2010年1月31日日曜日

東京乾電池 眠レ、巴里

29/01/2010 ソワレ

久し振りにお邪魔したゴールデン街の月末劇場、今回は角替和枝さんに田根楽子さん、吉橋航也さんを加えて、竹内銃一郎作「眠レ、巴里」。

なぜか観客として集中できず。こういう微妙な芝居はきちんとした状態で観ないと、演技者から「こっちこっち」という媚を売ってくれないから、物語のプロットにばかり引っ張られて難しくなってしまう。もったいない。また、役者には申し訳ない観客になってしまった・・・

角替・田根姉妹という妙齢シスターズの組合せも、妙にリアルさが勝ってしまって、つらい。このリアルさがよい、という方ももちろん居ると思うが、結構、笑えない。もっと年齢の行かない姉妹なら「バカだなー」で済ませられる部分もあって救いになるのだが。そういう、何だか芝居と関係ない「少子高齢化」とか「高齢層の貧困化」とか「ソーシャルインクルージョン」とか、そんなことばかり考えてしまったのだ。

あぁあ、何でそんな精神状態だったのだろう。劇場に居る時くらい、もっと役者の動きだけに集中していれば良いのに。本当にもったいない。

2010年1月27日水曜日

ワイルダーで、ままごと

25/01/2010 ソワレ

柴幸男氏が「他人とは思えない」と呼ぶソーントン・ワイルダーの "Long Christmas Dinner" のリーディング。1931年に書かれた90年間を描く芝居を、40分で。

始まって驚く、こんな戯曲が80年前に書かれていたとは。かつ、この、平田オリザもビックリ、「なんでもない会話」を使って、かつそういう台詞を思いがけなく再登場させたりして、それがぐっと来る。

柴氏の言う「時間が変な流れ方をする」というのはまさにその通りなのだけれど、実は今の小劇場の観客は「回想シーン」とか「時空を超えて」みたいな「時間の流し方を変にする仕掛け」は80年代以降30年にわたって存分に味わってきていて、むしろ、「暗転多用して時空飛ばして世界を広げるのって、ちょっとかっこ悪くて恥ずかしいことだ」と思い始めて、平田オリザが出てきて、それから、時間が変な流れ方をする芝居が減った。

でも実は平田戯曲は、時間の流れ方のウソのつき方がより巧妙になって、実時間とのズレが指摘しにくくなったということでしかなかったりする。現実と虚構を繋ぐのりしろの処理が上手になった、ということでもある。チェルフィッチュ岡田氏とか、柴氏の「あゆみ」とか「わが星」とかも、今回も、「技術的には」そう。

役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・

身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?

年明け以降、青年団⇒アゴラWS⇒Castaya⇒快快⇒地点⇒ままごと、と、テクストと身体の距離感についてかなりゴツゴツと表立って考えざるを得ない機会に恵まれている。結論はでないんだけど。

青年団 カガクするココロ+北限の猿二本立て 再見

24/01/2010 マチネ・ソワレ

どうも今回の青年団のプロダクションについては、「ゴツゴツしてないのが不満だ」とか「良くも悪くもすっきりしている」とか、そういう、手触り感に関する感想をよく聞く気がする。

そういう感想の良し悪しや当たり外れは置いておいて良い。何となれば、そういう「手触り感」は、役者の巧拙にも依るし(もちろん、技術的に下手な方が期せずしてゴツゴツ感を醸すことがあるという意味で)、観る側の好みによるところも大きいし、また、世代や時代を映した結果だともいえるから。

でも、放っておいて良いことを何で敢えてここで蒸し返すかといえば、それは、僕もまたこの公演について、
「どうやったらもう少し表面が毛羽立った、ザラついた芝居になるのだろう?」
と思ってしまったからです。「毛羽立ち」というのは、「巧まずして出てしまうものとは異なる、極めて巧妙に生み出される違和感」というくらいの感じである。

それを大きく感じたのは、「カガク」では、河村竜也が村田牧子の狂言自殺を責めるところ、「北限」では、佐山和泉が「あーっ」と声を出すところ。いずれも「すごく上手に組み立てたな」と思ってしまった。

いずれも、それまでどことなく研究室に漂いつつあったイライラが凝固する瞬間だと思うのだが、その「イライラ」の蓄積がちらちらと舞台の表面に蒸留されていく感じがしなかったのだ。だから、「上手に組み立て」ないと成立しないんじゃないか、とも思ったのだ。もちろん、戯曲に書かれた「事象」としては、イライラのタネが蒔かれてはいるのだけれど。

