2006年10月29日日曜日

五反田団 さようなら僕の小さな名声

本当に小さな名声でした。
というのはさておき、大変面白い芝居でした。
前田さん、相変わらず激しい。

で、この後はネタバレです。

風呂に入っていて気がついた。
最初に一緒に出てくる女の子は、あれは、前田さんだったんだ。だから、名前もついていなくて、「彼女?」って聞かれたときにも前田さん口ごもってたんだ。
あぁ、芝居観終わって5時間もしないとそんなことに気がつかないオレは、だめだ。

だって、作者本人が、「私演劇だ」って言ってんだから、そりゃ、「私」が出てきて当然じゃないか。
ということで、外に開いた自分探しの旅のようで、実は、すごく閉じた芝居です。

閉じた世界の中の探検ですら、こんなに楽しいものか。小河原さんを始め、役者も楽しい。こんなダメな僕が観てても、十分ずっと楽しい。
芝居のテーマなんて(と一括りにすると前田さんに失礼ながら)、そんなもので良いんです。エゴあってこその芝居。で、それはどっかに放っておいて、後は、舞台にのっているもので勝負だ。
その割り切りがきちんとしていて、美しい。
非常に良い芝居でした。

2006年10月28日土曜日

東京デスロック 再生

日本に帰ってきてから観た芝居の中で、文句なしのベスト。
こんな芝居が観たかった。

その割には、お客さんの入りがどうも、という気もしました。火曜日までやってますので、大野さんも是非どうぞ。
私も、明日の五反田団が「万が一」面白くなかったら、もう一度観に行くかも。

今の時点では芝居の内容についてきっちり書くのは憚られますので、これだけじゃ何言ってるか分かんないかもしれませんが、僕が芝居中考えていたことは:
・ はい、それでは、間違い探しです。左ページと右ページ、どこが違う?
・ エレファントカシマシの「おはよう こんにちは」
・ 昔駒場小劇場で観たどどど企画の芝居。「ガチャコン」ってレバーを引くやつ(タイトル失念、失礼。劇団君とイッパツ君、だったっけ?)
・ アンディ・ウォーホル
・ 平田オリザが柄本明さんのことを言うときに使っていた言葉「何度やっても初めてのように台詞を言えてすごい」
・ 観客にとって思い入れのある曲が掛かっているときとはじめて聞く曲が掛かっているときとで、芝居を観ている感じ方が違ったりするだろうか?

読み返しても何のことだか、という気もしますが、でも、本当にそういうことを考えていたのだからしょうがない。

多田さん、この芝居を「実験的」ということは無いです。
問題意識として極めてまっとうな芝居のカタチだと思います。

素晴らしい舞台でした。

2006年10月25日水曜日

ファイターズの思い出

1975-6年ごろ、住んでいた町に日本ハムファイターズがやってきた。
近所の旅館に泊まっているという話を聞いて、小学生の私は、友人(or弟?)と、サインをもらいにでかけた。

一番のお目当ては、4番バッターの小田選手。次は、下手投げの高橋直樹さん。

旅館に着いたら、本当にファイターズの選手が沢山居た。
小田選手は、テレビで見ても小さいが、やっぱり小さかった。
でも、他の選手たちは、ごつくってでかくって、見分けがつかなくて、その町に沢山居たヤクザの人たちよりもよっぽど怖かった。

ギロッとした目が僕の目と合ったのは、広島から移ってきていた上垣内選手。思わず、白い野球帽を差し出して「サインお願いします」と言ってしまった。ツバのところにサインしてくれた。
隣にいた選手もサインしてくれた。

わしらは、家に逃げて帰った。

上垣内選手でない、もう一人の選手の名前は、どうやっても読めなかったし、今となっては分かりようもない。

何だか、札幌の人たちに愛されてて、良かったね。
と、ふと思い出しました。

2006年10月23日月曜日

Z は Zawinul の Z

久しぶりに愉快な吊り広告発見。

前面にZawinulじいさんの写真。
雑誌の名前は、もちろん、Z。

コピーもすごいぞ。
「青二才禁止!55歳以上限定!!人生最後のメンズファッション雑誌」

で、インタビューの相手が、
ザヴィヌル爺さんと
鮎川誠さん...

