2010年2月28日日曜日

精華小劇場プロデュース イキシマ

20/02/2010 マチネ

眠かった。どうしても眠かった。観ていて腹が立ってどうしようもない舞台は結構あるんだけど、そういう舞台でも眠らないのが、眠った。
夜も調子悪かったし、月曜になってモロに身体悪くなっちゃったから、きっと、それもあったんだろうとは思う。でも、それを差し引いても、眠かった。3度、落ちた。

ヨメ曰く「しっくりくる芝居の観方が違うのだろう」。つまり、この舞台は全体のイメージでつないで観せていくので、一つ一つの役者の動きや台詞を食い入るように追っていく「虫の眼」の僕にはとっつきにくいだろう、むしろちょっと引いた眼で全体を「眺める」ようにすれば面白かったのではないかというのである。そうか。そうだったのか。それで、この間観た維新派の舞台も僕にはピンと来なかったのか。

役者はきっと「関西オールスターズ」だったのだろう、東京でお見かけした役者さんたちも多く出てらして、それはそれで良かったのだけど、やはり芦谷康介の身体の動きには目が行く。「全体じゃなくて僕を見ろ」という主張が、いや、でも、エゴイスティックな形ではなくて、発散されていたと思う。やっぱり「個」を観てしまうんだ。僕は。多分。

野の上 ふすまとぐち

19/02/2010 ソワレ

野の上、旗揚げ公演、初日。アゴラで。何という幸せ。何という幸せな連中だ。そして、僕にとっても何という幸せな日だ。

劇団と山田百次の出自(弘前劇場)を考えれば、ある程度安心してみていられるだろうなーとは思っていたけれど、やはり力のある芝居だった。打ち上げにもお邪魔して、本当に気持ちよく酔った。

その上で、色々と文句も出ちゃったのだけれど、やはり一番大きいのは、(その場では言わなかったのだけれど)山田百次の「人の良さ」ではなかったかと思う。

そもそも劇団の始まりが「女優たちのために台本書こうと思った」ということだが、うーむ、それが表に出た瞬間に、「うまいんだけどなー」ということになってしまう。特に前半。「現代口語演劇」の教科書通り、うまーく処理しているのは力があるからなのだが、それでは山田百次の「らしさ」は出てこないだろう(それはその場で申し上げた)。確かに津軽弁でぶっとばされるのはすごいけど、実はそれってすでに弘前劇場や渡辺源四郎商店で観てきたことではあるし。やっぱり、芝居見ていて一番面白いのは、作・演のエゴが裂け目からのぞく、あるいは噴出してくる瞬間なのである。この劇団なら、それが観られるはずだ。

幸太郎君のシーンではあんなに生き生きしていたし、ほかにも「おお、これは」みたいなシーンがあったのだから、もっともっとそんなシーンばっかりやって欲しい、という、これはとっても贅沢な要求なのです。それをやって、役者がついてこれるか?それを心配することはなかろう。どうしてどうして力のある役者いたんだから。井伏鱒二先生に倣って言えば、
「山田百次、良心なくしたらええ」

五反田団といわきから来た高校生 3000年前のかっこいいダンゴムシ

18/02/2010 ソワレ

いわきの高校生、今年も素晴らしかった。屁難しく考えなくても、芝居は十分に面白くなれることを教えてくれる、とんでもないやつらだ。

たとえば田上パルの男子高校生たちはやたら元気で汚くて汗臭い中に、なんだかせつないエキスが滲み出てくるのだけれど、現役の高校生には、そんなセンチな感情が入り込む余地もなく、ただただ当たり前のように元気で、若い。彼らは「事実として」高校生なのだ。それに驚く。いや、当たり前のことだから驚いちゃいけないのだけれど。

それが度をすぎると「あざとい」という言葉が当てはまるのだろうけれど、前回・今回のプロダクション、その両方にあざとさのかけらもなく、すっきりした味わい。

つきあってる二人の二人っきりのシーン、女の子の、困ったような起こったようなニヤけてるような顔がどうにも僕は大好きで、こんな風な演技ができるover20の役者がいたら、きっと一発でぶっ飛んじゃうだろうと思わせた。

満喫。

チェルフィッチュ わたしたちは無傷な別人であるのか?

