2009年10月27日火曜日

唐ゼミ 下谷万年町物語

25/10/2009 ソワレ

まずは戯曲。上演時間3時間超の三幕モノ芝居を通して、世界を紡ぐイメージとことばと悪ふざけと会話のテンポには一点の緩みもなく、初演後28年経ってもなお瑞々しい。一幕で、何てことの無い台詞を聞いてたら思わず涙こぼれそうになって自分でも驚く。

そして看板女優。椎野裕美子さん、2007年に鐵仮面で拝見した時も「口も大きいが声もでかい。映える。」と思ったけれど、やっぱりテント芝居は看板女優あってこそ、ということを思い起こさせてくれてうれしい。歌うときの声量には目をつぶって、
「李礼仙さん、金久美子さん、ほんとうにすごかったよねー、でも椎野さんもなかなか良いよ。」なんてぇおじさん臭い会話がニコニコと出来る。

そして舞台に溢れるオカマやさんたちの迫力。こんな風に人数の力で押したがるのはいかにも蜷川氏っぽいが、まぁ、初演はParcoだからね。今回は、テントだからね。テントは、いいよね。

そして若い役者。秋の深まる中冷たい水をものともせずに3時間。若くて体力あることは素晴しい、とまたもおじさん臭い誉め言葉。

そしてそういったものを一つにまとめてきっちり3時間魅せきった中野氏の演出、良し。浅草瓢箪池跡地で見る猥雑な戦後日本の夢を、ノスタルジーはノスタルジーとして、でも、そこに溺れてしまわずに「現代の」若い役者の身体で見せてくれたのが嬉しい。こういう芝居、ほんと、すきだなー。3時間、お尻はちょっと痛いけど、楽しいですよ。

東京デスロック ロミオとジュリエット 韓国版

25/10/2009 ソワレ

東京デスロックを観たことのない方、小劇場演劇を観たことの無い方、是非、先ず、この韓国人俳優達のロミジュリを観て下さい。相当お奨めです。

日本版が、新しくて面白いものを手探りで試しつつ、エッジが立ったまま舞台に「ぶつける」感を伴っていたのに対して、韓国バージョンはいろんな意味での「完成度の高さ」が素晴しかった。

「完成度が高い」というと、何だか前進が止まって守りに入ったニュアンスがするかもしれないが、そうではなくて、この韓国版は、圧倒的な信頼と「出来上がった!」感の中で、内からふわっと膨らんだものを孕んでいた。その膨らんだスペースには「包みこむ力」とか「あたたかさ」とか「拡がり」とか「アソび」とかが生じて、演劇を放射していた。

デスロックの芝居は、これまで「前のめり」でないと観れない感じがしていたのだが、今回、もちろん世界に引き込まれながらも、「背中を椅子の背もたれにくっつけて」楽しめたのである。これは悪い予兆ではない。むしろ、ともすればマニアな人たち(口の悪い言い方だけれど、もちろん小生も含みます)が自分たちだけのモノとして独占したくて仕方が無くなってしまいそうな芝居が、パワーとエッジを失わずに、よりあたたかい、触れても取って喰われない(あちち!ってのはあるかもしれないけれど)ものへと進化する兆し、あるいは進化した証しなんじゃないかと思う。そういう完成度です。

日本版では泣いた。韓国版では、ただひたすら幸せだった。どっちを愛でるかと問われれば日本版。どっちを薦めるかと問われれば韓国版。でも、どっちも好きだ。

2009年10月26日月曜日

東京デスロック ロミオとジュリエット 日本版

24/10/2009 マチネ

キラリ☆ふじみで今日は一日デスロック。いや、正確には朝一番は岡崎藝術座観て来たのだが。まず日本版。

デスロックを観て、初めて泣いた。今までも、グォーッと来たり、ぐわっと来たり、うへぇー、と唸ったり、そういうのは何度もあったけれども、今回は泣いたよ。ロミオがジュリエットの元へと缶コーヒー抱えて急ぐシーン。劇場と舞台とロミオの視界と宇宙の彼方がいっぺんに見えて、びっくりした。

