2009年1月30日金曜日

うずめ劇場 ねずみ狩り

30/01/2009 ソワレ Bチーム

終始一本調子な演技で1時間20分。男と女が1時間20分かけて、「文明の糞を取り払え」っていって素っ裸になって終わった。お腹で飼ってる毒虫君がどうしても口から顔を出したがるので、抑えるのが大変である。終演後、人と話すのを避けながら退散した。

開演して30分経ったところで最初に時計を見て、1時間過ぎたところの展開で、「あ、このペースなら終演までに全裸だな」と予測。

最初の方、女が「はらわた」なんていう古風な日本語を平気で使っちゃうところで既に醒めてはいたものの、
パンパン乾いた音で鉄砲撃っといて、男と女が撃たれて死ぬ時だけ太陽にほえろ!みたいにズキュ~~~ン、だなんてエコーのかかった銃声だったり、 最後にブルーハーツがかかったり、そういうのを噴飯もの(この4文字、MSPゴシック フォント48のつもりで読んでください)という。

いかにもヨーロッパ人らしい一本調子、一気に押し切らないと持たない単調な芝居を、単調な演出でみせられてもなぁ。結末は容易に予想がつくんだか ら、せめて、その過程では、単調な物語ラインに抗って立つ役者の姿をみせてほしかった。演出も役者もそこに自覚的とはとても思えなかったのが残念。4通り のキャスティングで上演しているらしいが、この単調さでは、同じ人物が演出している以上はそんなに変わらないのではないかと思われる。

2009年1月29日木曜日

toi 四色の色鉛筆があれば

27/01/2009 ソワレ

劇場で感涙をこぼすことはなかった。でも、次の朝、通勤途上嫁に電話して、ハイパーリンクんのことを説明してたら、涙がこぼれそうになった。

この芝居はきっとあちこちで誉められるだろうから、今更僕が誉めてどうなるものでも無いだろう。シアタートラムの両サイドに立ち見客が一杯に入って、満員の客席が本当に息を呑む場面が何度もあった。

柴幸男氏もきっとあちこちで誉められるだろうから、ここでは殊更に誉めない。むしろ、こういう幸せな座組みを組んでみせる主宰の黒川さんと制作宮永氏に、まずは僕として最大級の賛辞を送ります。

あゆみ: 3人での上演は、アゴラで観た10人バージョンに比べて時間が若干うねって、かつ、トラムでは客席が遠いので、観る側として最初集中力を欠いてしまった。中盤以降そのうねりに上手く乗れたところで、エピソードにぐいっとネジが巻かれて、それでぐっと来た。
でも、この、観客席と舞台との距離はどうしようか、と思っていたら、

ハイバーリンクん: その広さを活かして、観客の想像力を宇宙の果てまで連れて行ってくれちゃったのである。もちろん、宇宙の臍には永井若葉さんがいる。永井さんほど、芝居の臍に居ることが似合う役者はいない。一昨年の東京デスロックでの「社会」、去年のハイバイの「て」、そして今回。シビれる。

反復かつ連続: 客席が音を立てずにどよめいた。小生もDVDを観てスジそのものは理解していたけれど、台詞の積み重ねが生み出す「時間の厚み」の質感に驚愕。星野大輔氏の音響、(本人や音響屋さんにしたら大したことないのかもしれないが)、繊細なり。内山ちひろさん、素晴しい。家族に自慢してやろう。

純粋記憶再生装置: 「台詞と動きの分離(ク・ナウカですか)」「落語張りの1人で2人分台詞(去年ハイバイで観た)」「時間の逆行(エイミスのTime's Arrowを思い出した)」等々、パーツパーツでは「どこかで観た感じがする」のかもしれない。
でも、「オリジナルなネタ」を見つけ出すのが柴氏の真骨頂なのではなくて、そういうものどもをきめ細かく繊細に紡いで、グイッと世界を切り開く感覚が素晴しいのである。

4つの作品ともそうなのだけれど、ミクロな次元での微細な動きがこまかく積み重なって、大きなうねりになる。でも、それが大げさなものになる前に収まりかけて、また思わぬ方向に変化しながら細動を止めることがない。そういう寄せては返しながら、時間の流れを操る手管にシビれてしまうのだ。

