2015年12月16日水曜日

The Wasp

12/12/2015 19:45 @Trafalgar Studio, Studio 2

火曜サスペンス劇場でも刑事ドラマでも、ハリウッド映画でも良いのだが、ラス前、犯人や悪者が捕まったり死んじゃったりする直前、長々と口上を垂れて、
「そんなことほざいてる間に早くやっちまわないから逆にやられちゃうんだよ」
とイライラしてしまうのは、小生に限ったことではないと思う。

そのラス前の3分ー5分を思いっきり引き延ばして、40分ー50分にしてしまったらどうなるか。この芝居になる。

永年音信不通だった中学時代の知人(ヤンキー系、ただいま5人目の子供を妊娠中のヘビースモーカー)に、不貞の夫の殺害を依頼する妻(バリキャリ系、不妊治療が上手くいっていない)。
実は依頼人の女には、その知人がとっくに忘れてしまった中学時代の恨みつらみがあって・・・
どうなる殺人計画。どうするヤンキー妻。
っていう話。
特にネタバレしたところで、この作品を人に勧めるつもりは毛頭無いので構わないのだけれど、バラしても面白くも何ともないのでバラさないが。

こんな長口上聞いてて、みんな、面白く観てるのか?オレには面白くないぞ。
どちらかと言えば、
a. 作戦が失敗して、気まずい関係だけが残って、これから先どうやってその気まずさを背負って生きていこうかしら。とほほ。とか、
b. 作戦が上手くいったは良いけれど、それから先の展開が思うように運ばず、どうしよう、とほほ。とか、
そういう方が観たいのである。
火曜サスペンス劇場みたいに、真犯人が自分の心の底を吐露した挙げ句、崖から飛び降りちゃったりとか、して欲しくないのである。そんな勝手でお気楽なエンディングがあって良いものか。いや、エンディングというよりも、僕が舞台上で観たいのは、
「思い込み」の吐露ではなくて、
結局どこにも行かない思い込みや思いが、どこに行くのか。振り上げた拳を振り下ろせないまま、ぐずぐずとどうやって振る舞うのか。
なのです。

この女性2人芝居、ラス前パートを1時間20分演じ続けなきゃなんなくて、役者2人は本当に大変だっただろうと思う。
でも、その大変さの甲斐無く、僕の観たい部分が訪れないまま芝居は終わってしまった。残念だ。

2015年12月15日火曜日

You For Me For You

12/12/2015 15:00 @Royal Court Theatre Upstairs

脱北を企てる姉妹、妹は成功してアメリカに渡り、姉は残ってはぐれた息子を捜す。
何年かして、妹は姉の脱北を再度試みるべく朝鮮半島に戻り、姉はその時、脱北の覚悟を固め、
そして2人を待つ衝撃の結末とは!

って、僕、別に、衝撃の結末なんか期待してないよ。

後ろに座ってたアメリカン・アクセントの2人連れのオヤジの方が、芝居終わるなり、拍手始まる前に「いい話じゃないか」って一言で纏めちゃったり、
隣に座ってた、「イヤミ」を実物にしたらこんな風になるんだろうみたいなイングリッシュ文化人オヤジがバチバチうるせえって位に上から目線の拍手送ってたり、
そういうのが我慢ならなかったんだよね。どっちかというと。
おセンチに陥ると、そういう、上から目線の「いいじゃないか」な感想かます下司野郎どもにつけ込む余地を与えてしまうのではないか。

北朝鮮のキツさは、そういう物語で収めて欲しくないと、僕は思う。そのキツさは、少なくとも、僕にとっては、上から目線で「いい話じゃないか」って言えるものじゃない。

脱北後の暮らしもやっぱりキツくて、アメリカで生きること・暮らすことが、脱北後も姉の脱出資金捻出が一番の目的となる妹にとって、唯一の選択肢のように思えてしまう瞬間に、そこに開けていたはずの希望の視界がきゅっと閉じてしまう。アメリカの暮らしも選択肢に欠ける息苦しいものであることには変わりが無いのだ。だから、北朝鮮とアメリカを対比させる展開は、ある意味、リアルではないのだけれど、「どこで暮らそうとも息苦しさに変わりは無い」点でとてもリアルなものになる。

その「リアルではないリアル」を突き詰めたのが、後半の、妹とNYのボーイフレンドが、路上で、それからの2人の一生を語る場面。
2人の30年−40年がまさに胡蝶の夢のように過ぎて、「一生を一緒に過ごしてくれて有り難う」の台詞が心を打つ。
それは、「何年間かの間で人生の素晴らしさを味わい尽くしました」という感謝でもあるし、「姉の人生と引き換えの日向の人生」への罪の意識でもあるし、「アメリカの人生もそんなもの」との諦念でもある。

ひょっとすると、この極めて美しいシーンを畳むためには、ラストシーンは不可欠だったのかもしれない。たとえそれがやっすい「お涙頂戴」なものに回収されてしまっても。
そこで、北朝鮮でもアメリカでもない、どこか他の道はなかったのだろうか、と、ついつい考えてしまうのだけれど、現実はそんなにたやすくない。それは北朝鮮にいても、アメリカにいても、東京にいても、それは同じで、そこに思い至ったときに、観客は上から目線の拍手なんかおくれなくなっちゃうはずなんだ。

2015年12月13日日曜日

Linda

05/12/2015 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

劇場に入るなり目に飛び込むのは、白パネル仕上げ、片側3層、裏側2層の回り舞台。そこに投影される映像は舞台が回っても画が歪まず、一体どんなプロジェクター使ってるんだとキョロキョロしてしまう。役者の数も多くて、相当気合いとおカネをつぎ込んだ芝居であることは開演前から十分に分かる。

冒頭の主人公によるプレゼン
わたしバリキャリ55歳。シングルマザーを振り出しに、これまで幾多の賞を取って、出世階段上ってきた。今じゃ夫と2人の娘。50超えると男からの視線が変わってきた。道ですれ違っても二度見なし。工事現場で口笛無し。そんな貴女に贈る、新しいシニア女性のための化粧品をどうぞ!
このイターいトーンが芝居全編を規定するテーマになっていて、この後の展開はと言えば、
バリキャリ55歳キャリアの絶頂が、会社のポジションを失い、夫は浮気し、子供とは心が通わず、自分の出来心のオフィス内情事が携帯経由で社内中に広まってドツボった挙句・・・という物語。ヒロインの演技が過剰なまでに力強く、いやしかし、最近メディアでぶいぶいゆわせてる自称バリキャリ系は男女問わず過剰気味だよなー、そこのところ、妙にリアルだよなー、と思いながら、最後まで面白く観られた。

とはいうものの、「こういう物語、わざわざ舞台でやる必要あるんだっけ?テレビや映画でOKじゃね?」という疑問は拭えず。
まぁ、エンターテイメントとしては相当イケてるのだが。
やはり、冒頭から前半終わりまでのドライブ感は相当なもので、一幕が終わったときの拍手はいつもにも増して大きかったのだが・・・

後で新聞のレビュー読んで知ったことなのだが、この芝居の主役は、当初、"Sex and the City"に出演していた有名女優(Kim Cattrallという方らしいのですが、僕はSex and the City観ていないのでまったくピンとこない)が演じるはずだったらしい。それが本番10日前に健康上の理由で急遽降板。10年前にオリヴィエの助演女優賞を取った実力派に代役を頼んでの本番だったんだそうだ。そうか、そう言われてみれば、
・妙に前売りチケットの売れ行きが良かったんだよなー。
・舞台装置にもバッチリおカネかかってるよなー、
・一幕終わりの拍手は、「代役さん、頑張ってるよー!」っていう声援の拍手だったんだ!

いやいや、恐れ入りました。急な代役でここまで出来るとは、Noma Dumezweni、相当力のある女優さんです。

でもね、やっぱり、わざわざ舞台に載せてやる必要ないんじゃねーの?テレビドラマでよくね?って素直に思っちゃうんだよね。

2015年12月12日土曜日

Husbands & Sons

05/12/2015 13:00 @Dorfman Theatre, National Theatre

チャタレー夫人の恋人を書いたDHローレンスの3つの戯曲を一つにまとめて3時間の尺に詰め込んでみせた、力の入った芝居。
力が入っていたから傑作に仕上がっていたという気はさらさら無いのだけれど、力を入れて手間かけてつくっていることはよーく分かった。

下敷きになっているのは、"A Collier's Friday Night"、"The Widowing of Mrs Holroyd"、"The Daughter-in-Law"の3篇。
いずれもイングランド中部の炭鉱の街の貧しい家族を描いたもの。
が、そこで浮き上がる主題は、なんとも21世紀とそんなに変わっていなくて(いや、もしかすると、変わっていないように演出されていて)、そこは違和感なくすんなり観ることが出来た。上記3つの作品を順に僕なりに捉えた主題で呼ぶとすれば、「マザコンとその母」「よろめき妻と酔いどれ夫」「ダメな男と嫁と姑」。
どうです?すぐにも昼メロが10話分くらい書けてしまいそうな主題のオンパレード。

そういった主題なので、たとえ台詞の英語が古くって、"thee"とか"thy"とかの連発で、「すみません!何を言ってるのか、分かりません!」状態であっても話は十分に追える。

タイトルはHusband & Sons だけれども、焦点が当たるのはその妻であり母であり姑である。女性の心の動きを、丁寧になぞっていく。かつ、変に気張ったフェミニストアジテーション芝居でもない。
特に美しい女優を配してシンパシーに引き込む作戦ではないが、自然に引き込まれていったのは上手くしてやられたかもしれない。
特に「よろめき妻」の女優は、「シェイクスピア・ソナタ」の伊藤蘭さんに匹敵する素晴らしさだったと思う。「ダメな男と嫁と姑」の嫁も、スカートの前を掴む仕草がなんともいえず良し。
してみると、こういう昼ドラ芝居も、特に傑作というわけではなくとも、上手くやればオヤジをころっといかせることができるということか。

2015年12月9日水曜日

Sparks

29/11/2015 14:00 @Old Red Lion

日曜日、劇場に向かうバスが15分待ちで、これじゃあ間に合わないってんで地下鉄に乗ろうと思ったらそれがこの日曜日に限って区間運休。
なんとなーくイヤーな感じがしていたのだが、
それをすっかり帳消しにする、観ていて心地よい芝居だった。

12年間生き別れになっていた姉妹の再会を描く1時間50分、ほぼ2人芝居。役者が良かったからか、最後まできちんと観ていられた。姉妹の芝居なので、中にはおセンチが入るシーンもあるし、ちょっとご都合主義かなー、というところもあったし、特に終わり方はどうかと思ったのだが、それをもってこの芝居の値打ちは下がらないだろう。
「良い芝居を観させて頂きました」と思える、充実した時間だった。

ある雨の夜に突然訪ねてくる12年間音信不通だった姉。部屋に入ってくるなりお喋りの洪水止まらず、「あたしおかしいかしら?」と言いながら明らかに常軌を逸した喋りっぷり。重たいバックパックを開くとそこには酒壜がごっそり。挙げ句の果てには得意の白ワインボトル一気飲みを披露して芝居を引っ張る。
対する妹は、職場以外には外に出ることも億劫な、言葉数の少ないぱっと見内向的なくち。姉の突然の来訪にも受け身対応を余儀なくされるが。

冒頭の姉のお喋りが、あれだけのハイスピードで、しかも明らかに中身のないことを話し続けているのに、押しつけがましくなく、いくらでも聞いていられたのに、自分でもビックリした。ネイティブでない僕が聞いていても置いてけぼりにならないし、なにより、妹を無視して「私はこういうメンタルな女」みたいに観客にアピールする要素が一切感じられず、何故か好感が持ててしまう。お喋りの洪水の中に、何かしら、きちんとした、コアを感じたのだ。それは人格のコアかもしれないし、役作りかもしれない。役者本人のキャラかもしれない。でも、それは観客には所詮「見えない」ファクターだから、何でも良いのだ。とにかく、「アピールから入っていない」ことは確実で、それが素晴らしかった。最初は引き気味に入る妹も、抑えた表情の中に色々な感情が想起される充実した演技で応え、見応え抜群だった。

終わり方は・・・これはちょっと要らないシーンだったかなー、と素直に思ったのだけれど、そして、こんな終わり方するかなー、とも感じたけれども、
いや、このラストシーンが最初に想定されていたからこそ、そこから逆算した演技が姉妹の芝居を引き締めていたのかもしれない、だとすれば、1時間45分、十分堪能したのだもの、ラストへの不満も安いもんだ、と考えたことである。

いやー、なんだかね。本当に、小粒の良い芝居ってのは良いですね。

2015年12月8日火曜日

Lines

28/11/2015 20:00 @The Yard

英国陸軍に入隊した4人の若者の生き様を90分間。前半は訓練期間、後半は実践、名作フルメタルジャケットと同様の構成。
前半のストーリー展開も若干フルメタルジャケットを思わせるものがある。

4人の若者、それぞれにキャラも立って、演技も悪くない。だが、生々しさは実はそれほど感じられない。
それは、彼らが自分のことを語る際に、三人称で語るからかもしれない。
それとも、彼らが軍人として戦争に従事することについて、リアルに感じていないように描かれているからかもしれない。
どうしても、薄膜一枚隔てたところで軍隊にいる4人の存在を感じざるを得なかった。

でも、いかによそよそしく、他人事のように語ろうとも、人間の身体は殴られれば痛いし、鉄砲の弾が当たれば血が出るし、放っておけば死ぬように出来ている。
そのつなぎ目、すなわち、頭の中で考えていた戦闘と、実際の戦闘との境目、継ぎ目は、フルメタルジャケットでは、前半/後半それぞれのラストのシーンで「ぎゃ、痛え!」と思わせる形で出てくるけれども、この芝居では最後まで示されない。
本当は、僕は、その境目/継ぎ目をまたぐ瞬間が観たかった、気がする。

この芝居では、その痛みは薄膜の向こうにとどまっているように思われた。それが、世相が戦争について感じ取る、その感じ方のせいなのか、はたまた作者の意図なのか、それは僕には測りかねる。もしかしたら、軍人さんが大好きなUKならではの芝居なのかもしれない。もしかしたら、自らは安全な場所にいながらにして「敵」を殲滅する、空爆の強化を語るキャメロンのように、痛みは常にどこか向こう側にあるのかもしれない。客席と舞台の間の薄膜を想定すれば、痛みは常に2枚の薄膜の向こう側なのかもしれない。

ちなみに、2015年は、このままいけば、UKの軍隊が過去100年以上を振り返ったときに、国外で戦闘に従事していない最初の年になるんだそうだ。へぇ。
このことをどれだけ身近に感じられるのか、ってことなのかもしれない。
(結局その後シリア空爆に踏み切ったので、記録は達成されなかったのだけれど)

Here We Go

25/11/2015 19:00 @Lyttleton Theatre, National Theatre

3場、45分間の短い作品だが、間違いなく傑作。

以下、ネタバレではあるが、ネタバレによってこの芝居の面白さはいささかも損なわれないと考えるので、以下、そのまま記す。

1場は見たところ葬儀の後、参列者による切れ切れの会話。ツイート「囁き」とでも呼べそうな会話で紡がれているような、そうでもないような。「死後、死者本人とは関係ないところで展開される出来事」を思わせる。
2場は暗闇の中での老人の独白。「死の瞬間。この世とあの世の境目」を思わせる。
そして3場。老人と介護士。ベッドと椅子。パジャマから外出着に着替え、ベッドから椅子へと場所を移り、そこで外出着からパジャマに着替え、椅子からベッドへと場所を移り、そこで着替え、場所を移り、着替える。その繰り返し。溶暗。

1場/2場でも明確なコンテクストは排除されているが、肝となるのは3場。このシーンの存在が、その前の2つのシーンのコンテクストを一気に混濁させるからだ。
1場/2場は曲がりなりにも観客としてコンテクストを与えやすく出来ている(「死後」と「死の瞬間」)のだが、3場はそうはいかない。
3場は、生でもあり死でもある。僕らは役者の生きた身体が舞台上で動くのを観る。演じられる老人も生きているものとして着替え、歩く。でも、どこにも進まない。一言も発しない。しかも、毎回毎回、逐一同じ段取りで着替えを遂行し、移動し、同じ動きに顔をしかめる。外界の人=観客にとって、何らアウトプットを発しない老人は、まさに「死んでいるも同然」である。いや、しかし、一方で、老人は生きている。実際、役者も生きている。芝居はナマモノ、というクリシェが、こんなに直截に発揮されることはない。動いている以上、死んでいない。
彼は、何もアウトプットしていないけれども(死んでいるけれども)、一体、彼(生きている脳)の中では何が起きているのだろうか?

そこで、僕の想像の回路は1場と2場に向いて開く。
妙に脈絡に欠けた、明確なコンテクストを与えられているようでロジカルでない2つのシーンは、ひょっとすると、老人の内面で起きている(と、老人が考えていることがら)なのではないか。だからこそ、1場の人々の会話は時に途切れて、あたかも「誰かその場にいない人に向けて」語られる瞬間が紛れ込んだり、2場の老人の独白は妙に芝居がかった、面を切った独白になっているのではないか。1場と2場の歪んだ三人称と一人称の芝居が、3場の「生と死の間」に絡め取られて、一つの絵が出来上がったように思われた。

ヨイヨイの老人の一連の無言の動きから、その中で無限に続く不毛な想いの断片を引きずり出してきたのではないかと思われてくる。それは、とても残酷なことだ。
それは、老人に限らず、死んだように生きている人たち、これから自分に訪れるであろう死について考える人たちにとって、とてもキツいメッセージである。
僕らがいかに死後のこの世(生者による会話)やあの世(三途の川の手前)を考えてみたところで、そんなものはアウトプットされることはないし、外から見えるのは日常の繰り返し、もしくは、腑抜けたように見える老いた身体だけだ。
ここには、将来に向けた「明日への希望」「将来への希望」は一切示されない。キツい。

多田淳之介の「再生」は、やっぱり繰り返しの末に死んじまう話だけれど、でも、その繰り返しの中に、(つかの間ではあっても)生の祝祭の繰り返し(再生)があり、reincarnation(再生)への希望がある。このHere We Goにはそれすらもない。
この間rinoのツイートにあった「ヨーロッパには過去があってアジアには未来がある」という言葉を思い出す。
このHere We Goに未来があるとはとても思えない。でも、そこには、未来がないという現実を抉り出す凄みがあって、震えた。

45分の上演時間の間に、途中退場する人たちが何人もいたし、3場の繰り返しで、繰り返しが起きると、そこで途中退場する人たちや、"Oh no"と言ってみせるご婦人や、他人に聞こえるように苦笑してみせる人が、たくさんいた。
それは、この芝居がキツいから、自分を誤魔化そうとした人たちだったのだろうと思っている。
もちろん、なんでそんな態度をとったのか説明を求めたら、イギリス人のことだからその都度もっともらしいことを言うのだろうけれど、でも、きっと誤魔化しだ。

そういう人たちに対して、この芝居は開かれている。1場に立ち戻って、登場人物(生者たち)が口にする「わたしは、○年後、こうやって死にます」という言葉。その言葉を発する生者の立ち位置が、老人の死についての芝居を観ようとする観客の立ち位置と重なる。自分たちがどのような形であれ死に向かっていること(あるいは既に死んだも同然であること)を思い出させる明確な機能を持つ、誤魔化しを認めない、観客に向けられた呪いの言葉なのだ。

2015年12月5日土曜日

スーパープレミアムソフトWバニラリッチ

21/11/2015 20:00 @日本文化会館パリ

このタイミングで、パリで、チェルフィッチュの公演を観ることが出来たのは、自分にとっては大変大きな意味があった。
それだけでも大きかった。

日本での上演は観られなかったので、本作品は初見。チェルフィッチュの公演を観るのは「地面と床」以来。

パリ行きも以前から予定していた。電車で2時間半。極端に遠くはないだろう。美味しいものも食べたかったし、友人にも会いたかった。「わざわざパリまで」感は、さほど無い。前週のことがあったために、「今、パリに行くこと」について意味がついたように思う。

シーンの一つ一つが強く記憶に残る、素晴らしい体験だった。
それが、前週のことがあったからなのか、チェルフィッチュがキレッキレだったからなのか、なのかは、判然としない。
これが青年団の公演だったら。岡崎藝術座だったら。はたまたキャラメルボックスだったら。こんな風に記憶に残る観劇体験になったかは、分からない。結論は出ない。
でも、いずれにせよ、大変素晴らしい公演をみせて頂いた。

その出会いに、感謝する。クオリティの高いものを届けてくれた関係者/役者/スタッフの方々に、心から感謝する。

で、何が素晴らしかったのか。
芝居がはねた後、友人と色々話していたのだけれど、強く感じたのは、
「極めて上手であること、巧みであることは、決して嫌味なことでもダメなことでもないのだ」
ということ。
一つ一つの仕草が「意味の無い仕草」に見えたり「意味を持つ、意味を伝える、記号としての仕草」に見えたりする、
それが、絶えず揺らいで、観ていて飽きない。
誰が/誰に扮して/誰に対して/ 言葉を発しているのかも、絶えず変わる。しかも、それによって観ているわたしの意識の流れが邪魔されない。

ある動きが、「記号っぽく見える」のと「特に意味の無い仕草に見える」のを区分けするコンテクストは、ある集団が持つ「文化」によっても「個人」によっても異なるはず。
だから、作者/演出家/演者が一つのコンテクストを軸に一連の仕草を提示したときに、そのコンテクストが100%そのまま受け入れられる可能性は殆どゼロで、
したがって、観ている側からすれば、「あぁ、この創り手は、おそらく、ある一定のコンテクストに沿ってある仕草をみせている。それは、自分の想定するコンテクストとずれている/ずれていない。従って、この動きはリアルでない/リアルである。」という判断を無意識に働かせているのだと考える。
今回のチェルフィッチュの素晴らしかったところは、そのコンテクストの差異の継ぎ目を見事なグラデーションで「処理していた」ことだと思う。「処理」というと作業っぽいけれど、それは、本当にすごいことだ。
東京の日本人も、パリの日本人も、パリのフランス人も、みんなが、異なるコンテクストで同じ一つのパフォーマンスを観ていて、
おそらく、自分のコンテクストとのすりあわせをそれぞれに行いながら、その殆どがそれを楽しんでいたのだから。
で、「あぁ、ここで差が出るな」とか、「これは万国共通」とか、そういう境目が、(敢えて演者側から強調しない限りは)感じられないような、見事な肌触りだったのだ。

「自分の言っていることは万国共通、みんなに通じることだ」というナイーブな感覚を超えて、
「背負っているコンテクストが人それぞれなのだから、それに耐えられる強度を持ったパフォーマンスを、『剛』ではなく『巧』をもって創れば良い」
という発想。

また、語りの構造の強度もまた素晴らしく強くて、しかも、継ぎ目の処理が見事である。
それは、作者が、誰が/誰に扮して/誰に対して/ 言葉を発しているのかについて、常にクリアーに見えているからに違いない。

音楽も良かった。のっけからバッハの平均律クラビアを、あんなぺラペラな音で流してくるとは。
あれにしても、音楽のどの部分を自分の持つコンテクストに結びつけて捉えるかで、相当聴き方に個人差が出ていたはず。

いや、すごい。言うのは簡単だけれど、それをやってのけるのは本当にすごい。

昔、柴幸男さんの「御前会議」で、現代口語演劇の台詞をラップに乗せて語っているのを初めて聞いたときに、
「所詮、リアルな発語もリアルでない発語も、演出家による振り付けでしかない。後はそれがどう観客にとらえられるか、だ」
と気がつかされた時に、同じくらいビックリしたのを思い出した。

「わたしはあなたのコンテクストを100%共有することはできません。だから/でも、わたしはあなたのパフォーマンスを観る。だから/でも、わたしはあなたと会話を交わしたい。だから/でも、わたしはあなたと共存できる。」
そういうテーマが、語られる事柄や、その語り口や、みせかたや、そうしたところから、
わたしの意識の中に形作られているのを感じた。やられた。

本当に、素晴らしいアーティストの巧の技を堪能した。幸福な時間だった。

2015年11月25日水曜日

Measure for Measure

14/11/2015 19:30 @Young Vic Downstairs

シェークスピアの才能のレベルは本当にとんでもなくて、シェークスピア戯曲の取り扱いは難しい。
下手にいじると、いじらない方がまし、みたいになってしまう。
ストレートに上演しても、「戯曲の良さ」ばかりが目についたりして、演出・俳優が割を食う。

「尺には尺を」をモダンに演出していると聞いて、今回UKにやって来てから半年以上経って、初のシェークスピアをYoung Vicで。
結論から言うと、やはり、シェークスピアをねじ伏せるのは難しいのだった。

冒頭、幕が開くと舞台一杯にダッチワイフが積み上がっている
(男性を模したダッチハズバンドがこの世に存在するということを、わたしはその時初めて知った)。
役者はそのなかから這い出てきたり、それを蹴ちらしながら舞台上を移動する。
いや、それ、つまらないとは言わないけど、いかにもって感じで、面白くする要素も一つも無い。
仮に説明を求めれば、
「いやいや、この舞台におけるシェークスピアへの取り組み方のスタンスはあーでこーで、従って、ダッチワイフを積み上げてあることにはあーだこーだした意味があって、それは実はあーだかこーだか」
っていう説明を長々としてもらえることはほぼ間違いないと思うのだけれど、まあ、おかしくも何ともない。

アンジェロのステレオタイプな役作りと、イザベルのわざとらしい表情の作り方にうんざりする。ルーシオは達者な役者がやっていて、間の取り方、笑いの取り方が上手でほっとするけれども、そこまで。公爵は検討するも、演出の意匠に足を取られて突き抜けられず。
そんな中で、ギャングスタな紳士達、おとぼけプロボストが何とも言えず魅力的だった。シェークスピアは、あらすじに関係ないわきの人たちが楽しいと最後まで見ていられる。

