの意匠が、それも日本人役者で見られたのはちょっと嬉しかったが、逆に、
「ドドーン」とか、盛り上がりで「和太鼓ポーン」とかいう、陳腐な東洋趣味は如何なものか。

ラジオでの朗読とか、語り手=主人公になりたい谷崎、という外枠も、ほんちゃんコンプリシテ、Mnemonicで見せた切れ味には遠く及ばない。

ただ、ロンドンでは大受けだろう。受けるに違いない。きっと持っていくだろう。僕もイギリス人の友人に奨めるだろう(だから、恐らく、春琴抄を読んだことの無い娘にも奨めるだろう)。自分では見ないけど。

そうそう、ロンドンに持ってく時には、劇中で使ってるRadioheadのTreefingersは差し替えた方がいい。日本じゃわかんなくても、ロンドンの客はこれ聞いたとたんに折角の日本情緒ぶち壊し気分になるだろうから。