「蜜月期」で初めて拝見したアイディアが、アイディア一発勝負の域を遥かに超えて、「これしかない」という顔をしてロミジュリの中にがっちり場所を得ている。

また、役者の身体とテクストが同時に舞台の上に在ることを、どうやって、「刺激的であり続けながら」かつ「そういう意識を持った経験のない観客でもついてこれるように」その劇場内で共有できるか、そしてそれを「その場にいるみんなが楽しめるように仕立てるか」という課題をきっちりこなして、かつエンターテイニング。

夏目氏も引き続きエンターテイニングだが、なんといっても中林舞、見せ方を心得てるというか、なんというか、(ずるいよな、って言っちゃいけないかな?)マスク取った顔は、(狙ってただろ!)美しくて、そこでもちょっと涙出そうになったのだ。

岡崎藝術座 朝焼けサンセット

24/10/2009 朝

土曜日の早朝(9時開演だから早朝ってこともないか)、朝食つきバカ企画。今回もまたアゴラを飛び出して今度は西へ。公園を使っての野外劇のニセモノといった風情で、近隣住民の度肝を抜いた(と思う)。

マック乱入時の隣に座っていた母子の母親は身じろぎもまばたきもせずに顔色は「蒼白」、駒下商店街を歩く主婦達の目には「あらあらあら」と書いてあったし、公園の管理の方もきっと「なんだこりゃ」だったと思う。

こういうのを、「若い人たち、あるいは小劇場マニアの小さな仲間内の自己満足」と呼ぶことは非常にた易いし、今回もそういう人いるだろう。自分で、そう思われても仕方が無い、と思う部分も、確かにある。

でもなー、楽しいしなー。こういう、全力おバカ企画に片足突っ込んでお付き合いして、1時間ちょっと楽しめるって、いいよなー。

って思ったのです。

岡崎藝術座 ヘアカットさん 再見

23/10/2009 ソワレ

初日は「予期に反して、不本意にも」面白かった。1週間経って、どうだ?滞空時間は伸びたか?飛距離は出ているか?それを観に行った。

やはり面白い。とっても面白い。でも、K点超えの飛距離、カタルシスは感じない。

根拠のない自信もしくは根拠はあるがその信憑性を問うてはならない開き直りに化けた瞬間に視界がぶわーっと開けて、まるで飛ぶ夢のような、終演して劇場を出るまで着地できないような、そういう飛距離が出るんではないかと期待していたんだ。
今回はそういう乱暴さはなかった、と思う。

むしろ感じたのは、ゴツゴツした部分部分の手触りにヤスリをあてながら、全体としての異形感を保つ作業。全体としてスムーズな印象はないのに、その場その場の継ぎ目が丁寧に処理されていて、最後まできちんと観ていられたということ。ひっくり返して言うと、役者の動きに集中してみた後で、実は全体として異形のものを目にしていたことにハタと気づくこと。そういうプロセスが、役者の力量と丁寧な仕事に支えられているのを感じた。

だから、上記のような「役者が翔ぶ」瞬間は、今回に限っては必要とされていなかったのかもしれない。こういう今までとちょっと「ノリの違う」作品の後、どこに向かうのか、楽しみです。

「チャイニーズスープ」稽古見学

21/10/2009
元祖演劇の元いき座と龍昇企画の合同公演「チャイニーズスープ」の稽古場見学。
これは、なんだか、とんでもなく幸せな芝居になりそうな予感。お奨めですよ。

土井さん70歳台、龍昇さん(たぶん)50台、柴氏20台、(ちなみに作者の平田オリザは40台)。野郎3人の稽古場に40台の中年男参上。丁度本読みから立ち稽古に移るタイミングで、台詞の入り具合、入り方、出し方、曖昧なところの処理の仕方に土井さん・龍さんのキャリアが出て、大変勉強になる。