観ていてもいつまでも幸せだし、舞台にいたらもっと幸せなのに違いない。感想を語り合えたらもっともっと幸せだろう。今回見逃した方々も、観た人の話を聞いたら、きっと幸せな気分になると思います。

2009年1月26日月曜日

KUNIO05 迷路

25/01/2009 マチネ

千穐楽。
伊丹AI Hallにこないだ来たのは、1994年に青年団の旅公演を追いかけて行った時以来だと思う。え、15年ぶりか!相変わらず感じの良い劇場である。
今度杉原さんに演出つけてもらうこともあり、日帰り遠征してみた。

で、やっぱり来て良かった。
アゴラで観た四谷怪談、三番叟よりも、ずっとストレートに、悪く言えば粗削りで乱暴に、杉原演出の芝居を観ることができた。

幕前、芦谷康介の動きにシビれる。暗転するや否や飛び散る火花におぉぉっとなる。

えっと、以下、ネタバレ話を延々とするのだけれど、乱暴にひっくくって言うと、杉原邦生が、「芝居って、演じてる連中も観てる連中も、こんなウソンコをみんなで一生懸命になっちゃって、みんなバカじゃん!」
と言ってのけるのを聞いて、(演出家として)彼を信頼できるな、と思ったのである。
自分が考える「本質」とか「真実」を押し付けるような演出家じゃなくてよかったな、と思ったのである。彼のそういう演出を、観客として楽しめたし。
それが、一番の収穫。


<以下、ネタバレです>


照明が切れて作業灯で上演を続行する、という趣向は、一体どうなんだろう?
アフタートークでもあったけれど、「何でもアリ」のこの世の中にあっては、そういう「ネタ」では観客は驚けないのではないか、という気も、正直、少しした。
逆に、「ネタ」ではないとしたら、アラバールの迷路は、照明が変わらなくとも成立する戯曲である、もしくは、照明が変わらなくとも成立する演出がされていた、のである。

つまり、「照明が上手く動かない中での上演」というフレームの嵌め方は、もうちょっと観客が心配するくらい(杉原アフタートーク流に言うなら、帰っちゃう客が出るくらい)にしないと、もう、観客のコミットメントをひきつける撒き餌にはなり得ないんじゃないかと。

そういう状態で、最後、「全部ウソです」を背中に貼って出てきちゃうのは、どうしたものかな、とも考えた。僕個人の好みは、「ウソです」だなんて白状しないで、でも、上演後詫びも入れずに、そのまま、客を帰しちゃう、っていう趣向ですが。で、帰りの電車で、一体それがネタだったのかマジだったのか話し合うのって楽しいだろうなって。

でも、上演続行のアナウンスのあと、役者のトチリが増えたのには、実は、とってもドキドキした。で、本当に照明ダメだから、役者動揺しているのかな?と思った。それが演出されていたと知って、ヤラレタ!
でもでも、自分が一番ヤラレタ!と思った、父親役が同じ台詞を何度かとちって、「ちょっと面を切って軽く肩で深呼吸してから」台詞を言い直したのは、絶対に演出だと思ってたら、ほんとにとちってたらしい。それには心底ヤラレタ!

なので、自分としては、「もっとやったら?」って気もしたんだけど、実は、すっかり騙されている人もいたので、そこの匙加減については、何ともいえないところである。

あと、ラストシーン、エティエンヌが振り返って、「演出家」がいたのにはあんまりびっくりしなかったんだけど、芦谷康介のブリュノがいたのには、アッと思った。
てっきり「建築家とアッシリアの皇帝」の円環構造で終わるかと思ってたら、あ、ブリュノ、実はかつぐ側の人だったのね、というストーリーの組み立てを自分の中でしてなかったので。

あと、舞台美術。バトンが低いところまで下りてきてて、SPACの転校生を思い出した。きっとどこかでウィーーーンと上がっていくだろうと思って待ってたら、最後の最後上げてくれて、それは嬉しかったかな。

2009年1月25日日曜日

リチャード三世

25/01/2009 マチネ

銀粉蝶さんはきれいでよかったです。

サンプル 伝記 再見

26/01/2009 ソワレ

観終わって、何だか、爽やかで、「おお、この感覚を(特に嫁さんと)共有できたら」と思ったのである。

今、「非線形科学」についての本を読んでいて、難しいことはよく分からないのだけれど、僕なりに解釈してみると、
「表向きカオスでとっちらかったように見える事象も、実は、最初に定められた簡単なルールの帰結だったりする」
ということも、中に書かれていることの一つだった気がする。

