2007年1月28日日曜日

かもねぎショット 子供と会議

スズナリの舞台を覆う、この、空間の濃密感、演技のボリューム感、お涙頂戴半歩手前で艶然と走り去る軽やかさ。

シンプルな仕立てと達者な役者。
「子供と会議」って言うんだから、「子供」のハナシと「会議」のハナシがでてくるんだが、大人の役者が子供を演じる。この「ごっこ」な感じが、この芝居では絶妙に成立。

上手な役者が「シンプルでよく出来た」設定の中で、自分を殺さず、芝居を殺さず、出すぎず引っ込みすぎず台詞をやり取りする姿は、出来の良い時のアーセナルのパス回しを思わせる。
(その心は、必ずしもゴールとならず勝ちに繋がらないことも多いが、客を酔わせるという意味では超一流、という意味です)。Arseneもよく言ってます。「シンプルで良いフットボールが出来た」って。

僕の隣、小学生でしたが、最後までしっかり観てたようだ。大人も子供も一緒に楽しめる、極めて上質の芝居(=ごっこ)が提示できていたことの証 左。で、その上質の「ごっこ遊び」から何を持ち帰るかは、そりゃ、年齢によって違っては来るだろう。でも、観客一人ひとりで受け取り方が違うのはそもそも 当たり前だ。

というわけで、こんないい芝居やってるのに日曜日のスズナリが埋まってないのは大ショック。31日までやってます。皆様、是非どうぞ。10歳以上ならきっと大丈夫です。

サンプル シフト

昨年5月の帰国初日、成田に着いた5時間後に観たのが松井芝居。
その時「ホント、最近の若い人のやる芝居は刺激が強くて」
とつくづく感じたものだ。

で、今回は、(私にとっては)松井コミューン洗脳芝居第二弾。

重い。上手い。インチキくさい。

それが松井氏の狙っていたことであれば、まさに狙い通りの出来上がりでしょう。それを人間讃歌と銘打ってしまう松井氏の世界観たるや、「ぜぇったいに共有したくない」と思わせるものがある(ここ、褒めてます)。

この、恐ろしく乱視の度を上げて世界が歪んで見える眼鏡をわざとかけているような芝居を何で観に行きたくなってしまうかといえば、それは、きっ と、エンターテイニングでもあるからでしょう。あるいは、包丁人味平のブラックカレーのように、また観に来たくなるクスリを入れているのだろう。

1点。地方の話なのに地方特有の空気の濃さを感じなかった。これは、
a. 松井氏が東京育ちであるゆえの限界なのか
b. 「伝統と呼ばれているものが実は大変インチキくさいもので、地方らしさもそうだ」ということの反映なのか
c. 実は、僕が小野正嗣や大江健三郎の同時代ゲームやそういうものに感じる「空気のねとっとした感じ」が、実は他者と共有できない勝手な感覚であるから、なのか、
今のところ判断つかず。

2007年1月27日土曜日

Fabrica [10.0.1]

観に行った理由は3つ。
① 赤坂Red Theatreに行ったことがなかったから。
 ← 赤坂で芝居観るのは、シアターV赤坂のツベルクリン以来。
② 高井浩子さんの脚本だから
 ← 星のホール二本立てが面白かったことの根拠付けが、まだ自分の中で整理ついていない。
③ 瓜生和成さんがでているから。
 ← タテヨコ企画でとても良かった。

で、観終わって。うーむ。無難な芝居。良い意味でも、悪い意味でも。

作者も演出も役者も、勘違いしている人が一人もいなくて、とても観やすい。脚本も上手に作ってあるし、シーンの組み替えも何だかお洒落で気が利いてる。

でも、何だか、焦点が最後まで合わせられなかった。
① 個人的に、「映画を撮る話」「芝居をする話」「昔の仲間が集まる話」は、苦手だ。でもそれは、あくまで個人的に冷静になれないからかもしれないが。まぁ、それは、ちょっと置いておこう。

② 劇中に映画や芝居を挟み込む技は、難しい。今回は、上手く嵌めていて破綻は無いんだけれど、それをやる途端に、観客は、「もう一つ外」で芝居 を作っていたり観ていたりする状況を意識せざるを得なくて、それをするには、Red Theatreのつくりは、舞台と客席の距離が遠すぎる。