それにしても、ザヴィヌル爺さん、70超えてなおつやつやしてますな。スーパーエゴの力ってすごいっす。
きっと、「あなたの名前にちなんで雑誌の名前をつけさせていただきました」とか適当なこと言われてご満悦なのに違いない。

しかし、Joe Zawinulを観てピンと来ちゃう人って、やっぱり55+っすかねえ?

2006年10月22日日曜日

ばってん荒川さんの死を悼む

子供のころ、九州の祖父母の家でテレビつけると、よく出ていらっしゃいました。そのころは、なにぶん子供だったので、本当にオバサンなんだと思ってましたが...

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=106024&media_id=2

僕にとっては、荒井注さんには及ばないまでも、ゴールデンハーフのエバちゃんよりは大事なキャラクターでした。

でも、素顔、初めて拝見いたしました。

田上パル 報われません勝つまでは

80分間ノンストップの体育会男芝居。

作・演出のネライ通り、暑苦しく、すがすがしかった。

「泣いて笑って喧嘩してぇ~」と、ど根性ガエルのテーマが流れそうな、昼に見たsmartballと同じくらいどってことのない筋書きで、しかも、テーマも「泣いて笑って喧嘩してぇ~」。
戯曲の構造も、割と現代口語演劇の教科書に則った出はけの1幕もの。
しかも、役者、最初から最後までほとんどムダに声がでかい。

これで全編観客を置き去りにせずに突っ走れる技量は高い。作・演出・役者含めて。

で、この舞台終わった後、アツくダメだしミーティングとかやってるんだろうな。とも思ったりして、それも暑苦しい。
夏とか梅雨時の上演じゃなくて、よかったです。

この土曜日、smartballと田上パル、2つ良い芝居を観た。
持ち味はぜんぜん違いますが、両者ともに、現代口語演劇に収まらないものを意志として持っていて、そこに見応えがある。

でも、さすがにこの2つを同じ日に観るのは無理があったようで、日曜日には疲労困憊していました。

smartball My Legendary Girlfriend

いまどき珍しい途中休憩なしの2時間超。面白かった。

昔平田オリザは、「元気な女の子たちを書きたかった」といって、大学の研究室を使って「科学する精神」という芝居を書いた。

名執氏は、元気な女を描くのに、大久保と歌舞伎町とセックスを使ってこの芝居を書いた、と思われる。

物語自体はどうってことない。お芝居で物語を追いたい人には向きません。最初の5分で結末は分かる。その中で交換される、各登場人物の恋愛観なりセックス感なり人生観、が芝居の味噌。

時には長台詞となり、時には会話となり、3つの場所を巡りながら時間が流れる。そこを行き来している役者たちが、最後まで飽きさせなかった。シーンが変わって灯が落ちている間の「(おやすみ)演技」も、大変面白かったです。

それにしても思うのが、いまや、方法論として「普通に台詞を言う」役者のあり方や「普通に台詞を言わせる」戯曲って、もはや達成するのが難しいこ とではなくて、若いセンスのある人々は、既に平田の方法論を超える所で色んなことをやっているな、ということです。今更かい、っていわれるかもしれないけ れど、すみません、今浦島なもんで。

セックスを舞台に乗せるのは、でも、僕には難しい。
最後の岡崎vs淋淋は良かった。「あ、これがやりたかったのかな?その前のセックスシーンは全部この前振り?」とまで思いましたが。
ただ、セックスを舞台に乗せられると、
「荒木が鼻を掻く」のと同じ次元で、「岡崎がどうやってちんぽを取り出すのか」を見たくなるんですよね。そういう演技を。「ちゃんと立っているのか」「何故前戯なしか」も含めて。演技として興味があっても、特にそんなに観たいわけではないし。うーむ、難しい。