総じて、そこそこに楽しめるシェークスピア。

それにしても、僕のすぐ後ろに座っていた親子連れ、両親と5−6歳の男の子。あのダッチワイフが「何か」について、お父さんはどんな説明をしてあげたのだろうか。ちょっと気になる。

2015年11月24日火曜日

Four Minutes Twelve Seconds

14/11/2015 15:00 @Trafalgar Studios 2

タイトルの「4分12秒」。自慢の息子がガールフレンドを半ばレイプして撮影し、その後ネットに流出したビデオの尺。
ガールフレンドの家族(こわーい兄貴とこわーい親父)が激怒して、さあ、どうする両親、という話を、
両親の会話を軸に、息子のガールフレンド(今や元カノ)、親友の男の子で描く4人芝居。

色んなことがネットで広まるって怖いよねー、っていう時事ネタはご愛敬、そこにフォーカスした「ネットって怖い」芝居ではない。
この芝居のコアのテーマは、「本当に取り返しのつかないことをしでかしてしまったときに、どうするのか」「どうしてあげられるのか」「どうすれば気が済むのか」ということである。
ネットの普及は、その取り返しのつかない範囲を飛躍的に広げてしまったのかもしれないけれど、世界が広かろうと狭かろうと、本人にとって取り返しがつかないことには変わりが無い。

そういえば、昔、吉田戦車のマンガに、
「よし、取り返しのつかないことをしよう!」って宣言してから、オーディオの蓋を開けて中に納豆をぶちまけて、「あー、本当に取り返しのつかないことをしてしまった」って言ってみせる、ってのがあったけれど、それ位取り返しのつかないことをしでかしてしまったとき。
捨ててしまえば済む問題ではない。

が、この芝居には、しでかした当人である「息子」は出てこない。それは良かったと思う。本人の気持ちを長々と吐露されていたら、ぶちこわしだっただろう。

しでかしてしまったことが、どれくらいのマグニチュードを持つのかは、4人の登場人物それぞれに異なっていて、それも、状況に応じて移り変わる。その見せ方は面白い。
その中にあって、演技の達者な両親役が、演技が分かりやすすぎたり先が読めたり(要は説明が上手すぎるのだ)して、紋切り型に陥りがちだったのに対し、
若い役者2人の演技がとっても面白くて、特に息子の元カノの女の子が素晴らしかった。
「取り返しのつかないことをされたときに、どうすれば気が晴れるのか」
について、ドライに、泣きを入れず、答えを示さず、説得力をもって演じて五重丸。
ちょっとおとなしめの男の子を演じた若い役者も、余計なニュアンスをつけず、複雑な気持ちを単純化せずに舞台に載せて好感度大。

総じてこじんまりと纏まって、見やすく仕上がっていたのは両親役の上手な演技の功罪。

Inextinguishable Fire

08/11/2015 17:00 @Dorfman Theatre, National Theatre

開場して劇場に入ると、舞台上にパンツ一丁の男が立っている。
開演して照明が変わると、防炎服で頭から足先まで固めた男が2人登場する。2人がかりでパンツ一丁の男に服を着せていく。
まずは、多分防炎なのだろう、股引みたいな白い肌着を履かせる。もう一枚。その上から黒い股引(スパンコールのようにきらきら光っているのは、多分防炎のためのローション)。
次に上半身。黒地できらきらした長袖の肌着を3枚。
次に靴下。最初に白いの、次に黒いの。
手袋。白いのの上から黒いのを嵌める。
それから、茶色いモコモコのライナーがついた、黒いオーバーオール。その上から、白い宇宙服みたいなオーバーオール。
頭にローションを塗りつける。それから、黒い伸縮性のバラクラーバ。目のところが長方形に開いている。もう一枚、透明に近いマスク。その上からもう一枚のマスク。
その間、顔の露出しているところをカバーするように、何度も確かめながらローションを塗りたくる。耳無し芳一にお経を書く和尚さんのようだ。一方で、息が詰まらないようにも気を遣っている。
靴を履かせる。2人で片脚ずつ靴紐を結ぶ。
最も外に着ている白いオーバーオールのフードをかぶせる。

上手と下手から、ペンキ缶を持った男達が出てくる。男のオーバーオールの下半身、腕、背中に、黄土色のペイントをぺたぺた塗りたくる。

男が一人、上手で消化器を構える。下手はよく見えないが、おそらくもう一人構えているのだろう。

下手から男が出てきて、たいまつに火をともす。

ここまで、開演から20分。

たいまつの男が、防炎服を着て中央に立っている男の足下に着火する。
オーバーオールが、おそらくさっき塗っていたペイントに沿って、燃え上がる。十字架の形をして炎が立ち上がるように見える。
燃える男が両手を広げて、「グオーーーー」と声をあげ、客席に向かってうつぶせに倒れる。
両側から男2人が駆け寄り、消化剤を掛けて鎮火する。

着火から倒れるまでおよそ10秒前後。鎮火所要時間4秒前後。ショーの終わり。

客電がつく。客席の反応は一様に「これでおしまい?」。
三々五々席を立って出口に向かうと、劇場の外にいる案内人が「この後、野外でショートフィルムの上映があります」といって場所を告げる。
小雨に変わりそうな霧の中を、指定された場所に向かう。

歩きながら考える。あの10秒、あるいは、鎮火されずに30−40秒苦しむようなことが、東京大空襲の夜には何十万と起きたのだと。
「熱い!グオーーーーー」という叫びが、少なくとも、何十万か。

上映が始まる。最初は何が映っているか分からない。白い壁のようなもの。
やがてそれが、燃え上がる男の白いオーバーオールの大写しであることが分かる。カメラが引くにつれて、燃え上がる男の全身が映る。
男が炎に包まれるまでの10秒前後を、10分に引き延ばして見せる。

炎というものは、なんと、色々な形をとりながら、燃やす対象物の表面を「舐める」ように広がっていくものだ。

鎮火まで見せると、そこから、今度は速度を若干速めながらフィルムを逆回ししていく。
最後にオーバーオールの部分が大写しになって、終わる。約20分。

解説を読まなければ、プロパガンダの臭いはしない(実際にどうなのかは、読んでないので分からない)。理屈っぽく捉えないつもりで帰れば、見世物としても悪くない。

このパフォーマンスが見世物以上の意味を持つとすれば、それは、
「燃え上がる炎は本当に熱い」「防炎服を着込んでも10秒前後で耐えられなくなる」ということを目の当たりにするということだろう。
この「熱さ」に対して、どこまで他人事でいられるか。

いや、他人事である。お金払って見てたんだから。

それを観ていた自分に意識が行ったときに、ぎくっとする。そういう作品である。

2015年11月17日火曜日

Medea

07/11/2015 19:30 @The Gate Theatre

オーストラリアで初演された現代版メデイアをUKの役者で。
母親に殺される息子2人に焦点を絞って、60分の芝居の9割方を子供2人でカバー。

この子供の演技がとてつもなく素晴らしい。

全く退屈せずに観ていられる。むしろ、息をのんでずっと観ていられる。
小道具の配置やそれとない話題の振り方も気が利いていて、それもすばらしい(それはもともとの戯曲の力)。
2階の子供部屋に閉じ込められた2人が、母親(それとも父親)が迎えに来てくれるのを待ちながら時間をつぶすのだけれど、
ケンカあり、お漏らしあり、駆け引きあり、兄弟愛あり、
どういう演出をつけたのか知らないけれど、とにかく、演技の中に思わせぶりが一切入ってこなくて、本当に素晴らしかった。

そのまま芝居が終わっていたら、ひょっとしたら今年観た芝居ベスト3に入るくらいのできあがりだった。

が。しかし。

母親(メデイア)が登場して、泣きの入りまくった「あなたたちを愛してるのよー!」な演技をご披露されたことで、芝居が壊れた。
全てが台無しである。

だいたい、子供を殺す局面ではみんながみんな追い詰められた表情をしなきゃならないと考えた時点で、演出と役者の想像力の貧困丸出し。
南伸坊なら満面に笑みをたたえながら、安部聡子なら笑ってるんだか泣いてるんだか何だか分からない薄笑いで、原節子ならいつまでも優しいお母さんの顔のままで、2人の子供をサクサク殺してしまうはずである(原節子はきっとその後、国外脱出してから3年ぐらいたって、「私、本当はずるいんです」と言うに違いない)。

そもそも子供を殺すと決断するまでの心の移り変わりが勝負所なのであって、実際にそれを実行する場面になって
ハーヒーハーヒーな顔をして見せてくれたところでまったく説得力ないし、クサいだけ。

この間みたAlmeidaのメデイアは、前半の絶叫芝居はキツかったにせよ、少なくとも最後の泣きまくりだけは回避していたよ。

わたくしは、声を大にして言いたい。

メディアの主演女優は、泣きの演技禁止!!

2015年11月16日月曜日

Mr Foote's Other Leg

07/11/2015 14:30 @Theatre Royal Haymarket

18世紀ロンドンの人気劇作家・俳優だったSamuel Footeの半生、栄枯盛衰を描く物語。栄もあれば枯もあって、エピソード盛りだくさんなんだけど、前半の栄の部分はいささか饒舌に過ぎて眠くなった。後半、Footeが片脚を失ってからの展開が俄然面白くなる。

名声がもたらす「躁」と、足の欠損・栄誉の失墜がもたらす「鬱」の絶え間のない切り替えを演じるSimon Russel Bealeの演技が素晴らしい。特に台詞のないときの表情が素晴らしい。前半の、状況を説明し組み立てていくための饒舌から解放されて、台詞に頼らない演技をしてもよい局面になってからの一挙手一投足は、本当に見逃せない。
この上演中も、一カ所「本当に、どんな気持ちでいるのか、分からないじゃないか!知りたい!もっと知りたい!」と食いついてしまいそうな、神様の降りたような瞬間があって、その立ちが観られただけで、この公演に足を運んだ甲斐があったとつくづく感じたことである。

Simon Russel Bealeが出演していなかったらきっと観に来なかっただろうと、開演前もそう思っていたけれど、終演後の感想もまさにそのままだった。

The Hairy Ape

04/11/2015 19:30 @The Old Vic

1920年代にユージン・オニールが書いた戯曲を2015年に上演。これが、まったく古くさくなく、力強く迫ってきた。
汽船の底で石炭を釜にくべる男達。そのリーダー格の男が、ある日視察にやって来た大資本家の娘に獣呼ばわりされてショックを受け、都会の連中に本当の地に足のついた暮らしってのがどんなものなのかを思い知らせてくれようとニューヨークまでやって来る。そういう話。
筋書きとしては、「都会のネズミと田舎のネズミ」にひねりをきかせた感じ。
こうやって書くと、いかにも古くさい。でも、舞台に載っているのを観ていて、ちっとも古くさいとは感じない。
いや、古いんだけれども、現代に、現代の役者の身体での上演に違和感がない。

前の週に観たUbu and the Truths Commissionsが、初演から20年で圧倒的に古びてしまったことを考える。
もっと言うと、この秋UKで大量に上演されたギリシャ悲劇も、何千年かたっても古びなかったり、現代に翻案しても古くさかったりする。
これは何故なのだろう?

テーマが古かったり、現代にも通じるものがあったりするからか?
それは一見ありそうに思われるけれど、いやいや、UBUの内容も、相当色々な時代・文化を超えて通じるテーマを扱っていたはず。

うーむ。仮説としては、
「違う場所で、違う人間によって、既にある戯曲を上演すること」に対して自覚的か、自覚的でないか、ということなのではないか、と考えている。
そこに自覚的でないか、あるいは、敢えて目をつぶって、あるいは「テーマが普遍的であるから、上演する時代・シチュエーション・観客に拘わらず同じことをしても良い」
と考えて、「自分たちの芝居」をしてしまうと、そこで古くさくなってしまうのかな、と。

日本でいうと、去年観た青年団の「暗愚小傳」が、初演から20年以上たっても古くなかったのは、
テーマもさりながら、現代口語演劇で演じる役者の身体が、時代に合わせて変わってきている、それを演出もしっかり踏まえていたからではないかと思う。

中野成樹+フランケンズが、古い戯曲を「敢えてあからさまに」現代日本人の身体で上演していたのも、とても面白かったな。そういえば。
このHariy Apeのラスト近くの演技を観ていて、フランケンズを思い出したんだ。フランケンズの役者はあんなにマッチョじゃないけど、
でも、外からの刺激に対する反応とか、現代人の身体を感じさせるという意味で、どっちも古くない。

UBUの芝居は、そういった点で、ちょっと自分たちのやり方に頑固で、ウブだったのではないかと思い至った。
(これをいうためにさんざん色々書いたわけではありません)

2015年11月8日日曜日

Ubu and the Truth Commission

31/10/2015 19:30 @The Print Room

1997年初演。南アフリカのアパルトヘイトから政権交代に至る時期の状況に対する、やるせない怒りに満ちた寓話。
ロングラン中の人気の芝居"War Horse"の人形を手がけているHandspring Puppet Companyによる上演で、
パペットの使い方、スクリーンへの投影等々、見所の多い芝居であるはずだが、
どういうわけか、新聞の評が悪くて、しかも「時代遅れになってしまった」とあって、一体どうしたことかと思っていたのだが、
実際観てみると、そういう評価は必ずしも、少なくともロンドンでは外れていないと感じた。

役者の技量のレベルが低いわけでもないし、人形もよくできてるし、投影もシンプルながら力強いメッセージを映して、それ自体は悪くない。
ただし、全体に漂う雰囲気が、なんだか、古典芸能、っぽいのだ。
何をもって古典芸能と呼ぶのかについては、なかなか定義しにくいところはあるけれども、でも、古典芸能っぽい。
「はい、今日はこれをやりまーす」「お客さんはこれで納得して下さいね」感だろうか。なんだろう?
昨年観た「暗愚小傳」が、25年ぶりに観ても力強さを失っていなかったことと比べてしまう。

この芝居を今観て、同時代の力強い芝居として捉える観客もきっといるはずだ。そしてそれは、現在の南アフリカの人ではないという気もする。

だから、この芝居を「古くさい」と感じてしまうのは、ロンドンで芝居を観ていたり、東京で観ていたりするから、すなわち、「すれているから」かもしれなくて、
そう考えると、むやみに古くさいと決めつけてしまってはいけないのかもしれない。

いや、実は、1997年の時点で、もう既にこの芝居は「古くさく朽ちてしまう」ことを運命づけられていたのかもしれない。
テーマがたまたま時宜を得ていたために、ヒットし、人々の記憶に残っているのかもしれない。

これは、難しい。でも、確かに、古くさかったんだ。

2015年11月3日火曜日

Plaques and Tangles

31/10/2015 15:00 @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

若年性の認知症が発症した女性とその家族を描いた芝居。テーマとしては、現在ウェストエンドで絶賛上演中のThe Fatherと同じく、認知症患者とそれを取り巻く人々の関係をシリアスに描いて、力の入った舞台であることは理解するけれども、残念ながらそこまで。The Fatherと比べると、芝居のフォーカスの強さ、構成の巧拙において、遙かに及ばない出来映えに終わっていた。

認知症という病気が「劇的」であるのは、患者の認識と周囲の客観的状況が食い違う、というところにあると思う。The Fatherは、舞台に載せる状況を患者の認識に合わせる「一人称」の構造を採用し、そうした状況の不整合、破れ、矛盾といったものを観客に示して、大きな効果を挙げていた。
このPlaques and Tanglesでは、その「視線の使い分け」が若干混濁していたように思われる。一人称の「本人の認識が整合性を持たず当惑する」シーン、他の家族の構成員が患者を見つめてそれぞれの見方を吐露するシーン、それらが一度に舞台に載って、観客から家族全体を俯瞰するシーン、過去の本人が登場する(それは、客観的な事実と示されているのか、本人の記憶の中身なのかは判然としないが)シーンが、それぞれ、相応の思い入れを持って提示されるのだけれど、それがうねりをもって繋がっていかない点を、敢えて「巧拙」の問題として語りたい。

様々な人々を均等に描こうとして、ちょっと出来の悪い群像劇のようになってしまったのも勿体なかった。

2015年11月1日日曜日

The Moderate Soprano

30/10/2015 19:30 @Hampstead Theatre

ロンドンから南に抜けた郊外の田園地帯に、グラインドボーンという場所がある。
そこには、夏の間だけオペラが上演される「個人の敷地に作ってしまった」オペラハウスが建っている。
立てた当初はキャパシティ300人という、型破りに小さなオペラハウスだったという(今は1200人)。
昼間から盛装して郊外のオペラに出かけるというのが、ロンドンに務める日本企業の駐在の間でも「一度はやってみたいことの一つ」のように言われていたことがあった。

この芝居は、その、自分の持つ地所にオペラハウスを建ててしまった男の話である。
Modest Sopranoというのは、彼の妻のオペラ歌手を称して、「柔らかな声質の」という意味で使っている。一方で、moderateというのは「まぁまぁの歌い手」という意味にもとれる、そして彼の妻は実際まぁまぁの歌い手でしかなかったのだ。
だから、この芝居は、John Christieというオペラ好きの男が、好きが昂じて声質がどんぴしゃ嵌まったソプラノ歌手に入れ込んでしまうこと、その歌手と結婚した後に、自宅にオペラハウスを建ててしまったこと、について描いた芝居、ということになる。

このJohn Christieという男は、少なくとも舞台上では、著しくバランスを欠いた男として描かれている。半端なく金持ちで、いばりんぼうで、スピード狂で、ワグナー好きのモーツァルト嫌いで、一度言い出したら人の意見は聞かないくせに、奥さんにはぞっこん入れあげているからその言うことだけは聞き入れてしまう。
そういう著しくバランスを欠いた男の、バランスを欠いた執着・オブセッションを、David Hareは、105分一幕の芝居の中で、何ともバランス良く描ききっていた。その技量に感服した。

実は、ごくごく最近まで、勉強不足で、David Hareという名前は知らなかったのだ。東京でやってるナショナルシアター公演の映画館上映で、Skylightっていう芝居が妙に評判が良くて、「どんなもんなのかね」位に思っていたら、実はHampstead Theatreで新作を上演するんだと知って慌ててチケット予約しようとしたら既に売り切れ。
リターンを待ってギリギリのタイミングで再チャレンジしたら運良く席が取れた、という顛末。

Hampstead Theatreがこの大作家の新作を上演出来ることになったのは、David Hareがこの近所に住んでたからだとどこかに書いてあったが、このハムステッド界隈も、サセックスのグラインドボーンに負けず劣らずミドルクラス(直訳すれば中流だが、実際は、金持ちの上流の人たち)の牙城であって、案の定劇場に行っても金持ちの老夫婦、話す英語も綺麗で態度も大変鼻持ちならない、みたいな方々がたくさん来ていたのだ。うーむ、そういう層にアピールする芝居となると、相当甘ったるいんじゃないかと心配になったのだが、さにあらず。これは、鼻持ちならなさとか、そういう意味も含めてバランスを欠いた人と、それを取り囲む世界との折り合いの話であって、金持ちとかそうでないとかいうのは、「史実がそうだったから」ついてきたおまけでしかない。

だから、成功した作家が書いた金持ちのドリームの話だから、現代UKの観客にとってのレレヴァンスに欠けるとか、そういう批判は当たらないだろう。色んな地域や色んな人が観て、色々考える芝居だと思うのだ。

僕は、この芝居を観ながら、やっぱり自分の自宅を芝居小屋にして、借金抱えたまま丸ごと息子に芝居小屋を譲り渡して、その建物の5階に住んでいた日本人のことを考えていた。あの人も、バランスのとれてない人だったなぁ、と考えていた。Christieには、ある意味バランスのとれた小屋番や音楽監督やプロデューサー(後のNY Metropolitan Operaの支配人になった男)がついていたが、その日本人には、すごいキャパシティを持った妻とバランスのとれた息子がいて、その後、なんとかかんとか乗り切ってきた。ただその息子も、16歳で世界一周単独自転車旅行に出かけちゃったり、自宅の地下に稽古場作っちゃったり、他の意味でバランスとれていなかったりするんだけれど。

その、著しくバランスを失したオペラへの愛と妻への愛が、バランスを取らないまま頂点に達する「こけら落とし」に焦点を絞っていく展開が素晴らしい。
また、上演した演目を妻に語り聞かせる夫の台詞が、観客の笑いを誘いながらも、いや、だからこそ、とてつもなく悲しい。

そういったシーンも上手く盛り込みつつ、Christieのバランスを失した生き方をバランス良くまとめて、Hampstead Theatreというある意味こじんまり纏まった小屋で1時間45分の芝居にした、という時点で、この芝居はウェストエンドの派手目な芝居でありがちな「大きな物語」を、おそらく、あきらめている。その意味で、Moderateな芝居である。それでよいのだ。コンパクトに纏まった芝居は、かならずしも想像力のスケールの小ささを意味しないのだから。それは、僕の知ってる、日本に建った自宅兼芝居小屋でも同じことだ。小さな小屋、小さな芝居、そこから大きく想像力がジャンプできるということは、もう、みんな知っている。

2015年10月30日金曜日

Medea

24/10/2015 20:00 @Almeida

主演女優のバリバリ絶叫芝居で引っ張っといて、最後「今さらそれで終われるとでも思ってんのかー!コラー!」と言いたくなる幕引き。
何とも言い難い後味の芝居になってしまった。

王女メディアと言えば、別れた夫の妻、その父、果てには自分と別れた夫の間の2人の子供まで殺してしまうという、大変な人の大変な芝居なのだが、
このプロダクションでは舞台をまるごと現代に移し、メディアが王女ではなくて売れない物書き、別れた夫は若手新進女優に惹かれる俳優業の男、ということになる。
長髪かき乱して家族ほっぽらかしてマックに向かうメディアの姿が「いかにも」で、これまたクリシェに嵌まるのではないかと大いに不安になったが、
その不安を上回る絶叫ぶりでぐいぐい舞台を引っ張っていく。

このテンションで行くならば、最後は相当血で血を洗う大スペクタクルで締めくくるのだろう、と思いきや。

<以下、ネタバレ>

片方が男、片方が女のあしゅら男爵みたいな人が出てきて、その後の成り行きを全部解説してくれてしまったのだった。
え?
説明台詞でおしまい? と思いきや、
ラスト、相次ぐ悲劇に打ちひしがれた前夫がでてきて、どうしてくれるんだ、何をしでかしてくれたんだ、と言って、おしまい
(もちろんその間メディアは舞台上にいるのだけれど)。

<ネタバレ終了>

こういうラストを見せつけられてつくづく思うのは、平田オリザの巧さである。
そういう説明台詞にうんざりしていた観客に、現代口語演劇で、日常会話を使って、物語を「想像させてしまう」という、その、ずるさ!
その一端でも盗んできていれば、もうちょっと素敵な現代劇になっていた予感がする。

コロスの女性6人組のキャラが面白く、前半から中盤のペースを支えていた部分もあって、
メディアの絶叫ぶりにも目をつぶっていられたのだが、このラストのために1時間半我慢していたわけではないぞ、
こんなことなら最初から絶叫無し、静かな演劇で通してくれていっこうに差し支えないぞ!
と思いながらアルメイダを後にした。

Clarion

24/10/2015 15:00 @Arcola Theatre

諷刺を気取るのには余りにも甘い作り。

産経ばりの過激な右寄り見出しで部数を伸ばす新聞の編集室内幕ものなのだが、
スピンドクター系のテレビ番組を意識したのかことさら下品な言い回しや滑稽な身振り手振り、極端な言動。
登場人物の造形もまさにクリシェの塊で辟易。
Thick of Itだってここまでチープな作りにはしてなかったよ、と、怒りを禁じ得ず。
むしろ、ピーター・カパルディの偉大さを思い知る良い機会だった、と割り切るべきなのだろうか。

2015年10月29日木曜日

Barbarians

23/10/2015 19:45 @Old Central St Martins School of Art

ロンドンのルィシャム(イメージ的には蒲田とか小岩な感じ)に住む、職無しカネ無し彼女無し、の3人組が織りなす1977年青春ドラマ。
1977年だから、スキンヘッドはまんま危ないヤツだし、北アイルランドはほんとうにヤバい場所だし、ノッティングヒルカーニバルはヤバいお祭りだった頃だ。
そして、(今回この芝居が上演されている)Old Central St Martins School of Artで、セックス・ピストルズが最初のギグをやった頃だ。

行き場のない若者劇の古典芸能として上演すれば十分元が取れる芝居なのに、2015年に上演しても十分に説得力のある、力強い公演だった。
疎外と排除と希望のなさを、一切、「包摂と共有と希望」への道を思わせないようにストレートに書き切った戯曲を、
3人の男優が、ストレートに、ケレンなく、演じていた。
それができれば、あとは、「この」時代に響く芝居かどうかが勝負で、実は、本当によく響いていた。
だから、観客は、1977年の芝居を観た後に、2015年について考えざるを得ないのだ。
劇中、「未来はどうなんだろうなぁ?」なんて臭い台詞がなくても、観客はそれを考えざるを得ないのだ。

だから、この戯曲は名作なのだし、今後も名作であり続けるのだろう。

場所の雰囲気(使われていない校舎の2つの階を、それこそ使い倒していた)や、観客の期待感も手伝って、2度の休憩を挟んだ3時間が長く感じられなかった。

2015年10月23日金曜日

Fake It 'Til You Make It

17/10/2015 19:15 @Soho Theatre

日本では「ツレがうつになりまして。」ていう本が出てて、映画にもなっているが、この芝居は、おそらく(日本の「ツレが・・・」を読んでないので本当は何とも言えないのだが)、UK版の「ツレがうつになりまして。」だろう。