サンプルの芝居に当て嵌めてみると、この芝居、表向き収束しないハナシであるように見えて、実は、松井周のルールは、彼の中では非常に簡単・単純なのではないか。で、一観客とすれば、役者の動きを要素要素に還元する努力よりも、むしろ、①個々のランダムな(のようにみえる)動きの総体が、実は変な形を描いてたりしていることの把握と、②その根元にある松井ルールの存在を信じること、に賭けて、1時間40分過ごすことが大事なんじゃないか、と思ったりしたのだ。

まぁたまた、すぅぐ読んだ本に影響されちゃうんだから、といわれては元も子もないのだけれど、でも、1回目に観たときの「ゴツゴツした」印象が、何だか滑らかなものに変わっていて、そのせいなのか、あるいは他の理由からか、芝居が3分の2くらい来たところで、世界が目の前で開けている、という感覚に襲われたのは確かだ。

「作品の世界観」とか「作者の世界観」というフレーズは好きじゃないのだが、今回のように劇の世界の地平が(たとえ勘違い・思い込みであっても)きれいに開ける体験というのは滅多にあることじゃない。と、そういう経緯で、サンプルを観た後であるにもかかわらず、気持ち爽やかに一日を終えることが出来たわけであります。

2009年1月24日土曜日

4×1h project Play#2

23/01/2009 ソワレ

客入れ中に役者が出てきて舞台をアレンジするのだけれど、そこでの振舞い、表情の作り方、笑い方、ひそひそ話(なぜ敢えてひそひそ話なのか?普通にしゃべってはいけないルールがあるのか?)等、全て興醒め。先行き暗澹とした気分に陥る。

中屋敷演出の「月並みなはなし」、演出よし。というか、この戯曲をこの演出以外のやり口で見せられたらクサくて耐えられないのではないかと思われた。とにかくテクストを速く言う、とか、擬似ラップに移行するとか、そういう趣向は「三条会や多田淳之介や柴幸男を見てのことか?」と思わせたりもするが、さすが中屋敷氏で、随所に彼なりのスパイスというか、何と言うか、そういうものがしっかり利いて、パフォーマンスとして成立。

しかし、中屋敷氏よ、こういう試みを「実験」と言ってはいけない。芝居の上演に際して「自分が面白いと思う」ことをやるのは、実験ではなくて、むしろ必要条件です。当たるか当たらないかは、そんなの知るかい、でも少なくとも自分は面白いと思ったから舞台に載せる。それを自分で実験と言ってはいかん。そう思う。

ソファージュばあさん。後半イヴェット・シモンの長台詞、よく書けている、というより、よく訳してある。と思った。こういう台詞は、身振りをいれずに、面を切らずに、要は、客にことさらに訴えようとせずに、口に出してくれたら、文句ないんじゃないかと思う。このテの台詞を誰に言ってもらいたいかって、もちろん、角替和枝さんである。広岡由里子さんでもよい。そういう芝居が観たい。

2009年1月22日木曜日

時々自動 うたのエリア - 1

21/01/2009 ソワレ

時々自動、初見。去年アゴラで観た武藤真弓企画にJiroxさん出演してて、その歌の上手さに、「時々自動、ひょっとして面白いんじゃないか?」と、若干の興味を持っていた。あと、ハーピーのチラシが良い。

で、観てみると、これが面白い。
「観た」というよりも、空間のテクスチャに触れた、という感覚が近い。けっして「芝居」ではなくて、こういうのを「パフォーマンス」と呼ぶのなら、そうなんだろう。「音」と「動き」と空間の手触り感で1時間半持たせて、飽きなかった。

歌の合間に入るスキットの数々は、観ていくうちに何となく一つの物語のパーツとして浮かび上がってきたりもするのだけれど、時々自動の関心はきっと物語を紡ぐことにはなくて、その断片がその場その場で醸し出す、やはり、手触り感の面白さにあるのではないかと思うのだ。そこらへんが、妙に物語りに頼って時間を流そうとするへっぴり芝居の百倍は面白くて、また観に来ようと思ったりする。次回公演は1年後だって・・・