17/02/2010 ソワレ

「力強い」というのが第一印象だった。そして、今まで観た以上に輪郭がはっきりしている。
ラスト近く「三人称複数形のわたしたち」が出てきたときには、ガツンとやられた気がした。

今回のチェルフィッチュでは「一人称の話し言葉」ではなく、他者を語る「三人称での指し示し」の台詞が強調される。これは「すべての台詞は説明台詞である」という命題に逆らわず、かつ「舞台の上の役者の身体は台詞の如何に関わらず、そこに存在する」という命題を満たす。つまり、役者は台詞のテクストの発語に奉仕するけれど、物語の説明や観客の説得作業には奉仕しない。無関心を貫く。そういう態度の輪郭が非常にはっきりしていて、また、そういう態度こそが表現全体を力強くしているということに極めて自覚的であるように感じられた。

「指し示し」の台詞でシーンが進むというのは、ある意味、「ミッフィーちゃんの絵本」を、「起きていることを台詞での説明に委ねてしまう」のも、むかーし赤塚不二夫が天才バカボンでやっていた、「吹き出しの中は絵文字で、本来絵のあるべきところには言葉で絵の内容が説明してある - 裸の篠山紀信と浅田美代子が歩いている - みたいな」を、それぞれ思い出させて、面白かった。指し示して、人に伝えるってのは、そもそもがそういうぎこちない作業ではあるのだ。

そういう、表現の形に対する意識の輪郭がはっきり見えて、かつそれが面白いのだから、100分間、飽きずに集中してみていられる。すばらしい。今回は登場人物が「いわゆる若者言葉の人」でなくて、「海沿いの新築マンションを買うことができる人」と設定することで、「芝居の三人称性」が強調され、安易な移入を許さないような仕掛けになっているのも良い。
一体、チェルフィッチュの芝居を観る観客の中に、「海沿いの新築マンションを購入する若夫婦」がどれだけいるかを考えることは、余りにも下世話で、我ながらぞくぞくする。話横道にそれたが。

だからこそ、素晴らしいパフォーマンスだからこそ、口の悪い言い方をすれば「朝日新聞チックな」「他人の不幸と併存する自分の幸福」という構図を浮き彫りにする方法には、違和感を覚える。一つは、ラスト、「わたしたち」を三人称複数からYou & Usのわたしたちに置き換えて呼びかける部分。こうやって呼びかけなければ、「三人称複数の私たち」に観客が気がつかないとでも思ったのだろうか。「なんだかちょっと気持ち悪い」でとどめても良かったのではないか。また、「海沿いの新築マンションを買う幸福」は、「朝日チック」な幸福と不幸の対比を示すには都合の良い設定かもしれないけれど、ちと安易ではないか、だって、本当は、もっと微細なところに幸福はあって、もっと微細なところに罪悪感や不安感はあるのではないか。観客に「やさしい」設定や糸口を用意することで、むしろこの力強い表現のベースにある微細なものが、「分かりやすいものを受け入れた観客によって」捨象されてしまうのではないか、という気もしたのです。

2010年2月14日日曜日

マームとジプシー たゆたう、もえる

13/02/2010 ソワレ

マームとジプシー、初見。初日。
Twitterでは「売り止め」が連発されていたが、その割りに、天気のせいもあってか下手ベンチ椅子も通路もふさがらず。人気の劇団の割にはちょっとさみしかったかな。

上手な芝居。力もある。序盤の子供シーンのテンポ。大人シーンになってからのフラッシュバックの処理の巧みさ。
最後近くの泣きのシーンの泣きを殊更に臭くしないために、子供シーンの泣きを挟み込んどいて、「絶叫」「泣き」を脱臭する手管。あんまりこんなこと言いたくないが「最近の若い人たちって、本当に上手だねー」とつい言ってしまいそうだ。90分、かっつり見せた。