こういう面子の稽古が「勉強になる」というとなんだか堅苦しいけれど、見ていて、まず、とっても面白い。土井さんのお話がとっても面白い。それだけで十分エンターテイニング。加えて、龍さんのあいのてというかそういうものも面白い。下手すると、柴氏の演出なしでも十分面白い芝居が出来てしまうだろう。いや、もっと言えば、この稽古場見せてもおカネとれるね。

それじゃあ演出はなにすんの?と言われかねないことを意識してかせずしてか、柴氏のコメント・演出プランもガチンコで、まだまだ稽古前半だけれど面白くなりそうな予感たっぷり。そもそも、土井さん、自分より45歳年下の演出家の芝居を楽しんでいる。45歳年下って、僕にはまだそんな人は存在していないので、本当の未体験ゾーン。すげえ。

自分がちょっと関係しているから、というのもあるけれど、こういう芝居こそ、老若男女、幅広い層が楽しめるんじゃないかと思う。若いカップル、お年を召したカップル、昔からの友人、中学に入った子供と2人で、引退した両親と、あるいは家族みんなで。どんな観客を想定しても、きっと面白い。観終わった後、色んな話ができるよ。

http://www.komaba-agora.com/line_up/2009_11/ikiza.html

2009年10月19日月曜日

五反田団 生きてるものか

18/10/2009 マチネ

初日。観ていて気持ちの良い芝居。
役者、とっても楽しそうだった。難しそうだったけれど。
もちろん、自己満足・内輪受けではない。五反田団の芝居の面白さは相変わらずちまちまとした細部に宿って、「大河ドラマ」「ご教訓」の罠に陥らない居場所をしっかり見つけた上で、月並みな言い方で申し訳ないが、世界を見せてくれる。そして、押し付けない。

どんな意匠だったかとか筋だったとかは、書かない。
ネタバレすると本当に面白くなくなっちゃうから。それに、目新しいとか、ハッとさせられるとか、そういうものでもなかったから。でも、謎解きを楽しむ芝居ではないので、そこは安心してお楽しみください。

ネタバレにならない範囲で書けば、
・ 桝野氏のルール無用の破壊力は必見(それが初日だけだったらごめんなさい)。そして、桝野氏が遊べる場を作り上げてしまった演出・他の役者のキャパシティの大きさに感服する。
・ 五反田団で示される「生」は、いつも、草や枝に邪魔された暗いトンネルの視界の狭い中を匍匐前進で切り開きながら、展開していく気がしてい る。パーッと開けたかと思いきやすぐさま別のトンネルに入ったり、前むいて進んだり、後ろむいて進んだり、進んだと思ったら元に戻っていたり、ポンと他の トンネルの中に入ったり。で、結局、最後の最後まで、視界が360度開けることはなくて、トンネルの先のほうに仄かに光のような闇のようなものがちらつい て終わる。そういう意味で、僕は今まで見た中では、「さようなら僕の小さな名声」が大好きなのだが、確かに今回の2作品も同じような「生」を示している なぁ、と。

2009年10月18日日曜日

五反田団 生きてるものはいないのか

17/10/2009 ソワレ

再演初日。

初演時と役者ほぼ総入替での再演。白神未央さんが拝見できないのはとっても残念。
役者入替わって、好きになったところもあり、「初演の方がよかったなー」と思うところもあり。
そこは甲乙つけがたく、逆に言えば「大幅にパワーアップしていた」という感じではない。

ただし、初めて観た時には「時計をみながら人数を数えてしまった」のだけど、今回は時計を気にせず一人ひとりの死に様を堪能させていただいた。よりこなれた感じ。
「よし、岸田戯曲賞受賞作品を、東京芸術劇場で観てみよう!」
という向きにはやさしい仕上がりだなー、と感じた。

マッチ役の師岡「モンチ」広明、穢れなき悪意むき出しで出色。

ところで、僕は初見時にこんなことを考えていた:
要は、「生きているということは死んでいないということだ」という単純な理屈である。
「生き様」を描く足し算の芝居ではなくて、バタバタと人が死んでいく末に1人だけ生きている、その結果として「生きている」ことを背負わなければならなくなる、そんな、引き算の生を観客に提示するのに1時間50分かけて見せる。