もともとバンドなので、ライブはもっと頻繁にやっているらしい。そうなのか。バンドの音も、初めて聞いたからかもしれないが、ひょっとしたら自分好みかもしれない。うん。まだまだ、面白くて僕が触れていないことは、世の中に沢山あるらしいぞ。

2009年1月19日月曜日

モモンガ・コンプレックス 初めまして、おひさしぶり

18/01/2009 マチネ

観ていて、「か、かわいい!!」と思ってしまう。正月早々こたつむりなミュージシャンを囲んで、5人の女の子達が舞い踊るのだが、その動きが、なんとも、かわいいのである。

じょわじょわとした動きとか、だめーな姿勢とか、ぷるぷるしてみたりとか、パタパタ歩いてみたりとか、やはり僕の好みは、ダイナミックな動きよりも、小さなところでぷるぷるしてるような動きにあるのではないかと思ったりする。
「駅伝ランナー、番号を身体に書き付ける。それに合わせて1,2,3,4」の、踊り出しの瞬間には痺れた。あと、「着せ替え白神ももこ」の時のどこを見てるんだかな白神さんの目線。

しょっぱなから軽やかに飛ばして、果たしてこれで60分もつか、と思ったが、やっぱり途中ちょっと時計見た。30分なら初速のまま突っ走って終われるし、観客もついていける。60分となると、一本調子では持たないが、ギアチェンジのちょっとしたタイミングで集中が切れたりする。
個々の動きは面白いのだから、注文つけるとすれば、中盤で客の集中力を削がぬよう、でも、ちょっと緩めながら、最後まで持っていくようなケレンというか狡さというか、そういうものがあるともっとすごくなる、ということかもしれない。でも、そういうケレンのない、球速100kmスローボールの直球で勝負!ってのも、それもまた良し。楽しかった。

2009年1月18日日曜日

サンプル 伝記

16/01/2009 ソワレ

始まってすぐに、「これは、真面目な『少女のニセモノ』なんじゃなかろうか」と思ったのである。
役者が発する言葉は、まるで誰にも向けられていないようで、「どこかで聞いたことのあるような」言葉が、他人に向けられないまま、そして噛み合わないままに場を満たす。

そういうのは、よく下手翻訳劇とかでも見かけるのだけれど、それを、なんでわざわざ現代口語演劇を乗り越えてきた役者を使ってやるのか。そこに意味はあるのか。というと、意味はとってもあって、それはどういうことかというと、

① 本来『その場に居る』ことは他者との関係性をとることでしか確認できないはず。あるいは、現代口語演劇の世界では、確認できないかのように役者がしつけられている。
② 松井周は、それを、役者に、やるなといっている、ように思われる。
(自分の周りに自分ワールドを創って、他人もそこに囲い込もうとしているように見せたい、と、アフタートークで松井氏も言っていた、と思う)
③ 一方で、役者は、下手翻訳劇でありがちな、「あなたの役作りはこうである。あなたの物語はこうして与えられている。その物語を精一杯歌いなさい」という材料も与えられていない。役者は自分の物語を語るのだけれど、その背後に濃密な生はなく、ただただ薄っぺらな表層の物語だけが与えられている。
④ 下手翻訳劇の役者なら、そこに自分で勝手に物語を埋め合わせて、くさーい演技を見せてくれる。
⑤ それができないサンプルの役者は、困る。確かに、困っていたと思う。

横軸としての「場への反応」と、縦軸としての「物語を背負うこと」の二つともに剥ぎ取られて、役者達は、自分が立つべき足場を極限まで削られてしまう。そこで台詞を発し、動くこと。その不自由さに、一観客として身もだえする思いであった。身もだえしながら、かなり興奮して見た。

で、上記の試みが、方法論のための方法論であるならば、まぁ、放って置いてもどうってことはないのだけれど、実は松井周はその役者が困った末に何とかかんとか綴りあわせる世界を、当初から、見ていたフシがあるのだ。そういう世界の織り上げ方。

残念ながら、小生の妄想力は、あの、「練れてない」とか「とっちらかった」とか言われても仕方のないような、本人も「時制が無茶苦茶な」と言ってしまうような、そういう世界をポンと目の前に出されてそれをグイッと自力で一つの世界に練り上げるレベルまでには達していなかった。
役者も、もっと不自由な場所で、もっと不自由な身体を晒しながら、どこかに更なる突破口を見つけてくれるんじゃないかと思わせた。つまり、もっとできるんじゃないかとも思ったのだ。

要再見。

2009年1月14日水曜日

タテヨコ企画 アメフラシザンザカ

14/01/2009 ソワレ

初日。
うーん、って、唸ってよいですか?