③ いろいろな事件がある割りに、「悪意」が不在であった。不正確な言い方をすると「さわやかな」出来上がりになっていて、ちょっと「そりゃねえだろ」感はある。

そうだ。要は、赤坂なんていう僕が足をめったに突っ込まない都心で、こんなお洒落でさわやかな芝居を観てしまったのが間違いだったのだ。

という訳で、この居心地の悪さ、脚本・演出場ばかりを責めるわけには行くまい。東京タンバリンはまた観に(確かめに)行くと思う。瓜生氏は良かった。が、ちょっと爽やかできざすぎかな。

2007年1月23日火曜日

OPAPとかげチーム 宇宙ノ正体

思いもかけず(といっては大変失礼なのだが)非常に良い芝居を観た。淵野辺まで行った甲斐があった。

桜美林の学生の演技良し。最近の若い者は全く大したもんである。
装置良し。間口が広いのを十分に使って、座敷あり廊下あり縁側ありそして畑あり。素直かつ贅沢な舞台だ。
演出も良し。よこっちの指導が行き届いておると見える。

そして勿論戯曲良し。不思議でないもの(ただの自分の子供の成長への驚き)を不思議だ不思議だ超常現象に勝るとも劣らない、と新春駅前劇場で連発するだけあって、不思議でない事柄の中に不思議を見つけてぐいと手を入れ、一ひねりして舞台に載せる手管には長けている。
それが暖色のよこっちフィルターを通して客席に届くときに、何ともいえぬ気持ち良さがある。
その裏に、人間の業や嫉妬や弱さやヤセ我慢が隠れているのを、わざと知らん振りしておいて(or本当に気がつかないで)そのまま舞台に載せてしまう。それを、余計なことしないで演技に乗せる役者も良い。

ひょっとすると彼の人となりを知っていればこその身内びいきに過ぎないかもしれないが、それだけじゃこんなに褒めません。

横田修、あなどりがたし。いやー、本当にいい芝居だった。

ダブルスチール 人生は上々だ

「君の趣味には合わないだろう」と言われていた。
確かに、全然、趣味ではない。
おまけに何故か僕は、これは「ミュージカル劇団」だと誤解していた。最悪な客である。

で、不覚にも、途中、寝た。救いの無い失礼な客だ。
(でも、ちょっとだけですよ)
人間というのは、同じレベルの刺激を継続して受けると、眠くなってしまうのである。
時速70kmで一本道を走っていると眠くなるし、抑揚の無いヘビメタを聴き続けると寝てしまうし、ずーっと赤ら顔でスピーチしている上司の声を聞いていると、酔っ払って眠くなった僕は椅子から転げ落ちてしまうのである。

で、だ。役者たちが、そういう、一定レベルの眠くなる効果を放射しているということはだ。要は。彼らの発信する情報が、(effectively)狙ったところにどこにも届いていない、ということなのです。舞台の上も下も。の、はずだ。

が、しかし。最前列中央に陣取った野球帽かぶった小学生は、じぃーっと、この舞台を観ていたのです。
彼は、何を思ってこの芝居を観ていたのだろう?

なので、今日の本当のテーマは、「人間は何をもって眠りに落ちるか」ではなくて「愛される芝居のポイントとは」。

・・・「押し付けがましくないこと」、かな?
そう。この「人生は上々だ」は、クサい芝居にありがちな、そして、ビッグネームが陥りがちな、「あぁ、こんなテーマを、感動を、伝えたい!!!」
から遥か彼方にいて、きっとそこが、観終わった後に
「なんじゃこのクソ芝居は!!フシアナ評論家に褒められていい気になっとんじゃねえぞ!」
とならない最大の理由だろう(本当はふっかいテーマがあったのならば、上記は非常に不快な発言でしょうが、どうぞご勘弁を)

以前、「芝居のごっこ性」についてちょっと考えてましたが、子供のゴッコ遊びが観てて面白いのは、そこに何の道徳もテーマも感動も無いからです。
柄本さんの言葉、
「芝居をやるのは何の足しにもならないくだらないことです。そういうところがいいんです」
が改めてつくづく素晴らしい。

野球帽の小学生は、きっと、この大人のごっこ遊びを、何の感動も、テーマも、深い哲学もなしにじっと観てたんです。そういうところがいいんです。
ということかも。

でも、勿論、巧拙の問題はあるんですが。

2007年1月22日月曜日

カラフト伯父さん

泣いた。

泣かせにかかる芝居は(どちらかといえば)嫌いだし、感動をありがとう、なんてヤツには知らんプリだ。

が、泣いた。高橋源一郎が「ゴン、おまいだったのか」で泣くように。奥泉先生が「リトルダンサー」のタイトル聞いただけで泣いてしまうように。猫バスが森を疾走し出した途端に泣いてしまうように。
当分の間、本当のさいわひはどこですか。と聞いた途端に泣いてしまうかもしれん。