そうだったのか。すっかり忘れていた。
初演時には、エッジの立った、悪意に満ちた、骨太の意匠を持った作品として観ていたものが、今回は、エンターテイニングな作品として僕の眼に入ってきている。それをどう捉えるか。
・ 一度観ただけで作品の構造・意匠に飽きてしまったのか
・ 演出の意図として初演時にはエッジが立って悪意に満ちていたのか
・ 初演時にエッジが立って悪意に満ちていたのは実は観客としての僕だったのか
・ それともなんなのか

分からない。でも、そうやって思い返してみると、ラストシーン、初演時はもうちょっと怖くて、突きつける感じで、マスターはもっと不安そうに見えていたかもしれない。今回の岡部氏のマスターは、もうちょっと強いような気もする。もしかしたらその辺の微妙なニュアンスだけなのかもしれない。

2009年10月17日土曜日

岡崎藝術座 ヘアカットさん

16/10/2009 ソワレ

初日。

セロニアス・モンクのピアノについて、当時(1940年代)を知る女性が次のように語るのを聞いたことがある:
「いっつも何だかとんでもなく思いがけない音を出して、えーっ、じゃあ次に一体どんな音にいくつもりなのかしら?とハラハラしていたら、これまた思いがけない鍵に指が着地して、その音がまたキマッてたのよー」
すごい。そうやって、聴き手をハラハラさせる力、モンクならではである。

岡崎藝術座にもそういうハラハラ感がある。一体どこに着地するのか、まったく読ませない。観客の集中力は、物語とか仕掛けとかに惑わされる暇もなく、次の一手、次の台詞、次の役者の動きから切り離されない。そうやって、80分あっというまに過ぎる。そうして、終演後、そこに、物語や仕掛けではなくて、劇世界があったことを思う。

今回は、力たっぷりの役者陣を迎えて、実は、ちょっと、「安心して観ていられる」感があったような気もする。坊園さんの冒頭、不安に満ちた目はどうやっても忘れられないけれど。

トータルでは、初日でもあり、もっと乱暴な舞台になるかなー、と思っていた。が、予期に反して、(そして、ちょっと不本意ながら)、とても面白かった。地に足が着いて、面白かった。

敢えて乱暴な注文をつけるなら、「これではとても、これだけ力のある役者陣をもってしても、着地できないのではないか」というところまで一旦引きあげてみせる無謀な試みも、もちっと観たかったりする。

2009年10月14日水曜日

ままごと わが星 再見

12/10/2009 マチネ

再見。またも泣く。
しかも、「不覚」にも永井秀樹のサラリーマンラップでキた。
本人にはとてもいえないが。何故だ?何故よりによってサラリーマンラップで?

念のために言うが、物語がステキだったからとか、出会いと別れがせつなくてとか、そういう涙ではない。

この芝居の凄さは、僕には、「現代口語演劇の公理系から出発して、そこを乗り越えていく構造と疾走感」にあるんじゃないかと、整理はついていないなりに思われる。

「あゆみ」の時もそうだったけど、この芝居の物語は「ありきたり」で「結構ペラペラ」で「内面を語っていない」といわれればほぼ当たっている。が、よーく考えてみると。
そもそも、「人間の内面は表現できない」。一方で、「内面は説明するものである。せざるをえないものである」。でも、その説明について「それをどう受け取るかは受け手の問題であって、送り手が『表現』によって受け取り方をコントロール出来るものではない」。

だから、「如何に内面を丁寧に表現しようかと考えて積み重ねる演技」と「ビート1拍毎に台詞を乗せて、動きをあわせて、思いっきり拘束されながらの演技」は、内面を「表現していない(できていない)」という点で、また、受け取り方は観客に委ねられるという点で、等価である。