記憶というものは、この芝居に出てくるように、ふとしたところにフラッシュバックしてくるものだ。そしてまた、似たようなシチュエーションでの後悔や罪の意識や「あそこで自分がもう一方の小道を選んでいたら」という気持ちを伴って。しかも、「今から未来に向かって別れている2つの道のどちらを選ぶかということに対して、その過去の記憶は全く役に立たない」のだ。そういうネガティブな、改竄しようのない記憶の話として強力に組み立てられていて、作・演出の当パンの言葉に嘘偽りの気持ちはないと思う。

でも「これは僕は、これからの話、記憶からの脱却、だと思っている。」と結ぶところには、無理矢理さを感じてしまう。だってこの話は、90分間過去にしか目を向けていないから。それを振り切ろうという意図は強力に認められるけれども、そこからどこに行くかは、どこにも見えなかったから。
だから、作・演出の言葉は、「これは僕は、これまでの話、脱却すべき対象としての記憶の話、だと認めざるを得ない。」と読み直したほうが正確なのではないかと思う。

なので、90分間、観ていて辛かった。上手に作ってある分、僕のネガティブな、振り払おうにも振り払えない記憶の痛いところさえも針でつつくような芝居だったから。そして、作・演出の「どうにも振り払えない、脱却できない」気持ちを共有することを無理強いされるような芝居だったから。苦い記憶はたゆたいながらいつかまた戻ってくる。もえて消えることはけしてないのだ。

フォースト・エンターテイメント 視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚

12/02/2010 ソワレ

当パンの劇評には「数百の断言を、あたかも火星人か質問好きな子供に世界を説明するかのように生真面目に語る」、作品解説には「世界のあらゆる事物をひとつひとつ言葉で定義しようとするかのようなスピーチ・アクトが、極限的にシンプルながらも演劇への本質論的、原理主義的アプローチとは無縁の簡素な無謀さで進行する、現代の百科全書」、とある。

公演する側がそういってるんだから、多分それが「正解」なんでしょう。

でも、舞台上では「名付け」「名乗り」こそが最初に起きる事件であり、実は舞台上の時間は「名付け」と「名乗り」の繰り返しこそを動力源としているとするならば、この舞台はまさに、「演劇への本質論的、原理主義的アプローチ」を採用しているといって差し支えないのではないかと思える。
まあ、作品解説の筆者が何をもって「演劇への本質論的、原理主義的アプローチ」とみなしているかは必ずしも明確ではないのだけれど。
三浦基風にいえば「自らの身体を担保とすることで観客の視線にさらされながら発語する」アプローチを、極めてストイックに展開していると理解した。

三浦風アプローチとの違いは、テクストの中に「わたし」が一切入らないことであり、「わたし」に関するコンテクストは一切テクストに織り込まれていない(風を装っている)ことである。

それでも、「他を定義し続けるあなたは、一体何者なのか?」という問いを、観客は発し続けているはずだ。その答えは、テクストのコンテクストの中に織り込まれているのかもしれないし、シンプルな衣装に身を包んだ男の身体にあるのかもしれない。

・ その人はおそらく40-50代の、教育を受けた、あるいは演劇の訓練を受けた、男性である。
・ 男のアクセントはシェフィールド訛りではない。ブリティッシュですらない。でも、r の巻き舌はアメリカ中西部や南部・西部ほど強くない。
・ 男は少なくとも elevator を lift という場所があることを知っている。
・ 男は靴下を「足の手袋だ」と定義する。
・ 男は「愛が何であるかを表現するのは難しい」という。
・ 男は「水と氷は同じものだ」という。
・ 時として男の持ち出すトピックの順番は、「意味」から連想されて引き出されたり「音の連関」で出てきたりする。