阪神大震災の日、弟が長田の炎の中に居合わせていた、ということを思い出しただけで涙が出てくる。
その時に僕は東京のオフィスにいて、やっぱり何度掛けても電話はつながらなかったのだ。で、やっぱり、僕が神戸を訪れたのはその何年か後。弟の結婚式だった。

でも、罪の意識で情けなくなって泣く、というわけではないんですね。自分をカラフト伯父さんに照らし合わせて泣く、という訳でもないんです。
この話は、神戸の震災の話であり、1945年の東京の話であり、コソボの話であり、スリランカの話であり、カシミールの話であり、ヨルダン川西岸の話である。

きっと、1995年ごろのコソボには、ニューヨーク伯父さんを待っている子供がいて、そのころニューヨーク伯父さんはロンドンでミニキャブの運ちゃんをやってたはずだ。

そういう、沢山のカラフト伯父さんたちが沢山のとおるを思う気持ちとその情けなさを思って泣くのです。

その普遍が、極めて小さな世界、3人の役者の特殊から広がっていくその広がりに涙が出てしまうのです。

若干センチな芝居なだけに、イモな役者がやると観られたもんではないだろう。役者良し。演出良し。
とおる長台詞でかかった音楽は、僕の耳が確かなら篠田正巳さん。それも良し(誰か、本当にそうなのか、そうだとしたらどのレコードに入っているのか、教えてください)。

一つだけ冷静になれなかったのは、ベンガルの正面から見た顔が義父に似ていたことだ。横顔は似てなかったのでほっとしたけど。

2007年1月21日日曜日

うさぎ庵 左手の恋

生身のクロスオーバーイレブン。

「左手の恋」を上のように評することは、別に、褒めても貶してもいない。ただ、まずは、「どんな印象だったか」をできるだけ簡潔に語ろうとした結果です。

大崎さんはいつお会いしても大変綺麗なので、客として見ていても、照れる。そして、昔見た大崎さんのブルマ姿を思い出して、また、照れる(ああ、胸騒ぎの放課後、本当に素晴らしい芝居だったなぁ。という意味です。ブルマだからというわけでは、全く無いので誤解なきよう)。

水下さんもカッコいい。でも、僕の一番好きな水下さんは、タイニイアリスでのケニー君です。

こんな素晴らしい役者2人を使っちゃって、工藤千夏は、本当に贅沢で、恵まれている、と思う。

で、この2人に達者なピアニストまでついて、
芝居50と音楽50。50×50=2500 になっているかといえば、必ずしもそうでない。
それでは、50+50=100 になっているかといえば、そうでもない。
むしろ、異質なもの同士の糊代が(あるいは貝柱のようなねとっとした存在が)集中を邪魔してしまう。

音楽と芝居(語りあるいは会話)の関係って、僕にとっては難しくって、
オペラ / ミュージカル / 劇中歌 / MC
等々あるのだろうが、僕は、劇中歌(それも、「登場人物として、他の登場人物に聞かせるケースに限る」)とMCしか受け入れられないんではないかと思っています。もちろん、MCの素晴らしいショー・パフォーマンスは、エンターテインメントではあっても芝居ではないし。

クロスオーバーイレブンは、何のかんの言って音楽に軸足を置いていたので、津嘉山正種の語りは、「聞き逃していい」場面がありえた。でも、生身でこれをやると、客は、「聞き逃し」ません。逆に、芝居にも集中できず、この、逃げ場の無さは、ちょっとつらかった。

逆に、割り切って上質のエンターテインメントを目指すのであればそれはまた別の話だけれど...