ほぼシンメトリーに作られたお寺のお堂、横田趣味をきちんと反映しながら美しい舞台装置で、まず、良し。
登場人物15人の芝居をきちんと書いて1時間45分、余計な説明を極力省いて、飽きさせず、停滞させずに芝居を進行させる手管も良い。
タテヨコ企画の役者陣、相変わらず魅力たっぷりで、客演陣もきちんと嵌っている。
上手くできてるよね。

っと思ったところで、なんか、タテヨコ企画の芝居がウェルメイドに擦り寄っちゃった印象がしてきたのだけれど、どうなんだろうか?
有体に言えば、「人間模様の物語にばかり目が行って、役者の立ちが立ち上がってこない」感じがした。今まで観た横田芝居は、どちらかというと人間模様の物語のどこかに破れがあって、そこを起点として役者の魅力が立ち上がってくる気がしていたのだけれど。

「芝居を下手に作ってくれ」とは言わないけれど、もうちょっとひっかかる芝居の方がいいな、僕は。

2009年1月13日火曜日

東京乾電池 秘密の花園

12/01/2008 ソワレ

この芝居にまだ席が残っているとは、とても信じられない。

と言いたくなるくらい、良かった。冒頭、戸辺俊介・柄本明の2人の視線がぶつかってから暗転まで、そして、高尾祥子の最初の台詞。ここでもう、小生涙だだ漏れ。来て良かった。冒頭2分で生きてて良かった。

どういう演出をつけているかは知るべくもないけれど、唐演出の唐戯曲よりも、角替演出の方が台詞が頭に流れ込んでくる感じ。唐組を観てる時は「あぁ、ぼくらを唐ワールドに連れてって!」となって流れに身を任せてしまうんだけど、そういう無理矢理なジェットコースター感を取り払ってもなお唐戯曲は力強く、角替演出は地に足の着いたリズムでスズナリの中に台詞の世界を刻印していった。

赤ちゃん言葉の高尾・戸辺のやりとりは、ねっとり感とさらっと感が絶妙に交錯して、「かもめ」で観た角替さんの変態な絡み振りが頭に浮かんでくる。また、ラスト近くに紐引いて再登場する柄本さんの眼!「ジェニー」で観た、メークの下から覗くとんでもない眼!

雨が叩きつけるシーンで上手の黒いバケツがずっと見切れてたり、雨が叩きつけてドアが開いちゃったり、そういうアラはご愛嬌ということにして、心から楽しんだ。

終演後舞台挨拶で、柄本氏が初演のアキヨシだったと知り、ちょっと驚いた。いちよ・もろはは緑魔子さん当確として、戸辺氏のあの上半身の傾き具合は、石橋蓮司さんの傾斜角だよ、と思っていたので。

こうやって書くと、懐メロ風に面白がってたと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、いえいえ。唐戯曲の素晴しさを、唐演出のケレン全開テント芝居を離れて味わう絶好の機会としてお奨めします。

2009年1月12日月曜日

飛ぶ劇場 有限サーフライダー

11/01/2008 ソワレ

見ていて、何だか懐かしい心持になる。
いい意味でも悪い意味でも80年代ぽくて、暑苦しい。あぁ、南河内に似てるなーと思う。

現実のゲームの進行がシンクロぽかったり、「ゲームの世界」と現実との接点を芝居の中でどこに持ってこようか、なんていう試みもなんだか80年代な感じがして、うーん、やっぱり、自分、そういう出自から自由にならなくて、点が甘くなってるような気が・・・

どうも、去年の末くらいから、とんがってるとんがってないじゃなくて、好き嫌いで芝居を観出している気がする。いかん。収まってはいかん。もっと先へ行く強力な妄想力を自分に課して、その妄想力を誘発する芝居を求めなければ。