初演時はもっとそういう「イライラ」が、いつ発火してもおかしくないような密度で舞台を覆っていた気がする。演技を組み立てなくとも「巧まざる」瞬間が舞台上にあった気がする。要は「下手だったけど、素でスパークできるくらいの集団に合わせて戯曲が書かれていた」ということかもしれないとも思えてくる。

そう考えると、戯曲そのものが、現代の「よりイライラが表にでにくい」状況を反映して書き換えられても良いくらいのではないか、とさえ言えるのかもしれない。そういえば、初演時、
「でも、なんか、やじゃない?」
っていう、その場にいない人に対してすっごく兇悪な悪意に満ちた台詞がすっと出てくる場面があって忘れられないんだけど、そういう台詞がなくなっちゃった、それと同じレベルで、展開が若干変わっても良かったのかもしれない、とかいうことなのだが。

2010年1月24日日曜日

地点 あたしちゃん、行き先を言って

23/01/2010 ソワレ

昨年、アルテリオで「行程2」を観た時には、三浦氏のアフタートークも何だか自信なさげで、戌井氏のコメントも何だか良く分からなくて、ひょっとしたら「難しすぎ!」を遠まわしに言っているだけかもしれないと思えたりして、今回の吉祥寺シアターに向けて一体どう仕上がるのか、正直不安だった。今日も、夕飯入れてから劇場にお邪魔したので「いざとなれば睡眠に落ちてもやむなし」と思っていたのである。

ところがどっこい、予想に反して(失礼!)1時間40分時計に目をやる暇もなく、もちろん一睡もせずに見通した。とても面白かった。

もちろん、「何だか難しいばかりで、一体何が言いたかったんだか」という人はいるだろう。
「これは演劇なのか?スジも役柄もありゃしない」という声も挙がるだろう。
「太田氏のテクストはどのようにして伝わるとお思いか?」という問いも出るだろう。
「あんなことをして、役者はつらいばかりではないですか?」という人もいるだろう。

その一つ一つに丁寧に答えることは出来ない相談ではなさそうだ。でも、僕自身が、
「何故この芝居を、『なんて面白い芝居なんだ!』と思うんだろう?」
という問いに、なかなか答えられないのだから困りものだ。

テクストが発語される。役者は動く。誤った役柄で。誤っていない役柄で。役者の動きはテクストによりかからず、表情もよりかからず、そこに、「気分」は生まれない。ときど~き発話がテクストに引っ張られる感じがする。ちょっとした気分が生まれる。でも、そうしたちょっとした気分はふわーっとどこかへ消えて、気分はなくなる。身体とテクストが残る。それらはお互いによりかからない。ときど~き弱い引力を感じる。

そういうオーケストレーションを味わっているうちに、100分経った。

あぁ、やっぱり、「何でそういう、息苦しい所作と切れ切れのテクストの固まりを100分間観て、面白いと思ってしまうのか?」という問いには答えられない。もしかすると、息苦しい所作の役者から、エクトプラズムのように吐き出される言葉が、実は太田省吾氏のテクストとなって、ポッ、ポッと劇場内に広がっていく、あるいはボトッと落ちる、そういうさまを、飽きもせずに観ていただけなのかもしれない。台詞を発することは、ウミガメの産卵に似ているのかもしれない。そのこころは、「よくもこんなに歩留まりの悪い、生産効率の悪いことを、飽きもせず1時間も2時間も眺めていられるもんだ」。

東京乾電池 TVロード

23/01/2010 マチネ

2時間の芝居に31人の登場人物。一人当たりの持ち時間はざっくり平均4分。
サッカーは90分の試合に18人の選手。一人当たり平均でボール持つ時間は5分。
まぁ、贔屓の役者がいたとして、その役者が台詞言う時間は4分、ということで、それでは見せ場も何もあるまい。どう面白くなるか、ということでスズナリへ。

やっぱり、31人全員が出揃うまでは、数を数えてしまう。開演して1時間近くたったころ、31人目が出てきたときには、心の中で、「出た!31人目!」と叫ぶ。商業演劇やミュージカルだと役者30人というのは珍しくないのかもしれないが、これ、現代口語演劇ですから。「主役」とか「大部屋俳優」とかいない世界ですから。念のため。