驚くのは、男が、自分の身体を、「観客が戯曲の世界を読み解くための担保」として差し出すことを徹底的に拒んでいることだ。テクストで定義され続けるものをどう組んでみても、一つの世界をそこから組み上げることは出来ないように思われる。その意味で、男の言葉の順番は、決してランダムではない。むしろ、「そこから世界や物語を組み上げることができないように」丁寧に選ばれ、並べられている。それでも観客は最後まで、「この人は誰か?この発語はどのようなコンテクストの中に置かれているのか?」と問い続けざるを得ない。

その緊張関係が演劇にとって本質であり、原理であるならば、まさにこのプロダクションは、演劇に対して本質論的・原理主義的なアプローチを採っているといって差し支えないし、「無謀さ」は、audacious ではあっても、impossible ではないということなのだろう、と思ったのである。

終演後、役者がニューヨークの方であると「予めチラシに書かれている」ことを知って、呆然。我ながらどうしたものかと思った。

あ、あと、「フォースド・エンターテイメント」は誰がいったか知らないが、はやいとこ「フォースト・エンターテイメント」に訂正してほしい。それとも、語尾を"d"と発音する特別な理由でもあるのか?

モモンガ・コンプレックス ウォールフラワーズ

11/02/2010 ソワレ

初日。「ダンス・パフォーマンス的」かー。うまいこと言うもんだなー。

モモ・コンを初めて見たのは横浜の野外のこたつパフォーマンスで、それ以来ほぼ欠かさず拝見しているのだけれど、毎回、そう、毎回だ!変に突き抜けようとしないが故のとっつきやすさ・愛らしさと、奇跡の瞬間0.1秒前ですーっと顔を逸らしてしまうような、そんなちょっと照れたような感覚が共存してる気がする。例えていうなら、ありがちなラブ・コメで、好きあった二人がすごーくいい雰囲気になって「こ、今回こそ!」と思ってたら、妙な邪魔が入って、続きはまた来週。それが毎週繰り返される、みたいな。

この間合いを心地よいと感じることももちろんできるし、実際、心地よいから毎回拝見してしまうわけなのだけれど。でも、僕は、1年にいっぺんでいいから、奇跡の瞬間が見たいです。

2009年には、サイモン&ガーファンクルが流れる中、ぎたろーの上で川崎さんがゆらゆら揺れた瞬間、奇跡が起きたと僕は思った。奇跡は、必ずしも速度の果てに起きるものでも、激動のドラマの末に起きるものでも、祈りの結果として起きるものでもない。時として、何かの弾みに、ぽんっ!と現われ出るものなのではないかと思っている。だから、もっとどうしろこうしろ、ということは言えないんだけど、わがままなお願いとして、そのせまーいウィンドウを、狙い続けてほしい。

「みなさまの拍手が私たちの音楽です」では、隣の方がまったく拍手してないので心配になったが、実は顔は笑っていて、時々大受けしていたので安心安心。研Q以来、ネタとキレに磨きかかった。

ツレはラストのダンスのシーンでちょっと涙出たそうだ。本当はそこに奇跡が落ちていたのかもしれない。ツレは多分、それをめざとく拾ったんだろう。

2010年2月11日木曜日

タバマ企画 reversible

10/02/2010 ソワレ

あぁ、楽しかった。1時間があっというまだった。終わりの感じが漂いだすと、極めて無責任に「もっと続けてほしいよぉ」、と思ってしまう。バンドもかっこよかったし。

前に千歳烏山のStudio GOOで「ドラマチック、の回」を拝見した時は、モノクロの舞台・衣装で、パフォーマンスが進むにつれてそこから色が溢れ出してきてびっくりした。
今回は、最初の曲・パフォーマーの衣装からしてもはや色が溢れていて、こんなに早いうちからカラーまみれでは、途中で息切れしてしまうのではないかとも思われたのです。が、最後まで、若干観客(ていうかオレ)の集中力が緩む箇所はあったけれども、息を切らすことなく観られました。