若い頃からウツを発症していたが、それを隠していた夫(結構バリバリ系のサラリーマン)。その妻、役者。
その2人の話を、何と、本人達が舞台に載せてしまうという、キツいような、笑ってしまうような、そういう60分。
2月からツアーを始めて、売り切れ御礼だったエディンバラの公演を含めて100回ぐらい公演してきて、その大千穐楽に観に行ったのだが、その間に、なんと、妻、役者は、妊娠してお腹が大きくなっている。
もともと役者ではない夫は、なかなか歌も上手いし動きもさまになっていて、正直、僕は、「役者が夫役を演じている」と、途中まで思っていた。
妻のお腹も、ひょっとしたら詰め物なのではないかと、途中までかなり疑っていた。

が、実は、というか、まさに、その2人そのものの話であって、この舞台がどの程度エンターテイメントとして面白いのかと言うことになると、いや、正直、人に勧めるほどにはエンターテイニングでは無いのではないか、とも思ってしまうのだけれど、
でも、僕は、結構楽しんで観た。かも。

2015年10月22日木曜日

Eventide

17/10/2015 15:30 @Arcola Theatre

この芝居を観た同じ日の夕方、別の芝居で隣の席に座ったご婦人から、昼に観たEventideがどんな芝居だったかの説明を求められた。
自分でも月並みな説明だなーと思いながら、
「人生で得るものと失うものの話でしたよ」と言ったのだが、おそらく、今考えてみても、その印象は変わらない。

イングランド南部、海に近いところにある田舎の村のパブ。その裏庭。閉店になるパブの、嫁に逃げられたマスター、近所に住む、高速道路の路肩整備をしている青年、徐々に仕事を失いつつある教会のオルガン奏者の独り身の女。この3人の物語。閉店当日と、その1年後。人生で得るもの、失うもの。

こう書いただけで「いかにも」な感じがするかもしれないが、話の展開もほぼ予想通り。だから書かない。

設定された日付が、「閉店当日」と「そのほぼ1年後の、おめでたい日」というのが、まず、ひっかかる。「何故そういう特異な日を選んで芝居させなきゃならんのか。閉店の前の日とか、閉店が決まる前の日とか、そういう、普通の日を選んでもいいじゃないか」と、どうしても思ってしまう。
「特異な日の特異な瞬間の心の動きを説明してもらいたい」とは思わなくて、「特異でない日の、特異かもしれない特異じゃないかもしれない心の動きを想像させてくれよ」と、どうしても要求してしまう。自分の悪い癖である。これは一生直らない。

しかしですね。ラストのシーン。この青年にとって、本当に「特異な日」というのは、実は、「閉店当日」でも、「そのほぼ1年後の、おめでたい日」でもないってことが分かるんですねー。そして、この、ほぼ最後の台詞が、なんとも美しかったのですよ。
だから、それまでの、いろんなブツクサなものが、さっと飛んで、なかなか得がたい余韻が残る。

心に刺さる芝居を観たなー、と思う。途中の語り口とか、話の構成とか、登場人物の造形とか、何とも粗いなー、っていうような不満はたーくさんあって、もっと上手く書けたはずだ、と思うけれど、もう、それは、どうでもいいや。良い芝居でした。

The Last Hotel

16/10/2015 19:45 @Linbury Studio Theatre, Royal Opera House

初めてロイヤル・オペラ・ハウスでオペラを観た。
が、オペラと言っても、上演時間は一幕90分。アイルランドの若手作家・作曲家による作品を、会場はメインホールではなくて、Linbury Studio Theatreという、まぁ、名前の通りの、キャパ250人くらいのスタジオで。オーケストラピットには、エレキギターやアコーディオンも入れた15人くらいの小ぶりの楽団が控えている。

The Last Hotelは、この夏のエディンバラで上演されていて、評判もそこそこ良かった公演。今回は期間限定、6日間のロンドン公演である。

現代音楽に乗せた現代オペラ。歌はいわゆるメロディを歌い上げるのではなくて大変難しそうだし、話もかなり現代劇っぽい(ぽい、というのは、現代劇ではなくて、これはやはりオペラだから)。正直、観終わって、感銘を受けることもなかったし、衝撃を受けることもなかったし、オペラって面白いなー、とも思わなかったし、これから積極的にオペラを観に行こうと思い始めたりもしなかった。

舞台セットは、シンプルで格好良く仕立ててある。劇場の壁を上手・下手ともにむき出しにして、中央に若干舞台手前にかけて傾斜をかけた10m四方の平たい舞台。上袖、下袖にはテーブルや衣紋掛け、その他諸々のものが雑然と置かれ、舞台奥には2m位せり上がった土手がある。舞台の前面、蹴込みはちょっと奥に貼ってあって、客席から見える位置にはプラスチックのパイントグラスが雑然と。片方だけのピンクのハイヒールもひっくり返って放置されている。いかにも「何かをやりかけたまま」の「死の予感」をお客さんに「連想して下さい」とお願いしている。

4階建て、地下1階の、本島からは船でしか来れないところにある打ち捨てられたホテル。従業員は中年の男1人。使う部屋は地下のバー・レストランと4階の一室のみ。やってくるのは夫婦一組と身なりの良い婦人一人。この婦人は、自分がこのホテルで自殺する、その手助けを夫婦に頼んでいる。で、まぁ、最後にはこのご婦人、死んじゃうんだけど。っていう話。

ただ思ったのは、「このプロットで歌なしの芝居だったら確実に寝てたな。この歌でプロットがついてきてなかったら、やっぱり確実に寝てたな」ということである。つまり、歌と芝居が組み合わさっていたが故に、寝ることなく、最後まで観ていられた、ということで、それはもしかすると面白く観られた、ということなのかもしれない。
実際のところ、「台詞が歌ってる芝居」ってのもあるし、「台詞がラップの芝居」ってのもあるし、そもそも現代口語演劇だって、「歌ってないように台詞を言う」っていう振り付けが台詞についているだけの話なのだから、「台詞が歌の芝居=オペラ」も、あっていいんだよな。そうすると、オペラが面白いとか面白くないとかではなくて、やはりこのオペラが(ひょっとしたら面白いから最後まで眠らず観られたのだとしても)ガツンとはこなかった、と、そういうことなんだろう。

2015年10月18日日曜日

きゃりーぱみゅぱみゅ in London

11/10/2015 19:00 @Roundhouse

もっと、ギレルモ・デル・トロ監督のPan's Labyrinthみたいな世界が繰り広げられるもんだと、勝手に勘違いしておりました。

意外に、と言っては大変失礼なのだが、ちゃんとしたライブだった。
衣装替えはアンコールも含めて2回。衣装ではなくて、歌と、6人のダンサーと、舞台中央上部のプロジェクションを使った勝負。

会場前からRoundhouse前は長蛇の列で、その中にコスプレしてる女の子が少なくとも40-50人は居る。きゃりーみたいなコスプレしてる男の子も少なくとも3人は目視確認済み。
いや、こりゃ楽しそうだ。

きっと、こんな人たちを相手にするんだから、きゃりーぱみゅぱみゅ本人もすごーいコスチュームつけて、舞台と一体化してて、
3分に1回は派手に舞台が割れて、中からおどろおどろしいデル・トロ仕込みの着ぐるみがスモークと共に出てきて、それが妙に左右対称になっていて、
そこできゃりーぱみゅぱみゅがせり上がってきて、
っていう、そういうめくるめくコスプレ・着ぐるみ絵巻が見られるものだと、勝手に勘違いしておりました。

すみません。

声も出ていたし、ファンの方々は、シーティングエリアで僕らの前で踊りまくってた6−7歳の女の子3人組もとても嬉しそうで、
シーティング最前列のスキンヘッドのおじさんもとっても楽しそうに身体を揺らしていて、
幸せな会場だった。
ファンでもないのに物見遊山で来てしまった自分が、本当に申し訳ないです。

2015年10月16日金曜日

Hangmen

10/10/2015 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

僕は、栗山民也さん演出の「海をゆく者」が大嫌いだ。評判がとても良くて再演もされたけれど、僕は日本語初演を観たときの嫌悪感を忘れない。オリジナルとの余りの落差に怒り狂ったのを覚えている。何が気に触ったのかというと、「達者な俳優達」が、いかにも上手に「アイルランド」の人たちっぽく、「愛すべきダメ男達」を演じていたからである。
コナー・マクファーソン本人の演出による初演は、誰にも愛されない、観ていても愛しようのない男達の話である。アイルランド人っぽい人たちの話じゃなくて、アイルランド人の芝居である。アイルランド人の主人公はアイルランド人っぽい茶色の革靴は履かない。アシックスのジョグシュー(ニンバス)を履く。誰にも愛されない人の魂が救われるのか救われないのか、っていう、極めてカトリック的な話だと思っていたのに、日本語になった途端に見事に換骨奪胎されて、クリスマスのちょっといい話に収まってしまった。
そういう換骨奪胎、「これがアイルランドっぽいクリスマスの愛すべきダメ男の話ですよー」というチープなイメージの押しつけが、なまじ演出・俳優陣が達者なだけに、思いっきり見るに堪えないものに仕上がってしまっていたのだ。
それ以来栗山民也氏演出の芝居は観ていない。

何故、マーティン・マクドナーの新作"Hangmen"のことを語るのに、コナー・マクファーソンの芝居の、しかも日本語版を引き合いに出したかというと、
実は、まさにこのHangmenという芝居を、栗山民也氏演出でパルコ劇場で、主演吉田鋼太郎で上演したら大いに面白いだろう、と考えたからなのです。
それくらいに上手に書いてあって、完成度が高くて、随所に笑いを盛り込みながら、時々ほろっと、時々シリアスに、という、なんとも上出来な舞台だったからなのです。

1965年、死刑が廃止になったその日の、イングランド北部の街オールダムのパブ。元、英国第2の死刑執行人として知られたハリーとその家族がそこの経営者。元死刑執行人ナンバー2のコメントをとろうと、地元紙の新聞記者がやってくる。常連の地元客=おとぼけ三人組がやってくる。見るからに怪しい、ロンドン訛りの、お前はまんま若き日のマイケル・ケインかい、っていう風情の男がやってくる。昔の死刑執行人仲間もやってくる。
そういうシチュエーションの中で、一見ドタバタ喜劇のようにも見えながら、「職業自体が失われてしまうこと」とか「死刑執行の殺伐感」とか、まぁ、「親父の哀愁」とか、そういうのが時々顔を覗かせる。
2時間20分、全く退屈せずに見た。幕間に後ろの席のご婦人が、「だって訛りがきつくて・・・」と旦那に不平を言うくらいに訛りがきつくて、ついて行くのに四苦八苦しても、まったく集中を切らさずに観ることが出来た。

本当に上手い戯曲を書く人だなー、と思っていたら、案の定、In Brugeを書いた人だった。演出はWe can see the hills (ここから山が見える)のMatthew Dunsterだった。あー、道理でねー。なるほどなるほど。
文句なし5つ星レビューがついているし、ウェストエンドの大きな小屋でも上演されることが早々と決まって、大入りは間違いないだろう。

でもね。すごーく良く出来た芝居、以上のインパクトは、実は、無かった。この芝居を観て人生観が変わる人とか、ガツーンと食らって、ちょっとは物事を考えよう、なんていう人はいないだろう(いや、考えさせる芝居であれば良い、ってモンでもないんですが)。でも、2時間20分、とても面白かった。極めて上質のエンターテイメントであることは間違いない。

だから、栗山民也さんの演出でパルコ劇場で上演するのに相応しいと思う。1960年代イギリスの話だから、どれだけ「イギリスっぽく」作ったって構わない。是非達者な役者を揃えて、愛すべき死刑執行人とその仲間達を存分に演じて頂きたいと思う。吉田鋼太郎さんが演じる役も、浅野和之さんが演じる役も、僕の中ではもう決まっている。

2015年10月15日木曜日

Martyr

08/10/2015 19:00 @Unicorn Theatre

このところ一種流行りのようにもなっている、「不寛容に対する不寛容は許容されるのか」というテーマを、突如キリスト教原理主義者になってしまったティーンエイジャーと、
それを更生させようとする熱血理系女教師、それを取り巻く人々とで描いた意欲作。意欲的なのは良いけれど、あまりにもガチで深刻な問題を取り扱おうとしたらために、ラスト近くでストーリーと風呂敷を畳む作業に対して妥協せざるを得ず、なんとか(それなりに相応しい衝撃的な)結末は迎えられたものの、舞台としては失速してしまった残念な作品。

<以下ネタバレあり>

Martyrというのは「殉教者」という意味だが、この芝居では、
①原理主義に心身とも捧げてしまう人と
②文字通り手足を釘で打ち付けられてしまう人、の、
2つの意味を持たせられている。すなわち、主人公と、女教師のことである。当初、「教育に宗教の原理主義を持ち込むことは絶対に許さない」としていた女教師が、ラストで自らの足を釘打ちして「梃子でも動きません」=磔刑に遭うキリストと絵柄を重ねつつ、「宗教と教育の分離」の殉教者になってしまうことに、アイロニーをにじみ出させている。

が、実は、この話は、「原理主義者」対「宗教と教育の分離主義者」の話では終わっていない。それが失速の原因である。

女教師がどんどんテンパっていく過程で、実は、「原理主義者」対「テンパっている人」へと物語の構造は徐々にシフトしていたのだが、

主人公のティーンエイジャーが、「嘘をつく」瞬間に、この物語は明らかに失速した。この瞬間、それまでの「狂信者」対「狂信者」の、和解の可能性が見いだせない衝突が、
単なる「ウソつき」対「テンパった人」のありきたりな対決へと堕してしまった。作者が決して「狂信者が信念を守るためにウソをつく話」とか、「狂信者同士のぶつかり合いなんて所詮この程度だ」とか「冷静にいきましょうよ。みんな仲良く!」とかいうことを意図していないのはよーく分かるのだが、でもやはり、「嘘つきの狂信者」にはそれなりに対処法があるし、「テンパった人」には「冷静にいきましょうよ」と言えば済むのだ。

そして、どうにも解決しようのない問題を扱う緊張感溢れる芝居を見る目をしていた観客も、「ウソつき」対「テンパった人」の物語になった瞬間に、ドタバタ学園劇(ちょうど本谷有希子の「遭難。」のような)を観るときの「まぁ、現実にはこんなこと起きないんだけどね」という、余裕の目で舞台を眺めていられるようになってしまうのだ。

本当に恐ろしいのは、そして手に負えないのは、絶対に嘘をつかない、非の打ち所の無い「狂信者」である。そしてもっと恐ろしいのは、議論が白熱し、相手のウソによって追い詰められた挙句、自分の両足に釘を打ち込む逆上女ではなくて、きわめて冷静に、そして穏やかに、ロジカルに、自分の両足に釘を打ち込む人である。

トニー・ブレアのウソは怖くない。デイヴィッド・キャメロンのウソも、所詮人気取りのためと思えば怖くない。ナイジェル・ファラージュも怖くない。怖いのは、テレーザ・メイが、「移民の受け入れは英国社会を分断する恐れがある」と真顔で語る時だ。なぜならそれは彼女がそれを本気で信じて言っているからだ。右派がコービンを恐れるのは、コービンが本当に自分の言ってることを信じているからだ。

そういう手に負えなさを示すのに、やはりティーンエイジャーを持ち出したのは作戦として上手く作用していなかった気がする。もっといい大人を使っていれば、と思ってはたと思い出した。Nick HornbyのHow to be goodは、いい大人の間の「寛容に対する不寛容」の話だったなぁ、と。おそらく、何らかの形で折り合いがつくというのが、ハッピーエンドかどうかは別として、直視すべき現実に近いところなのではないかと思う。そこをぎゅっと直視して、観客にリアリティーを感じさせられれば。この作品は、その作業を最後の最後にサボってしまったように思われて、残念である。

2015年10月11日日曜日

King Lear with Sheep

03/110/2015 19:30 @The Courtyard

羊8頭と人間1人によるリア王の上演、45分。

タイトルが、”King Lear with Sheep"であって、”King Lear Performed by Sheep"でないことに注意が必要。確かに、羊の中の一頭は紙で作った王冠をかぶっているし、娘の衣装をまとった羊たちもいた。が、大方の予想通り、登場する羊たちは芝居のプロットには一切興味を示さず、舞台上にばらまかれた餌を食み、フェンスに身体をすりつけ、蹴込みの幕を留めている黒ガムテを噛んで引っ張り、時たま観客に眼を向けながら糞をひり出すばかりである。動く置き道具みたいなものである。

そうすると、あとは、人間の役者がそれをモチーフにしてどう芝居を作るか、という問題になる。

つまりこの公演は、「羊によるリア王の上演を、観客に観てもらう公演」ではなくて、「羊にリア王を上演させようとしたらどうなっちゃうのか、という状況を、人間が演じて、それを観客に観てもらう」公演なのであある。まぁ、そういうものとして楽しめば相応に楽しく、興行主の役の俳優がリア王のセリフを自ら発することで帳尻を合わせようとするシーンも、それなりに滑稽ではあるが...

実は、冒頭、羊たちの登場を待つシーン(既にこの公演のメタの構造がそこで示されているのだけれど)で、役者の妙な照れを感じて、既にちょっと興ざめしていたのだ。つまり、「あれ、おかしいな」と、(1) 客席目線に近いところでスタートするのか、(2) そういう演技であることをあからさまに曝しておいてスタートするのか、とでは、その後の観客のメタ構造への入り込み方に差がでてくるんじゃないかなと思ったのだ。この公演では役者は(2)を選択肢していて、僕にはそれが良い方向に働いているとは思えなかった。
結果、それなりに楽しかったけれども、もっといけたはず、エンターテイメントとしては羊たちの予測不能な振舞いに救われたね、ということになるだろう。

2015年10月5日月曜日

The Red Lion

28/09/2015 20:00 @National Theatre, Dorfman Theatre

三流セミプロフットボールクラブのロッカールームを舞台にした男の三人芝居。
真面目に、丁寧に作ってあって、役者も非常に達者なのだけれど、幕引きも含めて想定の範囲内に収まってしまった、残念な芝居。
と見せかけて、実は、3人の男の決して報われることのない愛の三角関係をねっとりと描いたエローい芝居なんじゃないかと、じわじわ思い始めている。

三人の男達は、
クラブに生涯を捧げ、名選手から監督となるも成果が挙がらず、行方不明となった後にホームレスとなって街に戻り、今では用具係を務める、文字通り「伝説」と呼ばれる老人。
野心に溢れ、成果は上がるがダーティ・プレイ、ラフ・プレイを辞さないそのスタイルが周囲との反目にも繋がる。離婚の危機を抱える監督。
彗星のように現れる若手天才プレーヤー。父親の暴力により右膝に爆弾を抱えるが、それを庇いながらプレーを続ける。「伝説」に敬意を向け、監督のダーティ・プレイ指南には反発する、純なヤツ。

この、一種定型ではあっても魅力的なキャラが、結局のところ、2時間30分かけて、物語が始まって悲劇的に終わるまでを、丁寧に辿ってくれるだけで終わってしまった、つまり、俳優の仕事が物語の説明で尽きてしまった気がして、観終わった後、正直言って不満が残ったのだ。

僕が劇場に期待するのは、「物語でも状況でも良いのだけれど、その中で俳優がどのように振る舞うのか」「状況にどう反応するのか、ということに、俳優がどのように想像力を働かせるのか」であって、物語に奉仕する演技は、いくら上手で丁寧であったとしても、僕が観たいものではない。
それが、僕が新劇よりも現代口語演劇に信頼を寄せる理由であり、今年ロンドンで観た芝居の中でもTempleを推す理由である。そして、いまウェストエンドで上演中のOresteiaでも、前半、物語に立ち向かって凄惨に打ち倒されるアガメムノンが素晴らしく、ただ悲劇に翻弄されるだけのオレステスの物語が全くつまんない所以である。残念ながら、The Red Lionの男のドラマは、そのドラマを丁寧に辿るだけで終わってしまった、気がしたのだ。

が、一点引っかかったことがある。それは、この、フットボールを巡る熱い男のドラマにあって、3人の絡み方が、妙にネットり、ジトッとしていたことなんだ。
芝居の冒頭は、「伝説」の男がチームのユニフォームにアイロンをかけるところから始まるのだけれど、その丁寧さに潜む「身体」の感じ。
若手有望株の若い男の子が出現したときの、老人の目の輝き、いきなりのマッサージ。
その男の子に向かって20cmの距離から両手で頬を挟み、唾を飛ばしてがなり、平手打ちし、自分の思想を叩き込もうとする監督。
現実に男の子を染めようとする監督から「選手を守ってあげたい」と心から思う老人。
現役時代の老人のことを思い出し、熱く語るうちに号泣してしまう監督。

そうした姿の全てが、舞台上で、ねっとり絡み合っているように感じていたんだ。

そうです。この芝居が描きたかったのは、「フットボールというホモソーシャルな空間での男のせめぎ合い」ではなくて、「限りなくホモセクシャルに近い、しかも成就することのない、悲しい男の三角関係」だったのです。
そこに思い至った瞬間、すべてに合点がいった。薄い本のプロットもいくつか挙がってきそうな気すらしてくる。
一見して物語をなぞるだけに見えた2時間30分だが、そのことに拘りすぎてはいけない。男のドラマはフェイクです。これは愛のドラマです。だから、物語のフォーマットは、ある意味、どうでも良い。フットボール愛もどうでもよい。その中から、悲しい愛の姿をあぶり出したことが大事なのです。

どうでしょう?

2015年10月4日日曜日

Pomona

26/09/2015 20:00 @National Theatre, Temporary Theatre

冒頭から懐かしの1980年代日本の小劇場演劇を思わせる展開の現代劇。
汚れたランニングに汚れた白ブリーフ、その上に米軍放出のコート引っかけてサングラスのスキンヘッドあごひげ男がキッツいマンチェスター訛りで「インディ・ジョーンズの失われたアーク」のあらすじを語り出すところから、何だか第三エロチカじみたものを感じて、
「これ、展開に付いてはいけないかもしれないけれど、楽しめるんじゃないだろうか」
って気がする。

囲み客席の中に浅い擂り鉢状に中心に向かって下っていく6角形の舞台があって、中心に排水溝の蓋。
マンチェスターの市内、運河の中にコンクリート造りの島があって、出口は1本の道。
そこに入り込んだ人間は二度とそこから戻らないという・・・
そこに、行方不明になった双子の妹を探しに若い女がやって来て・・・

取っつきにくいが実はお人好しの娼婦、目的のためには手段を選ばない女ボスキャラ、無口で凶暴な大男、妄想とラヴクロフト風RPGにうつつを抜かすその相棒、そしてそのRPGをプレイしにどこからともなくやって来る謎の少女、
うっわー、キャラの立て方も第三エロチカで、これ、どうやって風呂敷広げていくんだろう、いや、最後には畳んでいくんだろう、と期待は高まる。

が、実際のところ、芝居が進行するにつれてこれらのキャラクターが有機的に絡んで、伏線が活きてきて、ストーリーがうねっていく、ということが起きたかというとそんなことはなくて、一つ一つのシーンが、断片としてすごく面白いことはあっても、うまく織り上げられていたとは言えないだろう。
むしろ、奇天烈キャラと暴力的なイメージを積み重ねておいて、あとは観客に放り投げている感じがした。
あ!って、それ、まさに川村さんの第三エロチカそのままじゃないか、と思い当たる。
うーん、このテの芝居の作り方(フィジカルな演技、暗転の多用とイメージの積み重ね、等々)が、これからどんな風に進化していくかにはとても興味が沸いてくる。

全体としてスマッシュヒットではなかったけれども、このテの芝居をUKで観ることはほとんど無かったので、それはそれで楽しめた。


2015年9月28日月曜日

Backstage in Biscuit Land

26/09/2015 14:30 @Pit, Barbican

自分自身がトゥレット症候群にかかっているJess Thomが主催する、Tourettesheroの公演。
非常に力強く、したたかで、かつ、暖かく聴衆全員を包み込む、素晴らしい舞台だった。

開演前、舞台上には女優一人が車いすに座り、ハムレットを読んでいる。下手に手話通訳。
下手パネルの裏に、「ひざまづいている」女性がいて、絶えず舞台上の女優にヤジというか、メッセージというか、を飛ばしている。
ちなみに、バービカンの最も下の下位に位置するPIT、その天井の10メートルぐらい上では、今まさにベネディクト・カンバーバッチのハムレットが上演中である。

開演すると、女優は立ち上がって後ろに下がり、下手にいた女性が膝をついたまま中央に出てきて、車いすに座る。それがJess Thom本人。

60分間の公演中に語られることは、彼女の病気について、子供の頃からの彼女の病気の進行について、
彼女が芝居を観に行ったときの出来事について、彼女が芝居を始めることになったきっかけについて、
冗談早押しクイズ大会をはさんで、
共演の女優がどうしてJess Thomと一緒に公演をしようと考えるようになったのか、そのきっかけについて。

語られる話自体は実話で、だから、この公演も、芝居というよりも、パフォーマンスと呼んだ方が良いのかもしれない。
でもね、これは、演劇でした。力強く、演劇でした。
障害者の支援をアピールする講演会ではなくて、障害者も健常者もなく、劇場という場を支えるしたたかな計算が、確かにそこにあった。

Jess Thomはトゥレット症候群の患者である。
チックの重いものだと考えると良いと思う。
Jessは1日に16,000回、Biscuitという言葉を発する。時としてCatっていう言葉だったりする。もっと下卑た言葉だったりする。
Jessは5秒に1度くらい、自分の胸の真ん中、鎖骨の繋がっている辺りを、自分の右の拳で殴る。放っておくと拳の骨が砕けるので、クッションになる手袋を嵌めている。
Jessは歩けない。歩こうとすると、脚が不随意に動いて、2、3歩で転ぶ。だから車椅子が要る。
Jessが皿に盛ったイチゴを右手で食べようとすると、彼女の右手はイチゴを掴んで彼女自身の顔に思い切りぶつけ、すりつぶす。彼女からはイチゴの匂いがしてくる。
トゥレット症候群は、頭の病気ではなくて、神経の病気である。だから、Jessの知的能力や意思の力には病気は及んでいない。
ただ、口から出てくる言葉や、手足の動きが、自分でコントロールできない時がある、っていうことである。それも、24時間。
Jessは公演前に「公演中に発作が出たら一旦引っ込まなきゃならないので、その時はしばらく待ってて下さい。相棒のChopinが繋ぎます」と断りを入れる。
この日の14時半の公演では発作は出なかった。