初期の現代口語演劇の、「お互いにリンクのない会話が同時多発で起きて、何があるのかなーと思っていたら、やっぱりリンクのないままだらだらと会話が続く」スタイルに近いと感じた。そういう意味で、過激といえば過激。食い足らないといえば食い足らない。

特に理由も行き先もなく退場してしまって「あぶねー!」と思う登場人物もいて、そこら辺は「恐怖ハト男」みたいで、そこはちょっと楽しいんだけど。

パーツパーツは楽しめるが、「31人」の芝居を、多分若干は無理して頑張って書いて、その分芝居に厚みが出たかといえば、実は「過激ダラダラリンクなし」スタイルもあってそうでもない結果に終わってる感じもする。登場人物が減っても、実はそんなに世界が希薄になったりはしないような気がするんだけどな。どうなんだろう?

快快 インコは黒猫を探す

22/01/2010 ソワレ

インコは可愛い。いや、カンちゃんもキーチも可愛いし、師岡・黒田ペアも可愛い。板橋インコですら、可愛い。可愛かった。
が、この芝居はインコの話ではなくて、3人の若者の青春の話だ。
身も蓋もない言い方だけれど、これは、甘酸っぱい青春の話だ。20台の人々にとっては青春はいつまでも現在形で、3年前も今も、どちらも青春だ。当たり前だ。でも、40をとうに越えた僕にとっては青春は常に過去である。あからさまに過去である。

だから、青春の芝居を観ると、
「あぁ、この人たちにとって青春はいつまで現在形であり続けるのだろうか?」
と、どうしても考えてしまう。

青春が過去になる瞬間は、いつか、必ず来る。それを知ってか知らずか、この舞台は、現在の幅を過去にまでぐぐぅっと広げて、また、体力の輝きとインコの可愛さを梃子に観客席にまで青春な空間を広げて、あたかも現在を無限に広げようとしているようにも見えた。だから、「インコは黒猫を探す」は、青春群像劇であっても、青春のひとコマを切り取ってみせる試みからは対極にある。青春のひとコマを出発点にして、「体力の続く限り」「チャーミングさの賞味期限が切れない限り」青春の千年王国を築き、拡げ続ける試みなのである。

それが、せつない。

篠田演出だったら、このテクストはもう少し「言葉寄り」に上演されていたのではないかと思う。より「身体寄り」な野上演出が良かった。体温がちょっと上がった分、舞台も暖かかった。ポストパフォーマンスダンスも満喫。最初に舞台に上がる数学の話をする人がRafael Benitezにそっくりで、もう、冷静に観ていられない。篠田千明の前説も良し。ちょっぴり大人のバランスを入れて、客入れと上演を繋いでいた。

舞台と空間のWS09冬 野村政之「言葉を融かす」

20/01/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第三回。
「ドラマターグ」野村政之氏が講師。自称ドラマターグの人ってあんまりいない。他称でもあんまりいないけど。

ドラマターグってのは諸条件(作者・演出家・役者・舞台美術家・制作等々)を所与のものとして、その上で無任所の人としてその芝居に関わる人だという前提で。

「所与の」テクストに対する自分の取り掛かり方が、チューニングを変えてみることによってどう変化するかを試すレッスン。
3時間半を越えるワークショップだったにも拘らず、野村氏曰く「やりたかったことの3分の1しか出来なかった」。うむ。確かに。
テクストに対する色んな光の当て方を試してみて、所与のテクストから今まで気付かなかったエッジ、陰影が立ち現われるところまでは(おそらく)到達した。次はそれを現場に晒すことで、どんな化学反応が起きて、何が生まれてくるのか、ということになるのだろう。そこまでは時間が足りなかった。確かに。

僕はかなり興奮した。と思う。どんどんニョロニョロと、周囲お構い無しにいろんなイメージが浮かんできたから。が、それは、
a. 他者のアイディアとどう溶け合うかというのとはまったく別物である
b. 他者から見て面白いイメージかというのとは全く別物である
要自戒。もっと周りを見て。その発見の驚きこそがワークショップの真髄だし、これまでもそうだった。

2010年1月18日月曜日

三条会 S高原から

17/01/2010 マチネ

観終わって、ズズゥーーンという、重苦しい、永遠に闇の底に落ちていく夢から醒めたような、そういう気分になった。本当に素晴しい、いつまでも忘れられない、そして、決して芝居の構造も、それを観ていた自分自身の情動も解き明かすことは出来ないだろうと思うような、そういう舞台だった。