総じて、おじさんには刺激の強い芝居でした。

客出しのSpice Girlsのカバーの曲も、芝居のムードともマッチしてかっこよかったです。誰が演ってるかは分からなかったけど。

2006年10月18日水曜日

伴大納言絵巻

実は、仏像を見た後に、出光美術館で伴大納言絵巻を見てきました。上・中・下、計三巻。
上巻にたどり着くまでに1時間半並んだ。

ま、そこで順番ぬかしするおばさんとか、「こうしたらもっといい筈だ」と主張してるけど結局自分の不愉快を事もあろうに罪の無い警備員のおじさんに当り散らしてるだけのおじさんとか、そういう人々が続出していたわけですが。
おかげで、小生、宮沢章夫さんの本をあらかたそこで読み終わったのですが。
まあ、それはともかく。

絵巻物って、思ったよりも短いのだった。
フランスで見たノルマン・コンクエスト絵巻はやったら長かったが、伴大納言ものは、何だかあっさりしている。しかも、余白が多い。余白で見せる。 きっと、そういう間を取って、読み手の人が「いやー、実はこの裏ではこんなことも起こってましてね」とか、説明してたんだろうか?

そもそも。絵巻物。何時間くらいかけて、どうやって読んだのだろう?一人で読むのか、大勢で、弁士もつけて読むのか。
途中休憩は入るのか?

そっちの方に想像力が飛んでしまって、どうも、芸術的価値云々とか、赤外線で絵巻を焙煎したら新しいものが見えたとか、そういうのは、全部忘れました。

絵巻物の正しい読み方。知ってる方、今度ゆっくり教えてください。

Thom Yorkeは立派な人だ

本当に彼らしいというか、いつまでも良い意味でナイーブで大人でないというか。

http://arts.guardian.co.uk/news/story/0,,1924075,00.html

京都議定書を批准していない国には行かないとか、
CO2削減目標を達成しない国には行かないとか、
そういう言い方でなくて、
「もう真っ平だ」
というところが、いまだに等身大に近くて、ほっとします。

2006年10月16日月曜日

劇団本谷有希子 遭難、

記憶の中から抹消したい。

「人の心なんか分からない!」ぜっきょー、
って、
わたしゃ下丸子の大田区民ホール、マルコマルコ下丸子の離風霊船の悪夢を思い出しちまったよ。

以上、恥をしのんで、「そこにいた」という記録だけは残させていただきます。

2006年10月15日日曜日

国立博物館 仏像

10月9日、仏像を観てきた。

仏像というからには仏様であって、
仏様というのは人々の祈りの対象である。
従って、仏師たちも、お祈りの対象となる物を彫るのだから、
「とうとい仏様を彫ろう」
と思って彫ったに違いない。

よしんば、「適当に彫ろう」と思って彫ったとしても、そういう仏様は、
①人々にありがたがられなかったのでもう朽ちてしまった、か、
②それでも人々にありがたがられて、その結果、人々の思い・祈りが染みついて、今では本当にとうとい仏様になったか
のどちらかだろう。

だから、遠回しだけれども、みーんな、とうとい仏様だった。
思わず手を合わせてお祈りしたくなる。
だが、そうやってゆっくり拝むのには、連休3日目の国立博物館は余りにも混雑していた。あっちのオバハンにぶつかられ、こっちの方からはオヤジがわざわざ小生と仏様の間に割って入って立ち止まる。全く最近の日本の年寄は躾がなってない。と、年寄りじみた愚痴の一つも出る。

が、仏様は仏様だけあって、そういう下界の些細なことには心を動かさず、微笑をたたえ続けているのであった。
ああ、ありがたい。

個人的には、円空の彫った十一面観音・善財童子・善女龍王の三体セットがもっとも有難かった。もう一回行きます。
前・後期通しチケット買ってあるし。

Shampoo Hat 津田沼

アパートの一室のセット。よく出来てるぞ(後で見たら役者の福田さんが美術担当でした。福田さん、いいセットですね)。

いかにも、「日常の中に違和感が浮かび上がる云々」の現代口語演劇っぽいセットだ。お、五反田団に出てる黒田さんも出てるぞ。これは、ますます、「現代口語演劇」組か?
一つ引っ掛かるのは、客入れの「おセンチ」なBGMだけど。

と思ったら、(引っ張りすぎて済みません)全然違いました。
今日は大変なことになるかもしれないと、登場人物達が覚悟を決めているある一日に、全く違った意味ですごく大変なことが次々に起きていく、という、
「日常」のひとかけらも無い、強烈にぶっとい物語でした。

役者も達者な方が揃っていて、それは、それで良い。

が。
物語がぶっと過ぎて、団地6畳等身大では、収まらないのではないですか?
あるいは、1時間40分では収まらないのではないですか?
あるいは、この設定・舞台・演出・役者陣で、ぶっとい物語をやるのは、無理がないですか?