Jessがどんなに可哀想な人かを説明するために上のことを書いたのではない。
上記を前提した上で、Tourettesheroが、60分の公演をどのようにエンターテイニングなものにするかをきちんと考えて、そして面白くなっていた、という素晴らしいことについて書きたかったのです。

Jessの語ることにはテーマがあって、それは、Inclusion「包摂、かな?」ということだと、僕は思う。
他人を排除せずに、懐広く、色んなものを共有する態度。
それは、彼女の経験を元にして語れるっていう面もあれば、より重要なことに、彼女の周囲の人がどのようにしてJessのムーヴメントに取り込まれていくのか、っていうプロセスの話でもある。聴衆の態度でもある。
で、それが、パフォーマンスの間のステージの(客席への)開き方に強く表れていた。

こういう語りのパフォーマンスで、日本人が一人で座っていると、パフォーマーは目を合わそうとしない傾向がある。
どこまで自分の言葉が分かってもらえてるかに自信がないとか、表情が読めないとか、色んな理由があると思う。
が、この舞台の2人組には、そういう垣根一切無し。誰に対しても、一切無し。

日本でそういう強さを持った舞台って、僕がこれまで見た限りでは、うーん、快快、あなざーわーくす、東京デスロック、だろうか。
例えば、あなざーわーくすの凄みは、その「細やかさ」にあるとすると、
Tourettosheroの凄みは、その、あけすけなオープンさと、それでも舞台上の空間を壊させない力強さにある。

ここまで開いても、舞台って壊れないんだ!という驚き。
その要因には、もちろん、JessとChopinのキャラクター、強さもあるんだろうけれど、加えて、プロダクション自体が持つユーモア、問いかけ、「お涙ちょうだい」を自らに許さない力強さと甘えのなさ、ポジティブさ。
そういうの、すべてひっくるめて、本当に素晴らしい60分だった。

2015年9月24日木曜日

The Christians

19/09/2015 19:30 @ The Gate Theatre

まずもって、信者の方、あるいは、何らかの神様を信じていらっしゃる方には若干失礼な物言いになってしまうことをお断りします。

が、「地獄は本当にあるのか?」というテーマで、舞台上の人物達が大まじめに議論を繰り広げる80分間。
どうにも滑稽で、目が離せなかった。
こういう芝居が、真っ当な「社会派のストレートプレイ」として成り立ってしまうことに、驚きを隠せない。
(ちなみに、この芝居はアメリカを舞台にした、アメリカ人によって書かれた芝居です)

投げ出さずに最後まで観ていられたのは、それは、構成の妙と、役者の力とに依るところが大きいだろう。
でも、やっぱり、
「地獄は本当にあるのか?」「信者じゃない人は、どんなに良い人でも地獄落ちなのか?」っていう議論が、
「人と人との関係をどう作っていくのか」よりも先に立っちゃう世界って、
たとえそれが舞台の上であったとしても、どうよ?って思う。

夫婦の間で
「2人、信じている教義が違うから、あなたと私のどちらかは地獄落ちね。2人は永遠に一緒ではいられないのね」
って、僕自身や周りのできごとと繋げて考えるには、余りにも遠すぎる。

これ、信者の人が観たら一体どう思うのかって興味はあるけれど、怖くて聞けないな。

People, Places and Things

19/09/2015 14:30 @National Theatre, Dorfman Theatre

日本に岩井秀人の大傑作「ヒッキー・カンクーン・トルネード」があり、「ヒッキー・ソトニデテミターノ」があるならば、
UKにはこの芝居あり。いわば、「ジャンキー・ソトニデテミタイーノ」である。

題名の"People, Places and Things"というのは、中毒患者がリハブを出た後、近づいちゃいけないと言われている3つのもの。
すなわち、せっかく中毒を治療して出所しても、中毒のきっかけとなるトラウマになった「人物」「場所」「物事」に近づいてしまうと、
そこをきっかけにして元の木阿弥になってしまう、ということなんだそうだ。

主人公の女性は、出来の良過ぎる母と押しの弱い父と出来の良い弟に挟まれて育ち、両親にかわいがられた良い子の弟は死んでしまって出来の悪い自分は生き残り、自意識過剰で、役者志望だが薬と酒でヘロヘロになってリハブに入所。
その彼女の入所から出所までを描いた2時間半。
絵に描いたような「自意識過剰人間」を舞台に載せて、巷の評判も大変高かったものだから、「熱演勘違い女優だったらどうしよう」と心配していたのだが、それは杞憂だった。

確かに主人公は自意識過剰な女なのだけれど、その自意識に、観客に対して「分かってちょうだい!」という押しつけがましさがない。むしろ、その、イタタ、っていうか、おいおい、っていう振る舞いを観ているうちに、不思議とその自意識に近づきたい感じになってくるのだ。
で、リハブのグループセラピーで、
「じゃあ、出所した後、復帰の挨拶を誰かにする、そのリハーサルをしてみましょう。じゃあ、あなた、上司の役ね。」
みたいなことを始めたところで、あれ、これ、ひょっとして演劇療法?ってやつ?
さらに「あぁ、うまくできない!これじゃ復帰できない!もっと上手くやらなきゃ!」っていう自意識で自爆していく入所達の姿が、
そして、社会復帰したと思ったら職員としてリハブに戻ってきたりするところが、やがて、
「あ!この人達、ヒッキーだ!この主人公は、登美男だ!」
という確信に変わった。

日本でヒッキーが傷つきやすい自意識を抱えて日夜悩んでいるとすれば、UKではジャンキー達が、同じく傷つきやすく、そして、西洋人だけに強力な自我を伴ってしまう厄介さもはらんだ自意識を抱えて、やっぱり日夜悩んでいるわけである。

この芝居に出てくるジャンキー達も、それぞれの事情を抱えながら、文字通り生と死の狭間でフラフラしながら、どうすれば自意識と外界との折り合いがつくのか、そもそも折り合いをつけたいのか、ってところでもがき続ける。それが、劇場内の対面客席に挟まれた「タイル張り風の」舞台、ちょうど、田舎の旅館か病院の、薄い青色をした塩素臭いタイルのような壁と天井に囲まれた舞台で描かれている。

この芝居は、従って、ただのジャンキー社会復帰物語ではなくて、自意識と外界のせめぎ合いの話であって、だから、主人公の職業である「女優」という仕事も、やっぱり自意識と「ウソンコの」外界と「リアルな」外界とウソと本音とのせめぎ合いとして、示されていて、だから、この主演女優の自意識が全体のフレームの中できっちり役割を果たして、上手く収まっている。
そして、ジャンキーがいざ出所したときの、「芝居でない、リアルな」外界のキツさといったら!けだし、「人物」と「場所」と「物事」である。

この芝居には、押しつけがましい人は出てくるかもしれないけれど、観客に対する妙な感動や希望や絶望の押しつけはない。泣きはするけど泣かせはしない。でも、劇場を出てからも、色んなことを考える。
主人公のこれからや、ヒッキーのあれからや、自分と世間の折り合いや、「もしかしたらそうなっていたかもしれない」仮定の世界の自分と世間の折り合いについて、色々考える。
そういう風にさせてくれる芝居は、そんなにないと思う。素晴らしい舞台だった。

2015年9月23日水曜日

英語の芝居観てて、セリフ聞き取れるんですか?

こうして、UKに来て、芝居のブログ書いてるわけですが、今さらのように白状するが、全部の台詞が聞き取れているわけではない。

もちろん、全部聞き取れる芝居もたまーにある。普通に芝居観てると、聞き取れない箇所は沢山ある。
訛りがきつかったり、早口だったりすると、なおさらである。

聞き取れてても、単語の意味が分からない時も結構ある。
この間エディンバラで観たConfirmationでは、"Heuristic"っていう言葉が何回も出てきて、しかも解らなかった。うー。

芝居への集中度合いによって、聞き取れるモノも聞こえなくなってしまうことも、ままある。

が、これは、負け惜しみと取られても仕方がないが、聞き取れても聞き取れなくても、面白いモノと面白くないモノの区別はおおかたつく。

実際、ネイティブの人だって、全員が全部聞き取れているわけではない。はずだ。
だから、良いのだ。聞き取れなくったって、そういうものとして、楽しんでいれば。

ご参考までに、いくつか例を挙げると、

(1) 1996年、Hampstead Theatreで。とある芝居の幕間で、隣の老婦人に声をかけられて、
「あなた、このお芝居の台詞、意味は全部おわかり?」
「(ギクッ!)い、いや、正直、半分くらいは分かりません」
「そーよねー!私も半分くらい分かんないのよ。難しい単語が出てくるもんだから。」
「・・・」
「でも、良い芝居よね」
その芝居はその後ウェストエンドに進出した。

(2) 1996年、ビジネススクールの授業中(北イングランド出身の先生)、隣のシカゴ出身の同級生から、
「おい、お前、あの先生が何言ってるか、分かる?」
「・・・(ネイティブでも聞き取れないモノを、オレが分かってるわけないだろ!)」

(3) 今の職場でも、実は、時々、上司のNZ人の言ってることが分かんないときがあるのだが、
最近判明したのは、「イギリス人の部下も、時々、分かんないことがあるらしい!」
でも、日本人が聞き取れなくて分からないならともかく、イギリス人として「ちょっと聞き取れなかったんだけど」
とはとても言えず、後から「あれ、何て言ってた?」ってみんなで確認してるらしい・・・

ことほどさように、英語というのは、聞き手に余地を許してくれる言語なのである。
そこは、うまーく想像力を駆使して、切り抜ける。間違ってたら、ごめんね、って言って訂正する。
完璧に分からないと返事できないとか、感想書けないとか、そういうのは、無用の心配と割り切って、ブログ書いてます。

2015年9月22日火曜日

The Win Bin

13/09/2015 15:00 @Old Red Lion Theatre

観客10人に満たない小さな小屋での観劇だったのだけれど、途中、寝た。すみません。
でも、寝ていて損したとは思わなかった。パブの2階だったので1杯引っかけたのも良くなかったのかもしれないが、それでも十分集中してみられる芝居もあるし。

後で知ったのだが、実は登場人物6人、男女2人組×3ペアを、2人で演じ分けていたのだそうだ。
僕はずっと、2人組が違う名前でふざけて呼び合ったり、全く違うことを試してみたり、突如過去の経緯に照らして関係性が変わったりしているのかと思っていた。
「演じ分けていた」のだそうだ。

自分の英語力のせいなのか。一杯飲んだせいなのか。
いや、役者が演じ分けてなかったからだろう。敢えて言う。
「演じ分けられてなかった」んじゃないんだろう。「演じ分けてなかった」んだろう。そうでないとあそこまで同じにならないよ。

何がキューになって登場人物が切り替わったのか、正直、まったく、未だに、想像もつかない。
もしかしたら相当過激な舞台だったのかもしれない。

ただ単にダメなだけだった気が、負け惜しみでないけれど、している。

してみると。だ。エディンバラで観たときには「ヌルい!」と思ったForced EntertainmentのTomorrow's Partiesで味わった、2人でずっと話していてもきちんとついていける、ペースの変化や淡々とした中にある内側の微妙なモノがわざとらしくなく出てくる、あれは、かなりレベルの高い演技だったのかも!と思ってしまう。
何事も比較感、相場観、ってものはあるもんである。

2015年9月21日月曜日

Absent

13/09/2015 13:15 @Shoreditch Town Hall

厳密には「演劇」というより「インスタレーション」かもしれない。Shoreditch Town Hallの地上階と地下のフロアを贅沢に使い、改装中のホテルに見立てた中を観客が巡る趣向の、(そう、日本で言えば「お化け屋敷」みたいな)パフォーマンス。
非常に面白かった。
Shiningで始まり、Badly Drawn Boyの"Spitting in the Wind"のPVを思わせる展開とノスタルジア、そして飴屋法水さんの「わたしのすがた」を思い出させる「痕跡」の取り扱い。

舞台は改装中のホテル、物語は、1950年代から2015年までこのホテルに滞在していたが、ホテル代が払えなくなって追い出された「元・社交会の大物」Margaret de Beaumont。まぁ、ここまで言ってしまうと、大体は、「何が言いたいのかなー」というのが分かってしまいそうなものだし、実際、そこから大きくはみ出るプロットはないのだけれど。

が、実際に一人で入ってみると、これが、怖い。
改装中の実在の古い建物の地下と、液晶ディスプレイと、鏡との組み合わせ。
まず、「過去の記憶」の映像を見つけてそこをのぞき込むと、そこはもうShiningの世界で、「もしここでおいでおいでされたら無茶苦茶怖い、逃げ出してしまう」ぐらいの迫力はある。
一人でいるのは怖いから誰かといたい。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。何故なら、そこにいる人と手を繋ぎたくなってしまうからである。そうしないと、合わせ鏡から人が飛び出してきたらどうしようとか、クローゼットから何か出てきたらどうしようとか、扉の向こうには・・・、とか考えてしまうのである。

が、おずおずと引き返して「やっぱり見ません」というのは格好悪いので、先に進む。

先に進むにつれて、物語の構造が細かく見えてくる。それは、「過去の記憶」を再生することによって積み上げられていく。物語自体の語りは、極力抑えてあるのだけれど、まぁ、英国人を相手にせにゃならんので、ある程度説明的にはならざるを得ないかなーという感じ。
ただし、大きなどんでん返しはないにせよ、「観客に任せてある」部分が結構大きく取ってあって、それは嬉しい。

この話のモデルとなった実在の人物、The Duchess of Argyllについて知る人であれば、そのモデルについての記憶を思い起こしつつ、自分なりの物語を組み立てれば良いだろう。僕のように、モデルについて全く知らなければ、「ホテル暮らしのSocialite」という概念もいまいちピンとこない人間は、Badly Drawn BoyのPVに出てくるJoan Collinsを思い起こしながら、(実は、そのPVを最初にオランダのホテルで見たときの家族旅行のことを思い出しながら)このインスタレーションを巡ることになる。
そして、記憶の呼び覚まされ方は、人によって様々だろうし、人によっては全くピンとこないこともあるだろう。
それで良い。それくらい放ったらかしにされている方が、僕には心地よい。

トータル40分ぐらいで回り終えてしまったのだけれど、実のところ、前半、怖くて早足で進んでしまったので、もう少し長居できたのではないかと、ちょっと後悔している。
もう一回行きたい。が、一人では行きたくない。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。むむむ。

2015年9月20日日曜日

Lela and Co.

12/09/2015 19:45 @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

とある田舎育ちの少女が、街で出会った男と駆け落ち同様の結婚をしてから、すっごく悲惨な目に遭った末に故郷の村に戻るまでを語る、これもやっぱり語り芝居。
相方の男優(1人)が色々な役で絡んでくるので、独り語りではない。

話のフォーマットも筋書きも、取り立てて奇をてらっているわけではないのに、最後まで目が離せない、密な舞台だった。
昼に観た芝居と比べても、予算の面でも、細部の凝り方を観ても、決して「上を行っている」とは言えないのに、観客への迫り方は圧倒的に力強い。
相方の男優が色んな役で出てくるのも良くあるパターンだし、簡単にチープな芝居と切って捨てられてもおかしくない「着飾り方」の芝居なのに、観ていて飽きなかった。

まずは舞台。変則的な形をしたRoyal Court Theatre最上階のスタジオに入ると、その壁の二辺に沿って、紅の幕が下がっている。舞台奥に"LENA"という名前が電飾が飾られ、舞台中央にはふたが開いて収納になるソファ。舞台下手に天井からつり下がったハンギングチェア。いかにもチープな地方の公民館にやって来たどさ回りの芝居という風情。
観客を笑顔で迎える、ぱっと見ルイス・スアレス似の男優は(文字通り)金ぴかのスーツに銀の靴。ハンギングチェアに「夢見る少女風」に表情を浮かべ、それに相応しい衣装を着た女優。
このチープなフレームが、実は、すごく良かったなぁ、と、芝居が終わってから思えてくるのだ。

この女優Katie West、特にしなを作るわけでもないし、かわいこぶっているわけでもないのに、目が離せない。
冒頭の少女語りの時から、何故か時として老いた感じがわき出してきそうな気がしているのだ。年齢は20台後半から30台前半か、
北の訛りの英語で、笑顔を絶やさず、時としてすごく早口で喋るのだが、不思議に話についていけなくなったりはしない
(彼女の早口については、終演後、客席にいた老齢の女性が、「あのこはちょっと早口すぎたわよね」って言ってたので間違いない)。
おそらく、「音」として、このアクセントとこの音程、解像度が、僕のツボに嵌まっているんじゃないかという気はする。聞いていて気持ちいい。
口のわきに若干大きめのニキビあるいは吹き出物が2つ。これも、場末感を醸し出すためにわざとやってるんじゃないかと思えてきたりする。
(この場末感と年齢不詳感は、一種、緑魔子さんにも通じるものがある。)

この「少女」が、まさに色んなひどい目に遭った末に実家に帰ってくるまでを、ほとんど泣きを入れずに(いや、泣きはどうしても入ってしまうんだよね。エディンバラでもそうだったけれども、女の一生ものの語りには、もう、付き物だと思ってあきらめるしかない・・・)、語るのだが、それが、どんなに悲惨な展開になっても
「わたしって!本当に可哀想!」
に落ちていかない。ここでは物語については紹介しないけれど、とりあえず、本当に悲惨な話なんだ(そしてどうもこれは実話に基づいているらしいのだ)。
それでも、劇場中が「ああ!本当に可哀想な話ね!」
の同情の渦に落ちこんでいかないところに、この芝居の力強さと、意志の力を感じたのだ。
(また別の老齢の女性は、夫に「こんな物語だと知ってたら観に来なかったわよ」とのたまわっていたが。)

出てくる男達もことごとく、ひどい男達揃えて、その癖言い訳はごまんと取りそろえて最低の奴らなのだが、芝居の機能としてうるさくない。

そうした芝居の作りが、実は、舞台のチープな作りと100%マッチしている。
語り手の居場所をきちんと作ると同時に、それを聞かされる聴衆の視線の在り方を試す構造になっていて、そこで腰が決まっているから、骨太な芝居に作り上げることができていたんだな、というのは、劇場を出てから気がついたこと。

2015年9月19日土曜日

Song From Far Away

12/09/2015 14:30 @Young Vic, Main House

戯曲が"The Curious Incident"でキレキレだったSimon Stephens、演出が"A View from the Bridge"が日本でも大人気みたいなIvo van Hove、ということでYoung Vicメインハウスの舞台も大入り、大いに期待して行ったが、どうにも退屈だった。

ニューヨークで働くオランダ人独身男性が、弟の死の知らせを受けてオランダに里帰りする。家族との行き違い、元カレとの再会と別れ、あと色々。で、ニューヨークに帰ってきてから、亡くなった弟宛の手紙を書いて、それを自分のアパートから観客に向かって朗読するという趣向の一人芝居。

よく分かったよ。さびしい人なんだって事はよく分かったよ。
物語が進むに連れて彼のさびしい内面が明かされていく、それに合わせて真っ裸になっていく。あぁ、そういう趣向ね。良ーく解ったよ。
ミニマリズムのシンプルな舞台が、彼の内面と合致して、ラストへと続く心象を良ーくあらわしている。そうだよね。その通り。上出来です。
一つ一つの仕草が、細かく彼の心の揺れを表現していている。それを上手く(何度か、どこからか聞こえてくる)劇中歌と照明の妙でサポートしている。

もう、表現したい、説明したいという臭いだけはプンプン伝わってきて、うんざりした。

それだけ表現したい放題に表現しているのに、
「なぜ、自分が死んだ弟に向けて書いた手紙を、観客席に向かって朗読するのか。しかも身振りを交えて、真っ裸になって。」
という疑問に対しては100%無防備なのにも困ったもんだ。

いや、本当は、本当に微細な表現を使った丁寧な舞台だったのかもしれないよ。観客席に向かっての朗読にもきちんとしたフレームが嵌められているのかもしれないよ。だからきっと、終演後もスタンディングオベーションの方、結構沢山いらしたし。
僕の隣の女性も、1時間以上スヤスヤと安らかな寝息を立てていらしたが、スタンディングオベーションだったし。
実際、僕は、「オランダ人のアメリカ訛りの英語」が聞き取りづらくて聞き取りづらくて、しかも芝居が単調なので眠気こらえて怒りこらえて観てたんだ。
(だから、真面目に、何か見逃していたのかもしれない)

てなことを感じながら劇場を後にしたのだが、後でウェブで各紙劇評を観たら、「平板だった」っていう評もあったので、(台詞を100%掴んでいなくても)あながち小生の感覚も外れてないはずである。

本当に、こういう「お上手な」芝居にはウンザリだなあ。こういう芝居を好む人が沢山いるっていうのも頭では理解できるんだけど。

2015年9月18日金曜日

Hotel Paradiso (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 15:15 @Pleasance Beyond, Pleasance Courtyard

先にエディンバラで10日間を過ごしていた友人の、一番のお勧めがこれ。
事前に予約していて良かった。Pleasance Coutyardの中でもおそらく最も大きい小屋であるにもかかわらず、大入り満員。
エディンバラフリンジでは整理券番号は無くて「来た順番に並ぶ」のが大凡のルールなのだが、長蛇の列になっていた。

宣伝文句は「ベルリンからやって来た仮面劇場へようこそ。舞台は家族経営のアルプス山間にあるホテル。経営は火の車、増えるは借金ならぬ死体の山ばかり。一癖も二癖もある家族と従業員による、Fawlty Tower と Bates Motel のいいとこ取りしたようなHotel Paradisoのドタバタをどうぞお楽しみ下さい」
てな感じだったのだが、まさにその通りで、セリフなしの1時間15分、十分楽しめた。

仮面をつけた役者が出てきた途端に、真っ先に考えたのは、
「なぜ、仮面をつけると、こんなオーバーアクションや妙ちくりんな演技やあからさまに下品な言動が許されてしまうのか。あるいは、何故それがこんなにも面白いのか?」

筋立て自体も予想を裏切るような展開はないし、これまでFawlty Towersやドリフで観てきたドタバタやブラックなネタをさらに上回る迫力があるわけでも無い。
ひょっとしたら、その場限りで楽しめるという意味で楽しんだだけだったのかもしれない(いや、それだって十分大変なことなのだけれど)。
でも、まだ、何だか腑に落ちていない。なんであのパフォーマンスが楽しめたんだろう?ドリフやFawlty Towersをテレビで観るのと、どんな違いがあるんだろう?