石川淳よ、新劇とは縁を切れ、と唐十郎は言った。
千夏っちゃんよ。音楽とは縁を切れ(もちろん、舞台では、という意味)。1時間半、言葉と俳優の身体だけにフォーカスしても、いいものは出来る。はず。

2007年1月16日火曜日

大橋可也&ダンサーズ Closures

僕はダンス・舞踏については全くの門外漢なので、
このカンパニーのダンスが過激なのか甘っちょろいのか
上手いのか下手なのか、は、さっぱり分からない。

そういうときには、「子供の目線」で観る他ない。
「あ、なんだかピクピクしてらぁ」
「倒れていたそーだなぁ」
「おぉ、全部ぬいじゃったぞ」
とか。プラス、一定の、ウン十年生きてきたコンテクスト。

前半はなんだかミニマリズムな感じ(音楽なし、一定のことばの繰り返しあり)。「ピクピク」したり「ズリズリ」したり「ドターン」と倒れたり、傾いたり。
面白い(が、「ミニマリズム」と言った時点で、僕の子供の目線はすこーしだけ失われる)。

飽きかけてきたころに(=ちょっとうとうとしかけたときに)、音楽が鳴り始める。体操用の笛を40回力いっぱい吹く(僕は数えてた。約40回だったことは間違いない)。
上から真っ白い砂が降ってくる。綺麗です。

音楽、色んな拍子が絡み合って、変化して、カッコイイ。
(そう。この、僕が変拍子の組み合わせを「カッコイイ」と感じた時点で、僕の子供の目線はまたすこーし失われる)

そこにメインのダンサー(おそらく大橋氏)が出てきて、体を動かす、他のダンサーを動かす、脱ぐ、身体を動かす。
何だか、ストーリーが生じていないか?あるいは、少しナルシシズム入っていないか?
と感じ始めた時点で、僕は子供の目線をほぼ失っている。まずい、と思ったところで、ダンサーが言う。

おわりです。

なので、時計見ずに終演を迎えた。自分達を「ハードコアダンス」と位置づける理屈は分からないが、最後まで興味深く観させていただきました。

東京乾電池 ピンクの象と五人の紳士

まず、当日パンフ。

芝居をやるのは何の足しにもならないくだらないことです。
そういうところがいいんです。
   柄本明

とあって、いきなり、その御言葉に感動する。
この、感動の押売が大流行な中にあって、真底キラキラと光る言葉である。

総じて若い役者陣、きっと、
「余計なことしなくても、君達はじゅうぶん面白いんだよ」
と言われて稽古してるんじゃないかなぁ、と思う。
目障りな演技、耳障りなアクセントが無くて、すっと入れる。
そして面白い。目が離せない。

そうやって、余計なことをさせてないはずの演出家が、小道具のサンドイッチ5枚の代わりに、おむすび5個を用意させている。役者、素でふきだす。
そのシーンに限らず、役者、素で笑っちゃう(何がおかしいんだかは分からないけど、きっととっても面白いことが役者と役者の目と目が合ったところで起こってるのだ)。
ほんっと、くだらねぇぇぇぇ!
でも、観ててほんっとに楽しいんです。

芝居って、ほんとうに、素晴らしい。観るのも、演じるのも、面白い。幸せな50分でした。

2007年1月14日日曜日

塚本晋也哀しい予感

休憩時間、「けなすんなら我慢して最後までみなさい」との助言を受け、最後まで客席に居た。
ので、けなす。感想は、

怒(MS Pゴシック、太字、200pts、血管浮き出し、を想像して読んでください)

こんな、国語の時間の気の無い生徒の音読みたいなものを見せて、これが演劇だとは、芝居に対する「冒瀆(MS Pゴシック、太字、72pts、を想像して読んでください)」だ。

「紅茶を飲もう」と言ってから口に入るまで10秒で済んでしまう芝居は、新劇小劇場商業演劇アングラ映画全部ひっくるめて、これが初めてで、願わ くば最後だろう。「鉄男」も含めて信じてたんだけど、餅は餅屋ということか、それとも誰かが「芝居なんてこんなもんだから」と吹き込んだのか...

こんなものを舞台に載せることについて、誰か、止める者はいなかったのか?これでみに来た人たちの揺さぶろうなんざ50億年早い。

こういう、出し手側の「自瀆行為(同じくMS Pゴシック、太字、72pts、を想像して読んでください)」におカネを払ってしまった事に対する激烈な後悔と、自分の周囲の人たちが、出し物の終わったときに拍手している事実とに、強烈に打ちひしがれた。

芝居も、なめられたもんだ。

南河内万歳一座 百物語

巧拙が豪快に入り乱れる80年代肉体ロマン派芝居。

幕開け子供のシーンは全部台詞の頭に間が入ってこりゃまいった学芸会かと思わせておいて、色物シーンに入ってのキレと迫力、最初のはあれは実力隠してたんかい!とうなる。
夫婦のシーンはたるいが、当劇団80年代からの売り物の四畳半(今回は六畳だけれど)異次元空間が炸裂すると一気に引き込まれる。今じゃ唐すらも 使っていない三人組と、ずぶ濡れで登場(お定まりの面切ってブルブルッ付き)四人組が登場するに至って時間を忘れ、気が付けば大ロマン派の大団円。