2009年1月7日水曜日

新年工場見学会 2009

03/01/2008 マチネ

娘が新年工場見学会を初めて見たのは2004年の正月で、そのときは確かびんぼうくん21世紀版とSM社長とオムトンと「鍋と友達」という映画を やっていた。それはまた一家が五反田団と出会った最初でもある。その後、しばらく、うちでは「この、下僕ぅ!」という台詞がはやった。

今回久し振りに妻子が正月を東京で過ごすことになって、そのときの嫁からの指令は、
「どんな汚い手を使ってでも工場見学会のチケットを手に入れろ」
だったのである。正攻法でチケット手に入れた自分を大変誉めてやりたい。

当日、大牟田ラーメンきららで腹をくちくしてヘリコプターへ。きれいになったアトリエヘリコプターに、娘、驚く。

「少女マンガのニセモノ」、いきなり黒田氏の不良実はいいヤツごっこに妻子爆笑。小生は木引優子の脚の組み方にヤラレタ。その後も妻子はおそらく 会場中で最も笑っていた二人だったに違いないし、小生を入れても笑い四天王くらいにはなっていたと思う。とにかく笑ったし、また、面白かった。「厄払い」 とはいいながら、これだけのテキトーを紡いで世界を創り上げてしまう前田氏の力はやはりスゴイ。

個人的に一押しは内田慈さんの少女マンガメイク。うちの正月の流行は、なんといっても、「ノー・プログレス」。が、娘の一番のお気に入りはノーバディズの演奏に合わせて踊りまくった齊藤庸介さんでした。

「チャゲ&飛鳥のニセモノ」。実は、うちの家族はみんな、殆ど観たことも聞いたこともない。知ってはいるが。カラオケ屋で友達が歌っているのも聞くが。けれども岩井版チャゲアスは面白かった。そしてハイバイの面々は、上手い。やられる。

まぁ、僕の中でチャゲアスっていえば、ロンドンの地下鉄の乗り換え連絡通路にライブのポスターが1枚貼ってあった人たちで、それはおそらくその通 路の中で最も読まれていないポスターであったことは間違いなかったが、彼らの、その、おそらくロンドンの中で最も盛り上がらなかったライブの一つであるこ とはほぼ間違いのなかったライブは、日本のテレビではどうも「地下鉄にもポスターが貼られるくらい有名で大成功なライブ」として紹介されたらしく、まあ、 そういう感じの人たちだと思ってたりしたんだけれど、あ、そういえば、そういうのりって、ノダさんの赤鬼もそれに近かったなぁ、とかいうのは、芝居とは全 く関係がないが。

こういう風に、年始デスロック・工場見学会と、いい公演二つ続いて、こいつは春から演技がよろしい。この勢いでよい芝居に沢山出会いたいものです。

2009年1月6日火曜日

東京デスロック その人を知らず

02/01/2009 ソワレ

新春一発目は三好十郎のヘビー級戯曲に多田淳之介が「真っ向から挑んで」(という言い方はとっても陳腐なんだけど、でも、その言葉が今回はとってもよく当てはまると思う)、ヘビーメタルでストレートな芝居を3時間堪能させてくれた。

妻子ともに、3時間戦いきった清々しい笑顔で、「本当に良い芝居だったね」といってアゴラを後にしたのである。

この芝居、娘の一番人気は坂本絢さんであった。妻の一番は治子を演じる山田裕子さん。娘・妻ともに推すのは佐藤誠。小生は猪俣さんを神とあがめる。が、実は、夏目慎也のあのつぶらな瞳の伏線が、昨年のハイバイ「落語編」に敷かれていたことを忘れてはならないだろう。と、まあ、挙げ始めたらキリがないのだ。役者、みな良かった。

多田芝居を限られた回数見た中で言うと、「演出勝負を隠さない」芝居(LoveとかCastayaとか)と「戯曲よ、オレにかまわず行けー」とばかりに戯曲を引き立てることに徹する芝居(二騎の会)とが、割と僕の中で線引きされていた気がする。今回は、演出勝負を隠さず、かつ、戯曲のテクストを脱線させない、まさに王道を行っている印象。去年のマクベスを踏み越えて、グイッとスケールが大きくなった気がした。