観客として言えば、ぶっとい物語について行くので精一杯の1時間40分、終わってみれば、もっと興味が出てしかるべき登場人物たちに対して、何の興味も無いことに気がついて愕然とする。
舞台の上の物語が出来上がっているために、舞台の外の物語(「台詞で示唆される物語」じゃないですよ。「観客が勝手にあれこれ想像してしまう物語」ですよ。)に対して興味が沸いてこないんですよ。

やってる役者も、実はそう思ってないですか?
物語に乗るのは良いけれど、外の世界への想像力が、見えなくなってないですか?
照れ隠しのように挿入される「日常レベルに落とした会話」「異能ギャグ」、単品では面白いです。
でも、ちょっと、取ってつけた感あり。あるいは、「これくらいなら出来るよ」的な、センスの誇示。
もっと、別の切り口で、僕等の想像力を喚起させる余地はあったはず。物語要素・ギャグ・役者をぎゅっと削って、観客に任せても良いと思いますよ。

一言でいうと、センスと達者な役者の無駄遣い。
次回来るかは、微妙です。

ひょっとこ乱舞 でも時々動いているわ

うーむ、どうも、このテの芝居は、苦手です。

全体に、
(唐さん風に)「オレの物語を聴け!」
(平田オリザ風に)「ほれほれ、続きが覗いてみたいだろ」
(柄本さん風に)「俺が次に何をするか、見当もつかねーだろ!悔しかったらこんなに伸び縮む俺の下顎でも見てやがれ」
(荒井注風に)「(伝家の宝刀)This is a pen!!」
とか、そういう
「観て、観て!!」
というオーラが足りなかったような気がする。

戯曲のつくり、あるいは、ひょっとすると、その前の、戯曲を書くモチベーションの問題なのかな、と思いました。

なので、舞台に載ったものについて、個別に色々あるが、オブラートが破れないよう、ここでは書かないことにします。

2006年10月14日土曜日

何と中村俊輔ハット!

いやー、帰ってくるなり、
Wigan 1 - Man U 0
はそれはそれでよいが、
Dundee 1 - Celtic 4

http://newsimg.bbc.co.uk/sport1/hi/football/teams/d/dundee_utd/live_text/default.stm

中村3点、驚きました。

本当に、大したもんです。
欲を言えば、中盤でRoy Keaneと組む姿をもっと見たかったのですが。
Chris SuttonもJohn Hartsonも居なくなっちまって、
知ってるのはNial LennonとBaldeくらいです。

でも、本当に、SPLとはいえ、大したものです。

MODE 秘密の花園

唐さんの戯曲を他の人の演出で観るのは、
東京グローブ座、岩松さんの「それからのジョン・シルバー」
で、岩松さんが持つ唐さんへの倒錯した愛情を感じて以来
(でも、あの芝居は、その倒錯した愛情をもってしてもやはり失敗だったのではないかと思う)。

MODEを観るのは、
TOPSで「桜の園」を観て、有薗さん以外に見るべきものがなくて大変がっかりして以来。

という先入観を持って笹塚ファクトリー(初めて)にお邪魔しました。

「意外に」(というとぶっ飛ばされるかもしれないが)、すばらしい舞台でした。

唐戯曲の魅力について、さすが松本さん、勘違いが一切無い。非常にストレートに、僕が唐戯曲で観たいものがそこに在った。

勿論、テントではないし、(赤テントとは違って)異能の役者も居ないし、その意味で、芝居にエグみとかカスクの香りとか、そういう味わいはあまり望めない(勿論先週の唐組と比べて)。
でも、同年代の役者が出てる学生演劇もどきとは百万光年の開きがある。ストレートに戯曲をちゃんと解釈・演出しただけで、こんなに違うのだ。