本当はそこのところもっと突き詰めなければならないのかもしれないけれど、それはしないまま、エディンバラを後にした。

2015年9月17日木曜日

Teaset (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 14:00 @Pleasance That, Pleasance Courtyard

今回エディンバラで観た芝居の中で、間違いなく、最低の芝居。

ふとした弾みであるクリスマスイブの一晩だけ面倒を見ることになった老いた女性との交流。
もらったものの、棚から出した際に落として割れてしまったTeaset。
その後の全く可哀想な経緯。

そうしたものを、「私は悲しかった」的な台詞満載でお送りする女性の独り語り。
「感情込めた演技でお願いします」な台詞に辟易するのに加えて、
そういう台詞に演出と演者が100%応えて、観客に対して涙うるうるかすれ声で演技してもらっても、こちらは反応に窮するばかりである。

冒頭、とある喫茶店で、割れたティーカップを紙用のスティック糊使って、
いかにも「取り乱しながらカップを元に戻そうとしています」っていう演技された時点で、勝負あり。

が、しかしこういう芝居に当たるのもフェスティバルならではの醍醐味。劇場に入らざるものは演劇を得ず。
気を取り直して、今年のエディンバラの最後の演目、Hotel Paradisoへと向かう。

2015年9月16日水曜日

The 56 (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 12:00 @Four, Assembly George Square Studios

文句なしに僕の今年のエディンバラで最も素晴らしかった舞台。
3人の語り手による、1985年5月、ヨークシャー南部、ブラッドフォード市内にあるブラッドフォード・シティ・フットボール・クラブの本拠地The Valleyで起きた火災事故の記録。リーグ3部の優勝を決めたシーズン最終戦の前半途中、スタジアムから出火し、56人が犠牲となった。

焼けたスタジアムにいた生存者2人と、反対側にいて経緯を目撃した1人。
おそらく、実際の証言を元に編集したか、ひょっとすると編集を加えずに上演しているのだと思われるのだが、

「過去に起きたことについて役者が語り伝えること」が、これほどまでに強力に迫ってきたことは、僕の人生でこれまで無かったし、今後も無いのではないかとまで思われる。

過度に感情移入すること無く、観客に感情を喚起させてやろうとする妙な色気も無く、淡々と当事者の記憶<見たこと・聞いたこと・自分がしたこと・記憶していること・記憶していないこと>を、役者が語っていく。
語られる言葉に、まず、無駄が無い。相当信頼に足ると思わせるリアルな語り口、思わせぶりの不在。レトリックや誇張の不在。これが素晴らしい。
ニュアンスを加えない、抑えた語りも余りにも素晴らしい(そして、スコットランド訛りに悪戦苦闘してきた我が身には、ヨークシャー訛りが、聞き取れる!という喜び)。
加えて、一人が語っているときの他の二人の表情が余りにも素晴らしいのだ。視線は真っ直ぐ斜め上から動かさず、一体どこを見ているんだろう。生死を分ける出来事が淡々と語られる中で、語り手もまた、ただ淡々と他の語り手の言葉に耳を傾ける。
そこには、余計なニュアンスは一つも無い。だから、全てがある。恐怖も、怒りも、痛みも、やさしさも、安堵も、誇りも、悲しみも、後悔も、きっと全部ある。全ては語られない。でも、全てが想像できる。きっと聞き手一人一人、全く違うものがわき上がっているはずだ。ストレートな語りの中に、もの凄い質量が詰め込まれて、胸が苦しくなる。

当事者による「語り」を考えてみる。それが強い力を持つことは一種当然で、それは、常日頃テレビのニュースやドキュメンタリーを見たり、講演会に行ったり、学校に語り部の方を招いたり、これまで僕たちもそれなりに経験していることではある。
だが、この舞台では、役者が語り手を演じることで、とてつもない豊かさが加わっていた。
1985年から現在を経てこれから遠い未来に向かって、
・当事者の実際の体験と、記憶と、舞台に載っている事象とのズレと、reconciliationと、その感覚を語ることと、これから。
・それを演じる(ひょっとすると当時生まれていなかったかもしれない)「役者」の記憶と、身体と、これから(次の日の公演と、その次の日の公演と、公演が終わってから)。
・それを観る「観客」個人の1985年の記憶と、他の様々な災害の記憶と、演じられる場で感じたことと、それを記憶することと、その記憶を語ること。
・この作品に未だ出会っていない人が、未来の公演で、あるいは聞き伝えで、その記憶を何らかの形で共有し、また記憶することの可能性。
今、この、劇場の中の、質量が、過去から未来に向かう時間軸を得て、さらに大きく広がっていく。

「語り」が、当事者以外の人間に語られることによって、月並みな言い方になるけれど、遠い未来に向けて新たな生命を吹き込まれていた。
George Squareの小さなスタジオの中で、僕は、大昔の竪穴式住居の中の、あるいは、昭和の田舎の炬燵のある部屋での、「語り」を想像していた。また、今から50年後、おそらく、1985年当時の当事者が誰一人いなくなった後に、同じ話が語られる場面を想像していた。

The 56 が語られることによって、いや、もうすでに、何度も語られてしまったことによって、ブラッドフォードの1985年の出来事は、それ以上の質量と広がりを持っている。その現場の一回に、居合わせてしまったことを、とてつもなく幸運であると、芝居を観てから2週間以上経った後も感じている。

2015年9月15日火曜日

ミッションとしての観劇のこと

今月初め、「観客発信メディアWL」の企画「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」について、若干思うところがあったので、備忘までに書く。

先月、3日間エディンバラまで出かけて、3日間で17本芝居観てきた。
自分としては、観たいから観ているのであって、自分にミッションを課しているわけでも、ノルマを課しているわけでも無い。
「あぁ、これは観なきゃ!」と思う芝居もあるが、それは、義務感というよりも、観なかったときに「あれ、面白かったよ!」って聞いて、悔しい気持ちになるのが嫌だからです。とにかく、面白い芝居は観たい、ということ。

そこには、苦行感もないし、達成感も無い。
喩えるなら、お菓子が大好きな子供がお菓子の家にぶち込まれたようなもので、お腹を壊すまで「幸せな気持ちで」お菓子を食べ続けるだろう。僕もそうです。
そういう意味では、余り前向きで無いかもしれない。「芝居を自分の快楽のために消費している」と後ろ指さされても仕方が無い。
いや、しかし、まずは楽しむことが大事。ミッションとか、妙な使命感持って芝居観る「必要」はない。

でも、実は、ミッションとして芝居を観ることを、否定しているわけではなくて、それを「自分でしなければ」と思ったり「誰かやってくれないだろうか」と思うこともある。
その一つの例が、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」。
こまばアゴラ劇場には芸術監督がいて、制作チームがいて、年度プログラムを何らかのポリシーに沿った形で作って、それにあった公演が上演されている。はず。
でも、芝居の公演について、「アゴラの年間ポリシーに沿ったプログラムだから」観に行く、という人はそんなにいないような気がする。
あるいは、芝居を観る中で、「今年度のアゴラのプログラムはここら辺の劇団とか、ジャンルだから、相当期待できる」とか、「今年のアゴラのプログラムの方向性は自分のテイストとちょっと違ってるから、支援会員になるのは今年は見送る」とか、そういうのもあんまり無いような気がする。
「アゴラでやるんだから、それなりのクオリティは確保されているんだろう」という推測は出来るものの、それ以上に積極的に「アゴラでやってるものだから、敢えて万難を排して観に行く」ということはない。

今では、芸術監督の平田オリザですらアゴラで上演される全ての公演を観ることができないはずで、そういう意味では、
「今、アゴラはどの方向に向かっているのか」を、観客として見定めようとしている人は、少なくとも僕の知ってる範囲では、いない。

更に言うと「何が起きているのか」もなるだけウォッチしないと、「どの方向に向かっているのか」を測ることが出来ない気もする。
当初プログラムに沿って上演が行われても、「上演される芝居が、プログラム策定時の意図を超えた思いがけない事象が引き起こされて、そこから将来に向けた思いがけない動きが生まれてくる」事もあるのかもしれない。毎日劇場に行くことは出来ないけれど、少なくとも、全ての上演についてカバーできたらなぁ、と思ったりする。

なので、僕の希望として、誰か、アゴラの芝居を1年間通して観てくれて、芸術監督のポリシーなり、劇場としての注目分野なりを、観客の立場から認識して、伝えてくれたり、あるいは、小屋主の目の届かないところでアゴラに起きている異変を指摘してくれたりしないかなー、と思っていた。
それを、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」のミッションとして期待している。

できれば、それは、自分がやりたい。
昔、アゴラに、自らを「下足番」と名乗り、全ての公演に必ず目を通している方が居たことを、僕は知っている。
加えて、アゴラは、自分に人格形成にとって極めて大きな影響を与えた場であって、一種「実家」のようなものでもある。
でも、できないなぁ、って思っていたところに、観客メディア発信WLの企画。

企画に参加している方々、あからさまに好みで無い芝居にも出かけていって、一種ミッション遂行のための「苦行」にも近い時間を過ごすこともあろうけれど、それは、違うレベルで、「アゴラで観る芝居は、今後どうなっていくんだろう?」という興味と、「そういう興味を他者と共有したい」という希望に支えられているものだと信じます。
だから、「アゴラ完全制覇ミッション」、頑張れ。

The Communist Threat (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 10:40 @Studio, Zoo Southside

第二次大戦後、冷戦期のウィーンを舞台に、MI5のスパイ2人が出てくる芝居、と聞いて、こりゃかるーいタッチのお笑いコメディかな、と決めてかかっていて、
エディンバラ最終日の午前中2本目の芝居はその名も"Communist Threat"「共産主義者の脅威」で、日本ならともかく、UKだとちょっと冗談系だろうと思っていたら、
事もあろうにパラドックス定数系のハードボイルドな舞台運び、しかもパブリックスクール出身の男の純愛描いて、これがなかなかストレートで好感の持てる芝居だったんだ。

ワーキングクラス出身のスパイと、ミドルクラスでオクスフォード出身のスパイ。生まれ育ち、アクセント、言葉遣い、着てるものも違えば食事の好みも好きなスポーツも違う2人がウィーンのホテルで落ち合ってなにやら暗殺の段取りの相談。ただし、何から何まで違うこの2人だから、会話も棘のあるものにならざるを得ず。
共通点と言えば2人とも陸軍にいたことだが、ワーキングクラス君は1941年にはアジアで日本軍に捕まってPOWキャンプでひどい目に遭った口。
オクスフォード君は戦争末期にソ連が解放することになる地域でドイツ軍の捕虜になってたという設定。

ということは、東西両陣営が交わるウィーンにあって、ワーキングクラス君は資本家を忌み嫌う出自であるから、実はここで東側に寝返っているんじゃないか?
いやいや逆に、ソ連の解放区で捕虜になってたこのオクスフォード君の方がむしろ怪しいんじゃないか?
で、この2人が会うことになってるミドルクラスのイギリス人の某大物って、一体何者か?
みたいな。

極めてスタンダードでオーソドックスなスパイもの。しかも、男の純愛です。ド純愛でした。45分でまとめて、濃くなりすぎない味付けにしたのが勝因か。

結局のところ、分かりやすい構造ですっきり観られて、かるーいタッチで劇場を後にした、という点では予想通り、と言えるのかもしれない。

2015年9月14日月曜日

Cracked Tiles (Edinburgh Fringe Festival 2015)

31/08/2015 09:05 @Zone Theatre, Spotlites

前評判が高かったわけでもなく、大入りだったわけでもなく、ただ、朝9時5分から始まる芝居が他にないし、というかなり消極的な理由で観に行った芝居だが、いやはやどうして、心に残るステージだった。
オフィスビル(開演5分前になるまで、ビルの入り口に入ることすら出来ない、本当の会社の入ったオフィスビル!)の地下の奥深いところにある、キャパシティ20人弱、ちょうど、ゴールデン街劇場を更にもう一回り縮めたような中での独り語り。観客は僕を含めて4人。プラス関係者1人。

で、客電が消えて、パフォーマーが出てきた瞬間に、あぁ、オレはこんな場所で、こんな芝居が観たかったんだよ、って思ったんだ。
台詞語り始める前から。芝居が始まるか始まらないかの、その瞬間に。
エディンバラに来て、フリンジ大好きで、幸せだなー、って思ったんだ。不思議だった。その瞬間だけはずっと忘れないだろうと思う。

肝心の芝居の方は、というと、これは、やはり男性独り語り。イタリアから移民してきてグラスゴーでサンドイッチ屋を営む父と自分のこと。
終演後、演者が「かなりパーソナルな思い入れのある話をした」と語っていたので、彼自身のことが相当程度入っていたのかもしれない。
実際、グラスゴー訛りは、聞き取れない・・・きつい・・・
(演者が小生と目を合わせないように苦労していたのは、やはり、自分の訛りは日本人にはキツかろうと思っていたからだろうか?)
そしてナレーターの父はイタリア訛りで、これは、聞き取れる・・・

語り手としてあまりこなれた感じはせず。
「語り手としての地の部分の語り」が、素直で真っ直ぐすぎて辛いときがある一方で、例えば、サンドイッチ屋の常連客や、イタリア人の祖父母を演じるときの、「ちょっと離れて観た客観目線」と「子供の時の自分が観ていたときの印象目線」のバランスがどうにも面白くて、で、「語り」と「他人を観察した目線」の落差が素直に出てきているのがとても面白かった。
あぁ、この人は「油断ならないと思わせないし、実際油断していて良い、真っ直ぐな(いい人な)語り手なんだな」ということもよく分かった。
それは美徳であると共に、ある意味、コクに欠けるのだけれど、いやいや、それを上回って、「場」としての親密さは相当なもので、いや、これがあるから、フリンジは止められないんです。

2015年9月13日日曜日

Am I Dead Yet? (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 23:15 @Traverse 2

白いグンゼ風のランニングに白ブリーフ、どこから見ても中年度満点な2人が深夜のTraverseで繰り広げる生と死の狭間のお話。
エディンバラ初っぱなに観たConfirmationに引き続いて、Chris Thorpeによる「いかがわしい語り手」を満喫。かたや相方のJon Spoonerもしっかり受けて立って、この日6本目の芝居であるにもかかわらず全く眠たくならない。それどころか帰り道は若干興奮気味で、実は後ろの席に前の晩飲んだA/M両氏いらしたにも拘わらず気がつかないで帰ってしまった。

語られる「お話」は主に2つで、一つは轢死体のパーツを探す2人組の警官。もう一つは真冬の凍った湖に落ちて心臓が止まった女の子。その他、AEDの使い方等々。物語としては取り立てて衝撃的であったり感動的であったりはしないのだけれど、この劇場の中でこの2人に語られるときに、確かに何かしら作用していることを感じる。

確かに。この劇場に入る前と出た後とで、何かしら、おそらくちょっとだけ、生と死に関する感じ方が影響を受けていて、こういう風なのを異化効果と言うんだろうか、などと考えた次第。

ポイントは、語り口。観客との関係の取り方。ギアの入れ方。この辺りの上手さには本当にしてやられる。

ちなみに、開演前に観客にA5版のカードが配られて、"I think I will die..."と書いてある。「私はこんな風に死ぬと思う・・・」と最上段に書いて後は空白。そこを埋めて、アンケート箱に入れておいて下さいね、ということだったのだけど、このパフォーマンスのラスト15分は、そのカードに書かれているままを歌詞にして、2人で「僕たち、いつか死ぬよね。わかっちゃいるけど、いつか死ぬよね」と、歌い上げてくれる!そして最後は客席もご一緒に、サビの部分は合唱で(まぁ、大合唱と言うほどには人も入ってないのだが)。
僕の考える死に様も、(かなりくどくどしく長ーく書いてあったのだが)きちんと歌ってもらえて、嬉しかったな。自分の死に様を人に歌ってもらうっていうのは、カタルシスがある。自分としてはかなり正直に書いたつもりで、それを先のA/M両氏も聞いているはずだが、まぁ、内容自体は秘密。

Our Ladies of Perpetual Succour (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 21:15 @Traverse 1

Billy Elliott (邦題リトルダンサー)のLee Hallが台本書いた女子高校生6人の青春ミュージカル、とくれば、これは観に行かなくては!
というだったのだけれど、やっぱり良かった。
期待値が高すぎたからか、期待を上回る衝撃はなかったけれど、期待通りに面白かった。

タイトルはLadiesを単数形にして、Our Lady of Perpetual Succourにすると聖マリアのことなので、登場人物の女の子複数と言うことで複数形に直して、
日本語だときっと、「嗚呼!聖マリア女学院合唱部!」あるいは「魁!聖マリア女学院合唱部!」。

18歳、卒業間近の合唱部仲良し6人組が、スコットランド大会に出場すべく田舎町オーバンからエディンバラにやってくる。
そこで繰り広げる恋・友情・家族・不治の病・進路・セックス・酒・ゲロ・妊娠・・・
全部盛りの青春ミュージカルがテンポ良く繰り広げられて、とんでもなく楽しい。

女の子の青春仲良しモノと言えば、日本ではももクロの「幕が上がる」や平田オリザの「転校生」が頭に浮かぶ。フォーマットとしては大凡同じだし、目指せ全国!だし、
キャラの割り振りも似ている。

ただし、この芝居のももクロでの上演は無理だろう。
ももクロのメンバーは舞台上で、精液が鼻水みたいな味がするとか、そういうことを語り合ったりはしないだろうからである。
で、まぁ、そういうお下劣な台詞は満載なのだが、そしてその度に、客席のおばさま方は「あらあら」「あらまあ」みたいな反応だったり、あまりにお下劣な台詞に場内爆笑だったりするのだが(あ、小生はさすがに早口のテイーンエイジャーのスコットランド訛りにはほとんどついて行けてません。ほぼ決め台詞に近い超お下劣なやりとりはちゃんと聞こえたのが不思議だけれど・・・)、
ただし、この芝居が面白いのは、そういった悪のりに近い(時として鼻につく)部分ではなくて、やはり、テンポと、歌と(上手!)、メタ構造のフレームの嵌め方の出来映えに依るところ大。芝居の虚構の作り方がしっかりしていると、その中でいかに若い役者が羽目を外しても、きっちり芝居の世界の中に取り込んで、芝居の滋養にしてしまうことが出来る。さすがである。

キャスティングの要請もあって、このメンバーで再演見られるかどうかはまったく分からないから、いや、無理して初演観て良かった、良かった。大満足。

2015年9月12日土曜日

Man to Man (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 17:40 @Topside, Underbelly Potterrow

男装の女性による独り語り芝居。
ガーディアンをはじめとする各紙で5つ星評価を受けていた作品。前評判ではなくて、エディンバラフェス開幕後に評判の良かった作品だけに期待していたのだが。
前日飲んだときにT氏・A氏の評価がそうでもなくて警戒はしていたものの・・・

これはいかんでしょう。これでは。
ナチスドイツ下で夫を亡くし、職ほしさに男装して過ごした女性が、男装のまま第二次大戦を切り抜け、その後も男装を解くことのないまま歳をとる、っていう話。
話の内容をいかんとは言わない。いかんのは、「あー哀れ、私は可哀想な人。あー可哀想。こんな私に誰がした。世間を恨む、運命を恨む」調で終始自分の可哀想に追い詰められた話を聞かせ続ける戯曲・演出・役者である。

若干傾斜のかかった舞台、時として布で身体を巻いて天井からぶら下がってみたり、まぁそういうのも屁難しい理屈か意味かなんかをつけてそうしているのだろうけれども、
「熱演ご苦労様」以外に何もないように、僕には思われた。

前日、別の場所で「人間は演技を観て感動するんじゃなくて、物語に感動するものなのよ」みたいなことを言われて、うむむ、と思ってたのだけれど、こんなものに5つ星つける人は、きっと芝居観る前からプロット聞いた時点で5つ星決めてたんじゃないかなー、って思ってしまったよ。いや、本当に、いかんです。

The Solid Life of Sugar Water (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 16:00 @Queen Dome, Pleasance Dome

エディンバラを離れてから、何日か経っても、じわじわと「あぁ、あの芝居はとても良かったなー」と思えてくる芝居があって、
これがその一つ。

若い夫婦の、出会いとセックスと死産とそれからのこと。俳優2人の語り芝居。
冒頭、二人のセックスについての相当微に入り細に入った語りから始まる。前戯の語りに5分は軽くかけている。もちろんその続きもある。
それが、全くエロくない。指の動き、女性の身体の反応、それをどう捉えるか、彼女がどんなアクションに出るのか、
すっごく細かく語っているのに、全くエロくない。
そう感じられた原因は、僕にあるのか役者にあるのか、それとも台本にあるのかは分からないけれども、少なくとも、このエロくなさは、
作品全体にとってとってもポジティブなことで、
というのは、この芝居は、
エロ話の観客サービスでも、観客にエロい感情を催させるためのものでも、難しい話をエロに包んだ小咄仕立てでもなくて、
極めて正直に、真っ直ぐに、若いカップルのコミュニケーション、その不全、それとセックスとの関係、無関係、無意識の権力関係、暴力、優しさ、冷淡さ、無関心、鈍感さ、敏感さ、わがまま、気遣い、そういったものを、織り上げた作品になっていたから。セックスの語りも、その全体の織り上がりの中にしっかりと組み込まれてすっごく大事な一部分として機能している。だから、「冒頭にセックスの極めて詳細な描写があること」は、エロくない意味で、すごく大事なことなのだ。

同じことは、すごく早い時期に破水してから死産に至るまでのことを語るシーンも同じ重みでそうだし、ハリウッド恋愛コメディの出来損ないみたいな出会いのシーンもそう。大事なことは、言葉で語られことも多いし、言葉がミスリードすることも多い。言葉で語られないことがボディランゲージで語られないこともあれば、そのためにミスコミュニケーションが起きることもある。思いは思っているだけでは伝わらない。それは、当たり前。だから、言葉のコミュニケーションも含めていろいろなサインがいろいろな階層で交わされる。でも、伝わらないものは伝わっていないのだ。

その2人のコミュニケーション・ミスコミュニケーションを、観客は神の視点で(すなわち、2人がお互いに言わないこと、が聞こえるように)眺める。それは、切ないことだ。なぜならば、そこで起きていることを自分がどう捉えたかについて、隣の観客やパートナーに伝えられるのかについて、ひょっとして・・・という疑念無しにはいられないからだ。そして自分のぎこちない・ぎこちなくないセックスが一体何なのかを考えざるを得ないからだ。もちろん、それは、セックスに限らないのだけれど。

俳優2人の演技が真摯で、余計な小芝居なしなのが、すごく良い。
男優が右腕に障害を持っており(右腕が短い)、女優が両耳に補聴器をつけていることは、極めて高い彼らの演技の質や、芝居の本筋とは関係ない。ただし、いわゆる健常者の観客に、自らの本当に不自由な部分がどこにあってどこが自由なのかを意識させる装置としては、絶大な威力を発揮していた。

舞台上、ベッドがこちら向きに垂直に立っていて、「寝ている」役者2人が実は垂直に立っていたりするのだけれど、従って、開演前は「垂直ベッド上の小咄集だったらどうしよう」という危惧も覚えたのだけれど、杞憂だった。そこにベッドを置いてあることの意味も、きちんとあるのだった。

極めて良質なプロダクション。次の作品も、是非観てみたくなった。

2015年9月11日金曜日

Iphigenia in Splott (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 13:50 @King Dome, Pleasance Dome

Gary OwenのGhost Cityを訳したのは1年ちょっと前。その時に消化しきれなかった部分を解決したいというのもあって、彼の芝居は努めて観るようにしている。

今回の書き下ろし、今年初めにウェールズで初演されたときには評判が良かった芝居。
この前Royal Courtで観た "Violence and Son"が今一つだったので、今回もドキドキではあったが、ぐっと覚悟を決めて観に行った。

そして、よし!相当気合いの入った、かつ、輪郭もフォーカスもくっきり立ち上がった、質の高い芝居だった。
Ghost Cityでいうと、後半の、ドラッグをいけ好かないビジネスマンに売りつける二人組の話を膨らませて突きつけてきた感じ。

タイトルのイピネゲイア(英語だとイフィジナイア)は、ギリシャ神話に出てくるアガメムノンの娘で、トロイ戦争出陣の際、戦勝のために父自身の手にかかって生贄として捧げられる。
一方、Splottってのはカーディフ市内の地域の名前(区、みたいなものか)で、一言で言えば、ガラの悪い街ですな。
UK Crime Statsによれば、ウェールズで9番目に治安の悪い地域ってことになっていて、特に街娼どうするか、について議論されてたりする。

芝居の設定は、この、Splottに住んでる街娼、Effieによる独り語り(ネタバレが本当に嫌いな人はこの先何行か、読まないで下さい。でも、ストーリーのネタバレはこの芝居の美徳を一切損なわないと考え、敢えて書いてます):

家族のある傷痍軍人と一夜を共にして、ガラにもなく本気になったところが捨てられて、妊娠していることが分かって、産むことに決めるのだけれども、極端な早産に加えて地元の病院には産婦人科病床も人手も足りておらず、別の病院に搬送される途中で救急車が雪でスリップして結局たどり着けず死産になってしまう、っていう、極めて救いのない話。

が、観客は、その物語に動かされるわけではない。演者の所作とか、語り口とか、舞台の様子とか、そういうものに晒されて、で、感情が動くのではないかと僕は考えている。少なくとも僕はそうした「可哀想な物語」に動かされる観客ではない。
もっと言うと、観客はきっと、平田オリザの東京ノートの台詞にあるように、
「芝居を観ているときに、自分は一体何を見てるんでしょうか?」という謎々を常に自分で問いかけているのである。
演者を観ているのか?そこで語られる物語を聞いているのか?それを聞いている自分を後ろからもう一人の自分として観ているのか?