80年代、アリスでみておけばよかった。激しい後悔の念に襲われる。

しかし、何だか、冒頭とか、動きの無いシーンでの「拙」というか、ぞんざいさというか、これは、何とかならないんでしょうか?26年芝居書いてて上手くないんじゃ、きっと、本人に上手になる気が無いんだろう。
「だって、トータルで面白かったんだろ?」
って言われそうだ。
ええ、面白かったです。次も楽しみにしています。

2007年1月11日木曜日

三田村組 踊り子、眠る

当日パンフに「難産した」とか「色々悩んで」とあるが、まさにその結果がやはり苦しく思えて、つらかった。

僕の観た渡辺純一郎さんの芝居は「吉田鳥夫の未来」だけですが、それが面白く出来ていた。ちょっと役者を突き放した感じで、「そこ、もっと足ひくつかせて!」とか「そこ、もっと卓袱台に爪立てて!」などと、何食わぬ顔で演出つけてそうなところが気に入っていた。

が、今回は、ストーリーを流すのに四苦八苦して、役者の立ちにまで気が回らなかった風情。過去・未来の切り替えの出ハケは技術として上手だけれど も、面白い役者がそろってるのにその「立ち方」を味わう余裕が無くて勿体無い。結果、もうちょっと突き放した芝居になっていたはずが、本来頼りたくない役 者の力技に頼ってセンチに仕上がってしまった。という印象。
時間切れ無念の引き分けで優勝を逃した近鉄バファローズの阿波野を見るような後味が残りました。

2007年1月10日水曜日

危婦人 江波戸さんちのにぎやかな正月

思い切って、無礼を承知で言う。
軽量級の芝居を観に行くつもりで行って、本当に軽量級の芝居だった。
これは、褒めても貶してもいない。
でも、「軽量級」というと怒る人も居るかも知れないので、敢えてその怒らせてしまう無礼を承知で言った。

で、楽しめました。軽量級の芝居として。このノリは悪くない。で、3つ言う。

① 最近、畳敷きの芝居が多い、ような気がする。これは何故だろう。畳敷きの居間に卓袱台がある家なんて、今の日本にはそんなに無いはずなのに。
だとすると、わざわざ、そういった「遠い」世界を描こうとしてしまうのは何故だろう。
そこを、単なるノスタルジアの記号として括ってしまってはつまらない。
でも、何となく、芝居の等身大感 = 手作り感 = 人肌な感じ = 畳敷き という方程式が共有されている気もする。
ちょっと、気になり始めた。

② 軽量級であることの照れ隠しは、不要だ。
冒頭の人物紹介とか、「えへ、わたしたち、軽い?」と訊かれてるみたいで、引く。あるいは、殊更に軽量級な、正座面きりポーズも不要だ。そういうものは1度乗り越えてきた人ばかりのはずだ。
軽量級が軽量級としてばかぢからを発揮する瞬間。例えば、お父さんの馴れ初め話、デイジーの真面目顔、夏目氏のエヘラエヘラ顔、そういうのを見ると、ああ、こういう芝居も、いいなぁ、と、ホロッときてしまうのだ。
殊更なところを削れば、もっともっと、かるーいクセに油断のならない連中になるはずだ。

③ 横田君。君の話は、ちっとも不思議じゃないよ。全然不思議話になってないよ。
でも、そこで、そんなちっとも不思議でないことを不思議だと思って、芯からそう思って、みんなに真面目にお話してしまう、そんな横田君の心のあり方に、みんな、興味を持ってしまうのだろうと思います。それが、タテヨコ企画の芝居の魅力なんだろう、と。
でも、あんな話に、「不思議話」というタイトルをつけちゃ、いけないと思うよ。やっぱり。

Borat

本当にとんでもない映画で、全米・全英ともに興行収入瞬間風速1位に輝いたと言うのもとてもうなずける。
戸田奈津子には字幕が書けまい。このお下劣さでは。

イギリスの新聞で、
「俺たちはもう、後ろめたい笑いでしか笑えなくなってしまったのだろうか」
と書いてあったが、存分に後ろめたい気分になってくれ。
僕も存分に後ろめたく笑ったぞ。