私流に言えば、こういう芝居は
「このMODEは、ぜひともコドモに観てもらいたい。そうしてよーく勉強してほしい」

とっても得した気分です。

2006年10月11日水曜日

靴の最期の時

靴のソールが剥がれたので、Mister Minitに持参。
「ソールを交換してください」
「ソールだけじゃなくて、その内側の革まで剥がれてますよ。
これだとそこから全部交換です」
とのこと。費用は1万2千円。

1998年の1月に29ポンド(5500円くらい)で買った靴なので、さすがに修理断念。
Mister Minitのお兄さんに処分をお願いしたら、
「練習用の靴として使わせてもらいます」
と、大変ありがたいお言葉を頂いた。
練習台として、しっかりと第二の人生を送ってほしい。

思えば、ソールも何度か張り替えて、この8年間、よく頑張ってくれた。
買った当時のことを思い出して、ちょっとセンチになってしまった。合掌。

2006年10月10日火曜日

ポール・ハンターの冥福を祈る

朝一番でウェブ版の新聞を開けて知った。

http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/other_sports/snooker/6035879.stm

化学療法を受けながら、ツアーにも参加していたので、
てっきり一旦直してから再発したのかと思っていたら、
実は、痛みをこらえながら試合していたらしい。

対戦する選手も
「ポールに勝っても心の底からは喜べない」
状態だったらしい。

ブロンドで甘い顔したヨークシャーの男。
パッと見た目いい男だったが、テレビに出ててもやっぱりカラッと明るい、いい男だった。

特に応援してた訳ではないけれど(僕は「青筋君」Ken Doherty、「Welsh Potting Machine」Mark Williamsと、何だか本番に弱い Matthew Stevens を贔屓にしてるので)、
27歳は早過ぎる。

もっともっと、その容貌とキャラクターでスヌーカーを盛り上げてほしかった。本当に残念です。

2006年10月9日月曜日

唐組 透明人間

まさに、アングラ古典芸能、満喫いたしました。
嫌味で言ってるのではなくて、本当に、観てて楽しい。

唐組を見たくなった理由の一つは、最近観る芝居の台詞が、割と、いわゆる「現代口語演劇」の枠組みにはまっていた、ということがあったと思います。そうでなくて、且つ面白い芝居を観たかった。
もう一つは、「アジアの女」が、料理の仕方を変えれば唐・梁山泊系の芝居になったんではないか、と、漠然と思ったこと。

で、芝居は、まず理屈抜きで、エンターテイニングでした。
それは、小生ごときがツベコベ言うことではなくて、素晴らしい。

でも、小生理屈っぽいので、「何故こんなに面白いのか」の理屈を考えてしまう。で、次のような式をひねり出した。

唐芝居 = 物語の語り(モノローグ)+ コント

つまり、役者の長台詞は必ずしも役者間で交わされる会話として舞台の場を成立させずとも良い、という割り切り。
また、説明台詞は聞くに堪えないけれど、物語の語りは、講談のあったその昔から、僕ら、喜んで聞いてきたではないか、という前提。
加えて、芝居はエンターテインメントであるべし、という意味でのコント。これが面白い限りにおいて、また、物語の語り手を(全体の構成の中で)邪魔しない限りにおいて、このコントに対して誰が文句をつけましょう?
(唐さんの白川先生は、まるで草間彌生のようで、絶品でした)

これらを、芝居として一つの場に纏め上げる唐さんの才能が、とんでもなく素晴らしい、ということなのであろう。そして、その「場」が、
・観客に覗かれるものとしてある舞台 ではなくて、 
・一人の役者の語りに、他の役者と一体となって小屋の中の観客が耳を傾ける、そういう場
であることが素晴らしい。ですから、テント芝居なのです。トップスや紀伊国屋では成立しない。

まるでオーネットコールマンが自分の脳みそを音楽に変えてウニウニとアルトサックスのチューブから搾り出してくるように台詞をウニウニといい続けられたら、というのは僕の一つの夢ですが、それは所詮自分ひとりのエゴなので、きっと他人が見ても面白くもなんとも無い。
と、それを成立させる唐さんはエライ!と思った次第です。