この芝居の最初の台詞は、それへの問いかけである。最後の台詞も、観客への挑戦である。そういうネタバレは、ここではしない。
最初と最後の台詞でフレームがかっちり決まった時点で、この芝居は「勝利」している。
そして、役者がそこを勘違いせずに、焦点をずらさずに、演じきったことで、この芝居は生を得ていたのだと思う。
Effiが世界を観る視点と、演技者が観客を見る目線。その先にある世界と観客と、それを感じながら演技者=Effiを観る僕と。最後までその焦点が緩まない、素晴らしいパフォーマンスだった。

A Gamblers' Guide to Dying (Edinburgh Fringe Festival 2015)

30/08/2015 11:15 @Traverse 2

エディンバラ2日目のしょっぱなは、男性独り語りによる「ギャンブル好きおじいちゃんの生き様」。
開演1分にして、メロメロ。涙出てきた。
語り始めるときの、観客との関係の切り結び方の間合い。口ごもり。
さて、どこから始めようか?どういう人の話になるだろうか? その、場に対する真摯さに、感動した。
それだけで、この公演に来て良かったと心の底から思えたんだ。

お話自体はそんなに難しくなくて、
ギャンブル好きのおじいちゃんがガンで余命1ヶ月、と診断されたときに、
「じゃあ、オレ、余命がもっと長い方に賭けるから」って大金賭けて、それでどうなったか、っていう話。
まぁ、こうやって一括りに話すと、よくある「ちょっといい話」だな。

してみると、やはりこの芝居の魅力は、ストーリーそのものではなくて、語り口とか、そういう細部にあった、ってことなんだと思う。
もちろん、エディンバラのフリンジフェスの観客層はとても広いし、
基本的にはスコットランド人のためのフェスなのだから、地元のスコットランド人のじっちゃん・ばっちゃんが多数詰めかけるステージだったのだけど
(日曜日の午前中公演でもあるし)、従って、観客の間口は「ストーリーを愉しむ」人に向けても広げておかないといけなくて、そして実際間口はうまーく広くとってあって、
その上で、しっかりと、語り口で勝負。素晴らしい。そこら辺は畑澤聖悟さんの上手さに似たキャパシティを感じた。

「自分の祖父の話」なのだから、語り手のパーソナルなものが入り込む余地は多分にあるのだが、役者がここでも
「語り手・語られる人・演じ手・観客(総体として・個として)」のそれぞれの視線を整理した上で舞台に上がっているので、クリアーで、
かつ、境界をぼやかして遊んでも心配にならない。安心して身を預けていられた。

いや、素晴らしかったです。

2015年9月10日木曜日

Swallow (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 21:45 @Traverse 1

Traverseってのは設備もとても良いし併設のパブもとても感じが良くて、小屋としては一流。キャパシティ250人くらいの擂り鉢状の舞台が心地よい。

Swallowは、英国に住む女性3人の孤独と触れ合いを、時としてモノローグで、時として「限られた時間の中での」交流を通じて描く現代劇。
こんなクリシェがとてもお似合いの、ぬるくて退屈な芝居だった。

どんな女性たちかというと、最近ボーイフレンドの浮気が発覚してショックのあまり自分の顔に沢山縫うような傷をつけて仕事も休んでしまったバリキャリの人と、性同一性障害で悩む生理学的には女性な人と、ここ2年ぐらい兄弟のカネで借りているフラットに引きこもっている女性。
そういうキャラ設定自体にケチをつけるつもりはないのだけれど、おそらく、この芝居を台無しにしてしまっているのは、引きこもりの女性が、「引きこもりって多分こんなもの」みたいなドリーム入った感じでしか描かれていなくて、切実さがまったく感じられなかった、ってことなのではないかと思う。

起きていることとして語られる出来事はヒリヒリしていることを訴えるかのように語られるのだけれど(鏡を全部割ってモザイクに作り替えるとか、家具調度を全部なくすとか、カーテンを全部ハサミできってペリカンの巣にするとか)、岩井ヒッキーワールドの切実さは皆無。説得力がない分だけ女優が「熱演」「熱弁」に頼らざるを得なくて、まぁ、その熱についてはちょっとだけ買っても良いが、それ以上のものではない。

そうだ!この芝居は、引きこもっていたことのある人、引きこもっている人のための芝居ではなくて、
「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」による、「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」のための、「引きこもりに漠としたあこがれを抱いている人」の芝居なんだ!
だからこうなっちゃうんだよ。

そういうぬるい進行を全体として許容しているものだから、ラストシーン、初雪が降ってその冷たさに触れて「私は外に出られたのよ!」みたいにいきなり解放されちゃうという途方もなくお人好しで、ストーリー上はみんながちょっとだけ救われるように書かれているのにも拘わらず客席では誰も救われないという大惨事になってしまうのだ。
いや、違うな。客席はけっこうみんな喜んでみてたな。喜んでないのはオレだけかもな。

まぁいいや。僕にはつまらなかったです。

2015年9月9日水曜日

This Much (or An Act of Violence Towards the Institution of Marriage) (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 19:45 @The Monkey House, Zoo

男優3人のガチ三角関係もの。これからの人生の同志に娶られるのか、セックス含めて自由に快楽を追求するパートナーを取るのか。さあどうする?
っていう芝居で、これが殊の外楽しめたのである。

そもそも、男女関係でなくて男々関係にする必然性があるのかという向きもあるかもしれないが、必然性はないよ。だって普通に男々関係がある世の中で、普通にそれを拾ってきただけのことなんだから。
もちろん、男女関係を縛るものとして色んな社会規範とか制約があるのと同様に、男々関係を縛るものも多々あって、その在り方は男女関係とは若干違うかもしれないけれど、それは大して重要なことではない。

この芝居では、だから、カップルの在り方を縛るものとして、「ゲイに対する偏見」ではなくて「結婚という制度」を持ってくるという、極めて古典的なフレームを使っている。後は、男優3人で演じるんだから視覚に訴えるシーンは当然出てくるんだけど(たとえば、男優のウェディングドレス姿とか)、後は、浮気発覚の瞬間とか、3人対決のシーンとか、ごくごくスタンダードな三角関係もの。
それを、変な色を出して媚びていこうというのではなく、ストレートに見せてくれたことに好感を覚えた。

低予算のプロダクションの限界は、ステージの作りとか小道具の取り回しとかに見て取れるし、演出のとっちらかったところも気になるし、真っ裸になって男二人でチンチンぐるぐる回してみせるのも100%無駄なシーンだとは思ったけれども、それを補ってあまりある三角関係真っ向勝負の潔さ。愉しんだ。

4x4 Ephemeral Architectures (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 17:30 @Assembly George Square Theatre

ジャグラー4人とバレエ・ダンサー4人が組んで、バンド生演奏で魅せるパフォーマンス。

先にエディンバラ入りしていた友人の超お勧め演目、第2位の作品だった。ロボット演劇を観るはずだったのが、そっちは当日になって売切御礼、友人には失礼ながら、「次点」で滑り込み当日券ゲット。Assemblyのシアターがとても大きな小屋だったので、当日券も手に入れることが出来たのだが、結果、超ラッキー。

色んな突っ込みはとりあえずおいといて、見た目に楽しく、音楽も楽しく、60分、フルに満喫した。
安野光雅さんの絵本で、サーカスの曲芸師が操るクラブやボールが変な連なり方をしてる絵があったような、朧な記憶があるのだけれど、
それを舞台に映したような感覚。

お手玉名人の側にいてボールをかっさらっちゃったらどうなるのか、とか、
そのボールを気がつかないようにお手玉名人に返すことは出来るのか、とか、
くるくると回るクラブの間を縫って縄跳びのように動き回れるのか、とか、
複数の人がちょっとずつタイミングをずらしてお手玉したらどんな風に繋がって見えるのか、とか、
そういう、
子供の頃、何秒か考えたことはあっても、その後絶えて思い出すことのなかった試みを、
なんと目の前で展開している人々がいる、ということに、単純に、「すごいなー、こんなことができるんだー」
と見入ってしまった。

このパフォーマンスは、単純な、ある意味稚気に満ちた、アイディアを、極めて高い技量を尽くして実現してしまったことが、エラい!のである。

技量の高いシーンはもちろん凄いのだけれど、んぐぐ、と唸ってしまうのは、
ジャグラー達とダンサーが横に並んで複数のボールの上下動を連ねて一枚絵で見せるシーン。
なんと、バレエ・ダンサーの女性はお手玉せずに、ずっと泊まって前向いて、ボールを上に放って取るという、いわば、観ている子供でも出来ること繰り返すのだ。
「僕でも出来る」仕草が組み込まれて、しかも、それが美しい一枚絵の全体に貢献しているという、
あれは、かなりやられる。

もちろん突っ込みどころはある。
何故ダンサーがバレエじゃなきゃならないのか?とか、
途中で出てくる何だか高尚ぶった語りは、ありゃ一体何だ、とか。
が、そんなことを考えているヒマがあったら愉しんだ者勝ちである。単純にすごいじゃないか。楽しいじゃないか。良かったなあ。

2015年9月8日火曜日

Lungs (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 15:35 @Roundabout, Summerhall

男女2人が子供を持とうと決めてから、結婚、流産、別れ、その他いろいろ紆余曲折を経て、一緒になって死に別れるまでを描いた、
2人芝居なのに実は女性独り語りによる「女の一生」もの。

最初の場面から女優が一人でまくしたてて相方の男性にしゃべらせないところから、既に辟易する。
「そもそもこんな女性は嫌い。いや、ここまで人の言うことを聞かない女性はリアルにはいない。あるいは重度の病気」というのが半分、
「狙ってこうしているとするとこれからの70分相当キツいな」というのが半分。
男優が台詞を言って会話がどうにか成立しそうになると相当安心するのだが、どうも芝居全体の構造が女性の視線に偏っていて、据わりが悪い。

この台本を書いた男性は、相当女性に対して悪意を持っているのではないかとすら思えてくる。

後半は男性の台詞も増えてくるのだけれど、物語の組み方からして既に「女性の視点から見て男性の台詞がどう聞こえるのか」しか見えてこない。
それだったら男性の役なんか不要で、最初から女性一人芝居にして男性は添え物にする、あるいは色んな役を引き受けさせたら良かったじゃん、
と思わざるを得ず。

後で観た "The Solid Life of Sugary Water" も似たような主題を扱っていたのだけれど、「真面目さ」においては同じくらいだと思うのに、
形にしてみると圧倒的に "Solid Life" の方が面白く、しかも「伝わる」仕上がりになっていた。

2015年9月6日日曜日

Tomorrow's Parties (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 13:20 @Summerhall, Old Lab

Forced Entertainmentは、日本にも何度か来ていた記憶があるけれども、僕自身は初見。
男女2人が演壇(辻説法に使っているような風情の)に乗って、未来についてしゃべくりまくる夫婦漫才を60分。
エディンバラに居ながらにして、三球・照代師匠の地下鉄漫才を思い出させてくれたというのは大きな収穫かも。
逆に言えば、絶妙な二人の掛け合い(何というクリシェ、しかしクリシェの範囲でしか面白くないところも実査沢山あったのだ)、
時としてゆるーい下ネタや時事ネタもしのばせながら、
その中に顔を出す未来に対する不安、絶望めいたもの(これもまたクリシェ!)、
それ以上に僕の関心を引いてくれるような瞬間は訪れず。残念。

Confirmation (Edinburgh Fringe Festival 2015)

29/08/2015 11:50 @The Dissection Room, Summerhall

エディンバラ到着後一発目の芝居は、Chris Thorpe作・自演の独り語り、時として観客参加型。

Confirmationっていうのは、(これは後で調べたことなんだけど)日本語では「確証バイアス」と呼ばれていて、
「人間ってのは、自分が既に持っている信念をサポートしてくれるような材料を集めて「客観」を名乗ろうとする」ということらしいんだけど。

とある街の郊外で行われた在郷軍人会の話から始まって、街の排外主義者のこと、米国の著名な排外右翼学者との会話等々。語り手であるChrisは自らを「英国に住む白人でリベラル左翼」であると名乗り、その視点から語られる人々は(自称へたれ左翼の一観客からすると)排外主義の白人どもの話で、おそらくこの手の芝居を観に来てるということは、会場にいるおよそ100人の人々は(9割以上が白人だったけれども)、ほとんどが「リベラルな思想の持ち主」なんだろうなとも推測される。
が、ここで困ったことに、
(1) この芝居の中で語られる対象としての排外主義者達の主張は、大体において、Confirmationの典型例のように思われる・・・(困ったもんだよなー)一方で、実は、
(2) この客席の中でも確実にConfirmationが作用していて、さらに、
(3) 語り手のChrisは、そのバイアスに自覚的でありながら、実はその罠の中にいるのか外にいるのか、語りの中では絶対に明らかにはならない
ということなのだ。

しかも、語られるトピックは、特に日本人である僕にとっては、「白人の排外主義者」のフレームで語られているにも拘わらず、
もちろん、現代日本の排外主義者と彼らが依って立つconfirmationの問題とパラレルで
(高等教育を受けていてそれなりの教養を身につけている人が、強固に理論武装されたconfirmationに陥っている状況に眉をひそめざるを得ない現状では特にそうで)、
冷静に聞いてられない、ということは、自らも実際のところはconfirmationの陥穽にはまっているんじゃないだろうか、
と困りだしたところで、ぎゅぎゅっと結末をたたんで60分のパフォーマンスが終わる。

本当に、困ってしまう芝居を観てしまった。もちろん、良い意味で。
柔らかな語り口で観客を取り込みながら、そして、取り逃がさないように手練手管を尽くしながら、ラスト、きちんと困らせてくる。
そこら辺の使い分け。語り手、語られる人の描写、語り手を演じる俳優、観客(しかも、総体としての観客と、1対1で対峙する観客との使い分け!)、その辺りの整理がきちんとついていて、しかも、あからさまになりすぎないようにコントロールしているところに巧みさ、凄みを感じた。

こういう芝居を日本で演るのは難しいだろうな、とも思った。主義主張の左右に拘わらず、confirmationの存在を指摘されると逆ギレする人に満ちてそうな気がするから。
その点、イギリス人は(少なくとも芝居を観に来る層の人は)偽善者ではあるかもしれないが、少なくともconfirmationの存在を一旦受け止める度量くらいは持ち合わせているだろう。ん?だから日本でやってみたいと思うのか。そうだね。やってみたいよね。で、沢山の人に観てもらいたいよね。

2015年8月20日木曜日

Splendour

15/08/2015 @Donmar Warehouse

ほぼ売切御礼の公演を、立ち見席で。
作り込みや手口、役者の演技がかなり荒っぽい、そして、時としてダサいにも拘わらず、力強さが際立って好感を持って観れてしまう、不思議な舞台だった。
通常は役者は上手なのに戯曲や演出がいけてないがために面白くなくなるケースが多いんだけど、
いや、ウェストエンドで、こういう、完成度が低いのに観てて面白い芝居が観られるとは、驚いた。

首都で暴動が起きている中、独裁者へのフォトインタビューに呼ばれる西側から来たフォトジャーナリスト。
独裁者本人は現れず、常に表にいるのは独裁者夫人。
そして、その35年越しの友人の女性。
そして、その国の言葉を一切解さないフォトジャーナリストのために随行する通訳の若い女性。ただし経歴はインチキ臭く、通訳は(分かっててわざとなのか、ただ分かってないのか分からないくらいに)滅茶苦茶で、しかも盗癖あり。
この4人が、揃いも揃って「悪い人たち」なのである。変な正義感を振りかざそうとする上から目線の西側ジャーナリストとか、イメルダばりの靴をひけらかす独裁者夫人とか、夫を独裁者に殺されながらその国に居続け、悲劇のヒロインぶった良識派が時としてイタい感じの未亡人とか。
それが、会話劇の合間に面を切って自分の本当の感情を吐露するという仕掛け。いや、これ、ダサい趣向だろう、と思うものの、4人のキャラ立ちが素晴らしく、そのだっさい面切り台詞さえも面白く聞こえてくる。

これ、細部の台詞と演出に工夫を加えたらとんでもない芝居になるんじゃないかと思ったんだけど、後から知ったのだが、なんと2000年初演の芝居の再演だった。
再演で、これ?って思わせる、なんというか、きっと15年前も同じこと考えてる人居たんじゃないかしら、って言うくらいの無頓着ぶりも、また、良きかな。
いちゃもんのつけようはいくらでもあるが、何より、観ていて引き込まれたし、飽きなかった。

あ、こういう、骨太の芝居、坂手洋二さんの芝居も時としてそういうところあるな、と、今、思い出した。

2015年8月15日土曜日

Bakkhai

13/08/2015 @Almeida

Almeidaのギリシャシーズン第2弾は、エウリピデスのバッカイ。
ごく普通につまらなかった。眠たいシーンで眠ってしまったが、何かを見逃した気もしない。観ていて怒りもわかず。なんだろう。

ディオニュソスを演じるBen Whishawが両性具有という設定で出てくるとか、途中で死んじゃうペンテウスの役の人が、ペンテウスを殺してしまう実母の役で後で出てくるとか、何か、現代にギリシャ悲劇やるんだからちょっとした気の利いたことやってみよう、みたいな臭いがぷんぷんして、それも、冒頭、作り物の土手の向こうからディオニュソスがでてくるところから既にぷんぷん臭って、ごめんなさい、僕が観たかった違います、といいたい気分。

ギリシャ悲劇を観に行くときって、小細工観に行きたいわけじゃないんだよ。よほど力入れてかからないと、やっても観ても面白くないだけ、第1弾のOresteia、岡崎藝術座のアンティゴネー、気合入ってたよ。真っ正面から。蜷川さんの演出でも、三浦基の演出でも、ギリシャ悲劇は「観られるもの」に仕上がるはずだと思う(本人がやりたいかとか、それが僕の好みか、とかは別にして)。
このプロダクションにはそういう意図が全く感じられない。Oresteiaは好評につきウェストエンドでも上演することが決まったようだけれど、このBakkhaiは無理だろう。

コロスの女性達の歌は面白かったけれど、それが、主役3人の男優の添え物のようにしか使われていなかったのが残念。こんなにコロスが面白いなら、いっそコロスを主にして、ディオニュソスやペンテウスを添え物扱いにした方がよほど面白かったと思う。

2015年8月12日水曜日

A Number

08/08/2015 @Young Vic

このテの「対話劇」になると、英国演劇は途端に真価を発揮するなー、とつくづく思った父子の二人芝居。
Young Vicには痛い目に遭いっぱなしだったが、この芝居で評価急上昇である。

まずはチケット。郵送されてくるはずが前日になっても届かず、たまらず電話したら、「今回は郵送しないことにしました」とのこと。
恥ずかしながら、その事情が上手く聞き取れなくて、まあいいや、ともかく劇場で受け取りね、と思っていったら、
劇場でチケット受け取って納得。チケットには、公演名とか日時とか書いてなくて、ただ、数字が書いてある。"A Number"が書いてあるって訳ね。
こりゃ一本とられました。
と思いながら開場時間になるのだが、割り振られた番号によって入場ゲートが異なるのである。僕の番号は、「一旦劇場の外に回って~入場して下さい」とのこと。

特設客席(どんな風に特設なのかは芝居が終わるまで分からない)に入っていくと、客席と舞台を隔てているのは横開きのブラインドカーテンで、その向こうは見えない構造。
一体どうなるのかなー、と思っていると、開演時間にブラインドが開いて、その向こうにはなんと観客席が!なーんだ、そういうことか、はさみ客席か、と思うと、何と向かい側には自分が座ってる!客席に知人が一切居ないので自分を見つけるまで気がつかないのだが、ブラインドの向こうには、「鏡」があるわけです。えっ?と思うと、
マジックミラーが展開して、鏡がガラスになる。その中は四角い鏡張りの部屋になっていて、父と子がいる、という寸法。
四面鏡張りなので、すなわち、四面合わせ鏡、である。むこーーーーの方までその父子がずーっと映っている。夜中にやってはいけない。ダブルで危険である。
声はマイクで拾っているようだが、若干くぐもって聞こえるのは仕方がない。ガラス越しだし。

と、ここまで頑張っている時点で、この芝居、面白いんだろうな、と思う。思わせる。そして実際面白かった。
題材はクローンの息子を何十人も作ってしまった父親と、30半ばにしてそれを知ってしまった息子の会話。実は途中で別の息子が出てきたりするのだが、なにぶんクローンなので(かつ当然ながら一人の人が演じてるので)見分けがつかない。そこは演技の使い分けで分かって下さいね、ということなのだろうが、すんません、正直言って途中まで相当分かってなかったです。こんがらがりました。相当。
まぁ、結末聞いて、あぁ、そういうことだったんだね、とは思うけれど。非ネイティブの哀しさである。
ただし、二人芝居でプロップもほとんどなく、鏡張り舞台なので、台詞と演技のガチンコ勝負。これに耐えられる戯曲と役者は強い。本当に強かった。堪能した。

で、まあ、芝居終わってカーテンコールになると、何と四面にご挨拶。ということは、鏡の四面の向こうにそれぞれ客席が組んであると言うことなのだろう。ふむふむ。それも面白い。

お父さん役の、「勝手な父親」「謝りつつ、過去の過ちを後悔しつつ、やっぱり身勝手な父親」がどうにもマイケル・ケインとかマイケル・ガンボンぽいなとおもってたら、何と初演は2002年、マイケル・ガンボンとダニエル・クレイグだったのね。納得。あ、こういう無責任な父親と息子の芝居、日本でやるなら、志賀廣太郎さんの父に大竹直さんの息子で観たいなーと思った次第。

2015年8月10日月曜日

Hard To Be A God (邦題 神々のたそがれ)

09/08/2015 @Curzon Bloomsbury

新聞のレビューが異常に良いのでついつい観に行ってしまったが、3時間、観終わって、どぉぉおーーん、という気持ちで映画館を出た。

ブリューゲルの絵に出てくる、遠近法の効いてない妙にニヤニヤした顔の人間達が、
3時間にわたってそのままの表情で人を殺し、吊るし、鼻をつまみ、耳をつまみ、鼻血を出し、つばを吐き、痰を吐き、鼻汁を出し、後ろから股間を掴み、殴り、はたき、虫を握りつぶし、人の顔に止まってる奴は叩きつぶし、泥を掴み、糞を掴み、顔に塗りたくり、音を立てて酒をすすり、それをぶぶーっと人の顔に向けて噴き出し、湿地に近い中世の世界のズブズブの泥の中を歩き続ける。それが3時間延々と続く映画。
地球よりも800年遅れた惑星に、神様(=地球からやって来た、一種オールマイティーの科学者)を放り込んでドキュメンタリータッチで撮影しました、という感じで。

カメラの前に割り込んできたり、突如通行人の汚ねえにいちゃんがカメラ意識してニマーと笑ったり、突如髪の毛が大写しになったり、そもそも映像も遠近を意識させてくれない(都度都度観客としての立ち位置を確認させてくれない)し、物語の構成も余計な説明は一切してくれないし、そんな時間があるのなら3人余計に吊してやる、くらいの勢いである。そういうものを観客に見せる、人前に出すために3時間映画館の空間を埋め尽くす、という意味で、そのイッちゃってる感が、ブリューゲルの、遠近無視、ひたすら画面を埋め尽くすニヤニヤ顔の連中が蠢く絵に近い。

Hard to be a Godって「神様はつらいよ」なんだけど、その意味は、もう、観客一人一人に任せるよ、って感じ。ともかく画面の情報量が異常に多くて、絶対に一回じゃ処理しきれない分量。一方で、そもそも白黒の暗い画面で、ブリューゲルのニヤニヤ顔の見分けはつかないし、唐突の神様会合も何が何やら分からんし、物語の展開に拘らないで観てると必然的に鼻水や唾や血や汚泥に目が行っちゃうし。いや、あんな世界に現代人送り込まれたら、そりゃハードシップ手当相当もらわないと持たないだろうけれど。

これを毎週とか毎日見させられたら気が狂いそうだが、それは、ブリューゲルの絵を24時間まんじりともせず見続けたら気が狂うかな、くらいの意味であって、いや、すごい体験をした、確かにすごい映画だよ、と納得して帰ってきた。

The Trial

05/08/2015 @Young Vic

カフカの「審判」を下敷きにした、全回売り切れの人気芝居。
地下鉄ストライキで当日キャンセルが出ることを期待して当日券に並んで受付開始時間に行ったら前から9番目。
開演3分前にキャンセル9人目が出て観られたのはとってもラッキーだったのだが。

三流不条理劇のダサさに思わず唸ってしまった。
芝居が終わってすぐ、隣の若い女性に"Did you get it?"「分かった?」って聞かれて、「いや、分かんない」って答えたんだけど、
続けて「まぁ、不条理だから」って言ったら「あぁあ」と、納得したようなしてないような感じ。
要は、「なんだか、意味ないわよねー」ってことなんだけど、で、不条理劇なんだから意味なくて全然構わないんだけど、
でもね、劇中、主人公が「こんなバカげたことがあるのかぁー!」って叫んじゃうような不条理劇は、少なくとも日本では観たこと無いよ。

そこで「ひょっとすると、イギリス人には不条理劇へのエクスポージャーがないんじゃないか?」疑惑が頭をもたげたのであります。
そういえば、物語に説明とか因果関係の説明の付く結末を求めがちなところとか、訳分かんないときには訳分かんないことの帰結として
悲しいことが起きちゃったりとか、そういう芝居、多いように思われるのだが・・・
もしかすると、「不条理」っていう概念が、イギリス人の中には育ってないんじゃないか?そこはナポレオンに勝ち、スペインの無敵艦隊を打ち破り、
ブリッツを乗り越えて、「どうしようもないことなんて無い!」と言い切ってしまう心根が、
「不条理」を受け入れる素地をイギリス人から奪ってしまったのではないのか?
そういえばこの国には地震も台風も火山も猛暑日もないからなー(但しストライキと洪水とボイラーの故障はあるのだが)。

ゴドー待ちは、不条理劇の一つの金字塔ではあると思うのだけれど、本当のところ、イギリス人はどう受け止めているのだろうか?
(実のところベケットはアイリッシュだし)。あれは、UK的には不条理劇ではないのかもしれない。
いやむしろ、不条理劇じゃないから受け入れられてるのかもしれない、とか考えてしまう。

<ゴドー待ち英語版プレミアを演出したPeter Hallのノート>
http://www.theguardian.com/stage/2003/jan/04/theatre.beckettat100

<何故現代UKで不条理劇が流行らないかについての記事>
http://www.theguardian.com/stage/theatreblog/2011/dec/14/a-for-absurdism-modern-theatre

四方囲み舞台で長い長方形の舞台の上にコンベアベルトを置いて、舞台装置も「それなりに工夫」してみたり、小芝居で笑いを取りに来たり、
色々手は加えてあるんだけど、でも、そこまでなんだよな。
カフカの原作にある得体の知れない不安はそこにはない。「こんなバカげたことがぁー」と叫ぶ主人公の自我があるばかり。
そして、こんな芝居をする連中には別役さんの芝居はきっと面白くも何ともないんだろうと思ってしまったよ。

うむむ。Young VIcに来たのは久しぶりだけど、ダメだったー。そういえば野田さんの赤鬼も大がっかり芝居だったなー。そのときは客席からも失笑が漏れてて、あー、イギリス人から観てもやっぱりこの芝居はダメダメなんだ、よかったー、そこら辺の基準は間違えてないよなー、って思ったんだけど。
8日にもう一本Young Vicで観るんだけど、正直、不安である。

2015年8月8日土曜日

The Curious Incident (再観)

01/08/2015 @Gielgud Theatre

再び、観に来たのであります。
今回は、堂々家族4人のファミリー・イベントとして、ウェスト・エンドにやって来たわけであります。
これなら、周りをご老人お二人連れとか、孫からおばあちゃんまで家族連れとか、そういう人たちに囲まれても、
怖くないし、変にいじけてしまう必要も無いのであります。

と、そういう心持ちで観ると、やはり、とても上出来な芝居で、さすがはトニー賞5冠に輝いただけのことはある芝居だと、
改めて思わされる。
最初に観たときにも思ったが、原作小説のメタ構造を上手に芝居に移植して、かつ嫌味無く、
舞台美術も素晴らしい。主人公の科学への興味を舞台に映しながら、過剰な装飾を避け、しかもこれまた嫌味無く、
デジタルに作り込んでいるように見せて(いや、作り込んでいるんだけれど)アナログな少年王者舘風な仕掛けが随所にあって嬉しい。