そういうのが、現代口語演劇の出発点なのかなー、と思ったりしている。

あとは、観客を置いてけぼりにしないための「事実と虚構のつなぎ目ののりしろの処理」の仕方で、それを、ちまちまと細かくつぶして目立たなくするのか、今回のようにのりしろも大胆に広く取って、恰も構造の一部のように見せてしまうのか、まぁ、それはどちらかというとテクニカルな問題なのだと思うが、そこの「技」めいたところも素晴しいのだが。

なんで芝居観て泣いちゃうのかとか、現代口語演劇の公理系ってなんだろうとか、自分で突っ込みいれたい部分も多々あるが、今日はこの辺で。

がんばれトラックくん

みんな楽しみに待ってますよー。

http://festival-tokyo.jp/blog/2009/10/cargo-tokyo-yokohama.html

2009年10月13日火曜日

唐組 盲導犬

11/10/2009 ソワレ

当日券で入った赤テントは大入りに近くて、当日の観客を収容するために若干客席が上・下に広がったりして、やっぱりテントは融通が利いてよい。

盲導犬は初見。古の名作、という期待もあったのだけれど。

何だか、全体に元気が無いみたいで、がっかりやびっくりよりも先ず、心配になってしまった。唐組を観始めて、こんな気持ちになったのは初めてだ。若手も含めた役者陣奮闘するも、どうにもグワァーッと盛り上がらないのは、どうも役者のせいじゃないように思えてしまった。

考えてみるに、唐戯曲で最も僕が気に入っている部分 - 妄想がイメージを呼びイメージがまた妄想を呼び寄せるめくるめく妄想オーバードライブ - が、その居場所を単色のイメージ「ファキール」に譲ってしまっている感じがしたのだ。オーバードライブや脱線や、どうでもよいことの渦巻きが、今回は余り見られなかったのが、どうも僕にとっては「元気が無い」という風に見えたように思われるのだ。要は、「好み」ということだといわれればそれまでだけど。

高度成長期の炎熱サラリーマンがバンコックで後頭部を撃ち抜かれたまま、妻の成り代わった盲導犬に曳かれて永久に南シナ海を渡り続けるイメージはあまりにも美しい。
が、そのシーンの美しさと、「前の公演でもうつくしかったんだろーなー」と思ってしまう、そういうところだけが突出してしまう舞台は、逆にすこーし不幸せだったりもするのである。

2009年10月12日月曜日

shelf 私たち死んだものが目覚めたら

11/11/2009 マチネ

イプセン最後の作品を春風舎で。春風舎で青年団系以外の芝居が観られる機会もそうそう無いので、劇場の匂いがどう変わるのかに関心あり。

これまで「私たち死んだものが目覚めたら」を観たことも読んだこともなかったのだけれど、芝居を観た印象に基づいて、まずは物語について話す。

<ですから、以下、ネタバレといえばネタバレです>

ルーベックというひどい男がいる。
モデルのイレーネには、「俺、芸術家だから、お前と付き合う気はないね。だって、芸術がだめになっちゃうじゃん」と言う。
妻のマイアには、「俺、芸術家だから、お前といても退屈。だってお前芸術理解してないんだもん」と言う。
そうやって、常に両天秤かけながら、他の女に乗り移るタイミング計りながら、芸術家面を前面に立ててごまかしを続けるずるい男なんである。
そういうずるい男が最後天誅を喰らって、雪崩で死ぬ。

そういう話である。

shelfの演出では、ルーベックはとっても一途に人生の意味や芸術の高みを目指す人間になっている。とっても良い人。阿部氏のルーベックの悩みには、一点の小狡さもみてとれない。(いや、あるいはもしかすると、そうやって自分のずるさを正当化しようとする決死の努力を表しているのか?いや、当パンのご挨拶を見る限り、そうではあるまい)

そういう真摯で真面目な演出は、かえって芝居のもつ気持ち悪さをつるつるにしてなくしてしまう効果を持っていたのではないかと思う。「真実」とか「本質」に向かって全力疾走してしまうと、「ひょっとしたらこうなのかもしれない」という引っ掛かりを捨象してしまうのではないかと。魚の切り身には、鰓の裏とかおでこのところの、飛び切り美味しい肉は入ってない、みたいな。