2006年10月8日日曜日

ハイバイ 無外流津川吾郎

スカスカな作り方。
空間を埋めようとしない舞台美術があるように、
時間を埋めようとしない芝居があってもよい。
それは、一種力が抜けてて、良い。

が。
「シワを書いているから老人だ」
というのは、本人が考えているほど面白くない。
「シワがなくても老人だ」
とひたすら言い張る方が余程面白かっただろう。

津川役の「マンガチックに老人のような」台詞の言い方も面白くない。普通に喋って、「老人です」と言い張った方が余程面白かっただろう。

老人組は、この「書いた皺」に拘束されたせいか、窮屈な感じがした。
若者芝居組は、その制約がない分、(ひょっとすると相対的に)面白い。「こんなやついねーよ」と思うのに、面白い。

ですので、
「志賀ちゃん☆セブンティーン」
いつもの志賀さんで台詞言わしてください。
あと、作ってる人が面白いからと言って、五分刈りにしたり頬紅ささせたりしないようにお願いします。
でも、三つ編みで出てきたら歓喜の涙かも。

結論。今回だけでは判断つかず。次回志賀ちゃんに期待。

乞局 廻罠

冒頭シーン良し。
下西・秋吉の掛け合い、予告通り「後味の悪い」芝居を期待させる。

で、観終わった感想は、
「悲惨な芝居にするために登場人物を死なせたり気を狂わせたりする必要はありません」
冒頭のシーンだけで十分後味悪いんだから。

中盤以降、登場人物の身の振り方を作者がキメて行こう、そうして、物語を収束させよう、というモメンタムが大きく感じられて、失速する。
すなわち、登場人物すべてに対して勧善懲悪の辻褄をつけるまでは死に切れなかった、「南総里見八犬伝の滝沢馬琴状態」である。

そう、思い出した。この間のWorld's endもそうだったが、「登場人物が死なないと物語が終わらせられない」芝居って、実はそんなに無いはずなんだよね。
もっと下世話な言い方すると、そんなシーン、観たくないんだ。客は。少なくとも僕は。
そういうところは、平田オリザの「S高原から」はとても上手なのです。

この芝居、ちょっと勿体無かった。次も観に行くと思いますが。

それで、参考ながら、この芝居のテーマ、「脱出できるのに脱出しない」人々のモチーフ。
砂の女、カッコーの巣の上で、S高原から、冒険王(青年団)、アジアの女、諸星大二郎の漫画(タイトル失念)、駒場走ろう会(特にタイトル伏す)。
直截でくどくなくてメッセージの伝え方がカッコ良い、という切り口だけだと、一番すっきりしているのは、諸星大先生だと思う。
後は、種々の「混ぜ物」がしてあるために、味が深まるというか、そういうことですな。

今回の廻罠は、モチーフを超える混ぜ物に欠ける。もっと物語を離れて(物語をつむぐ作業は観客の勝手な想像に任せて)、混ぜ物にこだわるべし。

2006年10月1日日曜日

新国立劇場 アジアの女

岩松さんを観に行くのだ、と、自分の中で言い訳をして観に行きました。
作・演出の長塚氏は、「今をときめく」阿佐ヶ谷スパイダースの方で、第一線の方で、かたや、当方10年間日本の芝居を観ていないし。
ひょっとして、何だかカッコ良さそうな劇団の名前からして、あぁ、お洒落なスカした芝居だったらどうしよう、とか、いろいろ、余計なことを、失礼ながら、観る前に考えていた訳です。

岩松さんの舞台を見るのは「お父さんのお父さん」以来。自分の口に合わない芝居だったら、岩松さんだけみてればよい、と思っていました。

が、あにはからんや、良い芝居。

きちんとしていました。いろんな意味で。
富田靖子の演技で、なぜか、石橋蓮司を思い出す。役者の立ちを観ていて、(似てるというわけでもないのに)唐組を思い出す。もちろんアングラではなくて、「今」のお芝居なのですが。岩松さん、かっこよい。

もちろん、ストーリーで引っ張る分、たるい所もあるが、それは言わない約束だろう。2時間、楽しみました。

公演後のトークでも、皆さん、きちんとしていました。
富田さんが「てにをはが言いにくくて」と言っていたが、そのように、違和感を味わいながら台詞を言ってるのか、うらやましいぞ。あ、そこのところが石橋さんに似てるのか?
(←本気でこんなことをいってしまって、世間様を怒らせないか、とも思うが、でも、そう思ってしまったので、書きます。勝手に、アホーと思ってください。そういえば、石橋さんももう12年くらい舞台で観ていない...)