スタッフワークも良いのだけれど、実は、役者がみな良い仕事をしていて、
主人公、先生、近所のおばさん、両親、いずれも、自分の仕事をきっちりわきまえて演技しているのが印象に残る。
そもそもが「(アスペルガー症候群か自閉症かは明らかでないが、外界の捉え方がアプリオリに想像される捉え方とは違う)主人公から見た世界を
小説/演劇に写していく」構造になっているので、
そこで見える・見えているであろう自分たちを、陳腐に落とさず、難しくしすぎず、しかもそれを「(含む観光客の)親子連れ」を飽きさせず、
うるさい観客に文句言わせずに上手くバランスとってアウトプットするというのが、何とも上手い。ずるい。レベル高い。

こういうバランス感覚は時として鼻につくのだけれど、原作に対するリスペクトが存分に感じられることもあって、
すっきり見れる。改めて、さすがです。

2015年8月3日月曜日

American Idiot

29/07/2015 @Arts Theatre

いやいや、どうして、わたくしとてもミュージカル観るのです。たまには。
Billy Elliot観れば何度観ても泣くし、Starlight Expressも楽しかったし、Catsも観たし、レミゼも観たぜ。ロックオペラTommyだって観た。
欲望という名の電車のミュージカル観て、あまりのことに怒ったりもしてるわけです。

で、American Idiot。その名の通り、Green Dayのアルバムのコンセプト使って、ミュージカルに仕立ててるわけで。
9-11にあやかったチープな反戦とか、反共和党とか、そういうのはちょっと嫌かな
(いや、ミュージカルとして、という意味です。もちろん小生個人的には反米帝、反拝金共和党を掲げております)、
って思ってたんだけど、これが、意外に素直に面白かったのであります。

American Idiotなんだけど、アホなアメリカ人(共和党員め!)じゃなくて、
アホなアメリカ人の若者3人のお話で、それ以上の説教臭さは一切無し。
故郷に残る奴、軍隊に行く奴、都会でドラッグにおぼれる奴、と、とことん分かりやすく。
大団円もまさに大団円と呼ぶに相応しい終わりっぷりで、いや、いいんじゃないでしょうか。
尺も休憩なしの2時間弱。大袈裟にならずにちょうど良く。
バンドがとってもタイトな演奏を聴かせてくれて、それも収穫だったかな。

Badly Drawn Boy

26/07/2015 @Barbican Centre

良かった。本当に良いライブだった。
Damon Gough自身がとっても楽しんでるみたいで、それが嬉しかった。

Badly Drawn Boy を初めて聞いたのは、2000年頃家族旅行しているとき。ホテルの部屋のテレビでMTVかなんかつけっ放しにしてたら、
"Spitting in the Wind" のPVが流れてて、それがBDBを聞いた最初。ついでに言うと、Joan Collinsを見た最初でもある。

http://www.youtube.com/watch?v=86MmPaBvSIM

で、ロンドンに戻って速攻で"Bewilderbeast"を買って、それがもう15年前かー。

"About A Boy"のサントラがその後にでて、それも良いアルバムだったんだけれど、実は"About A Boy"は、
僕がUKに来て最初に読んだ英語の本"High Fidelity"を書いたNick Hornbyの小説第2作で、とっても好きで何度も読んでた本で、
その映画化のサントラっていうので買ったらやっぱりすごく良くて、実はその後も何度も繰り返し聞いたアルバム。それももう13-14年前になる。

あ、何が言いたいかというと、BDBのアルバムってのは、僕の前回のUKでの生活とすごく絡み合っていて、
その10年間が僕にとって、一種大変充実・安定していた時期だったというのもあって、
要は、「BDBのアルバムが、自分の良い記憶と結びついている」ということなのです。

その後もBDBのアルバムは欠かさず聞いていたのだけれど、このところ調子が悪かったみたいで、新作もなかなか出なくて、
気をもんでいたのだけれど、この夏、Bewilderbeast15周年のツアーをする、っていうんで、これは聞きに行かなくては、と。

15年前だものね。懐メロだね。もう。
でも良いんです。Damonが元気で、また、曲作ってくれたら。来年には新しいアルバムも出すって言ってたし。
バックバンドのお兄ちゃん達も、楽しく、かつ、ソリッドにBDBを支えてくれてたし。
そして、良い曲が揃ってるよ。
あの、ちょっとぽっちゃりしてるので腕が上がりきらない「両手ガッツポーズ」も堪能したよ。
「ずっとバービカンで演りたかったんだ」ってのも、お世辞にはとらないでおくよ。嬉しかったよ。

http://www.setlist.fm/setlist/badly-drawn-boy/2015/barbican-hall-london-england-13f605d5.html

2015年7月26日日曜日

Rufus Wainwright Solo

12/07/2015 @Royal Shakespeare Theatre, Stratford-upon-Avon

いやー、やっぱり歌の上手い人の生歌はええわーーーー、と実感。

Stratford-upon-Avonまで長距離バスでロンドンから3時間、行った甲斐あり。
普段はRSCの公演で使われている劇場を使った贅沢な弾き語りナイト。

RSCの劇場なので内装も落ち着いているし、客層も中年カップルとか多くて、落ち着いて聞けた。
僕らの前にイタリア人観光客風家族(夫婦+ティーンの息子・娘一人ずつ)が座ったときは、
失礼ながら、こいつら大丈夫かと思ったのだが、ルーファス登場とともに奥様大興奮、
歌詞も全部知ってて口ずさみながら、夫婦肩と肩よりそって横揺れしてるのをみて、
心の中で深くお詫び申し上げた次第。

前座のMax Juryはシンプルなローズ電気ピアノの弾き語り、
妹のLucy Wainwrightも、滑り気味の語りでギター弾き語り。
いずれも持ち味出しながら伴奏なしの真っ向勝負で気持ちよし。
3人合わせて3時間の長尺コンサートでありながら、まったく飽きなかった。

ルーファス・ウェインライトも、40歳を超えたとは思えない声の艶。高音も出て、聴き応えあったなあ。
妹に「ライザ」の恰好させたり、Max Juryに「ジュディ」の恰好させたり、も、適度の悪ノリ感あって良かったよ。
贅沢だった。

でも、白のスーツに「ビーサン」はやめてけろ。

1984

11/07/2015 @The Playhouse Theatre

2013年にNotthinghamで初演され、West Endでも大好評を博した、ジョージ・オーウェル原作「1984年」の舞台版、ロンドン再演。
噂に違わぬ100分間、オーウェルの世界を壊さず、しかも左派懐古主義の古典芸能にも堕ちずに現代性を保って、飽きさせず、エンターテイニングに観た。
ただし、芝居として刺激的でガツンときたかと言われれば、そこはちと食い足らぬところもあった印象。

出だしから前半、スチームパンク風の舞台美術を動かさず、プロップを微妙にぶれさせながら時間と場所をポンポン飛ばして進めていく手管は大いに見応えあり、
短い暗転とシーンの切り替えが天野天街さんの演出を思わせる。そしてそこで展開されるストーリーはまさしく1984年の世界である。
このまま100分間押し切ってくれたらメロメロにやられちゃう、とまでも思わせるのだが、
そこで「間口を広げて幅広い観客にも分かりやすく作ってしまう」のが今のウェスト・エンドの芝居の王道なのか、これは中盤以降、
舞台の展開とも合わせて、(演劇としては)失速していく。

後半、Julianとの情事以降の展開は若干メロドラマチックに流れ、拷問シーン以降はテリー・ギリアムの「ブラジル」風近未来ディストピアテイストに覆われて、「これだったらなにも芝居で無くっても」感が増してくる。
ただし拷問シーンの見せ方は、エンターテイメントとしては十分行けてるんだろうと思う。耐えられなくて出て行っちゃう老夫婦もいたみたいだし、「ディストピアをありがとう」な観客には十分見応えのある仕上がりではあった。

あぁ、しかし、それにしても、1984は永遠に不滅です。劇場に来てる硬派オヤジ率の高さを目の当たりにするに付けても、「あぁ、今度、読み返さなきゃ」と思った次第。
他人事じゃないんだよな。技術的にも、情況的にも。

2015年7月5日日曜日

An Oak Tree

05/07/2015 ソワレ @National Theatre, Temporary Theatre

観客参加型演劇ならぬ俳優参加型演劇。丁寧に作り込まれて、ぐいぐい引き込まれる。恐るべし。

この芝居の売り文句は一種きわものチックで、
「脚本・演出と客演俳優の2人芝居。客演者は、プロット・台詞、一切事前に聞かされていません(もちろん客演者は日替わり!)」。
よーくありがちな、客演者がつっかえたり、予期せぬ方向に転んだりして、チープな笑いを誘ってくるんじゃないだろうな、という予感もした。
ただし、もしかすると、と思わせるのは、これが10年前に初演されたものの、再演だということ。
ひょっとするとひょっとするかも、で出かけていったら、これが、とっても面白かったんだ。

客席から呼び出される客演者。緊張気味に。
そこから70分、作・演出・俳優の三役をこなすTim Crouchから客演者への指示は、すべて、「目に見えるところで」行われる。
マイクを通したヘッドフォンへの指示。ファイルにはさんだスクリプトを渡してのリーディング。台詞のやりとりをしながら「次、こう言って下さい」という指示。
ちょっと間をとって、これからこうなるから、こうしてください、という、小声での段取りの指示。
隠れた仕掛け無し。

これ、芝居の掟を破りまくりじゃないの?っていうか、そもそも稽古してから人前に出したら良いじゃん。という人も居ただろう。
インプロも何もないの?全部指示が出るんだったら、観客参加型でも良かったんじゃないの?という人も居ただろう。
客演者がこの直後になにをするかが、(指示を通して)全部分かっちゃうんじゃあ、「これから俳優が何をするか分からない」っていうドキドキ感は一切無いってこと?という人も居ただろう。
いや、これら全部、僕自身がちらちらと考えていたことです。恥ずかしながら。

ところが、である。
「劇中の役柄の人間関係」と「作・演出と客演者の人間関係」と「劇中劇の中の役柄の人間関係」が、階数表示のないエレベーターのように上下動する中で、舞台上の2人が作る関係性と、そこから生まれてくる物語の広がりに、どんどん引き込まれていくのだ。
いや、さっき書いたような小難しいことを考えながら、ふと気がつくと、引き込まれていた、のだ。理由が解明できないまま。

これは大変なことで、だって、目の前のパーツパーツが飛び抜けてどうだとか思っていないのに、してやられている。地図の書けない世界の中に、いつの間にか自分がいる、ということなのだから。そして、おそらく、(後付けだけれども)作・演出のナビゲーションの下で、客演者とともに、「劇」が形作られていく過程を、旅している。地図はないけれども、世界はある。その、目眩がするような感覚の素晴らしさ。

あなざーわーくすの「観客参加型演劇」の練られ方を思い出す。この芝居もあなざーわーくすに似てはいるけれども、「俳優参加型演劇」である点で異なっていて、それは、「予測可能性」を高めてある程度のクオリティを確保するとともに、「事前に作り込む劇の要素」を極力舞台上に持って上がっている。舞台に持って上がらなきゃならない分だけ、事前のスクリプト段階での作り込みは相当丁寧にやっているはずで、その完成度が異様に高いのだ。いや、もちろんあなざーわーくすの完成度も異様に高いんだけど、それは、「観客へのホスピタリティの高さ」であって、このAn Oak Treeでは「虚構の強度の強さ」が優先された、ということだろう。

だから、もっというと、実は、この芝居、客演者が「その場で初めて脚本を見る」という設定抜きでやっても素晴らしく仕上がるはずで、つまり、
「客演者がその場で初めて脚本を見るという設定の芝居」を、稽古してきて上演しても良かったはず。英国の俳優のレベルなら、それ、こなせるはずで、
そうすると、やっぱり、客演者は日替わり、その場勝負、っていうのは、「コマーシャルなキャッチ」の要素大、
っていうことかとは思っちゃうんだけど。まぁ、そこは、それとして。堪能しました。

Hang

04/07/2015 マチネ @Royal Court, Jerwood Theatre Downstairs

俳優の熱演が上滑りする、がっかり感満載の70分。
キツいテーマを扱うからと言って、そのキツさを押し売りされても困っちゃうな、というか、そもそも上手く舞台に載っかっていなかった。

死刑囚の死刑執行の方法について、選択を求められる遺族と、執行官2人のダイアログ。
終始「あんたたちにはあたしの気持ちはわかんないよ」な遺族と、「いや、分かってる、つもりなんですが」な執行官の真面目な会話。
そりゃそうだよ。要は、どんなに頑張ったって執行官は遺族にはなれないんだから、手続きも同情も無力だねってことで、
そこから一歩も出てこず、時として「熱の入った独白」で毒づいてみせる遺族と、その感情を逆撫でしまくる執行官のやりとりには全く興味が沸いてこない。

こういうテーマを舞台に載せるときには、もっと違うアプローチがあるでしょう!
と、ついつい、怒っちゃ行けないと思いつつも怒ってしまう。なべげんの「どんとゆけ」を思い出して、怒り倍増である。

終演後、スタンディングオベーションでカーテンコールはダブル。「熱演料」なんだとすると、英国演劇シーンもそんなもんか、とまたまた思ってしまった。

2015年7月2日木曜日

Temple

27/06/2015 マチネ @Donmar Warehouse

素晴らしい舞台だった。観ながら、涙出てきた。劇中(静かな芝居なので)しゃくり上げるのをこらえていたのだけれど、
終わったところで隣の女性から「良い芝居でしたね」って言われて、「すごかったです」と応えながら、声を出して泣きそうなのをこらえた。
観終わって劇場出てきて、テクスト買おうとするときに、売店窓口で泣いちゃうんじゃないかと思って心配だった。声がつかえた。
それくらい、大好きな舞台でした。

ウェストエンドの芝居には珍しく、90分一幕、休憩なし。
2011年、Occupyムーブメントの中で、セント・ポール大聖堂の前にもプロテスター達が陣取っている。
それを強制排除するべきか静観すべきか、決断を迫られるセント・ポールの主席司祭の苦悩。決断の日の午前中の何時間か。
窓の外にはセント・ポール寺院の大聖堂が常に見える。舞台上の大机には書類が散乱して、まるで青年団の一幕劇のよう。

っていうと、これ見よがしなウェルメイド深刻劇のようにも思われて、ちょっと躊躇しながら行ったのだが、なんとこれが、予想を遙かに上回る素晴らしい舞台。
主人公の主席司祭が、ラスト、どのような決断を下すのか、その揺れ動くココロを仔細に描く、なんていうありきたりではない。

正直、ラストがどうなるかなんて、途中からどうでも良くなっていく。主席司祭の置かれた場所・シチュエーション、そこに自分が「在ること」を受け止めざるをえない主席司祭の、一瞬一瞬の立ち居振る舞いから、片時も目が離せなくなっていく。

排除と共存、秩序と自由、経済と精神、そういった二択を迫る周辺人物の中で、自らを凡庸で優柔不断な人物だと断罪するところまで追い込まれる主席司祭。
周辺の人物はその点割り切れたもので、いや、戯曲の構成上、そういう造形になっているんだけれど、悩みはするものの、そこで「結論」を下すことが出来る人々だ。
そういう人々に囲まれたときに、主席司祭は、自分が、究極のところ、「正しい」結論が下せない状況に置かれていて、かつ、何らかの決断をしなければならない、ということに、自覚的なのかそうでないのか。
更に厄介なのは、この主席司祭、神様と人間と結ぶ存在でもあるので、「神様」と「人間界」の狭間でも苦しんでしまう。そもそも資本主義のルールとキリスト教(英国国教会)の折り合いをどうつけるのか。

だけど、おそらく、一番大事なことは、彼が、どんな形にせよ、実は「結論を出している」ということで、それは、「悩んでいるとき」でも「指示を出しているとき」でも、そのアクションを起こすことについて自分自身で決めているということなんだよな。そしてそれは、セント・ポール寺院の主席司祭だからこその悩みなのではなくて、誰もが抱えている瞬間なんだよな。それを役者と共有したと思った瞬間に、涙が出てきたんだ。
そして、芝居観終わった後で、「ヒッキー」の岩井さんや吹越さんを思い出して、あぁ、あの司祭は「ヒッキー」なんだって思ったら、また泣けてきたんだ。
ちょっと泣きすぎだけど。

臨時雇いの秘書が、ドジで間抜けでぜんそく持ちで大学中退でとっちらかってて、お前、日本の少女マンガなら確実にパンを口にくわえて玄関飛び出してきただろう、っていう風情なのだけれど、彼女だけは、「決断」「判断」から遠いところに身を置いて、それだけに軽やかに振る舞って、この芝居全体の重苦しいトーンの中でコミックリリーフを演じるとともに、主席司祭にとっての救いとなっていた。いや、この立場って、無責任のようでとっても大事で、彼女がどんなこといってくれても良いんだけど、で、うんうん、って聞くんだけど、結局、彼女のいうとおりにする必要も無いし、いや、最後は自分で決めるんだし、って思ったときに、逆に、彼女のような人がそこに居ることが、とっても大事なんだ。と思わせる。劇中においても大事なんだ、って思わせる。おいしい役だったな。

2015年6月27日土曜日

Violence and Son

20/06/2015 マチネ @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

昨年、"Ghost City"の日本語訳をRoMTで上演した、Gary Owenの新作、ウェストエンドデビュー。
きつい芝居を140分見せておいて、こういう落とし前ですか、って、思っちゃったよ。

ウェストエンド、っていっても、Jerwood Theatre Upstairsは、劇場の階段をがしがし上がっていって、最上階、屋根裏のようなスペース。キャパ100人弱のスタジオで、すこぶる良い感じ。スタジオ中央、円形に囲った家の居間を、周囲から客席が取り囲む。

なんと言っても、タイトルからしてViolence and Son 「暴力と息子」。Violenceってのは、父親のニックネーム。息子を産む前に父から逃げた母が病気で亡くなり、身寄りも無く、やむなく父の元で暮らすことになったDr Whoオタクの童貞17歳。きっつい話になるのではないかと、ある程度の予想はしていたのだが。
父と息子の感情の「上下動」と「波長のズレと偶然の同期」とが、何とも言えない面白いうねりを作り出していた。

あるDr Whoイベントに一緒に行った後、色々あってうちに帰れなくなっちゃった女の子を一晩家に泊めることになる、オヤジは相変わらずの暴力男だが、そこにつきあってる女性も来ていて、で、オタクな息子に童貞喪失のチャンス到来、さて、どうする?
っていう筋なのだけれど、それが、どう展開するのか。女優2人の頑張りもあって、がっつり時間を進めていく。そこは、堪能した。

が、ラストの持って行き方が...こ、これで良いのか、過ぎて...

そういえば、昔、エディンバラで、ロリコン前科者の男をアビューズされてた女の子本人が訪ねてくるって芝居を観て、それが、ラスト直前まで壮絶な出来映えだったのに、最後のなくても良いシーン3分間でぷっと吹いちゃう終わり方で、やっぱり、「こんなのありー?」と思ったことがあったのだけれど、いや、もしかして、UKの芝居って、僕から観るととてつもないとんでもな終わり方をすることが、実は「すごい」って思われるために必要なのだろうか?そういえば、岩井秀人氏の「て」のリーディングをロンドンでやったときも、「ラストのひねりが足りない」とおっしゃった人がいたそうだが、やはりここは一発、狂った次男の運転するトラックが葬列に突っ込むぐらいやれば、ウェストエンドでの成功間違いなしだったのだろうか?

またぞろ、英国の芝居に対する疑念がむくむくと・・・

2015年6月14日日曜日

Oresteia

13/06/2015 ソワレ @Almeida

アイスキュロスによるギリシャ悲劇を現代風に翻案して、退屈せずに見せきった3時間40分。でも、ラストのアテネの台詞はなー。3時間30分これだけ見せておいて、こう風呂敷畳みますか!!!!

Almeida Theatreはイズリントンにあって、場所的にはWest Endとは言い難いが、そのプロダクション力とか、格なのか、一部にはWest Endの劇場として紹介されている、名門劇場。今年の夏~秋は、ギリシャで行くぞ!と銘打って、今回はその第一弾、Oresteia。
ちょうど今、東京では木ノ下歌舞伎が三人吉三、5時間通し上演をやっているはずだが、こちらも負けじとギリシャ悲劇3時間40分である。
が、こちらはアイスキュロスのギリシャ悲劇に大幅に手を加えて(加えているはず。原典を当たっているわけではないけれど)現代風に。

第一幕、無茶苦茶かっこいい。冒頭の台詞を聞いただけで、もう「ついて行きます、どこまでも!」と思ってしまうくらいにかっこいい(これを言っているのが誰なのかは、プログラム読んでも配役表読んでも出てこない。後でテクスト見たら、Calchasとあって、トロイ戦争時のギリシャの予言者だそう)。そしてアガメムノン。映画「トロイ」でブライアン・コックスが演じるアガメムノンに敬意を表しつつも、いや、このアガメムノンが(一種トニー・ブレアを意識しているのかもしれないが)、モダンに、抑制効かせながら、見応え十分。
第一幕で娘を生け贄に差し出して、第二幕でアガメムノンが妻のクリュタイムネストラに殺されて、第三幕でクリュタイムネストラが息子のオレストスに殺されて、で、第四幕でそれまでの展開をくるっとひっくり返してさらに伏線を一気に回収して、ドン!と来るのだけれど、オレストスを演じる若い役者がちょっと絶叫芝居系で、今ひとつ。そして衝撃の結末へ。

ギリシャ悲劇を現代に翻案する際の問題意識としては、岡崎藝術座の「アンティゴネ/寝取られ宗介」を思い出す。神里演出の方が、社会の規範と個人の緊張関係をクリアーに見せていた気がするんだけどなー。どうなんだろう。

いや、本当に、3時間35分経過までは、「この芝居、邦生王子の演出で観たい!」と心の底から思っていたのだけれど、それが覆りかねないほどに衝撃の結末だったのですよ。


<そしてネタバレ。Oresteiaご覧になる予定の方は読まないで下さい>

オレステスの母殺しに関する有罪/無罪について、陪審が50/50に割れるところまでは、大方の想像通り、かつ原典通り。
で、アテネの評決。手短に言えば「うん、でも、私たち、男性社会で生きてるから。陪審の評決が五分だったら、被告人(男性)の利益に」だって。
いや、ひょっとするとアイスキュロスの原典通りなのかもしれないけどね(読んではいないけど)。でも、それは、いやしくも現代に翻案したんだったら、そして、かなり編集を加えたんだったら、それ、言わせなくてよかったんじゃないの?芝居のスケールと見合わないご教訓に収束しちまわないですか?
どうですか?オレは納得いかないよ。
どうなんだろう?いいのかなあ?