平田オリザの「S高原から」は、まぁ、現代口語演劇の代表作の1つである。高原のサナトリウムにいる不治の病の患者達と、それに関わる人々の姿を描いて、人間の生と死について何となく考える、みたいなお話。が、三条会の舞台は教室にスチール机7つ。脚立が多数。
「あぁ、俳優演じるところの学生たちが演じるS高原からの劇中劇、という趣向ですか?」

・・・違う。「劇中劇」のキーワードを使って舞台上の出来事を回収しようとしても、途中で破綻してしまう。かと思うと、看護師が鎌を振り回して、
「あぁ、そうか。内部の人と外部の人、その関係性が断たれる時に、どっちが生きててどっちが死んでるというのには関係なく、飽くまでも相対的に、一方は死ぬのだ、ということですね?」

・・・違う。みんな何だか生き返って仲良くしてるし。机重ねて上から飛び降りてるし。へぇンな個とバでぇ、セりふ言テるぅし。机の上で寄り添うし。男と女が寄り添うし。男と男が寄り添うし。出初式も見れるし。脈絡なく踊るし。

・・・舞台上の事象を物語のパターンに回収して自らの既成概念を守ろうとする自分の態度が、とてつもなく恥ずかしくなってしまったのだ。

平田オリザの「現代口語演劇」が、「どんなお話なの?どんなご教訓なの?」という問いに答えることを拒絶して、ハイパーリアルな会話の積み重ねと一件意味のなさげな所作とを組合せて、観客が好き勝手なことを想像する余地を与えながらも、その向こう側にインプライされる一つの世界については「確かにある」と思わせるよう心を砕いていたとすると、三条会は、そもそもその向こう側にあったはずの世界すらぶち壊していく異形の舞台を創り出す。

舞台上の色んな妄想のタネが、戯曲のコンテクストに囚われることなく噴出して、そこから妄想世界を組み上げる(繰り広げる)作業は観客に任される。少なくとも僕は、「任された」「渡された」と感じた。そこには、作者・演出家の中で完結した妄想の世界を「提示する」というそぶりは全く感じられず、観客としては、渡された妄想のタネをどうやって組み上げたところで、予定されていたと思われる形には決して出来上がらないのだ。いや、そもそもそんな形ははなから無いのだろう。それは無常の喜びでもあり、不安でもある。

こうやって、観客は、積み重なる妄想の不安定な楼閣の上に立って、高所恐怖症のめまいを感じるのだ。

僕は最後は大丈夫。「S高原から」は初演以来繰り返し何度も色んなバージョンで観てきたので、「あぁ、戯曲の言葉自体はいじらないで進行するんだな」と思えた時点で、自分の妄想力に一定のタガを嵌めて、ある意味自分を安心させることもできたから。全体の何割まで来たか、これから話が(少なくともテクストの上で)どう展開するのかが見通せたから。

が、これが、「S高原」について全く知見の無い観客だったらどうだったか?それはきっと、「いつ終点に着くのかさっぱり分からない、闇の中を走るジェットコースター」に乗ってるような恐怖感を覚えたのではないだろうか。それはそれで、とっても羨ましい体験なのではないか、と思っちゃったりもするのだ。

冨士山アネット EKKKYO-!

15/01/2010 ソワレ

2時間があっというまに過ぎて、とっても幸せ。
ライン京急・ままごと・Castaya氏・モモンガコンプレックス・岡崎藝術座・冨士山アネット、いずれも譲らず持ち味を出して、かつ、出し物の並びもよし。満喫満喫。

ライン京急が楽しく観れたのは先ず大きな収穫。これまでも何度か拝見していたけど、「超絶技巧がすげー」というのが先行してちょっと観ていて窮屈だったのだ。今回は、ゲストの端田新菜のせいだけでなく、なんか、観ててぐぐーっと来た。楽しかった。

Enrique Castaya氏の演劇も素晴しかった。字幕が折り返しに入った瞬間、何秒かの間、字幕の字がふわっと浮き上がって剥がれ落ち、舞台と客席と自分が一つの視界に入って、
「あー、これは演劇だ」
と思った。そこに持っていくまでのプロセスと、そこから先、折り返しがよりあからさまになってパフォーマンスを畳むところは、それらはみーんな、あの、折り返しのときの何秒かの間のためにだけ設けられた必要悪な時間だとまでも感じられた。

リターンズ組のお三方(と一括りにする態度はとても良くないですが)も、もちろん面白かったし。あゆみはまた新たな方向に歩みだしているし、岡崎藝術座はどう考えてもわざと甘い球見逃して「場外ホームラン打てる球」に手を出して、これが結構飛距離出てたし。モモンガ・コンプレックスは20~30分の枠内で一番力が出るんだということも感じた。2月の本公演、どうなる?