あー、でも、やっぱり「ドラマチック、の回」と比べてしまう。「ドラマ・・・」で観た、他のパフォーマーのなんでもない動きを他のパフォーマーが拾う、つなぐ、そういう面白さは、今回はなかった気がする。むしろ、「空間を構成する」意識の方が強かった印象。つなぎがないと、うねりが起こしにくい。時間も、つないで流れを作るよりむしろ、「構成している」感じがした。それは、「カラーの溢れさせ方」を変えてみたからかもしれないし、小屋の大きさによるのかもしれない(いや、アゴラだって充分小さいんですけどね)。

細かく不平不満を言うときりがないのだけれど、でも、こういう、難しい思わせぶりのない、けれんのないパフォーマンスは大好きだ。みんなに薦めたい。

2010年2月6日土曜日

二騎の会 F

05/02/2010 ソワレ

やっぱり、力のある人が集まった芝居は良い。観ていて本当に気持ちよい。
1時間40分の2人芝居。かったるくなることなく、すごく短く感じられた。

実は、昨年のリーディングを聴いて話の筋は知っていたので、ちょっと心配していたのだ。
思いっきりベタなFemale Fantasyで、アンドロイドとFuたり芝居。Four Seasonsを巡る立て付けも、一歩間違えれば、いや、間違えずとも、お涙頂戴メロドラマゾーンにFast Ballをグイッと投げ込んで、非モテ男はアてられてアてられてとても我慢できねえ、と、そういう展開になってもおかしくない台本を、どういじってくるか、心配3割、期待7割。

Flowers、Fireworks、Food (Funghi入りのパスタか?Fall=秋だけに)、最後はPlease Flee to be Free! ってな具合で、外の世界ではFight For Freedom、内の世界ではFuたりっきりで時々意思疎通うまくいかずにFrustration溜まってFu機嫌になったりしながらもすっかり良いFriends。だんだん女性はFrailになってFuゆになるとさすがにFuらFuら、どうするアンドロイド君、ということでFinaleに向かう。そういえば幕間の音楽はFrenchだったりFiddleだったり。まぁ、そんなことばっかり考えてみていたわけではないのだけれども。

ぼーっと流せばメロメロになる芝居だってことは百も承知で、そっちに流れない予防線をあちこちに張って、きちんと役者を観て、舞台を観て!と迫ってくる。役者も、自分の役割は物語の説明に奉仕することなんかではないんだということを十二分に自覚して、ちょっとすごかったな。端田新菜、こんな演技されると、一体何歳の人なんだか分からない。少女のようにも大人のようにもオバさんのようにも見えて、こんなに観ていて面白いのでは物語に流されるヒマもない。多田淳之介のアンドロイドは、「物語を纏わない身体」「でも、実時間が過ぎるにつれてそこに垢のようにこびりついてしまう物語」と真っ向勝負で、それも面白い。台詞も、ファンタジーの物語の骨格はおいといて、「あ、臭い台詞!」と思わせない並びにして、観客の集中力を手放さない。スタッフワークも含めて、「力」を見せ付けてきた。

そういうお膳立てがあってこそ、観客としては、「ひょっとしてこれは全部、端田新菜の妄想か?」とか「実は多田は普通のロボットで、端田の眼にはそう見えるという状況(つまり、「火の鳥」ですな)?」とか「実はこれは老夫婦のごっこあそびなのではないか?」とか、そういうあらぬ妄想に飛んでしまう自由を与えられる。これが嬉しい。まぁ、お姫様抱っこみせつけられちゃあ、「やっぱりメロメロじゃねーか」ってなっちゃうんだけどさ。

ペピン結構設計 トンカツであーる

25/01/2010 ソワレ

センスはあるかも、と思った。でも、技術的な点で力不足。
こういうと、なんだか、「現代口語演劇好きな頭の固い親父が、自分のセンスのなさを棚に上げて若いクリエーターをけなしてる」みたいな構図になりかねないので嫌なのだが、やはり、技術的なところは目に付いてしまった。

ぶたやまさん⇔キャベツくん⇔トンカツさんの三角関係は大変楽しく観たし、どこかへ着地させてしまおうという妙な意図がないのも好感持てる。いわゆる(僕自身だけに通用するカテゴリー分けで言えば)脱力系、何だか緩いだけがいいよね、みたいな芝居(あ、これ、ネガティブな意味で言ってます)に比べてもエンターテイニングだったと思う。