で、あえて難癖をつけるとすれば。
ラストはセンチに過ぎる。
公演後のトークで言っていたように、「色んな解釈を観客に任せてよい」というのであれば、ラストは要らない。まさに観客に任せる部分ではないか。
あと、「アジアの女」で無くても良いですよね。あるいは、タイトルが先に決まっていても、それに関係なく芝居作っちゃっても良かったような気がする。
もう一つ。舞台が広いので、役者と役者の距離が遠い。僕のように小さい芝居を見つけた人には、ちょっと不自然に遠かったです。もうちょっと小さい小屋で見たい。

と、まあ、こんな感じですが、こういうきちんとした、かつ、センチな芝居を作る長塚さんは、一体「いい人」なのかなぁ、と。是非また、彼の手になる別の芝居を観てみたい、と。
イヌの日、楽しみにしております。

(以下、10月7日の追伸)
岩松さんを狂言回し=物語を発見していく人、として位置づけるのは、ある意味作者にとって楽しい作業だし、実際に岩松さんの演技すばらしく、分かりやすく見れた。けだし、扇田氏の劇評で「ほとんど主役のよう」である。
でも、それ、やっぱり、ぬるくないかしら?
だって、物語を説明しちゃうわけでしょう?そもそも観客が物語を発見しなきゃなんないはずなんだから。その種を蒔くのが富田靖子さんだったはずなんだよね?
だって、今のままじゃ、岩松さんの存在自体が説明台詞になっちゃったりしないのかしら?
・・・でも、やっぱり岩松さん、面白かったんですよね。こういうの、ギルティ・プレジャーっていうのだろうか?

渡辺源四郎商店 背中から四十分

坂手洋二さんに言わせると、
「近代劇の一つの正統であるところの1対1対決ふたり芝居」
だし、僕が思ったのは、
「コナー・マクファーソン流の、骨太モノローグ合戦芝居」
なのですが、作家ご本人は、
「ゴドー待ちみたいなものを作りたかった」
とおっしゃる。

ゴドー待ちにしては、単線で(リニアに)展開する芝居。
ゴドー待ちのような、「どこにも行かない」感は、この芝居には無い。代わりに、登場人物2人の骨太・シンプルな物語がある。意地悪く言えばありきたりの設定。

が、そのリニアな展開をこれでもかと説明、無理強いしないところがすばらしい。そこにこの芝居の味わいが生まれる。
で、そのための仕掛けが、「マッサージ」という身体の動きであります。
マッサージしている時はきちんとマッサージしなきゃなんないので(これ、当たり前のことですが、その当たり前のことをしてない芝居って結構多いですよね)、
「生き死にのことを考えているだろう登場人物」と、
「指先の感覚や背中の感覚に意識がいっているだろう登場人物」
の間には、常にギャップがあって、観客の意識はそこを行き来できる。そこに想像力がはたらく。

シンプルでリニアな設定にシンプルかつ効果的な仕掛け。
坂手氏は舞台装置を「アンシンメトリーの教科書のような舞台」と褒めてらっしゃいましたが、
小生、この芝居を「役者の意識を物語の説明、泣かせに向けないためにはどうしたらよいかの教科書のような舞台」
とでも呼びたい。

畑澤さんが高校の先生だからか、何だか、教科書のような、という言い方をしてしまうが、他意はありません。

と、かように教科書的にきちんと出来ている戯曲ですので、力の足りない役者がやると、性質の悪い新劇か学生演劇になってしまうでしょう。

役者4人に力があるので、その点も安心。
山内さんをアゴラで観るのは何年ぶりだったか忘れたが、相変わらず素晴らしかったです。勿論、他のかたがたも。

良い芝居、堪能しました。
土曜日のソワレ、もっとお客さんがいても良かった。