The Father

06/06/2015 ソワレ @Tricycle Theatre

「父」の記憶が混濁していく過程を、「ほぼ一人称」に拘り、時として「父の記憶」を混濁したまま載っけてしまう戯曲の構造だけでなく、配役の混濁、舞台、照明、幕間の音楽、スタッフワークの全てを駆使して舞台に載せていた。「物語の筋」自体はリニアで特段奇抜ではないのに、舞台への乗せ方次第で、90分間、飽きずに観ていられるのだ。

KilburnにあるTricycle Theatre、キャパ200人程度の居心地の良い空間。瀟洒なパリのアパート(パリだから、アパルトマン、か)の一室。白壁、舞台奥の白いパネル、書棚、左右に一つずつ出入り口。舞台下手から自然光が差し込んでいるという設定。
と、気がつくのが、舞台上、天井が吹き抜けておらず、真っ白の天井が被さっている。また、敢えてプロセニアムを強調する舞台前面の四角なフレームは、青白いLEDで縁取りされている。この、天井と舞台前面、後ろパネルで囲まれた空間は、一種、「父」の脳内空間の縁取りとなっている。

冒頭の導入場面。認知症の兆しを示す父と、心配性の次女の間の、一種ありきたりな会話。ちょっと「あ、ありきたりな芝居に来ちまったか」と疑う。

が、その直後の暗転。ピアノの小曲がかかるのだが、針飛び、繰り返し、クリックノイズ。「うん?」と思う。

この、ありきたりに始めておいて、うん?と思わせて、それが、舞台の進行とともに徐々に加速し、エスカレートしていく、その手管にうなる。
アパートの調度が微妙に変わっていく。失せる家具、加わる家具。暗転中の音楽の繰り返し、クリックノイズ。同じシーンの繰り返し?それとも回想シーン?「父」の台詞や「父」が聞く台詞は、すぐ後のシーンで言っていなかったことになり、聞いていなかったことになり、果てには登場人物が入れ替わり、同じ会話が「違う相手との間で」繰り返される。これは現在進行の出来事なのか、繰り返しなのか、「父」の脳内の記憶の再生なのか。

観客も、舞台上の出来事が「父」の認知症の進行とリンクしていることは理解している。でも、それが、「父」の病状を神の視点で目撃しているのか、「父」の脳内の記憶再生を追っているのか、それとも、介護する側の人間として存在する「次女」の主観が介入しているのか。そのヒントは与えられない。その辺りの時間の進行の「行きつ戻りつ」の取り扱いは見事で、この戯曲が2014年にフランスで立派な賞をもらった(Moiere賞がどれくらいすごいのかは僕には分からないけれど、モリエールってくらいなんだからきっとすごいんだろう)というのは頷ける。

まてよ、こんな芝居、日本でもなかったっけ?そう。岩井秀人さんの「て」。でも、「て」では、おばあちゃんの視点からの時系列は追っていない。その分、主観のズレが観客からも分かりやすく出来ていたなー、整理しやすかったなー、と思ったりする。
この"The Father"が超絶技巧で複数の視点の混在をそのままにして引っ張っていくのに長けているとして、ただし、その代償は、おそらく、「最後はこうなりまっせ」的な、一種観客が安心できるようなラストシーンなのだと思う。そうでないと、お年を召した観客は完全に置いてきぼりのまま、劇場を出て行かざるを得ないと思うから(実際、終演直後、近くに座ってた老婦人が、連れに向かって、なんだか追うのが難しかったわよね、とおっしゃっていたし)。
だから、ラストシーンには大いに不満が残る。相当程度、「父の面倒を見る人々」に寄った視点に収束させて、観客を安心させに行ってしまった。が、それを差し引いても、相当レベルの高いプロダクションであることには間違いない。充実の舞台だった。

2015年6月10日水曜日

Waiting for Godot

6/6/2015 マチネ @Barbican Centre

Sydney Theatre Companyがオーストラリアから持ってきたゴドー待ち。
MatrixでAgent Smithを演じたHugo Weaving(Lord of the RingsではElrondを演じてる人)が出演していて、彼はとても良い役者だから。と聞いて観に行ったのだが、そもそも僕はMatrixをちゃんと見てないので、やっぱりよく分からない。まぁ、とにかく、オーストラリアで創ったゴドー待ちである。

1997年にPeter Hallの演出で、また、2006年にも別のプロダクションでゴドー待ちを観たことがあるのだけれど、今まで観たゴドー待ちの中で、一番もの悲しいゴドー待ちだった。そもそもゴドー待ちはもの悲しい話なんだ、と言われればそれまでなのだが、いやいや、どうして、僕はこれまで、もっとカラッとしたゴドー待ちしか観てなかったんだな、とつくづく考えてしまった。

このオーストラリアからやって来たゴドー待ちでは、カラッとテンポ良く時間を進めるのではなくて、べたっと、じわじわと、役者が演じていく。Hugo Weaving演じるウラジミールは、「昨日と明日」を強く意識したウラジミールであるとの印象を与える。
カラッとさらっと演じられる時の「あぁ、こうやって、毎日毎日ゴドーを待ってるんでしょ」という繰り返しを想像する感じではなくて、むしろ、昨日から今日、今日から明日、未来永劫へと進む時間のベクトルの方が強く感じられて、その時間の果てしなさに途方に暮れる2人の「心持ち」がもの悲しく見えてくる、そういう演出になっていたと思う。

「カラッと演出」のゴドー待ちでは、「また一日が繰り返されるという状況」を観るという感じ。
「べたっと演出」のゴドー待ちでは、どちらかというと、ディディとゴゴーの「自我」「内面」に興味が沸いてくる。
「自我」「内面」に焦点を当てることがこの演出の勝負所だったのではないかと思えたのは、実は大きな収穫。ディディとゴゴーの内面だなんて、今まで考えたこともなかった。

しかし。僕の隣に掛けていた方は、べたっとじわっと進む一幕の間すやすやとお休みになって、二幕では姿を消していらっしゃいましたよ。
僕も、ポッツォとラッキーのシーンではとても眠たかったです。

2015年6月3日水曜日

The Dogs of War

31/05/2015 マチネ @Old Red Lion Theatre

Dark Comedy と銘打ってはあったけれど、Comedyではないな、これは。救いのない話の中に、笑っちゃうシーンも時としてあった、という程度。
いや、救いのない話でもComedyを堂々と名乗ることの出来る芝居は沢山あるのだから(チェーホフであったり岩井秀人であったり)、これをComedyと呼べない理由は、救いがないからではないのだ。ただの、いやーな話だからなんだ。

精神病の妻とともに北アイルランドのど田舎に引っ越してきた夫。妻の病気を理由に早期退職したものの、職無し金無し、友人無しで何とかつましく暮らしている。大学生の息子は田舎暮らしと扱い難い母を嫌い、なかなか帰省してこない。ある夏、息子が帰省すると、飼っていたはずのイヌが3匹、見当たらなくなってしまっていて・・・

この芝居の決定的な瑕疵は、病の妻を「周りの人からの視線」だけでしか描けなかったことだと考える。
冒頭、大学生の息子の視点で芝居を始めておいて、その後の展開にも息子の視点を使いながら、後半に掛けては徐々に夫の視点にシフトしていくのだけれど、その間、「実は息子はこうで」「実は夫はこんな感じで」というネタを、(え、ここでそのネタ出して種明かしのつもりなの?と問いたくなるような、反則気味のタイミングで)繰り出すことで物語をドライブしようとしているように見えた。
その中で、一貫して「妻」は、夫と息子、隣人から見てただの手に負えない人、という視点でしか見えてこない。あれじゃ誰から見てもおかしな人だし、本人もおかしいのが分かってて「おかしく見せようとして演技している」みたいにしか見えないよ。だから「実は本人はこんな気持ち」というのが(独白の形で)明かされても、狂人の思い込み・悪あがきの自己主張(の演技)でしかないように見えてしまう。

いや、所詮は、家族3人が3人とも自分の視点からしか物事見ていないんだけどね。でもね、妻の視点からどのように物事が進行しているのかに観客が入り込めるような工夫が欲しかった。本人が自分の病状をどれくらい自覚しているのかは誰にも分からないけれど、でも、本人には感じられているはずなのだから。そこの境目が分からないようにしないと、Darkでも恐ろしくも何ともない。
「イヌが見当たらない」「実はいるのに見えていないだけなのか?」「あたかもイヌがいるように振る舞っている夫は、妻につきあっているのか、妻とともに病気なのか、それとも本当にイヌがいるのか」という軸は、観客に座標を示すヒントとして上手く使ってあるのだけれど、「精神病の妻」という軸がビシッと決まっているので、実際の効き目が薄いのが惜しい。

照明や音響効果も「いかにも」で洗練を感じない。
いや、でも、こうやって書いてると、何だか、いじれば良くなる芝居なんじゃないの、と思えてきたりもする。出来損ないの「て」なのではないかという気もしてきた。どうなんだろう。

ちなみに、Old Red Lionってのは、Angelにあるれっきとしたパブで、この日はArsenalのシーズン終了パレードで、外も盛り上がっていた。パブの中にはArsenalの旗が飾られてて、ただの飲み客ももちろんいたりする。開場を待ってたら、近所のオヤジが5歳ぐらいの姪っ子連れて怒鳴り込んできて「外歩いてたらこの上の階からレンガが降ってきて姪っ子に当たっちまって、ぐぉらぁ、責任者誰じゃい」みたいなことになったり、Pub Theatreならではの醍醐味ではあった。

2015年6月2日火曜日

Matchbox Theatre

30/05/2015 ソワレ @Hampstead Theatre

軽ーいタッチで短いスキット(というよりも、小咄)を24個繋げたエンターテイメント。どこまでエンターテイニングと感じられるかは人によるだろう。
Michael Fraynによる掌編集はすでに出版されていて、それを舞台向けにアレンジした由。
少なくとも僕にとっては、ぬるくて、大して面白くない小咄芝居。やはり事前情報に限りがあると、こういうこともあるだろうな、という感じ。

ただし、Hampstead Theatreには18年ぶり、改装後は初めて来たのだけれど、とても良い感じの空間だった。
ステージゲート前のバースペースも素敵だし、なにより、中の空間が可動式なのが良い。この芝居では完全円形舞台が出来ていて、客席もきっちり囲み客席。
舞台中央のせり、回り舞台も含めて、ずいぶんと使い勝手の良さそうな劇場だったなぁ。

どんな風にぬるかったのかを、備忘もかねてメモしておくと:
・冒頭、円形舞台の説明に5分掛けて、一方を向いて演技すると後ろが気になるから振り返って、左が気になって右が気になってくるくる回って、さて、下手にはけるって、下手はどちらかしら?
・明転すると客席に2人役者がいて、「あれ、休憩なんじゃないの?電気着いたし」「しーっ、黙って。周りがみんなこっち見てるでしょ!」「いや、みんな周囲を伺って、もう薄々休憩なんじゃないかって思ってるんだよ、きっと」
・1000小節以上出番のない、オペラのオーケストラピットの奥にいる管楽器奏者の独り言
・隣で食事してるカップルが地名を言い間違えてるのが気になって仕方が無い話
・何百年か前に葬られた夫婦の妻の方が「眠れないわ」と夫に苦情を言う話
・とにかく電話が長い女性の話
等々。

2015年6月1日月曜日

The Angry Brigade

30/05/2015 マチネ @Bush Theatre

力のこもった戯曲・演出・役者陣。2時間30分テンションを持続させるも、時として空回り。
1970年から72年にかけて、ロンドンで連続爆弾テロをはたらいたアナーキスト4人組、"Angry Brigade"の顛末を、捜査当局とアナーキスト4人組の双方の視点で描く作品。
うーん、真面目に創ってるのは分かるんだけどなー。どうも、これでもか感が先行して、すっと入ってこない印象。惜しかった。

<ネタバレ注意>

1幕は、Scotland Yardの4人組がターゲットを追い込むさまを描くのだけれど、どうも暗転が多くて落ち着かない。事態の転換のドライブ感を出そうとしているのかもしれないが、ただのブツ切りになっていて、正直、ノれず。これはだめかと思っていたら、
2幕は、アナーキスト4人組のロンドン到着から逮捕までを追っていて、才気ならぬ稚気溢れるアナーキスト達の会話は微笑ましくもあり、昔を思い出してムカッときたり、時として聞かせる台詞もあって最後まで持って行けたのだが、しかし、そこまで。単なる自己満野郎達の暴走とその終焉、みたいに終わってしまった。

所々にオッと思わせる台詞はあって、Angry Brigadeのメンバーが語る「母が掛けているアイロンの蒸気の音の中にこそ、静かで、目に見えない、しかもリアルな、爆弾の爆発=暴力を感じた」っていうくだりはうならされた。こういう台詞が、平田オリザ「革命日記」にあったらばどうなっていただろうか、とも思わせた。
でもね、そういう風に暴力の在り方に切り込みながら、舞台上では「暴力的になっていく」有様をスチールの戸棚をバンバン倒して音で「表現」しちゃったら、それは、駄目でしょう。人種やジェンダーや思想やその他色んなところで「暴力」がどんな風に体現されているのかに迫りたいのであれば、安易な音の効果はただの邪魔。むしろ中村真生の作り笑いや齊藤晴香のワイングラスの方がよっぽど暴力的だったと思う。

そういう生硬さもあって、折角の2部構成(追う側と追われる側)も生かし切れていなかった。本来は追う側の「正義(実は暴力)」と、追われる側の「暴力」「(秩序の中にこそある)暴力」が、コインの表裏である、だからこそ、この芝居は4人の役者が攻守双方に立って演じるのだ、ということなのだろうけれど、そうした意図が伝わらない舞台になってしまっていた。つかさんの「熱海殺人事件」がどれほど巧妙に出来上がっていたか、っていうのと比べてしまう。

いや、それにしても、力作であることは間違いなくて、いや、誰か、構成大胆にいじってぎゅっと締まった舞台にしてくれたら、是非もう一度観たい、とは思っているのだ。

2015年5月27日水曜日

Gods Are Fallen and All Safety Gone

24/05/2015 ソワレ @Camden People's Theatre

UKでは日曜日は基本的に劇場が開いていないので、割と限られた中で「これかな?」と見当を付けて出かけてみたのだが、
シンプルでとても良い芝居に当たって、幸せな気分。

Camden People's Theatreは、Camden TownよりはむしろEustonに近いところにある、キャパシティ50人くらいのスタジオ。黒く塗られた壁とか、手作業で組んだ感ありありのバトンとか、まさに「小劇場」と呼ぶのに相応しい、僕にとってはとても居心地の良い空間。
そこで男優2人が約1時間にわたって演じる母と娘の会話。商業的に大ヒットになることはないだろうけれど、是非とも人に勧めたい、色んな人に観て欲しい、とても良い舞台に仕上がっていた。

小さな空間だから、ということもあるのかもしれないが、大げさな身振り、声を張った面切り台詞は無し。同じ台詞から始まる、日常のやりとりに即した、母娘の会話が、同じような構造で4回、変奏曲のように繰り返される(大人版「反復かつ連続」のように)。そういえば、ちょうど日本では快快が「再生」やってるなー、それと比べてどうかなー、どう着地させるのかなー、などと思いながら観ていたのだけれど、どうやらこの芝居の繰り返しは、年月の経過の中での繰り返しであることが、3回目くらいで分かってくる。後で戯曲を読むと、やはり、その辺を説明するト書きがきちんと書いてあるのだけれど、初見で観ている分にはそれは舞台の進行につれて徐々に分かってくるようになっていて、そこに観客の妄想を膨らませる余地が設けられている。

おそらく、この芝居のミソは、「母娘の日常のやりとり」を、キャパ50人のスタジオの、舞台奥(奥って言っても客席最前列からはたかだか2.5m先)の踏み台兼ベンチ以外は素舞台になってる中で、男優2人がTシャツにズボンのシンプルな格好で、カツラかぶるわけでもなく母娘です、と断って演じている点にある。そこで何が起きているのか、物語を組み立てるイニシアティブは、おそらく、相当部分観客が担える余地があるはずなのだ。

そこはどこなのか、いつなのか、本当に母娘なのか、どちらかの妄想の中なのか、男二人の母娘ごっこなのか(あ、それじゃあそのまんまじゃんか)、そういった説明は一切せずに、2人の対話だけで見せていく。俳優の力も感じるし、演出のテンポも感じる。いや、繰り返しになるけれども、戯曲のト書きはもっと説明的で、そのまま具象でやったら凄くつまんなかったんじゃないかと思う。戯曲家自身による演出、すごく上手くいっている。

ちなみに、タイトルのGods are Fallen and All Safety Goneというのは、後から調べたら、スタインベックの「エデンの東」からの引用。親の言ってることが必ずしも全て絶対正しいわけじゃない、ってことに子供が初めて気がついたときの気持ち。親の権威は徐々に失墜するのではなくて、ある日ハードランディングしなきゃならない。その修復にはとっても時間がかかる、ってことらしいのだけれど。

そもそもこの芝居のテーマは、まぁ、母と娘の会話だから、それはそうなんですが、そこを離れて、もっと好きなように観ても全然大丈夫な芝居に仕上がっていた。下手袖に近所の本物の母娘を招いて、何をするでもなく座ってもらってる、っていう趣向も、全く嫌みじゃなく、面白かった。

2015年5月24日日曜日

Oppenheimer

23/05/2015 マチネ @Vaudeville Theatre

このところウェストエンドで一番評価の高かったRoyal Shakespeare Companyのストレートプレイの最終日。レスタースクエアにあるTKTSに並んで当日券、ストール席をゲット。
原爆の父と呼ばれた男、ロバート・オッペンハイマーの生涯を、UC Berkeley在籍時(1930年代後半くらい)から原爆投下後の名声と悔恨(1940年代後半)まで追いかけていく3時間。前半はちょっともっさりした感じだったし、「これみよがしなリベラル西海岸の学者連中」の見せ方が臭いと思ったりもしたが、2幕目に入って俄然緊迫度を増し、ブラックベリーの呼び出し音で場内に殺気が漲ったラストシーンまで、ぐぐぐっと見せきった。

うん。すごく良い芝居ではある。が、3時間かけて追いかけるほどの厚みはなかったのではないかという気もしている。
オッペンハイマー自身に加えて、各登場人物はそれなりに個性のある人物揃いなのだが、それらの人物の道行きにドキドキハラハラすることはない。彼らは皆、オッペンハイマーという「主役ならではの、巨大で歪んでいて複雑で、まぁ、芝居のタイトルにするのに相応しい人物」の添え物だってみんな分かってるから。
そういう、一つの自我に着目した骨太な展開っていうのは、西洋ならではの自我の取り扱い方を反映している気もする。僕からすると、こっちで芝居観てて辟易することの一つとも言えるのだけれど。うーん、でも、チェーホフの戯曲でそういうの感じたことはないなー。実は西洋の演出だとチェーホフの見せ方も違うのかなー?どうなのかなー?気になる。あと、シェークスピアの取り扱いも。

3時間以上かけて時代のうねりを見せる、という意味では、去年観た木ノ下歌舞伎の「三人吉三」は本当に凄かった。4時間かけようが、5時間かけようが、登場人物一人一人が特定のタイトルロールに奉仕するのではなく、きちんと存在感を持って演技し「部分部分を観ていても楽しめる」のにもかかわらず、それが、全体として大きな物語のうねりに繋がって「時代の姿まで見えちゃった気がしてくる」のであれば、前半がたるいとか、中盤ダレたとか、そういうことは起きないのだという好事例。いや、そういうの一度観ちゃうと、西洋大河ストーリー何するものぞ、自我を軸とせずとも物語のうねりは十分味わえるぜ、っていう具合に気持ちが大きくなるんだよね。

逆に、一つの自我の在り方にフォーカスして作り込むなら、平田オリザの「暗愚小傳」や「走りながら眠れ」の方が遙かにシャープで、無駄がない作りだと思う。時代のうねりはぐっと後景に下げておいて、でもしかし、主人公の自我(肥大もせず、卑小でもない、極めて等身大の自我)の後ろにあるものが、芝居とみた後にじわじわと染みだしてくる作り方も、これもまたあり。何より、3時間かけてなくて良いのだ。

こうして、二兎を追い、さらに幅広い観劇層(含むover70s+家族連れ)にエンターテイニングだと感じてもらおうとする三兎まで追っかけた、最大公約数の芝居を創ろうとした結果がこれか、ひょっとして。それなら頷けなくもない。僕の好みではなかった、ということだけかもしれない。

2015年5月18日月曜日

Eclipsed

16/05/2015 ソワレ @Gate Theatre

素晴らしい舞台を観た。
芝居を観ながら「これがどの程度、実際にリベリアで起きたことに基づいているのか」とか「この芝居はハッピーエンドに向かうのか、酷い結末を迎えるのか」とかが関係なくなって、とにかく舞台上で起きていることから目が離せなくなり、この舞台をずっと観ていたい、と思ったのだ。

リベリア内戦時の、反政府軍の頭領の妻、第1号と第2号と第3号と、新しく加わった第4号の話。前振りを聞くなり、かなりキツい話であることは想像できて、劇場ロビーの写真を見ても、やっぱり相当キツそうな予感。「キツい」っていうことは、反面、説教芝居やアジテーション芝居に陥るリスクも相応に高いということで、期待値を上げないようにして、Gate Theatreの客席最前列最上手席に陣取った(こっちに来てまで最前列かい・・・)。

リベリア内戦。反政府軍の頭領の妻たち。彼女たちが住む住居の外の様子は舞台からは窺えない。時折訪れる頭領も、舞台上には登場しない。大きな物語は、戦闘も含めて、舞台の外で起きている。彼女たちが彼女たちが暮らす世界の遙か外、ジャネット・ジャクソンやビル・クリントンやモニカ・ルビンスキがいる世界に想像を逞しくするのと同様、観客も舞台の外の戦闘や少年兵たちについて想像を逞しくするほかない。そして、舞台上で展開されるのは彼女たちの日常だ。日常・・・泣いて笑ってケンカして、嫉妬して、同情して、ウソついて・・・そういう日常のやりとりが、現代リベリア語(とおぼしき英語、ピジンの親戚みたいな)で続いていく。そこに、戦闘員になると言って住まいを飛び出した第2号が帰ってきて、リベリアの婦人のために平和を取り戻す活動家のバリキャリ実業家がやってきて、これまでプライベートな空間だった彼女たちの住居が、セミ・プライベートな色彩を帯びて・・・

って、これ、現代口語演劇の王道を行ってるじゃないか!

日常を描いているのに、リベリアの内戦時の日常そのものがキツすぎて、極めてきっつい芝居に出来上がっているんだけど、それを織り上げるものは日常の所作であり会話であり、「阿修羅のごとく」にも比すことが出来る四姉妹の愛憎であり、文字の読めない1号と2号が4号の読む本を耳で聞いて世界を膨らませていく過程は「ストリートオブクロコダイル」のシーンのように美しく、可笑しく、せつない。2号が飛び出していく食うか食われるかの世界は、まさに資本主義の弱肉強食の裏返しとなって普遍性を帯び(るように小生には思え)、狭い狭いリベリア反政府軍のアジトが、ぐぐっと世界を広げていくのが強く感じられた。
そして何より「どのシーンを観ていても美しく、目が離せなかった」。役者たちの魅力、アンサンブル、勘違いしなさ加減、本当に観ていて飽きなかった。

こういう芝居、日本にいる人にも是非是非観て欲しい。こういう芝居、SPACとかFTとかKAATで呼んでくれないかなー。鳥の劇場で観られたら最高だろうなー、春風舎じゃちょっと狭いなー、そういうことを考えながら、幸せに帰路についた。

2015年5月17日日曜日

Golem

16/05/2015 マチネ

<恥ずかしい事実誤認があったので、書き直します。戦間期の芝居じゃないですね。カンパニーの名前が1927だったんですね。知ったかぶりは末代の恥。以下、訂正版です>

ロンドンに来て最初の週末に芝居を観てから、引っ越し、生活の立ち上げ、家族リユニオンと、あたふたしているうちに1ヶ月近く経ってしまった。
今日の昼に観たのは、Golem。今時の芝居ならではのテクノロジー・ガジェットを駆使した芝居ってことで、相当流行ってるらしい。
Trafalgar Studioっていう小屋は初めて来たけれど、Studioと言う割には観客席も300席近い客席がきちんと急なスロープで組んであって、想像していた日本の小劇場風スタジオとは相当違う。客層も例によって子供連れあり、老夫婦あり。さすがに観光客はほとんどいないが。

Golemってのは、ご主人様の言うことを何でも聞くはずの土人形のことで、それが段々と主客逆転していくっていう筋立てで、分かりやすくて、話の進み具合から置いて行かれることもなくて、安心して観ていられる。

この筋立てを支えてるのが舞台奥パネル+役者が出し入れする3尺×6尺(くらい)のパネルに投影される書き割り+動画で、この出来が素晴らしく良い。(ネタバレすんませんが)土人形の動きは100%この投影で処理されていて、役者の動き・シンクロぶりも完璧。つまりは今は懐かし2次元劇団エジプト+α、今風に言えば範宙遊泳がちょっと似てるかな。テクニック的にはGolemの方が遙かにカネも人手もたっぷりかけて一日の長あり、でも、イメージの広がり方は範宙遊泳の使い方の方が良いなー、と感じた。

筋立てのこともそうだし、技術の使い方にしてもそうなのだけれど、この芝居で惜しいのは、それらのことが、テーマ、すなわち、「テクノロジーに使われちゃってませんかー?」っていう極めて分かりやすいメッセージに奉仕する形でしか出てこないこと。そうしないと伝わらない、という主張には耳を貸すけれども、それは、観客の想像力がスパークする機会をあきらめている、って気がする。観客の想像の余地を狭めるってことは、劇中の Go Friend、Go Mealとか、i-macとかi-なんとかとか、翌日配送何とかPrimeとか、その延長のGo-Theatreになっちゃうんじゃないの?って言いたくなっちゃう。

でも、そこで、諷刺を楽しみながらも「自分はそんなことないから」って思い込んじゃってる部分が西欧の、特にわりかし教養のある(従ってカネを出して芝居を観に来る)人に多かったりするからなあ。そういう自尊心までも揺るがしてしまうような仕掛け・演劇まで行ってしまうと、却って、「理解できないふりをされる」ことになっちゃうのかもしれないなー、などと思ったりもしている。これでは日本の小劇場演劇が受け入れられるまで、あと5000年はかかるのかもしれないなー、マジで。

2015年4月19日日曜日

The Curious Incident

18/04/2015 マチネ

UKに来て最初の週末。
住居探しをするはずだった土曜日が思いがけず空いてしまったので、当日券で芝居を観た。
Fringe Addictを名乗りながらいきなりWest Endで芝居というのもこっぱずかしいのだが、まぁ、初球はしょうがない。

The Curious Incidentは、Mark Haddonが2003年か2004年に出したベストセラー小説"The Curious Incident of the Dog in the Night-time"の翻案で、「夜中に犬に起こった奇妙な事件」という邦訳も出ている。
本当は2013年末にロンドンに来たときに家族で観るはずだったのだが、その直前に劇場の天井が落ちて公演中止になったという(うちの家族にとっては)曰く付きの芝居。

良いプロダクションだった。プロセニアム劇場の中でできる限りの工夫を凝らし、小説ならではのフレームと芝居ならではのフレームの違いについて自覚的に、想像力の広げ方についても、テクノロジーと上手な舞台装置の使い方でおっと思わせてくれた。

ただ、UKでこういう良い芝居を観ると、芝居の作り方というか、楽しみ方というか、そういうところの考え方が、日本(の小劇場)とずいぶん違うなー、というのが先に立って、思いっきり楽しめないところもあるんだよなー。
両脇に座ってるのは家族連れ。左隣はおばあちゃんと孫の男の子。右隣は4人家族、父親はギリギリまでBlackberryいじってるし、子供はゲームしてる。今の劇場がそういう場であることは疑いようもなくて、だから、上演中携帯が鳴ったり、親子でお喋りしてたり、そういうのもある程度しょうがないところもあって、そこで青筋立てて怒ってもしょうがないし、でも、大事なのは、上演中にその場を支配するフレームが、そういう、家族のお喋りや携帯の音では壊れてしまわないこと、そこが面白い。もちろん、その方が良いと思うわけでもなくて、実は、その分相当緩くフレームが作ってあるのは、ちょっと不満だったりする。

フレームの締め方までぎゅぎゅっと創ってある芝居ももちろん観たことはあって、Compliciteとかそうだったなー、とか、パン屋再襲撃のUK公演もそれなりに受け入れられてたなー、とか、は朧気に覚えているのだが。
そこら辺の間口の取り方とか、入り込みかとか、もうちょっと芝居観て、考えていきたいとは思う。アンテナの張り方はまだまだ足りないが、アンテナを張れば張るほど、受け手と作り手の関係の違い、根底のところの違いが浮き彫りになりそうで、却って面倒くさいだけの気もしたりする。
でも、大体、一人でウェストエンドに芝居観に来る人って、そんなにいない気もするんだよね。トホホ。