こういうスケールの大きな芝居を、アゴラのような小屋で近くで観ることが出来る観客は幸せだ。正月早々、素晴しい芝居が観られて縁起が良いことである。

またも、去年のことを、今さらのように

2008年も、結局200回近く劇場に足を運んでしまった。
毎年、家族で「今年の10大ニュース」を見せ合いっこするのだけれど、自分の普段の私生活が芝居中心で回っていると、どうやっても芝居のことばかり思い出されてしまう。

今年は、自分の芝居の味方について突きつけてくる芝居に、比較的沢山(10本くらい)出会えた気がします。
そんな中で、特に印象に残った5本。原則、1劇団1つ、順不同で。

1. 青年団若手公演「御前会議」
柴幸男の才能に初めて触れた1作。「台詞を歌ってしまうこと」と「言葉を歌うこと」の境目についてここまで自覚的に突きつけてくるとは。

2. 青年団「隣にいても一人」
小生も英語編に一部関わっていたので。が、なんといっても盛岡編の高橋縁が出色で、これはおそらく一生忘れられない。帯広編の龍昇さんもすごかった。

3. 東京デスロック「カステーヤ」
賛否相半ばしたが、自分にとって芝居を観る・劇場にいることとは何かについて自覚させてくれた、大事な作品。

4. 岡崎藝術座「リズム三兄妹」
観てから2ヶ月経っても、いまだにジワジワと面白い。内田慈、白神未央など、達者な役者陣にも支えられているけれど、実は召田実子さんの純愛ストーリーで、これがまたどうしても忘れられない。

5. みやざき◎まあるい劇場 こふく劇場プロデュース 隣の町
役者が舞台に「立つ」ことの奇跡。あぁ、こんな場所にいたい、みんなで一緒に入り込みたい、そういう感覚をもらった、これもやはり忘れられない。

こうしてみると、やっぱりアゴラ系・青年団系と括れる作品が多くなってしまうのだが、だって、先鋭的でかつ方法論に溺れない連中が集まっているのだからしょうがない。2009年は、「観てるだけじゃないぞ」ということで、さらに観る本数は絞って行きたいと思ってます。

ま、あと、大きな収穫といえば、ElbowがMercury Prizeを獲ったこと、Balkan Beat Box のNu Medsが当たりだったことでしょうか。

2009年1月2日金曜日

冨士山アネット 不憫

28/12/2008 マチネ
以前から気にはなっていたが拝見する機会がなかったカンパニー。年末にもかかわらず各回ともかなりお客さん入っている模様で、うん、当日で入れればもぐりこもう、という趣旨で初見。
が、開始1分、パフォーマーたちがわっと出てきて、例の、よくつまんないマイムやダンスででてくる「一同、面を切って口をぽかんと開けて、驚いた表情でキメッ!」という奴をやってくれた時点で、すごく不安になった。そういうパフォーマンスは、間違った方向の観客サービスに向かう確率がとっても高いのだ(そういう口ぽかんポーズを一切見せない井出茂太氏や小野寺修二氏と較べると良いと思う)。
で、案の定、残りの1時間は、ちょっとどうかというようなフラストレーションに悩まされた。これまでも舞台で拝見したことのある、柿喰う客の玉置氏、深井プロデュースの深井氏をはじめとして、みんな、身体よく動く。動くのに、煮え切らない。せっかく日常の動きから脱線・脱臼して動きを組み上げているのに、動きがストーリーのとりこになって、自由に広がっていかない。そこら辺気をつけないと、台詞がないだけのつまらない「できるかな」になってしまう。つまらない子どもマイムには堕していないにせよ、今ひとつ煮えきらずに終わってしまった。残念。
お色気担当深井氏と上の空氏、上の空さんってどっかで聞いた名前と思っていたが、一度ワークショップでご一緒したことがある方でした。舞台で見ると、「この人はいつまばたきをしているんだ?」という不思議が先にたって、WSの時と同一人物であることに気がつくのに時間がかかった。まさに、役者は化ける。