だから、とことん悩みぬく真摯な阿部氏の「役作り」もそうだし、他の役者の造形も「真実」や「本質」に奉仕してしまって、正直、退屈だった。
でも、こういう芝居がささるシーン、状況、というものもきっとあるのだろう。例えば19世紀末とか。20世紀初頭とか。そういうコンテクストまで視野に入れて上演の場にのっけると面白いのかもしれないが。

ハイバイ て

10/10/2009 ソワレ

文句なしに傑作。
初演と比べてみると、岩井氏が出演せず演出に専念したことで、色々なものの輪郭がくっきりした気がした。輪郭がくっきりした分、前半と後半のズレ(視点が違うことによるピントの合わせ方や事実の捉えかたや時間の流れ方)が強調される。良い意味で分かりやすく、見え易くなった。

いや、もしかするとそういう風に僕が感じたのは、今回、僕がちょっと深く「て」の戯曲とお付き合いさせていただいたためかもしれないけれど。

ヨメには悪いが、今回は小生も初演時と逆方向から観させて頂いた。そうすると、やっぱりそこで新しい発見もあり、それも楽しい。

役者もみな素晴しいが、でも、本当は、永井若葉さんをずっと観ていたかったな。スジとか騒ぎとか一切追わないで、一度、永井さんだけを見続ける、というのをやってみたい。それくらい素晴しい。町田氏や平原氏のあの「無関心」「オレいざとなったら非当事者」な態度にも凄みがあって、ステージにきちっとフレームを嵌めている。

観てから2日間、「わが星」や「て」のことをヨメと話し続けているが、いくら話してもネタがつきないのだ。まぁ、アフタートークで「きしょい人」といわれたお兄さんが実は当日券で観に来てた、というのもネタの一つではあるが。

なんだけど。この芝居、ほんっとみ~んなに観てもらいたいのに。た~くさん観に来たらいいのに。
やっぱり、アフタートークで「どうやったらもっと観に来てもらえるのか」という質問に松井・岩井が答えに詰まってしまうのを見ると。「前半・後半2度繰り返す意味が分からない」と言われて岩井が答えに詰まってしまうのを見ると。
まだまだ道は遠い。でも、遠いからこそ歩いてみたくなるのかもしれないぞ。がんばれ。

2009年10月10日土曜日

ままごと わが星

09/10/2009 ソワレ 

柴版コスミコミケ炸裂。
涙を流し、目を奪われ、魂を抜かれ、そのうち、俳優やスタッフに嫉妬しだす。自分が曲がりなりにも芝居に関わって何かしようとしていることがバカみたいに感じてくる。 「もう、いいや。」
もっと観てると、自分がそこにいることの幸せが無条件に嬉しい。 やっぱり、「もう、いいや。」となる。
初めから最後まで。
こんにちは。さようなら。

これ観たら、今後100億年一切芝居観なくてもいいような気分になった(でもホントは観に行くんだけどね)。

東京タンバリン 雨のにおい

02/10/2009 ソワレ

やっぱり、1時間40分の短い時間で状況を説明して、登場人物の人となりを示して、それらの人物の関係性を見せて、事件を起こして結末をつけるというのはとっても難しい。改めてそう思う。高井氏はそれをきちんとこなして見せる。大したもんである。
というとエラそうなのだが、別にエラそぶりたい訳ではない。「こなして」なんていうと、手を抜いてるといってるみたいに聞こえるかもしれないけれど、全然そうじゃない。

そういう風に思ったのは、実は、芝居を観ていて覚える違和感 - それは、状況についてちょっと説明が過ぎる、あるいは、ある人物像についてすこーし深く掘り下げてみる、覗いてみる、あるいは、事件の展開するスピードがすこーしだけ上がる、そういう時に覚える違和感 - は、何故生じるのか。
また、違和感があることについて演出家は(特に現代口語演劇に近いところに位置する演出家は)既に承知の上でそうしているのだとすれば、何故わざわざそういう違和感を生じさせることをしなければならないのか。ということを考えていたからです。