でも、冒頭の「素に近いところで長新太の絵本について語る」部分で、実はいきなりうむむむむとならざるを得なかった。足を組む仕草、言い淀み、違う話に振るときの聞き手の反応のうかがい方等々、改善の余地がありありと。「普通にしゃべる」演技が苦しいと、その後の「日常ぽいところから絵本の世界へのジャンプ/飛躍/橋渡し」にも無理強いしてしまう。

一度非日常に入って、そのペースでの水平飛行に入ってしまえばしめたものなんだけど、最後はやはり冒頭との繋がりで観てしまうからなー。そこはやっぱり苦しかったなあ。

2010年2月4日木曜日

舞台と空間のWS09冬 牛川紀政「音を視る」

03/02/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第五回。
先週の木藤さんの回は、何だか疲れててぐずぐずしていたら満員になっていたのだった。で、今回は思い立ったら予約。コンテンポラリーダンスの音響で大活躍の牛川紀政氏が講師。

「音」の捉え方についての凝り固まったマインドセットを解きほぐして再整理するためのいくつかのレッスンを、エンターテイニングに。楽しみながら。

先ずはマリー・シェーファーの用意したいくつかのレッスンを使って、耳が意識する音の範囲をストレッチ。また、音の種類を絞って、ぎゅっとフォーカスを当ててみることで、聴覚の不確かさと、また、それを前提とした意識の仕方で「音の輪郭」が視えてくるプロセスを辿る。

そうやって耳をほぐしてから、「無音にこだわった動き」をすると、これが面白い。
「特定の動き/ダンス ⇒ それに合った音」
というプロセスをひっくり返して、
「特定の音を前提 ⇒ その音(あるいは無音)を生み出すための動き」
というプロセスがあるんだー、と気がついた瞬間が、まるで騙し絵の「図と地」がひっくり返る瞬間のようで、気持ち良い。

欲を言えば、「ダンサー的な動き」と「音」がドンピシャに出会う瞬間の話とか、音響のプロフェッショナルとして「動きに合った音とは何か」についての感覚をちょっと盗めるようなものがあったらなー、とはちょっと思ったけれど、そこまではとても3時間で行き着けるものではないんだろう。

が、本当に、すーっと気持ちよく、耳の凝りがほぐれて内耳の力が抜けたような気分でアゴラを後にした。気持ちの良くなるワークショップだった。

2010年2月2日火曜日

Fukai Produce 羽衣 あの人たちのリサイタル

31/01/2010 マチネ

2時間20分、たっぷり愉しませていただいた。
召田実子、初めてのFukaiProduceでも炸裂して、すばらしい。
伊藤昌子ショー、2時間近くじらせてじらせて、「ひょっとしたら今回は伊藤ショーなし?」とまで思わせておいて、ドーン。涙出る、くらいに、笑う。
相変わらず女優はかわいく、男優も負けじと可愛く、愛らしかった。

2008年のRomancepoolを観た時も、
・ なんだか無脊椎動物のような とか、
・ 芝居の系統樹から外れた生き物のような
ということを感じたのだけれど、今回もそれは変わらない。
これからこの劇団はどのように変化/進化していくのかといえば、実は、ずーっとこのままで変わらないんじゃないかと思われる。でも、今やっていることにこだわり続ける間は、エネルギーが内にこもることも、役者の「新鮮さ」が失われることも無いだろう。そういう「カタチ」「仕組み」があって、いつまでも系統樹の中でポジションを保てる生命力を備えているのだ。

そういう言い方をすると、「所詮芸能でしょ」みたいな無礼なことを言っているように取られるかもしれないけれど、でも、芸能となって生き延びようという、そういうものは、少なくとも僕は、感じない。

だからFukai Produce 羽衣には、今の生命力を保ったまま、芝居の系統樹の中で今のポジションをキープしてほしい。そう、願ったりする。