青年団 サンタクロース会議

20/12/2008 マチネ2連発
サンタクロース会議、どうにもこの日にしか都合が付かず、土曜日の11時の会(子供編)・16時の会(アダルト編)にお邪魔した。青年団初の「観客参加型」芝居、しかも子供相手、ということで、大変楽しみにしていたのである。
舞台中央奥の煙突セットは、まるで「青年団ボックス公演、雪の聖夜と君と僕」みたいな趣だが、その前にはちゃんと会議机が客席に開かれた形で置いてあって、子供達も「会議」みたいなものを期待しているようだ。
ふたを開けてみると、「参加型」とはいうものの、観客席にいる子供には「都度質問=アンケートのようなもの」にこたえてもらうことが主眼で、観客席の反応が舞台の進行に深刻な影響を必ずしも与えないという意味で、「あなざーわーくす」の観客参加のような過激な楽しさはない。言い換えると、もっと観客席と舞台を近づける余地はあったにもかかわらず(そしておそらく、作・演出・役者とも、そこに気がついていたにもかかわらず)、そこまでは、今回の青年団、足を踏み出さなかった、という印象である。
しかし、それが今後どんな風に成長・発展していくのかは分からないけれど、こどもの食いつき、という点で見るとそんなにネガティブでもなかったんじゃないかと思う。あれだけ子供が一生懸命50分間食い入るように観る芝居って、やっぱり、きちんと技量がある芝居なんだ、と思わざるを得ない。自分自身が子供のころには、変な子供芝居に対して「子供相手だと思ってナメんじゃねー」と思ったものだが、それじゃあ、青年団の「サンタ会議」をそのころに観ていたら、一体どう思っていただろうか?わがことながら興味深い。特に、ガミガミ博士とガリガリ博士。この2人のデフォルメされたキャラは、子供の人気も広く博していたようで、いや、やっぱり面白かったんだよな。僕が見ても。
アダルト編は、子供編から「子ども要素」を抜いて、そこに適度にスパイスかけた気もして、正直、子ども編に較べると緊張感なく観てしまった。やはり、観客参加を前提とした緊張感はあったほうがアダルト編であっても良かったかな、と思ってしまった。
トータルで考えると、まずは、「これもありか」という方向感を、合格点の付く完成度を保ちながら提示された感じか。どの回も大入り満員だったようだけど、20年前のように、「客が減っても良いから過激に前に進む」というのは、もう、さすがにやらないのかな。そういう、漸進路線もあり、ってことですな。いや、ネガティブな意味じゃなくて。

小野寺修二 ある女の家

19/12/2008 ソワレ
パフォーマンスを観てからすでに10日以上も経って、しかも年も明けてから何が日記か、という向きもあるかもしれないが、世の中、芝居観たり日記書いたりするよりもよほど大事に思われることもあったりするのだから、若干の遅れは仕方がない。
僕は小野寺氏と藤田氏のパフォーマンスは大好きで、今回の上演期間がちょうど妻子の一時帰国初日と重なっているのを知ってちょっと悩んだのだが、結論としては、「妻子とともに観に行く」ことに決定。帰国したその日にいきなり舞台かい、という向きもあるかもしれないが、世の中、どうしても家族に見せたい舞台というのもあったりするのだから、これも仕方がない。
幕前、娘が「時差ボケで眠りに落ちるかも」と抜かして、びびる。要は、面白くなかったら寝てしまうという、露骨なリトマス試験紙を突きつけられたわけである。
が、公演中妻子とも身じろぎもせず。1時間20分、本当に楽しんだ。小野寺・藤田パフォーマンスを観るたびに、「ユーモア・エスプリ」というのはこういうことを言うのだ、とつくづく思う。ストーリーにとらわれず、いや、ストーリーは立てていたのかもしれないけれど、その中で目に付いたちょっとしたことから時空を脱線・脱臼させていく瞬間の変化のキレ・スムーズさ、あざとさを感じさせないまでのあざとさ。素晴らしい。
娘は、前半、上手で小野寺氏が両足でピョンピョン飛ぶところですごい技量のダンサーだと思ったらしいが、技量はあくまでエンタータイメントに奉仕する存在でしかない、と割り切った姿勢もまたよし。まずは父親のセンス、合格といったところで、胸をなでおろした。ちなみに、娘のお気に入りは、案の定というか、浅野さんでした。妻は浅野さんが遊眠社に出ていたことを忘れていた。そうやって、帰国初日は終わったわけです。