で、その理由は、上で述べた通り、「1時間40分の短い時間で状況を説明して、登場人物の人となりを示して、それらの人物の関係性を見せて、事件を起こして結末をつけるというのはとっても難しい」 かつ 「ほとんどの観客はおそらくそれを要求している」 からなのです。高井氏は真摯にそこにチャレンジしているのです。

ただ、そういう作業は、丸い地球をどうやって地図に落とすかという作業にも似る。
「状況の説明を止める」とか「事件を起こさない」とか「オチをつけない」とか、「物語、要らない!」とか、そういう風にしてもいいじゃないか。そういう人たちもいる。
一方で、説明しきろうとして、3時間、4時間、時には10時間の芝居をする人もいる。

僕は物語もオチも要らないので、観てて楽しい芝居が好きだ。楽しいのレンジはかなり偏っているかもしれないけれど。

2009年10月5日月曜日

マレビトの会 cryptograph

01/10/2009 ソワレ

トラムで観た「アウトダフェ」や「声紋都市」のインパクトが凄まじくて、トラムよりも小さくて舞台が近いアゴラで観たらどんなことになってしまうのだろうか、という期待を持って出かけた。でも、正直、トラムで観た2作品の時ほど舞台からの「圧力」を感じることができなかった。何故だろう。芝居を観る目の焦点が合わせきれなかったのか。

冒頭から始まる街娼・殺人・葬送・戦争など、都市に関わるイメージ(または紋切型)のオンパレードは、総体として紋切型に陥らず、いつか聞いた畑澤聖悟氏の「開幕時から面白くないと思っている観客は一人もいない。期待度100%なのである。そこに乗っかって、面白さをキープすればよい」という言葉を思い出させるエンターテイニングさ。このネットネトのイメージの泥の中を匍匐前進しながら時間は進む。それは、楽しい。神里氏が座談会で言った「時間の進みが恐ろしく遅かった」というのは、小生も同じ印象である。

但し、舞台の熱が冷える間もなくそのまま客席に飛び込んでくるのが、むしろ息苦しく感じられる。焦点の合わせ方だったのか、それとも、間合いに飛び込みすぎたのか。僕はトラムの劇場としての「冷たさ」が必ずしも好きではないけれど、この作品に関してはトラムで観た方が良かったかもしれないとも感じられた。

カルヴィーノの「見えない都市」とのリンクは、旅人目線で都市の有様が綴られていくスタイルも含めてなんだか懐かしく、「見えない都市」もう一度読みたくなった。

中野成樹+フランケンズ Zoo Zoo Scene再び

27/09/2009

フランケンズの方々には誠に申し訳ないのだが、キリンの皮とかレッサーパンダの糞とかの方が、芝居よりインパクトあった、ということは認めざるを得ない。動物園の動物と客の距離の取り方の説明だとか、飼育・展示係長の「好きなものだけ見たらいいんですよ」という発言だとか、とても興味深くて、そういうものに挟まれてフランケンズの、もちろん、下らないところで見る気が失せるようなことには絶対にならない、押さえて、抑えた、素晴らしい演技を拝見するにつけ、一体、僕は何のために「芝居を観に行く」のか、ってことで考え込まざるを得ないのだった。

要は、舞台の上に乗ってたり、檻に入っているものを「さぁ、見てください」って言われないと楽しめないの? と聞かれたときにその問いに対抗できるのだろうか、という疑念で、中野氏はそういうところ楽観的なようにも聞こえたけれど(現実を舞台にそのまま載せても面白くない、という発言の裏返しとしてそう解釈してます)、それでもなお、「舞台は人生の縮図」とか「時間を凝縮している」というような紋切型からは逃れたいと思ってしまう。

肩こりがひどいせいで万事ネガティブに見えてしまうのかもしれないが、いや、ネガティブじゃないんだけど、考え込んでしまった。出口特になし。