考えてみれば、ドリフのまねだって、いかりやに怒られたり先生に怒られたり女子に白い目で見られたりするからこそ面白かったのだ。

ただし。だ。
これを観て怒り出す奴等がいても、野暮だなんて決していってはいけない。それはほとんど、松山から出てきて在京10年のオレが、高松から出てきて在京2ヶ月目の男をいなかものだと笑う滑稽さに似る。

そこら辺、さすが、ロンドン育ちのユダヤ人だけあって、来るなら来いの出鱈目さにはおそれいる。考えて作ったようで、実はノリだけで作ってしまったのに違いない。
ちなみに、劇中喋ってる「カザフ語」は、実は全部現代ヘブライ語だそうです。その内容もまた、すごいらしい。この映画、イスラエルでも大流行りなんだとさ。

何と、この、密やかな加害者意識の連帯の、後ろめたくも面白いことよ。日本公開とそれへの「正義派」大新聞(右も左も)の評価が待ち遠しい。

2007年1月9日火曜日

Pan's Labyrinth

映画。スペイン内戦。化け物の迷宮。
出だしのっけから、黒っぽい画面に血の赤が混じる。
これぞ闘牛の国スペイン。オ、レィ!

と言う風なあっつぅーい映画ではなくて、私流に纏めてしまえば、
「思春期妄想少女のファンタジーと現実入り混じり、最後どうやって辻褄・落とし前つけるんだ」
映画、である(と言うたびに嫁さんを怒らせている)。

舞台も、アンダルシアとか、そういう、乾いたスペインの大地ではなくて、もうちょっと、ガリシアっぽい、雨の多い、湿った空気である。

僕的には、「思春期妄想少女の入り混じりモノ」の(僕なりの)定石を裏切る展開、結構楽しめました。映画を見慣れた人にとってはどうってこと無いのかもしれないけれど。
あと、ファシスト富士見父さんが目立ってます。

って思った後に、監督が「ヘル・ボーイ」を撮った人であることも発覚。おいおい。こりゃやられたぜ。ヘル・ボーイ2は絶対観に行くぜ。Pan's Labyrinth 2 はそもそも世に出ないだろうけどね。

でも、誤解の無いように言えば、そんじょそこらのつまんない芝居観るよりも3倍は面白かったですよ。

Spamalot

元旦から、ウェストエンドでミュージカルである。
しかも、モンティパイソン元ネタの、ブロードウェイ産ミュージカルである。
とんこつの道産子ラーメンのようなものである。
しかもおいらはラーメンよりもうどん派だったりする。

うーむ、なんだか、楽しみきれないぞ。
笑いの質が、イギリス人の含み笑いではなくて、アメリカ人の笑いになってないか?
ユダヤ人ネタ、ゲイネタ、何だか、安心して笑えるブラックジョークばかり連発してないか?Boratを見習った方がよかないか?

嫁さんによれば、このSpamalotというミュージカル、色んなミュージカルのパロディが入っているらしい。
そうですか。ミュージカルの通の方は思いっきり楽しんでください。オレはおりる。

アナルコ・サンディカリストのランスロットはちょっと素敵だったけどね。
あと、勝負どころでウェスト・ライフ風の転調かける歌も。ちょっとだけ。

2007年1月1日月曜日

Matthew Bourne "Swan Lake"

今年の締めは、マザコン王子が主役の男版白鳥の湖。
2,3年前の年末にも観たのでプロットは了解済み。

が、隣に座ったロシア語を喋る年配夫婦は、どうやらプロットを知らなかったらしい。
前半、時差ぼけが抜けないせいか、小生撃沈。
目を覚ますと、旦那、何だか、「話が違うじゃねえか」とロシア語で文句言っていたようである。奥様、幕間に小生に向かって「ちょっと思ってたのと違うけど、面白いわよね」と合意を求める。返答に困る。

後半はすっきり観たが、旦那は納得いかなかったらしい。カーテンコールもそこそこに夫婦そろって帰ってしまった。
確かに、うちの娘も指摘していたが、コーラスの動きがそろってなくて見苦しかった。
そもそもバレエ音楽に乗せてモダンダンスやるわけなので、よほどキマッてないと苦しいところはある。バンドも小さいので音が薄いし。

と、さんざブーたれて、かつ前半爆睡しながらも、いや、楽しいです。マシュー・ボーンのダンスは、ダンス・舞踏全般まったく分からない僕にも楽し める。Under30もしくはUnder30と張り合いたい人は、下手にRoyal Opera House行くよりも楽しいですよ。