家主・興行主の冨士山アネットも、他の5つのイロモノに対して、変に斜に構えず正攻法で対峙して吉とでた。妙な意識の仕方したら、本当に軒を貸して母屋を取られるところだった。

こういう企画を東京芸術劇場でやる、というのも良し。同じ企画をアゴラとか王子でやったら、「まぁ、アゴラ(王子)ってのはそういう場所だから」という風に取られて、期待したざらつきが得られなかった可能性もあるかなーと思う。そういうのも含めて、気持ちよかった。

2010年1月17日日曜日

舞台と空間のWS09冬 杉山至「夕日を見つめるイメージ」

13/01/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第二回。
舞台美術家の杉山至氏が講師を務めて、「夕日を見つめるイメージ」ときた。

前回の松井周氏とのセッションでは、「言霊」の威力を目の当たりにした。言霊が異界への鍵となり、その異界に「構成員」を閉じこめる呪力を「名付け」が持つという体験をしたわけである。さすが異界をコスプレする男、松井氏である。そこらへんに、テクストから芝居への変換点・結節点の磁場が存在するというのは、言いえて妙だろう。

が、今回の杉山氏はロゴスの人である。そして、実存さんである。なんと、ヴィトゲンシュタインとレヴィ=ストロース、寺山から説き起こして、「言霊以前」の状態を探ろうという、これまたなんと一種無謀な試みである。

「言霊以前」をどう「あらわす」か。
かたちとか光とか音とか身振りとか、色々あるのかもしれないけれど、こと僕自身のことで考えると、どうしても言葉や物語の補助輪無しでは「そっちの方へ向かってみる」ことすら出来ないことを思い知った。ワークショップの他の参加者の方たちが、なんともあっさりと言霊以前のところへ飛び込んでしまうセンス、嗅覚に驚き、敬意を覚える。

いやいやいや、これ、「舞台美術」の人のワークショップだよね。一体何の関係が?うーん。あ、そうだよね。テクストを渡された舞台美術家には、こうやって、言葉の一歩手前を探ってみることも大事なんだね。だって、劇場に入ってきた人たちはテクストより先に舞台に触れるんだもんね。大抵の場合。

こういう機会、すなわち、他人の眼から見た「言霊以前」を、割と「安全な」場で目の当たりにしたり、こういう視座で舞台を腑分けしてみる機会は、なかなかあるものではない。この日もまた、ヘビーな、でも、面白いワークショップだった。

2010年1月11日月曜日

シベリア少女鉄道スピリッツ キミ☆コレ

10/01/2010 ソワレ

大変面白くて刺激一杯の芝居。
最初の20分間の
「この演技は、絶対になにかすごーく細かい演出がついている。その結果としてのこの極めて不自然な間があるようなないようなタイムのとり方であり、身振りである。だからちょっと見た目芝居がたるく見えたとしても、シベリア少女鉄道がいつもそうだったように、絶対に気を抜いてはいけない。いつか報われるはず!」
というのが案の定報われて、嬉しさいっぱい。かつ、「そこまでやれるんですね」の脱帽感もあって、満喫。
変な「ツッコミ」を入れたりしないことで出てくるガンガンのドライブ感も気持ちがよかった。

観劇後、
「これは、ク・ナウカである」「これは、テレビを賑わす物まねカラオケ番組へのシベリア少女鉄道の回答である」=しかもこの面白さはテレビじゃ味わえませんぜ。
なぁんていうくだらないことをうだうだ話しながら帰宅。うん。くだらない。でも、くだらなくしてあるからこそ、なんである。数席とはいえ、席が空いていて通路も埋まらないのが不思議だ。

舞台と空間のWS09冬 松井周「世界を名付け直す」

06/01/2010

こまばアゴラ劇場、冬のサミットのワークショップ企画、今年のテーマは「言葉を越えて...」。全6回のうち今回は初回、サンプル主宰の松井周氏を迎えて「世界を名付け直す」。

http://www.agora-summit.com/2009w/ws_butai.html

今回はアゴラ内稽古場に20人が集まって、「名前コスプレ」。続いて、6つのグループに分かれて、グループごとに、一定の名前のイメージに沿って周囲の事物を名付け直していくという、一歩間違えば、いや、間違わずとも、かなり危ない試みだった。

これは危ない。周囲の事物にこれまで「社会の共通の認識として」与えられていた名前を一旦剥ぎ取り、ずれた名前を与えてしまうのだから。要は、色んなものを共有する社会から自分のいるグループを切り離して、一つ新しい小社会を作っちゃってください。ということである。

名付けのプロセスは、「名付けが済んだもの」と「名付けの済んでいないもの」の区別を生み、そこに「内」と「外」、「おれたち」と「彼ら」を生む。名前は自分で付けるものではなく、他人につけられるものだから、そこには一種「権力」もはたらく。

そのプロセスに対して、がーっと一気に入り込んでいくグループ、入り込みきれず既存のロゴスに片足残しながら進めるグループ、捩じれ歪みながらも一つの歪んだ世界が出来てしまうグループ。そういったグループ毎の差異も大変面白かった。

昨年以来、「演劇とは名づけと名乗りのプロセスである」という命題がずっと引っ掛かっているのだけれど、うん、それは、そんなに焦点を外した引っ掛かりではないぞ、という気もしてきた。

新年工場見学会2010

03/01/2010 マチネ

新年五反田寄席、今年も一層くだらなく、黒田の一生・金子たけのりの半生を。
ほんっとにくだらないことをくだらなく。掛け値なしで楽しむ。
前田氏の当パン挨拶「今年一年も芸術っぽい考え過ぎの演劇をつくらないように」との意気込み(というか、意気込まなさ)は、エラい。
自分が(いや、演劇はずーっとつくってないですが)考え過ぎがちなのを思うとき、やはり、この「芸術っぽくしない」「考えすぎない」と公言できる態度に対しては、あからさまに嫉妬を感じる。

しかし、やっぱり、今年もぐじゅぐじゅ考えながら演劇に(私なりに)向き合うのだろう、あるいは向き合うのをサボったりするのだろう、と、それこそくだらないことをぐじゅぐじゅ考え過ぎる今日この頃ではあります。

青年団 カガクするココロ+北限の猿二本立て

02/01/2010

妻・娘を連れてアゴラへ。
この二本立て、実は余り冷静に見ていられないところもある。僕はこの二作の初演に、妻はカガクの初演、北限の再演に出演している。娘はカガク・北限の旅公演に随行した。本人は旅に行った記憶はあるが、芝居は覚えていないらしい。
僕は初演以来、どちらの再演・三演も観ていない。だから、カガクは1990年以来、北限は1992年以来、ほぼ20年ぶりに目にすることになる。
どうしても、自分の演じた役(かなりシャッフルはされていても)と比べてしまうところもあって、また、色んな余計なことも思い出してしまって、まぁ、それはそれで良いのかも知れないけれど。

「カガクするココロ」では、「過剰なことをする」余地が役者に与えられて、「おいしい」場面を随所にちりばめながら芝居が崩れないところに、1990年当時と比べて役者が格段に「上手に」なったんだと改めて思い知る。後に「東京ノート」でとんでもない完成度となる「現代口語の会話」のオーケストレーションの織り上げ方は、この芝居の時点ではそれほど緻密ではなかったのかなぁ、ということも考えた。

「北限の猿」は、「カガク」よりもオーケストレーションの度合いが上がる。役者もそれに応えて、よりまとまった感じ。オーケストラの音がぴったり合うと、むしろ音量が小さく聞こえる、と聞いたことがあるが、それに近い感じ。が、パス回しとアンサンブルが優先された分、破れのある瞬間が見えにくかったかもしれない。

カガク・北限、設定は似ているし、同じ「青年団の現代口語演劇」なんだけれど、作劇と演出の意図・カラーは違っていて「あ、だからこそ二本立てにしても大丈夫なんだ」と気が付いた。

カガクするココロの初演から20年経って、自分はすっかり取り残されてしまったけれど、「カガクするココロ」のざらつき方は、当時の「平田オリザが現代口語演劇に熟達するプロセスにおける、本当に過激に、ただ、だらだらしていた作品」を思い出させた。戯曲が「やぁ、しばらく」と言って迎えてくれたような気もして、ちょっと懐かしかった。